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= 井伏鱒二 と 荻窪風土記 と 阿佐ヶ谷文士 =
井伏鱒二は昭和2年(1927)に荻窪へ移り住み、平成5年(1993)に同地で95歳の生涯を閉じた。
この間 66年余、 時代は関東大震災(T12:1923)後の昭和大恐慌、
そして満州事変、日中戦争、太平洋戦争、敗戦、混乱、復興と流れ、
荻窪・阿佐ヶ谷界隈は、農村地帯から住宅・商業地域へと変貌した。
樹木の緑・土の香り・水の流れは、住宅に、アスファルトに、車の流れにとその姿を変えた。
井伏鱒二は、この激しいうねりの中で共に悩み、苦しみ、支え合った往時の文学青年仲間
のこと、親交を結んだ地元の人々とのこと、荻窪界隈の変貌ぶりなどに想いを馳せ、
そこに自らの半生を重ねて「豊多摩郡井荻村」全17編を綴り、「荻窪風土記」と題した。
このページでは、激動の昭和史を紐解きながら、「荻窪風土記」の各編の背景や界隈の
今昔を訪ね、さらに井伏鱒二をはじめ、太宰治・上林暁・亀井勝一郎・木山捷平・外村繁・
小田嶽夫・・、戦前の “阿佐ヶ谷(将棋)会” に集ったメンバーを中心に、 荻窪・阿佐ヶ谷
界隈を本拠に活躍したいわゆる “阿佐ヶ谷文士” たちの 「人生と作品」 をご紹介します。
=== 本サイト内 関連情報 ===
--------------------------------- (本HPに関する注記) *文中の人名に、敬称は原則として省略しました。 * 「荻窪風土記」原文の引用は< >で括りました。
第1部には、「阿佐ヶ谷会」の会員自身が会について書いた 随筆・随想などが豊富に収められている。 第2部には、会員と当時深く関わった身内の方などへの 最近のインタビューを載せている。 第3部は、「阿佐ヶ谷会」に詳しい現在の作家、評論家などが それぞれの観点から書き下ろしたエッセイである。 第4部では、「阿佐ヶ谷会」に関する記述がある約160点の文献が 紹介されている。会員はもとより家族や関係者、研究者らによる 文章が網羅され、その概要も付された充実した文献目録である。 (萩原茂先生(吉祥女子中学・高等学校)による労作) このほか、写真や年表、解説など、阿佐ヶ谷文士ファンならずとも 十分に楽しめるような内容になっている。 ただ、私としては、世に出るために会員が悪戦苦闘していた戦前の 「将棋会時代」にもっと詳しく触れて欲しかったが、欲張り過ぎか・・。 |
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井伏鱒二 | (は「将棋会第1期」から、 は「将棋会第2期」からの会員)) | ||
青柳瑞穂 | 秋沢三郎 | 浅見 淵 | 小田嶽夫 |
亀井勝一郎 | 上林 暁 | 木山捷平 | (蔵原伸二郎) |
太宰 治 | 田畑修一郎 | 外村 繁 | 中村地平 |
浜野 修 | 古谷綱武 | 村上菊一郎 | 安成二郎 |
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*画家を断念して早稲田へ --
井伏家は1442年(室町時代初期)まで遡れるという旧家で、代々地主だった。
井伏鱒二(次男:本名 滿壽二)は、明治31年(1898)2月15日 広島県安那郡加茂村大字粟根
(後、深安郡:現、福山市)で生まれた。父の郁太は素老等の筆名で漢詩文を発表していたが、
鱒二が5歳の時死去し(M36:享年30歳)、「子供には文学をさせてはいけない」が遺言だったと
いうが、家督を継いだ兄(3歳年上)の勧めで19歳(T6)の9月に早大高等予科に編入学した。
この年(T6)の3月に福山中学(現在の広島県立福山誠之館高校)を卒業、画家を目指して京都
の橋本関雪画伯に入門を望むが果たせず、兄の勧めで文学の道を歩むことになったのである。
参考サイト | 誠之館関連の歴史、人物紹介など | 福山誠之館同窓会(井伏鱒二) |
家督を継いだこの兄の勧めがなければ、 “井伏鱒二” は生まれなかったかもしれない。
なお、筆名の「井伏鱒二」は、「いぶせ ますじ」だが、本名の「井伏滿壽二」は、「いぶし ますじ」である。
出身地である福山市加茂町の井伏の親族の方々は「いぶし」と発音し、井伏本人も、中学生の頃に書いた
水彩画などには「Ibushi」と署名している。(福山市の「ふくやま文学館」にて確認。H21.5.22)
井伏は、大正8年(21歳)に早大文学部仏文科へ進んだ。“親友の青木南八が仏文へ入ると言った
から自分も入った” という。 井伏は作品を書いて青木に読んで貰っていた(T8〜T11)が、
青木は井伏を理解し、その才を認め、叱咤し、励ましていた。同年齢ながら井伏の将来性を
見抜いた最初の人物で、この出会いが井伏の文学への道を一歩前進させたことは確かである。
井伏が最初に会った作家は岩野泡鳴である。予科2年目(T7・20歳)の秋、同じ下宿の同郷の
先輩光成信男に連れられて泡鳴の月評会に参加し、2〜3度文学談を聞いたという。
泡鳴没(T9/5)後、秋頃から谷崎精二(M23生・早大英文科卒・谷崎潤一郎の次弟)を訪ね、
頻繁に原稿を持参して批評して貰った。井伏は片上伸教授との軋轢が原因で早大退学を余儀なく
されたが(T11/5・24歳)、その後も大震災の頃までは続けたようである。井伏は後に、「讃めては
貰えなかったが駄目というのでもなく、努力する手懸りを得た気持ちであった。」と回想している。
退学後も早稲田界隈に踏みとどまっていたのはこのような背景があってのことである。
青木南八(T11/5死去)と谷崎精二の存在が井伏の文学への道を支えていたといえる。
片上教授との軋轢は今でいうセクハラ(ホモ)で、井伏はこれを逃れるため休学
して帰郷(T10秋〜T11/3)、因島に長期滞在の後帰京して復学手続きをしたが
同教授の反対で断念した。退学(T11/5)までの概略は「鷄肋集」などにある。
*同人誌で始動 ---
年譜に「大正12年2月、詩「粗吟丘陵」を<音楽と蓄音機>に発表」とある。
これが活字化された井伏の最初の作品とされており、井伏研究者である東郷克美は、
小論「井伏鱒二の形成」(<国文学解釈と鑑賞>(S60/4月号))に、この長い詩の全文を
載せて論じている。<音楽と蓄音機>の同じ号に光成信男も「バッハ伝」を書いているので、
井伏は光成の紹介によって発表したのではないかとしている。
次いで 「<世紀>創刊号(T12/7)に「幽閉」(「山椒魚」の原形)を発表」とある(25歳)。
当時、青森で中学生の津島修治(後の太宰治)が読んで興奮したという作品である。
<世紀>の同人は「荻窪風土記 - 震災避難民」に詳しい。早大の同じクラスの者17〜18名で、
他からは、後のNHK会長古垣鉄郎など3名がいた。光成信男は校正の仕方を教えてくれた。
2号に「借衣」(「背の高い椅子の誘惑」(S6/2・<文学時代>)の原型)を発表、
3号は印刷中に関東大震災で発行不能となり、<世紀>は解散した。
井伏が最初に群れた同人誌だったが、たちまち出鼻を挫かれた格好となった。
(関東大震災の体験については「荻窪風土記 -関東大震災直後- ・ -震災雛民-」 に詳記)
*田中貢太郎との出会い ---
大震災直後に友人の紹介で田中貢太郎の知遇を得、1年余り経つと中国の故事熟語の由来
を解説する仕事を与えられ、1年半くらいの間、毎月生活費に相当するような原稿料を受けた。
この仕事は陽の目を見ず、結局は田中の“見所あり”と認めた経済援助だったようだ。
なぜ田中貢太郎だったのか?・・ 震災で一時避難していた郷里(福山)から帰京した井伏が、
早大在学中に親しい級友の一人だった能勢行蔵に出した手紙への返信に、念のためとして
田中への紹介状が同封されていた。能勢は田中と同郷(高知県)で、以前、田中の編集で
原稿を書いたことがあり、よく知っていたという。特に井伏の方から紹介を依頼した様子はない。
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・田中貢太郎(たなか こうたろう):明13(1880).3.2〜昭16(1941).2.1 享年60歳
高知県生まれ。小説家、随筆家。桃葉と号した。小学校中退。漢学塾に通い漢書、小説類に親しみ、
23歳で上京、一旦帰郷するが27歳で再上京、大町桂月、田岡嶺雲の薫陶を受けた。
「中央公論」発表作(T3)が注目され、同誌の「説苑欄」で健筆をふるい、「怪談」(T8)などに収録された。
また「桂月先生従遊記』(T4)、新聞連載小説「旋風時代」(S4〜S5とS8)が話題となった。
随筆集「十五より酒飲み習ひて」(T14)があるが、生来酒を嗜み “チクと一杯” が口癖だったという。
没後、生前の功労に昭和15年度菊池寛賞が贈られ、高知の桂浜、三里には記念碑が建てられている。
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井伏は、紹介状を持って小島徳弥(早大時の級友)と茗荷谷(現豊島区)の田中宅を
訪問したが、まず “酒” だった。片山教授に酒を慎めと教えられたと話すと「あんな文士は
小人じゃ」と言い、二人とも倒れるほどに飲まされた。井伏はこの飲みっぷりが認められて、
以後出入するようになったという。「飲まなきゃ俗物」と言い、どうしても飲まされたとか。
井伏は酒豪としても知られるが、これが出発点という。大正12年11月(25歳)のことである。
この後、井伏は田中の主催する随筆雑誌 <桂月> に随筆の発表を続け、
3年後に田中の紹介により佐藤春夫を訪問し、以降佐藤に師事することになる。
昭和2年10月(29歳)にはかねて交際中の秋元節代(M44生:16歳)と田中の仲人で結婚
するが、その間は翻訳書「父の罪」の刊行(T13)、出版社聚芳閣への入社-退社-再入社、
同人誌<鉄槌> <陣痛時代> <鷲の巣> への参加、<不同調(新人号)> への作品発表、
そして荻窪へ新居建築(S2)とあわただしい日が流れていた。
田中との出会いは能勢の紹介からだが、これが <三田文学> でのデビューへと繋がった。
田中から作風上直接的に大きな影響を受けたようには見えないが、人生の幅を教えられ、
現実社会の広さと深さを学んだのではないだろうか。経済的支援のことも含め、
井伏文学成立過程において田中の存在は格段の重さを感じさせる。
井伏は、世に出るために主に早稲田人脈に群れて活動していたが、同年齢の1年後輩
横光利一はすでに「日輪」 「蝿」(ともにT12)で文壇デビューを果たし、プロレタリア文学
では若い新人たちが脚光を浴びていた。井伏には焦りの気持ちもあっただろうが
左傾は頑なに拒んで自らの道を歩み、長い苦汁の時を過ごさざるを得なかった。
*佐藤春夫に師事・新たな展開 ---
井伏になかなか芽が出ないことを心配した田中は
佐藤春夫への紹介状を書き、小説を見てもらうようにと言った(T15/9)。
当時、井伏の友人の一人に<鷲の巣>同人の富沢有為男(M35生)がいた。
東京美術学校西洋画科(現東京芸大)を中退して小説家を志望し、佐藤に師事していた。
(富沢は、「地中海」で第4回(昭和11年下期)芥川賞を受賞)
富沢は、井伏が <陣痛時代> に発表した「岬の風景」(T15/2)を <鷲の巣> で賞賛し、
これが機縁で友人になり、井伏は坪田譲治と共に富沢の勧めでその同人に
なったのである。(T15/8:「岬の風景(長編のプロット)」を <鷲の巣> に再発表)。
この時(T15/9頃)、井伏は <桂月>(T15/9)に発表した「鯉(随筆)」を持って富沢と一緒に
佐藤宅を訪問した。井伏は、「はじめて見た佐藤さんは、田中さんのように子供っぽい
ところが見えなくて、どことなく気難しそうな人に見えた。」 と書いているが、佐藤は
この時34歳ながら、既に 「田園の憂鬱」 「都会の憂鬱」 「退屈読本」などの作品があり、
その名声は谷崎潤一郎(当時40歳)、芥川竜之介(当時34歳)を凌ぐほどだった。
無名の井伏(28歳)が緊張気味であったろうことは想像に難くない。同行した富沢は井伏の
ために何かと気遣っていたが、「鯉(随筆)」を読んだ佐藤は「70点」とか「75点」とか言った
という。井伏は、「後で富沢に聞くと悪くない点だということで、その夜は興奮して夜明けまで
眠れなかった。」旨を書いている。この後井伏は佐藤に師事し頻繁に訪問し指導を受けた。
<不同調>(<新潮>系:反プロレタリア文学雑誌) の新人号(S2/2)に井伏も選ばれ
「歪なる図案」(*)を掲載したが、これが商業誌に載った井伏の最初の作品で、小説で初めて
原稿料を貰ったという。 評論家村松正俊の辛口の批評(読売新聞)にショックを受けたが、
<不同調> の編集部にいた嘉村磯多(S8病没・享年35歳)の励ましを受けて意を強くした。
(*) 「歪なる図案」・・題名の読み方・・普通には「いびつなる図案」だろうが、
「歪(いなげ)なる図案」との論考がある。(兵庫教育大学教授 前田貞昭著
「井伏鱒二「乳母車」をめぐって:「歪なる図案」との本文異同の検討、その他」)
涌田佑編「井伏鱒二事典」(H12・明治書院)は、「いなげ」を採っている。
私は、次の理由で「いなげ」と読みたいが、一般的には「いびつ」でもよかろう。
・井伏は、本文中の 「歪なことを言はずに、早う・・」 に「いなげ」とルビを付した。
前田教授によれば、これは井伏自身が付した作中唯一のルビで、本作品の
原型である 「乳母車」(T14/8・<文学界>) においても同様とのことである。
・広辞苑には 「いな‐げ=(中国・四国地方で)変なこと。妙であること。」 とあり、
私は広島の日常会話において 「いなげ」 が実際に使われるのを聞いている。
このことから、井伏は「いなげ」という言葉に特別な思いがあり、それに「歪」の
漢字を当てはめることに独特の感興を持ったのだろう。当初は「乳母車」の
題名で発表したが、やはりこのことに拘って「歪なる図案」に改題したと思える。
つまり、井伏の本意は、題名においても 「いなげなる」 と推察できよう。
ところが、講談社文芸文庫所収(1990)の 「鷄肋集」 の中では、底本(「井伏鱒二
全集 第9卷」(増補版・1974)) には無いにも拘らず「いびつ」というルビが付された。
このルビに井伏が関与したかは不明だが、異を唱えた様子はなく、井伏の本意は
不詳になったといえよう。 もともと 「歪」には「いなげ」という読み方がない以上、
井伏の本意はともあれ、一般的には 「いびつなる」 と普通に読むことになろう。
<世紀> の同人が主体になって創刊(T15/1)した <陣痛時代> に、「寒山拾得」 「岬の風景」
などを発表したが、<世紀> 以来の同人が左傾し、翌年(S2)には <戦闘文学> と誌名を
変更するに至り、井伏は同人による左傾の説得を拒否して秋頃には一人脱退した。
井伏は結婚(S2/10)を機に “習作に身を入れる” ことにして荻窪の新居で創作に励んだが、
売れるには至らず、経済的に苦しい日々が続いた。新婚の新居を訪れた富沢が机の上の
清書した原稿、「鯉」と「たま蟲を見る」 を見て、<三田文学> に持ち込むといって持っていった。
(井伏の荻窪転居と結婚(荻窪文士として出発)については、「荻窪風土記 - 平野屋酒店」に詳記)
*<三田文学>で文壇デビュー ---
富沢はこの当時、復刊(T15/4)した <三田文学> の表紙を描いており、編集委員の
水上瀧太郎にこの原稿を見て貰ったのである。井伏自身はあまり期待していなかったと
いうが、後で思えば、井伏はこのとき大舞台への第一歩を踏み出していたのである。
水上はこの作品を認め、<三田文学>に、昭和3年2月に「鯉」(「鯉(随筆)」を改稿した短篇)を、
続いて5月には 「たま蟲を見る」(初出T15/1:<文学界>(聚芳閣発行)を改稿)を掲載した。
ちなみに、<早稲田文学(第2次)>は昭和2年で休刊になっていた。谷崎精二、浅見淵らで復刊したのは
昭和9年になってからである(第3次)。この時期の同人誌に早稲田系が多いのはこの影響もあるだろう。
この掲載に佐藤がどのように関わったのかはっきりしないが、佐藤は三田(慶應)派の重鎮
(慶大予科中退)であり、井伏との師弟関係は富沢の関与からして水上は当然承知なので、
直接的かどうかはともかくとして、絶大な影響があったことは確かである。
紅野敏郎早大名誉教授は、「井伏鱒二の本格的な文壇登場は「三田文学」に発表した「鯉」
よりはじまるといってよかろう。 --中略-- 「三田文学」に井伏を推薦したのは佐藤春夫
であった。」と記している。(「作家の自伝 94 井伏鱒二(解説)」・H11:日本図書センター)
井伏は早稲田を本拠に群れながら、田中・佐藤・水上という早稲田からは遠い存在の
実力者に認められて文壇デビューを果たしたことになる。
高見順は「三田派に近づいていた井伏は、今日なお早稲田派嫌いである。」と書いているが、
むしろそれほどに “群れ” の幅が広がり早稲田一辺倒ではなかったということである。
紅野名誉教授は、「---。のち井伏に師事し、親炙したのが、太宰治であり、小沼丹であり、
三浦哲郎であり、そして安岡章太郎であった、ということを視野に入れると、井伏はいわゆる
鎌倉文士と深く交わったが、中央沿線作家でもあり、決して一筋縄ではいかぬというのが
彼の特質であったのだ。」(前掲書)と書いていることが正鵠を射ているのではないか。
さらに云えば、「荻窪風土記」の登場人物や “阿佐ヶ谷将棋会” 参集の面々からも、
井伏という人物の幅の広さ、深さ、つまりはしたたかな特質が窺えるのである。
*<文藝都市>のこと ---
井伏は丁度30歳(S3)になっていた。この時を境に井伏の創作と発表量は極端に増えている。
3月に<文藝都市>創刊2号から同人となり(蔵原伸二郎の推薦、崎山猷逸・船橋聖一の紹介)、
「夜更けと梅の花」を再録した。 (初出は <鉄槌>(T14)。<人類>(T13)の説もある。)
<文藝都市>同人は、昭和3年1月に結成された“新人クラブ”という新人作家の団体が
母体である。反プロレタリア文学という点で一致して多くの同人誌等から19名の会員が
集まったクラブで、2月に第1号を発刊したが、同人にはクラブには参加した
富沢有為男は不参加で、クラブには参加しなかった梶井基次郎が参加している。
創刊後間もなく資金面で発行困難に陥り、船橋が幼馴染の田辺茂一
(当時23歳:慶應高等部卒:S2/1創業の新宿紀伊国屋書店主)に
頼んで、7月号から約1年間、紀伊国屋書店から続刊できたのである。
井伏のように、途中から参加した同人も多い。小田嶽夫もその一人である。崎山、船橋が
中心者で、同人成立の性格上、何々派というこだわりは排したはずだが、原稿の集め方を
めぐる衝突から浅見淵ら早稲田派4人(<新正統派>同人)の脱退(浅見は“追放”という)が
起きる(S3秋頃)など曲折のすえ、結局は赤字続きのため翌年には廃刊(S4/8)となった。
井伏はこの脱退事件には関わっていない。というより、<三田文学>に発表の傍ら、ここを
本拠地のように活動を続けていた。特に、「谷間」(S4/1〜4)、「山椒魚-童話-」(S4/5:
「幽閉」を改稿)は大好評で、高見は「ここに新進作家としての地位が確立した印象」という。
*貧乏は続く ---
<三田文学>で文壇デビュー、<文藝都市>を本拠に習作に身を入れ、“井伏鱒二”の名は
ようやく文壇に知られるようになってきた。文士としての本格的な出発期である。
この昭和3年〜4年に両誌のほかに発表された注目作品や井伏の“群れ”などに触れておく。
「朽助のゐる谷間」は、<創作月刊>編集長永井龍男からの依頼で発表(S4/3)した。
井伏は、「かねがね<創作月刊>に発表したいと思っていた。永井は自分を認めてくれた
初めての編集者である。」と言う。ここから永井(文芸春秋社)との長い交友が始る。
永井龍男(M37〜H2)は昭和2年〜同21年の間文藝春秋社に勤務したが、公職追放と
なって文筆活動一筋となった。<創作月刊>廃刊後の<婦人サロン>には井伏と
中村正常との合作(「ユマ吉ペソコ」シリーズ)を掲載している。 <オール読物>、
<文藝春秋>の編集長を歴任したが、<文学>、<作品>などの同人誌でも活躍した。
(“阿佐ヶ谷将棋会”の会場となった “ピノチオ” のジロさん(永井二郎)の弟である。)
「屋根の上のサワン」は、昭和4年の夏に別の雑誌<若草>のために書いた「サワンの話」が
掲載されなかったので、<文学>からの急な依頼に応じてこれを改稿して発表(S4/11)した。
<文学>の創刊時(S4/10)の同人は横光利一を中心に川端康成、堀辰雄ら7名で、プロレタリア文学に対し
正統的な芸術派の結集に大きな役割を果たしたが、<1930>と合同して<作品>を創刊(S5/5)して解散した。
<新興芸術派倶楽部>第1回総会(S5/4)には、<文学>の同人から永井龍雄、小林秀雄、堀辰雄などが
出席しているが、新興芸術派には批判的で、<作品>で活動することになる。
「シグレ島叙景」は、水上瀧太郎の推薦で<文藝春秋>(S4/11)に発表された。
「薬局室挿話」がある。以前から依頼を受けていた青森県の弘前高校生津島修治
(後の太宰治)が主宰する同人誌<細胞文藝>(S4/9)に発表したもの。
<文藝都市>廃刊の後、井伏は船橋らと<新文藝都市>を発刊(S4/11)したが1号で終わった。
このように、知名度の上昇に伴って同人誌だけでなく商業雑誌への発表の機会が増えたが、
経済的にはまだまだ困窮状態が続いた。田中や佐藤、出版・報道関係者らの好意で
仕事の紹介を受け、また懸賞作品応募で一時の苦境を切り抜けたりする状況だった。
*そこで“阿佐ヶ谷将棋会” ---
新居、結婚、文壇デビュー、知名度上昇 ・・・、貧乏はそのままでも30歳を超えた井伏の
心には相当の落ち着きがでてきたのではないだろうか。荻窪、阿佐ヶ谷界隈に
移ってきた文学青年たちとの付き合いが広まり、深まるのは自然の成り行きである。
井伏が、「将棋会発足は昭和4年頃」 と言うのは、荻窪に移ってしばらくしてから、
つまり自分の文士としての本格的な出発時期に重なるという記憶があるからだろう。
この当時、界隈にいたのは安成、青柳、田畑、小田、蔵原らである。
酒は “会” の重要な要素で、将棋はしないが酒には目のない青柳なども加わって
お互いに将棋や酒や雑談にストレスを発散し、明日への英気を養ったのだろう。
小田嶽夫は、<新潟日報:S51>で当時を振り返って、「井伏は 『左翼作家になるか、大酒
飲むか、どっちかだ』 と言っていた。そう言って彼は大酒を飲んでいた。」と書いている。
*新興芸術派倶楽部総会に出席 ---
井伏の創作、発表活動はますます活発になり、文学関係者との新しい出会いが続く。
<三田文学>、<文学>、<婦人サロン> を主体に、その他の同人誌や雑誌、新聞にも
発表したが、この頃までの主要作品16編は井伏初の創作作品集『夜ふけと梅の花』
(S5/4:新興芸術派叢書:新潮社・・「荻窪風土記」の項に詳記)に収録されている。
このころは、井伏が言う 「左翼でないとうだつが上がらぬ。 -- 紀伊国屋店頭で<戦旗>は発禁を見越してか
100冊配本と同時に売り切れ、<文藝戦線>は1ヶ月で100冊、<文藝都市>は月に4冊か5冊売れた」 時節で、
政治的には三・一五事件(S3(1928))以降共産党に対する弾圧は徹底され、文芸分野にもその矛先が向き
始めていた。それだけに左翼に対する社会の関心は高く、プロレタリア文学は意気軒昂たるものがあった。
プロレタリア文学に対する芸術派は、依然として小規模の同人が数多く活動する状況が
続いたが、“やはり大同団結は必要” と考える新人たちが多く、その動きも進んでいた。
新興芸術派倶楽部もその一つで、第1回総会(S5/4)に出席した32名の新進中堅の中に
井伏もいたが、提唱者の<近代生活>(<新潮>系)の龍胆寺雄が新潮社の中村武羅夫を
動かして発足したものの、結局は強い大きな支持を得るに至らず、間もなく自然消滅した。
総会までの経緯、消滅までの経過は複雑である。(昭和文学史のポイントの部分でもあり
文士たちの動きが興味深いところで、高見、小田切の著書に詳述されている。)
井伏はこの年(S5)、前述の「新興芸術派叢書(新潮社)」のほかに「新鋭文学叢書」(改造社)で
短編集「なつかしき現実」を出版している。文藝春秋社、新潮社、改造社という著名出版社との
関係が深まったということは、この時期、新進作家としての地歩を築いたことの証左でもあろう。
*<作品>同人に ---
井伏は<文学>に「屋根の上のサワン」ほかを発表しているが、前記のように<文学>は
<1930>と合体して新興芸術派倶楽部創立の翌月(S5/5)に<作品>を創刊した。
創刊号の後記に “<作品>の仲間” として、深田久弥・堀辰雄・井伏鱒二・神西清・
小林秀雄・今日出海・蔵原伸二郎・永井龍男・中村正常・小野松二・宗瑛・吉村鉄太郎
の12名が新興芸術派倶楽部第1回総会に出席したと報告されている。
参考サイト (写真) 「作品」 同人 日本近代文学館 → 写真検索 → 井伏鱒二(P0003468) 同人の原稿分担会議(S6:万惣サロン) 写真左から 井伏鱒二・小野松二・中村正常・河上徹太郎・ 宗瑛・永井龍男 (小林秀雄欠席) |
また、<1930>最終号(S5/4)には、永井龍雄の新興芸術派批判の感想文と、
<作品>創刊号の執筆者名が載っており、先の12名以外で北川冬彦・岸田国士・川端康成・池谷
信三郎・武田麟太郎・牧野信一・萩原朔太郎・布上芳介・三好達治・横光利一の名前がある。
泰山鳴動して新潮系に対して文藝春秋系でまとまった観もあるが ・・・
「荻窪風土記-文学青年窶れ」には、このほかに同人として、河上徹太郎・中島健蔵・青山二郎・
嘉村磯多・大岡昇平・佐藤正彰の名があり、大学生の中村地平が編集助手をしたこと、
毎月出雲橋の酒肆 “長谷川” で編集会議を開いたことなどが記されている。
井伏は<作品>に「逃亡記」(後の「さざなみ軍記」の一部)など多くの作品を発表していく。
<作品>は、昭和15年4月まで、10年間通巻120冊発行している。反左翼正統芸術派の重要な一翼を担った。
多くの新人を発掘したことも功績とされる。同人や執筆者の毎月の交流は<文学界>(S8/10)発足の母体となった
ともいわれるが、昭和10年を過ぎると<文学界>が大勢力となり、<作品>誌面は大きく変って廃刊に繋がっていった。
*出会いいろいろ、群れは広がる ---
井伏は昭和4年には田中の紹介で馬場孤蝶を中心とする“泊鴎会”に入会。
ここには、村松梢風、森下雨村らがいた。会の三浦御崎一泊旅行にも参加している。
太宰治との初対面(S5/5)、中村地平、三好達治らとの初対面もこのころである。
(太宰との初対面については、「荻窪風土記-善福寺川」)
ピノチオの永井二郎の紹介で、釣師であり随筆家である佐藤垢石と増富渓谷へヤマメ釣りに
行ったのもこのころである。この後しばらく本格的な釣りからは遠ざかるが、数年後に鮎釣りで
佐藤垢石をはじめ多くの釣師に弟子入りすることになる(「荻窪風土記-阿佐ヶ谷の釣具屋」)。
当時改造社に勤務していた上林暁の担当で<改造>(S6/2)に「丹下氏邸」が発表された。
上林が阿佐ヶ谷に越してくるのは5年後(S11/3)になるが、出会いはこの時にあった。
(「丹下氏邸」は、既に評論家としての地位を確立していた小林秀雄(M35生)が<都新聞>
(現東京新聞)で高く評価し、井伏の作品が初めて本質的に正当に評価されたといわれる。)
荻窪の井伏宅と隣り合わせで都新聞の学芸部長の上泉秀信宅があった。
その温情で同紙に随筆を書いたと「荻窪風土記 - 文学青年窶れ」にそのやりとりが
ユーモラスに記されている。初の新聞小説「仕事部屋」(S6/4-6)も連載した。
徳田秋声宅を、中村武羅夫・室生犀星・尾崎士郎・船橋聖一・阿部知二らと訪ね、
“秋声会”の発足に参加(S7/5)、会報<あらくれ>創刊号(S7/7)に「をんな」を発表した。
そして ・・・感動の出会い・・・
昭和5年 3月 長男誕生
昭和7年12月 長女誕生
昭和10年4月 次男誕生
昭和18年11月 三男誕生
参考サイト (写真) あらくれ(徳田秋声)会の集まり 日本近代文学館 → 写真検索 → 井伏鱒二(P0002352) (S10.1.19 山水楼) ----------------------------------------- 写真前列左から 室生犀星・北見志保子・中村武羅夫・小寺菊子・ 徳田秋声・近松秋江・岡田三郎・小野みち子・小金井素子。 中列左から 川崎長太郎・井伏鱒二・岡山東・高原四郎・榊山潤・ 尾崎士郎・豊田三郎・徳田一穂・阿部知二・野口冨士男・ 舟橋聖一・阪本越郎。 後列左から 三上秀吉・田辺茂一・三宅正太郎・上泉秀信。 |
満州事変(S6)、5・15事件(S7)、そして昭和8年は特高による小林多喜二虐殺(S8/2)
という衝撃に始るが、“将棋会” は「シナ料理屋ピノチオの離れを会場に再発足した」という。
井伏周辺には木山捷平、外村繁、古谷綱武、秋沢三郎らの新しい顔が揃ってくるのである。
文壇には文芸復興の機運が高まり、“阿佐ヶ谷将棋会” は「第2期 成長期」へと移行する。
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★☆★ 井伏作品の映画化 第1号は「先生の広告隊」 ★☆★
『井伏鱒二年譜考』(松本武夫著)の昭和6年の欄に、「この年、「先生の広告隊」の映画化「東京の合唱」
(監督 小津安二郎 ・出演 岡田時彦、八雲恵美子、菅原秀雄、高峰秀子、他)が上映される。」 とある。
多くの資料では、井伏作品映画化の最初は、昭和15年の「多甚古村」だが、その9年前に遡る。
「先生の広告隊」は、<中央公論(昭和5年9月号)>に発表された小品である。(「井伏鱒二全集 第2巻」所収)。
引退した中学の老教師が小食堂を開業し、教え子がその広告ビラ配りを頼まれ、二人は幟を掲げて
チンドン屋風の姿で配るという貧しい庶民の哀感を書いているが、これが映画の重要要素なのである。
「小津安二郎名作映画集10+10」 (DVD & BOOK) シリーズに収録 (小学館:H23)
「東京の合唱(コーラス)」は、シリーズ第6作に「彼岸花」とともに収められている。(H23/5発売)
80年前(S6)の8月15日に公開されたモノクロサイレント作品(上映時間90分)で、
昭和6年度キネマ旬報ベスト・テンの第3位だった。
小津監督のほか、スタッフは、「原案 北村小松、 脚色・潤色 野田高梧」 とあるが、井伏の名前はない。
世界恐慌による大失業時代の当時、主人公は生保会社に勤めるサラリーマンで、妻と小学生の子供が2人。
ある時、会社で義憤に駆られて社長に強談判し、解雇される。失業して貧乏生活を余儀なくされ、
職を求めて通った職業紹介所の帰りに、偶然、旧制高校時代の恩師に出会う。恩師は退職後に老妻と2人で
小さな洋食店を営んでおり、宣伝のため広告ビラ配りを計画していた。その手伝いを主人公に頼むのである。
小説「先生の広告隊」の主人公は、下宿生活者で非常に貧乏ではあるが意地とプライドは持つ。
「貧乏をしているから手伝えと言われるなら手伝わないが、そうでなければやります。」というような
問答があって(このセリフは映画にもある)、二人は幟を持ち、ビラを配って街を練り歩くのである。
小説はここで終わるが、映画ではその姿を妻子に見られ、そこまでしなくても・・と妻は悲しむ。
恩師の頼みであること、恩師の伝手で仕事を捜していることを話すと、妻も協力することになる。
数日後、その洋食店で高校の同窓会が開かれ、その最中に就職先を紹介する手紙を受け取る。
同窓生全員で寮歌(一高)を歌う中、恩師も主人公も共に涙ぐみながら合唱するのである・・。
井伏が書いたのは中学の先生だが、師弟関係、姿、人間像は、映画の中に生きている。
恐慌下の庶民生活の哀歓を、「先生の広告隊」に肉付けした家庭生活で描いている。
重く、深刻な題材だが、感傷に走らず、さりげなく、いわばコメディ風ですらありながら
観る者の胸に迫り、その時代をも描いており、現代の鑑賞にも耐えられる名作といえる。
映画としての肉付の比重が大きいので、「先生の広告隊」の映画化とは言いにくい面もあろうが、
その原点であることは確かである。 映画そのものが小津作品全54作の中でも上位に位置する
名作とされるだけに、井伏ファンとしては原作者として井伏の名前を残したいのだが・・。
これに関して、兵庫教育大学の前田貞昭教授が、ネット上に、「井伏鱒二著作ノート(その三)」を
公開して、状況がはっきりした。 座談会で井伏自身が発言しているのである。
座談会の掲載誌は「映畫」(映画宣伝連合会:S16/9)である。 座談会は、井伏の小説「おこまさん」を
「秀子の車掌さん」(南旺映画:成瀬巳喜男監督)と改題してロケをした時の現場で、昭和16年夏である。
次に関連重要部分を要約する。
座談会の見出しに、「井伏氏の作品では第五回目の映画化」 とあり、司会の藤本真澄(この映画の製作者:
後に東宝社長)、成瀬が、「東京の合唱」、「多甚古村」、「南風交響楽」、「簪」、「秀子の車掌さん」を挙げている。
「東京の合唱」に、原作者としての井伏の名前がないことに成瀬が触れ、井伏にその事情を質すと、
井伏は、「まあ、昔時の私の気持としては、あまり表面に立ちたくない…そんな處でしたよ。」 と答えている。
井伏作品の映画化第1号は「先生の広告隊」(映画「東京の合唱」)であることが明らかになっている。
なお、主人公役の岡田時彦は、この出演の3年後に病没するが、その時1歳だった娘が後の女優
岡田茉莉子であり、この映画の長女役は、当時7歳で名子役として活躍していた高峰秀子である。
そして、この高峰秀子が17歳になって「秀子の車掌さん」(小説「おこまさん」)の主役を演じたのである。
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【将棋会 第2期 成長期 (S8〜S13)】の頃 (この時期の“阿佐ヶ谷将棋会”)
= 太宰治が師事 & 直木賞受賞 =
井伏鱒二(明31(1898).2.15 〜 平5(1993).7.10 享年95歳)
昭和8年(1933)、井伏 35歳。 “将棋会 第2期 成長期” は井伏の30代後半に重なる。
第1期において新進作家としての地歩を築いた井伏は、いつしか文壇中堅としての知名度
は上がった。<作品>の同人や関係者との繋がりが強まる一方、井伏周辺には多くの若い
文学青年が集まるようになる。文学活動のほか特に太宰との関係がこの期の焦点となる。
このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 | 井伏鱒二 略年譜 |
*新進から中堅作家へ --- 貧乏暇なし!!
既述(第1期)のように、「鯉」(S3<三田文学>)で文壇デビューの後、「山椒魚」(S4:「幽閉」を改稿)、
短編集「夜更けと梅の花」(S5)、などを相次いで発表する一方で<作品>創刊(S5)の同人となり、
ここを本拠に作品を発表し、同人の小林秀雄、中島健蔵、三好達治ら多くの才人との交流を深めた。
昭和6年に<改造>に発表した「丹下氏邸」が小林秀雄によって高く評価されたことで
井伏の文壇での存在感はさらに高まり、著名な新聞、雑誌にも井伏の作品と名前が
頻繁に載るようになった。小津安二郎監督の無声映画「東京の合唱」(S6・松竹)は
井伏作品の最初の映画化(小説「先生の広告隊」(S5))であることは上述の通りである。
こうして迎えた昭和8年は、2月に小林多喜二横死という衝撃に始まった。
権力に抗うと命が危ういという国民の恐怖はファシズムの流れを加速し、文学の
分野ではプロレタリア文学が壊滅に向かう反面で、”文芸復興の機運”が高まった。
この機運は、もともとプロレタリア文学とは一線を画し、政治権力とは関わりが薄い
題材で作品を書いていた井伏らにとっては追い風となり、井伏は著名な新聞社や
商業雑誌などから原稿やアンケート依頼が相次いだ。ただ、短編や随筆、単発的な
いわゆる雑文が多く、多忙な割には収入に結びつかない仕事が多かったようだ。
以下に、第2期(S8〜S12)における注目すべき作品や文学活動について記す。
・・昭和8年・・ 「風貌・姿勢」執筆 ・ 病気で入院
井伏の随筆に「風貌・姿勢」があるが、昭和5年が最初で、同年に堀辰雄、中村正常、
小林秀雄、さらに今日出海、永井龍男、そして小野松二、蔵原伸二郎、と書いている。
いずれも<作品>の同人で、同誌に発表したものだが、次いで昭和8年1月には
三好達治、河上徹太郎、深田久彌、を書き、以降もシリーズ的に書き継がれている。
<作品>の会合や、講演旅行、酒や釣、将棋など、公私にわたる身近な付き合いから
井伏独特の軽妙な筆致でその人物像を描き出しているユニークなシリーズである。
(この10人については、この年5月に刊行の随筆集「随筆」などに収められている。)
2月に、猩紅熱の疑いで入院した。 この時のことを「荻窪風土記−病気入院」に
詳記している。 多くの文士が見舞いに来て、文士同士が病院で初対面した様子や
小林多喜二の横死、嘉村磯多(この年の11月没)や太宰治のこと、猩紅熱は誤診で、
病院は「いかさま病院」だったこと、など強い印象が残ったのだろう。
将棋会を形成するメンバーなどが井伏を中心に交流を密にした年でもある。
太宰、今官一が年始訪問、2月には木山捷平が初めて井伏の自室へ通された。
太宰が天沼に転居してきて井伏宅を頻繁に訪問するようになり、そこで伊馬鵜平
(春部)、中村地平、小山祐士、岩田九一らと会うようになった。外村繁が阿佐ヶ谷
に転居したのもこの年の2月である。3月には古谷綱武らで<海豹>が創刊された。
井伏が将棋会は「昭和8年にシナ料理屋ピノチオの離れを会場に再発足した。」
と書くのは、明らかにそれ以前とを隔する年だったという記憶に基づくのだろう。
この昭和8年は、阿佐ヶ谷界隈の文士たちにとって、身近にいた小林多喜二横死
(享年29歳)に強い衝撃を受けたが、自身としても“文学青年窶れ時代”の一コマ
として特に印象深い年だった人が多い。「荻窪風土記−病気入院」に一表にした。
・・昭和9年・・ 「太宰治による代作」
1月、三好達治結婚。その披露会に辰野隆、佐藤春夫、河上徹太郎、中島健蔵、
今日出海、堀辰雄らと出席した。
4月、東京日日新聞社(現毎日新聞)の企画「文藝陣大行進、春の東海道中記」
に三上於菟吉、村松梢風、尾崎士郎、大宅壮一、菊池寛らと参加した。
8月、田中貢太郎主宰の<博浪沙>の同人になった。同人には尾崎士郎、
平野零児、村松梢風、安成二郎、大鹿卓らがいた。
9月、<文藝首都>が「人としての井伏鱒二」という特集を組み、阪中正夫、
青柳瑞穂、林芙美子らが執筆している。
作品面では、小説集「逃亡記」(4月:「逃亡記」「青ヶ島大概記」など所収:改造社)
随筆集「田園記」(5月:「田園記」「をんな」など所収:作品社)を刊行したほか、
著名な新聞や雑誌、同人誌などに次々と随筆など小品類を掲載している。
文筆活動は文芸復興の機運に乗り前年に続き極めて多忙だった。
3月に<中央公論>に発表した「青ヶ島大概記」について、太宰は、井伏が締め切りに
追われて困っていたので自分が手助けしたなど、執筆の裏話を戦後に記している。
4月に井伏の署名で発表した「洋之助の気焔」<文芸春秋>は太宰との合作だが、
井伏が多忙に紛れて太宰に代作させたものといわれ、また10月に<帝国大学新聞>
に載せた書評「飾らぬ生水晶−中島健蔵氏著『懐疑と象徴』」も太宰の代作である。
後者は多忙の故かは定かでないが、井伏(36歳)の、このころの多忙ぶりが窺える。
・・昭和10年・・ 「サヨナラダケガ人生ダ」
3月に<作品>に発表した「中島健蔵に」に、唐代の詩人于武陵の詩「勧酒」に付した訳
「サヨナラダケガ人生ダ」がある。 和訳7編中の1編だが井伏の妙訳として名高い。
(訳詩の詳細については特集編に別記)
なお、戦後刊行の「厄除け詩集」には、井伏の訳として漢詩17編が含まれ、いずれも”妙訳”と
されているが、相馬正一ほかの研究者によれば、これらの訳は「勧酒」を除き、ほとんど
江戸期の訳「臼挽歌」の焼き直しに過ぎないという。井伏は「田園記」(S8)に「亡父が残した
ノートにあった訳文」と書いており、「臼挽歌」の存在には気が付かなかったようだ。
いずれにしろ、 “井伏の妙訳“ は、「勧酒」を除き、幻だったようだ。
(本項末に 「井伏作品の盗作問題(種本のこと)」 を載せた)
この年は小説集「頓生菩提」(1月:「頓生菩提」「丹下氏邸」「屋根の上のサワン」など
所収:竹村書房)を刊行、「集金旅行第一日」(後の「集金旅行」の一部)を発表した。
3月には太宰治の行方不明(自殺未遂)事件があった。太宰が次々と引き起こす
諸々の難しい出来事に、井伏は本格的に関わることになる。(詳細は次項)
5月には<博浪沙>同人と土佐旅行に参加した。この時の一行、田中・井伏ら14名が
室戸岬で撮った写真や寄せ書きが残っている。
寄せ書きには「貢太郎」のほか、「士郎」「彦次郎」「零児」の署名が見え、
井伏は、「船はいま浦戸を出でて大ゆれ小ゆれ 鱒二」と記している。
<博浪沙>(はくろうさ)のこと ・・蛇足かも知れないが・・高知県立文学館によれば、
「<博浪沙>の誌名は、漢の張良が秦の始皇帝を襲撃した地名によるが、
暗に文壇の大御所・菊池寛への反逆の意を含む。」という。
田中は没(S16/2)直後に、“昭和15年度菊池寛賞”を贈られている。
彼の地でどんな顔をして盃を乾したのだろう・・・。
・・昭和11年・・ 「鶏肋集(自叙伝)」刊行
2月、三好達治、堀辰雄、神保光太郎らの詩誌<四季>の同人になった。
2月、外村繁の第一創作集「鵜の物語」の出版記念会に出席。
2・26事件の銃声を聞き、後に「荻窪風土記-二・二六事件の頃」を書いた。
7月、太宰治の第一創作集「晩年」の出版記念会に出席。
10月、太宰のパビナール中毒進行を知らされ、入院などに深く関わった。(詳細は次項)
12月、太宰は熱海に逗留して執筆するが、宿代不足となり檀一雄を人質に残して金策
のため帰京する“事件”があり、井伏はその始末に追われた。(詳細は次項)
随筆集「肩車」(3月:「肩車」「中島健蔵に」「釣鐘の音」など所収:野田書房)、
随筆集「静夜思」(8月:「静夜思」「風貌・姿勢」(10人再録)など所収:三笠書房)、
「鶏肋集」(11月:「鶏肋集(自叙伝)」と小説「川」を所収:竹村書房)、を刊行。
(注:「鶏肋集」(けいろくしゅう)の「けい」は、「奚」の右側に「隹(ふるとり)」を書く字が原典)
・・昭和12年・・ 「ジョン万次郎漂流記」刊行
3月〜4月、太宰に離別された小山初代が井伏宅に約1ヶ月寄寓した。(詳細は次項)
4月、尾崎一雄の第一創作集「暢気眼鏡」の出版記念会に出席。
5月、浅見淵の誘いで三宅島に1週間滞在。(詳細は浅見の項))
小説集「集金旅行」(4月:「集金旅行」「オロシャ船」など所収:版画荘)、詩集「厄除け
詩集」(5月:「歳末閑居」「石地蔵」「逸題」「つくだ煮の小魚」など所収:野田書房)、
随筆集「山川草木」(9月:「坪田譲治-風貌姿勢」「牛込鶴巻町」など所収:雄風館書房)、
小説「ジョン万次郎漂流記-風来漂民奇譚-」(11月:河出書房)、を刊行。
翌13年2月の選考会で、これが第6回直木賞を受賞した。(詳細はS13の項)
*そこで阿佐ヶ谷将棋会 --- 全員集合!!
<作品>の同人となって井伏の人脈は広がり、文壇の大家、先輩、有力な若手文士や、
新聞・雑誌編集者などとの交流で井伏の才には磨きがかかり、多くの注文を受けて
原稿をこなすのに多忙だったが、忙中閑ありといおうか、“会”としての体裁は整わ
ないまでも井伏は常に将棋を指していた。もちろん酒とのセットだったようだが・・。
これまで見てきたように、この第2期には将棋会を形成する面々が揃うのである。
記録がないのでどのように将棋が行われていたかは判然としないが、例えば木山の
日記には、「古谷邸で将棋」(S8.12.10)とか、「小田君を訪問、三戦三敗」(S9.3.22)、
「小田君来る、一戦一敗」(S9.4.11)などあり、井伏宅では太宰、中村らが指していた。
2・26事件の前夜は、井伏は早稲田の学生と明け方まで将棋だった。その年の12月、
熱海の宿で人質の身の檀(前記)が太宰を探しに東京へ戻った時、太宰は井伏宅で
将棋を指しており、檀は激怒、井伏は仰天したというエピソードがある。(詳細は次項)
外村の随筆「将棋の話」は井伏の将棋好きが題材で、井伏は将棋を指したくてO君宅
やK君宅を捜し歩いたとある。多分このころのことで、Oは小田、Kは木山のことだろう。
外村、太宰、尾崎の出版記念会の出席メンバーの多くは井伏ら将棋や酒の仲間で、
秋沢三郎の項では外村の出版記念会後の檀のエピソードを記したところである。
昭和12年の三宅島行きも将棋会を形成する面々(浅見、太宰、秋沢ら)である。
そして昭和13年3月3日、木山の日記に初めて「将棋会開催」が明記される。
中村の「将棋随筆」(S13/12)などから、この会は井伏の直木賞受賞記念で、
古谷綱武が優勝、ツゲの駒と銀製のカップが贈呈されたというようにも読めるが、
木山の日記にはこの記述はなく、木山の対戦相手に井伏と古谷の名前はない。
(この「3月3日の会」のことについては、詳細を別記した。)
井伏は「日記抄」(S13.7.3:東京朝日新聞)に、第1回は自分が優勝したと書いていること
などから、第1回は木山の日記の3月3日ではなく、別の日かもしれないが、いずれにしろ、
井伏の随筆などには、事実を題材としていても事実とは相当に異なるケースが多々あり、
ここには、事実より文学性を優先するという、井伏の創作姿勢が現れているかもしれない。
安成二郎が、将棋の合間の世間話で井伏に「私もあなたの小説が判らないのですが、一体
あなたの小説は嘘を本当らしく書くのですか、それとも本当を嘘らしく書くのですか」と問うと、
井伏は「嘘を本当らしく書くんですよ」と言ったという。(「人生の二次会の井伏鱒二君」(S6))
他愛ない問答ではあるが、井伏文学の本質と全く無関係とも言い切れないのではないか。
二次会はピノチオで行われ、将棋会は記録のある「第3期 盛会期」に入るのである。
*井伏と太宰治 ---
井伏と太宰との関係は、太宰が弘前高校在学中に<細胞文藝>を創刊(S3:太宰19歳)し、
井伏に寄稿を依頼したことに始まるが、初対面は太宰の東大入学時(S5)である。
太宰は井伏に師事するが、太宰の身辺には諸々の出来事が続き、二人が師弟として
親密な間柄になるのは昭和8年2月、太宰が井伏宅に近い天沼に転居してからである。
ここまでについては“第1期 出発期”の井伏および太宰の項で詳述したところだが、
第2期における二人の関わりは、以降の両者の人生に複雑な綾を刻むことになる。
二人が絡む出来事の詳細は、別途「太宰治の項」に記すので、本項はその概略である。
・太宰の井伏宅訪問
太宰が住んだ天沼の家から井伏宅までは徒歩約10分、頻繁に井伏宅を訪問し、
井伏が原稿に追われた時は、太宰が清書をしたり、知恵を貸したり、さらに前述の
ように代作をしたり、と関係を深め、もちろん将棋に酒にと親密度を増していった。
中村地平、小山祐士と共に、井伏門下の三羽烏と呼ばれた時期もあったが、
井伏との距離は物心両面において太宰が最も近くなったといってよかろう。
・太宰の失踪・自殺未遂
しかし、太宰の状況は<海豹>で文壇デビューした(S8/3)とはいえ不安定だった。
昭和10年3月、“失踪・自殺未遂事件” を起こしたのである。14日に横浜へ
遊びに行って消息を絶ち、騒ぎとなって井伏は杉並警察署へ捜索願を出した。
読売新聞は17日朝刊で「新進作家死の失踪?」と報じ、井伏は、太宰に帰るよう
呼びかけた「芸術と人生」と題する一文を書き、東京日日新聞に載せる手配をした。
これは19日朝刊に載ったが、太宰はその前夜、18日深夜に天沼の自宅へ戻った。
鎌倉の八幡宮の山中で首を吊ったものの死には至らず、首筋に蚯蚓腫れを残して
帰宅したのである。3回目の自殺未遂だが、動機など太宰の真意は判然としない。
井伏が「芸術と人生」を書いたのには、読売新聞の記事に「太宰は井伏と横浜へ遊びに行った」
とあったが、実際には別人だったのでそのままにするわけにはいかなかったという事情がある。
また、太宰の天沼の家への帰宅日時は、関係者の言が異なるので正確には判らないという。
長兄文治は太宰を青森に帰すと言ったが、井伏らのとりなしによって、
もう1年間東京の生活が続けられることになった。
・太宰のパビナール中毒
鎌倉での自殺未遂事件の翌4月(S10)、太宰は盲腸炎の手術を受けたが、
この時医師が使用した鎮痛薬パビナールを常習する中毒になってしまった。
退院直後(S10/7)に太宰は転地療養のため、千葉県の船橋に転居するが、
そこでは近くの薬局でパビナールを購入して自分で注射したのである。
井伏、佐藤春夫らは心配して入院(S11/2)させるなどしたが本人の意志が弱く、
退院後も使用量は増える一方で心身面、金銭面とも破綻を思わせる状況に至った。
このころ、太宰のいわゆる “芥川賞事件” や初の創作集「晩年」の刊行があるが、
これらには、この中毒による太宰の心身の変調が絡んでいる。(詳細は太宰治の項)
妻の初代らは長兄文治の計らいで入院の手はずを整え、井伏に太宰への入院説得を
依頼し、10月(S11)、江古田の東京武蔵野病院(板橋区)に入院させた。
精神病科の強制的治療が行われた結果、中毒は完治して1ヵ月後の11月に退院し、
再び井伏宅に近い天沼の碧雲荘に間借りして初代と落ち着いた。 が、しかし---
・太宰の、妻初代との離別
太宰の入院を機に船橋の家は引き払い、初代は井伏宅に寄寓した。ところが初代は
太宰の1ヶ月の入院中に太宰が弟分のようにしていた遠戚の若い画学生(小館善四郎)と
関係し、しかも翌年3月(S12)にその画学生は、太宰にその事実を告白したのである。
この月、太宰夫婦は催眠薬カルモチンによる心中を図ったが未遂に終わった。
太宰は4回目の自殺未遂だが、ここで太宰は6年間同棲した初代と離別した。
離別によって初代は当面住む所がなく、井伏宅に約1ヶ月間身を寄せた後、身辺の
整理を済ませて青森へ帰った。初代は井伏の長女のためにと琴を残していった。
初代は井伏の妻節代と同年齢で、東京での生活で殊のほか親しくなっていたようだ。
青森へ帰る際に、節代には生き形見として贅沢な造りの米櫃と火鉢を置いていった。
その後、初代は知り合った男性と中国大陸へ渡った。昭和17年晩秋に一度帰郷し、
井伏宅にも約1週間滞在したが、井伏夫妻の制止を振り切って大陸へ戻っていった。
2年後、昭和19年7月23日、山東省青島市で死去した。 享年32歳。
青島での生活や死因は不祥という。男たちに翻弄された悲運の生涯ではなかったか・・・。
作家の近藤富枝が初代の人生を取材し、事実に沿って小説にしているのでご紹介する。
参考サイト | 近藤富枝: 水上心中 太宰治と小山初代 | 日本ペンクラブ:電子文藝館 |
・太宰の人質、檀一雄が激怒
武蔵野病院退院の翌月(S11/12)、太宰は創作に集中するため井伏の知人を介して
熱海の宿に滞在した。その滞在費を届けるよう初代に頼まれた檀が熱海へ行ったが、
この時太宰は檀と豪遊する。その費用、100円余を工面するため、太宰は檀を熱海に
人質として残して帰京するが数日を経ても金はできない。太宰はどうすることもできず、
井伏宅を訪れて井伏と将棋をしているところへ檀が訪ねてきて激怒した。
事情を知らない井伏は吃驚し、井伏が金策に走り、ようやくこの問題を解決した。
・太宰のお目付け役 - 仲人
太宰は初代と離別(S12/6)後も井伏宅に近い安下宿屋 “鎌瀧” の一室に住み、
井伏との師弟関係は続き、井伏の言うことは聞いた。長兄文治は井伏を頼り、
いわば太宰のお目付け役を要請した。青森からの月々の仕送りは直接太宰に
ではなく、井伏に送金し、井伏から太宰に渡るようにしたのはその一端である。
以前から太宰には世話役として主に津島家出入りの2人の男性が就いていたが、
太宰に意見し従わせるところまでは難しく、井伏の力が必要だったと考えてよい。
“鎌瀧” での太宰の単身生活は乱れていた。周囲は早く結婚させようとしたが無為に
過ぎ、ようやく昭和13年秋、井伏が中に入った縁談、甲府市の石原家の四女美知子
との見合いが実って昭和14年1月に井伏宅で井伏夫妻の仲人で挙式となった。
この時、将棋会は “第3期 盛会期” に入っているが、背景には日中戦争があった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
井伏は、太宰についての随筆、解説などを数多く残しているが、ふくやま文学館発行の冊子
「井伏鱒二と太宰治」の巻末には、“太宰治について書いた井伏鱒二文総覧”が載っている。
筑摩書房発行の「井伏鱒二全集」(全28巻・別巻2冊)から抽出した全リストで、104編の
“表題・初出・巻数・太宰への言及程度” が記されている。便利な貴重なデータである。
また、筑摩書房の単行本「太宰治」には太宰を描いた井伏の22編の随筆等が収めてある。
二人の文学、交流を知るのには格好な1冊で、井伏流の筆致も楽しめる。この中で
「琴の記」には初代のことが記され、「点滴」には太宰の名はなく、“友人” となっている。
「第三部:井伏鱒二」の先頭へ |
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【将棋会 第3期 盛会期 (S13〜S18)】の頃 (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”)
= 太宰の結婚 ‐ 執筆 - 徴用 =
井伏鱒二(明31(1898).2.15 〜 平5(1993).7.10 享年95)
昭和13年(1938)、井伏 40歳。 2月には「ジョン万次郎漂流記など」で直木賞を受賞、
遅ればせながら社会的にも”一流”の仲間入りを果たした。 執筆に、文学関係者らとの
交流に、太宰の結婚仲介に、また家庭人としても、充実の日々であったといえようが、
時勢は日中戦争の拡大から太平洋戦争へと流れ、多くの文人たちが軍に徴用される。
井伏もその一人で、大阪に集合して南方に向かう途中の香港沖で対米英開戦を知る。
このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 | 井伏鱒二 略年譜 |
*太宰治の結婚仲人
太宰は、初代と離別(S12/6)後も井伏宅に近い安下宿屋“鎌瀧”の一室に住んだが、
その生活は、井伏が「太宰の生涯の中で最もデカダンス」と語るほどに乱れていた。
太宰の長兄文治は、その年の衆議院選挙(S12/4:当選)の選挙違反による起訴で、公職を
全て辞する苦境の中、井伏経由の月90円の仕送りは続けられたが、太宰の世話役でもある
北芳四郎(東京)と中畑慶吉(青森)は、太宰の乱れた生活ぶりを見知って大いに憂いていた。
太宰を立ち直らせるためには結婚させるしかないと考えた二人は、文治の意を受けて
またもや井伏を頼ることになり、井伏に相談、縁談の依頼をするのである。
井伏に「亡友 -鎌滝のころ-」(初出:S23/10)がある。太宰の死(S23/6)の直後の執筆で、
標題どおり、“鎌瀧” での太宰の生活ぶり(S12/6〜S13/9)から、中畑、北の困惑、
井伏が関わった嫁探し、縁談、破談、見合い、婚約までの経緯を軽く、淡々と書いている。
本項では井伏のこの書と、相馬正一著「評伝太宰治 下巻」(H7)、と同著
「太宰治と井伏鱒二」(S47)を主体にして、井伏の動きから太宰との関係を辿る。
・ 世話役は見た - 困った - 嫁探しだ!
北と中畑の二人が、その役目から度々“鎌瀧” を訪ね、太宰の様子を窺がうと・・・
太宰の部屋にはいつも2〜3人の食客が寝泊りし、昼にはその友人たちも出入りして
酒びたりの日々であることが判ってきた。 二人は井伏に食客を追い払うよう
頼んだが、井伏が受けられるはずもなく、そのうち、酒代や食料代の支払いが滞り、
酒屋(平野屋)や下宿屋(鎌瀧)などからの苦情は井伏の耳にも達するようになった。
井伏がいう「食客」は、文学青年たちである。 太宰は28歳、文学を志す若者たちが自然に
集まったのだろう。 このころのことを書いた資料に、桜岡孝治、長尾良らの名が見える。
太宰が“鎌瀧”に移った昭和12年6月から翌13年9月までのことである。
北と中畑は、解決するには太宰を結婚させるほかないと考え、井伏に相談した。
もちろん最大の問題は相手である。 井伏にも二人にも適当な心当たりがない。
捜すにしても、太宰の過去の素行が知れ渡る郷里や知人関係からは無理である。
結局、本人に捜させることになったが・・。
・ カフェ通い : 「ピノチオの長女」 ともに不調!
当時、多くの女性と簡単に接することができるのはカフェだけだった。太宰にカフェに
通って相手を見つけるよう話し、そのための金を十分に提供することになった。
太宰は、荻窪に下宿住まいの塩月赳らを相棒に新宿のカフェに通い始めたが、1ヶ月を
経ても馴染みの女性はできず、食客を連れて阿佐ヶ谷のカフェで遊ぶようになった。
そんな折、井伏は行きつけの「ピノチオ」の奥さんから娘の相手探しを頼まれた。
「次女の結婚が決まったので、長女の方を早く決めたい。作家志望なら誰でもいい、
再縁でもいい。」ということだった。 井伏も太宰も娘もお互い見知っている。 井伏が
預かった娘の写真を太宰に渡すと、3日目には「貰うことにします。」という返事がきた。
井伏がピノチオへ返事をすると、奥さんは、「太宰さんだけは駄目です。」ということで
破談になってしまった。井伏の謝罪に、太宰は「いえ、何でもない。どっちだって
いいんです。」とあっさりしていたが、井伏は「あまりいい気持ちではなかったろう。」と
太宰の気持ちを思い遣り、「縁談には二度と口を出さないことにしようと思った。」という。
・ 見合い - 結婚へ!
- 見合い写真 -
ところが・・、間もなく、井伏は、甲府の知人斎藤文二郎氏の夫人から仲人を頼まれた。
井伏は仲人を辞退したが、その時に、太宰やピノチオのことを四方山話でしたところ、
夫人は興味を持ったようだった。 しばらくすると、「太宰のお嫁さんにお世話をしたい。」
という手紙に、女学校時代の友人の令嬢という写真を添えた封書が送られてきた。
写真の主は甲府の故石原初太郎氏(S6没)の四女で女学校教師の石原美知子だった。
石原美知子・・明治45年(1912)1月31日生、この時26歳。山梨県立甲府高等女学校(現甲府西高等学校)
から東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)文科へ進み、同校を卒業(S8)。
同年に山梨県立都留高等女学校で教師となり、地理と歴史を教える傍ら、寮の舎監も務めていた。
著書「回想の太宰治」(S53)には、この縁談は、井伏から斎藤家に依頼があったと書いている。
(ネット情報で次の記述を見つけた。 斎藤文二郎氏の娘佐和子さんの談で、次に要約する)
「斎藤家はもともと石原家とは家族ぐるみのお付き合いだった。佐和子の長兄は文学に興味を持ち、
天下茶屋に井伏と太宰を訪ねて顔見知りだった。姉須美子は石原家の美知子の女学校の少し
先輩で美知子を知っていたが、その姉が井伏旧知の新聞記者 高田英之助と結婚した。
そんな折に、井伏はその高田夫婦に太宰の相手を相談したので斎藤家は美知子を候補に石原家に
話した」 というのである。 (ネット 「松原こずえの部屋-海外旅行の扉-トルコぐるり周遊10日間」)
(注:高田英之助は井伏の福山の後輩で、井伏に弟子入りした時期もあったようだが、
当時は東京日日新聞甲府支所勤務だった。後に、井伏が福山疎開中にも会っている。)
井伏はピノチオのこともあったので、太宰が来たとき、先方の話はせずに手紙と写真を
封筒のまま渡した。太宰も心得て何も聞かずに持ち帰った。昭和13年初夏の頃である。
それから約1ヶ月、井伏も太宰もこのことには触れないままで、8月上旬、井伏は甲府に
近い御坂峠の天下茶屋に行き、執筆のため、その一室に40日余の長期滞在をした。
その間に、度々太宰に手紙を出して太宰も天下茶屋で下宿したらどうかと誘った。
太宰の “鎌瀧離れ” を促すことと縁談の結着が狙いだろう。
太宰は、井伏への手紙(S13.8.11付)でこの縁談を深く感謝しながら、井伏には心配を
掛けないようにしようという配慮が見られ、また、「秋には生活を改善する」と書いている。
太宰は、自分の過去が相手に知れれば、この縁談はなくなると覚悟していたようで、
井伏が、先方がそれを気にしていると報せたとき、光風齊月(「齊」は雨冠がある字)
の心境を表し、井伏にもそのようにお願いしますという返信(S13.9.2付)をしている。
- 見合い実現 -
そして9月13日、“鎌瀧” を引き払って井伏が居る御坂峠の天下茶屋を訪れたのである。
そのことを知った斎藤夫人は、太宰は美知子に関心があると判断して動き、
9月18日、石原家での見合いが実現した。 斎藤夫人、太宰、付添人として井伏の3人で
訪問したが、応接間に入ると、斎藤夫人は井伏に耳打ちし、二人はすぐに席を立って
太宰を残して石原家を辞した。 井伏は天下茶屋へ戻り、翌朝、そこを発って帰京した。
太宰は甲府に1泊し、翌日、井伏が発った後の天下茶屋へ帰った。
井伏は何故太宰の帰りを待たずに帰京したのか・・、おそらく見合いの首尾がどうあれ、
太宰をそっとしておいてやりたかったことと、井伏自身もこれを機に気持ちを整理し、
太宰の私生活との関わりに一区切りつけたいといった複雑な思いが働いたのだろう。
直木賞受賞とはいえ、その頃の井伏の生活は決して楽ではなかったようだ。
9月に帰京した井伏は、翌10月に再び天下茶屋へ行くが、「亡友」に、「もうそのころ
私は生活を悪くして、何とか立てなほしをするため」と書き、自身の生活のためには
何を措いても、原稿書きに専念せざるを得ない状況にあったことを窺わせている。
ここまで、井伏は北や中畑に連絡を取って・・つまりは文治の了解のもとで動いており、
見合が実現したからには、後はすべてを太宰側に任せたいと思うのも無理ないことだろう。
- 酒入れ -
石原家の太宰に対する印象は良く、太宰自身も極めて積極的で、二人は結婚に向かうが、
ここで問題になったのは、結婚までの一連の儀式である。 甲府地方には「酒入れ」という
習慣があった。これについて、相馬正一著「太宰治と井伏鱒二」(S47)から抜粋する。
「婿側から代理人が酒を持参し、嫁側の一族の集まっている神前で双方の酒を混ぜ合わせ、
その酒で三々九度の儀式を行うのである。これは結納とは別で、もしも「酒入れ」をしないで
交渉したり、結婚したりすると近所の物笑いにされるという。(中略) 結納をとりかわす前に
「酒入れ」の儀式を行うのは甲府地方特有の習慣であるが、「酒入れ」さえ済めばその日から
当人たちは結婚同然の取り扱いを受けるのである。」
当初、井伏も太宰も、北、中畑もこの習慣のことを知らなかったが、太宰と石原家の意思を
確かめた斎藤夫人が儀式の実施を進め、太宰側もこれに従わざるを得ないとの判断で、
北と中畑は代理人(酒入れ役)を井伏に依頼した。 井伏は、「亡友」に、儀式のことと
その役を辞退したことまでを書いているが、実際にはその後、これを引き受けたのである。
- 太宰の誓約書 -
井伏が初めに断った理由ははっきりしないが、 ここまで、井伏は北や中畑に連絡を
取って、つまりは青森の文治の了解のもとで見合が実現したのであり、自身の仕事や
井伏家の台所事情、それに将来的な負担の重さを考えれば、後はすべてを太宰側に
任せたいと思うのも無理ないことだろう。
ただ、太宰らにしろ斎藤夫人にしろ、井伏が最適役と考えるのは当然で、
太宰は、井伏宛書簡(S13.10.19付)で引き受けてくれるよう懇請している。
しかしそれでも井伏は承知しなかったので、太宰は、北に井伏に働きかけるよう懇願
した。北が井伏を訪ねた後、太宰は井伏宛に「誓約書」といわれる一札を入れた。
井伏様、御一家様へ。 手記。 このたび石原氏と約婚するに当り、一札申し上げます。私は、私自身を、家庭的の男と思ってゐます。 (中略) 結婚は、家庭は、努力であると思ひます。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。 貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかへしたときには、私を、完全の狂人として、 棄てて下さい。 (中略) 神様のまへでも、少しの含羞もなしに誓言できます。何卒、御信頼下さい。 昭和13年10月24日 津島修治(印) |
一部を省略したが(全文は太宰の項に記載)、太宰にとっては相当に屈辱的な不名誉な
文面といえよう。太宰の発意なのか、井伏の要求なのか、北が策したことなのか、など
不詳だが、実名で押印までして入れたこの一札で、井伏は断りきれなくなっただろう。
参考サイト | 「日本経済新聞 2014.4.19」 の記事・実物写真 |
ただ、あまりに大仰な文面だけに、太宰がどこまで本気で書いたのか、井伏がこれを
どう受け止めたかなど興味深いところだが、二人とも北の筋書きに乗ったのだろう。
美知子と結婚したいという太宰の熱意の表れであることは確かである。
「酒入れ」は、11月6日(S13)、井伏が「酒入れ役」となって無事終了した。
なお、この誓約書について、「評伝 太宰治」(相馬正一著)は、「太宰の要請を受けた北が
井伏に一つの条件を提案して承諾を得た。その条件は「今後いかなることあっても再び
破婚の何のと言ふことないといふ誓約の一札」(S13.10.26付中畑宛書簡)を井伏に入れる
ということである。」 とし、さらに、「井伏はこの縁談にあまり責任を持ちたくないと思って
いたであろうことから書かされた誓約書」 である旨を書いている。
- 井伏宅で結婚式 -
「酒入れ」の10日後、太宰は天下茶屋から甲府の下宿「寿館」に転居した(S13.11.16)。
次は結婚式だが、太宰は経済的には相変わらずの困窮で、しかも文治からは、今回の
結婚に関しては資金を含め一切関知しないといわれているので、結納など関係費用の
調達や石原家との調整に悩んだ。 そして、結局はまたもや井伏を頼ったのである。
結婚式は井伏宅で、井伏の仲人で行うことを懇願し、結納や結婚式、新生活に要する
資金までを無心しているのである。その書簡(S13.12.16付)の文面は、懇願というより
卑屈と思えるほどで、先の誓約書もそうだが、この結婚に賭ける太宰のなりふり構わぬ
必死の姿を写しているともいえそうだ。 一方で井伏が困惑したことはいうまでもない。
しかし、「酒入れ役」まで務めた以上、太宰の懇願を断るわけにはいかず、何とか
結納のための金を工面し、井伏宅での結婚式(S14.1.8)と仲人を承知したのである。
ここで判らないのは、井伏と文治とのやり取りである。 文治は太宰に対しては自立を促すためか
直接には援助しなかったが、井伏に経済的な負担をかけるようなことはしないだろう。 もともと、
この結婚は文治の意に適ったものである。 まったくの憶測だが、井伏には内々にそれなりの
対応をしていたのではないだろうか。 案外、太宰はそれを見越して井伏に甘えたのかもしれない。
結婚式当日の写真があるが、出席したのは太宰(29歳)と美知子(26歳)、井伏夫妻、
北、中畑、美知子のすぐ上の姉山田夫妻、事実上の仲人斎藤夫人の9人だけだった。
この結婚に関して、井伏は、見合い写真の取次ぎは自らしたが、その後の流れでは、完全に
受身の立場になっている。しかし、乗りかかった舟ということか、本意だったか不本意だったか
判らないが、結婚までの世間的に重要な役回りは、結果的には全て引き受けたことになる。
これで、太宰との関係は、作家としての師弟関係というより、私人としての結びつきが
さらに強まったが、戦争を挟んだ 10年後(S23)に、太宰は玉川上水で入水心中する。
それは井伏宛に誓約書を書くなどしたこの結婚に端を発しているとの見方もあるが、
太宰の側から見たこの結婚については、別途「太宰治の項」に詳記する。
なお、 太宰には、中期の傑作といわれる「富嶽百景」(初出:S14/2-3)があるが、これは、
太宰が、「思いをあらたにする覚悟」(同書)で“鎌瀧”を出て御坂峠の天下茶屋に滞在した
約2ヶ月間の体験を、虚構を交えて小説化したものである。 また、「帰去来」(S18)には、
中畑、北という二人の世話役のこと、この結婚のことなどが書いてあり、井伏の「亡友」など
と合わせて読むと面白さが増す。(太宰の作品は、大半がネット「青空文庫」で読める。)
*原稿だ! & 釣りだ ・ 将棋だ!!
「阿佐ヶ谷将棋会」 開催一覧 |
・・昭和13年・・ 直木賞と「文学界」同人 (40歳)
この年は、国家総動員法の施行(S13/5)など、国民生活には日中戦争の影が色濃く
反映するが、井伏個人は直木賞受賞に始まり、太宰に振り回され、執筆に追われ、
<文学界>同人になり、一方で、釣りに将棋にと多忙、充実の一年だったといえよう。
2月7日、第6回(昭和12年下期作品が対象)直木賞受賞決定・発表あり。
「ジョン万次郎漂流記」が受賞!!
前年(S12/11)刊行の「『ジョン万次郎漂流記』、およびユウモア小説」に対して、
第6回直木賞が授与された。
すでに実力、実績ともに相当の評価を得ている井伏の受賞、それも芥川賞ではなく
直木賞であることが当時も話題になったようだが、いずれにしろ経済的に苦境にあった
井伏には嬉しい受賞であり、文壇的には直木賞の性格付けに一石を投じたのである。
井伏はここに名実共に一流作家としての地位を確保したといっていい。
受賞のため文藝春秋社を訪ねると、菊池寛は将棋を指しているところで、
儀式張らずにその姿勢のまま賞金(500円)と記念品の時計を渡したという。
井伏は帰りにその賞金で行きつけのすし屋のツケを清算し、時計はその後度々
質に入って井伏家の家計を支えたという。それでも貧乏は続いたのである・・・。
ちなみに、このときの芥川賞は「糞尿譚」で火野葦平が受賞したが、中国へ出征中のため両賞
とも授賞式は略され、2月中旬に、井伏と、新潮賞受賞の浜本浩の合同祝賀会が開催された。
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参考サイト (写真) 「文学界」 同人 日本近代文学館 → 写真検索 → 井伏鱒二(P0003487) (S13頃 集合写真) 前列左から 横光利一・亀井勝一郎・中村光夫・島木健作・ 村山知義・林房雄・青野季吉・中島健蔵・ 後列左から2人目佐藤信衛・1人おいて河上徹太郎・深田久弥・ 今日出海・井伏鱒二・舟橋聖一・阿部知二・小林秀雄 |
(単行本の刊行) 1月、「火木土」(版画荘文庫29) (版画荘) 4月、「さざなみ軍記」 (河出書房)・・昭和5年以来、諸誌に 断続的に掲載してきたものの集成で、初の自装本となった。 10月、「陋巷の唄」(新小説選集11) (春陽堂書店) |
・・昭和14年・・ 太宰 ・ 釣り ・ 阿佐ヶ谷将棋会 (41歳)
この年は、ノモンハン事件(S14/5-9)、国民徴用令公布(S14/7)など、戦争色がさらに
強まるが、井伏は知名度上昇で原稿依頼が増え、また、阿佐ヶ谷界隈の文士や、
作家仲間、文学関係者との交流は、旅行や釣り、将棋にと一段と活発になった。
参考サイト (写真) 「博浪沙」 同人 日本近代文学館 → 写真検索 → 井伏鱒二(P0002036) (S14.4.12 高知港桟橋) 写真左から 牛島英輔・佐々木克子・山崎海平・田林琴子・ 田中貢太郎・田岡典夫・添田さつき・井伏鱒二・榊山潤・高橋白日 |
(単行本の刊行) 1月、「禁札」 (竹村書房) 7月、「駐在日誌 多甚古村」 (河出書房) 9月、「蛍合戦」(新選随筆感想叢書) (金星堂) 10月、「川と谷間」(創元選書31) (創元社) 10月、「オロシャ船」(新選名作叢書) (金星堂) |
・・昭和15年・・ 「多甚古村」映画化 ・ 洪水に命拾い (42歳)
ヨーロッパ戦線ではドイツ軍の進撃が続き、日独伊三国同盟締結(S15/9)など
日本も大戦への道を歩み、文壇にも新体制運動の影響が及んだが、井伏の
日常生活に大きな変化は見られなかった。作品の映画化で交友関係は広がった。
(単行本の刊行) 2月、「丹下氏邸」(昭和名作選集11) (新潮社) 5月、「鸚鵡」 (河出書房) 6月、「風俗」 (モダン日本社) 9月、「一路平安」 (今日の問題社) |
このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 | 井伏鱒二 略年譜 |
・・昭和16年・・ 日常暗転 - 徴用で戦場へ (43歳)
対米関係は悪化の一途を辿り、遂に12月8日に開戦するが、その直前の11月、
作家など多くの文人に対する徴用が始まった。 井伏も徴用を受けた一人で、
陸軍徴用員として南方戦線へ従軍する。 井伏の日常は一変する。
2月1日、師であり、恩人である田中貢太郎が高知で胃潰瘍のため死去。
翌2日、高知へ向かい、葬儀に参列。
2月、井伏に師事した小沼丹を伴い、<早稲田文学>の会に出席。
3月25日、ピノチオで開催の「阿佐ヶ谷将棋会」に出席、優勝。
4月5日、太宰とともに甲府の旅館「東洋館」に行く。
4月30日、木山の「昔野」、「河骨」出版記念会(新宿:レインボーグリル)に
阿佐ヶ谷将棋会メンバーらと出席。二次会(銀座:日本茶館)で寄せ書きをし、
井伏は「捷平と血族を/あらそうふ春の宵/弟たりがたく/兄たりがたし」と書く。
5月6日、青柳宅で開催の「阿佐ヶ谷将棋会並びに美術講義をきく会」に
出席。将棋会の後、青柳の藤原時代の壺を見ながら古美術の話を聴く。
6月、文芸講演会の講師として亀井、中村武羅夫、巌谷大四等と、
甲府、高田、上田、長岡、伊香保、へ行く。
6月30日、佐藤春夫媒酌による山岸外史の結婚披露宴に出席。
7月16日、ピノチオで開催の「第一回水曜会」に出席。集まったのは
「阿佐ヶ谷将棋会」のメンバー10名。将棋をしたかは不明。
8月26日、「四つの湯槽」を原作とする映画「簪」が製作され公開。
(松竹:監督、脚本・清水宏、出演・田中絹代、笠智衆ほか)
9月17日、「おこまさん」を原作とする映画「秀子の車掌さん」が製作され公開。
(南旺映画(配給東宝):監督・成瀬巳喜男、出演・高峰秀子、夏川大二郎ほか)
10月10日、「中島直人君追悼会」(新宿樽平)に谷崎精二、浅見らと出席。
10月上旬、亀井、太宰、山岸外史らと清水市三保(静岡県)に1泊旅行。
10月中旬、小田と山形県酒田市の佐藤三郎宅を訪れ、上田秋成の稿本を
見せてもらい(大阪毎日、東京日日の両紙に記事)、最上川で釣りをする。
11月15日、小田と甲府の旅館「東洋館」に投宿中、「陸軍徴用令書」がきた
ことを知る。「荻窪風土記-続阿佐ヶ谷将棋会」にその状況を書いている。
「甲府に居た(同書では「東陽館」)のは、酒田の佐藤さんを待って富士川下り
をする予定だった。 最初は電報で「キウヨウアリ」と知らされたが、翌朝、
郵便局長から「コウヨウアリ」が正しいと訂正の電話があった。「公用」つまり
「徴用」である。 さらに、井伏の自宅からの電話で、小田にもきていることが
判明した。急ぎ予定を変更して帰京した。」とのこと。 日常暗転であった。
(小田によれば、電話は、翌朝早く、井伏が井伏宅の隣の上泉家へして、
井伏夫人を呼び出し、話したもの。(当時は、普通の文士は電話を持って
いなかった) 午後帰途につき(16日)、阿佐ヶ谷で軽く一杯やって別れた。
(<新潟日報・夕刊:S51.7.19>)より要約)
11月17日、徴用令書を受けた作家らは本郷区役所に出頭、身体検査を受けた。
井伏、小田のほか、中村、太宰もいたが、太宰は肺疾患で徴用免除となった。
11月19日、出掛けに木山の訪問を受け、太宰・亀井も来合わせた。井伏は、共に
おでん屋で飲み、井伏宅へ戻ってまた飲んだ。
井伏の徴用前夜
甲府から帰京した井伏は、徴用令書の指示に従って11月17日に本郷区役所
に出頭して身体検査を受けた。 作家だけでなく幅広い分野の多くの
文筆家、芸術家、知識人などを対象とした陸軍による第一次徴用だった。
徴用令書に付記された指示には、「必ず軍刀を持参のこと、但、出征軍人と見える
様子を隠し、さりげない服装で大阪城天守閣前の広場に集結のこと・・」
とあった。
集結日は昭和16年11月22日で、この日が井伏らの徴用開始(入隊)の日だった。
井伏は、大阪へ発つ前日の11月20日に阿佐ヶ谷将棋会などの送別会に出席し、
その夜に、「井伏鱒二集」(改造社:S17/9)の解説・略歴を書き終えた。
その胸中、どんなだっただろう・・。
大阪城広場に集結
井伏は、11月21日、阿佐ヶ谷将棋会の小田、中村のほか、作家の高見順、寺崎浩、
豊田三郎らと共に東京駅から列車で大阪へ向かった。作家仲間など多くの見送りが
あったが、隠密裡の終結指示だったため、以前のような派手な駅頭風景はなかった。
軍刀について、
井伏は伝を頼って入手したが、持参できない人もいた。この頃は不足
のため入手困難になっていた。中村の場合は、4年前に満州で戦死した兄(陸軍主計
中尉)の佩刀を、大阪城に集結した際に両親から受取るという劇的なシーンがあった。
井伏は、その軍刀をアユ釣の竿袋に入れて肩にかけ、釣り人スタイルで出発した。
海音寺潮五郎は朱鞘の大刀を真田紐で背中に吊るし、さながら忍者の風態だった。
北町一郎は、黒漆の鞘の細身の短い刀をいつも左手にぶら下げて持っていた。
各人各様の対応、苦労も多かったようだが、
軍の機密、防諜上の指示だった・・。
今にして思えば何か滑稽のようでもあるが、当時は国を挙げて真剣だったのである。
翌11月22日、大阪城天守閣前の広場に集結して入隊し、「班」編成が行われた。
井伏、中村は丁班(約120名:マレー方面)、小田は乙班(約100名:ビルマ方面)だった。
作家は、丁班には、海音寺潮五郎、小栗虫太郎、寺崎浩、堺誠一郎、等がいた。
乙班には、高見順、豊田三郎、山本和夫、等がいた。
(注) *この時集結したメンバーが南方派遣の第一次陸軍徴用員宣伝班員だった。
総数は約460名(内作家は30余名)で、作家の班分けは「文士徴用」の項に詳記した。
*班毎の任地(行き先)は、“南方”と知らされたが、マレー、ビルマといった
具体的な地名は日本を離れるまでは知らされなかった。
また、これとは別に、職業・前歴による班が編成され、井伏ら作家は3班だった。
任地別の班をさらに少人数に分けて命令、情報の円滑な伝達を図ったのだろう。
アフリカ丸で南方へ
寺崎浩に「戦争の横顔 -陸軍報道班員記-」(S49)という著書がある。井伏が跋(序文)を書いており、
著者の“あとがき”によれば井伏が書くことを勧めたとある。徴用令書を受けてから終戦までの
寺崎の記録である。客観性を持たせるため自身を「園」という仮名にしているが実名も多く登場する。
本項はこの寺崎の著書と井伏の著書とを主に参考にした。
S16.11.22 | 大阪に集結、徴用開始(入隊)。井伏は丁班。 |
S16.12.2 | 丁班と乙班、 南方に向かって大阪を出航。 |
S16.12.8 | 香港沖を航行中に対米英開戦を知る。 |
S16.12.18 | サイゴン港着。(ここで丁班と乙班は別れた) |
S16.12.27 | 丁班、タイ国のシンゴラに上陸。 |
-輸送船 アフリカ丸-
井伏・中村が属する丁班と、小田が属する乙班は、12月2日に天保山港(大阪)で
輸送船アフリカ丸に乗船、出航した。行き先は “南方” とだけしか知らされなかった。
緊迫の度を増す時局にあって、何処へ、何をするために行くのかはっきりせず、
自らの意思とは全く無関係に、遥か彼方の南方まで運ばれるのである。
しかも、1万トンの大型輸送船とはいえ、丁班の船室は、船底の倉庫を二段に
仕切ったいわゆる蚕棚で、救命具は人員の1/3程しかなく、それも実際には
整備不良で使用不能という状態だった。徴用員たちの心中は察するに余りある。
「アフリカ丸」は、正しくは「あふりか丸」(大阪商船所有:約9,476総トン)だろう。
もともとは大正7年竣工の客船。兵員輸送に使用するため、船底の倉庫を
寝台に改装したのだろう。 S17.10.21.台湾北方で米潜水艦の雷撃で沈没。
-輸送指揮官 「遥拝隊長」-
丁班の輸送指揮官 K中佐について井伏は次のように書いている。少し長いが引用する。
「輸送指揮官は中学校の体操教師をしていた退役陸軍中佐で、仁丹の広告看板髭男のような
大きな八時髭を生やしていた。年齢は不明だが、マレー派遣軍の参謀長鈴木中将と士官学校が
同期だったというから、相当の年配であったろう。
(中略)
「髭」は「気をつけ」の号令をかけて、いきなり大きな喚き声で云った。
「儂(わし)は、お前たちの指揮官である。今からお前たちの生命は、儂が預かった。
ぐずぐず云う者は、ぶった斬るぞ」
みんなの間に声でない声に出す動揺の気配がが起った。その中から「ぶった斬って見ろ」と
云う者がいた。同時に、第四班か第五班で卒倒する者がいた。これは、すぐ付添兵の手で医務室
へ抱えられて行った。「髭」に向かって「ぶった斬って見ろ」と云ったのは、海音寺潮五郎であった。
「髭」は謂わゆる気合を入れる訓話をしたわけで、こんな風に話をお仕舞にした。
「お前たちのなかには、反軍思想の者がうようよ居る。怖ろしくて手もつけられん。
儂は輸送船のなかでは、必要以外のときは絶対に甲板にに出んようにする。
うっかりすると、海に突き落とされるかもしれん」
その話の途中に、「気をつけ」の号令をかけ、「陛下に対して相すまん」と云って「休め」の号令を
かけた。最後に隊長は、一同の向きを変えさせて東方遥拝の号令をかけた。号令の連発である。
この人は案外これで一生懸命になっていたのかもわからない。輸送船に乗ってからは、ラジオで
日本軍の捷報ニュースがあるたびに、私たちを甲板に集合させて東方を遥拝させた。同じ船に
乗っていたビルマ組徴員の輸送指揮官が、「髭」に、「東方遥拝」も、ほどほどにせんか」と云った。
それでも止さなかった。
「髭」は大阪の兵舎で云った通り、船がタイ国のシンゴラ港に着くまで、東方遥拝以外には一度も
甲板に姿を見せなかった。徴員を無事に戦地の司令部へ届けたら、マレーの州司政長官の
地位をマレー軍の参謀長から約束されていたそうだ。」 (「徴員時代の堺誠一郎」より抜粋)
なお、「徴用中のこと 第13回」に、K中佐は、この後、スマトラの州総務部長に任命された」とある。
ここに、K中佐の人物像、軍人精神の一端、徴用員の困惑・苦痛が窺える。
井伏は別の箇所で、「私たちマレー組は遠慮なく云って貧乏籤を引かされた。実にひどい
輸送指揮官に当たった。こんな軍人は見たこともない。」 と嫌悪感を顕わにしている。
小説「遥拝隊長」(S25)は、このK中佐の軍人精神を素材にして書いた創作である。
-将棋・花札が盛ん-
船内では将棋や花札が盛んだった。金品を賭けるので、弱い中村は大歓迎されたとか。
将棋は、井伏、小田もよく指していたが、賭けはみかんのやり取り程度で楽しんでいた。
船内将棋大会があったが、井伏は予選で負けてしまった。
特に開戦後は、潜水艦や飛行機による攻撃を受ける恐怖に苛まれ、徴用員間の軋轢に
緊張する時間が続く中、こうした遊びは多少なりとも心を紛らすことに役立ったのだろう。
-対英米開戦の日-
大阪を発って6日目の12月8日朝6時、徴用員たちは「西太平洋で日・英米陸海軍と
戦闘状態に入った」と知らされた。輸送指揮官の命令で、甲板で宮城遥拝の式が
挙行された。御詔勅が下ったというラジオを聞いた後、また宮城遥拝式があった。
-船内新聞「南航ニュース」を発行-
船内で、徴用員たちは、ガリ版刷り、半紙1枚の新聞「南航ニュース」を発行した。
毎回100部ほどの部数で、内容は主に徴用員の寄稿である。12月9日付(第7号)
には「社説 我等の覚悟」の一文と、十数人の開戦の感想が載っている。
井伏は「こうなるようになったと思う。もう少し早く発てばよかった。風邪をひいて
頭が重いせいかショックというようなものは余り感じなかった。」と書いている。
*寺崎の前掲著書には実物写真が載っており、ほかに乙・丁班の輸送指揮官、船長、
高見順、小田、寺崎らの感想文を読むことができる。 「来るものが来た・・」的な
内容が多いが、異色は、海音寺潮五郎の「考えてもどうにもならぬことは考えない
ことにかねてから練習しています。なにごともあなたまかせの歳の暮」 だろう。
また、同書には第2号(12/4付)、第5号(12/7付)、第6号の上半分(12/8付)の写真、
アフリカ丸船上やシンガポールでの作家、画家らの写真なども載っている。
-密告書・新聞発行禁止・船内のゴタゴタ-
「南航ニュース」の発行停止について、井伏は次のように書いているので引用する。
「徴員たちの失言は二人の男に常にスパイされていたので、無論、中村君の詠嘆は密告書に
記入されたろう。この密告書は私たちが前線の司令部に追いつくと同時に、輸送指揮官から
第25軍の鈴木参謀長に提出された。「大阪集結以来、徴員に関する行状」 という題名の密告書
である。これが作製されていることは、もはや輸送船のなかでも噂になっていた。小栗虫太郎は、
このいきさつを諷刺の効いたユーモラスな童話に書き、船内新聞の「南航ニュース」に掲載した。
そのため輸送指揮官が激怒して「南航ニュース」の発行を停止させた。」(「徴用中のこと 第13回」)
権力と結び私利を求める輩のため徴用員の間に軋轢が生じて発行停止になった
状況が窺えるが、寺崎は次のように書いている。(前掲著書の関係部分の要約)
徴用員の中の一人(実業家)とこれに追従する二人の新聞記者が、自分たちだけの
利得を得ようと輸送指揮官に取り入った。 この3人組の言動は、他の徴用員たちの
強い反感、反発を招き、その力を削ごうという話になって小栗が寓話風なコントを
「南航ニュース」に書いたが、この時はこの意図は3人組には通じた様子がなかった。
次いで12月12日の「南航ニュース」に堺誠一郎が匿名で「二匹の忠犬」という童話を書いた。
主人と二匹の飼犬の話で、船内ではそれが3人組を指すことは誰にも分かる内容だった。
それから間もなく、輸送指揮官から発行を禁止すると云ってきた。
というのである。そしてさらに次のように続く・・。
船がサイゴンに着いた12月18日、ビルマ班が下船した夜、輸送指揮官による3人組擁護の
訓辞があったが、反発する徴用員に詰め寄られて訓辞を取り消すという一幕があった。
その騒動が一段落すると、寺崎は二人の男に呼び出されて甲板で詰問された・・海へ突き
落とされても分からない状況にあり、殺気を感じたが、ある徴用員が現れて無事終わった。
みんなの見解は、堺が書いた童話を寺崎が書いたと誤解されたというものだった。
「大阪の兵舎以来よじれていたものがついにサイゴンで爆発したのである。」
誤解された事情は、井伏が書いた「跋」によれば、井伏が船の炊事夫と釣りを
した時(12/10:海南島寄港時)に釣った青い魚のことを、寺崎が童謡にして
「南航ニュース」に発表した(松本武夫著「井伏鱒二年譜考」によれば「青い魚−
井伏鱒二氏に」)。ところが、その同じ号に三人組を辛辣に諷刺する童話が匿名
で載った。 三人は大いに動揺し、それも寺崎が書いたと決めてしまった・・。
井伏は「徴員時代の堺誠一郎」にも、「開戦が知らされてから船内にゴタゴタが絶え
なかった。上陸後の任務のことで密告書を提出したり、あくどい意地悪があったり、
その浅ましさには全くたまりかねるものがあった。」(要約)と書いている。
これらの記述から、特に丁(マレー)班の徴用員たちの暗澹たる気持が伝わる。
タイ国上陸後、徴用員は輸送指揮官(K中佐)の下から南方軍の第25軍に引き渡され、
K中佐は、密告書を元に作成した報告書を士官学校で同期だった鈴木参謀長に提出した。
井伏の見方では、参謀長の最初の訓辞や、徴用員の待遇・配属には、その報告書に基づいた
としか思えない理不尽な言辞や、寺崎・荒木などへの冷遇があったようだ。
いわゆる文化人や高位高官といわれる人たちも、裸の姿はこんなもの、ということか・・。
昨今の報道、世相においても、我利私欲、金にまみれた地位ある人々の醜さが際立つ。
-サイゴンで乗換、タイ国シンゴラへ-
開戦の10日後(S16.12.18)、アフリカ丸は無事サイゴンに着き、乙班は夕方に
下船してトラックに乗って行ってしまった。大阪を出航後、乙班の輸送指揮官
(大佐)は、「乙班はビルマ、丁班はマレーで、アフリカ丸はサイゴンまでだから
そこで全員が下船する。」と個人的に話していたが、その通りだった。
井伏らの丁班は翌19日に外出許可、20日に小汽船に乗り移り、22日に大型汽船に
乗り換えた。出発を待つその間は束の間の休息となった。井伏は大型汽船名と出航日
を記してないが、寺崎は、出航は12月24日で、大型汽船名は浅香山丸と書いている。
浅香山丸は順調な航海で12月27日朝、タイのシンゴラに到着、午後上陸した。
「浅香山丸」(S12進水:約8709総トン)は、三井物産が造船・所有の貨物船だが、
陸軍に徴用され、マレー半島上陸作戦に参加するなど、この海域の兵員輸送
に活躍した。 S18.2.27. ビルマのモールメンでB24、二機の直撃弾により沈没。
(単行本の刊行) 1月、「さざなみ軍記 附ジョン万次郎漂流記」 (河出書房) 1月、「ドリトル先生 アフリカ行き」 (白林少年館出版部) 3月、「シグレ島叙景」 (実業之日本社) 3月〜S17/2、「井伏鱒二随筆全集 全3巻」 (春陽堂書店) 6月、「おこまさん」 (輝文館) 12月、「ドリトル先生 アフリカ行き」 (フタバ書院) |
このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 | 井伏鱒二 略年譜 |
*徴用 - 解除:帰京
・・昭和17年・・ 徴用一年 (44歳)
井伏が徴用中のことに関して書いた主な著作(初出)は次の通りである。
-- 徴用中 --
「アブバカとの話」 (現地報告的随筆: 17/4 <モダン日本>)
「マレー人の姿」 (現地報告的随筆: 17/6 「マレー電撃戦」所収)
「花の街」 (現地報告的小説: S17/8〜S17/10 <東京日日新聞><大阪毎日新聞>連載)
「昭南日記」 (現地報告的・日記風随筆: S17/9 <文学界>)
-- 帰国〜戦中 --
「ゲマスからクルーアンへ」 (現地報告的随筆: S18/1 <文芸春秋>)
「昭南タイムス発刊の頃」 (現地報告的随筆: S18/1 <サンデー毎日>)
「旅館・兵舎」 (徴用体験随筆: S18/2 <時局情報>)
「待避所」 (現地報告的随筆(現地人日記): S18/3 <文学界>)
「或る少女の戦争日記」 (現地報告的随筆(現地人日記): S18/3-4 <新女苑>)
「紺色の反物」 (徴用体験小説: S18/5 <改造>)
「借衣」 (徴用体験小説: S18/6 <オール読物>)
「防諜」 (現地報告的随筆: S18/10 <理想日本>)
「南航大概記」 (徴用初期の日記風随筆: S18/12 「花の町」(文芸春秋社刊)に収録)
「便乗紀行」 (現地報告的随筆: S19/3 <文藝読物>)
「捕虜の印度兵」 (現地報告的随筆: S19/4 <理想日本>)
「昭南日本学園」 (現地報告的随筆: S19/6 <中学生>)
「鼠ボーイ」 (現地報告的随筆: S19/7 <少国民の友>)
「里村君の絵」 (徴用体験随筆: S20/6 <文藝>)
(このほかにも、徴用に関する多くの短文を発表しており、徴用とは無関係の作品も含め
この時期の発表作品は「井伏鱒二全集 第10巻」(1997:筑摩書房)に収録されている。)
-- 戦 後 --
「悪夢」 (体験随筆: S22/12 <文壇>)
「遥拝隊長」 (輸送指揮官が素材の小説(創作): S25/2 <展望>)
「犠牲」 (体験随筆: S26/8 <世界>)
「戦死・戦病死」 (体験随筆: S38/4 <小説中央公論>)
「シンガポールで見た藤田嗣治」 (体験随筆: S43/12 <芸術新潮>)
「私の履歴書」 (S45/11 <日本経済新聞社>(後に「半生記」:14の項が徴用体験))
「徴員時代の堺誠一郎」 (体験随筆: S52/8 <中公文庫・「キナバルの民」附記>)
「徴用中のこと」 (長編徴用体験随筆: S52/9〜S55/1連載 <海>)
「荻窪風土記 -続阿佐ヶ谷将棋会-」 (体験随筆: S56/9 <新潮>)
これらの著作から推察できるマレー組徴用員の体験は凡そ次の如くである。
* 陸軍(南方軍)の第一次徴用員宣伝班員として行った先は、井伏が属する
マレー組(約120名)と、ビルマ組(約100名)、フィリピン組(約120名)、
ジャバ(約120名)だった。(任地名は出発前には知らされなかった。)
* 徴用作家の待遇は、佐官ないし尉官クラスで、相当の厚遇だといえよう。
* 徴用員の職業は、作家のほか、新聞・雑誌記者、カメラマン、画家、通訳、
学者、僧侶、南方関連の大会社の支店員・企業家、など多士済々だった。
* マレー組とビルマ組は、輸送船アフリカ丸に同乗して大阪を出航、南方へ
向かう香港沖で対米英開戦を知らされ、宮城遥拝の式が挙行された。
* マレー組は、タイ国のシンゴラに上陸し、英軍の要衝シンガポール攻略の
ためマレー半島を陸路南下進攻中の陸軍部隊を追って合流した。
* 井伏らは、シンガポール陥落(英軍降伏:S17.2.15)の翌日16日に同地に
入った。同地には直ちに日本軍による軍政が敷かれ、「昭南島(市)」と
名付けられた。井伏は同年11月の徴用解除まで同地で任務に就いた。
* 徴用員の任務はあらかじめ定められていたものではなく、現地に入って、
適宜、軍の宣伝班長から指示された。 もともと、この文人の徴用は、
ドイツのPK部隊の真似といわれ、軍の現地幹部がその役割・活用策
を十分理解していたかは疑問で、受け入れに戸惑が見られたようだ。
* 井伏は資料班に属したが、ほかに通訳班、報道小隊、撮影班などがあり、
宣伝班配属将校の下に各班10人余りで編成された。通常は直接戦闘
に加わることはなかったが、戦場の恐怖、極度の緊張感に苛まれ、特に
報道、写真、撮影、通訳など最前線の任務では被弾などの犠牲がでた。
* マレー組120名の内、従軍中に5名が死亡(戦死2名、自殺・戦病死1名、
憲兵が射殺1名)した。発病して帰還後に亡くなった人はかなりいる。
* 大阪と南方への船中では日記も手紙も禁じられたが、井伏は持参の手帳
にメモを取り、約5ヶ月間続けた。(後に「南航大概記」として発表した。)
* 著作には軍の厳しい検閲があり、井伏の場合、5件中4件はボツになった。
マレー半島上陸作戦: 太平洋戦争の開戦(対米英開戦)は、昭和16年12月8日(日本時間)である。
同日未明、陸軍はマレー半島(英領マレーとタイ国)への上陸を、海軍はオアフ島(ハワイ)
真珠湾の米軍基地攻撃を敢行した。 相手国に対する宣戦布告は行っておらず、
タイ国の領土通過承認もない状態での、日本陸海軍による共同先制奇襲攻撃だった。
マレー半島に上陸したのは、南方軍(総司令官 寺内寿一大将)の第25軍(司令官 山下奉文中将)
で、上陸部隊は、直ちに攻略目標であるシンガポールを目指して陸路を南下進攻した。
2月15日に英軍が降伏し、日本軍はシンガポールに入った。
山下奉文(ともゆき)司令官がシンガポールの英軍パーシバル司令官に「イエスかノーか」と
無条件降伏を迫った交渉場面は大きく報道され、同将軍は「マレーの虎」の異名をとった。
なお、開戦時、南方軍には、第25軍(山下奉文中将)、フィリピン攻略の第14軍(本間雅晴中将)、
ビルマ攻略の第15軍(飯田祥二郎中将)、蘭印攻略の第16軍(今村均中将)の4軍が置かれた。
日本連合艦隊によるハワイ真珠湾攻撃に注目が集まりがちだが、実際には陸軍によるマレー半島
コタバル(英領)上陸成功の方が、真珠湾基地への最初の爆弾投下よりも1時間余早かった。
マレー半島を南下
12月8日、マレー半島に上陸した第25軍は、直ちに約1,000km先のシンガポールを目指して、陸路の
南下進攻を開始した。 英側は抗戦しながら撤退し、その際に鉄道や道路、橋を徹底破壊したため、
日本軍の前進は困難を極めたが、上陸から2ヶ月余という驚異的な速さでシンガポール攻略に成功した。
-宣伝班員 (「資料班」配属)となる-
井伏ら徴用員は、第25軍の上陸から20日目となる12月27日にシンゴラに上陸した。
翌28日未明から主にトラックで第25軍の司令部を追って半島の西側を南下、
31日にタイピン着、ここで司令部に追いつき、鈴木参謀長の訓辞を受けた。
これで輸送指揮官の下を離れて第25軍所属の「宣伝班」に入った。
山下中将が率いる第25軍の 12月8日のマレー半島上陸作戦は、 英領マレーのコタバル、 タイ領のシンゴラとパタニの3地点で 敢行された。 コタバルに第一陣が上陸したのは 日本時間午前2時15分(「昭和史の 事典」(佐々木隆爾編))で、 さらに同日未明にはシンゴラに 第25軍司令部が上陸、 同じ頃、パタニの上陸にも成功した。 タイ国の承認のない上陸で、阻止する タイ国軍との間に戦闘が起きたが、 同日正午過ぎ、タイ国内通過協定を 成立させたことで戦闘は終息した。 ちなみに、日本連合艦隊がオアフ島沖に 到達したのは午前1時30分(日本時間)。 発艦した第一次攻撃隊が米軍基地に 第一弾を投下したのは3時25分(同)。 有名な電文「トラ・トラ・トラ」 (ワレ奇襲ニ成功セリ)は、 3時22分(同)の発信である。 (太平洋戦争は真珠湾攻撃によって開戦 と思われがちだが、実際には1時間余り マレー半島上陸が早かった。) 左図は、『図説 太平洋戦争』(太平洋戦争 研究会著:2005/4)によるが、本書には、 コタバル上陸は午前1時30分で、 真珠湾攻撃より1時間50分も早いとある。 |
明けて昭和17年(1942)1月3日、徴用員全員が任務別に分けられ、井伏は
「資料班」所属となった。中村地平、北町一郎、栗原信、は同じ班だった。
井伏は、「戦死・戦病死」に、「資料班、通訳班、報道小隊、撮影班などに分けられて、宣伝班
配属将校の下に各班10人余りの員数であった。私は資料班に属し、この班は司令部の
移るのにつれて移動するのだから、作戦中にも戦死者を出さなかった。」と書いている。
徴用員には最前線での戦闘任務はないが、報道や写真関係の場合には戦闘場面に
身を置くことが多いので生命の危険度は高く、例外はあるが一般的には敬遠される。
班分けがなされる前に、密告書を利用して自分は資料班など安全性の高い班に入る
工作をした者がいたが、一方で、栗原信(画家)、堺誠一郎、里村欣三ら6人は自発的
に「報道小隊」を組み、自転車で前線に出て活動した。(献納画を描くため早めに帰国
した栗原は、昭和17年12月に「六人の報道小隊」というマレー従軍記を発表した。)
以降、井伏ら資料班は司令部の移動と共に、イポー、クアラルンプール、ゲマスを経て、
1月28日にクルーアンに着、さらに南下を続け、2月12日にジョホールパールに着いた。
シンガポールはジョホール水道を挟んだ対岸で、すぐ目と鼻の先である。
そして3日後の2月15日、シンガポールは陥落し、井伏らは翌16日同地に入った。
この間、井伏ら資料班が行っていた具体的な仕事内容ははっきりしないが、従軍行動の
一環として日本軍の支配下に入った地域の視察を行い、住民と接触しながら反日感情を
和らげ、新秩序での民心の安定を図ることに努めたようだ。 井伏らの著作には、新しい
権力者を頼って身の安全と繁栄を図ろうとする住民感情を利用している様子が窺える。
もちろん、文筆家として軍の陣中新聞「建設戦」に原稿を書いたり、現地ルポとして
日本国内向け原稿を書いたりしたが、井伏の原稿は「遊びの気分に傾き戦意高揚の
気に乏しい」という理由で5回に4回は検閲を通らなかった。(「徴用中のこと 第9回」)
井伏は自身の徴用中の心がけについて、徴用解除の直後に発表した「旅館・兵舎」の
結びに、次のように書いている。徴用員としての、またこの戦争自体に対しての井伏
の基本姿勢と考えるので引用する。 戦時、しかも戦局は日本不利に傾いている時期
(発表のS18/2に日本軍はガダルカナル島を撤退)の記述であることに注目したい。
「扨て、戦地にはいってからの私は、僚友に対して遠慮するやうに心がけ、この
気持で終始することにした。戦地においては各自の性格がはっきりと現はれる。
無理にも功をあせるやうなことにもなる。私は自分の無力の程度を自分で査定
して、人に対して可能の限り遠慮した。しかし遠慮することは、怠けることにも
共通するおそれがあるため、一つの無形の方策をもって遠慮することにした。
それは誠意といふ無形の方策である。しかし結局において私は怠けたやうなことに
なった。以上のやうな仕儀である。」(初出「井伏鱒二全集 第10巻」(1997)所収)
なお、「鶏肋集 半生記」(1990:講談社)所収では、「しかし遠慮することは」の後は、
「しかし遠慮することは、怠けることにも共通する。結局、私は怠けたようなこと
になった。以上のような次第である。」 に変わっている。
初出の記述の一部を削除してスッキリさせたが、ニュアンスも微妙に変化している。
もし、これが戦中当時の原稿だったら、検閲を通っただろうか?
(実は、私は最初に講談社掲載を読んで、検閲のことが気になり、初出を確認して
判った次第。 極く短い作品だが、初出にしても、全体として戦意高揚というより
厭戦、非戦的心情が漂うので、検閲はどうだったのか知りたいところである。)
-シンガポールで 9ヶ月-
昭和17年2月15日のシンガポール陥落は、山下司令官が英軍のパーシバル司令官に
「イエスか ノーか」と無条件降伏を迫った交渉場面が大きく報道され、
山下将軍は「マレーの虎」の異名を取り、一躍英雄として日本中にその名を馳せた。
井伏のその日の日記には、「記念すべき日である。シンガポール陥落。午後7時15分、
敵は無条件降伏。内地のみんなの喜びが直ぐ近くまで追いかけて来ている。」とある。
シンガポールは、直ちに日本の軍政下に置かれ、「昭南島(市)」と名付けられた。
井伏は同年11月の徴用解除までの9ヶ月間、同地での任務に就いた。
この間に井伏に関する、あるいは見聞した大きな出来事は次の通りだが、本項では
特に「抗日華僑粛清」、「井伏が受けた叱責」、「新聞小説 花の街」について記す。
S17.2.19 英字新聞「昭南タイムス」の責任者を命じられ、翌20日、第1号を発行。 S17.2. 抗日華僑粛清で、広場に集結させられている何千人もの華僑を目撃。 S17.3.17 第二次徴用の神保光太郎、中島健蔵が到着、井伏と同じ宿舎になった。 S17.4.16 山下司令官に敬礼しそこなったことで、同司令官から強い叱責を受けた。 S17.4末頃 体調不良で「昭南タイムス」社解任を願い出て承認され退社した。 S17.5頃 「昭南日本学園」(神保光太郎が園長)に勤務し、6月、日本歴史を講義。 S17.7.1 山下司令官は第一方面軍司令官に転出。(S18/2、陸軍大将に昇進) S17.7.3 生家からの便りで兄(実家の当主)の死(2/21:47歳)を知る。 S17.7〜8 ボルネオ勤務の内命あるも、堺、里村らが志願して立ち消えとなった。 S17.8〜10 東京日日新聞、大阪毎日新聞に「花の街」(後に「花の町」と改題)連載。 S17.11.22 シンガポールで徴用解除
抗日華僑粛清(華僑虐殺事件)
井伏の徴用中、戦中の著作では、当然ながら全く触れられていないが、
戦後、「徴用中のこと」などにこの華僑虐殺事件のことを書いている。
中でも、「徴用中のこと 第28回」には次のようにある。少し長いが抜粋引用する
「あの事件は、思い出すたびに残念でならないのだ。粛清の始まる前の状況のうち、
私の記憶に残っているのは、何千人もの華僑が広場に集結している光景である。私は
昭南タイムス社へ通勤の行き帰りに、ところどころ広場でそれを見た。
(中略)
粛清の実施された直後のころ、私たちが現地で知った情報によると、補助憲兵たちは
あんまりたくさん無辜の民を粛清させられることになったので、空恐ろしくなって一部
だけ粛清して「もうこれで勘弁してくれ」と憲兵隊の者に謝ると、「駄目だ。上からの
命令だ。貴様たちは上官の命令に反くのか」と補助憲兵たちを叱りつけて無理やり
実行させたそうだ。粛清は広場で行われたとも云い、浜辺で行われたとも云い、また
ブラカンマチの印度人の燈台守が、何千人という犠牲者が後手に縛られて引船で
曳かれながら、次から次に機銃掃射されるのを見たそうだという噂もあった。戦後の
新聞で見ると、戦犯裁判で英軍側は、あの事件だけでも3万人の犠牲者が出たと
云い、日本軍は6千人の犠牲を出したと主張したそうだ。
粛清された人たちのうち、最年長者は78歳、最年少者は12歳であったという。」
そして、自身が見聞していない事件の背景や概要については、知人の篠崎さん
(注:篠崎護=シンガポール総領事館嘱託。井伏らにはジャーナリストと名乗り、
この粛清のとき、抗日派とは関わりない多くの華僑を処刑から救ったといわれる。)
の「シンガポール占領秘録」という著書や、戦犯裁判の記録などを引用している。
犠牲者の人数ははっきりしていない。日本軍がシンガポールを占領した2月に
約6,000人、その後を加えると19,000人にのぼり、マレー半島全体では
数万人の規模ともいわれる。(「図説 太平洋戦争」)
この事件のため、戦後の相当期間、シンガポールの対日感情は極めて悪かった。
現在は観光地として人気があり、日本からも多くの観光客が訪れているが
どれほどの人が、日本軍がもたらしたこの悲惨な事実を認識しているだろう。
山下司令官の叱責に・・「はい」
その日(S17.4.16)、宣伝班が発行している陣中新聞「建設戦 百号記念号」に、
北川冬彦の詩が載ったが、この詩が山下司令官の気に障った。怒った司令官は
早速に宣伝班の建物に来て班長(阿野中佐)を叱りつけた後、井伏のいる部屋へ
来たが、井伏は司令官が来ていることに気付かず、敬礼をしそこなってしまった。
司令官は怒った。井伏に向かって「軍人は礼儀が大事だ」と何回も怒鳴るように
叱った。井伏は「はい」と答えた。そして井伏は、「はい」と言った自分の声を
情けなく思った。それは私が自分の家庭で中学1年生の長男を叱るとき、「はい」と
答える長男の声そっくりであった。」と書いている。 さらに、このとき司令官に
付き従っていた10人ほどの将校たちの態度にも触れ、「司令官の孔雀の尾とはこの
手合いのことだ。こんなのが今度の戦争を拵えた。戦争したいなら、この人だけ鉄砲
かついで戦地へ来ればいい。」とも書いている。(「徴用中のこと 第29回 前篇終」)
この出来事は井伏にとって精神的に大きなショックだったのではないだろうか。
個人としての存在、人格、誇り、を軍人という国家権力の権化によって一方的に
踏みにじられ、何ら抗うことができずに愚弄された無念、悔しさが滲み出ている。
井伏は、この後間もなく、昭南タイムス社の辞職を願い出るが、このことが大きく
影響しているだろう。 戦後、多くの著作で触れていることもその証左と思う。
なお、戦後間もなく発表した「悪夢」は、標題が示すようにこの出来事がテーマで、
「徴用中のこと」の終章である「第29回 前篇終」(注:「後篇」は執筆していない)も
然りと言ってよい。両著作を比べると、後者の方に落ち着いた客観性が感じられる
のは著作時期の違いだろうが、ただ、気になるのは、叱責を受けるに至った場面の
具体的な状況(井伏の行動)が大きく異なることである。つまり、事実を書いている
はずなのだが、どちらか(両方ともか?)は井伏流の創作(嘘)なのである。
井伏の体験を題材にした随筆には、このようなケースが多々見られるのだが、
これは、文学的には些細なこと、取るに足りないことと割り切れるとしても、また、
作品の価値には無関係としても、作者の執筆姿勢、品性の面は如何だろう・・。
新聞連載小説「花の街」(後に「花の町」に改題)
井伏は、昭和17年8月から10月まで、50回にわたって東京日日新聞と大阪毎日新聞に
小説「花の街」を連載した。井伏によれば執筆依頼は旧知の大先輩阿部真之助(東大卒
:毎日新聞社役員、戦後はNHK会長を歴任)が井伏の苦境を察した助け舟だったという。
この作品は、日本軍政下のシンガポールの、ある家族の日常を、宣伝班の3人の日本人
(小説では木山喜代三、神田幸太郎、築地弁二郎だが、井伏自身、神保、中島がモデル)
との関わりで描き、戦争の最中ではあるが現地の市民たちは普通に、安穏に、平和に
暮らしているという様子を強調している。
この小説に限らず、戦中の井伏の現地報告的著作は、日本軍の占領地域の市民生活
について、秩序の安定、平和な暮らしを書いている。日本人、日本軍の将兵はいずれも
優しく、紳士的で、軍規は保たれ、住民に頼られるといった内容である。
井伏の著作は、検閲で「戦意高揚の気に乏しい」という理由で8割方は没になったのは
このような内容が多かった所為だろうが、井伏にしてみれば精一杯の戦争協力だった
はずだ。「結局、私は怠けたようなことになった。」(「旅館・兵舎」)と書いた所以だろう。
なお、井伏は、「花の街」連載を前に「作者の言葉」を掲載紙に載せ(S17/8)、
単行本「花の町」(S18/12)には「序」を書き、それぞれへの思いを表している。
また、「花の町・軍歌「戦友」」(1996:講談社)にある巻末の解説「花の町のまわりで」(川村湊)
では、この小説は未完である、としてその背景を記し、また井伏文学の一つのテーマは「言葉」
が通じ合わないことの悲しみである、としてこの小説における井伏の執筆姿勢を解説している。
徴用解除
昭和17年11月22日 徴用から丸一年、シンガポールで徴用解除になった。
飛行機でサイゴン、マニラ、台北経由で福岡に着き、帰京した。
気流が悪くてサイゴンで2日間待機したとある(「徴用中のこと 第7回」)ので、
東京・荻窪の自宅に寛いだのは11月27〜28日頃だろう。
小田や中村らは、船で帰国し、宇品港(広島)へ着いたのは12月9日だった。
年譜によれば、11月30日から太宰が連日のように訪れ、12月3〜4日頃は太宰と
熱海へ旅行し、8日には木山捷平が訪れ歓談、「石地蔵」の詩と色紙を渡している。
井伏が書いた、徴用中を総括するような一文があるので引用する。(「戦死・戦病死」:S38)
「私は徴用時代の自分を回顧して、山下将軍をはじめ、「校長先生」、「黒」、柳君、その他、
戦死、戦病死で亡き数になった人に対し、自分がまだ生きているからと云って、
寝ざめの悪い思いをするようなことはない。」
(註) 「校長先生」(呼び名)、「黒」(呼び名)、柳君(新聞記者)は、丁班の徴用員として
同じ輸送船に乗り、シンゴラに上陸した仲間だが、マレー半島で悲惨な最期を遂げた。
(単行本の刊行) 2月、「一路平安」(有光名作選集14) (有光社) 9月、「仲秋名月」 (地平社) 11月、「星空」 (昭南書房) |
「第三部:井伏鱒二」の先頭へ |
このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 | 井伏鱒二 略年譜 |
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【将棋会 第4期 休眠期 (S18〜S23)】の頃 (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”)
= 疎開(甲府・福山) - 帰京・文学再開 =
井伏鱒二(明31(1898).2.15 〜 平5(1993).7.10 享年95)
昭和18年(1943)、井伏 45歳。 徴用解除でシンガポールから無事帰国(S17/11)した。
徴用体験関連の執筆や講演活動などのほか直木賞選考委員就任もあり、多忙な日々
だったが、戦況は悪化し、昭和19年5月には家族を甲府に疎開させたが(自身は7月)、
その甲府で空襲に遭った(S20/7)。郷里の福山に再疎開して敗戦(S20/8)を迎えた。
戦後、東京への転入は諸事情によって直ぐにはできず、郷里で執筆や木山捷平ら
近隣の文学仲間との交流を続け、帰京(S22/7)とともに本格的な文学活動を再開した。
このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 | 井伏鱒二 略年譜 |
*戦時の活動 - 疎開
・・昭和18年・・ 直木賞選考委員 ・ 最後の「阿佐ヶ谷将棋会」 (45歳)
-「陸軍報道班員」-
徴用解除で帰国した作家らは、その見聞、体験を現地報告的著作にまとめたり、関係する
座談会に出席したり、当局の命令で日本各地で開催の講演会で講演したりと、多忙だった。
もちろん戦勝を願っての国民の士気高揚、一体感の醸成が目的だった。
「陸軍報道班員」という名称がある。これは組織としての正式な名称ではないが、
著者や講演者の肩書としては、「陸軍徴用員」とか「宣伝班員」よりも、一般国民に
一層の権威を感じさせるので軍部が使用を認めたようで、普通に使われていた。
井伏らは、情報局の命令で5月に甲府、諏訪、上田、高田の講演旅行に参加し、
7月には陸軍報道部の命令で千葉県下を10日程従軍報告したが、肩書きは
「陸軍報道班員」だっただろう。 著作では、随筆「ゲマスからクルーアンへ」など
著者肩書を「陸軍報道班員」と明記したものが少なくない。
このころの井伏の徴用体験に関する主な著作は既述の通りで、厳しい検閲の下で、
井伏なりに懸命に書き、井伏流で精一杯の戦争協力をしたといってよかろう。
-文学 ・日常-
戦局は、ミッドウェイ海戦敗北(S17/6)が転機となって悪化を辿り、この年(S18)に入ると
ガダルカナル島撤退(2月)、アッツ島守備隊全滅(5月)、以降、日本軍が占領した島々への
米軍の反抗上陸があり、12月には第1回学徒出陣、徴兵年齢1年引下げに至り、日本本土の
国民生活には苦しさが増していったが、気持の上ではまだ比較的落ち着きがあったようだ。
徴用体験報告とは関連が薄い井伏の主な文学活動や日常を年譜などで追ってみる。
S18/3月 | 第1回「マレー会」が開かれ中島健蔵、寺崎浩、栗原信、 里村欣三らと集う。(以降、年1回開催の会となる。) |
4月29日 | 塩月赳の結婚式(目黒 雅叙園)に夫婦で出席。 |
5月13日〜7月31日 | 「ひかげ池」を<中部日本新聞 夕刊>に連載。 |
6月13日〜8月1日 | 「御神火」を<週刊少国民>に連載。 |
7月 | 中山義秀の南方従軍歓送会に出席。 |
7月25日 | 故田中貢太郎記念碑(高知・桂浜)除幕式に出席。 |
8月2日 | 第17回(S18上期)直木賞選考から選考委員を委嘱された。 他の委員は、吉川英治、大仏次郎、岩田豊雄、浜本浩、 中野実だった。 井伏は、以降、第38回(S32下期)まで務めた。 |
8月6日 | 田端修一郎の告別式に参列。 |
8月23日 | 第2回「大東亜文学者決戦大会」出席者招待会(朝日新聞社)に出席。 同26日、本会議に出席、 同27日、陸軍士官学校見。 |
10月1日 | 「吹越の城」を<文芸読物>に発表。 |
10月12日 | 甲府の岩月英男が来訪。井伏家族の疎開に関して話した。 |
10月19日 | 神保光太郎の「昭南日本学園」の会が銀座であり出席。 |
11月3日 | <早稲田文学>10周年記念祝賀会が開かれ出席。 |
11月23日 | 三男誕生 |
特記すべきは、直木賞選考委員に就いたことである。第17回(S18上期作品が対象)と
第18回(同下期作品)については選考委員会に出席し、選評を書いている。
(選考委員、選考状況、受賞作や各委員の選評などは次のサイトを参照下さい。)
参考サイト | 直木賞情報の決定版 | 直木賞のすべて |
(単行本の刊行) 12月、「花の町」を刊行(文芸春秋社) (新聞連載の小説「花の街」を改題、併せて日記「南航大概記」を収録) |
-阿佐ヶ谷将棋会-
話は遡るが、シンガポール陥落の10日前、井伏が、クルーアンで言葉がよく通じない
マレー人のボーイに火を消して帰るよう頼んだら、薪をくべて帰ってしまったその日、
東京では、阿佐ヶ谷将棋会の “御嶽ハイキング” が行われていた。(S17.2.5)
太宰、青柳、木山、浜野、上林、安成ら7名が、御嶽駅に近い蕎麦屋「玉川屋」で
酒食と将棋を楽しみ、徴用中の井伏、小田に寄せ書きをした。この寄せ書きは、
「青柳瑞穂の生涯 -真贋のあわいに‐」(青柳いづみこ著:新潮社)によれば、
シンガポールの井伏の許に無事届いたという。軍事郵便使用の葉書に書かれた
井伏の礼状が残っているとのこと、多分、青柳瑞穂あてに書いたものだろう。
(“御嶽ハイキング” については、別項に詳記)
徴用解除で帰京後は、阿佐ヶ谷将棋会仲間との親交が復活した。将棋会という組織的
な集まりは時節柄無理だったようだが、個人的に行き来して将棋に酒にと活発である。
松本武夫著「井伏鱒二年譜考」の昭和18年の8月から11月の項は特に詳細だが、
本書は巻末に、その情報源(=井伏の日記本体)について詳記している。
ここから、「将棋を指した」という記述のある部分を抜き出す(要約)と・・
(S18) | |
8/16 | 亀井勝一郎を訪ね将棋、6:2で勝つ。 2人で外出して酒屋で飲む。 |
8/17 | 小沼丹が来て将棋を指し大勝する。 |
8/24 | 太宰治が来て将棋を指す。 |
8/31 | 亀井勝一郎のところに行き将棋を指し、その後吉祥寺の小さな店 に案内されて飲んでいると太宰治が友達を連れてきた。 |
9/10 | 亀井勝一郎と太宰治と将棋を指し、荻窪で飲み自宅で飲んだ。 |
9/15 | 昭南書房が来た。 将棋をさした後、共に阿佐ヶ谷で飲んだ。 |
9/17 | 竹村書房が新しい記者を連れて来た。 将棋を指し全勝。 |
9/19 | 平野零児の事務所で終日将棋を指す。 |
9/20 | 田岡典夫が来訪し、将棋を指した。 |
9/21 | 亀井勝一郎と散歩し、青柳瑞穂宅を訪ねる。 |
9/22 | 亀井勝一郎が来て将棋を指しているところへ石井桃子が来た。 |
9/24 | 昨夜、亀井勝一郎を訪ね吉祥寺の酒店に行き太宰治に会った。 終電に乗り遅れ亀井宅泊。 |
10/15 | 自転車で散歩の途中、上林暁の家に寄って将棋を指した。 |
10/21 | 太宰治と亀井勝一郎が訪れ将棋を指す。そこへ上林暁が来た。 一緒に外出し、”ささや”に行き伊馬鵜平、小山祐士に会う。 |
11/10 | 木山捷平が訪れ、将棋を指す。 |
・・昭和19年〜昭和20年・・ 疎開生活:甲府→福山 : 敗戦 (46歳〜47歳)
昭和19年に入ると、敗退を続ける戦況で国民生活の苦しさは深刻化する。-文学活動-
昭和19年になると徴用関連の著作は激減し、講演もなく、目立つのは日本文学報国会からの派遣-甲府へ疎開-
井伏は、前年(S18)10月に甲府の知人(岩月英男)と疎開の話をしている。夫人の出産のこともあり、
疎開実行が早かったのだろう。(11月:三男誕生)。 5月(S19)には夫人と子供4人が山梨県の甲運村
(現甲府市中部、石和温泉近く)の岩月家離れ(祖母の隠居所)の1階に住み、井伏自身も7月に移った。
留守になった井伏宅(杉並区清水町)には、岩月英男氏や井伏の身内の大学生らが住んだが、
この疎開の話には、岩月氏が東京で生活するための家が必要になったという事情もあったようだ。
井伏としても、東京に近くて便利なこと、山に囲まれた鄙びた地域なので空襲はないと考えたようだ。
井伏夫人によれば「食料がなくて大変な時期だったけれど、久満さん(岩月家の祖母・隠居所の2階に
住む)の後ろについて近所を回ると、久満さんの顔でいろいろな食べ物が手に入るので助かった」
とのことで、岩月家(当主は瓦工場を営む岩月由太郎氏)の世話になって平穏な疎開生活だった。
甲運村に近い善光寺町に、第19回芥川賞(S19上期)を受賞した小尾十三が住んでいて、
井伏は受賞の秋に横光利一とともに葡萄狩りに招かれ、疎開中は小尾を度々訪ねた。
敗色漂う戦時下だが、大空襲があるとは思いもしない甲府盆地での静かな時間だった。
-甲府の井伏と太宰-
・太宰は疎開先の井伏を何回か訪ねている。6月25日(S19)には、午前中に小説「津軽」百枚を書き-甲府大空襲、福山へ再疎開-
岩月家の隠居所、つまり井伏一家が疎開中の家は、軍の宿舎に提供するよう命令があった。
井伏は、一家で福山の実家に再疎開するため7月6日(S20)に甲府駅へ切符を買いに行った。
ところが、その7月6日の夜半から甲府市とその周辺はB29編隊による大規模空襲を受け、
市街地の7割以上が灰燼に帰した。甲府駅に近い旅館「梅ヶ枝」も被災したが、
学童疎開中の小学生たちは・・、その日からここまで70年の歳月が流れている。
甲運村で井伏らが逃げた裏山の葡萄畑にも焼夷弾は落ち、危険な状態だったという。
市街地に近い妻の実家にいた太宰ら家族は、命は無事だったものの家は焼失した。
参考サイト | 総務省: 一般戦災ホームページ | 甲府市における戦災の状況 |
井伏と太宰の家族は再疎開を余儀なくされ、井伏は7月8日に太宰に会って福山行の切符を受け
取って甲府を発った。(井伏が6日に買った切符は何らかの事情で太宰が持っていたのか?)
太宰一家も間もなく、7月28日に甲府を発って青森県の生家(金木町)へ向かった。
-敗 戦-
井伏も太宰も、再疎開で郷里へ辿りつくまでの家族の苦難の道中を随筆や小説に書いている。
井伏の「疎開日記」(S23/3)には、昭和20年7月10日として次のようにある。
「七月十日 甲府から広島県に再疎開。妻子を連れ八日午後一時、日下部駅発、中央線経由にて
名古屋より京都に至り、大阪空襲中の故をもって山陰線を選び、万能倉駅に下車、午後十時
生家に着く。道中、上諏訪と大津でも警報。山陰線に至り空腹しきりなるものであった。
鳥取駅ではプラットホームに野宿。蚤多く海風寒く不眠。子供たちは疲労のため熟睡。」
(注: 日下部駅は現山梨市駅、万能倉駅は福塩線の駅で井伏の生家(粟根)の最寄り駅。)
8日に甲府を発って2泊、10日夜の到着である。なぜ甲運村からは遠い日下部駅から発った
のか、鳥取駅のほかどこで1泊したのか、鳥取駅からどの経路を通って万能倉駅に
着いたかなど詳細は不明だが、幼子を連れた親子5人の道中はどんなにか難儀だったろう。
太宰は、空襲と青森行きの車中を題材に小説「薄明」(S21/12)と「たずねびと」(S21/11)
を書いた。 両者の著作が示す戦争の酷さ、弱者の惨めさにやりきれない思いがする。
そして、その1ヶ月後、8月6日に広島に原爆投下、8月8日深夜には福山市と周辺地域にB29の
大規模空襲があった。井伏のいる粟根は直撃を免れたが、市街は8割を焼失した。井伏は裏山に
登って燃える市街を遠望し、10日に遠望図を記した。同日記に「業火とはこのことだろう。」とある。
参考サイト | 福山市ホームページ | 福山空襲の実相と平和 |
同日記に、「陛下の御放送拝聴。ラジオの調子わるく不明なりしは残念なり。」とある。
同日記にある日付は「8月14日」で明らかな誤記だが、「8月16日」に「日づけを間違っている
ような気もする。新聞が何日も来ないのでよくわからない。」とあり、当時の混乱振りが窺える。
この直後に福山市内を訪れ、カキツバタの狂い咲きを見た。後に随筆「カキツバタ」(S26/6)を
書くが、戦後、昭和20年中は新しい作品の発表はない。
(単行本の刊行) S19/ 3月、小説集「御神火」(表題小説など7篇:甲鳥書林) S20/ 10月、「丹下氏邸」 (新潮社) 旧作の小説2篇(「丹下氏邸」)と「集金旅行」)を 収めているが、目次はなく、奥付に「臨時出版」とある。 |
*戦後 - 活動全開 - 太宰との別れ
・・昭和21年〜昭和22年・・ 福山生活、そして帰京(48歳〜49歳)
別記したように、文壇や出版界は終戦直後から活発に活動を始めた。紙不足状態は続いたが、
雑誌の復刊、創刊が相次ぎ、翌21年には一挙に増加、昭和23年前半頃までその勢いが続いた。
井伏は、敗戦後、年内は新しい作品を発表していないが、翌21年以降、文学活動は全開した。
一方、木山捷平ら福山の近くに住む文学仲間との交流を深めながら帰京の機会を窺い、
昭和22年7月、甲府-福山での3年間の疎開生活を終り、荻窪(清水町)の自宅に戻った。
-執筆・発表-
昭和21年の井伏は、1月号の<オール読物>に「病人の枕もと」を発表、さらに、「契約書」(S21/2-5)、 (単行本の刊行) S21/ 3月 小説集「雨の歌」 (「山椒魚」など4篇:飛鳥書店) 7月 小説集「オロシャ船」(表題作など7篇(再版発行):新星社) 7月 「鶏肋集」(表題作(自伝)と小説「川」:鷺ノ宮書房) 10月 小説集「まげもの」(「吹越の城」など8篇:鎌倉文庫) 11月 長編小説「多甚古村」(札幌青磁社) 12月 小説集「侘助」(表題作など3篇:鎌倉文庫) 12月 随筆集「風貌姿勢」(三島書房) S22/ 2月 詩集「仲秋明月」 (手帖文庫第二部16:地平社) 2月 随筆集「夏の狐」(三島書房) 4月 小説集「ジョン万次郎漂流記」(表題作など6篇:文学界社) 4月 小説集「追剥の話」(現代作家選4:表題作など5篇:昭森社) |
-文学仲間との交流-
福山で・・ 昭和21年8月26日、木山捷平が満州から岡山県の実家(現笠岡市)へ引き揚げてきた。S22.1.7 (笠岡) 小山祐士、木山捷平、村上菊一郎、藤原審爾、古川洋三。 S22.2.20 (三原) 小山祐士、木山捷平、村上菊一郎、大江賢治、藤原審爾、木下夕爾、 古川洋三、高田英之助、田辺、竹本。 S22.3.25 (倉敷:藤原審爾宅に1泊) 木山捷平、村上菊一郎、赤松月船。 S22.7.2 (笠岡) 小山祐士、木山捷平、村上菊一郎、古川洋三、高田英之助。 ・古川洋三(岡山県:M43(1910)〜H9(1997))- 第54回(S40下)直木賞候補。 ・大江賢治(鳥取県:M38(1905)〜S62(1987))-「絶唱」(1958)はベストセラー。映画化。 ・高田英之助- 井伏の福山の後輩で、新聞社時代に甲府で太宰の再婚に関わった。文学活動もした。 |
参考サイト | 文学碑「黒い雨」 (神石高原町(じんせきこうげんちょう) |
東京で・・ このころ、井伏は再三にわたり上京した。自著の刊行、発表が続いた関係だろうが、
在京の文学仲間との交遊も復活し、東京転入の機会を窺っていた。
東京では、阿佐ヶ谷将棋会メンバーの浅見・外村・上林・亀井が瀧井孝作を立てて新雑誌の創刊
を企画し、曲折を経たが瀧井が<素直>と命名して昭和21年4月創刊に決めた。井伏は上京の折に
この創刊への協力を求められたのだろう。「追剥の話」は、この創刊号に発表したのである。
この<素直>創刊号の発行は、実際には遅れて「9月」になったが、奥付には「7月」とあるので、
一般には「7月創刊」とされる。 また、井伏の年譜には、「外村は井伏・太宰・小田らと参加」と
あるが、当事者浅見の「昭和文壇側面史」によれば、むしろ中心者で編集同人の一人である。
(この<素直>のことについては、別途、浅見と外村の項に詳記する。)
井伏が家族とともに東京へ戻ったのは昭和22年7月である。早い時期に戻りたかったようだが
東京への転入には制約があって遅くなったとか。太宰は前年(S21)11月に三鷹の自宅に
戻っている。 井伏の場合、公的な制約だったのか、井伏の事情によったのか・・未詳である。
-帰京:「井伏鱒二選集」発刊決定-
甲府−福山での3年余にわたる疎開から家族とともに帰京(S22/7)、荻窪駅に下りた時の様子を
「転入第一日目」や「荻窪風土記−荻窪」にユーモラスに書いている.。感慨一入であったろう。
年譜に「夏」とあるので、帰京直後の7月か8月のこと、このころ太宰が親しくしていた山崎富栄
(翌23年6月、太宰と玉川上水で心中死)の部屋に、井伏、古田晁(筑摩書房社長)、臼井吉見、
石井立(筑摩書房)、太宰らが集まって「井伏鱒二選集」編纂の打ち合わせを行った。
この刊行は、太宰が筑摩書房に働きかけた企画で、全巻の解説を太宰が担当することに
決まった。(実際には、太宰が翌年6月に心中死したため、5巻以降は上林暁が担当した。)
太宰が井伏への恩返しの気持を込めた企画ともいわれるが、この時点ではまだ両者の関係、
あるいは太宰と戦前の将棋会仲間など旧知との関係は良好だったのだろうか?
(太宰は井伏や旧知との交遊を避けるようになるが、このことは「太宰治の項」に詳記した。)
井伏は、帰京後も、執筆だけでなく刊行・講演・座談会など多忙な日常が続いた。
荻窪にある魚屋「魚金」の二階の一室を借りて仕事部屋にした。(S25頃まで)
・・昭和23年・・ 阿佐ヶ谷将棋会の変身 と 太宰との別れ(50歳)
-「将棋」を抜いて「阿佐ヶ谷会」-
阿佐ヶ谷将棋会は、昭和23年に将棋抜き、専ら飲んで雑談をする「阿佐ヶ谷会」に変身して復活した。
(詳細別記) 井伏が帰京して最初に迎えた正月の4日(推定)に、井伏、上林、亀井、青柳、など8名が
青柳宅に集まり、この席で、高田(現上越市)に疎開中の小田嶽夫あてに寄書きをした。原稿用紙6枚
に各人が認め、井伏がそれを郵送した。井伏は、「小田嶽夫様 ハウ・アー・ユウ」 と書いている。
次いで、「久々で阿佐ヶ谷会をひらきます」旨の案内ハガキが井伏鱒二、青柳瑞穂、加納正吉の
連名で発送され(消印は昭和23年1月30日)、戦後の阿佐ヶ谷会の復活がはっきりする。
この時も会場は青柳宅で、笠岡市(岡山県)に疎開中の木山捷平あてに寄書きをした。
安成、井伏、外村、上林、青柳、亀井の6名とほか5名の11名が原稿用紙5枚に認めた。
井伏は、「げいじゅつをやれ」 と書いている。
この後、この年は、7/10、8/22、9/7、9/29、12/13 と開催され(「阿佐ヶ谷会 文学アルバム」より)、
著名な新会員が加わったりで、以降20年余にわたり盛会が続くが、中心人物はやはり井伏だった。
-太宰との別れ-
昭和23年の元日に太宰が年始挨拶に訪れたが、このころには、井伏と太宰の関係は明らかに
以前とは違っていた。太宰が進めた「井伏鱒二選集 第1巻」の刊行は目前だったが(3月発行)
井伏自身も、太宰との親しい交遊は甲府までで、戦後は3回しか会っていないと書いている。
詳しくは、別途、太宰の心中の項で触れるが、太宰は井伏を避けていたのである。
特に太宰は旧知の煩わしさからか、阿佐ヶ谷会メンバーとの交遊もほとんど断った。
阿佐ヶ谷会復活に繋がる正月の会合や2月2日の阿佐ヶ谷会には出席していない。
そして6月13日、太宰は山崎富栄と三鷹の玉川上水に入水、心中死する。遺体は太宰の39歳の
誕生日にあたる6月19日に発見され、自宅において通夜(20日)、告別式(21日)が行われた。
葬儀委員長は豊島與志雄、井伏は葬儀副委員長を務めた。
遺書と思しき文言の一部に 「井伏さんは悪人です」 とあり、当時から種々に取り沙汰され、
近年も関連の論考が発表されているが、戦後、特に太宰に何が起きたのか、井伏との関係は
どんなだったのか、何が太宰に心中の決意をさせたのかなどは、次の「特集編」に詳記した。
特集編 「太宰治 :玉川上水心中死の核心(三重の要因)」
太宰の死の直後、「斜陽」の印税に関して太田静子から要請があり、友人ら関係者と相談の結果、
井伏、伊馬春部、今官一とが、7月31日に太田静子の自宅(下曾我)を訪ね問題解決にあたった。
(井伏著「下曾我の御隠居」(S58/6)) 太宰は没後までも、井伏頼みだった・・。
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それにしても、井伏は、何故 これほどまでに太宰の人生に深い関わりを持ち続けたのか?
太宰の生家、兄文治の側にも都合があったという背景が考えられなくもないが、
仮にそうだったとしても、井伏が太宰の文学的才能を認めたからとしか察しようがない。
ちなみに、津島文治は、後に次のように語ったとある。(月刊「噂」(S48/6))
「井伏さんといえば、一部の方たちは私が若い頃から井伏さんのお書きになるものを
愛読していたので、”弟修治をよろしく頼みます”という手紙を出して指導をお願いした
のではなかろうか、と考えていらっしゃるようですが、そのような事実は無かったと
記憶しております。やはり、修治が一番先に、井伏さんのご人格、文筆力といった
ものに引かれ、ついで中畑君、北(芳四郎)君が「頼みます」と強引に修治を
お願いしたというのが順序です。」
(月刊「噂」(S48/6)は、「特集 ”保護者”が語る太宰治」 を載せている。)
・中畑慶吉 「女と水で死ぬ運命を背負って」
・津島文治「肉親が楽しめなかった弟の小説」
(いつ、どこで、誰に語ったのかは記載なし)
また、井伏節代(夫人)は、後に次のように語っている。(井伏鱒二著「太宰治」
(2018/7:中公文庫:巻末インタビュー(1998・齋藤慎爾)より)
「井伏は太宰さんを本当にかわいがっていました。「もうあんな天才は出ない」と、その
死をくやしがってもいました。(中略) 太宰さんの葬儀のとき、自分の子供が死んでも
泣かなかった井伏が、声を上げて泣いたことを河盛好藏さんがお書きになっています。
(中略) 私にとって井伏を思うことは、太宰さんを思うことでもあります。」
井伏の関わりがなければ、作家「太宰治」は存在しなかったといっても過言ではなかろう。
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「井伏さんは悪人です」 と 井伏鱒二の小説 「薬屋の雛女房」(S13/10) について
井伏は、太宰のパビナール中毒を題材にした短編小説「薬屋の雛女房」(S13/10:<婦人公論>)を
発表した。太宰のパビナール購入と入院を揶揄したような場面があり、退院までを書いている。
<婦人公論>の “ユーモア読物特集”の一篇として掲載され、特に注目されることもなかったが、
近年、この作品が戦後における太宰と井伏の訣別の主因ではないかとの考察が行われている。
*川崎和啓「師弟の訣れ −太宰治の井伏鱒二悪人説−」(1991/12:<近代文学試論>
・猪瀬直樹「ピカレスク 太宰治伝」(2000/11 小学館) (川崎説をそのまま取り入れ)
・加藤典洋「太宰と井伏ーふたつの戦後」(2007/4 講談社) (川崎説を紹介、自論展開)
*参考サイト | (広島大学) 川崎和啓「師弟の訣れ−太宰治の井伏鱒二悪人説−」 |
川崎説・・ 「昭和22年の夏頃、太宰が企図した 「井伏鱒二選集」 の発刊が決まり、
太宰が全巻の「後書」を書くことになった。この関係で太宰は過去の井伏作品を
再読し、「薬屋の雛女房」 を目にした。 初見だった可能性があり、
その内容に驚愕、激怒し、井伏への信頼は強い不信に変わった。
(「薬屋の雛女房」は 初出後、小説集「禁札」(S14/3)に収録された。この時期は、
太宰は、井伏の誘いで御坂峠にこもり、美知子と結婚して甲府に住み、東京との
関係が希薄になっていたことから、これらを読んでいなかった可能性は十分ある。)
それが昭和22年夏頃からの井伏嫌忌となり、その暮には志賀直哉と同列の<悪人>と
みなす意識になっていた・・。井伏との訣別、遺書の文言「井伏さんは悪人です」は、
この作品を読んだことに発している」 という考察である。
なお、この作品と川崎の考察に関しては、次の別項目に詳記した。
太宰治「井伏さんは悪人です」は「井伏鱒二『薬屋の雛女房』が主因か?
-文学活動など-
この年は、井伏にとって、太宰が主導した「井伏鱒二選集」発刊から、心中死、太田静子のことなど、 (単行本の刊行) S23/ 5月、小説集「引越やつれ」 (表題作ほか近作など5篇:六興出版部) 5月、詩・随筆集「詩と随筆」 (河出書房) 8月、長編小説「貸間あり」 (鎌倉文庫) 12月、小説集「山峡風物詩」 (表題作ほか近作など4篇:陽明社) 12月、児童向け長編小説「シビレ池のかも」 (小山書店) (選集・全集の刊行) S23/ 3月〜12月、 「井伏鱒二選集 第1巻〜第5巻」 (筑摩書房) (全9巻中、第6巻〜第9巻はS24/2〜9月刊行) (文庫本の刊行) S23/ 1月、小説集「夜ふけと梅の花」 (新潮社) |
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このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 | 井伏鱒二 略年譜 |
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「井伏鱒二」 の項 主な参考図書 「井伏鱒二全集 別巻2」 (2000 筑摩書房) から 『年譜』(寺横武夫)・ 『書誌』(東郷克美)・ 『著作目録』(前田貞昭) 『井伏鱒二全集 第7巻 -日記抄』 (井伏鱒二著 1997 筑摩書房) 『井伏鱒二全集 第12巻 -亡友』 (井伏鱒二著 1998 筑摩書房) 『井伏鱒二全集 第10巻 -旅館・兵舎』 (井伏鱒二著 1997 筑摩書房) (この第10巻は、S17/3〜S20/6発表の著作55編などを所収(底本明記)) 『鶏肋集 半生記』 (井伏鱒二著 1990 講談社)から (題名の字「鶏」は、正確には「奚」の右側に「隹」の字) 『半生記』、『南航大概記』、『旅館・兵舎』、『犠牲』、『戦死・戦病死』 『花の町 軍歌「戦友」』 (井伏鱒二著 1996 講談社)から 『花の町』、『悪夢』、『徴員時代の堺誠一郎』、『アブバカとの話』 『井伏鱒二年譜考』 (松本武夫著 H11 (株)新典社) 『酔いざめ日記』 (木山捷平著 S50 (株)講談社) 『覆刊月刊随筆博浪沙 付録 -回想の博浪沙-』(田岡典夫記 S56) 『小津安二郎名作映画集10+10 第6巻 彼岸花+東京の合唱』 (小学館DVD BOOK 2011.5.31 小学館) 『中村地平全集 第3巻 -将棋随筆(S13/12)』(中村地平著 S46/7 皆美社) 『外村繁全集 第6巻 -将棋の話』(外村繁著 1962 (株)講談社) 『井伏鱒二の軌跡』 (相馬正一著 1995/6 津軽書房) 『続・井伏鱒二の軌跡』 (相馬正一著 1996/11 津軽書房) 『太宰治と井伏鱒二』 (相馬正一著 S47/2 津軽書房) 『評伝太宰治 上巻』 (相馬正一著 1995/2 津軽書房) 『ピカレスク 太宰治伝』 (猪瀬直樹著 2000/11 (株)小学館) 『井伏鱒二選集 第2巻 -解説』 (太宰治記 1948 筑摩書房) 『太宰治』 (井伏鱒二著 1989 筑摩書房) 「花万朶」 (安成二郎著 S47 (株)同成社) から 『人生の二次会の井伏鱒二君』 (S6.2.6) 『井伏鱒二と交友した文学者たち』 (ふくやま文学館発行(2000/3)) 『井伏鱒二と太宰治』 (ふくやま文学館発行(2001/10)) 『阿佐ヶ谷文士村』 (杉並区立中央図書館発行(1993/2)) 『阿佐ヶ谷界隈の文士展』 (杉並区立郷土博物館発行(平成1年)) 『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』 (杉並区立郷土博物館発行(平成12年)) 『図説 太平洋戦争』 (池田清編 太平洋戦争研究会著(増補改訂・2005/4)) 『戦争の横顔―陸軍報道班員記-』 (寺崎 浩著 1974 (株)太平出版社) |
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