“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像 |
このころ・・ 時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 |
*五高 - 東大 : <風車> ---
父は高知県出身で元東宮侍従武官。三郎は広島県呉市で生まれた。
五高(熊本)から東京帝国大学英文科へ進み、昭和3年(24歳)に卒業した。
在学中の昭和2年5月、五高出身の英文科学生による同人誌<風車>創刊に参加した。
発足時の同人は、秋沢、上林暁(本名徳廣巌城)、森本忠、永松定ら10人である。
秋沢は小説「三人の先生」を発表(S3/11)、名人気質の手堅い作風を示した。
(以上は「日本近代文学大事典」に拠るが、同窓の森本は「上林暁全集 第一巻月報」に
「秋沢、上林、森本は同時に東大を卒業」と書いている。昭和2年3月卒業が正しかろう。)
森本は、卒業(S2/3)で上林の改造社入社が決まった時のことを次のように書いている。
「上林は長野県屋代中学へ赴任する契約ができていたのを、私に譲ろうと言ったが
私は断った。その時横合いから秋沢三郎がおれが行こうと言いだした。上林と同じく
藤村崇拝だった秋沢は、小諸に近いということで心が動いたらしい。」(前述月報)
当時の若き秋沢の微妙な心境が伝わるが、実際に屋代中学へ行ったのか、それとも
思わぬ事情で留年したのか・・・とすれば、秋沢の人生の大きなアヤの一つだが・・・。
上林暁の小説「「風前の灯」の中心人物”若松”は秋沢で、他に永松、森本らも実名ではないが登場する。
そこには、「若松は卒業するとすぐに田舎で3年勤めて東京へ帰った。」と記され、また「入社試験」という
一文には、「自分に代わって友人が行った。」とある。ほぼ事実を書く上林の私小説であることから、
秋沢は昭和2年に東大を卒業し、上林に代わり屋代中学に奉職、3年後に東京へ帰ったのではないか。
<風車>はプロレタリア文学の席巻に耐え、純文芸雑誌としてほぼ4年、この時期としては長く
続いた(S6/1まで)。この間、秋沢がどこに住み、どのような生活をしていたかは不祥だが、
上林(改造社勤務)、森本、永松などとともにその発行に携わっていたことは確かである。
特に上林とは親しく、後に(S11)、上林が阿佐ヶ谷に住むに際して借家探しに一役買った。
昭和6年1月に、伊東整の編集で外国文学の翻訳に力点を置いた季刊雑誌<新文学研究>
が創刊されたが、秋沢はそこに「小説に於ける実験」(J.D.ベレスフォド著)を翻訳している。
*同人活動 : 人脈拡大 ---
昭和初頭のこの時期、同人の集散などで雑誌の創刊、廃刊は盛んに続いていた。
<風車>は伊藤、福田清人らの<文芸レビュー>に合流して<新作家>(S6/4)となり、
さらには<新文芸時代>創刊(S7/1)となるが、秋沢はこの流れの中で活動していた。
<風車>は4年で通巻34冊に達しており、新たな展開を期しての新同人結成だっただろう。
小田、村上の前著によれば、このころ伊藤、福田は有望新人視されていて、かって
「横光・川端」と併称されたように、「伊藤・福田」という言葉がよく使われていた。
当時、二人は中央線中野駅に近い鍋屋横丁(通称ナベヨコ:現在では地下鉄新中野駅
が近い)に住み、そこには中野界隈に住む永松、瀬沼茂樹、阪本越郎ら多くの文学青年
が集まって飲み、かつ談ずる「中野会」があったという。秋沢も参加していたやに思える。
昭和11年6月に<文学生活>が創刊されるが、これは<木靴>と<新文芸時代>の同人の
合同話がまとまったもので、翌12年6月まで続いた。小田が前著に記した同人の名は、
秋沢、浅見淵、青柳瑞穂、伊藤、井上幸次郎、尾崎一雄、小田、上林、川崎長太郎、
衣巻省三、蔵原伸二郎、古木鉄太郎、小山東一、佐々木英夫、杉本捷雄、田畑修一郎、
外村繁、十和田操、中島直人、永松、那須辰造、丹羽文雄、福田、古谷綱武、森本
で、3号から井伏も加わっている。阿佐ヶ谷界隈の住人が多く、また”将棋会”のメンバー
の多さが目を引く。 なお、この創刊号に小田は「城外」を発表して芥川賞を受賞した。
・・・・・ <木靴>と<新文芸時代>のこと ・・・・・
<木靴>の母体は<世紀>である。昭和9年4月に<青空>(T14/1〜S2/6)の外村、中谷孝雄、
淀野隆三ら、と<小説>(S8/3〜S8/9)の浅見、尾崎、丹羽ら、と<麒麟>(S7/8〜S8/9)
の田畑、小田、緒方隆士、蔵原、川崎、青柳、古木ら、とが合流して<世紀>を創刊した。
ところが、翌10年3月、<世紀>創刊を推進した中谷が緒方とともに同人の強い反対を押し
切って保田与重郎、亀井勝一郎らと<日本浪曼派>を創刊し、さらに淀野も加わったので、
<世紀>は解散し、同年10月、<木靴>を創刊した。同人は、浅見、尾崎、小田、川崎、古木、
杉本、田畑、外村、丹羽(以上<世紀>)と中島の10名で、全員が小説家志望であった。
翌11年2月まで続いて<新文芸時代>の同人と合同して<文学生活>となったのである。
一方、<新文芸時代>の方は、昭和7年1月創刊だが、同年10月(全10冊)で終わっていた。
同人は旧<文芸レビュー>(S4/3〜S6/1)の伊藤、瀬沼、川崎昇ら、と旧<風車>
(S2/5〜S6/1)の上林、秋沢、永松、森本ら、などで27名だった。(浅見の項に関連表)
高見順が「昭和文学盛衰史」に、「昭和文学盛衰史は同人雑誌盛衰史の観を呈する」と
書いているが、昭和初期における文学青年たちの活動ぶりがここに見えるのである。
井伏は ”メダカは群れたがる 結構!” と表現した。(「荻窪風土記 -文学青年窶れ-」)
高見は続ける。「文学史には姿を現さないけれど、文学の上には姿を現した人々、その多数の
かっての新作家乃至作家志望者、それに私は心を惹かれるのである。自然同人雑誌に目が
そそがれるのだが、同人雑誌で美しい花を咲かせた人々も、その多くは実を結んでいない。
早く美しい花を咲かせた人ほど脆いようである。そういうことに私は心を惹かれるのである。」
秋沢も、高見がこうした意味で心を惹かれた一人かもしれないが、同人時代の苦労や
人脈は、秋沢の場合には、戦後、産経新聞社の文化部長として実を結んだといえよう。
*阿佐ヶ谷には何時から?
小田は前著に、秋沢とは昭和8〜9年頃に親しくなったこと、阿佐ヶ谷駅そばの秋沢の家は
文学仲間の溜り場のようだったこと、自分も秋沢を通じて人脈が広がり、伊藤の家へ
最初に行ったのは秋沢、森本らと一緒だったことなど、秋沢との交友ぶりを書いている。
昭和8年11月7日の木山捷平の日記には、「酔っ払って高円寺のヤタイにきて、塩月、
新庄、石浜、秋沢(合流)と朝を迎える。帰途、馬橋の駐在所で秋沢と石浜が、(後略)。」
といった記述がある。このころには秋沢も阿佐ヶ谷の住人であったことが窺える。
確かなのは、結婚した秋沢は昭和9年ころからしばらくの間は阿佐ヶ谷駅南口すぐ近く、
荻窪寄りの小踏切そばにある1階、2階各1間の小さな借家に住んでいたことである。
妻は画家を志した桜井浜江(後出)である。村上は前著で桜井本人から話を聞いている。
当時の文学青年の交友の雰囲気がよく現れていると思うのでそれを引用する。
「2階にはたいてい4,5人の友達がみえていました。まあ集まって特別なにをするというのじゃないのでしょうが、
みなさん勤め人じゃないですから、二重まわしとか、二重とんびの着流しで、いつもブラブラしており、
下駄などちびたのはいてですね。もちろん、これは恥ずかしいことじゃなく、かえっていばっているんです。」
「いらっしゃるのは、ときに夜遅いこともありました。そんなとき酒屋を起こして酒を買ったこともありましたね。
2階には1升びんが部屋いっぱいになることもありました。」
阿佐ヶ谷駅前というこの家は訪問するには絶好の位置にあたり、文学仲間の
溜り場になっていたようで、桜井の苦労も並大抵ではなかったことが窺える。
桜井によれば、この後、夫婦は馬橋(阿佐ヶ谷と高円寺の中間辺り)へ移り、そこへ
井伏も来ることがあって、「奥さん、庭というものはきれいにしとくもんですよ」と言った
という。桜井は井伏をこわい人だなと思ったそうである。(村上前著)
木山の昭和12年11月30日の日記に「秋沢が今度引越した高円寺5丁目の家を探して訪ねる。」 とある。
また、毎日グラフ(S28/11/11)に「昭和13年5月に阿佐ヶ谷4丁目の秋沢宅で将棋大会」という記事が
あるとのこと。 阿佐ヶ谷駅南口→馬橋→高円寺5丁目→阿佐ヶ谷4丁目と立て続けに引越したようだ。
この馬橋の家というのは、檀が「孤独者」(後出)に書いた“秋沢の親類の留守宅” に違いない。
なお、上林の「北京の友へ」(掲載紙不明:S14/2/23号)と題する手紙文には「君が東京駅を発ったのは
去年4月」とある。 君=秋沢、去年=昭和13年なので5月に秋沢宅で将棋大会というのは疑問である。
”将棋会” 参加 ・・・、秋沢は昭和8年頃には阿佐ヶ谷界隈に居て、木山、小田らとの親交
があったとみていい。小田は「家賃の取立てを逃れるため朝早くから秋沢宅を訪ねて
将棋を指し(秋沢の方が大分強かった)、それから木山宅へ回って夜遅く帰った。」
と記している。このころには井伏との交友もあって、早い時期の会員として秋沢の名が
挙がるのだろう。 秋沢30歳、小田33歳、木山29歳、井伏35歳の頃である。
三宅島の旅に参加 ・・・、昭和12年5月、秋沢は尾崎、外村などが尻込みする中、浅見、
井伏、太宰、塩月赳、永松、川崎とともに三宅島の旅に参加した。浅見が募った旅で、
結局は阿佐ヶ谷人脈といえる顔ぶれになったが多彩である。秋沢の交友の広がり
と深まりが窺える。(「昭和文壇側面史」(浅見淵著):浅見淵の項で詳しく触れる。)
秋沢の名前は、杉並区立図書館や郷土博物館発行の阿佐ヶ谷文士関係冊子には載っていない。
役所に住民の届出をしなかったためだろうが、阿佐ヶ谷文士の一人であることは確かである。
*秋沢三郎の素顔 - 小田著『文学青春群像』より -
昭和8〜9年といえば小田はまだ極貧生活の最中だったが、文芸復興の機運の中で田畑ら<麒麟>
の仲間や<青空><小説>の同人とともに<世紀>創刊(S9/4)に参加するなど活発な活動をしていた。
そんな折に秋沢との親交を深めた小田が描くこのころの秋沢像である。
別記のように、時勢は、ファシズム化、2・26事件(S11)、日中戦争(S12〜)と軍部主導が加速する。
・寡作主義・・・
小田は、「秋沢は潔癖家で、寡作主義者で(志賀直哉に傾倒していた)、その寡作主義も
一生のうちに1冊短編集を出せばいいというような極端なもので、文学を職業とすることは
はじめからあきらめているところがあり、・・・(後略)・・・」と記している。
妻、桜井浜江は秋沢に作家としての大成を願っていたようだが、寡作であるがためか、結果
として一般に広く読まれるような作品は残していない。短編集の刊行は実現しなかったようだ。
・生活費は妻(桜井浜江)が・・・
桜井浜江は1908年(M41)山形県に生まれ、高等女学校卒業(T13)後に画家を
志して上京、独立美術協会の第1回独立展(S3)に入選し、以降出展を続けた。
秋沢との出会いや結婚の時期は不祥だが、昭和9年には夫婦として阿佐ヶ谷に住み、
小田によれば「夫人の山形の生家から彼女の洋画勉学費として或る額の金が
送られて来てい、二人の生活費は主にそれにたよっていたのであった。」とある。
秋沢はそれが面白くなくて勤めに出ようと思ったが、浜江は「自分は勤め人と結婚
したのではない。」と言い、浜江がマネキンクラブへ勤めた時期もあったという。
自分の絵のことは二の次にして秋沢に作家としての成功を願うという浜江の気持は、
秋沢にとっては大きな重荷になっていたに違いないと小田は書いている。
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秋沢は昭和13年に桜井を東京に残して一人中国へ渡った。そして昭和14に桜井は
三鷹に転居して絵に打ち込み(秋沢とは離婚)、その後 画家として名を成した。
参考サイト | 桜井浜江 三鷹市スポーツと文化財団 |
阿佐ヶ谷の秋沢夫妻宅を訪れていた太宰治は、戦後も度々三鷹の桜井のアトリエを訪ね、そこで
自画像などを描いている。 太宰は桜井をモデルにした短編小説「饗応夫人」を著した(S23/1)。
* 桜井浜江は平成19年2月12日、急性心不全のため逝去。(享年98歳)
葬儀は三鷹の”禅林寺”で。太宰の墓地があり、桜桃忌でも知られる寺である。
阿佐ヶ谷文士を知る人がまた一人この世を去った。
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・秋沢の“酒”・・・
平常と酒がはいった時の秋沢の様子を小田が書いているので次に引用する。
「彼には自分のことをザックバランに語る性質があり、又他人のことも犀利、精密に考えてやる親切な
ところがあり、それが人に好かれる原因になっていた。彼の容貌は眼鏡のおくの目が大きく鋭いのが
特徴であったが、平常には温和で、話しぶりなどむしろぼそぼそと声低く語る習わしであった。が、一旦
酒がはいり、少し酔いが廻ると、その目は炯々と光り、話す言葉はきっ先のように鋭くなるのであった。
文学談にしても批評的言辞が多くなり、聴くべき議論も尠くなく、それで私はよく、『君は批評家になると
いいんだ』などと真面目な意味で言ったものだったが、それを受け入れようとする気持ちは全然なかった。」
おそらくは30歳前後の頃の秋沢を的確に表現しているのだろう。
・酔って二題・・・
- ネクタイを結ばせて退職 -
秋沢が浜江の気持を押し切って欧文社(現在の旺文社の前身)に勤めたときのことだが、
社員は社長に酷使されるばかりで待遇は悪く、全員が不満だらけの日々を送っていた。
そんなある日、会社の慰安旅行があり、秋沢は大いに飲んだ。翌朝も迎え酒で酔っ払らい、
さて出発ということで服を着るとき、いきなり社長をつかまえ、「こらっ、ネクタイを結べっ」
と言って無理矢理にネクタイを結ばせた。もちろん、その日限りでそこは辞めたのである。
- 檀一雄のパンチ -
外村繁の第一創作集「鵜の物語」出版記念会(S11/2)のあと、外村、中谷、秋沢、永松、檀、
小田らは阿佐ヶ谷へ帰ってピノチオで二次会をし、そのまま全員が秋沢宅へ流れ込んだ。
2階で車座になって深夜の宴が始まったが、酔いが廻って秋沢の痛烈な批評癖がでた。
檀に向かって「オイッ、君は太宰の腰巾着だぞ!」と言った。檀は「何っ!」と顔色を変え、
「もう一度言ってみろっ!」のやり取りとなって、突然檀の右手が飛んで秋沢の頬が鳴った。
太宰と檀は古谷綱武を介して知り合い、檀はたちまち太宰(檀より約3年年長)に傾倒し、
<鷭>創刊(S9)などで急速に親交を深め、<鷭>の後に<青い花>(S9/12:1冊だけ)を創刊、
翌年(S10)には<日本浪曼派>に参加した。この間、二人は行動を共にしていたのである。
秋沢32歳、檀24歳。年の差や経歴から秋沢にとっては予期しないことのようだった。
しらけた座はみんなの努力で、いくらかはもとへ戻した。真夜中のこと、帰るに帰れず、
そうするより仕方がなかったようだ。しかし、二人はこれで不和になったということはなく、
檀の小説「孤独者」などによれば、檀は、翌年(S12)夏には秋沢の家に寄寓していた。
檀が書いた「孤独者」(S17)は秋沢が主題の実名短編小説で、「孤独者=秋沢」 である。
秋沢宅で召集を知らせる電報を受取ったこと、そこで文学仲間が相撲をしたこと(太宰の項)、
入隊のため直ちに東京を発ったこと、秋沢には満洲で再会(S16)したことなどを書いている。
(「秋沢の家は親類の留守宅で広かった」とある。おそらく、前述した「馬橋の家」だろう。)
「孤独者」による昭和12年の秋沢・・ 檀は、秋沢は「誠に寛大な人であった。というより、
人の子の淋しさに耐えている。沈痛な孤独者であった。」 「秋沢三郎の愛情が私の危機の
随分と大きい部分を救ったと、今も感謝の心で回顧するのである。」 と表している。
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*上林暁が書いた秋沢三郎 ---
前述のように、昭和10年代初めまで、秋沢と上林とは仲間内でも特に親密だったようだ。
上林の項で詳述するが、上林が最も危機的状況にあったと振り返る昭和11〜12年頃、
上林は友人たちとの交際も滞りがちだったが、秋沢とだけは将棋を楽しんだ。
上林に私小説の道が展けたのは「安住の家」(S13/6)が認められたことによるが、この小説を
はじめ多くの小説、随筆などに秋沢が登場するのは親交がより深かったことの表れといえる。
(上林は秋沢が中国へ去った後は浜野修との親交を深め、やはり多くの作品に登場させている。)
=寡作主義= 小説「風前の灯」(S13/9:若松=秋沢、私=上林)から・・・
小田が書いた秋沢の寡作主義について、上林は、「若松は “僕の一生の望みは、
文庫本に星一つ入るくらいのすっきりした小説集を1冊出せばいいんだ。” と言い、
如何にも若松らしい言い方なのに私はほほえんだ。」と書いている。
そして、秋沢は昭和13年に妻(画家・桜井浜江)を残して(子供はいない)中国へ渡った。
「当てはないが私小説を打破するためには広い世界へ出てみる必要がある。」
と考えたという。4月のことである。上林は私小説に活路を見出して懸命に
書いていた時期だが、秋沢は自らの小説に行き詰まりを感じていたのだろう。
=中国行:帰国= 随想「旧友消息」(S15/10)と小説「紅い花」(S18/1)から・・・
上林の随筆「旧友消息」によれば、「先日、秋沢(実名)が突然に上林宅を訪ねてきた。
足掛け3年ぶりで北京から帰国したもので、秋沢は“二ヶ月ばかり静養して、今度は上海へ
渡る”と云った。」とある。随筆は、秋沢や森本ら旧友に関するこの年の夏頃の出来事で、
末尾に昭和15年10月14日と記されており、秋沢の帰国はこの10月頃のことだと判る。
上林は さらに、次のように書いている。
「秋沢君は東京を出る時持って行った原稿用紙を、そのまま持って帰ったと言っていたが、
文学に打ち込む気持はいよいよ強まって、これから北京のことを書きたいと言っていた。
チャラッポコの書けない彼のことだから、異色ある大陸記を書くに違いない。」
秋沢は、北京では渡航の意図に沿った文学活動ができなかったということだろう。
北京に長居は無用と判断して一旦帰国しての出直しを図ったのだろうか・・。
檀一雄著「孤独者」(S17)によれば、昭和16年夏に、二人は満洲で会っているので、
秋沢は再度中国へ渡っているが、資料不足で状況は不詳である。(檀一雄関連を後記)
そして上林は、この時の再会を題材に、昭和18年1月に小説「紅い花」を発表した。
内容は、千田(=秋沢)が昭和15年秋に北京から帰京し、10日ほどして野際(=上林)宅
を訪れた時の二人の会話である。秋沢の文学観や人生観、桜井浜江との離婚、<風車>の
仲間のことなどが語られている。<風車>仲間で文学を続けているのはこの二人だけとなり、
必ずしも本意な境遇にはないが、秋沢は「矜りを失ったら駄目だぞ」と語気を強めている。
上林の文学にも注文をつけ、小田がいう “秋沢の批評眼、舌鋒の鋭さ” が
健在である様子のやり取りなどが書かれており、秋沢の生き方を物語る一編である。
なお、この小説では、秋沢が中国へ発ったのは昭和12年、帰京して離婚した妻は詩人、
秋沢が赴任した中学は甲州とあり、時期など部分的には事実でないが、登場する人物や
家族などは実在(仮名)と考えていい。 物語の流れはほとんどは事実と考えてよかろう。
桜井浜江との離婚は、実質的には単身で中国へ渡った時点だろう。
桜井の三鷹転居は昭和14年であり(三鷹市美術ギャラリーのHP)、
秋沢は中国から帰国して直ぐに役所へ離婚届を出したのだろう。
しかし、その後、秋沢が、上林が期待したような大陸記を書いた様子は窺えない。
*檀一雄が書いた秋沢三郎 ---
檀は昭和12年7月に応召、昭和14年12月1日に除隊すると年末には満洲の旅に出発した。
そして寛城子(新京)で訪ねて来た秋沢と再会し、その時のことを、檀は小説「孤独者」(S17)
に書いている。 前記したように、秋沢が主題の実名短編小説で、「孤独者=秋沢」 である。
(檀の除隊-渡満は、一般に昭和15年とされるが事実は「昭和14年」である。)
それによれば、秋沢は、昭和16年夏、満洲で緑川貢とともに檀を訪ねて4年ぶりに再会した。
その時の秋沢を「孤独者」は次のように書いている。部分的に抜粋する。
「彼は北京に住んでいたという。三年の間何をして暮らしたのか。彼を追いつめていたものが
一体何であるか。彼は相変わらず孤独な、厳粛な表情で、誰にともない炎の言辞を弄していた。
『北京の日本人達の仕草は、なっちゃいねえ。だらけた三流どころの文化人の仕業さ。肝のコメー
月給取ばかりさ。あれで漢人種の心が掴めると思っているから笑わせる。キンタマを掴まなくっちゃ、
キンタマを』」 と彼は道で購ったのであろう、ウォッカを湯呑の中に入れてグッと乾した。
私もつがれたコップをグッと乾すのである。 聞けば一時宣撫班の仕事をもしていたらしい。」
「どうやら女房の話は気が進まぬらしい。友人達のことについては、(中略)
今は、そんな人々には何の興味もなくなったように見受けられた。」
そして次に続く。
「『君は書け』 と彼は突然叱号した。 『東京の奴等の、トント肝を冷やすような小説を書け。
あいつらが、膝頭をカタカタ震わすような。慾のない、マッサラの途方もない小説を書いちまえ』」
秋沢は、「俺は上海に行く。」 「だけども、生きてまた会おうぜ」 と言って帰って行った。
ウォッカを飲んでの怪気焔だが、統治体制や文学の現状に対する批判にあふれている。
太平洋戦争の戦局はすでに暗転、不利に傾いている時期の「文藝世紀」(S17/12号)への
発表である。檀や秋沢、出版社の立場といったものに支障はなかったのだろうか。
ところで・・、上林暁の「紅い花」の発表はS18/1<新潮>で、脱稿はS17.12.3である。
檀の「孤独者」発表(S17/12)とほぼ同時期だが、これは偶然なのだろうか?
私見で、檀の「孤独者」には、小田や上林が書いた秋沢の姿が、より強烈に現れているが、
上林がこれを読んだとしたら、あるいは“一面的に過ぎる”と感じたかもしれない。
秋沢に再会して随筆「旧友消息」を書いてから2年以上を経たこの時期に、上林が
あらためて小説化した動機は 「孤独者」を読んだことのように思うがどうだろうか。
*小田嶽夫は秋沢を頼って中国を長旅 ---
「城外」(S10)で芥川賞を受賞した小田嶽夫は、その後中国関連文学者として活躍していたが、
日中戦争の激化で中国のことが気になり、昭和14年5月に単身で長期間の中国、満洲旅行に
発った。この時のことを<新潟日報(S51.7.19)>に書いているが、それによれば、当時、
秋沢は、北京の東亜文化協議会(中国人、日本人共同でつくった機関)に勤めていた。
北京のことを全く知らない小田は、はじめからその秋沢を頼って出かけたのである。北京滞在
約50日で、この間の宿泊所など秋沢の世話になっている。 当時、北京や満洲へは日本から
の旅行者が多く、秋沢は来訪する多くの作家、文化人の世話もしていたのではないだろうか。
小田が滞在中に伊藤整、福田清人、田村泰次郎らが来ており、次いで坪田譲治、小山東一も
来た。この時、小田は、坪田、小山、秋沢の4人で、周作人(魯迅の実弟)を訪問している。
小田は、この後、世界で初めて本格的な魯迅の伝記「魯迅伝」(S16/3)を発表したのである。
*そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---
秋沢は昭和13年3月3日の阿佐ヶ谷将棋会(記録にある第1回)に参加して間もなく中国に
渡り、足掛け3年を過ごして昭和15年10月頃に帰国した。同年11月の将棋会と12月の
「文藝懇話会」には出ていないが、翌16年3月15日の将棋会には再び出席している。
次いで5月6日の青柳宅で開催の「将棋会と美術講義をきく会」にも出席したが、その後の
開催記録には名前がない。
昭和16年夏に、秋沢は満洲で檀を訪ねているので、5月の会に出席の後、直ぐに再び中国へ
発ったのだろう。 その後の約10年については資料不足で消息不詳だが、後に、
木山捷平が記した「阿佐ヶ谷会雑記」の会員名簿(S31現在)には練馬区在住として載っている。
木山が、開催記録に名前がない秋沢を昭和31年現在の会員名簿に載せているのは、
秋沢が産経新聞社文化部長として会のメンバーとの交遊を続けていたからではないだろうか。
昭和30年前後(秋沢の50代前半)に、産経新聞社の記者として秋沢の薫陶を受けた天狗太郎
(本名:山本亨介)は、著書「将棋とっておきの話」(S62/10)の中に「秋沢三郎と作家たち」
という項を設け、秋沢の産経新聞社文化部長としての活躍ぶりを紹介している。
それによれば戦後も小説を書き、将棋を楽しみ、作家たちとの親交を深め、それを部下の指導や
新聞社の企画、事業に活かしていた。また、同書によれば秋沢は現在の将棋タイトル戦のひとつ
棋聖戦(産経新聞社主催)創設(S37)の功績で編集局長賞を受けているが、その源流は
産経杯(S26〜S28)で、秋沢の“将棋会” 時代の経験や人脈はこうして実を結んだようである。
ちなみに、日本将棋連盟によれば、昭和50年より将棋の普及とファンとの交流を目的に
11月17日を「将棋の日」と制定し、毎年、その近い日に表彰・感謝の式典を行っているが、
制定前の昭和46年(1971)にも表彰感謝は行われており、秋沢三郎(68歳)と天狗太郎
(48歳)は他の新聞関係者らとともに、永年棋界の発展に尽くしたことで表彰を受けている。
その式典時の記念写真が当時の雑誌「将棋世界」に載っているので次にリンクする。
将棋ペンクラブログ(2020.08.01):「旧・東京将棋会館娯楽室の深夜のラーメン」中の写真
雑誌「将棋世界」(S47/1月号)グラビア 「感謝 表彰の日」
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「週刊サンケイ」主催の 「文壇人将棋大会」
昭和27年(1952)8月31日、荻窪の「弁天荘」に於いて、
「週刊サンケイ」主催の「文壇人将棋大会」が開催された。
木山捷平の「酔いざめ日記」(S50:講談社)の当日には自身の対局の様子が書かれ、
浅見淵の「昭和文壇側面史-阿佐ヶ谷会の縁起」(1968:講談社)には開催日の記載は
ないが「産経新聞主催の阿佐ヶ谷に於ける文壇将棋大会」の写真が載っている。
この時に秋沢三郎が産経新聞の文化部長に就いていたかは未詳だが、山本亨介
(天狗太郎)が書いているように、秋沢は棋戦など将棋関連の企画に注力しており
この大会の主導者は秋沢だったと察せられる。
この将棋大会の模様は「週刊サンケイ」(昭和27年9月21日号)に詳記
されており、出席者は阿佐ヶ谷会の会員ないし会員に近しい作家らである。
「週刊サンケイ」(昭和27年9月21日号) (65ページ:部分) |
この大会時の撮影と察せられる集合写真が 次のサイトにあるのでリンクする。
この写真に「週刊サンケイ」の記事にある出席者を 当てはめると次の通りである。 後列左から 3名おいて戸石泰一、2名おいて寺崎浩、 浅見淵、梅崎春夫、小田嶽夫、外村繁 中列左から *吉岡達夫、*天狗太郎、小沼丹、 青柳瑞穂、亀井勝一郎、村上菊一郎 前列左から 木山捷平、藤原審爾、井伏鱒二、 河盛好藏、上林暁、瀧井孝作、*加藤治郎 *吉岡と*天狗太郎は、記事に名前はないが 主催者側としての出席と察せられる。 *加藤治郎は棋士八段で試合開始を宣した。 ・記事にある古谷綱武と阿川弘之は写っていない。 ・「秋沢三郎」は写っていないようだが、主催側の 中心者して出席していたのではないか。 なお、ネットのほか、前記の浅見淵の著書など いくつかの刊行物に同じ写真が載っているが、 キャプションには違いがみられる。 |
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=備考= 大会会場の「弁天荘」(荻窪)は、実業家宮崎三治郎の 別荘だったが、戦後は「割烹旅館・弁天荘」 として昭和27年 (1952)頃まで営業した。昭和28年1月にこの土地建物を 西武鉄道(株)が入手、その後、中華料理を出す「池畔亭」が できた。(現「天沼3丁目」で阿佐ヶ谷駅も近い。) 平成16年(2004)に、この土地は南側の土地と合わせて 杉並区が入手、平成19年(2007)に「天沼弁天池公園」 と 「杉並区立郷土博物館分館」 がオープンした。 (郷土博物館分館企画展「天沼弁天池があった頃」(H28/10)より) |
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天狗太郎(本名・山本亨介)は同著を次のように締めくくっている。
「秋沢さんは誠実な人柄で、多くの作家に愛されて文化部長の職責を果たした。
清廉潔白で自分に厳しかった。『ぼくが死んでも、そっとしておいてほしいね』と語って
いた。数年前に亡くなり、知らずにいて二年たって知らせをうけて悲しい思いをした。」
昭和55(1980)年4月9日永眠 享年76歳 (この年8月28日 上林暁も永眠)
秋沢三郎の作品 「定年」(S35)について -- 平野謙らが高く評価 -- 日本文藝家協会編纂 「昭和36年版 文学選集 26 」(講談社 S36/12発行)に、 秋沢の「定年」(S35 <春夏秋冬 第1号>)が収録されている。原稿用紙10枚に満たない、 3000字程度の掌編だが、昭和35年の雑誌等発表小説から選ばれた20篇中の1篇である。 この年の芥川賞作品「夜と霧の隅で」(北杜夫)、同候補作品「パルタイ」(倉橋由美子)が 含まれ、ほかに井伏、三島、大江、大岡、吉行・・など有力作家の作品と肩を並べている。 編纂委員は、佐多稲子、庄野潤三、中村光夫、平野謙で、「あとがき」を書いた 平野謙は、秋沢の「定年」について次のように評している。 「『定年』などという作品は、一種の絶品だといってもいい。(中略) 短いものだが、 悠にそれは一個の長編小説にもひとしい内容を孕んでいる。本巻に収録したいと 最初にいいだした人は庄野潤三だが、私どもがみな賛成したのも、 そういう、『定年』自体の作柄によると思われる。」 ----------------------------------------------------------------- 現在、図書館などで簡単に読める秋沢の作品はこれだけのようだが、 ズブの素人の私にはこの作品のよさは理解できない・・・小説ではなく 普通の随筆のように思ってしまう。 いわば ”玄人受け” なのだろう。 秋沢が57歳時の作品で、丁度 定年年齢だったのかもしれない。 中学生くらいの男の子が二人いるとのことで、終戦直後ころに再婚 されたのか。 今や、そのご子息も還暦を超えておられる年齢・・。 |
「秋沢三郎」 の項 主な参考図書 『日本近代文学大事典』 (S53 講談社) |