上林 暁 の 人生と文学

かんばやし あかつき = 明治35(1902).10.6~昭和55(1980).8.28 (享年77歳)

(本名 = 徳廣巖城 : とくひろ いわき)


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昭和8年~13年(“阿佐ヶ谷将棋会” 第2期 成長期の頃まで


= 私小説開眼で道が展ける =


本名 徳廣巖城(とくひろ いわき)。高知県幡多郡田ノ口村(現黒潮町)下田ノ口に生まれる。
(現「黒潮町」は、平成18年3月20日に「大方町」と「佐賀町」が合併して誕生した。)

上林は三男五女の長子。後に、妻の病と自らの病との凄絶な戦いを強いられるが、
末の妹、睦子の献身的な支えによって、自ら拓いた私小説作家としての道を全うした。

上林が “阿佐ヶ谷将棋会” に初めて参加したのは、後述のように昭和14年6月、つまり、
将棋会 “第
3期 盛会期”からと考えていいが、上林はそれ以前から改造社の編集者として
作家訪問で荻窪・阿佐ヶ谷にはよく来ていた。そして自分も作家一筋に生きることを決意し、
昭和11年からは阿佐ヶ谷に住み、<文学生活>の創刊を機に旧知の秋沢の他、浅見、小田、
外村、田畑、青柳、古谷、井伏とも懇意になったはずで、本項で上林を紹介させていただく。


本項は、『上林暁全集(全19巻)』のほか、主に大方町教育委員会発行の 『小伝 上林暁』、
『こころのふるさと 上林暁』 、妹の徳廣睦子著 『兄の左手』 『手織りの着物』を参考にした。


 “阿佐ヶ谷将棋会” の全体像

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

上林 暁 作品一覧

   * 高知県立三中 - 五高(熊本) ---

     ・父は、教員-酒造業-村長     

上林の生家は中農のお百姓で、田畑を耕し養蚕もしていたが、上林の出生時(M35)は、
父伊太郎(21歳)は小学校の教員になったばかりで、母春枝は16歳だった。
父は高知師範学校簡易科を卒業して、宿毛など家から遠い任地を転々としていたので、
上林は、幼時は田ノ口で農作業や裁縫に多忙な母と祖母(祖父は既に故人)と過ごした。
上林は「離郷記」に小作人のことを書いている。農地の一部は貸していたのだろう。
父は7年間の教員勤務の義務期間を終わると家へ帰ってきた。

明治42年 6歳 下田ノ口尋常(現田ノ口)小学校入学。 父は造り酒屋を開業した。
上林の成績は校長が「巖城君ほど優秀な子供は教えたことがない」というほどだった。

大正4年 12歳 高知県立第三中学校(現中村高等学校)に進んだ。
男子7人卒業で中学進学は上林だけだった。往復16kmの道を徒歩通学した。
上林は秋に病気(腸チブス)で休学。 翌5年、1年に復学し、寄宿舎に入った。

この年(T4)11月、父は村長となり、以降18年間務めた。(昭和38年没 84歳)

     ・中学、高校生活 - 文学へ

大正6年 14歳  <文章世界>を見て大正文学に眼を開かれ、田ノ口村の友人達と
  回覧雑誌<かきせ>を出し、30号近くまで続けた。(誌名は村を流れる「蠣瀬川」から)
15~16歳の頃には、芥川龍之介に傾倒し、将来は作家になろうと思うようなり
徳富盧花、夏目漱石、有島武郎、室生犀星、菊池寛などの作品もよく読んだ。

大正9年 17歳 父の勧めで松山高等学校を受験したが幾何で失敗、不合格。

大正10年 18歳 3月に中学卒業、4月 熊本第五高等学校文科甲類に入学。
秋に、校友会雑誌<龍南>の懸賞創作に応募、「岐阜提燈」が三等に入選した。
ちなみに、この時の七等入選は、同学年の永松定(後年<風車>の仲間)である。
<龍南>の編集に携わるようになり、作家への志を固めていった。

大正11年 19歳 寮を出て熊本市上林町に下宿した。
後に用いた(S2~)筆名の “上林” はこの町名、“暁” は字画が好きだったことと、
下宿の便所から見た金峰山の美しい暁の光に魅せられたことに由来する。

同宿の女学生や下宿の娘とで文集「梧桐の家」を作った。そこに「校門際の薔薇の花」
と題する小品を書いた。後年の出世作「薔薇盗人」(S7)の原型である。
下宿の庭に大きな梧桐(あおぎり)の木があったことによる文集名だが、後年(S27)、
小説「梧桐の家」を書いて当時を偲んでいる。「天草土産」(S8)も当時の女学生が
モデルで、熊本は上林の忘れ得ぬ甘いほのかな青春が薫る第二の故郷である。

文学のほか、四国の無銭旅行や、九州各地の旅行、山登りを楽しんでいる。

卒業を控えた冬休みに帰郷した上林は、元旦(T13)の朝、蠣瀬川を歩き、入野の浜で
「どんなに不遇で、つらいことがあっても、文学をもって一生を貫こう」と自らに誓った。

上林は、父の望みは上林が法科を出て教育者か政治家になることと知っていたので、
この決意を語気を強めて父に話したところ、父は、結局「やるがええわ」と承知した。

     ・東大文学部英文科

大正13年 21歳 東京帝国大学文学部英文科に入学。
当時の東大文科は無試験で入学できたので決めたという。 

関東大震災直後のこと、復興にざわめく東京に出て本郷界隈で下宿生活を送った。
寄宿舎に入らず42円の下宿住まいで贅沢な学生生活といえるが、両親の春秋の
養蚕による収入がこれに当てられたようだ。(本郷の下宿相場は20円~25円(T15))

しかし、上林が3年間の大学生活をどのように過ごしたのか判然としない。
上林は、“大学は卒業したというだけで、無為に、粗末に過ごした。作家志望だったが
手がかりはなく、半ばあきらめの心理でもあった” というように後悔の念を表している。

別記のように、東京の文学青年の間ではこのころから同人活動が盛んで、同人誌
などに作品を残している人が多いが、上林は在学中には同人に参加していない。
しかし、卒業直後に創刊(S2/5)した<風車>には多くの作品を連続して発表している。
学生時代は読書に耽り、想を練って発表の機会を窺っていたのかもしれない。

     ・卒業 - 就職先変更=運命的決断

昭和2年3月 24歳 東大を卒業。 4月に改造社に入社した。
秋沢三郎の項で記したように、上林はすでに長野県の屋代中学の英語教師が
決まっていたが、改造社の入社試験を受けて合格し、中学の方は断ったのである。

学生時代、確かに、自分の将来に迷いを持っていたことが窺えるが、この決断が後の
上林の人生を定め、妻や妹、家族や父母の人生にも絶大な影響を及ぼすことになる。

森本忠のこと・・改造社の入社試験を上林は森本忠(五高-東大同期)と一緒に受け、森本は
不合格だった。森本はその後上林らと<風車>を創刊するが、東京朝日新聞社に入社(S6)し、
新聞人として活躍する。昭和14年に「僕の天路歴程」を著し当時を振り返っているというが、森本
の波乱の人生もここから始まったようだ。上林はこのことを「森本忠君のこと」などに書いている。

   *改造社時代 ---

改造社は山本実彦が出版界に進出するため創設し、大正8年に雑誌<改造>を発行した。
<改造>は大正末から昭和期にかけて<中央公論>と並ぶ総合雑誌となった。
創作欄も充実し、評論、特集記事、諸企画などで意欲的な編集が行われていた。
改造社の大正15年の企画「現代日本文学全集」は “円本ブーム” を巻き起こした。

参考サイト 「松岡正剛の千夜千冊より  改造社と山本実彦 (松原一枝著)」

     ・雑誌記者  

上林の入社時は「現代日本文学全集」の発刊最中で、校正や宣伝に忙しく携わったが、
6月(S2)には編集部に移り、記者として多くの作家を担当した。岸田国士、横光利一、
宇野浩二、井伏鱒二、川端康成などで、荻窪・阿佐ヶ谷界隈に住んでいた作家が多い。

     ・<風車> “上林 暁” の誕生

改造社入社の翌月、つまり昭和2年5月に上林らは<風車>を創刊した。創刊時の同人は、
五高-東大英文科の友人で上林のほか森本忠、永松定、秋沢三郎らで10人である。

空前の同人雑誌時代(別記)に入り、すでに<葡萄園>、<青空>などが発刊されている。
そこに名乗りを上げたのだが、上林は改造社に小説を書いていることが知れて首になる
ことをおそれ、本名を隠すために “上林暁” の名が誕生したのである。(由来は前記)

上林は創刊号からほとんど毎号のように小説や創作評を発表したという。純文芸雑誌
としてほぼ4年(S6/1まで)、通巻34冊に達した。プロレタリア文学の席巻に耐えて
長期間続いたが、伊藤整、福田清人らの<文芸レビュー>に合流して<新作家>(S6/4)
となり、さらには<新文芸時代>創刊(S7/1)などと続く。更なる発展を期した動きである。

     ・結婚・家族 ― 順風出帆に見えたが・・ 

昭和3年8月 25歳 田島繁子(20歳)と郷里(高知)で結婚式を挙げた。
上林と繁子は遠戚関係にあり、上林が大学3年、繁子が京都府立第一高等女学校5年の
夏に見合いをして2年後に結婚したのである。 後に上林は「彼女はモダーンだし、私は
野暮だったのだ」と書いているが、性格の違いと上林が文学一筋にのめりこんだ
貧乏生活のため、早い時期から夫婦間にはしっくりしない空気があったことが窺える。

結婚の1年後、夫婦は房州を旅行して誕生寺で記念写真を撮ったが、その写真について、
後に上林は、「楽しい新婚旅行のように見える。しかし彼女の胸の中には、不平の思いが、
渦を巻いていたにちがいない。」(S50:「駒込アパートメント」)と振り返っている。


 参考サイト (写真)  誕生寺(小湊)の記念写真

日本近代文学館
→ 写真検索 → 上林暁(P0001232)

(撮影年 昭和4(1929).7.27)

そのことと関連するか否かは不明だが、長女の出産(S6/6)は、いわゆる里帰り出産で、
しかも、産後の肥立ちが悪く、妻子が高知から東京へ戻ったのは翌7年6月だった。
この間1年余、上林は単身生活で、社業に、執筆に没頭したに違いない。
文壇デビュー作「欅日記」、出世作「薔薇盗人」の発表はこの時期に重なる。

昭和6年6月 長女 、 8年5月 長男  12年1月 次女、 が誕生した。

     ・「薔薇盗人」が出世作

上林は<風車>を本拠に作品発表を続けたが、昭和6年6月、機会を得て雑誌<新潮>に
「欅日記」を発表した。商業雑誌に初めて書いた小説でいわば文壇デビュー作だが、
上林は後年、「文学の20年」(<文学界>(S26))などで、“飽き足らない作品”と恥ずかし
がっている。次いで翌7年8月、同じ<新潮>に「薔薇盗人」読み方)を発表できた。
この「薔薇盗人」が好評で、川端康成が賞讃するなど、出世作、代表作の一つとなった。

「薔薇盗人」の読み方・・文学辞典や図書館蔵書検索などの読み方は、
「ばらとうにん」・「ばらぬすびと」・「ばらぬすっと」 の三通りある。
上林が、読み方を明示していないので、執筆者などがその主観で
判断しているのが現状である。(詳細は、本項末の「別記」を参照



昭和8年7月(30歳) 処女創作集「薔薇盗人」を刊行、印税なしで500部にすぎなかったが、
改造社の “徳廣” でなく “上林暁” も文壇に知られたようである。11月(31歳)に改造社が
創刊した<文藝>の編集主任に抜擢され、文芸復興の機運とともに文筆家としての地歩を
築いていったが、一方、妻は長男出産(S8/5)時も産後の肥立ちは思わしくなく、妻子は
妻の実母と共に年末までの半年余りを鎌倉に別居するなど、家庭的には不安定だった。

     改造社退社 - 郷里で1年余の暗欝

上林は、久保田万太郎の原稿が取れなくて山本実彦社長の叱責を受けたこともあって
勤め人に嫌気がさし、作家として筆一本で生計をたてることを決意し、昭和9年4月に
改造社を辞した(正式退社は翌10年4月)が、自身が言う「蟻地獄」の生活が待っていた。

厳しい現実にたちまち生活に行き詰った10月、上林は父重病の報せを機に家族を伴って
郷里に帰った。父の病が癒えても上京する気力が沸かず、そのまま1年余を居据わる格好
になったが、上林は父母の困惑や諍いの原因は自分にあると感じる苦悩の日々だった。

「ちちははの記」(S13/9)は、登場人物の名前は実際とは異なるがこの体験が題材である。
小説には書かれていないが、このとき、父は県議の選挙違反事件に巻き込まれ、大正4年から
18年間務めた村長を辞職(S8/6)、平穏な気持ではいられない状況が背景にあったのである。

上林の実家暮らしのこの1年余は、妻の心身にも過酷な負担を強いていたに違いない。
当時生活を共にした末妹の睦子が、その著「手織りの着物-御母堂-」でこの時の状況に
詳しく触れている。 それまで鍬など手にしたことのない兄嫁が姑について畑仕事をし、
子供(3歳と1歳)の添い寝をしながら疲労でぐったりしているのをよく見かけたという。

   *再上京 - 貧窮・苦闘 - 私小説の道 --- 

     ・阿佐ヶ谷の家

昭和11年1月末 33歳 再び上京のため生家を出発、高知の妻の実家に寄って約1ヶ月
を過ごす間に二・二六事件が起きた。文学をやれる世ではなくなったのかもしれないが
「文学をもって生きる覚悟」を決めて東京へ向かい、まだ兵士が警備する新宿駅へ降りた。

以前の同人仲間の歓迎を受けた。永松、福田、伊藤、秋沢らで、その手助けで早速に
新しい借家を探し、阿佐ヶ谷と荻窪のほぼ中間の天沼(現天沼1丁目)に落ち着いた。
秋沢が大家に交渉して1円負けさせ、家賃は14円となった。6畳、4.5畳、3畳の古い
1戸建ての家だった。このころ、秋沢は阿佐ヶ谷に住み、他の友人の多くもその界隈に
住んでいたので決めたのだろう。3月上旬、一家4人の天沼での生活が始まった。

新宿駅に着いたのは3月2日朝で、永松夫妻、秋沢、福田の出迎えを受けたこと、その日は秋沢の家に
泊まり、伊藤整、小田嶽夫、福田、永松が集まったこと、秋沢の助力で4日目に借家が決まり、5日目の
夕方に引越したこと、臥薪嘗胆の悲愴な気持ちは消えてのうのうと暮らしている・・などを「靴を大切に
しろ」<文芸通信・5月号>に書いている。3月28日付文章で、まだ多少の“ゆとり”が感じられるのだが
・・。

     ・ “自己をぶちまける” で展ける

そして6月(S11)、<新文芸時代>、<木靴>、<世紀>、の同人らで<文学生活>
創刊され、上林もこれに参加した。 編集者としてでなく作家として井伏をはじめ 荻窪・
阿佐ヶ谷界隈の文学青年との交友が広がったが、健康と作品面ではスランプの極に陥り、
生活は苦しく、心身ともに疲れ果てた。 妻の心労も並大抵ではなかったはずである。

相当の資力がある両実家だが、一家を十分に援助することは無理だったのだろうか。
上林夫婦の側には、遠慮と意地があって、実情を伝えなかった節も見受けられるが・・。

万事に行き詰って絶望の末の昭和12年元旦、上林は遺書のつもりで自己をぶちまけた
ものを残そうと思い立った。体験を題材に「学校」「町と祖母」「ちちははの記」「安住の家」
「風前の灯」「離郷記」の順に書いていった。上林が後(S27)に「私小説の道」<文芸>に、
「書きはじめてみると、意外にも私の文学が展けて来た。(中略) “自己をぶちまける”
という厳しい文学精神に立脚し、“自己をぶちまける” という文学的方法を会得したの
である。」 と書いているところである。 ここに “上林の私小説” の道が展けたのである。

井伏は、「上林氏は1週間に1ぺんくらい阿佐ヶ谷に出て来て省線電車を眺めたり、半年に1ぺんくらい
ピノチオに来て支那蕎麦を食うだけで、ひどく幸福を感じているんだ」と人に語り、上林もこれを認めて
いる(S14:「支那料理店ピノチオにて」)。  再上京(S11/3)からこのころ(S13)までは、上林の心身と
家庭事情は、秋沢ら旧来の親しい友人との交遊はあっても、まだ、阿佐ヶ谷界隈の多くの文学青年たち
と連れ立って将棋や酒、会話を楽しめるような状況にはなかったことが窺える。

発表した作品のうち特に「安住の家」(S13/6)は高い評価を受けた。上林は35歳
になってようやく私小説作家として文壇に再登場し、その地歩を固めたのである。
同年(S13)9月には「ちちははの記」を発表、第二創作集「田園通信」を刊行した。

「安住の家」(S13/6)は、、登場人物の名前は実際とは異なるが再上京時のことが題材である。
小説にある友人の名前”伊坂”は秋沢である。秋沢の家へ集まった“田原、高来”らの名は永松、
福田ら<新文芸時代>の同人である。以前の滝野川の借家は帰郷している間に引き払い、僅かな
家財類は下井草(杉並区)の妻の伯母の家に預けてあったのでそこから運んだと書かれている。

「安住の家」、「ちちははの記」、「離郷記」など、上林が遺書のつもりで書いたという
一連の作品は、深刻な題材にしては筆致に重い暗さがなく、むしろ家族や周囲の
人物への優しい思いやりの情が滲む。 これが “上林の私小説” の原点だろう。    

     ・上林の小説における「嘘と真」

上林は、「小説における嘘と真」(S37)で、「私の小説における真実と嘘の割合は、一、二の
例外を除いて、10対0、もしくは9対1くらいで、8対2になることは先ずない。」と書いている。
上林は、特に初期の頃は、基本的に小説では人物を仮名にして経歴や出来事、時期、場所
などを素材に創作し、随筆などでは実名で事実を書くという姿勢だったと思うが如何だろう。

上林 暁 作品一覧

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昭和13年~18年(“阿佐ヶ谷将棋会” 第3期 盛会期)の頃


= 妻の発病 ・ 実家の援助 ・ 文学と将棋 =

昭和13年(1938)、上林 36歳。 ”将棋会 第3盛会期” は上林の30代後半にあたる。
作家を目指して改造社を辞めたが生活は行き詰まり、ようやく「安住の家」(S13)などで
私小説の道が展らけて文壇再登場が果たせたのは、将棋会が第3期に入った頃だった。

昭和14年、上林は浜野と共に初めて阿佐ヶ谷将棋会に参加したが、ほぼ同時期に
妻は精神を病み入院、以降、上林は末の妹、睦子の献身的な支えを受けることになる。

 この時期の“阿佐ヶ谷将棋会”

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *妻の発病 と 実家・妹たちの支え ---      

     ・妻の発病、入退院と死

昭和12年1月には次女(第三子)が生まれた。 妻は前2回の出産時、産後の肥立ちは
思わしくなかった。今回も妻は苦しかっただろう。上林の心身も最悪状態の上、貧窮の
最中にあり、妻の精神状態は徐々に蝕まれていたようだ。 詳しい状況は分からないが、妻は
昭和14年7月末日に近くの河北病院に入院し、翌8月1日には小金井養生院へ転入院した。

同じ8月(S14)、第三創作集「ちちははの記」を刊行した。作家としての道が展けたところへ
また新たな試練である。8歳、6歳、2歳の子供を抱え、窮した上林は生家に援助を求めた。
8月初旬、地元(中村)の女学校を卒業して生家にいた五女睦子が手伝いのため上京した。

上林の18歳年下の末の妹である。19歳になったばかりの睦子の人生は、ここからその
すべてが兄と、兄の文学への献身に向かって進み始めるとは、誰も知る由もなかった。

妻は、同14年10月に小金井養生院を退院したが、半年後の翌15年4月には再入院となり、
以降、昭和19年5月に一時退院したが、またすぐに、8月には同院へ3回目の入院となった。

終戦(S20/8)直後、小金井養生院は解散したため、9月に隣接する聖ヨハネ会桜町病院に
転入院したが、この頃から上林自身が栄養失調で体調を崩し、付き添いができなくなった。
付き添いが要らない病院へ移ることになり、11月に北多摩郡多摩村の宇田病院に移った。
しかし、妻は、極度の食糧不足による栄養失調のため心身の衰弱は進み、目もほとんど
見えない状態になり、翌年、昭和21年5月3日、悲運の生涯を閉じた。享年38歳だった。

私見で・・、妻の発病の原因特定は難しいとしても、上林自身が示唆しているように
二人の結婚への思惑や性格の違い、長期の貧乏が強く影響したことは確かだろう。
“改造社の徳廣巖城” から “筆一本の上林暁” へは、“生活者”という観点では両者は
ほとんど別人であり、当時の時代環境も相俟って、妻は対応不能に陥ったと考える。

上林は、その後、私小説作家として昭和文学史上に名を成したが、その前に消えた
妻の命、短い薄幸の人生があったことを思うと胸が痛む。 しかも、上林の盛名を
確固たるものにしたのは「病妻物」であり、運命の残酷さを思わずにはいられない。

この後、上林は再婚せず、亡妻を主題にした小説や随筆を何篇か書いている。
亡妻への償いの気持を込めているように思う。 そして 上林自身が脳出血に倒れ、
上林の文学と一家の生活は、妹睦子が長期にわたり献身的に支えることになる・・。

     ・実家と妹たちの援助

この間、上林の生活を支えたのは実家の家族だった。作家生活の目処が立ったとはいえ、
原稿料だけでは全ての出費は賄えなかった。高知の父から多額の国債を送ってもらい、
妻の実家からも送金を受けていた。 それらによって「妻の入院費その他、急場を凌いだ
ものだった。戦争の終わる頃は、1枚もなくなっていた。」(S26:「十年前二十年前」)とある。

また、東京で上林家の家事を支えたのは、睦子と二妹彌生(S47没・享年57歳)だった。
子供たちは、昭和17年で11歳、9歳、5歳である。上林一人では如何とも為し難かった。
睦子は昭和14年8月から同16年5月まで、さらに同17年8月から同20年3月まで、そして
戦後も天沼の上林宅に同居して家族の面倒を見た。(S16:「町子」・S21:「きょうだい夫婦」)

彌生は昭和15年4月に上京、同17年7月に帰郷した。この間の同16年正月の前後は就職
して会社の寮に入っていたようだが、それ以外の期間は天沼で同居して上林の家族の生活
を援けていたはずである。上京の年(S15)は、睦子と二人が同居だろう。(S16:「茨の道」)

妻の病気による最大の問題は子供の養育だったのではないか。昭和17年7月に彌生は子供3人を
連れて帰郷し、翌8月に睦子が女の子2人を連れて上京したが、9歳の長男は郷里に預けられた。
上林は東京に留まり、昭和19年に次女(7歳)を、20年に長女(14歳)を郷里に疎開させた。
戦後昭和23年に長女(17歳)、翌24年に次女(12歳)、そして26年に長男(18歳)が東京に戻った。
長男は多感な9年間を祖父母のもとで過ごし、高校生になってからようやく父との同居となった。

後に上林本人が脳出血のため寝たきりになるが、その生活と文学を支えたのも睦子だった。

上林の生涯を支えた睦子さん(T9生)は、今も、昔からの天沼のお宅にご健在である。
平成20年11月16日の文学講座「阿佐ヶ谷会の人々~上林暁を中心に~」(講師・
萩原茂)に、上林の長女伊禰子さんとともに元気な姿を見せられた。(阿佐ヶ谷図書館)

また、平成22年4月~6月、杉並区立郷土博物館で「上林暁展」があり、
この年卒寿の睦子さんは、講演会(5/23)で元気に講師を務められた。(聞き手・萩原茂)

平成23年10月~翌24年1月、杉並郷土博物館(天沼分館)で 「孤独の扉を開く~上林暁
と濱野修の友情物語~」展 が開催され、期間中のギャラリートークなどに睦子さんも
上林の長女伊禰子さんらとともに元気に出席された。 (展示会の詳細は浜野の項


平成27年、睦子さんは95歳。上林亡き後、一人住み続けた天沼の家から転居した。
玄関に掲げてあった二つの名前の表札 「德廣巖城 上林 曉」 は外された。

   *創作集の刊行 ---      

戦争という重圧の中で、貧乏と妻の発病に苦しみながらも、上林の創作意欲は旺盛だった。
上林は、第1創作集「薔薇盗人」(S8)に始まり、生前に28冊の創作集を刊行した。死の翌年
に第29創作集「半ドンの記憶」が刊行され、他に単独の句集が1冊あるので、本人が晩年に
目指した30冊刊行を成就したことになるが、はじめの9冊は昭和20年までの刊行である。
また、評論・感想・随筆集も10冊あるが、終戦前に4冊、戦後6冊の刊行である。

上林の小説は、大部分が短編の私小説で、郷里のことや自身の境遇、体験、見聞、感慨、
心境などが題材である。戦争や思想・政治問題には直接的には全く触れていないといって
過言ではなかろう。体制とか時流とは距離を置き、戦意高揚あるいは逆に反戦・厭戦を
訴えるような作品は皆無といえる。 ひたすら私小説を書き進める地味な存在だった。

とはいえ、上林は、題材の背景にある時代や社会の在り様については的確に捉え、そこに
暮らす(暮らさざるを得ない)市井の人々の生き方を温かい目で描いているのであって、
行間からは、政治や権力、時勢、世間の不条理に対する上林の悲しみに耐える思いが
読み取れるのであり、これこそが “上林の私小説” として高く評価される所以だろう。

この時期の題材の特徴は、貧乏作家世帯の苦闘に、心の友となった浜野修との交遊
(「二閑人交遊図」(S16)など、詳細は浜野修の項) と妻の病気が加わったことである。
三島由紀夫が高く評価した「野」(S15/1)は妻の発病に触れており、 川端康成が感銘した
という「明月記」(原題「名月」:S17/11)は、小金井養生院の最初の入退院が題材である。
以降も、妻に関連する作品を書き続け、その一連の小説は後に「病妻物」といわれた。

上林 暁 作品一覧

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---      

     ・上林と将棋

上林が将棋を覚えたのは、11歳か12歳の頃だった。村(田ノ口村)は将棋が盛んなところで、
子供たち同士で指していた。後年、上林が帰郷した時、将棋のおかげで子供の頃の友達や
郷里の人たちの間に融け入ることができたとある。(S33:「故郷の将棋」、S34:「幼な友達」)

昭和11年、再上京はしたが文学にも生活にも行き詰まり、友人との付き合いも疎くなって
いた頃も、五高-東大以来の親友秋沢三郎(別項)ら一部の文学仲間とは行き来が続き、
将棋も指していた。上林の将棋には年季が入っているようだ。私小説で文壇再登場を
果たすと、秋沢ら旧来の友人だけでなく、多くの文学青年と幅広い交友ができるように
なったが、こうした交友関係にも将棋が果たした役割は大きかったに違いない。

上林は、阿佐ヶ谷将棋会に参加する直前の昭和14年3月26日に、浅見淵らの「颯爽会」の
将棋会に参加して優勝したのである。 この時の優勝賞品は足付きの分厚い将棋盤で、
盤の裏には、「第三回颯爽会将棋会 昭和十四年三月廿六日」と記され、上林ら参加者
10名の自署がある。上林のほか記入順で、青柳優、古谷綱武、田畑修一郎、光田文雄、
衣巻省三、浅見淵、頴田島一二郎、寺岡峰夫、木山捷平、である。 早稲田文学社の
主催で、会場は戸塚の鞍馬軒だったが、参加者のうち古谷、田畑、浅見、木山の4人は、
すでに阿佐ヶ谷将棋会のメンバーでもあった。

 

「上林暁文学館」所蔵の
将棋盤とその裏の署名
 


     ・阿佐ヶ谷将棋会へ参加

 颯爽会で優勝の3ヶ月後、上林は阿佐ヶ谷将棋会に参加するが、この颯爽会が契機
だったかもしれない。 「将棋盤に題す」(S14/9 <文芸>)に次のように書いている。

「先達、阿佐ヶ谷将棋大会を浜野修氏のいるアパートで催した。集まるもの安成二郎、浜野修、
井伏鱒二、浅見淵、古谷綱武、青柳優、木山捷平、亀井勝一郎、僕の九棋士。
盤は持ち寄りなので、僕はこの春早稲田文学社の第三回颯爽会将棋会で優勝して主催者
浅見淵氏から授与された将棋盤を風呂敷に包み、ひるから出かけて行った。-- (後略) --」

この阿佐ヶ谷将棋大会のことは「我が交遊記」(S15/6・国民新聞))にも記述があり、
昭和14年6月(妻の入院の前月)の開催である。昭和13年には木山の日記などに
3月、6月、7月に開催の記録があるが、そこには上林と浜野の名前はないので、
二人はそれ以降の参加、つまり、この浜野宅が最初であると考えてよかろう。

この浜野宅の会については浜野修の項に詳記した通りである。
足付きの分厚い将棋盤の持ち運びには、上林はさぞかし難儀しただろう。
颯爽会については浅見がその著書で触れているので浅見の項で詳記する。

また、この会での参加者の寄せ書きに、上林は、「見ずや竹の聲に道を悟り
桃の花に心を明らむ」 と「正法眼蔵随聞記」の中の言葉を書いた。
この句を好んで揮毫しており、禅の教えに強い関心を持っていたことが窺える。

ちなみに、上林(徳廣)家の檀寺は、高知県幡多郡黒潮町入野にある「臨済宗妙心寺派長泉寺」
(随筆「坊さん」)で、同じ禅宗でも曹洞宗ではない。宗派にこだわるような信心ではないようだ。

参考サイト  稀覯本の世界 - 「開催案内はがき」    阿佐ヶ谷将棋会 文學資料


* 安成二郎の項に詳記したが、上林は再上京すると間もなく井伏を介して安成に初めて
会った。その後、上林が将棋会に参加したことで、両者の住まいが近いこと、将棋と酒が
一致したこと、そして、ともに家庭的に苦しい時期にあったことから個人的な親しい交遊
が始まった。安成は「将棋往来の上林暁君」(S41/6:「花万朶」所収)で、上林は
「安成さん」(S49/11<素面>)で、当時からのことを追想するなど、作品にお互いを
書くほどの間柄になり、往来は両者が病に臥すようになる昭和37年頃まで続いた。

* 秋沢三郎の項に詳記したが、上林が再上京して極度なスランプに陥った時、秋沢は
訪問者がめっきり減った上林宅をしばしば訪れ、将棋も指した。上林は、秋沢には
精神的に大いに支えられ、ようやく私小説に活路を見出したが、秋沢自身も自らの
文学に悩んでおり、行き詰まり打開のため昭和13年に一人で北支(中国)へ渡った。
身近に居た親友が急に遠方に去って、上林は心細く、寂しかったに違いない。
浜野との交遊の親密化は、この直ぐ後のことである。

     ・浜野修との親交  (詳細は浜野修の項

将棋会へ参加したことによって井伏、安成など会員との親交は急速に深まったが、中でも、
昭和14年からの数年間の浜野修との交遊は、“心の友”というほどに親密で、それを題材に
「二閑人交遊図」(S14)など多くの小説や随筆を書き、第5創作集「悲歌」(S16)にはその
「浜野物」の代表作を収め、浜野が序文を書いている。頻繁な往来は浜野の転居(S18)で
一段落したが、親交は浜野の死(S32)まで続き、葬儀では上林が感動的な弔辞を読んだ。

将棋会とは別に、個人的に200番勝負をして、「暁の杜--表取星番百二--里野濱」(右から
左へ横書)という標題の星取表をつけていた。 その欄外には、他の会員の名が四股名で
書かれている。 井伏は井伏川」、小田は「小田ヶ嶽」、太宰は「太宰川」、中村は「地平山」
の如く・・。メンバーたちが将棋を楽しんでいた様子が窺える。(詳細は「星取表」のこと参照)

私見で・・ 「浜野物」や秋沢ら旧友との交遊が題材の小説は、上林が困窮の真っ只中
にいる時期のことを描いた短編だが、どの作品も、重苦しさはなく、感傷に流れること
もなく淡々と綴っており、さっぱりした余韻を感じさせる。 そして、読みやすくて面白い。
心が通い合う友を持つ喜びを、日常生活のひとコマに、さりげなく素直に表現している。

後に、三島由紀夫は「二閑人交遊図」の解説に、「結局余計者の知識人の共感に
すぎぬこと」 を読み取ってほしいと書いたが(「日本の文学52」:S44・中央公論社)
これだけでは一面的に過ぎて、言葉が足りないように思う。
心が通い合うこと・・共感、共鳴は人間にとって無上の喜びであり、強い絆、
生きる力を生むが、希薄な人間関係からは生まれ難い。 戦争、病気、貧困に
苦しむ庶民生活にあっての「共感」の重さを読み取るべきではないだろうか。

上林の傑作群としてさらに高く評価されてよかろう。(該当の作品は「作品一覧」に表示)

なお、“浜野物”の最初の作品「寒鮒」(S14/2)は、「国民新聞短篇コンクール」で
太宰治の「黄金風景」と共に、優秀賞に選ばれたが、そのエピソードは太宰の項に記した。

     ・玉川屋 と 高麗神社 (詳細は「将棋会の遠足」の項

阿佐ヶ谷将棋会メンバーによる昭和17年2月5日の奥多摩御嶽渓谷ハイキングと
同18年12月23日の高麗神社参拝については別項「将棋会の遠足」に詳記した。

上林は、両遠足に参加し、戦後も、多くの随筆などでこの日を追想している。
御嶽の玉川屋には、戦後、少なくとも2回は実際に足を運んでいるのである。
厳しい、辛い日々の上林には、格別の想いが残る遠足だったのだろう。
玉川屋に残る当時の寄書きには、「杉畑に 雪残りをる 別れ寒 /上林暁」とある。
(詳しくは、別項「上林暁の「玉川屋」行」に記した。)

この両方の遠足に参加できた会員は、上林、安成、青柳、太宰の4人だけである。

そして、将棋会は、この高麗神社参拝(S18.12.23)が組織的開催の最後になった。
もちろん会員同志の個人的な行き来は続き、将棋などで気を紛らせていたが、
会員の疎開も相次ぎ、会は休眠状態にならざるを得なかった。

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終戦時まで阿佐ヶ谷界隈を離れなかったのは、上林・青柳・外村と亀井(三鷹)だった。
戦争は敗勢に傾き、一段と強化された国家統制の下で作家らの活動は低調にならざるを
得なかったが、上林は、引き続き妹たちの援けを受けて私小説執筆に意欲を燃やした。

上林 暁 作品一覧


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昭和18年~23年(“阿佐ヶ谷将棋会第4期 休眠期)の頃


= 睦子の支え - 終戦・妻の死 - 私小説一筋 =

上林 暁(明35(1902)10.6 ~ 昭55(1980).8.28  享年77歳)

昭和18年(1943) 上林 41歳。 戦況悪化、厳しい戦時体制で将棋会は休眠期に入った。
多くの作家は、国策関連を除き低調な活動を余儀なくされたが、上林の執筆意欲は
旺盛で、戦争文学とは距離を置き、専ら身近な日常生活を題材に私小説を書き続けた。

しかし、文筆収入だけでは生計維持は困難で、両実家からの経済援助を受け続けた。
妻の入院は長期にわたり、3人の子供(S6/6生、S8/5生、S12/1生)の養育をはじめ
上林一家の日常生活、家事全般は、上林の末妹睦子に頼るしかなかった。

戦争末期、妻は東京の病院に入院中で上林は疎開しなかったが、子供たちは上林の
生家に疎開させた。戦後間もなく妻は死去(S21/5)したが、睦子は東京で引き続き
上林の文学と家族を支えた。この後、上林は自身が脳出血で倒れ、睦子の献身的な
支えは上林の生涯にわたり続くことになった。


   *妹(睦子・彌生)の上京 ---

前項に、発病した上林の妻の入退院と一家への実家や妹たちによる援助について記した.。
後に、末妹の睦子は、著書「兄の左手」(S57/8)に、「私の運命の岐れ道になるとも知らずに
四国の田舎から旅立ってきたのである。」 と振り返ったが、睦子のこの助力のための
上京(S14/8)は、その後の睦子の人生を決定ずける運命の出発点だったのである。
本項は、兄上林暁の人生と文学に最後まで寄り添うことになる睦子の人生を中心に記す。

     ・家事全般、母親の役目

上林は、戦中の身内の実生活を題材に多くの小説を発表した。 人物名や内容は創作で
事実通りではないが、他の作品や資料を合せると人物の特定など実際の状況がほぼ判る。
その概略と関係する主な作品名を次表にした。 (別項「上林暁 創作(小説)集一覧」 参照)

(上林の作品以外の主な参考資料は、徳廣睦子著「兄の左手」(S57/8)、同「手織りの着物」
(S61/5)、「上林暁全集19 - 年譜」(増補決定版:H13/12)・・いずれも筑摩書房刊・・など)

妻の入退院 入院先  妹の支え(郷里(高知県)東京(天沼))  主な「妹が題材」・「病妻物」小説 
 S14.7.31入院  河北病院(阿佐ヶ谷) S14/8 睦子上京 S16/5 まで同居して帰郷
   (S14:長女8歳、長男6歳、次女2歳)
・S15/4 彌生上京、S17/7に 3人の子を連れて
 帰郷。(S16の正月前後は就職して入寮したが
 睦子の帰郷で退職、同居と察せられる)
S17/8 睦子が女の子2人を連れ上京、同居。
・S19/10、次女疎開のため上林が同行で帰郷。
 (上林は翌月帰京:この間睦子と長女は東京)
・S20/3、東京大空襲の後、長女疎開のため
 睦子が連れて
帰郷。 (上林は独居)
S20.8.15 終戦 
・S20/11 上林体調不良、付添不能で妻転院。
S20/11 睦子上京、同居。 
S21.5.3 上林の妻 永眠 享年38歳
 以降、
睦子の天沼での同居生活は続く
         (注) ( )内は初出
・「茨の道」(S16/3:彌生)

・「町子」(S16/5:睦子)
・「きょうだい夫婦」(S21/2:睦子)

   --------------
・「病める魂」(S17/4)
・「明月記」(原題「名月」:S17/11)
・「命の家」(S19/5)
・「晩春日記」(S21/2)
・「現世図絵」(S21/3)
・「遅桜」(S21/5)
・「聖ヨハネ病院にて」(S21/5)
・「夜霊」(S21/8)
・「妻恋ひ」(S21/9)  
     
 S14.8.1~S14/10   小金井養生院 
 (S14/10~S15/3) (自 宅 (約5ヵ月)) 
 S15/4~S19/5   小金井養生院 
 (S19/5~S19/8)  (自 宅 (約3ヶ月))
 S19/8~S20/9   小金井養生院 
 S20/9~S20/11   聖ヨハネ会桜町病院 
 S20/11~S21.5.3  宇田病院(多摩村)
 
(小金井養生院と聖ヨハネ会桜町病院は、現小金井市(JR武蔵小金井駅北1㎞弱)、宇田病院は、現多摩市)


     徳廣睦子と上林暁 (とくひろ むつこ=T9(1920).7.2生:上林の五番目の妹)

地元の女学校を卒業した睦子は生家にいて母の手伝いをしていたが、昭和14年7月末に、父宛に上林
の「妻の発病で困っている、八つを頭に三人の子供たちの世話をするため、ぜひ睦子をよこして欲しい」
という速達が届いた。睦子は19歳になったばかりの8月初め、東京に行けると喜び勇んで出発した。

東京駅へ着いた時、間違えて乗車口に降りたため降車口で待つ上林とは直ぐには会えず、途方に
暮れるという一幕があり、上林に連れられて着いた天沼の家は 「塀も無ければ門もない。うっかり
していると見過ごしてしまいそうな古くて小さい家」 で、「台所をのぞくと床板はぎしぎしと音を立て、
木のくさったような流しが、地面の上にそのまま置いてあった。じめじめしてなめくじが這っていた。」
という現実を目の当たりにした。そしてその日から、この6畳、4.5畳、3畳の三間の小さな家で、一家
の家事と長女(S6生:8歳)、長男(S8生:6歳)、次女(S12生:2歳)の面倒を見る生活が始まった・・。

最初の天沼生活・・初めての上京(S14/8)から昭和16年5月までの約1年9カ月である。この間には
大きな二つの出来事があった。一つは、上林の妻(=兄嫁)が昭和14年10月に退院して
翌年3月までの約5ヵ月間、自宅に帰ったことである。睦子の同居、家事援助は続いたが、
この間の状況は不詳である。兄嫁の病状は悪化し4月(S15)には再入院となった。

もう一つの出来事は、二番目の姉の彌生が、兄嫁の再入院後の昭和15年4月に上京したこと
である。彌生の夫が死去したため上林を頼って上京したもので、天沼の家に姉妹が同居したの
だろう。睦子は「手織りの着物」に、「姉と代って、新宿のⅠデパートに一寸勤めたことがある。」
と、このころのことを書いている。彌生は、この年(S15)の12月初めに工場に就職して寮に
入ったので、睦子はすぐにデパートを辞め、上林一家の世話をする生活に戻ったのではないか。

そして、翌年(S16)春、睦子の結婚を考えた生家から戻るよう指示があり、約1年9か月の天沼
生活を終り、5月に帰郷した。このため天沼の家には彌生が工場を辞めて戻ったのだろう。

2回目の天沼生活・・昭和17年7月、彌生は夏休みに入った上林の三人の子供を連れて帰郷した。
翌8月、睦子が女の子二人を連れて帰京した。(長男はそのまま残り、帰京は昭和26年になる。)

再び睦子の天沼生活が始まった。戦況は悪化し厳しい戦時下生活となったが、昭和19年5月に
兄嫁は退院して天沼の自宅に帰った。この時の様子は、小説「晩春日記」、「現世図絵」などに
描かれているが、やはり再入院が必要な状態で、3ヶ月後の8月には、上林は嫌がる妻を注射で
眠らせて小金井養生院へ三度目の搬送となった。この間も睦子は同居で一家の世話をしていた。

昭和20年3月 東京大空襲があった。天沼の家は無事だったが、睦子は上の女の子を連れて
帰郷、疎開した。2年7カ月の天沼生活だった。下の女の子は、すでに前年10月に疎開で上林
が郷里に連れて行っていた。上林は帰京したので、睦子の帰郷後は天沼で一人暮らしとなった。

3回目の天沼生活・・昭和20年11月、睦子は上京した。敗戦(S20.8.15)よる大混乱で食糧事情は
最悪の状態、国民は飢えに苦しんだ。上林は栄養失調のため著しい体調不調に陥り、9月には
またも生家に睦子の上京、助力を求めるほかなかった。当時は、東京行きの切符入手は
極めて困難だったこともあり、睦子は11月末近くにようやく上京できたのだった。

睦子は、天沼で始まった生活を、著書「兄の左手」で次のように振り返っている。
上林一家の家事を一手に引き受け、子供たちにとっては母親代わりだった。

「いたずら盛りの子供たちの洋服は、洗っても洗っても汚し、繕っても繕っても、穴が開いた。
私は毎日、掃除、洗濯、炊事、縫い物、子供のお守に追われた。東京に友達がいるわけ
でもなく、外出するようなことも、ほとんどなかった。楽しいことも、うれしいことも私には縁が
なかった。しいていえば、暇々に兄の書棚から、本をとり出して読んだり、近所にあった
電信隊の原っぱに、子供たちをつれて遊びに行き、一緒に野原をかけずり回ったり、
歌を歌ったりした。これだけが大きな息抜きであった。このような生活を送るうちに、文学と
いうものが少しずつ分りかけ、兄が文学一筋に生きる気持が分かるような気がしてきた。」



上林の妻の没後も・・睦子にとっては、兄嫁の他界は上林一家との関わりに区切りをつける機会
だったはずだがそうはならなかった。睦子は26歳、結婚は最大の難問で、両親と上林、
そして誰よりも本人が最も悩んだが、結局はそのまま天沼での生活が続いた。

上林は、折からの出版ブームで作家としての仕事が軌道に乗り東京を離れられなかった。
上林は再婚話を断った。というより、亡妻への思いから再婚は慮外だったろう。
家事は引き続き睦子に頼らざるを得ず、睦子もそれを振り切って新たな道に踏み出す
決断ができなかった。睦子は、「兄の左手」に次のように書いている(部分抜粋)。

「悲惨な兄夫婦の中に、地獄を見てしまっていた私には、結婚に対する期待感も薄れていた。」、
「人の子の面倒も見て、後妻の立場のような苦労も、いやっ、と言うほど味わった。当分は
自由に生きたいと思った。」、「複雑な新しい生活に飛び込む勇気が私には持てなかった。」

兄嫁の死後、自由に生きたいと思い、デザイナーになる夢をもって洋裁学校に通い、デパート
の洋栽部に勤めたが挫折を味わい、死ぬという確たる決心もなくガス栓を開いてガス中毒に
なり1ヵ月間意識不明で入院、数年間は後遺症に苦しんだことも書いてある。

上林は、このころ(S24)の睦子とのことを題材に「聖書とアドルム」(S25/1・<改造文藝>)を書いた。
妹(小説では満子)は、18歳で上京以来、青春の時すべてを兄の生活と文学に費やし、30歳の節目を
迎えて婚期を逸した自身の生き方に心を乱す。兄は、子供の成長(長女は18歳)もあり、これまでの
妹の献身に深く感謝し、幸せを切に願う気持から、結婚など兄を離れた新たな方向を勧める。兄妹が
お互いを思い遣りながら葛藤する姿が描かれるが、おそらく、ほとんど事実に即した内容だろう。

特に戦中戦後の社会を知る者の心に沁みる一篇だが、現実はこの状態がしばらく続いて2年後、
上林が脳出血で倒れ(S27/1)、睦子の人生は上林の生活と文学から離れられなくなる。


----------- 天沼の時は流れた -----------

上林の発病(脳出血)・・天沼で上林の生活の世話をするうち、郷里に疎開した上林の子供たちが
昭和23年から順次帰京し、睦子は再び父子四人の家事全般の面倒を見るようになった。
昭和27年正月(睦子31歳)、上林は軽い脳出血で倒れた。回復したが、昭和37年11月に
再び脳出血に襲われ、今回は右半身不随、歩行不能で病床生活を終生余儀なくされた。

上林の執筆意欲は衰えず、睦子は日常の家事・介護とともに、執筆をも援ける生活になった。
言葉にならない言葉の口述、わずかに動くだけの左手で書いた文字の原稿化は睦子だけに
しかできなかった。上林の子供たちは、それぞれが順次独立して天沼の家を離れた。
(睦子の随筆の題名「兄の左手」(S57刊)は左手だけが辛うじて動いたことに由来する。)

睦子の人生・・上林は昭和55年に77歳で没するが、この時睦子は60歳、最後まで付き添った。
上林の人生と文学は、睦子の存在がなければ成り立たなかった。
睦子からすれば、人生のすべてを兄の生活と文学に捧げたのである。

このことについて、睦子は「兄の左手-26」に人生を総括するように真情を吐露した。
前向きに生きる姿勢がみえるが、青春時代は昭和の大戦と敗戦の混乱の中に
しかなかった女性の苦衷もにじむ。そのいわばキーワードの部分を次に抜粋する。


「長い、長い、兄と共に生きた苦しみの日は終わった。」 「飛び出したいと思わない日はなかった。」
「私を踏み止まらせたもの、それは先生(注・主治医)のいう血のつながりと、それに兄の文学を
大成させてやりたいという、願望だったのではあるまいか。」 「『青春も結婚も投げうって、後悔
しませんか』 私はよく人から聞かれることがある。後悔してみたところで、悲しくなるだけのことで、
人生が逆に廻るものでもない。それに後悔することは、自分の人生を否定することにもなる。 
私は運命に従い、自分なりに精いっぱい生きたという思いによって支えられている。私にとっては、
これからをいかに生きるかということが、より問題なのである。」
 

上林没後、睦子は一人天沼の家に留まり、上林の遺した膨大な草稿、資料類の
整理、保存に携わり、既述のように講演、執筆などを通じて上林文学を後世に
伝える活動を続けた。近年は「上林暁の文学資料を公開し保存する会」(代表・
萩原茂、サワダオサム:H21発足~H27解散)の名誉代表を務めるなどした。

上林は、「死後の印税の全部を睦子に贈与する」 (S51/10)と書いていた。
睦子は、印税のことよりも、この気持に応えようとしたに違いない。

睦子さんは今年(H27)95歳。長年住み続けた天沼の家から転居した。
玄関に掲げてあった二つの名前の表札 「德廣巖城 上林 曉」 は無い。

家屋はまだそのままだが(H28)、形を変える日はそう遠くないだろう。
上林兄妹の足跡が残る街の姿が変わる。昭和はどんどん遠くなる。

     彌生(二番目の妹)の支え (やよい:S47没 享年57歳:徳廣家次女)

上林とその家族を支えたもう一人の妹が二番目の妹 “彌生” である。上林の年譜によれば、
昭和47年1月に胃癌のため57歳で死去した。睦子からは6歳くらい年長の姉である。

昭和6年春、上林の妻は第一子(長女)を高知の実家で出産したが、産後の肥立ちが悪く
約1年間そこに滞在した。彌生は16~17歳だったが、その実家へ手伝いに行った。
次いで、昭和8年、第2子(長男)出産時、上林の妻は体調不良のため、上林と別居して
半年以上を鎌倉で暮らしたが、この間、彌生は上京して上林の身の回りの世話をした。
上林は改造社勤務の時代で彌生は20歳前くらいだが、間もなく郷里で結婚した。

ところが、夫は入籍前に急死し、彌生は嫁ぎ先で長期間不安定な立場で悩まされた末に
昭和15年4月に家出のようにして上京した。(夫の死亡は、上林は病死と書いているが
睦子によれば戦死で、日中戦争初期の昭和12~13年頃の戦死というのが事実だろう。)

上林は、随筆「十年前ニ十年前」(S36)に、昭和16年について 「私の身の周りを見てくれて
いたのは、二番目の妹であった。(その前と後とは、五番目の妹である。)」と書いている。
小説「花の精」(S15/9)の“三番目の妹”、「茨の道」(S16/3)の主人公 “わたし(富子)”
「夏暦」(S20/11)に登場する妹は、いずれも “彌生” であることが解かる。

-------------------- 時は流れて --------------------

その後の彌生の生活状況は不詳だが、昭和40年1月に上京して上林を見舞い、看病しながら
3月中旬まで滞在した。 翌年(S41)1月にも再度上京し3月まで看病して帰った。

睦子によれば、身内を題材にした上林の小説のことで、福岡在住の長男夫婦と睦子との間で
トラブルが生じ、長男が上京したことがあったが、丁度上京中の彌生がこれを収めたという。
この小説は「包丁のあと」(S41/2・<群像>)と特定できる。長男(夫婦)が題材で、発表時期と
彌生の上京時期とが合致すること、この後、しばらくは、上林は小説を発表していないこと、
などがその根拠である。(「包丁のあと」は、「上林暁全集12」(筑摩書房)所収)。

彌生は57歳で逝った。この時、上林は69歳。長年にわたり支え、尽くしてくれた妹の方が、
10年間も病床にいる高齢の自分よりも早いとは・・、上林が受けた衝撃は大きかったという。


このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *終戦前後の上林 ---

     ・旺盛な文学活動 

昭和19年になると疎開が始まり空襲が現実になった。紙不足、言論統制の徹底で戦意高揚作品
以外は一段と発表が困難になった。作家の多くも疎開を始め、検閲圧力で書けず、書かずの状態に
なったが、上林は疎開せず天沼に留まった。妻の入院付添の事情もあったが、執筆意欲は引き続き
旺盛で、自ら拓いた私小説の発表を続けるためには東京を離れられないという気持もあっただろう。
子供たちは順次疎開させ、家事は睦子に頼り、睦子と長女が疎開(S20/3)すると独居して執筆した。

この時期の上林と太宰治の発表小説を下表にした。終戦前後の太宰の活躍には定評があるので
参考になろう。上林の「散花」、太宰の「散華」は戦争が題材だが、基本的に両者とも戦争、
戦意高揚とは距離を置いている。(太宰の国策協力作品とされる「惜別」については別項に詳記)

上林の戦争末期(S19~S20/8)の発表小説 (参考:太宰治の小説)
                       (注:刊行は戦後だが、出版手配は終戦(S20.8.15)前を含む)
 初出年月  上林暁の小説    (参考) 太宰治の小説
題 名  題材など備考    題 名  題材など備考 
S19


上林
 (42歳)

太宰
(35歳)
 1   小便小僧  自分の子供    佳日  知人モデル 
 1        新釈諸国噺  西鶴翻案 
 3        散華  知人モデル 
 5        雪の夜の話  
 5  命の家  病妻     武家義理物語  西鶴翻案 
 6  冬営  自身の家      
 8  第8創作集
  「機部屋三昧」
 S18発表の小説を
 主体に16篇を所収
   東京だより  
 9        貧の意地  西鶴翻案 
 10        人魚の海  西鶴翻案 
 11        髭侯の大尽  西鶴翻案 
 11        津軽  書き下し長編(自身)
S20


上林
 (43歳)

太宰
(36歳)
 1  散花  郷里の特攻隊員     新釈諸国噺  西鶴翻案(上記+7篇) 
 1  北国  自身      .
 3  唱歌  自身:隣家の家族      
 3  めぐりあひ  自身       .
 4        竹青  聊斎志異翻案 
 7  閉關記  自身       
 9    .    惜別  書下し長編(20/2) 
 10 .  .    お伽草子  お伽話翻案(20/6) 
11
第9創作集
「夏暦」所収
 猿橋  浜野:書下し(19/7)       
 山羊供養  自身:書下し(20/4)       
 夏暦  自身:書下し(20/6)       

(初出誌、収録全集など詳細は別項参照 = 「上林暁創作(小説)集一覧」 ・ 「太宰治:作品一覧」

一見して題材の違いが分る。太宰は翻案を主体にし、他に長編二篇があり、質量感とも
十分で高く評価されるが、上林は身辺生活を題材にした短編で、如何にも地味である。
私小説を貫き、物語的盛り上がりに乏しい小品の感は免れないが、敗色濃厚な戦時下で
病妻と三人の子供を抱えて苦闘する自分の生き方、感性を率直に冷静な筆致で綴った。
そこに生きなければならない一庶民の姿であり、共感を覚える読者は多かっただろう。

戦後になると、日本の民主化は急速に進み出版界、文筆家の対応は素早かった。紙不足の
状態は続いたが雑誌の復刊、創刊は相次ぎ、いわば出版ブームの到来でジャンルを問わず、
既成作家に加え、戦後派といわれる新進作家も続々登場するなど、文壇は活発に動いた。

上林の文学活動も、この出版ブームに乗って一層活発化した。題材は終戦前と変わらず
、私小説一筋だが、戦後間もなく入院中の妻が死去し(S21.5.3)、妻関連の作品が目につく。
これらの作品は、雑誌発表後、間をおかずに順次、創作集、自選集、随筆集を刊行して
収録した。終戦前の発表作や重複収録も混じるが、上林の強烈な文学活動意欲が伝わる。

上林の戦争末期から終戦直後刊行の創作集など一覧

 作品区分 表 題  発行日  表題作を含む収録数など
創作集

(全29冊中
     の7冊)
      
 第9創作集 「夏暦」  S20.11.25   8篇終戦前の刊行手配
 第10創作集 「閉關記」  S21.11.20   10篇(第11創作集の後に刊行)
 第11創作集 「晩春日記」  S21.9.10   10篇:亡妻の霊を慰める意
 第12創作集 「嬬戀ひ」  S22.2.5   8篇:病妻関連主体
 第13創作集 「死者の聲」  S23.1.20   8篇:病妻関連を含む
 第14創作集 「晩夏楼」  S23.12.20   10篇:自身の心境
 第15創作集 「開運の願」  S24.3.15   10篇:S23の執筆
自選創作集

(全11冊中
   の7冊)
       
 二閑人交遊図  S21.12.31   5篇(郷土詩人・町子など終戦前作品)
 紅い花  S22.4.25   9篇(悲歌・天草土産など終戦前作品)
 海山  S22.9.15   9篇(薔薇盗人・流寓記など終戦前作品)
 花の精  S22.11.25   5篇(明月記・離郷記など終戦前作品)
 病妻物語  S23.6.10   8篇(聖ヨハネ病院など病妻関連)
 星を撒いた街  S23.10.25   9篇(野・安住の家など終戦前作品)
 聖ヨハネ病院にて  S24.8.25   7篇(「野」など好評を得た作品)
 評論感想集  文学の歓びと苦しみについて  S22.11..10   随筆類全10冊の内の1冊・全30篇

(収録作品、出版社など詳細は別項参照 = 「上林暁創作(小説)集一覧」 

上林の作品は、この時期に活躍した太宰治の人気、名声、話題性に隠れがちだが、刊行の実績
を見ると、当時は相当高く評価されていたといえよう。しかし、現在では、注目されることも
読まれることも少なくなっている。上林の私小説は、極く普通の日常生活の中の庶民の姿であり、
小説の舞台となった時代環境が大きく変化した現在では理解し難い面もあろうが、時代を超えた
人間性、生き様が作品の柱であることは確かで、再評価されて然るべきと思うが如何だろう。

     ・疎開せず、警防団員

疎開は中村の後、井伏、小田と続き、木山は渡満するなど、多くの会員が阿佐ヶ谷界隈を離れたが、
各会員の様子は別項目に詳記)上林は疎開せず、妻の入院看護と執筆に専念した。昭和19年の
秋になると、東京も空襲にさらされ、酒や将棋を楽しむ余裕は消えていった。上林は、荻窪地域の
警防団員になったが、口の悪い連中からは「酒が飲めるからだろう」とからかわれたとか・・
妻の入院という厳しい現実の中で、私小説作家として東京で真面目に懸命に生きる姿だった。

大勢が集まって将棋を楽しめる世相ではなく、阿佐ヶ谷将棋会は休眠期だが、個人的には行き来して
酒や将棋を楽しむことはあった。例えば、中村地平が宮崎へ疎開する際には、上林、井伏、木山、
太宰は、送別会(S19.4.14)をした。このころは、酒を飲ませる店がなくて困る状況だったが、太宰が
小田嶽夫の紹介で知った新宿の“八重ちゃん”の家で二次会ができた。太宰から小田へのハガキに、
上林が酔って大きな声を出したので顰蹙をかってみんなが追い出されたというエピソードが残っている。

     ・終戦 - 妻の死 - 阿佐ヶ谷会の復活

昭和20年8月15日終戦。上林は、睦子の帰郷(S20/3)後は、天沼の自宅で一人暮らしだったので、
そこで玉音放送を聞いたのだろう。どんな感慨を持ったかは不詳だが、入院中の妻の看護と長期の
自炊生活で体調を崩していたようだ。翌9月には、またも睦子に援けを求め、睦子は11月に上京した。

この時、上林の妻は多摩村(現多摩市)の宇田病院にいた。発病時からの入院先の小金井養生院は
戦後すぐに閉鎖となり、妻は隣接する聖ヨハネ会桜町病院に転入院したが(S20/9)、上林が体調不良
により付き添いができなくなったため、付き添い不要の宇田病院に転入院(S20/11)したのである。

上林の妻は、睦子が病院へ見舞いに行った日の翌日、昭和21年5月3日に栄養失調による
極度の衰弱のため 最期を看取る人もなく 38歳という短い生涯を閉じた。
上林と睦子、それに在京の親戚二人の四人で野辺送りを行い、翌年10月に、上林は遺骨を
携えて帰郷し、11月3日(S22)に、子供たちと告別式を行い、埋骨した。

上林は、睦子の援けで、折からの出版ブームに対応して執筆に専念した。
再婚話もあったが、亡妻への思いから再婚は慮外だったろう。 再婚はせず、亡妻を
主題にした小説や随筆を何篇か書いている。妻への償いの気持を込めているように思う。


戦争直後の混乱は続いたが、阿佐ヶ谷将棋会は昭和23年2月に将棋抜きの純然たる
酒飲みの会である「阿佐ヶ谷会」となって復活した。上林はこの復活に深く関わったが、
復活経緯は別項目に詳記したので本項では割愛する。
上林は、この阿佐ヶ谷会の主要メンバーの一人だった。

     ・太宰治の自殺に衝撃

太宰治は、昭和23年6月13日に玉川上水に入水心中した。太宰の死を主題に、小説「更年期」
(S23/9<世界文化>)を書いた。人物は仮名だが特定でき、事実に沿っている。これによれば、
上林は、戦後は青柳瑞穂の妻の告別式で太宰の姿を見かけただけだが、この太宰の死には
強い衝撃を受けた。他人事でなく身につまされるような思いに悩み、不眠症が嵩じた。思いきって
告別式に行ったことで吹っ切れたというが、年譜によれば不眠症はその後も数年間続いたという。

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上林は、自選創作集「病妻物語」(S23/6・小山書店)の「あとがき」に次のように書いた。

「戦争と病妻と、この二つの業苦に堪へねばならなかった長い歳月は、
もう二度と繰返したくない。たとへ傑作が書けると言はれても、繰返したくない。」

上林にとって、阿佐ヶ谷将棋会第3期「盛会期」、第4期「休眠期」は、この述懐がすべてだろう。

凄絶な実生活だったが、文学への執念と実家や妹たちの理解と献身的な援助によって、
私小説の道を拓いた。そして、井伏、浜野、安成、秋沢ら 会の仲間たちとの交遊も
心の支えにして乗り越え、さらにその道一筋、最後まで歩き続けるのである。

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上林 暁 作品一覧
 

  *戦後の時は流れて ---      

     ・二度の脳出血 - 闘病・執筆

戦後の復興期、文学界は作家らの文学活動の自由、発表の場は確保され、いわれる戦後派作家の
活躍が目立ち、芥川賞・直木賞も復活(S24)するなど活況を呈する中、上林は引き続き私小説一筋に
多くの短編小説を発表し、さらに数篇~10篇をまとめて創作集にして刊行した。
上表にある第15創作集「開運の願」(S24)の後、14冊を刊行し、
生涯で計29冊の創作集、1冊の俳句集、11冊の自選創作集、10冊の随筆・随想集を残した。

この間、上林は昭和27年正月、49歳時に脳出血で倒れた。好きな酒を断つなど懸命な努力で回復
したが、酒は3年後に再開していた。そして、昭和37年11月(60歳)、重度の脳出血に襲われた。
右半身不随、歩行不能となり、昭和55年8月に77歳で没するまで終生病床生活を余儀なくされた。

しかし、上林の執筆意欲は常に旺盛で、一時期にスランプはあったが、睦子の援けで執筆を続けた。
半身不随になってからは、言葉にならない言葉での口述、わずかに動くだけの左手で書いた
字にならない字を睦子が原稿化した。 睦子以外にはできない難しい仕事だった。

井伏鱒二は、「上林暁氏を悼む」に、次のように書いている。

「上林君の作品は、二度目に発病してから後のものが一段と見事である。私は雑誌で
読みながら、そのつどそう思った。発病すると、こんなにも作品がよくなるものか。
覚悟が出来たというわけだ。それなら俺も発病してやろ。
ふと一瞬、そう思ったことがあった。」(初出:S55/11<すばる>)


井伏らしい独特の表現で上林の作家魂と作品水準を称賛している。文学賞受賞の
「白い屋形船」、「ブロンズの首」はこれに該当し、睦子は嬉しかっただろう。

ほかにも、「諷詠詩人」など上林の戦後の作品は高く評価されることが多いが、評価というより
好き嫌いという尺度で戦前の初期作品を推す専門家、読者も多い。苦しい現実の中にあって
懸命に生きる庶民の姿、人間同士の触れ合いを、そのまま自然に清々しい流れで描く
好篇が多く、私(HP作者)個人としては後者で、上林作品の幅の広さを感じるところである。

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上林の作品は、『上林暁全集 増補決定版 全19巻』(2000~2001筑摩書房)に
網羅、収録されている。1,000編を超える全作品は、第19巻の巻末に100頁余の
「書目」・「年譜」・「索引」によって解りやすく整理されており、しかも、「書目」には
創作集などの「序」あるいは「後記」を載せるなど、配慮が行き届いている。


上林 暁 作品一覧

     ・叙勲、受賞などの栄誉

上林が、真面目にコツコツと積み上げた地道な努力が報われたといえよう。
次の通り、晴れがましい叙勲などがある
睦子は、二つの文学賞の授賞式に上林の代理で出席した。
感激も一入だったろう。これらの時のことを「兄の左手」(S57)に詳記した。

*昭和34年(1959) 57歳 :創作集「春の坂」(S33)で 第9回 芸術選奨文部大臣賞

*昭和40年(1965) 63歳 :創作集「白い屋形船」(S39)で 第16回 読売文学賞

*昭和44年(1969) 67歳 :日本芸術院会員

*昭和47年(1972) 70歳 :勲三等瑞宝章

*昭和49年(1974) 72歳 :「ブロンズの首」(S48)で 第1回 川端康成文学賞

     ・揮毫、文学碑など

「こころのふるさと 上林暁」(H10:上林暁文学館編集)によれば、上林は書についても一見識
を持ち、斎藤茂吉の字を思い浮かべて書き、筆書の原稿や色紙を見ると茂吉の字に似通う
ところがあるという。 乞われて書いた色紙、短冊がかなり残っているとのことである。

上林の色紙・短冊や文学碑・記念碑の文言

{色紙・短冊にある主な文言}
  
  *
「見ずや竹の聲に道を悟り 桃の花に心を明らむ」(「正法眼蔵随聞記」の中の言葉)
    ・阿佐ヶ谷将棋会(S14/6)の寄せ書きにも書いたが、上林が好んだ言葉で、よく色紙などに書いた。

  *
「人生には直路ばかりはない 迂路もまた歩かねバならぬ」

  *「天の星を叩き落さうとハ思はない 地の落花を集めたい


  *
「五十でハまだ何もかも気障、六十になれば自在でありたい」


{文学碑・記念碑にも刻まれた文言}
  
  *
「四万十川の 青き流れを 忘れめや」 (S43/5建立:中村市為松公園)

  *
「梢に咲いてゐる花よりも 地に散っている花を 美しいとおもふ」 (S43/10建立:黒潮町入野松原:
     川端康成の染筆による「上林暁生誕の地」の記念碑と共にある。)

  *「上林暁文学碑 春夏秋冬」 (S44/5:天草(熊本県)の上林所縁の旅館岡野屋が内庭に建立)
 

  *
「文芸は 私の一の芸 ニの芸 三の芸である] (S48/1建立:母校(現・高知県立中村高校)) 

  *努力の碑」 (S48/12建立:母校(現・黒潮町立 田ノ口小学校)の記念碑)

 (「こころのふるさと 上林暁」(H10:上林暁文学館編集)には、これらの写真が載っている。)

 参考サイト   大方あかつき館 (上林暁文学のふるさと=文学館、図書館など複合施設)

     ・睦子への感謝-「遺書」

上林は、死の4年前の昭和51年10月に、次の内容の文面を認めた。「遺書」といえよう。

「死後の印税の全部を妹睦子に贈与する」

上林の感謝の気持が形として表され、その心を睦子はどんなに嬉しく思ったことか・・

このことは「兄の左手-13」(S57)に詳しく書いてあり、当時、上林が懇意にしていた浅見淵と
古書店主関口良雄(著書に「昔日の客」)の思いが働いたようだ。睦子が、“私が死んだあとは、
兄さんの子供たちにいくようにする”と言うと、“そうしてくれると、有難い”と涙を浮かべたという

     ・作家魂の受難者

上林は、「七度生まれ変わったとしても、文学をやりたい」と言ったという。
文学を志してからその熱意は衰えることなく、まさに執念となり作家魂を燃やし続けた。
しかし、これが一方で、睦子をはじめ身近な人々の生き方を左右したことも確かである。
睦子は、「兄の左手」に次のように書いている。

「私のみでなく、精神病になり、38歳の若さで死んだ兄嫁も、幼くして母親から引きはなされ、
淋しい幼時を過ごさねばならなかった子供たちも、また、兄の文学の受難者であると言えよう。
さらには、孫の面倒まで見、兄の病気で最後まで苦労しつづけて死んだ母も、そういえる
のではあるまいか。 『七度生まれ変わったとしても、文学をやりたい』と兄は言った。
私には もう二度とお付き合いをする気力はない。」

睦子の真情の一端だろう。母や子供たちの人生にも、確かに上林暁という私小説作家の
作家魂に左右された部分があろう。ただ、睦子もそうだが、複雑な心情ではあっても
肉親として、結局は受難者というより運命・宿命として受け入れたのではないだろうか。

妻の場合には痛ましいの一語に尽きる。上林の作家魂が改造社を退職させ、大スランプ
になっても筆を棄てさせなかったのである。筆一本の人生に固執しなければこの痛ましい
結果だけは避けられたかもしれないという意味では受難者と言ってよかろう。
妻の発病の原因などについて、前項に記したのでその部分を再掲する。

私見で・・、妻の発病の原因特定は難しいとしても、上林自身が示唆しているように
二人の結婚への思惑や性格の違い、長期の貧乏が強く影響したことは確かだろう。
“改造社の徳廣巖城” から “筆一本の上林暁” へは、“生活者”という観点では両者は
ほとんど別人であり、当時の時代環境も相俟って、妻は対応不能に陥ったと考える。

上林は、その後、私小説作家として昭和文学史上に名を成したが、その前に消えた
妻の命、短い薄幸の人生があったことを思うと胸が痛む。 しかも、上林の盛名を
確固たるものにしたのは「病妻物」であり、運命の残酷さを思わずにはいられない。

  *終 章 ---

昭和55年7月、肺炎のため主治医の前田病院(天沼)に入院した。肺炎は軽快したが
脳血栓を起こし、遂に8月28日、帰らぬ人となった。享年77歳。
「秀夫君」と題する作品の下書19枚が残されていた。

9月1日 荻窪の古刹光明院で葬儀と告別式が行われた。
葬儀委員長は尾崎一雄で、弔辞は、山本健吉、有光次郎、河盛好蔵、瀬沼茂樹、
渋川驍、福田清人が読み、喪主徳廣郁夫(長男)が挨拶した。

光明院は、上林に「光明院の鐘の音」(S29/7<別冊文芸春秋>)という小品があり、
上林の心に深く刻まれた寺であることが判る。上林を送るに最も相応しい式場だろう。
小説の中で父に手をひかれていた長男が・・、この日、その場で喪主として挨拶した。

9月22日、遺骨は睦子と長女の手によって郷里の生家へ帰り、同24日、菩提寺である
長泉寺(臨済宗)の住職によりあらためて葬儀が行われ、徳廣家の墓所に埋骨された。

戒名 「文學院碧巖暁天居士」

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最後に、河盛好蔵の弔辞の後半部分を抜粋する。

「(前略) 上林君、あなたと共に伝統的私小説の砦を守ってきた尾崎一雄さんは、あなたの
訃をきいて、「本人は人生からいじめられていたようなものだが、ひねくれず善意の人生
肯定派だった。えらい人だった。」と話しておられます。僕も全くそう思います。あなたは流行
作家にはなりませんでしたが、あなたの心からの愛読者は日本国中に散らばっています。
上林文学は不朽です。上林君 どうか安らかに眠って下さい。
                     昭和五十五年九月一日  河盛好蔵


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                      (「睦子の支え - 終戦・妻の死 - 私小説一筋」の項 H28/1 UP)

上林 暁 作品一覧

   
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「上林 暁」 の項     主な参考図書

『小伝 上林 暁』  (門脇照男著 1998/3 大方町教育委員会)
『こころのふるさと 上林 暁』 (上林暁文学館編集 1998/3 大方町教育委員会)

『兄の左手』 (徳廣睦子著 1982 筑摩書房)
『手織りの着物』 (徳廣睦子著 1986 筑摩書房)

『上林 暁全集 増補決定版 全19巻』 (上林 暁著 2000~2001 筑摩書房)
(「第19巻」の巻末にある「書目」・「年譜」は、本項の主要参考文献である)

『日本近代文学大事典』      (S53  講談社)
『酔いざめ日記』   (木山捷平著  S50/8  講談社)
『花万朶』  (安成二郎の著作集 S47/12 同成社)所収から
「将棋往来の上林君」 (S41/6)

『阿佐ヶ谷文士村』   (村上 護著 1994  春陽堂)
『阿佐ヶ谷界隈の文士展』 (杉並区立郷土博物館編集発行 H1)



***********************************************************

(別記)  「薔薇盗人」の読み方に関して・・

本項では、以前から文学辞典に拠って「ばらとうにん」のふりがなを付していたが、
先般、上林研究者から、「普通はばらぬすびとと読む」と指摘があった。(H23/12

そこで、この読み方(ふりがな)を文学辞典や図書館蔵書で
調べたところ、私が確認した範囲で次の三通りがあった。
「ばらとうにん」・「ばらぬすびと」・「ばらぬすっと

(詳細は下表「読み方一覧」: 以下、「ばら」は省略)

作品の題名をこのように安直に扱っていいものかと疑問に思い、著者の
意思を確認すべく、著書や関係資料を調べてみたが、結論は、やはり
「著者は明示していないので、読み手が判断するしかない。」であった。
(発表時(S7<新潮>)およびその後の個人全集収録にあたり、
上林は「薔薇盗人」に読み方(ルビ)を付していない。)

それにしても・・、上林は「薔薇盗人」を「自作自解」(1960)などで取りあげて、
「書き出しを決めた時は「薔薇盗人」という題名は未定だった」、  
 ・
「題名は「ヒルデスハイムの薔薇」(堀辰雄訳)から思いついた」、
「井伏は、君の薔薇ドロボーという作品は面白かったと云った」、 
ことなどを書きながら、
何故、著者としての読み方を示さなかったのだろう?

発表からすでに長い年月を経ており、あえて示さなかったのかもしれないが、
特に
「ヒルデスハイムの薔薇」 (注1) との結びつきは理解しにくく、せめて、
「狂言 “花盗人(はなぬすびと)” から」 (注2) なら得心できるのだが・・。


なお、小説本文中の「薔薇盗人」(二カ所)にも、上林はふりがなを付していない。
また、ひらがなで「ぬすっと」が一カ所あり、それには傍点を付している。

(全集等の収録をみると、本文中に「ぬすびと」のふりがな付きが何点かあるが、
私が確認した範囲では、底本は明確でなく、ふりがなに関する説明もない。
編集者の一存によるもので、上林は関知しないふりがなだろう。)


下表(“読み”一覧)から分かることは、文学辞典類には「とうにん」が多い。阿佐ヶ谷会で
上林と親しい浅見淵の執筆も含めて、上林存命中(1980没)の発行は
「とうにん」 ばかりだが、その根拠を示す記述は見当たらない。
国語辞典で「盗人」を調べると、「ぬすびと」、「ぬすっと」、「ぬすと」 とあり、
大きな辞典には「とうじん」が載っているが、「とうにん」 はない。
にもかかわらず 「とうにん」 としているのは、上林に確認しているからだろうか?

明治書院は、最近の刊行で「ぬすっと」に変えたので、その根拠を問い合わせた
ところ、「原著作から確定できないので、先行資料や国会図書館の検索カード、
本文の叙述などを参考にして執筆者が判断したと思われる。」 とのことだった。

なお、、ネット上でも、ルビを付しているサイトは、ほとんどが
「とうにん」 である。文学辞典を根拠にしているのだろう。

国会図書館蔵書検索(NDL-OPAC)によれば、金星堂刊(1933)には「ぬすっとで、
麦書房刊(1969)には「ぬすびと」とある。
金星堂刊(1933)の「ぬすっと」は「ぬすびと」に変更され、統一された。(2012.3.6)

東京都内の図書館は「ぬすびと」で一致している。

「薔薇盗人」は、文化放送でラジオ放送されており、その台本の表紙から、放送は1959
と推定できる。上林は「自作自解」(1960)に「放送の朗読を聴いた」と書いているので、
この放送のことだろう。 この時、何と読んだのか分かれば決め手なので問い合わせ
たが・・・、1年を経て回答はない(S25/4)。半世紀以上も昔のこと、不明なのだろう。


なお、1998年9月、上林の出身地高知県の上林暁顕彰会々長(当時)植田馨は、次のように
書いている。(「『薔薇盗人』の読み方」(H10/9・あかつき文学館発行「あかつき」)を要約

「『とうにん』という読み方があることに驚き、その根拠を新潮社に照会したり、上林の
ご遺族や関係者に問い合わせたりしたが結局は判然としなかったので、文学辞典の
大勢である 『とうにん』 に従うことにした。」 だが、しかし・・、
「私の気持はこれですっきりしたわけではない。上林さんに 「海山」 という小説がある。
その読み方について上林さんは、 『うみやま』 でも 『かいざん』 でもどちらでもよいと
創作集の後記に書いている。 『薔薇盗人』 についても、『ばらぬすびと』 でも
『ばらぬすっと』でも、はたまた 『ばらとうにん』 でも、好きなように読んでくれよ、
と天界で苦笑されている上林さんの顔が目にちらつくのである。」 と結んでいる。



私見で・・著者が明示していないので読者は自分流に読めることになるが、
私は、「ばらぬすびと」 と読むことにした。
先に、「狂言 “花盗人” から思いついた」 なら得心できると記した所以である。
井伏の云う「ドロボー」は明解だが、“読み”とするのは無理であり、
「とうにん」
では味もそっけもなく、「ぬすっと」 は “悪人” という意味合いが濃いように思う。
上林の眼は、貧農の子、微妙な年頃の仙一少年の心の奥に注がれているので
「ぬすびと」 ならイメージが浮かぶのである。

「小説の題については、苦心する方である」、「文を楽しむ型の作家である」と
自認する上林である。題名や文言にはそれなりの思いを込めているはずだが、
もし、「薔薇盗人」に特に意味はない。好きに読んでくれ” ということなら、
この題名が最も相応しいのか考えさせられるところで、むしろ、原型である
高等学校時代の習作の題名 「校門際の薔薇の花」 の方がよかったとも思う。

いずれにしろ、“上林の読み” が分からないのは口惜しい限りである。

==文学辞典、図書館蔵書などにおける「薔薇盗人」(上林暁)の“読み”一覧==

(浅田次郎著「薔薇盗人」(2000:新潮社)は、表紙および題名に
「ぬすびと」のルビがあるので、このような問題は生じない。)

 私が確認した主な資料 “読み”(ふりがな)  発行年  発行(編・氏名は執筆者)
 「日本文学史 改訂新版」(総説年表) 索引で 「とう」 の扱い 1964  至文堂(川口朗)
 「現代日本文学大事典」  「とうにん」  1965  明治書院(浅見淵) 
 「新潮日本文学小辞典」 「とうにん」  1968  新潮社(福田宏年)
 「新版 日本文学史 8」 (年表)  索引で 「とう」 の扱い 1973  至文堂(川口朗) 
 「日本近代文学大事典 第6巻」  索引で 「とう」 の扱い 1978  講談社(日本近代文学館編) 
 「現代日本文学大事典」(増訂縮刷版)   「とうにん」  1981  明治書院(浅見淵)  
 「増補改訂 新潮日本文学辞典」 「とうにん」  1985  新潮社(福田宏年)
 「日本文学作品名よみかた辞典」  「とうにん」  1988  日外アソシエーツ 
 「こころのふるさと 上林暁」  「とうにん」  1998  大方町教育委員会(上林暁文学館編)
 門脇照男著 「小伝 上林暁」  「とうにん」  1998  大方町教育委員会
 .  .
 近代文学作品名辞典
 - Weblio 辞書・百科事典(ネット公開)
「とうにん」  -   日外アソシエーツ
       
 「詳解 日本文学史」(三訂版)   「とうにん」  1997  桐原書店(国語授業用) 
       
 「日本現代文学大事典」(作品編)  「ぬすっと」 1994  明治書院(田中栄一) 
 「増補縮刷版 日本現代小説大事典」  「ぬすっと」 2009  明治書院(石割透) 
 .  
 国会図書館蔵書検索(NDL-OPAC) 「ぬすっと」→「ぬすびと」  金星堂刊(1933)の“よみ”
 国会図書館蔵書検索(NDL-OPAC) 「ぬすびと」  麦書房刊(1969)の“よみ”
 .  .  .  .
 都立多摩図書館蔵書検索 「ぬすびと」
 杉並区立図書館蔵書検索  「ぬすびと」
 中野区立図書館蔵書検索 「ぬすびと」
 目黒区立図書館蔵書検索  「ぬすびと」
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 河出書房新社刊(1957)
     「日本国民文学全集 31」所収
 
 全集中の「昭和名作集V」所収の題名に「ぬすびと」のルビ:底本記載なし
 同社(1969)「日本文学全集31」所収は、本文1カ所に「ぬすびと」のルビ 
 麦書房刊(1969)「薔薇盗人」  本文1カ所に「ぬすびと」のルビ(他の簡単漢字にもルビ付):底本記載なし 
 集英社刊(1969)
        「日本文学全集 52」所収
  
 本文1カ所に「ぬすびと」のルビ(他の簡単漢字にもルビ付):底本記載なし
 同社(1975)「日本文学全集52」所収も同じ
  
 北宋社刊(1978)
          「紅い花 青い花」所収
 
 本文1カ所に「ぬすびと」のルビ(他の簡単漢字にもルビ付):底本記載なし
 本書を底本とした同社刊「花と風の変奏曲」(1994)所収も同じ
       
 新潮社刊(新潮文庫:1949)
        「聖ヨハネ病院にて」所収
 「薔薇盗人」にルビなし   
 講談社刊(1965)
     「日本現代文学全集 64」所収
 
 「薔薇盗人」にルビなし
 同社「聖ヨハネ病院にて 大懺悔」(文芸文庫:2010))所収も同じ
 筑摩書房刊(1967)
     「現代日本文学全集 69」所収
 「薔薇盗人」にルビなし
 同社「現代日本文学大系65」(1970)、「上林暁全集」(1966・1977・2000)所収も同じ
 
 中央公論社刊(1969)
         「日本の文学 52」所収
 
 「薔薇盗人」にルビなし 
 小学館刊(1988)
        「昭和文学全集 14」所収
 「薔薇盗人」にルビなし
 高知新聞社刊(1995)
 「高知県昭和期小説名作集7・上林暁」所収
 
 本文中の難漢字には底本にないルビを付し、「薔薇」には「ばら」とあるが、
 「盗人」にはルビなし。 編集委員(岡林清水氏ほか)の戸惑いが窺える。
  
       
 園田学園女子大学 吉村稠 「薔薇盗人」論   論文(1983/10)の英訳は、An Essay on BARA NUSUBITO (同大学論文集所収)   
       
 文化放送のラジオ放送  ?   1959?  台本はあるが何と読んだか? 

国会図書館は、金星堂刊(1933)の “タイトルよみ” を 「ぬすびと」 に変更した。(2012.3.7追記)

                                  (本項は、H24.3.4UP)
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 (注1) 「ヒルデスハイムの薔薇」 (堀辰雄訳)

   アポリネール(1918没:フランスで活躍した詩人・作家)の小説で、千年の薔薇で有名なドイツの町
   ヒルデスハイムに住む少女が主人公の悲恋物語。

    (あらすじ) “ヒルデスハイムの薔薇” と称される美しい少女イルゼの恋人は、イルゼの父が課した
     結婚の条件に懸命に取り組むが、そのため精神を病む。それを知ったイルゼも悲しみのため
     重い病に伏す。
     丁度その頃、ヒルデスハイムが誇る伝統の薔薇は枯れてしまい、手の施しようがなかったが、町の
     外から来た植木屋の特別な手当てで、ある朝、見事に蘇えった。 その同じ朝、イルゼの命は消えた。

 
(注2) 狂言「花盗人(はなぬすびと)」
    
    (あらすじ) ある出家(僧)が、通りがかりに美しい桜を見つけ、一枝折って稚児にあげたところ、
     大喜びされ、今度は大枝を欲しいととねだられて、再び盗みに行くが捕えられる。
     僧は、桜に魅せられた人々が詠んだ古歌を次々に引いて、自分は盗人ではない、昔から桜の枝は
     折っても構わないのだと自己弁護し、今の有り様を歌に詠むと、捕えた人々は感心して僧を許し、
     一緒に花見の宴を始める。   (大蔵流狂言師山本東次郎師の解説(ネット)を要約)
 
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