== 井伏鱒二 荻窪風土記 阿佐ヶ谷文士 ==

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第二部  井伏鱒二と「阿佐ヶ谷会」とその時代

__目 次__


== は じ め に ==

    ★ “阿佐ヶ谷文士村” のこと(名簿)

    ★ 「阿佐ヶ谷会」 という名称

    ★ “阿佐ヶ谷将棋会” の会員

    ★ “阿佐ヶ谷将棋会” の歩み


==1期 出発期 (昭和3年頃〜昭和8年頃) ==

(1)  文学青年は阿佐ヶ谷へ 何故?


(2)  空前の同人雑誌(同人誌)時代

(3)  “阿佐ヶ谷将棋会” 出発進行

(4) 第1期会員 登場!!

(5) 第1期(出発期)のまとめ


1 : 時勢は・・・,  文壇は・・・



== 2期 成長期 (昭和8年頃〜昭和13年頃) ==

(1)  ファシズムと文芸復興

(2)  再発足と新たなメンバー

(3) 第2期からの会員 登場!!

(4) 第1期からの会員 文士!!

(5) 第
2期(成長期)のまとめ 


2 : 時勢は・・・,  文壇は・・・



== 3期 盛会期 (昭和13年頃〜昭和18年頃) ==

 (1) “阿佐ヶ谷将棋会” と 戦争

 「阿佐ヶ谷将棋会」 開催一覧

(2) 第3期 会員それぞれ・・

 (3) “阿佐ヶ谷将棋会” の遠足

・奥多摩 御嶽ハイキング

・高麗(こま)神社参拝

(4) 第3期(盛会期)のまとめ 


3 : 時勢は・・・,  文壇は・・・



 == 4期 休眠期 (昭和18年頃〜昭和23年頃) ==

(1) 戦況敗勢下、会員たちは ・・

(2) 敗戦から戦後第1回「阿佐ヶ谷会」まで

(3) 第4期 会員 それぞれ・・  (作成中)



4 : 時勢は・・・,  文壇は・・・

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「荻窪風土記」 年表

井伏鱒二 : 略年譜

昭和史(元年〜25年)略年表

「このころの値段」 あれこれ

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== は じ め に ==

★ 「阿佐ヶ谷文士村」のこと

「阿佐ヶ谷文士村」という呼称がある。この呼称は平成5年(1993)に
杉並区立阿佐ヶ谷図書館開設に際して名付けられたものである。

関東大震災(大正12年(1923))直後から中央線の高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪あたりには
移住者が急増し、界隈は農村から住宅地へと急速に変っていった。
この移住者の中には、無名の文学青年たちも数多く含まれ、
同人誌を軸に交友を広げ、深め、刺激し合いながら世に出る機会を窺っていた。

約20年を経た戦後、“阿佐ヶ谷会” という著名な文学者を中心とする交遊の輪ができたが、
メンバーの多くは移り住んだ当時は無名の文学青年たちである。このメンバーをはじめ
阿佐ヶ谷界隈に居住した数多くの文士たちは、昭和の文壇に新風を送り込み、
昭和文学史上に特筆すべき足跡を残している。

阿佐ヶ谷図書館はこの由緒ある地を「阿佐ヶ谷文士村」と名付け、
この地にゆかりのある文士たちの著作、資料を集めた特設コーナーを設けている。

[ 阿佐ヶ谷文士村名簿 ]

この第二部では、“阿佐ヶ谷会”の母体である戦前の“阿佐ヶ谷将棋会”をテーマに
井伏をはじめとするメンバーが激動の昭和を
どのように生き、何を書き、何を残したのかを訪ねてみた。

(注) 「阿佐ヶ谷」という旧住所は、現在の表示では「阿佐谷北」「阿佐谷南」となって「ヶ」がないが、
JRの駅名表示は「阿佐ヶ谷」のままで、地域名としては「阿佐ヶ谷」が通用している。



( 阿佐ヶ谷界隈文学地図 :杉並中央図書館「阿佐ヶ谷文士村展」(H15)のチラシ)

★ 「阿佐ヶ谷会」 という名称

一般に「阿佐ヶ谷会」と呼ばれる文士たちの会は、戦前の“阿佐ヶ谷将棋会”に発している。

ただ、“阿佐ヶ谷将棋会”といっても、会則や名簿、正式な開催記録があるわけではなく、
そもそも、その名称さえもいつから使われ始めたかは、判然としない。

井伏鱒二は、ずっと後になって「将棋会の発足は昭和3〜4年頃」と往時を回顧しているが、
早い時期の明確な記述としては、木山捷平の昭和13年3月の日記に、“阿佐ヶ谷会で
将棋”、昭和13年6月に“阿佐ヶ谷将棋会”の文言が見られる。

また、中村地平が昭和13年12月に書いた「将棋随筆」には次の一節があり、続いて
常連の名や力量、棋風などが記され、このころの大体の雰囲気が伝わってくる。

「僕たちの将棋振興に与って力があるのは、阿佐ヶ谷会の存在である。
阿佐ヶ谷会というのは、阿佐ヶ谷を中心とする中央沿線に住まうわかい文学者が、不定期
に集まって酒をのんだり、無駄話をする会合である。幹事は小田嶽夫に外村繁の両君で
あるが、この会でときおりヘボ将棋の会を催して、会員の技倆に等級を決めるのである。」


昭和の初頭、阿佐ヶ谷界隈に越してきた井伏ら文学青年数人が誘い合って将棋を指し、
二次会の酒や雑談を楽しむうち、集まる回数や人数が増え、将棋抜きのこともあり、いつ、
誰ということなく、”阿佐ヶ谷将棋会”とか”阿佐ヶ谷会”の名が使われたということだろう。

なお、木山捷平の年譜(木山捷平全集 八巻)には昭和11年の項に「4月 阿佐ヶ谷会が
初めて開催された。」とあり、小田嶽夫は「阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ」(S29)に、
「日中戦争の少し前ごろに小田らの発起で将棋会開催の通知を出したのが始まり」
という記憶を書いているが、どのような会だったか具体的な記述はない。

太平洋戦争の影響で、「将棋会」としての組織的な会は開催できなくなるが、戦後間もなく、
その「将棋会」のメンバーを中心にして、将棋抜きで専ら酒を飲み、雑談に興じる会として
復活し、現在では、その会が一般に「阿佐ヶ谷会」と呼ばれているのである。

★. “阿佐ヶ谷将棋会” の会員

昭和初期、“阿佐ヶ谷将棋会”に集まったのは井伏鱒二、青柳瑞穂、田畑修一郎、
小田嶽夫、木山捷平、外村繁、古谷綱武、太宰治、中村地平、上林暁、亀井勝一郎、・・・

このころはみんなまだ若く、“文学青年窶れ”をしながら早く世に出たいと懸命だった。
時勢は、左翼の台頭とその弾圧・ファッシズム化・戦争へと激しく動く中、その多くは
政治思想や権力とは距離をおいた立場で、売れない市井の生活を書き、貧乏だった。

(第一部 「荻窪風土記 - 平野屋酒店・文学青年窶れ・阿佐ヶ谷将棋会・外村繁のこと」等が関連)

興味深いのは、各人に 「地方出身者である、長男ではない、実家は相当に裕福である、
父は早世」 という共通項があることである。「妻の苦しみ」を加えてもいいかもしれない。

もちろん全員がすべてに当てはまるわけではないが、 東京での窮乏生活は、定職に
就かない脱俗・自立の気概に加え、一寸乱暴な生活振りが一因だったとも云えよう。
これが昭和文学史上に残る大きな足跡に繋がったところが文士の文士たる所以だろう。

先ずはメンバーのご紹介から ・・・(当地への初転入年順)

(以下、本文中、茶色の名前(例えば井伏鱒二)は、「阿佐ヶ谷文士村名簿」掲載を示す。)

会員名 生-没 (享年) 長男 出生地 出身(中退)学校 杉並への
初転入
備考(現表示)
井伏鱒二 M31-H5 (95) × 広島県 福山中-早大仏文 S2(29歳) 清水-没
青柳瑞穂 M32-S46 (72) × 山梨県 甲府中-慶大仏文 T12頃(25歳) 阿佐谷南-没
安成二郎 M19-S49 (87) × 秋田県 大館中 T15(40歳) S20:天沼再転入-没
田畑修一郎 M36-S18 (39) × 島根県 浜田中-早大英文 S2(24歳) 阿佐谷北:吉祥寺-没
小田嶽夫 M33-S54 (78) × 新潟県 高田中-東京外語 S4(29歳) 阿佐谷南:小金井-没
亀井勝一郎 M40-S41 (59) 北海道 山形高-東大美学 S6(24歳) 高円寺北:三鷹-吉祥寺-没
木山捷平 M37-S43 (64) 岡山県 姫路師-東洋大文 S7(28歳) 阿佐谷北:練馬区-没
外村 繁 M35-S36 (58) × 滋賀県 三高-東大経済 S8(31歳) 阿佐谷南-没
太宰 治 M42-S23 (38) × 青森県 弘前高-東大仏文 S8(24歳) 本天沼:三鷹-没
秋沢三郎 M36-S55 (76) × 広島県 五高-東大英文 S8頃(30歳) S13中国:帰国後練馬区
浜野 修 M30-S32 (60) × 埼玉県 一高-東大美学 S10頃(38歳) S18青梅:S19再転入-没
村上菊一郎 M43-S57 (71) 広島県 福山中-早大仏文 S10頃(25歳) S25:善福寺-没
上林 暁 M35-S55 (77) 高知県 五高-東大英文 S11(34歳) 天沼-没
古谷綱武 M41-S59 (75) ベルギ- 成城高 S17?(34歳) S23:成田東-没
浅見 淵 M32-S48 (73) × 兵庫県 神戸二-早大国文 - S25:八王子-没
中村地平 M41-S38 (55) × 宮崎県 台北高-東大美学 - S19:宮崎市-没

(注)  (1) 「会員」は、「荻窪風土記:文学青年窶れ」に列挙されている名前に、井伏自身と
”将棋会”への出席状況などから安成二郎、田畑修一郎を加えて16名とした。
(2) 「長男」欄の○は長男、×は長男ではない。 
 (3) 「当地への初転入」は、阿佐ヶ谷界隈へ最初に引越してきた時と、その時の年齢(転入年-生年)。
備考欄の町名は現表示。「没年まで」は杉並区内で他の場所に転居している場合もある。
「 - 」は、杉並区域居住の記録は見当たらない。従って、”阿佐ヶ谷文士村”の名簿には入っていない。
「不詳」は、明確な記録は見当たらないないが、実際には阿佐ヶ谷界隈に居住したことが知られている。

(4) 「出生地」、「当地への初転入」年及び居住は『阿佐ヶ谷文士村』(H5・杉並区立中央図書館発行)による。
なお、「当地への初転入」は実際と異なる場合がある。(実際の転居と届出時期の相違によるものだろう。)


将棋ができない会員がいたりで、会員名を特定するなどは野暮なことかもしれないが、
この項では、参加者の日記や随筆等の記述から上記の16名を会員として焦点を当てた。
他に、塩月赳、緑川貢、尾崎一雄、石浜金作、石川淳、等々が
出席した記述が見られ、飛び入り的な参加者が少なくない。

もちろん“会長”とか“事務方”がいるわけでもない。世話役は持回り的に決めていたようだ。
会長はいないが、強いて代表格といえば井伏であったというのが大方の見方である。
戦後の“阿佐ヶ谷会”を含め、やはり井伏が中心者であったといってよかろう。

★ “阿佐ヶ谷将棋会” の歩み

“阿佐ヶ谷将棋会”は、発足から戦後の“阿佐ヶ谷会”へ変身するまでが約20年で、
ほぼ5年毎に大きな節目を迎えているので、全体を4期に分けることができる。
ここでは各期を「出発期→成長期→盛会期→休眠期」と名付けた。

- 時代の節目にも、多くの会員の文学活動の流れにも、ほぼリンクしているのである -

 第  発足(S3〜S4頃)〜昭和 8年頃(再発足)まで  = 出発期
 第  昭和 8年〜13年(記述がある第1回開催)まで  = 成長期
 第  昭和13年〜18年(最後の会合=高麗神社)まで  = 盛会期
 第  昭和18年〜23年(戦後阿佐ヶ谷会開催)まで  = 休眠期

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==  出発期 (昭和3年頃〜昭和8年頃) ==

                                                                  
このころ -- 文壇は ・・・ プロレタリア文学 ・ 芸術派 ・ 同人雑誌 ・ 大衆文学 ・ 円本ブーム
時勢は ・・・ 昭和恐慌 ・ 左翼弾圧 ・ 政党不信 ・ 満州事変 ・ 暗殺続発
世相は ・・・ 農村疲弊 ・ 大衆社会 ・ モダン ・ エロ グロ ナンセンス
ご参考 = 「このころの値段」 あれこれ ( 『値段史年表 明治・大正・昭和』 から抜粋)

(「昭和史(元年〜25年)略年表」も参照下さい。)

(1) 文学青年は阿佐ヶ谷へ 何故? ---

  ★ ”中央沿線には三流作家”

このころの文学青年の多くは結婚などを機に仲間の繋がりによって住居を定めたようだが、
電話普及前の時代、出版社などがある都心に近く、仲間が相互に訪問しやすい距離にいて
しかも安価で気安く住める場所という条件にピッタリなのがこの界隈だったのである。

「荻窪風土記 - 荻窪八丁通り」に、その頃(S2)は「文学青年の間では引越が流行のよう
になっていた。中央沿線方面には三流作家が移って行く。それが常識だと言う者がいた。
荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いても、近所の者が後ろ指を差すようなことはない
と言う者がいた。貧乏な文学青年を標榜する者には好都合なところである。」とある。
要約して記したが、新開地として地代、家賃が安かったことも確かである。

しかし、井伏のように自分の家を持った人は例外で、当時は大部分が借家住まいだった。
定職を持たない多くの若い無名文学青年の生活は経済的にも精神的にも不安定だったし、
中には少しずつ名が知れてきた人もいたりで、事情様々、気軽に転居している人が多い。

“将棋会”会員についてみれば、杉並区に永く住んだ人、あるいは転居しても転居先は近郊
(吉祥寺・三鷹など中央線沿線)の人が多く、戦後は“阿佐ヶ谷会”の核になっているので、
“将棋会”には発足当初から、共感の喜び、人を強く引きつける何かがあったといえよう。

  ★ この時、この界隈 ・・・

中央線沿線に移住者が急増したのは、荻窪駅(M24開設)に加え、高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪の
各駅が開設(T11:大震災の前年)したことによるが、他にも青梅街道に路面電車運行(T10:
荻窪〜新宿:後の都電)、現在の西武新宿線開通(S2:杉並区域には下井草・井荻・上井草の
各駅開設)という鉄道の充実と、道路などインフラ整備が進められたことの影響も大きい。

井伏と同時期(S2)に天沼(荻窪駅北口前)に越してきた徳川夢声は「水道もガスも来ていない
から台所のすぐ前に井戸を掘り、薪で飯を炊き、木炭を用いた。」と当時を回想しているが、
上水道は昭和3年:荒玉水道(杉並町などの一部)、同7年:井荻町営水道と普及が進んだ。
電気(電灯)の普及は大正10年頃からで、ラジオ(T14:NHK放送開始)は聞けたが、
電話は荻窪電話局の開局(電話組合が昇格)が昭和8年で、一般への普及は戦後である。

東京府東京市杉並区は、豊多摩郡4町(杉並・井荻・和田掘内・高井戸)で昭和7年に発足した。(新区20区
で計35区制)。昭和18年に東京都となり、現在の23区制はこの35区が原型となって昭和22年に成立した。
(杉並は大正13年、井荻・和田堀内(後に和田堀)・高井戸は、大正15年に「村」から「町」になった。)


ちなみに・・、大震災(T12)前後の人口推移は次表の通りである。著しい人口増があり、
中でも、高円寺、阿佐ヶ谷地域(杉並町)の増加が急速に進んだことが分かる。

  T9(1920)   T11(1922)  T13(1924)  T14(1925) S5(1930) S7(1932) 備 考 
区域全体 (人) 18,099   23,721  52,275 66,089   134,528  146,560  杉並・井荻・和田堀(内)・
高井戸の4町(村)
(内、杉並地域) 5,632  ー  ー  36,608   79,191 84,803 高円寺・阿佐ヶ谷界隈 
 人数の出典(*)  国勢調査 「杉並区の歴史」   国勢調査  「杉並区史」 昭和7年、豊多摩郡の上記
4町は杉並区になった。 
震災:T12.(1923)    震災前年 震災翌年     杉並区誕生

(*) 「杉並区の歴史」(著者・杉並郷土史会:S53.10.28発行)は、区域全体値の記載のみ。
「杉並区史」は、「新修 杉並区史(下巻)」(杉並区役所:S57.10.1発行)

国勢調査の数値は、この「新修 杉並区史」による。

なお・・、このころの宅地、田畑の割合など土地の状況については、

別項目 「荻窪風土記 - 荻窪八丁通り に記した。

(第一部「荻窪風土記 - 荻窪八丁通り ・ 文学青年窶れ ・ 天沼の弁天通り」が関連)

  ★ 文学青年も続々阿佐ヶ谷界隈へ ・・・

安価、交通至便、気軽な雰囲気などから、類は友を呼んで無名の文学青年たちが集まった。
会員たちの阿佐ヶ谷界隈への移住事情は各人の項に記すが、概略は次の通りである。

井伏が荻窪に居を定めたのは昭和2年で、その経緯は「荻窪風土記-荻窪八丁通り」に詳しい。
 早大の予科に入って(T6)から約10年間を早稲田界隈で下宿生活したが、震災前から
何度か訪れ、親友の青木南八(T11没・24歳)とも歩き回ったことがある天沼八幡や
弁天池・天沼教会などのある荻窪の地に新居を建てて結婚したのである。(井伏29歳)

青木南八(M31/4生:井伏と同年・早大で同級)は井伏にとって特に親密な存在だった。
井伏の心奥には、荻窪は単にかねて馴染みの土地というだけでなく、夭折した無二の友に
ゆかりある地という思いがあったかもしれない。「鯉」など多くの作品で青木を追想している。)

青柳
は蔵原伸二郎と同年齢で慶大予科時代から文学や骨董を通じて極めて親しい関係にあり、
井伏によれば 「阿佐ヶ谷在住の人に骨董の指導を受けたのが縁で二人は結婚を機に
その近くに越してきた」 という。(青柳は実際には結婚(T12)当初は荻窪に住んだ。)

田畑は同じ早大でロシア文学の中山省三郎と親密だった。中山は阿佐ヶ谷に住み(T15:22歳)、
骨董が好きで蔵原・青柳とも親しかったことから田畑も蔵原・青柳との親交が始った。
田畑が郷里(島根)を出るとき、阿佐ヶ谷に居を定めた(S4)背景の一つである。

小田が結婚を機に阿佐ヶ谷に住むようになった(S4)のは蔵原との関係からである。
現在の東京外語大を卒業(T11)して外務省に入り、杭州領事館勤務時代に
蔵原に勧められて<葡萄園>の同人になった(T15)のが作家としての出発点だった。
帰国(S3)後外務省を辞職(S5)して文学一筋の生活に入ったが、
井伏を知ったのも蔵原を介してである。井伏が言う将棋会発足(S4頃)の前年である。

太宰中村は、ともに東大に入学(S5)して井伏宅を訪問するようになった。小山祐士
(M39生:劇作家:「瀬戸内海の子供ら」(S9作))を加え、一時は井伏門下の
三羽烏ともいわれたが、公私にわたる長い親密な関係の出発点がこの時だった。
以降、二人はよく井伏宅を訪れており、一緒に将棋を指していたと井伏は書いている。
太宰の荻窪への転居(S8)は井伏との関係があったからだろう。
中村の住いは杉並地域ではない中野や吉祥寺などだが、荻窪・阿佐ヶ谷には近かった。

木山は結婚4ヶ月目に百人町(現在の新宿区)から阿佐ヶ谷へ越してきた(S7)。詩人仲間として
親しかった野長瀬正夫らがこの界隈に居た影響があっただろう。小田は昭和7年に木山の
訪問を受けたと書いているが、井伏、太宰ら阿佐ヶ谷の文学青年たちと親密になるのは
翌年の<海豹>(S8)参加からで、井伏からは昭和8年に年賀状がきている。

外村は父の死によって継いだ家業(近江商人)を弟に譲って文学に復帰することを決意して
阿佐ヶ谷へ引越した(S8/2)。三高-東大を通じて親しい文学仲間中谷孝雄との関係で
<麒麟>に参加したが、中谷、田畑、小田ら同人の大部分は阿佐ヶ谷界隈の住人だった。
その関係から阿佐ヶ谷を選んだと考えてよかろう。

(2) 空前の同人雑誌(同人誌)時代 ---

昭和文学の源流は、大正末期に始る同人雑誌ブームにあるといわれる。
このことは、、高見順著『昭和文学盛衰史』(S33)、小田切進著『昭和文学の成立』(S40)、
浅見淵著『昭和文壇側面史』(S43)などに詳述されている。浅見によれば、現代も数の多さ
という点では同人雑誌時代であるが、当時の有力誌の特徴は、ほとんどが東京から発行
されていること、学生中心の同人雑誌であることで、現代とは事情を異にしているという。
(浅見の云う”現代”は昭和40年代である。さらに40年以上を経た現在、時代環境は一変している。)

当時、文学を志した若者の多くは東京の学校に入ってプロへの道を模索していたが、
大学令改正(T9)などによる高等教育の充実によって急増したこれら学生たちにとっても、
インテリ化という構造変化が進む大衆社会にとっても、既成大家の門から世に出るという
旧来の仕組みだけでは満足できなくなっており、学生や卒業して間もない若者たち、つまり、
いわゆる文学青年たちは、自らの手で作品を発表し直接世に問う方策を考えたのだろう。

当時の時勢・世相・文壇の様子は別記したが、特に関東大震災以降は各方面で若者たちが
目覚しい活動をしており、文学界においても大家というより、プロレタリア文学対反プロレタリア
文学という図式の中で創作や同人活動に葛藤する文学青年の姿が目立っている。

井伏がいう 「文学青年窶れ」、 「メダカは群れたがる = 結構!」 である。

前記の高見などによる3著作には夥しい数の同人雑誌名が載っている。
そのうち有力誌とされているものだけでも数十誌に及ぶ。
その中から、”将棋会”の会員の名が見られるものを選び出してみた。
(昭和初頭までの創刊で、途中から同人に参加の場合を含む : 3著作を総合して要約した)

<世紀> T12/7〜T12/8 井伏鱒二・小林龍雄・三宅彰・古垣鉄郎・光成信男・山崎隆春・栗原信ら(早大系)
<葡萄園> T12/10〜S6/3 加藤元彦・久野豊彦・蔵原伸二郎・
小田嶽夫・吉行エイスケ・古谷綱武ら(慶大系)
<青空> T14/1〜S2/6 梶井基次郎・
外村繁・中谷孝雄・阿部知二・三好達治・淀野隆三ら(三高-東大系)
<朝> T14/2〜T15/6 井葉野篤三・西田実・逸見広・加納幸雄・紺弓之進・伊藤睦男・
浅見淵ら(早大系)
<鷲の巣> T14/10〜? 富沢有為男・佐々木弘之・内山惇一・小林理一・坪田譲二・
井伏鱒二ら(早大系)
<街> T15/4〜T15/10頃? 
田畑修一郎・寺崎浩・火野葦平・坪田勝・中山省三郎・丹羽文雄ら(早大系)
<文藝城> T15/11〜S2/9 井葉野篤三・伊藤睦男・逸見広・尾崎一雄・紺弓之進・村田春海・
浅見淵ら(早大系)
 <風車> S2/5〜S6/3頃 森本忠・
上林暁・吉田正・永松定・相良次郎・秋沢三郎・村岡達二ら(五高-東大系)
<新正統派> S3/1〜S5/5 井葉野篤三・丹羽文雄・尾崎一雄・逸見広・
浅見淵田畑修一郎・坪田勝ら(早大系)
<文藝都市> S3/2〜S4/8 崎山猷逸・船橋聖一・蔵原伸二郎・梶井基次郎・
浅見淵井伏鱒二・小田嶽夫

どれくらいの規模(頁数、発行部数、販売地域など)だったかについては詳しい記述がないのではっきりしない。
<種蒔く人>創刊号は18頁で200部、最盛期の<戦旗>が2万部/月だったという。<青空>創刊号は76頁で30銭
(コーヒー1杯10銭の時代)、また<文藝都市>は”150頁内外の堂々たる雑誌”とされており、概ねは
月刊で、70〜80頁程度、数百部/月の発行、東京の特定書店で販売という姿が思い浮かぶが如何だろうか。

昭和4年4月創刊の<白痴群>について、同人の1人大岡昇平が「白痴群 解説」を記している。
それによれば、「500部印刷、定価30銭、同人の尊敬する作家、詩人と、他の同人雑誌に送ったほかは、
適当に東京の書店に配られた。紀伊国屋書店、丸善などへは特に10部ぐらいおいて貰った。京都へは
20部送られ、大岡の記憶では創刊号は京都で2部売れた。創刊号は全62ページだった
。」という。
中原中也を中心に河上徹太郎、大岡昇平、古谷綱武ら同人9名で6号(S5/4)まで発行された。

(3) ”阿佐ヶ谷将棋会” 出発進行 ---

   ★ 最初の最初

井伏の「風貌・姿勢」(S44.2.25・サンケイ新聞(夕刊):火野葦平)に次の記述がある。
「最初は昭和3年か4年ごろ、小田嶽夫の発起で坪田譲治を囲む会を阿佐ヶ谷の支那料理屋
の寮で開いたが、その次から、毎月1回の割で集まる将棋会をつづけることになった。」
また、「荻窪風土記」には、「発足したのは、大体の記憶だが昭和4年頃であった。」とある。

井伏以外で将棋会の発足時期を昭和3〜4年に遡る記述は見当たらない。
井伏の記述にしても、遠い記憶によるもので極めて曖昧である。

例えば、小田発起の坪田を囲む会は昭和3年か4年頃と読めるが井伏の記憶違いだろう。
小田嶽夫著「小説 坪田譲二」(S45)には、小田は昭和3年に阿佐ヶ谷の蔵原伸二郎宅で
偶然に坪田と初対面、次は翌4年正月に坪田宅(雑司ヶ谷)を訪問したが不在で会えず、
6月に坪田は帰郷してしまったので「親しくなるにはあと何年かの歳月が要った」とある。

井伏が荻窪に引越してきて(S2)間もなく、界隈にいる文学青年仲間を誘って
阿佐ヶ谷南口の焼芋屋が兼業する将棋会所へ行ったのが出発点というところだろう。

阿佐ヶ谷界隈には、このころ、井伏のほかに、安成、青柳、田畑、小田がいた。
それに、文学青年との交友関係が広く、青柳とは格別に親しい蔵原伸二郎もいた。
浅見は井伏とは早大(1年後輩)、聚芳閣(T15に勤務)、<文芸都市>(S3)で一緒だった。

将棋会所の雰囲気が良くないので行かなくなったが、東大に入学した太宰、中村が井伏宅を
訪問する(S5)ようになり、木山も越してきた。井伏は「昭和8年にシナ料理屋ピノチオの
離れを会場に再発足」と書いているので、この間は井伏と親交のあった人たちが折に触れて
指していたのではないだろうか。井伏は「習作に身を入れることにした」時期でもある。

   ★ お目当ては"酒" !! 

将棋の後は酒になって人生論や文学論、混沌の時世・女性談議に夢中だったはずである。
むしろこの方がお目当てだった・・・かもしれない。

経済的にも精神的にも将来への不安に苛まれる無名の文学青年たちが、政治的圧力も
増す中、日常生活に心の支えや、癒し、救いを求めたのは自然の成り行きである。
地方から上京した若者には、言葉(訛り)や生活習慣の違いによる悩みもあっただろう。

”将棋会”が生まれ育ったのは、そこに裸で付き合える雰囲気があり、ライバル同士が
哀歓を共にし、共鳴・共感、また時には反発しあえる場であったからと推察する。
もちろん打算やもたれ合いも否定できないが、前向きの姿勢では一致していただろう。
将棋を楽しむとともに、酒の席を共にし、会話することに意味があった”会”といえる。

折に触れて将棋は指すが、まだ"将棋会"という認識はなく、将棋抜きの居酒屋談議も
多かったはず。名簿には井伏をはじめ酒を抜きには語れない面々がズラリと並んでいる。

それにしても、井伏(広島)、太宰(青森)、中村(宮崎)、田畑(島根)、小田(新潟)、
木山(岡山)、安成(秋田)、らのお国言葉での会話は想像するだに微笑ましい。


混沌の時代における混沌状態の”阿佐ヶ谷将棋会”出発期である。

(Part1の 「荻窪風土記 - 文学青年窶れ・阿佐ヶ谷将棋会」 が関連)

(4) 第1期会員  登 場 --- 

1期 出発期(S3頃〜S8頃)」  登場会員

(”将棋会”に参加したであろう順に記載した。

 井伏鱒二 : 「<三田文学>からデビュー」 の項へ

 青柳瑞穂 : 「文学の道 / 骨董の道」 の項へ

 安成二郎 : 「年齢・将棋の技量とも別格」 の項へ

 田畑修一郎 : 「旅館を売却して過去と決別」 の項へ

 小田嶽夫 : 「外務省を退職して過去と決別」 の項へ

 中村地平 : 「好青年、東大入学で文学専念」 の項へ

 太宰 治 : 「東大入学、激動人生は続く」 の項へ

 木山捷平 : 「無断転進、子の道・父の怒り」 の項へ

 外村 繁 : 「家業を弟に譲って文学復帰」 の項へ


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 蔵原伸二郎 : 会員とすべきか ・・

(くらはら しんじろう) : 明32(1899).9.4〜昭40(1965).3.16 享年65歳

会員名には掲げなかったが、蔵原伸二郎(本名:惟賢・これかた)に触れなければ
ならない。熊本県生まれで家系は肥後国の豪族阿蘇氏の一族で父は大地主である。
プロレタリア文学の蔵原惟人は従弟、母方の伯父に北里柴三郎がいる。

九州学院を卒業し、慶大仏文科を中退した。 詩人・短編作家として慶應系同人誌
<葡萄園>に参加した。小田嶽夫も蔵原に誘われて<葡萄園>に加わっている。

結婚(T13:25歳)を機に、慶應の同級生として格別に親しかった青柳瑞穂宅近く
(現表示・阿佐谷南)に住み、自分の幅広い交友関係の中で多くの文学青年同士を
引き合わせるなどしていたが、特に青柳の人生に与えた影響は強烈だった。

井伏は<文藝都市>に参加(S3)したが、その推薦者は蔵原だった。
田畑修一郎を中心にした<雄鶏>創刊(S6)には、蔵原も小田、緒方隆士と共に
資金を提供した。 以降、<麒麟><世紀><文学生活>と続く同人活動
流れの中に蔵原の名前がある。活発な文学活動を続けていたことが窺える。

蔵原は井伏に高利貸の紹介を頼む(S2)ほどの間柄だったが将棋をした様子はない。
しかし、酒の席にはよく顔を出していたようだ。酒はあまり強くなかったが、仲間との
付き合いを大事にし、楽しんだのだろう。井伏は「小田君についての点描」(S60)で、
会員名の中に蔵原の名も記しているので、”将棋会出発期の会員”であるといえよう。

昭和9年秋に大田区に転居したが、この頃には詩作主体に戻っていた。詩で出発し、
その後小説家を目指したが再び詩作に戻り、保田与重郎の求めで<コギト>
昭和9年9月から1年間発表した詩は萩原朔太郎の激賞を受けた。蔵原の
初期の代表作である初の詩集「東洋の満月」(S14)はこれらの作品から成っている。

「阿佐ヶ谷文士村」(村上護著:H6・春陽堂書店)によれば、「転居後の蔵原は阿佐ヶ谷
文士とは交遊を絶った。その作風はもう阿佐ヶ谷界隈などと縁遠くなっていた。」とある。
つまり、蔵原の転居には独自の詩作に回帰した文学上の理由があったという。

詩作への回帰と転居の時期が丁度重なる。蔵原は詩一本で身を立てることを決意し、
心機一転、新しい生活の場を求めたものと推察するが、そのため結果として
阿佐ヶ谷界隈の文士との交遊は疎遠にならざるを得なかったのだろう。

蔵原の木山捷平宛手紙(S9/10/9付:住所は大森区雪ヶ谷(現・大田区):『感恩集・
木山みさを編』所収)には、文学を一生の仕事とすること、食べるため寒村で他の仕事を
する必要があると思っていること、<世紀>の会に出席すること、などが記されている。
また、木山の日記(S10/2/21))に「中谷孝雄と共に蔵原を田園調布に訪問」の
記述があり、蔵原は引き続き<世紀>、<文学生活>に参加している。

蔵原が意識して積極的に阿佐ヶ谷文士との交遊を絶ったとは考え難いところである。
戦後の阿佐ヶ谷会(S29/5)に招待され出席している。

 蔵原は戦後は埼玉県飯能市やその周辺に住み、昭和40年に第6詩集「岩魚」(S39)で読売文学賞を
受賞したが、前年末頃から病床にあり、授賞式の日(2月6日)に危篤状態になり、翌月永眠した。


参考サイト 埼玉の文学 ‐現代編-  蔵原伸二郎

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(5) 「阿佐ヶ谷将棋会 第1期(出発期 : S3〜S8)」 のまとめ --- 

 時は昭和3年頃から昭和8年初め頃まで、元号に込めた願いは虚しく砕かれていった。
昭和大恐慌の言葉が示すとおり農村の疲弊は極に達し、街には失業者があふれた。
一方、大正デモクラシーの流れは大衆の民主主義意識の高まりとなり、都市部においては
サラリーマン比率が上がって新中間層を形成し、幅広い大衆文化が生み出された。
大正後期の内外情勢の概略は亀井勝一郎の項に記したとおりである。)

 恐慌、政党腐敗は左翼、右翼、軍部の活動を活発にし、官憲による左翼弾圧や右翼・軍人
による暗殺事件が続発、中国では満州事変など武力行動が拡大、国際連盟脱退に至った。

 文学の分野では、「左翼(プロレタリア文学)でなければウダツが上がらぬ」だった。
左翼雑誌は発禁を見越してか大いに売れ、いわゆる”左傾”が流行のようになった。
無名の文学青年たちは同人誌を発行して世に出る機会を窺ったが、離合集散も激しく、
劣勢をかこつ芸術派といわれる面々は「文学青年窶れ」の日々を過ごしていた。

 関東大震災(T12)を契機として東京の人口は郊外、近郊に急速に広がり、中央線沿線の
高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪あたりの田畑は急速に住宅地に変わっていった。激増する
移住者の中には、左翼、反左翼を問わず多くの文学青年が含まれ、類は友を呼んで
お互い近間に住み、頻繁に歩いて行き来していたのである。昼夜を問わずの不意の
訪問である。電話は高嶺の花の時代、必然の成り行きであったといえる。

 井伏が荻窪に移り住んだ時(S2)、界隈には青柳、蔵原、中山(省)、それに安成が居た。
文学仲間として、また骨董趣味を通じて近所付き合いが始まり、そこへ田畑・小田が
加わった。「将棋会は昭和4年頃、阿佐ヶ谷の会所で発足」という井伏の記憶に従えば、
井伏、安成、田畑、小田あたりが集まったことになる。青柳と蔵原も不得手ながらも
付き合いで一緒だったかもしれない。井伏には蔵原を会員名に掲げた一文もある。
酒には目のない面々で、酒と会話を楽しみに誘い合っていたのではないだろうか。

 さらに界隈には、中村、太宰、木山、外村が来た。井伏とは特に親密な交友が始る。
文学的には各人各様で同じ同人に属す場合もあれば別の行動をとることもあったが、
基本的には純文学で芸術派である。そして、井伏以外のメンバーの小説は
いわゆる私小説の範疇が多いことが目を引く。それぞれの初期の代表的作品には、

田畑 -- 「鳥羽家の子供」  小田 -- 「城外」  中村 -- 「熱帯柳の種子」
太宰 -- 「思ひ出」   木山 -- 「出石」   外村 -- 「鵜の物語」

があり、自らの過去や体験が題材となっている。井伏を含め、時の政治、思想とは
距離を置いた市井の日常生活を描いている。文学関係者には認められても、
時節柄、大きな収入には結びつかず、皆一様に貧乏を強いられていた。

 しかし、それぞれの実家は地方にあって相当に裕福だった。
木山以外は長男ではなく、東京の大学に入ってそのまま東京に住んでおり、
また、中村を除き、早い時期に父親を亡くしているという共通点がある。
詳しくは各人の項に記したが、それぞれが出自や家庭環境などによる強烈な独特の
事情、背景を有し、それが各自の生き方や貧乏振り、作品に色濃く反映されている。

 ”将棋会発足”という昭和4年の年齢(誕生日後)は、井伏31歳、青柳・蔵原30歳、
小田29歳、外村27歳、田畑26歳、木山25歳、中村21歳、太宰20歳。木山、
中村、太宰は独身である。安成(43歳)は別格として、井伏が最先輩格で、
前年(S3)には「鯉」<三田文学>で文壇デビューし、<文藝都市>に「谷間」や
「山椒魚」(S4)を発表して”新進作家”の地位を確立し、さらに「丹下氏邸」
<S6:改造>で文壇に正当に評価されるに至っている。界隈に限らず小説家
志望の青年たちがその周辺に自然に寄り集まったであろうと推察できる。

 ”将棋会”というが、この時期はまだ将棋を指すための会というより、むしろ酒を飲み、
語り、論じ合い、傷をなめ合い、励まし合い、がお目当ての会であったといえる。
結果的には、それが情報収集、支え合い、切磋琢磨、明日への英気に繋がっている。
今風なら、さしずめ若手ベンチャー起業家の懇親ゴルフ、出会いの場とでもいえようか。

 多くの関係者が阿佐ヶ谷会や将棋会のことを書いているが、発足を昭和4年まで
遡るのは井伏だけのようである。将来への強い不安に苛まれる文学青年たちは
心の拠り所の一つとなる交友関係を続けたが、井伏は、その核となった面々が
揃った時点を”阿佐ヶ谷将棋会”の発足と重ねたのである。
戦後、功成り名を為し、超長寿が故に多くの会員の他界を見送るにおよんで、共に
苦闘し懸命に生きた若き激動の日々を”阿佐ヶ谷将棋会”と総称して偲んだのだろう。

 この時期は将棋自体にはあまり意味がなかった、というよりもまだ”会”の体裁が
ないことを思うと、この総称にはむしろ鎮魂と甘酸っぱい郷愁の情が漂う。

ちなみに、井伏は昭和56年(83歳)に<新潮>に「豊多摩郡井荻村(荻窪風土記)」の連載を始めたが、
この時には、田畑(S18)も太宰(S23)も、外村(S36)、中村(S38)、蔵原(S40)も、亀井(S41)、木山(S43)、
青柳(S46)、浅見(S48)、安成(S49)、小田(S54)、上林(S55)もみんな鬼籍に入っている。(( )内は没年)
先に列記した16名の会員中、健在なのは村上(S57没)、古谷(S59没)と井伏(H5没)だけだった。


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  官憲による左翼弾圧は厳しさを増し矛先は文芸活動にも向けられた。小林多喜二虐殺
(S8/2)でプロレタリア文学崩壊は決定的となった。権力による支配、統制には抗い難く、
各分野で”転向者”が相次ぎファシズムの流れは勢いを増すばかりだったが、
その反面で芸術派による文芸復興の機運が高まるのである。

文筆家にも、体制的立場、抵抗的立場、転向、と様々な対応があったが、
井伏をはじめ阿佐ヶ谷将棋会の面々は、政治思想や権力とは距離を置いていた。
日常は一庶民としての普通の生活で、作品のテーマもそこに求めているので
収入には繋がりにくく、苦しい不安な生活が続いていた。

 井伏によれば、”将棋会”はそんな折に「阿佐ヶ谷のシナ料理屋ピノチオの離れを会場
に再発足した」という。界隈の文士のたまり場だったピノチオが将棋会場になったことで
交友の輪はさらに広がり、”会”には新しい顔が加わって”第2成長期”へと移行する。

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このころ(昭和3年〜昭和8年)

(「昭和史(元年〜25年)略年表」も参照下さい。)


文壇は = プロレタリア文学 ・ 芸術派 ・ 同人雑誌 ・ 大衆文学 ・ 円本ブーム

「芥川竜之介の死が、大正文学の終幕と同時に昭和文学の開幕を告げる銅鑼の響きで
あったことは、多くの文学史家が語っている。・・・中略・・・プロレタリア文学と
新感覚派-新興芸術派との対立によって代表される昭和初年代の文学が出発する。」
と『昭和文学史論』(久保田正文著)の冒頭にある。(芥川竜之介:S2/7 自殺 享年35歳)

(Part1「文学青年窶れ」中の「大正末期〜昭和初期の主な文学作品と文学・社会関係出来事」参照)


*プロレタリア文学*

(以下、茶色の名前(例えば金子洋文)は、「阿佐ヶ谷文士村名簿」掲載を示す。)

大正末期からの社会情勢を背景に、プロレタリア文学の嚆矢とされる雑誌「種蒔く人」(T10:
小牧近江 金子洋文ら)が創刊された。大震災で廃刊の後、「文芸戦線」(T13/6創刊)に
引き継がれたが、その後激しい分裂、抗争が続き全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成(S3)
を機にナップの「戦旗」派と労農芸術家連盟(労芸)の「文芸戦線」派が対立した。

ナップは共産党の指導のもとマルクス主義文学を目指し、理論的指導者は蔵原惟人で以降
この派が主流となった。徳永直、中野重治、中條(宮本)百合子、小林多喜二などがいた。
分裂後の「文芸戦線」(後に「文戦」と改題)は労芸の指導のもと社会民主主義傾向を深めた。
理論的指導者は青野季吉で、葉山嘉樹黒島伝治平林たい子などがいた。

井伏は「左翼でなければウダツが上がらぬ時節」といい、昭和5年頃川端康成も、福田清人
「これからの新人はプロレタリア文学か大衆文学でなければだめですね」と云ったというくらい
プロレタリア文学は盛況であったが、左翼弾圧の矛先は文芸活動にも向けられるようになり
「戦旗」「文芸戦線」とも、昭和6年・7年に相次いで廃刊に追い込まれた。

昭和8年に地下活動中の小林多喜二が特高に検挙・虐殺され、共産党の最高指導者
佐野学と鍋山貞親が共産主義放棄を声明(転向)し、以降各界で転向者が続出した。
昭和9年にはプロレタリア文学雑誌はすべてその組織とともに崩壊した。


*新感覚派 - 芸術派*

プロレタリア文学の「文芸戦線」(T13/6)に対抗して「文芸時代」(T13/10)が創刊された。
その性格は、前者が「革命の芸術」で、後者は「芸術の革命」であったといわれる。
菊池寛の「文芸春秋」(T12/1創刊)によって登場した若い文学者が中心で、同人は
横光利一川端康成、片岡鉄平ら14名であった。既成文壇を否定、私小説・心境小説等の
個人主義リアリズムを否定し、文学の技法や表現の革命を目指し、「新感覚派」と呼ばれた。

「文芸時代」は、プロレタリア文学に圧倒され廃刊(S2/5)になるが、これを継いで
反プロレタリア文学を旗印に「近代生活」(「新潮」(編集長中村武羅夫)系の同人誌)の
龍胆寺雄、久野豊彦らの提唱で芸術派が大同団結し、「新興芸術派倶楽部」が結成された。

第1回総会(S5/4)には当時の同人誌「早稲田」「蝙蝠座」「文学」「近代生活」「文芸都市」
「三田文学」から30名を越える出席者があり、新興芸術派と呼ばれたが、
主流は提唱した「新潮」系で、他の同人誌系からは批判的に見られ、間もなく自然消滅した。
(「新興芸術派」は実質的には「近代生活」の一派ということであった。)

同時期に「作品」(S5/5)が創刊されている。この顔ぶれは「新興芸術派倶楽部」第1回総会に
出席した「文学」の小林秀雄堀辰雄、永井龍男、「文芸都市」の井伏鱒二、等を含め
川端康成、池谷信三郎、武田麟太郎、横光利一岸田国士三好達治、等々、
「文芸春秋」系と目される新人群で、この後に名を成した人が多い。(S15/4廃刊)

昭和初頭は他にも数多くの同人雑誌が生まれては消えており、メンバーも複雑に
絡み合っている。例えばある時期は左傾するとか、作風が異なる同人に参加するとか
考え方が異なる同人に重複参加するとか、出身校の人脈が関係するとか ・・・ 

志は高いが貧乏な新人にとっては同人雑誌こそが世に出るための唯一の手段であり、
いわば生命線であったといってよい。井伏が「メダカは群れたがる。結構!」と
云っているように特に芸術派は苦境の最中で、各々が懸命に泳いでいたのである。


*大衆文学*

大正末期から台頭した大衆文学(中里介山の「大菩薩峠」が先駆とされる)は
マスメディアの発達と共に純文学に対しての新しい小説のジャンルを形成した。
吉川英治、江戸川乱歩、大仏次郎、直木三十五、小島政二郎、尾崎士郎らが
新聞・雑誌に連載小説を掲載して人気を博した。


*大家活躍*

既成大家では徳田秋声が「順子もの」(S2〜3)と呼ばれる連作でゴシップ的話題となり、
志賀直哉は「暗夜行路 後編」(T11〜S12)に取り組み、島崎藤村は「夜明け前」(S4〜)、
永井荷風は「つゆのあとさき」(S6)を著している。
谷崎潤一郎は関西に移住して「卍」「蓼喰ふ虫」(S3〜)、「吉野葛」「盲目物語」(S6)、
「春琴抄」(S8)を発表しているが、この間に千代子夫人と離婚し、同夫人は佐藤春夫と
結婚するという三者声明をした、いわゆる「夫人譲渡事件」(S5)で世間を驚かしてもいる。


*円本ブーム*

大正15年から昭和2年にかけて、改造社が「現代日本文学全集」(全62巻)、新潮社が
「世界文学全集」(全58巻)を大々的に販売した。定価は一冊1円で”円本”と呼ばれ、
大ブームになった。不況にあえぐ時代、大宣伝と大量生産方式による画期的な廉売で
”モダン”の風潮に乗り、当初の企画を大幅に上回る増巻で大成功を収めたのである。

この頃は、コーヒー一杯10銭、月決め新聞購読料90銭、巡査の初任給は45円だった。
現在に換算すれば大雑把であるが一冊4,000円くらいだろうか。今の感覚では
一寸高いような気もするが、総合雑誌(「中央公論」や「改造」)が80銭であった。単行本
で買うと10円以上になる分量の小説が1冊になっているので超廉価であったという。

その後も、春陽堂「明治大正文学全集」、新潮社「現代長編文学全集」、平凡社「現代大衆
文学全集」等々が続き、漱石、盧花、独歩、啄木らの個人全集も刊行された。
印税で潤った文壇には一寸した”洋行ブーム”がもたらされたという。

しかしこの後、芥川の遺書にあって関心を集めた言葉 ”将来の唯ぼんやりした不安” は、
新元号「昭和」に込めた願いとは裏腹に次第に混沌の度を深め、激動の姿を現していく。

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元号「昭和」は、「書経」の中の「百姓明 万邦協」が出典で、
国民すべての安寧と世界の平和を切に祈念したもの

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時勢は = 昭和恐慌 ・ 左翼弾圧 ・ 政党不信 ・ 満州事変 ・ 暗殺続発

明治維新により成立した天皇主権の国体(国家体制)は、大正末期に政党が国政の
中枢に位置する政治体制(政党政治)となり、天皇機関説がこの理論的な支えであった。
しかしこの政党政治は議会での政争を繰り返し、昭和になると党利党略・我欲と目される
財閥との癒着、利権がらみの汚職事件などで国民の信頼を失っていった。

深刻な昭和恐慌・政党不信を背景として民間右翼運動や農本主義運動が活発化し、
これらは軍部の国家改造運動とも結びついて暗殺事件が続発した。
五・一五事件(S7:犬養首相暗殺)で戦前の政党政治は終焉した。

この間に、天皇制打倒を目指す日本共産党など左翼に対する弾圧は強化され、
三・一五事件(S3)、四・一六事件(S4)などで共産党中央部は壊滅的打撃を受けた。

一方、中国情勢は国共合作の成立(T13)、北伐開始(T15)などで軍部は危機感を抱き
山東出兵(S2〜S3)、満州事変(S6)、”満州国”建国(S7)へと武力行動を拡大した。
協調路線の”幣原外交”を軟弱と非難し、軍部主導で国家改造を行う動きもでてきた。
浜口首相狙撃事件(S5)はこの流れの中での出来事であった。

国際連盟は日本の行動と”満州国”を否認(S8)、日本は直ちに国際連盟を脱退した。
日本は世界から孤立し、日中戦争(S12)から第二次世界大戦へと突き進むことになる。

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・・・ もう一寸詳しく ・・・

大正15年(1926)12月25日、大正天皇崩御で「昭和」と改元された。(T15/1〜第一次若槻礼次郎内閣)
”大正デモクラシー”という言葉が象徴するように、大正期は日本近代化の流れの中で
大衆の民主主義意識・運動が盛んになり、政治・経済・社会・文化など各方面でその風潮が溢れた。
一方、世界の大国を目指す支配体制の側は大衆への管理・規制を強化し対立を深めていた。
(T14: 治安維持法公布・改正衆議院議員選挙法(普通選挙法)公布: 加藤高明内閣)

昭和元年はわずか1週間で昭和2年を迎えたが、世界各国は大戦争後の利害や民族独立運動が
複雑に絡み合う不安と変動の渦中にあって、日本も多難な時期とならざるをえなかった。

 第一次世界大戦(T3〜T7)による国内の好景気は反動で戦後恐慌に変り、関東大震災(T12)による震災恐慌が
加わったところへ、金融恐慌(S2/3 渡辺銀行など中小銀行の取り付け騒ぎ、大商社鈴木商店倒産)が起きた。

さらには、世界大恐慌(S4/10:ニューヨーク株式の大暴落に始る)、金解禁(S5/1)により不況は一層深刻化し、
農業恐慌(S5〜 生糸・農産物価格の急激な下落と大凶作(S6・S9)で農村の疲弊は極に達した)に見舞われ、
「昭和恐慌」といわれる時期が続いた。

中国においては蒋介石の「北伐」により日本が第一次世界大戦によって得た権益が危うくなる情勢で、三次にわたる
山東出兵(S2〜(S3/5:済南事件))を行い、中国に対する積極的な干渉が開始された。(S2/4〜田中義一内閣)
同3年6月には陸軍部隊(関東軍)が謀略により張作霖爆殺事件を起こし、抗日運動は激化した。
また、朝鮮・台湾においても日本の植民地支配に対する抵抗運動は激しくなっていた。

朝鮮の元山でのゼネスト(S4)とそれに続く反日デモ発生、台湾の霧社事件(S5)がその例である。

 国内政治では、男子普通選挙(S3/2)による最初の衆議院議員選挙で無産政党から8名が当選した。
直後の3月15日、政府は危機感から全国で共産主義者の検挙・捜索を実施(三・一五事件)し、治安維持法を改正
(S3/6)、さらに特高(特別高等警察)を全県に設置(S3/7)し、左翼等の政治・思想活動の弾圧を強化した。
翌年(S4/4/16)にも共産党員の大検挙が行われ(四・一六事件)、共産党は壊滅的打撃を受けた。

山本宣治(当時の合法最左派議員)の右翼による暗殺事件(S4/3)も起きた。

(張作霖爆殺事件を民政党は「満州某重大事件」として倒閣に利用、田中内閣は総辞職(S4/7)に至り、
浜口雄幸内閣が成立したがこの事件の真相は国内では第二次大戦後まで明らかにされなかった。)


風貌から”ライオン宰相”と呼ばれた浜口首相は、対英米協調・対中不干渉路線(幣原外相)・緊縮財政・金解禁(S5/1 
:井上蔵相)を推進したが不況は激化、ロンドン海軍軍縮会議(S5/4)の条約批准は軍部・右翼の猛反発を招いた。

同5年11月、浜口首相は東京駅で右翼の青年に狙撃され、病状悪化で内閣総辞職(S6/4:第二次若槻内閣成立)。

重傷を負った浜口首相が”男子の本懐”と叫んだと言われているが、秘書官の創作とも言われる。8月26日死去)

陸軍内部では昭和6年に軍部内閣樹立を図った「三月事件」・「十月事件」というクーデター未遂事件が起きている。

同6年9月18日、南満州鉄道奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で線路が爆破された(柳条湖事件)。
関東軍は中国側の仕業あるとして直ちに軍事行動を起こし、たちまち満州(中国東北部)全土を占領(満州事変)、
同7年3月には清朝最後の皇帝溥儀を執政として「満州国」建国が宣言された。

政府は柳条湖事件直後(S6/9/24)に不拡大を表明したが効果なく、軍事行動は拡大した。(S6/10〜犬養毅内閣)
同7年1月、世界各国の注意を満州からそらすため日本軍は謀略によって上海で軍事行動を
開始したが中国側の激しい抵抗を受けた。(上海におけるS12/8の軍事行動と区別し第一次上海事変という)

同7年2月、血盟団(国家主義者井上日召を首領とする右翼暗殺団・団体名は公判担当検事が付けた)による
前蔵相井上準之助暗殺、次いで同年3月、三井合名理事長団琢磨暗殺が続いた(血盟団事件)。
そして、同7年5月15日、海軍の青年将校等の一団が首相官邸で犬養毅首相を暗殺した。(五・一五事件)
「話せばわかる」「問答無用」で拳銃が発射されたといわれる。((政党政治の終焉・海軍の斎藤実内閣成立)

 満州での事態に対し、国際連盟はリットン(英国)を代表とする調査団を設置(S7/1)した。
同7年10月公表の報告書は日本の行動に正当性を認めず、それが国際連盟総会(S8/2)で
賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム)で採択されたため、日本は直ちに国際連盟を脱退した。
日本は世界から孤立し、日中戦争(S12)から第二次世界大戦へと突き進む。


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世相は = 農村疲弊 ・ 大衆社会 ・ 新中間層 ・ モダン ・ エロ グロ ナンセンス

関東大震災直後から中央線沿線の人口が急増したことは既述の通りである。
都心部の被害が大きかった、中央線沿線の地価が安かったというだけでなく、
背景にあるのは農村疲弊、離農と大衆社会成立による都市部の膨張であった。

特徴的なのはいわゆるサラリーマン層の比率が増えたことで、高等教育機関の充実が
これを支えており、大衆社会の中で新中間層と呼ばれる階層を構成していった。
地方の二・三男以下が都会へ出て学校を卒業し、そのまま都会で就職することが多かった。

これらの人々は、中央線沿線など近郊の新しい住宅地にいわゆる”文化住宅”を建て、
現代でいう”マイホーム志向”を強め、”大衆文化”を生み出していた。

映画や軽演劇が人気を呼び、ラジオ・新聞が普及し、総合雑誌・婦人雑誌・児童雑誌
が購読され、円本といわれる全集や文庫本で文学作品や大衆小説がもてはやされた。
モガ・モボが銀座を闊歩、ダンスホールやカフェ、音楽喫茶など盛り場も賑わっていた。

また、昭和恐慌と社会不安の中で刹那的な刺激を求める傾向も強まり、
濃厚なサービスを行うカフェやレビュー、エロ・グロ・ナンセンス出版物が人気を博した。
警察の取り締まりは緩やかというよりむしろ大目に見ていたといわれる。

深刻な農村の疲弊、暗い事件が続いていたが、都会においては”モダン”世相と
いわれた時期で、大衆は自らのささやかな幸せを守るべく懸命に生きていた。

ただ、自分個人の今のことだけで精一杯で、権力による統制、支配への
反発力は弱く、ファシズムの流れのまま戦争への道を一直線に歩むことになる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・・・ 歌は世につれ、映画は語る ・・・

大正15年夏頃から”モダンガール・モダンボーイ”という言葉が流行った。
この言葉は
新居格(にい いたる)の作で、”モガ・モボ”と省略形にして流行らせたのは大宅壮一といわれる。
昭和初期、日本の政治・経済は激動の時代到来を予測させるような暗い、重い出来事が続くが、
社会的には近代化・都市化の流れが進み、”モダン”はこの時期の世相を象徴する言葉であった。

世相を、歌や映画・演劇などで辿ると ・・・

昭和2年: 日本ビクターと日本コロンビア設立。レコードの大量生産に入った。
「どん底のうた」「モン・パリ」「出船の港」「ちゃっきり節」「佐渡おけさ」などが流行。
築地小劇場で藤森成吉の「何が彼女をそうさせたか」が上演され連日満員となった。
映画は「稚児の剣法」で林長二郎(長谷川一夫)が、「鞍馬天狗」で嵐寛寿郎がデビュー。
「忠治旅日記」などの時代劇が流行り、阪東妻三郎、大河内伝次郎などの剣劇大スターの活躍が続く。
12月に日本最初の地下鉄(浅草〜上野)が開通した。

昭和3年: 電気蓄音機(電蓄)が普及し、歌は「私の青空」「アラビアの歌」「波浮の港」「君恋し」など。
中山晋平(”晋平節”)が活躍。 映画は「浪人街」、「道頓堀行進曲」「新版大岡政談(丹下左膳)」など。
アムステルダムオリンピックで織田幹雄(三段跳)、鶴田義行(200m平泳)が優勝、人見絹江(陸上800m)2位など活躍。

昭和4年: 「東京行進曲」「洒落男」「酋長の娘」など。ポリドール設立。
映画で「大学は出たけれど」など。(失業者が街に溢れていた)。
浅草でエノケンらのカジノ・フォーリーが旗揚げ。ドタバタ劇とエロチシズムで人気を上げていった。

昭和5年: 「祇園小唄」「すみれの花咲く頃」「酒は涙か溜息か」など。キングレコード(講談社)設立。
”古賀メロディー”が次々と流れた。映画で「何が彼女をそうさせたか」など。
下村千秋の「街のルンペン」(朝日新聞連載小説)が好評で、"ルンペン”の言葉が一躍一般化した。

昭和6年: 「侍ニッポン」「女給の歌」「丘を越えて」など。映画では本格的なトーキー時代が始った。
日本最初の本格的トーキー映画の成功作「マダムと女房」。「パリの屋根の下」(フランス映画)など。
映画の中で歌われた歌が流行したり、歌が映画になったりするようになる。

弁士や楽士は失職し、漫談に転向して一躍スターになったのが
徳川夢声や古川緑波ら。
それぞれの道を求め、話芸に、紙芝居屋やチンドン屋に転向して人気を得た人も多かった。
12月に、新宿ムーランルージュが開場した。

昭和7年: 「影を慕いて」「銀座の柳」など。映画では「天国に結ぶ恋」など。(若者の自殺が大流行)。

ロサンゼルスオリンピックで、水泳5種目・三段跳・馬術大障害で金メダル(7個)の活躍。

余談 :この頃の流行歌レコードは1枚 1円50銭。 映画は封切館で40銭〜50銭、 コーヒーは 10銭〜15銭であった。
巡査の初任給は45円。 レコードは高かったともいえるが売上は年々大幅に伸びていた。
レコードは今で云うSP盤(78回転/分)で、録音時間は数分(片面)が限度であった。昭和30年前後から
LP盤(33/分)とEP盤(45/分:ドーナツ盤)が普及し、現在はCD、DVDと進化が続いている。



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== 2 成長期 (昭和8年頃〜昭和13年頃) ==

このころ -- 時勢は ・・・ 思想・言論統制 ・ 二・二六事件 ・ 日中戦争 ・ 軍部主導
文壇は ・・・ 文芸復興 ・ 文芸雑誌 ・ 転向文学 ・ 文学賞 ・ ペン部隊
ご参考 = 「このころの値段」 あれこれ ( 『値段史年表 明治・大正・昭和』 から抜粋)

(「昭和史(元年〜25年)略年表」 も参照下さい。)

(1) ファシズムと文芸復興

昭和8年は、昭和史においてファシズムの流れが決定的になった年と位置づけられよう。

詳しくは別記したが、この年の政治絡みの大きな出来事を列挙すると・・・
教員赤化事件(長野県) ・ 小林多喜二の拷問死 ・ 国際連盟脱退 ・ 
国定教科書改訂 ・ 滝川事件(京大) ・ 共産党幹部等の転向 ・
第1回関東地方防空大演習 ・ 軍事予算の膨張 ・・・ 等々
ちなみに、ドイツでは、ヒトラー内閣成立(1月)と国際連盟脱退(10月)がある。

農村の窮乏は続いていたが軍需と輸出産業によって景気は回復に向かい、軍事費が急膨張する中で
出来事が示すように、思想、言論、教育統制が徹底され、軍部と新官僚による支配体制が進行した。

文学の分野では、プロレタリア文学が壊滅に向かうとともに芸術派の活動が活発化し、
”文芸復興”の機運が高まったといわれる。新たに<文学界>、<文芸>などの文芸雑誌が
創刊され、宇野浩二、徳田秋声、広津和郎ら既成作家の復活も目立った。

別記のように、阿佐ヶ谷界隈では同人誌<海豹>創刊で太宰、木山がデビュー、<麒麟>にも
田畑、小田、外村ら十数名が集まり、界隈の文学青年たちの交友の輪は広がっていた。

井伏は「荻窪風土記−阿佐ヶ谷将棋会」に、「会の発足は昭和4年頃」とし、続けて
「それから少し間を置き、昭和8年にシナ料理屋ピノチオの離れを会場に再発足した。
この将棋会が阿佐ヶ谷文芸懇話会になったのは昭和15年の暮だから、
阿佐ヶ谷将棋会は断続しながらずいぶん長く続いたわけである。」と記している。

再発足とはいえ”会”の様子は不祥である。 昭和13年3月3日に「会が開催された」という
木山の詳しい日記があるので、それまでは”会”としての体裁が徐々に整う過程にあった、
つまり、相応の人数と会場が揃っていった時期 --- ”会の成長期”だったと推察する。

本項ではこの間を「2 成長期」として時代背景や会員模様を探訪する。
会員の多くが文壇で大きく成長した時期にも重なる。

(2) 再発足と新たなメンバー

「昭和8年に”会”再発足」の記述は井伏のこの一文しかなく、井伏の不確かな記憶に
よるものかもしれないが、この時期の背景や界隈の文学青年たちの動きを見ると、
”会”が形になっていく過程での一つの節目だったと考えていいだろう。

ピノチオを会場にできたこと、文芸復興の機運で文学仲間の交流が一段と活発化
したこと、中でも<海豹>創刊(S8/3)の影響は大きかったことである。
ピノチオについては「Part1-阿佐ヶ谷将棋会-」に記したとおり昭和9年までは
永井二郎(永井龍男の次兄)が経営し、界隈の文士たちが常連だった。その離れの
様子ははっきりしないが、後に経営者になる岡茂氏が昭和11年頃にはそこを借りて
マージャンクラブ「龍」を経営したとのこと、将棋を指す場所としても適していただろう。

何人かが集まって昼間は離れで将棋を指し、二次会は料理店の方で酒を酌み交わす
というパターンができた ・・・。井伏と永井龍男やピノチオとの関係を思うと、
時にそのような便宜が図られてもおかしくない状況だったと推察する。

出発期に掲げたメンバーのほかに古谷綱武、秋沢三郎がいて、さらに浅見淵、
亀井勝一郎、上林暁、浜野修、村上菊一郎らが登場、活躍することになる。
このうち上林は小説だが、他の面々は主に評論や編集、翻訳、学問などの分野での
活躍が目覚しい。会員の幅が広がった・・・発足期と区分する成長期の所以でもある。

井伏は、浅見以下に記した面々が会員となるのは昭和15年頃と書いているが(木山も含む:
「荻窪風土記-文学青年窶れ」)、この内の多くは阿佐ヶ谷界隈で活躍したのはもっと早い時期からで、
遅くとも昭和10年前後には発足期のメンバー共々、酒や将棋で交友を深めていたと推測できる。
一例だが、昭和8年の木山の日記に「浅見の家を訪問」とか「秋沢と飲む」という記述がある。

                                                                    

(3) 第2期からの会員 登 場 --- 評論家など多士済々

「第2期 成長期(S8頃〜S13頃)」に登場する次の7人のうち、亀井は評論家として、上林は
私小説作家として著名だが、世間一般には、全体的に地味な存在の面々といえるだろう。
著書が少ない人の場合には、親交のあった人々の記述、公開されている手紙や
年譜などを参考にして、”将棋会”に加わった時期が早かったであろう順にご紹介する。

 古谷綱武 : 「”古谷サロン”に文学青年集う」 の項へ

 秋沢三郎 : 「阿佐ヶ谷駅前の溜り場」 の項へ

 浅見 淵 : 「早稲田文学・砂子屋書房に活路」 の項へ

 亀井勝一郎 : 「”転向” 苦悩の精神遍歴」 の項へ

 村上菊一郎 : 「早大仏文卒:応召:早大教授」 の項へ

 上林 暁 : 「私小説開眼で道が展ける」 の項へ

 浜野 修 : 「ドイツ文学・上林暁と心の交遊」 の項へ 

(4) 第1期からの会員 --- 文学青年から文士へ

井伏をはじめ ”第1期 出発期” からの面々は、第2期(S8頃)になると文芸復興の機運とともに
活動は一層活発化し、その社会的存在感を高めていった。文学青年から文士への変身である。

しかし、経済生活は多くが苦しかった。家計を預かる妻たちの苦労は並大抵ではなかった。
文学賞受賞者でさえも、貧乏の程度は改善されたとはいえ貧乏を脱するには至らなかった。

個々には、文学賞受賞あり、逸した無念あり、人生の縺れあり、辛苦あり、立ち直りありと
各様の道を歩んでいたが、ファシズム進行の時勢下、将棋会参加には一様に熱が入った。
軍靴の音が身辺や自身にも迫り、生活面、心身面ともに不安に苛まれる日常を、
上記の新会員とともに将棋に集い、村上のいう”置酒歓語”に紛らして支え合っていた。

昭和13年3月3日に初めて 「阿佐ヶ谷会。将棋屋にて。」 という明文が木山の日記に現れる。
交友の輪が広がり、会としてまとまるまでの各々の人間模様を第1期に続いて追っていく。

 井伏鱒二 : 「太宰治が師事 & 直木賞受賞」 の項へ

 青柳瑞穂 : 「赤紙 & 尾形光琳発掘」 の項へ

 小田嶽夫 : 「芥川賞受賞で貧窮を脱出」 の項へ  

 木山捷平 : 「父の死・苦闘に次ぐ苦闘」 の項へ

 太宰 治 : (前)「失踪事件・パビナール中毒」 の項へ

   同   : (後)「水上心中・デカダン生活」の項へ

 田畑修一郎 : 「三宅島滞在で立ち直る」 の項へ  

 外村 繁 : 「文学復帰は順風満帆」 の項へ

 中村地平 : 「退職して文学専念・真杉静枝」 の項へ

 安成二郎 : 「年齢、将棋の技量とも別格」」 の項へ

 (蔵原伸二郎) : 「会員とすべきか?」 の項へ 


(5) 「阿佐ヶ谷将棋会 第2期(成長期 : S8〜S13)」 のまとめ ---  

 昭和8年は日本のファシズム化が決定的となった年である。その象徴が特高
の拷問による小林多喜二虐殺(S8/2)である。権力に逆らえば生命が
危険に晒される現実を目の当たりにして各界で”転向者”が相次いだ。
文学ではプロレタリア文学が崩壊し、それに代わって純文学が脚光を浴び、
文芸復興の機運が高まった。(このころ「時勢は」参照)

 純文学、芸術派の文学青年たちにようやく世に出る機会が巡ってきた。
小規模な同人誌に分散して群れていた青年たちは、より大きな力を求めて
合同を企てるなど活発に活動し、いわばサバイバル競争に鎬を削った。

 一般マスコミ界の活動も活発になり、文藝春秋社の「芥川賞、直木賞」創設など
各種文学賞の創設が相次ぎ、ベテラン、大家の積極活動、中堅の活躍、
有望新人の輩出など、数多くの作品が発表されて文壇は活況を呈した。

 当然のことながら、中にはいわゆる”左翼からの転向”や、詩から小説への転進、
その逆の転進、小説から他分野への転身など、進路変更を余儀なくされる面々が
現れ、また、主義主張などの違いから同人を離れたり、新たに加わったり、
新しい同人ができたり潰れたり、などなど、人の動きも慌しく、活発になった。

 若い多くの文学青年が近所同士で住んでいた阿佐ヶ谷界隈は、これらの動きの
中心舞台だったといっても過言ではない。井伏は35歳(S8)、ようやく文壇中堅に
さしかかっていたといえようが、その周辺にいる面々はまだ懸命に世に出る
機会を窺っていた。年齢は20代後半から30代前半、将棋を指して酒を飲み、
論じ合い、傷をなめ合い、励まし合いながら明日への英気を養っていたが、
ここへきて、いよいよ人それぞれ、人生の歩みに大きな変化が訪れた。


会員それぞれのこの期(S8頃〜S13頃)を概略すると・・・

 井伏 プロレタリア文学崩壊とともに、雑誌・新聞からの注文が増えて超多忙になったが、
雑文的な仕事が多かったので大きな収入にはならず、貧乏暇なしの状態が続いた。
太宰との関係では、太宰のパビナール中毒や奔放な言動に振り回されながらも
面倒を見続けて師弟としての結びつきが強まり、太宰の再婚に関わるようになる。
作家としては直木賞を受賞(S13/3)、名実ともにようやく一流の仲間入りを果たした。

・ 青柳 詩作に行き詰まり創作は不得手、仏文学者として取り組んだ翻訳は評価されたが、
青柳の心は文筆よりも”骨董”に傾いた。妻の兄(静岡県の素封家・山本気太郎)の
物心両面の絶大な援助を得て鎌倉期の能面を発掘(S10)、召集を受けるが(S12)
軍服不足という珍しい事情で即除隊となり、その直後に尾形光琳の肖像画(現在は
重文)を古物店で発見した。会合などでは骨董について講師のような立場で話した。

・ 安成 中村によれば年齢的にも将棋の腕前からも別格的存在だったという(S8:47歳)。
阿佐ヶ谷界隈には大正15年から住み、歌人、ジャーナリストとして活躍、井伏との
親交は続き、双方の将棋絡みの随筆にはお互いが度々登場する。例えば「花万朶」
には「将棋をしながら井伏鱒二君と語る」(S11/4)がある。木山の日記にある最初の
将棋会(S13/3)にも参加している。将棋に最も熱心な会員の一人だったといえよう。

・ 田畑  <雄鶏>、<麒麟>など活発な同人活動で文壇に名は知られたが収入は伴わず、
経済状態の悪化や同人との人間関係に悩むなど心身ともに最悪の状態に陥った。
生活のため妻と洋裁店を開いたが、昭和10年春の三宅島滞在が文学の転機となった。
帰京して発表した”三宅島もの”が好評で立ち直り、昭和13年には初の創作集
「鳥羽家の子供」を刊行(砂子屋書房)、記念して阿佐ヶ谷将棋会が開かれた(S13/7)。

・ 小田 田畑らと<雄鶏>、<麒麟>などで活発な同人活動を行ったが認められることなく、
生活は極貧状態に陥った。意地も恥もなく、とにかく仕事をしたが苦しいばかりだった。
昭和10年、杭州時代のことが無性に書きたくなって筆を執った「城外」が芥川賞を
受賞(S11/8)した。秋には初の創作集「城外」発刊などでようやく貧窮状態を脱した。
この間、田畑、木山、秋沢、井伏ら”将棋会”の面々とは積極的な交遊を続けていた。

・ 中村 昭和8年に東大を卒業したが文学を続けるため大学院に在籍し、翌9年に都新聞に
入社した。文学活動は<日本浪曼派>に加入するなど積極的に行い、文学専念のため実家
の了解を得て退社した。生活は仕送りで余裕があったようだが、真杉静枝との同棲や
兄の戦死、本人の召集(即除隊)など人生の大きな波を経験した。この間、井伏、太宰、
小田ら将棋会の面々との交遊は深まり、昭和13年12月には「将棋随筆」を書いている。

・ 太宰 昭和8年に井伏宅に近い天沼へ転居、<海豹>で文壇デビュー、活発な同人活動と
激しく動くが、人生の歯車はとんでもない乱回転をする。昭和10年、兄との約束の東大
卒業は果たせず自殺未遂、盲腸炎からパビナール中毒、芥川賞事件、精神病院入院、
小館の告白、妻初代との心中・離別、と続いた激動はまさに”小説より奇なり”であった。
文壇対応や、井伏ら将棋会の面々、友人との交遊など、その生活振りは尋常ではない。
兄など周辺は立ち直りには再婚が必要と考え、またも井伏を頼ることになる。

・ 木山 詩人から小説家への転進を目指し、<海豹>で文壇デビュー(S8)したが収入
には繋がらず、岡山県の実家からは勘当状態で生活は苦しかった。昭和9年に父が
急逝、木山が家を継がざるを得なくなり、文学に専念できずに思い悩む日々が続いた。
作品は書けなかったが将棋会の面々や文士としての活動には熱心で、そこに懸命に
活路を求めたのだろう。文芸復興の機運に乗れず苦闘した様子が日記から伝わる。

・ 外村 昭和8年に文学復帰を期して阿佐ヶ谷へ転居、再び筆を執った。5年余の商店経営
の経験から題材を得た”商店もの”が好評で順調な再出発となり、昭和10年には人間を
さらに内面的に掘り下げた「草筏」を起稿し、同人誌4誌に続載して3年後に完結した。
「草筏」は芥川賞候補になるなど活躍は目覚しく、経済力もあって同人活動では重要な
役回りを務め、また将棋会では先輩格として仲間のトラブルに気を揉んだりした。

・ 古谷 <海豹>創刊(S8/3)で、”古谷サロン”にはより多くの面々が訪れた。そこに新たな
出会いがあり、古谷を中心に文学論に花を咲かせ、新しい同人誌を生んだ。太宰、檀、
浅見、尾崎、外村、木山、中谷、田畑、等々、阿佐ヶ谷界隈の住人が多い。将棋会の
会員として井伏ら多くのメンバーとの親交が深まるのはこの<海豹>の頃からだろう。
日中戦争の影響で父の海外からの送金が途絶え、古谷は窮したが文筆活動を続けた。

・ 秋沢 昭和8〜9年頃には、秋沢は桜井浜江(画家:H19/2没)と結婚して阿佐ヶ谷にいた。
文学仲間の溜まり場になって太宰、小田、木山らが訪問したが、もともとは<風車>
(五高-東大の人脈で創刊) の同人で上林、森本忠らと親しかった。寡作主義で作品は
少ないが同人活動や将棋、酒での交遊は活発だった。戦後、サンケイ新聞の文化部長
になるが、この当時の人脈、経験を活かして企画や部下の指導に腕をふるったという。

・ 浅見 大スランプに陥っていたが、<小説>創刊(S8/2)で立ち直り、古谷との出合いで
尾崎ら早稲田人脈中心の活動は、さらに阿佐ヶ谷界隈の面々との交遊へと広がった。
文芸復興の機運に乗り、同人誌や砂子屋書房創設に積極的に関わり、活動は創作
から評論、編集、出版分野主体となり、昭和11年頃には貧窮生活からようやく脱した。
井伏との交友は学生時代からだったが、将棋会の一員として親交を深めるようになった。

・ 亀井 阿佐ヶ谷に住み、未決囚として保釈中の身ながら左翼の論客として活動していた。
昭和8年12月、執行猶予付判決があったが、”転向”を誓約させられた結果で、以降、
亀井は心に深い傷を負って険しい新たな道の模索を続ける。健康上の理由から三鷹に
転居して同人誌活動に入り、<日本浪曼派>創刊に参加、直後に<青い花>の太宰、
木山らが合流、さらには中村、外村らも参加し、将棋会の面々との交遊を深めていく。

・ 上林 作家一筋に生きることを決意して改造社を退社(S9)したが、経済的に窮した。
家族で帰郷した折、そのまま1年余を居座り、ようやく再上京(S11)して阿佐ヶ谷に住み
再起を図ったが困窮は続き、本人と妻の心身状態は限界に達する中、私小説に活路を
見出した(S12〜S13)。井伏ら界隈の文学青年との交友は以前からあったが、積極的に
付き合いができるようになったのはこのころからで、将棋会参加は昭和14年になる。

・ 浜野 昭和7年に、改造社の中間読み物懸賞募集に応募し、入選したのがきっかけで
上林と知り合った。浜野は、ドイツ文学の研究、翻訳や随筆などを発表しており、
上林が編集を担当した<文藝>にも寄稿したが、上林が退社し一時帰郷したので、
友人としての付き合いが始まるのは、上林が再上京した昭和11年頃からになる。
将棋会には第3期(盛会期)からの参加だが、上林との関係で本項に記した。

・ 村上 早大在学中に青柳の翻訳の仕事を手伝ったり、井伏など界隈に住む先輩の指導
を受けたりで阿佐ヶ谷には以前から縁があった。昭和10年の卒業で阿佐ヶ谷に住み、
翻訳など文筆活動に入るが生活は苦しかった。就職して生活を安定させて文学を続け、
新進として世に知られるようになり、昭和12年秋の青柳応召の宴席には井伏、小田、
外村、田畑、秋沢、太宰らと共に参加している。将棋会の最年少会員である。(S8:23歳)

(蔵原) 大正13年に阿佐ヶ谷へ転居した。青柳や井伏と親しかったので将棋会の
会員とすべきかもしれないが、将棋を指した様子はなく、昭和9年秋には阿佐ヶ谷を
去っている。詩作から小説家を目指したが、このころは再び詩作に戻って
独自の道を歩んでおり、この転居はそのためのものだったといわれる。


* ここまで、各人各様の経過だが、総じて文筆で生活する目処が立ったといえよう。
ただ、大方に共通するのは政治思想や権力とは距離を置き、日常は一庶民として
普通に暮らし、書くテーマもそこに求めたので収入には繋がりにくく、実家から相当
の援助を得たであろう中村、外村、亀井を除けば、経済的には苦しい状態が続く。
特に木山、秋沢は文学面でも苦闘が目立ち、上林は妻の健康問題に苦悩する。
太宰の人生は異常ともいえる流れが一段落し、新たな段階へと向かう。

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”将棋会”というが、第2期(成長期)も第1期(出発期)に続いて将棋が主体というより
むしろ酒を飲みながら文学や人生を語り合うことがお目当ての会だったといえる。
文芸復興の機運で活動が活発になり、仲間が増えたことで組織的な動きが必要に
なったのである。自然発生的に「阿佐ヶ谷会」あるいは「阿佐ヶ谷将棋会」の呼称が
生まれたのだろう。そして木山の日記(S13.3.3)に「阿佐ヶ谷会」が現れるのである。

ここで阿佐ヶ谷将棋会は”第3期 盛会期(S13〜S18)”に入る。

上林は「我が交遊記 二閑人将棋を指す図」(S15/6:国民新聞)で、昭和14年6月
将棋会(浜野宅)時の寄せ書きに安成二郎は次の歌を記したと紹介している。

「歌よみて将棋をさして居らるべき 世と思はねど これぞ楽しき」

ここに”第3期(盛会期)”そのものが表されている。

日中戦争は拡大を続け、軍靴の響きは日毎に高まったが、
このころまではまだ一般国民の心には余裕があった。
中国大陸における強力な軍事行動を背景に、人生や生活に
新たな活路を求めて満州、中国へ渡った民間人も多かった。

日米開戦(S16/12)、そして間もなくの戦況悪化で、遊興娯楽は言語道断の
時勢となる。 次項ではそこにいたるまでの盛会期の面々の人生を辿る。

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このころ(昭和8年〜昭和13年)

(「昭和史(元年〜25年)略年表 も参照下さい。)


時勢は = 思想・言論統制 二・二六事件 日中戦争 軍部主導

 昭和8年の主な出来事を本項の冒頭に挙げたが、特徴は思想・言論
・教育の統制である。国の指導者は国民から自由な情報と思考と行動を
奪って戦争を準備し、昭和12年の盧溝橋事件で日中全面戦争が始まる。

[教員赤化事件(長野県)] 小・中学校教員に対する左翼活動の取り締まりは日頃から
行われていたが、昭和8年2月には長野県で一挙に200名を超える教員が検挙された。
「赤化」の名の下に強引に自由主義者を排除しようとする国の意図が表れた事件だった。

 [国定教科書改訂]   小学校の教科書が改訂され、修身や歴史において、日本は
天皇主権の国体であることを強調し、国のために尽くすことを教え込むようになった。

 
[滝川事件(京大)]  京大の滝川幸辰教授の刑法理論は共産主義的として辞職を
求めた(S8/4)鳩山一郎文相と、大学の自治、学問の自由を侵すものとして教授らが
対立した事件。この事件から自由主義的学問に対する政治の干渉が顕著となった。
学者、文化人の間には反ファッショの動きはあったが一般国民には広がらなかった。

[共産党幹部等の転向]  天皇制を否定する共産党への弾圧は日毎に厳しさを増し、
官憲による小林多喜二虐殺など取調べが凶暴化する中、共産党最高幹部の佐野学、
鍋山貞親は獄中から転向声明を(S8/6)発表した。以降、各界で転向が続出した。

[第1回関東地方防空大演習]
   陸軍が唱える総力戦体制は一般市民を含む戦争
体制を意味し、その意識づけを図るために関東地方で防空大演習を実施した(S8/8)。
この演習などを批判した信濃毎日新聞社の桐生悠々は新聞社を追われ、個人雑誌
<他山の石>を刊行して軍部批判を展開したが、昭和16年9月、廃刊に追い込まれた。


参考サイト 「関東防空大演習を嗤う」 (青空文庫) 桐生悠々


 二・二六事件 、 日中戦争については、「第一部 -二・二六事件の頃-、
 -続・阿佐ヶ谷将棋会- 」 に記したとおりである。
軍部主導の戦時体制のもと、国民は悲惨な道を歩むことになる。

昭和恐慌を背景に軍部は大陸へ進出して満州国を建国、日本は国際連盟を
脱退して世界からの孤立を深め、中国とは軍事的緊張関係が続いていた。
国内では農業恐慌が長期にわたっており、昭和7年にはいわゆる救農議会
(第63臨時議会)が開かれ対策が講じられたが十分な効果は挙がらなかった。
昭和9年、東北地方は冷害による未曾有の大凶作に見舞われ、農村の窮乏
は極まっていた。2・26事件の本質は陸軍内部の派閥抗争とも見られるが、
これらの状況が重要な要因になっていたことも確かである。

内外の難局に対し政党は有効な対応ができず、汚職などで政治不信を招き、
軍部、右翼が台頭していたが、その陸軍内部では統制派と皇道派が激しく争い、
皇道派相沢中佐による統制派永田軍務局長暗殺事件(S10)などが起きていた。

昭和11年2月26日、陸軍の皇道派青年将校らが武力行動を起こしたのである。
この
2・26事件の後、軍部、特に陸軍は発言力を強化し、軍部大臣現役武官制
の復活(S11/5)は軍部の政府に対する影響力を決定的なものにした。

昭和12年7月7日夜(第1次近衛内閣成立の翌月)、北京郊外の盧溝橋で日中
両軍の部隊が戦闘を交わすという盧溝橋事件が起きた。戦闘そのものの規模は
大きくなく、8日朝には戦闘中止、9日に停戦成立、11日に停戦協定が結ばれた。

日本政府は、事件不拡大の方針だったが、強硬論に押されて直ちに軍隊を
増派したため全面戦争に発展し、さらには太平洋戦争(S16/12)へと繋がった。
日本は宣戦布告をしておらず、北支事変、支那事変とか日華事変と呼んだ。

原因は夜間演習をしていた日本軍に対して中国側が発砲したこととされたが、
その真相は今なお不明である。

なお、日本軍が南京を占領した際(昭和12年12月)に、婦人・子供などの非戦闘員
をも殺害する「南京大虐殺事件」を起こし、当時国際的に強い批判を浴びたが、
一般の日本人がこの事件を知ったのは戦後の極東国際軍事裁判によってだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

『この国民にしてこの政治あり』 という言葉がある。
「この戦争は軍部の独走」というだけで片付けてはいけない。

昨今の日本の政治、世相は、好悪はともかく、全国民の意思、
行動の総合的反映であると誰もが認めざるを得ないだろう。
世界の国々の動きもまた同様である。

指導者を支えるのは国民の意思(無意思)、行動(無為)なので、
それぞれの有り様如何によって、国民は、というより人間・人類は
取り返しのつかない不幸の道を歩む危険に常に曝されている。

個人にとって、また国家にとっても、その意思実現が最高の価値と
されるやに見受ける昨今、しかもその意思は自己利益の追求に
傾いていることは否めず、それを取り巻く存在(他者や自然)との
軋轢は避け難く、その危険度は極めて高いといわざるを得ない。

『この国民にしてこの政治あり』 を肝に銘ずべきである。


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文壇は = 文芸復興 文芸雑誌 転向文学 文学賞 ペン部隊


* 文芸復興 *

文芸復興といわれる時期は昭和8年から昭和12年までの4〜5年間とされる。
全盛のプロレタリア文学は小林多喜二虐殺(S8/2)以後壊滅に向かった。
それに代わって純文学の芸術派の面々が表舞台に立つようになり、
有名大家も活動を積極化、出版社などが対応を強化して文壇は活況を
呈した。いわば純文学のプロレタリア文学からの復興の観があるが、
日中戦争を境に(S12/7)文壇も戦時体制に組み込まれていった。

ちなみに、日本ペンクラブは昭和10年に結成(会長島崎藤村)され、
国際ペンクラブの東京大会が昭和15年開催と決まったが、日中戦争の
影響などで辞退を余儀なくされ、国際ペンクラブとの関係も絶たれた。

この時期に力作を発表した著名な作家(作品)を例示すると、
大家としては、  谷崎潤一郎 「春琴抄」(S8)   徳田秋声 「仮装人物」(S10〜)   

島崎藤村 「夜明け前」(S10完結)    志賀直哉 「暗夜行路」(S12完結)
永井荷風 「墨東綺譚」(S12)       山本有三 「路傍の石」(S12〜)
中堅作家としては、  横光利一 「紋章」(S9)     川端康成 「雪国」(S10〜)   
     堀辰雄 「風たちぬ」(S11)   井伏鱒二 「ジョン万次郎漂流記」(S12)
また、芥川賞など多くの文学賞創設で、後に名を成す数多くの新人作家が輩出している。



* 文芸雑誌 *

有名、無名の文学青年たちによる同人誌活動は活発に続いていた。
雑誌社、出版社などの活動も活発化し、多くの作家が多くの作品を
発表していった。特に昭和文学史上で注目される雑誌として
<文学界>(S8/10創刊:川端康成・小林秀雄・武田麟太郎ら)
<行動>(S8/10創刊:船橋聖一・阿部知二ら)
<文芸>(S8/11創刊:改造社)がある。
創刊の経緯、関わった面々の動きなどが「昭和文学盛衰史」(高見順著)
をはじめ多くの文学史の書物に記されているが興味深いものがある。

従来からある<文芸春秋><新潮>はもちろんのこと、総合雑誌<中央公論>
<改造>、婦人雑誌や一般新聞にも文学作品が積極的に掲載された。

既成の同人誌のほか、新たに多くの雑誌、同人誌が創刊されている。、
例えば小説では<文芸首都><小説><海豹><人物評論><文学><四季>
<桜><日暦><鷭><文学評論><現実><世紀><青い花><日本浪曼派>
<木靴><海風><人民文庫><文学生活>などがあるが、阿佐ヶ谷将棋会
の会員や界隈の面々が深く関わっているものが多いことが注目される。


* 転向文学 *

共産党に対する弾圧は熾烈を極め、共産党最高指導者佐野学、鍋山貞親
が獄中から転向声明を発表(S8/6)してから各界で転向が続出した。

「転向」というのは、一言で言えば「共産(社会)主義を放棄すること」であるが
当事者の内心は複雑で苦悩に満ちていたはずである。そして転向文学と
いえば、一般には転向した文学者がその苦悩を表現した作品と捉えられ、
島木健作(S9・「癩」)、 村山知義(S9・「白夜」)、 立野信之(S9・「友情」)
徳永直(S9・「冬枯れ」)、 中野重治(S10・「第一章」)、 高見順(S10・
「故旧忘れ得べき」)、などが代表的とされる。
ほかにも、林房雄、亀井勝一郎などが有名だが、転向後は人それぞれに
心底に深い傷を負いながら新たな生き方を様々に模索したのである。


* 文学賞 *

昭和10年に文芸春秋社(菊池寛)が芥川賞・直木賞を創設し、現在も
続いている。文芸懇話会賞(〜S12)、文芸汎論詩集賞、(〜S19)、
三田文学賞(〜S14)も誕生、さらに文学界賞(S11:池谷賞(S11〜S17)
に引き継ぐ)、透谷文学賞(S11〜S15)、千葉亀雄賞(S11〜S12)、
新潮社文芸賞(S13〜S19)、などが続いた。無名、新進作家にとっては
名誉と賞金と知名度向上は最高の励みだっただろう。太宰治は第一回
芥川賞の候補になったが、受賞を逃すと(受賞は石川達三の「蒼茫」)
川端康成の選後評に憤激して抗議文を発表し、第二回では審査員
の一人である佐藤春夫に受賞を懇願したことが広く知られている。
文学賞は文芸復興の一翼を担い、多くの新人作家の登場を促した。

参考サイト  芥川賞・直木賞 文芸春秋 (各賞紹介)
直木賞のすべて」 ・ 「芥川賞のすべてのようなもの 


* ペン部隊 *

日中戦争で内閣情報部主導のいわゆる”ペン部隊”が編成されたのは
昭和13年だが、12年には火野葦平が応召して中国の戦場にいたほか、
吉川英治、吉屋信子、尾崎士郎、林房雄、石川達三らが新聞、雑誌社
の特派員として従軍してルポを書いた。石川達三の「生きている兵隊
(S13/3:中央公論)はこの時の見聞によって書かれた小説だが、即日
発禁、新聞紙法違反で有罪となるなど言論統制は強化され、厳しい検閲
制度の下で国策にそぐわないとされる作品は発表できなくなっていった。

文芸復興の流れは否応なく戦争文学、国策文学へと変わるのである。


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== 3 盛会期 (昭和 13年頃〜昭和 18年頃) ==
 

この時期を”第3期 盛会期”としたのは、会員の多くがこの時期の”会”について
日記や随筆、小説などに書いており、”会”に熱心に出席したことが分かるからである。
文芸復興の機運に乗って文士として世に出た会員たちは、その勢いのままに
文学に、そして将棋会に飲み会にと精力的に活動していた。

「阿佐ヶ谷将棋会」 開催一覧

しかし、戦争へと向かう時勢にあって文学活動への制約は厳しさを増すばかりで、
盛会期”とはいっても、その前半こそ安成二郎の歌などから窺えるように、将棋会や
二次会の居酒屋談議を楽しむ余裕があったが、後半になると戦争の恐怖や不安感、
孤独感を癒すという色合いが濃かったようだ。井伏は「いつ戦争になるのかと、びくびく
させられる日がつづいていた。」(「荻窪風土記-阿佐ヶ谷将棋会」)と書いている。

昭和16年の末には、会員らの徴用、日米開戦と続き、組織的な”会”の開催は難しく
なるが、個人的には頻繁に訪問しあうなどして組織に属さない自由人特有の孤独感、
不安感と戦っていたようだ。 ”会”として最後の開催、高麗神社遠足(S18/12)の頃の
戦局は日本の敗勢がはっきりしてきて、国民の不安と苦難は日に日に増していた。
本項では、会員たちは、この間何を思い、どんな生活、活動をしていたのかを辿る。

このころ -- 時勢は ・・・   日中戦争長期化  ・  新体制運動と大政翼賛会
       日米開戦(太平洋戦争)  ・   戦局暗転-敗勢
 
文壇は ・・・ ペン部隊 ・ 統制強化 ・ 文壇新体制-日本文学報国会 ・ 文士徴用 
ご参考 = 「このころの値段」 あれこれ ( 『値段史年表 明治・大正・昭和』 から抜粋)

(「昭和史(元年〜25年)略年表」も参照下さい。)

(1) ”阿佐ヶ谷将棋会” と 戦争

    ”第1回” 将棋会

”阿佐ヶ谷将棋会”は「開催した」という記述が残る”3期 盛会期”に入る。
その最初の記述である木山捷平の日記を次に引用する(『酔いざめ日記』より)。

三月三日、木、小雨。    阿佐ヶ谷会。アサガヤの将棋屋にて。 一時からであったが一時半に着く。
早速太宰に挑戦されおちつかぬうちさし敗。中村地平に敗、安成二郎に二戦二敗。石浜に敗、秋沢に敗、
最後に小田君に勝つ。最初がわるく結局落ちつきを自分でとりもどせず。 ピノチオで宴会となってからも
落付かず、二次会の途中、阿佐ヶ谷駅で「俺は帰る」などバクハツして恥をかく。 どうにも自分で自分を
整理しかねた。 最後にピノチオで森下雨村、平野零児に逢う。 高円寺のやきとり屋で小田と二人のんで
二時すぎに別れた。 夜更けて、石浜が「木山捷平万歳」と一声どなって通った。 

昭和13年、このころの文士たちの交遊振り、雰囲気、木山の心情がよくわかる。 
”たかが将棋、されど将棋” がみんなに共通の気持ちだったようだ。
ここに井伏の名前がないのが気になる。単に対戦しなかっただけだろうか?

この後、6月7日、7月12日・・と本格的な”将棋会”が続き、将棋熱の高まりがはっきりする。
「杉並文学館-井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士」などに阿佐ヶ谷会の開催一覧が整理されているが、
本HPでは、「阿佐ヶ谷将棋会 開催一覧」を別記した。)

仲間の数が増えたことで個人的な誘い合いだけでは行き届かなくなり、
幹事役を決めて組織的に動かざるを得なくなったと推察する。

阿佐ヶ谷だけでなく、早稲田や本郷、文芸春秋など出版社にも会があり、また横断的に
有志が集まる会もあり、等々で大いに盛り上がり、グループ同士の対抗戦も行っている。

昭和10年代における将棋流行の世相については、「第一部-阿佐ヶ谷将棋会-」に記したが、
浅見淵は、 背景には日中戦争があり、召集で戦地に赴く若者の壮行会を酒だけでなく
将棋会を開いて清福を楽しもうという思いもあったと書く。(『昭和文壇側面史』より)

なお、小田嶽夫の「阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ」(S29)に、「日中戦争の少し前ごろに
田畑修一郎、中山省三郎、小田の発起で将棋会開催の通知を出したのが始まり」と
あるが、日時・場所・参加者(数)・成績などは書いてない。20年近くを遡った記憶なので
はっきりしないのは残念だが、あるいはこのあたりが「第1回」だったのかもしれない。
小田嶽夫の項に上林暁の「支那料理店ピノチオにて」(S14/3)とともに詳記した。

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ところで ・・ この3月3日は 「井伏の直木賞受賞記念将棋会」か ? ・・ ”文学と記録” 

「井伏鱒二年譜考」(松本武夫著)や「井伏鱒二全集 別巻2」(筑摩書房)などの年譜には、
木山の日記にある3月3日の会は”井伏の直木賞受賞記念”とあるが私は疑問に思う。
その根拠と考えられる当時の3つの文章を要約して並べると次のようになる。

まず、
中村地平の「将棋随筆」(S13/12)には、このころ2回の将棋会があり、1回は”井伏の
直木賞受賞記念”で、もう1回は”田畑の出版記念”とあり、前回は古谷が優勝、次回は
井伏が優勝して賞品授与があり、二人は嬉しそうな顔をしていたとある。(開催日記入なし) 

次に、
井伏は「日記抄」(S13.7.3:東京朝日新聞)に、「第2回阿佐ヶ谷ヘボ将棋大会」に
出席と書き、1等安成、2等古谷、3位石川、4位平野、5位佐々木で自分は6位、劣敗者塩月。
第1回は自分が優勝したが今回は不覚・・・など、ユーモラスに書いている。(開催日記入なし)

木山の日記には、3月3日「阿佐ヶ谷会」、6月7日「阿佐ヶ谷将棋会」、7月12日「田畑出版記念」
とあり、6月7日の会は1等安成、2等古谷、3等石川、4等平野、5等井伏・・14等塩月で、16名の
参加者名がある。(石川、平野、佐々木ら日記の他の部分にはほとんど出ない名が見える。)

「3月3日の会」を受賞記念とすると、井伏と古谷が出席していたことになろうが、木山の日記
には、二人の名前はない。対戦しなかったということも考えられるが、対戦数が少ないので
どうだろうか。 日記の記述自体からも井伏の受賞記念という華やいだ雰囲気は窺えない。

「6月7日の会」については、木山と井伏の記述はほぼ一致し、出席者数とその顔ぶれは
他の時より数段賑やかなので、これが受賞記念の会と見る方が自然である。井伏は、
自分の受賞記念の会とは書き難かっただろう。この日は2等の古谷にも賞品があった。
中村は古谷の笑顔に思いが残り、安成は別格と考えて古谷が優勝と書いたと考える。

田畑の出版記念の会(井伏優勝)は、中村と木山の記述から7月12日で間違いない。

では、井伏がいう第1回はいつだったのか? 6月7日以前で体裁の整った将棋会が
行われたという記録は3月3日以外に見当らないのでこの日のことかもしれないが、
井伏の名は見えない。 別の日・・たとえば小田の記憶にある「日中戦争のはじまる
少し前ごろに通知した」という会なのか、それとも井伏流の創作か・・・判然としない。

 私小説や随筆、随想に実名が登場するからといって事実のままとは限らない。
作家は実際の出来事を題材にしても、そこに大胆な省略や加筆をするからである。
そして、そこに”いつの出来事か”という実際の年月日が書かれることも少ない。
それを書くと説明、記録性が強まるので、文学性が損なわれるということなのだろう。

 このような目で上の3つの記述を見ると、文学性と記録の違いの面白さがわかる。
それぞれの原文を読むとそれは一層際立つのである。文学の場合、正確な事実、
つまり、"5W 1H"はさして問題ではなく、作者が読者に語りたいことを書くために、
その事実をどのように料理するかがポイントになるのだろう。

* ”ウソ”になる場合には実名を避けるべきと思うが、実名でないと面白くない・・。
実名の威力、ナマのイメージ(虚像でも)にはペンの力も及ばないということか。

   「歌よみて将棋をさして居らるべき 世と思はねど これぞ楽しき」 (安成二郎)

安成のこの歌は浜野の項などに記したように、昭和14年6月の”会”の寄せ書きにある。
この時期の庶民の気持が素直に表現されているが、翌15年暮になると”阿佐ヶ谷将棋会”
の開催案内は「阿佐ヶ谷文藝懇話会」となった。幹事(田畑、中村、小田の連名)が名称を
変えないと世間体が悪いと感じる世相になっていたことが窺える。「盛会期」ではあるが、
日を追うにつれ戦争の不安や孤独感を仲間同士で癒しあう集まりになっていったのだろう。

ちなみに、この年(S15)7月、荻窪の近衛文麿邸(荻外荘)に松岡洋右、東条英機、吉田善吾が
集まり、近衛との4者による”荻窪会談”が行われた後、 第二次近衛内閣が成立(S15.7.22)した。

近衛首相の真意は別にあったともいわれるが、”新体制運動”の推進、日独伊三国同盟成立
(9月)、大政翼賛会結成(10月)と続いた。 これに合わせ、文壇には河上徹太郎、岸田国士
(大政翼賛会文化部長)らが発起人の「日本文学者会」と、文芸家協会による「日本文芸中央会」が
設立された。 ”隣組”の制度化や、「ぜいたくは敵だ」のスローガンが掲げられのもこのころである。

   「新体制運動」、会員は・・

「阿佐ヶ谷文藝懇話会」の名称は1回だけで、翌16年には”阿佐ヶ谷将棋会”に戻して
続いたが、対米戦争への動きは最早誰にも止めることができない流れになっていた。

文学関係では、石川達三の「生きている兵隊」(S13/3)が、即日発禁、新聞紙法違反で有罪
となったが、近衛首相の”新体制運動”の下で検閲は一層強化され、国策に沿わないとされる
作品は発表できなくなっていった。文芸復興の流れは戦争文学、国策文学へと変わっていく。

尾崎一雄は『あの日この日』(S50)でこの時期のことに触れ、「井伏鱒二や尾崎一雄
みたいなのは無害だからよろしいという風説があった」 が、やがて、「井伏や尾崎は、
積極的に時局に協力しないから、いかんというふうに風向きが変わった」と書いている。

また、「田畑もそうだが、外村繁、秋沢三郎、古木鉄太郎、上林暁、木山捷平、小田嶽夫、
東京と小田原とを往きかえりする川崎長太郎、東京のどこかに息をひそめる網野菊 ―
戦後も依然として派手でない所謂私小説作家群(私もふくめて)が、よく生きていたものだと
今更に思う。彼らは誰一人、戦意昂揚小説を書かなかった。かってのプロレタリア文学隆盛
の時代に、決してプロレタリア小説を書かなかったように。」 の一節がある。
井伏、外村ら”将棋会”メンバーは、作家としての、また経済面での苦悩が続いたのである。

(時勢と文壇の動きについては、別記 「このころ --」 参照)

   徴用 - 日米開戦 - “会” は休眠へ

荻窪風土記-続阿佐ヶ谷将棋会」に詳記したように、昭和16年11月、作家、画家、映画関係等々
多方面の文化人多数に徴用令書がきた。井伏、小田、中村は12月2日に南方に向けて
大阪港から出航、船上で真珠湾攻撃を知り、以降 1年間を南方戦線に勤務して無事帰還した。

“将棋会”では3人の送別会を行った(S16.11.20)が、その後、記述に残る組織的な“会”は、
後述の高麗(こま)神社参拝(S18.12.23)をもって終わる。
                             

(2) 第3期 会員 それぞれ・・

 井伏鱒二 :「太宰の結婚 - 執筆 - 徴用」 の項へ

 青柳瑞穂 :「骨董 & 骨董 & 文学少々」 の項へ

 秋沢三郎 :「私小説打破を目指して中国へ」 の項へ

 浅見 淵 :「文業広角化・伯楽の目」 の項へ

 小田嶽夫 :「中国関連で活躍・・・徴用!」 の項へ

 亀井勝一郎 :「仏教開眼 ・ 太宰との親交」 の項へ

 上林 暁 :「妻の発病・実家の援助・文学と将棋」 の項へ

 木山捷平 :「芥川賞候補・・満洲旅行」 の項へ

 太宰 治 :「再婚・平穏な日々・作品は「中期」」 の項へ

 田畑修一郎 :「取材中の盛岡で急逝」 の項へ

 外村 繁 :「招集、徴用なし:東京生活:空白の時代」 の項へ

 中村地平 :「文学絶好調 - 徴用 - 帰郷」 の項へ

 浜野 修 :「ドイツ文学・上林暁と心の交遊」 の項へ

 古谷綱武 :「苦悩の日々 : 評論の新分野開拓」 の項へ

 村上菊一郎 :「早大仏文卒:応召:早大教授」 の項へ

 安成二郎 :「年齢・将棋の技量とも別格」 の項へ

 (蔵原伸二郎) :「会員とすべきか?」 の項へ 


(3) ”阿佐ヶ谷将棋会”の遠足 (御嶽ハイキング と 高麗神社参拝)

   *奥多摩 御嶽(みたけ)ハイキング(S17.2.5) 

誰が、どのような趣旨で計画したのかは、定かでない。 昭和17年、まだ寒さ厳しい2月5日、
会員による奥多摩の御嶽(みたけ)ハイキングが行われた。参加者は、安成(55)、浜野(44)、
青柳(42)、上林(39)、木山(37)、太宰(32)、それに、案内役の名取書店 林宗三青年が
加わり、総勢7名。 当時の年齢を()に記したが、すでに、れっきとした文筆家として世に名が
出た男たち・・.。 大の大人7人が打ち揃ってハイキングは、太平洋戦争開戦2ヶ月、
緒戦の勝利に沸いた時期とはいえ、戦争一色の時局には、そぐわなかったのでは・・。
が、それだけに、いかにも阿佐ヶ谷文士らしい酔狂な催しのようにも思える。

目的地は、青梅電気鉄道(昭和19年に国有化され、現在はJR青梅線)の終点 御嶽駅に
近い蕎麦屋「玉川屋」だが、一行は一つ手前の沢井駅で下車し、多摩川上流の清流を
河原づたいに歩いた(現在は遊歩道が整備されているが、当時はどんなだったか?)。

歩いた距離は、おそらく2〜3km、「玉川屋」には夕方近くに着き、そこに、たまたま将棋盤が
あったので将棋を指し、酒を飲み、蕎麦を食べて、徴用中の井伏らに寄書きをして
真っ暗な中、帰途についた。 御嶽駅発の最終電車だったという。

やはり、参加者には印象深かったようで、後に、上林、木山、安成、は随筆などで触れている。
上林は、「玉川屋」(S17/4)、「山気」(S26)、「太宰治と弁当」(S31)、「御嶽参り」(S36)、
「玉川屋」(S47:S17と同一題名だが別作)、「旧作の発見」(S48)、と多く、 木山は
「阿佐ヶ谷会雑記」(S31)に書き、安成は追悼文「太宰治君の写真」(S23)に書いている。

なお、(1) このうち、上林の「玉川屋」(S17/4)、「太宰治と弁当」、「御嶽参り」、木山の
「阿佐ヶ谷会雑記」、安成の「太宰治君の写真」は、「「阿佐ヶ谷会」文学アルバム」
(H19:監修・青柳いづみこ・川本三郎)に収録されている。

(2) 蕎麦屋「玉川屋」は、朝日新聞(H20.10.5:朝刊・東京西部版)に、「切り絵・文 成田一徹」
で紹介されている。「壁に掛かった太宰治や木山捷平らの色紙から、ご機嫌の様子が
伝わる。」とある。 66年余り前、6人が書いた寄書きの色紙が残っているのである。
(屋根は今も茅葺きだが、建物自体は建て替えられて、当時とは異なる。)

参考サイト

青梅 玉川屋 店舗案内
玉川屋

それぞれの随筆を参考にして当日の一行の様子を追った。

     ・立川駅集合〜沢井駅

当日は、12時30分に立川駅集合だったが、上林は、荻窪駅で12時を15分過ぎていた。
「置き去りを食うかなと心配していると、同じ省線の車室に、木山君の姿を見つけて、ホッと
安心した。同じ思いの木山君も僕に声をかけられて、ホッとしたらしかった。」というが・・、

木山は、「私は少し遅刻したが、上林氏はもっと遅刻した。」と書く。そして続けて、「案外、
こんな時、早いのが太宰治。早い上、懐中に岩波文庫を3冊もしのばせていたので
ひやかすと、「なに、時間をもてあまして、本屋に入って義理で買ったんだ。」と言った。
上林氏は、この日パリッとした洋服をきて来た。私は氏の洋服姿を見るのは初めてであった。
目を丸くして驚くと、「なに、記者時代の遺物だよ」と照れていた。」 となる。

立川駅で待ちかねていた5人とともに、直ちに満員の青梅電車に乗り込んで出発した。
「雪の光る連山のむこうに、富士山の白い姿が霞んで見えた。山沿いに電車が走る時は
枯木山に暖かい陽が静かに照り、その上に青く澄んだ空が仰がれた。そのしんしんとした
静もりが、都会の生活に疲れた僕の心を、とろかすようであった。」と上林。

案内役の林青年(名取書店)は、木山は「太宰」、安成は「浜野」の関係と書いている。
安成は、「浜野君の東道で、御嶽のふもとの玉川屋という茶店へソバを食いに行くのが
目的で、奥多摩渓谷のハイキングを兼ねた清遊であった。」と回顧している。

昭和17年当時、「ハイキング」という言葉が一般に使われたか否かは分からないが、
太宰は、玉川屋での酒や蕎麦のことを知らずに、弁当を持参していたというから、
幹事役とは考え難く、浜野が幹事で林を煩わしたのではないだろうか。

     ・沢井駅〜寒山寺〜玉川屋へ

一行は、当時の終点 御嶽駅の一つ手前の沢井駅で下車した。多摩川の河原に向かって
坂を下りると、楓橋があり、それを渡って対岸にある寒山寺(小さなお堂のような寺)に
寄って誰かが鐘を一つ突き、楓橋を引き返して河原づたいに上流に向かって歩いた。

寒山寺
楓橋は、歩行者専用のつり橋で、
沢井駅を降りて、橋を対岸に渡ると、
すぐ右手の崖上に建つのが
鐘楼と小さなお堂のような寒山寺。
中国の蘇州にある寒山寺に因んでいる。
「楓橋」も同地の同名の橋に因んでいる。

上林は、「寒山寺は、山陰で寒く、
なんの味もない新しいお堂だったが、
場所は絶佳、建立者が支那から持ってきた
仏像が、本尊に祭ってあるという。
断崖の木の間を透かして、川の流れと、
川原に残った雪が見え、その雪が白い瀬の
ようで、いづれが川だか見紛う気持だった。」
と書いている。

(写真:H19/11撮)


歩いた距離は、せいぜい2〜3kmだが、寒山寺に寄ったり、河原の岩の上に並んで、安成が
持参したカメラで記念写真を撮ったり、休憩をとって林青年が用意した海苔巻きを食べたり、
また御嶽橋でも写真を撮ったりで、「玉川屋」へ着いたのは夕方近くになっていただろう。

 
参考サイト (写真)・・御嶽(奥多摩)の河原や橋での記念写真

稀覯本の世界 - 「御嶽行」(1/2)

稀覯本の世界 - 「御嶽行」(2/2)
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「御嶽行」(1/2): 後列左は上林、後列右は林、
前列は左から、太宰、安成、青柳、木山 (撮・浜野)

「御嶽行」(2/2): 左から、青柳、太宰、上林、浜野 (撮・安成)

「「阿佐ヶ谷会」文学アルバム」(H19・幻戯書房)の口絵写真にも、
「写真提供者 青柳いづみこ」として載っているが、(1/2)と同じ
岩の上での写真には、安成ではなく浜野が写っている。
一般によく見かけるのは、この写真の方だろう。(撮・安成)

ほかの出版物でもよく見かける比較的ポピュラーな写真だが、時代の一面を物語る資料でもあろう。
当時のハイキングは、誰もがこのような服装だったのだろうか? それとも、阿佐ヶ谷文士は
貧乏故に、「ハイキング用の衣服」など用意がなく、普通の外出着とかよそ行きを着込んだのか?


(写真に写った岩場を特定しようと、数回にわたり河原を探索したが分らなかった・・。
既に70数年が経ち、川筋や岩場の様子が変わってしまったのではないだろうか。)

     ・玉川屋にて

木山は、「二階にあがると、将棋盤が1台あったので勝ち抜き戦で一局ずつやって、
それから小宴をはじめたのである。」と書き、上林は、「将棋をさしているうちに日が
翳って、山や谷や、終点駅付近の家並みが静かに暮れてゆく頃には、山里の寒さが
身に沁みて、皆オーバーをひっかけた。実際、静かに寒く暮れて行った。
山の黒い姿と白い斑らな雪とを、皆の心に残しながら。」と情景を写し出している。

蕗や鮠の焼物、鯉のあらいなどを肴に十分飲み、ここの名物という蕎麦を食べた。
そして、徴用で不在の会員、井伏、小田に(中村にもか?)に寄書きをした。
現在、この時の寄書きが、玉川屋の壁に掛かっている。
1枚多く書いて玉川屋に残したのだろうか? 一寸気になるところを後述する。

木山は、「私はそばを五、六杯も平らげるのは平らげたが、そしてなるほどうまいとは
思ったが、しかしそばがうまいからとてさびしさが帳消しにされるわけには
いかなかった。」 と不在の3人に思いを馳せて「阿佐ヶ谷会雑記」を締めくくっている。

       -寄せ書き-

当初からの予定にあった寄書きなのか、その場の成行なのか、はっきりしない。
井伏らに送ったものが、玉川屋に現存するものと同内容かどうかも分からない。

ただ、この時の寄書きは、シンガポールの井伏の許には届いている。青柳いづみこ
によれば、「先日お手紙と寒山寺における寄せ書き落掌、本日は寄せ書きの
葉書拝見、なつかしき限りでありました。」と書かれた井伏の礼状が残っている。

玉川屋に残る2枚の寄書きには、3人づつ、次のように毛筆で書いている。(/は改行)

春立ちていまだも寒し多/摩川の川瀬の音を聞き/て酔ひつつ 安成二郎
いっぱいの蕎麦くひ二杯三四杯/つひに八ぱい食ひにけるかも/木山捷平
川沿ひの路をのぼれば/赤き橋またゆきゆけば/人の家かな 太宰治

如月の空こそよけれ/妹をゐて/いなばやと思ふ/山の温泉へ 修
そばきさらぎ玉川屋/川ざかなよろし/よろし/青
杉畑に雪残りをる/別れ寒/上林暁

酔いが手伝ったと思うが、それぞれの個性が窺える内容で、筆使いにも味がある。

この寄書き2枚の写真は、「阿佐ヶ谷界隈の文士展 -井伏鱒二と素晴らしき仲間たち-」
(H1:杉並郷土博物館編)など、多くの阿佐ヶ谷文士関係資料に載っている。
また、上記の「玉川屋」HPには、このうちの1枚(安成、木山、太宰)の写真が載っている。

私の感想で・・ 安成は、さすがに歌人。 木山は、面目躍如の大傑作。
太宰は、手軽に?(同じ歌を、前年4月の木山の出版記念会の寄書きなど、
他にも書いている。)  「修」は浜野、再婚して1年半、妻への思い遣りか。 
「青」は青柳、美食家ならでは。 上林は、真面目にしっかり詠んだ句。・・である。



一寸気になる寄書きの疑問 ・・・玉川屋に残るこの寄書きは、井伏らに送った寄書きと
同じ内容だろうか? 井伏の許には届いているが、小田、中村にも届いたのだろうか?
寄書きをすることは、いつ、どんないきさつで決まったのだろうか?

現在残されている記述から推測するしかないのだが・・

まず、出発前からの予定であれば、幹事は、予め、玉川屋へ着く前にそのことを
メンバーに告げて用紙と筆を持参するだろうが、そのような記述は見当たらない。
しかも、写真によれば、寄せ書きをした2枚の紙の寸法は、多少異なるのである。

とすれば、玉川屋へ着いてから急遽書くことになったと考えてよかろう。
当時、手に入り難くなっていた紙や、筆は玉川屋が用意したと考えられる。

そして、そこに記された内容だが・・、現在玉川屋にある寄書きの内容は、
南方の戦地で命がけの任務に就いている仲間に贈る文言に相応しいだろうか? 
いかに脱俗、反軍的な文士の作だったとしても、余りに平和的と思うが如何だろう。

シンガポールの井伏には届いていることから、軍の検閲を通っているが、果たして
この内容で検閲がパスできたのかと疑問に思う。 こう考えると、この寄書きは、
戦地向けではなく、玉川屋のために書いたものと見ることができるのではないか。

ひょっとして、玉川屋は、日頃から、来店の著名人には一筆を依頼していて、この日も
玉川屋の主人が店のために依頼し、一行は心得て認めたのではないだろうか。

仮に、戦地用に、これと同じ内容の寄書きを、3枚も、4枚も書いたとしたら、煩わしい
作業としての記憶が残るはずだが、木山が「(報道班員として徴用された三会員が
不在なので)何だか物足りない思いの遠足の感想を、こっちからも報道したのである。」
と書くだけで、そのほかには、書いたときの状況、内容には何も触れていない。

上林の「旧作の発見」(S48)にいたっては、「寄書きをした記憶が少しもない。ところが、
2、3月前のこと、友人が、みんなの寄書きを玉川屋で発見した。」 と書いて、
この6人の寄せ書きの文言を紹介している。大袈裟な書き方をしたのかもしれないが、
記憶に残るような作業はしなかったということだろう。

井伏の礼状には「寒山寺における寄せ書き」とある。「寒山寺」と「玉川屋に残る寄書き」
とは全く結びつかない。寄書きに同封の手紙が「寒山寺」に触れていたのだろうが、
それにしても、「玉川屋における寄せ書き」でないことは、やはり引っかかる。

つまり、私の結論は、この日、一行は玉川屋でご機嫌になったところで、
戦地の井伏らに寄書きを送ることになり、玉川屋に紙と筆を依頼、次いで、
玉川屋の求めに応じて、別途玉川屋向けに書いたと考えるが如何だろう。
あるいは、先に玉川屋用の依頼があり、戦地向けを思い立ったか・・。

次に送り先は・・、当日の木山の日記には「井伏小田両氏に寄せ書きなどし、」とある。
その2ヵ月後に書いた上林の「玉川屋」には「従軍中の井伏鱒二氏と小田嶽夫氏へ」
とあり、昭和31年の「太宰君と弁当」、同47年の「玉川屋」にも、「井伏と小田へ」とある。
「中村」の名が出るのは、昭和31年の木山の「阿佐ヶ谷会雑記」と
同48年の上林の「旧作の発見」である。

これで分かるように、「中村」はいわば後付で、玉川屋での寄書きは、井伏と小田あて
だったと見てよかろう。 中村は、井伏と同じ班で南方へ向かったことは知られていた
だろうから、井伏あてのものを一緒に見てもらおうということだったのかもしれない。
いずれにしろ、当時の中村は33歳、その立場は、まだ若かったということだろう。

       -太宰の写真-

安成は、持参のカメラで、太宰の写真を、皆と一緒で4枚、一人の姿1枚を撮っていた。
「この一人写しの太宰君は顔は明るい表情である。その日は快晴で、太宰君は和服を
着ていたので、この写真が一そうくつろいだ姿を見せている。」と偲んでいる。

 
参考サイト (写真)・・玉川屋で寛ぐ「太宰治」

稀覯本の世界 - 「太宰治」
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「「阿佐ヶ谷会」文学アルバム」(H19・幻戯書房)の
口絵写真にも、 「写真提供者 青柳いづみこ」
として載っている。

安成が、太宰の死の直後に書いた「太宰治君の写真」(S23/8)
の写真である。追悼文で、御嶽行きのことや、この写真のこと、
太宰の礼状の紹介がある。

確かに、とてもいい写真だが、ただ、いかにも残念なのは、
文中に「太宰は将棋を指さない」と書いていること・・。

     ・帰 途

気持ちよく酔って一人3枚(4枚か?)もの寄書きをしたのだから、夜も更けたはずである。
上林によれば、まっ暗い闇の中を、若主人が提灯をつけて、御嶽駅まで送ってくれた。
9時26分御嶽駅発車となった。最終電車だった。

太宰は、車内で持ってきたおにぎりを食べ、アパートで一人暮らしをしていた安成が
一包み貰って、明日の朝の食事ができたと言って喜んでいたという。

10時半頃、立川駅に着いて、上林と木山は、酒の後の水を飲みに行って、
ホームに戻ると、電車の赤いテールランプが遠ざかっていった。
五人はその電車に乗っていた。上林と木山の二人はとり残されたのである。
「『一度遅れる人は、二度遅れるなァ』と青柳氏が後で言ったそうである。」
と上林は「玉川屋」(S17/4)を結んでいる。

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    ・・・時を経て・・・

    ・上林暁の「玉川屋」行

上林は、多くの随筆でこの御嶽ハイキングに触れており、戦後になって、
少なくとも2回は、実際に「玉川屋」を訪れている。往時の思いが胸にあったのだろう。

1回は、「玉川屋」(S47)によれば、「終戦後間もない頃」で、年譜では「昭和25年」である。
 9月半ば、原稿を書こうと、奥多摩の鉱泉宿「水香園」に2泊し、帰途、玉川屋を訪ねたが、
昼間は営業をしていなかった。 訪問の翌年に執筆した「山気」に、次のようにある。

「古風な風情のあった家の中は、戦争中に荒れてしまってゐて、昔の面影はなくなってゐた。(中略)
私達は、その部屋で将棋を指し、そばを食べた。早春のことであったから、向かひの杉山には、
残りの雪が斑になってゐた。私は、あの時の春寒をなつかしみながら、空しく御嶽を引き上げた。」 


もう1回は、昭和36年10月頃、 「武蔵野」という随筆集を出すための取材で、写真家と
編集者が同道して御嶽へ行った時に寄った。 「御嶽参り」(S36/10)に次のようにある。

「向かひの山の杉の植林を見てゐると、昔来た時には、そこに残りの雪が斑に白くて、春寒
だったことを思ひ出した。そのとき休んで、将棋を指したりした部屋は、この部屋ではなかった。
大分新しく模様替へをしてゐるやうだったが、戸棚の戸は、真っ黒くすすけて光ってゐた。」 


上林の寄書きの句は玉川屋から望み見た春寒の情景である。別途、上林の項に詳記するが、
当時の上林一家は、妻の精神疾患の進行で、辛い苦しい日々を余儀なくされていた。
戦局の悪化・食糧難・敗戦の混乱で、状況はさらに深刻化する中、妻は他界(S21/5)した。
玉川屋や、そこで目にした残り雪、肌身に沁みた春寒の記憶は、
当時の家族の悲惨な境遇に繋がっていたのかもしれない。

なお、「御嶽参り」(S36作)は、随筆集「武蔵野」(S37/8)に収録の際、「玉川屋」(S17作)
・「山気」(S26作)の二作を合わせて、三作で一編の「奥多摩行」という標題にしている。
この「玉川屋」は初出不明とされる。 また、「山気」は、随筆集「文と本と旅と」(S34)に
収録されているが、初出は不明とされる。

    ・青柳いづみこ と 「新・阿佐ヶ谷会」

青柳瑞穂の孫娘 青柳いづみこを中心に、「新・阿佐ヶ谷会」が開かれている。 2002年
から、年2回のペースで開催し、いつもは青柳の自宅、つまり、かって青柳瑞穂が住み、
阿佐ヶ谷会の文士たちが集まった家で開かれているが、2003年6月には、
先人に倣って「立川駅-沢井駅-寒山寺-御嶽渓谷-玉川屋」のコースを歩いている。
 

   *高麗(こま)神社参拝(S18.12.23)

高麗神社は、現在の埼玉県日高市にあり、JR高麗川駅から約1.5km(徒歩約20分)
もしくは西武池袋線 高麗駅から約3.5km(徒歩約45分)である。

主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗国からの渡来人「高麗王若光」
(こまのこきしじゃっこう)で、高麗神社のホームページには次のようにある。

「若光は元正天皇霊亀二年(716)武蔵国内に新設された高麗郡の首長として当地に赴任して
きました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)
相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人
(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、
高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。

参考サイト 高麗神社 (ホームページ)

現在は、西武線高麗駅から徒歩15分くらいに、彼岸花(曼珠沙華)の群生で有名な巾着田
(きんちゃくだ)があり、秋には大勢の見物客が訪れる。高麗神社はそこから徒歩でさらに
約30分ほどの所だが、途中には、聖天院(高麗一族の菩提寺)、日和田山、などがあり、
ハイキングコースにもなっているので、秋は参拝者で一層賑わうようだ。

ところで、昭和18年当時、阿佐ヶ谷将棋会の面々が、何故ここまで遠出して参拝したのか?
この参拝については、翌年に上林が「高麗村」(S19)に詳しく書き、青柳は、ずっと後のこと
になるが高麗神社を再訪し、「武蔵野の地平線」(S45)の中で、この時のことに触れている。

    ・何故 高麗神社へ?

高麗神社参拝の経緯について、上林は次のように書いている。

「僕が一度高麗神社へ行ってみたいと洩らしたのがきっかけで、安成さんの発議と
なったものである。安成さんは、高麗神社奉賛会員のひとりで、
高麗神社の造営には尽力せられたのであった。」

食糧難の当時はこれ以上書けなかっただろう・・。戦後、青柳は次のように書いている。

「昭和18年の暮れといえば、もうだいぶ食料に窮した時代であったが、たしか安成さんの
口ききで、高麗神社というところで、精進料理の御ふるまいをしてくれるという聞き込みを
得た。そこでぼくたちは同志をかたり合い、中央線の中野駅に集合したのである。」

高麗神社は、このころ、社殿などの修築、造営を終わっていた(S14 落慶式)。
詳しくは安成の項に記すが、この修築、造営は、安成の奔走、尽力があって
成ったもので、食糧難が一層厳しくなった時節ではあったが、
その口利きによって十分な酒食のもてなしが受けられた、というのが事実だろう。

    ・案内状

12月12日付の案内状(はがき)がある。幹事は、井伏・上林・安成の連名である。
「阿佐ヶ谷会錬成忘年会」と名付けており、時節を慮っていることが窺える。
上林によれば、この葉書は、3名連名だが実際は安成が書いて出したものである。

「御弁当持参のこと、但し一汁一菜の用意あり、鉄道のパスあり」とあるのが面白い。

    ・参加者

参加したのは、外村、太宰、青柳、平野(零児)、上林、小田、安成、の7名だった。

当初の予定では、12月16日実施だったが、当日が雨のため順延となり23日となった。
井伏の欠席はその関係かもしれない。木山は、丁度この時、12月13日に徴用令書を
受け取っており、17日が出頭日だった。 参加できる状況ではなかっただろう。

    ・参拝

中野駅北口に朝9時に集合して、バスで武蔵野鉄道の中村橋駅(現西武池袋線)へ行き、
お昼頃に飯能駅へ着いた。 さらにバスなので、神社へ着いたのは1時頃だっただろう。

バスの中では、安成から「高麗郷由来」の冊子を配られて読み耽ったり、中村橋駅では、
皆が遠足の生徒のように電車の往復パスを配られたりと、その雰囲気を上林は書いている。

参拝し、お祓いを受け、お神酒をいただき、別殿に移って「饗宴にあずかった」(青柳)あと、
社宝を拝観した。青柳は、中でも一振りの金銅の飾刀に特別に心をひかれたという。

戦後、青柳が再訪した折、神官(高麗明津氏)が、当時のサイン帳を見せてくれた。
外村の謹厳な筆跡で、「昭和十八年十二月記念ニ  阿佐ヶ谷会同人」とあり、続けて
参加7人の署名があった。(縦書きで、署名(姓名)は、上記「参加者」に記した順。)

3時過ぎに神社を辞し、聖天院(高麗一族の菩提寺)に参って、夕方、高麗駅に着いた。

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ところで、案内状にある「御弁当持参」のことだが、上林の「太宰治と弁当」(S31)では、
太宰だけが弁当を持参して、ほかの参加者は持参しなかったように読める。
また、「高麗村」にも、青柳の「武蔵野の地平線」にも、神社でご馳走になったことは
書いてあるが、それだけで、詳しい様子や弁当のことには触れられていない。

しかし、実際は、やはり案内状にしたがって全員が弁当を持参していたのである。
一汁一菜、特に酒が目当てで行ったことは否めないが、神社は、安成との関係から、
一行の期待以上の、弁当など必要としないほど破格なもてなしをしたということだろう。

「杉並郷土史会 第345回例会(H14.3.17)で、杉並区立郷土博物館 寺田史朗講師が、
「杉並の作家と『文学館』」と題した講演で、次のように述べている。(該当部分の抜粋)

「これは、倒れられる前の「高麗村」という原稿です。戦争中の作品で、
昭和18年の12月に「阿佐ヶ谷会練成忘年会」と銘打って、阿佐ヶ谷会のメンバー
の中の安成二郎ですとか、小田嶽夫、平野嶺児、青柳瑞穂、外村繁、太宰治
というような人たちが、高麗村の高麗神社に行ったときのことを書いたものです。
 昭和18年という押し迫った年ですけれども、神社のもてなしは一汁一菜と
聞いて行ったところが、いろいろなご馳走が出て、皆お弁当持ちで行ったのに、
お弁当を食べるまでもなくお腹一杯になったということが書かれています。
帰りに電車やバスなどがなかなか来なくて、震えながら太宰や青柳が弁当を
ほおばっている、という場面なども出てまいります。」(原稿を示しながらの講演)

推測による私見だが・・、発表された「高麗村」の末尾には(昭和19年9・10月)とある。
これは、初出誌は不明だが、用紙不足の影響で、昭和19年の9月と10月の合併号か、
あるいは9月号と10月号に分載して発表されたことを示していると考える。

講演で示された原稿は、発表した「高麗村」の元の原稿で、事実を書いているだろう。
昭和18年末といえば、食料不足も顕著になっており、それは日毎に深刻化している。
事実をそのまま発表するのは憚られたことだろう。検閲のことがあったかもしれない。

「太宰治と弁当」(S31)では、上林の太宰像を鮮明にするため、太宰だけが持参した
ように脚色したのだろう。上林は、自分は90%以上は本当のことを書くといっており、
上林らしくないような気もするが、この文章は、太宰治全集の「月報」に書いたもの、
不実であると目くじらを立てることもないだろう。

この流れから、「武蔵野」(S37)には初出の「高麗村」がそのまま収録されたと考える。
文学と時代背景を考えるのに面白い事例ではないだろうか。

ただ、上林は、「玉川屋」(S47)でもこのことに触れて、「太宰君一人が弁当を持って
きていた」と明記している。すでに50年前のことであり、誤った思い込みと考えたい。

なお、「上林暁全集 14」(増補決定版:2001/7 筑摩書房)の「書誌 昭和19年」の欄には、
「高麗村 9月10日作、『武蔵野』」 とある。 根拠のある的確な記述なのだろうか?

(4) 「阿佐ヶ谷将棋会 第3期(盛会期 : S13〜S18)」 のまとめ --- 

 この時期の会員の多くは、前期(2期:成長期)において文芸復興の機運に乗って
活発に活動した結果、個人差は大きいが、貧窮状態は脱し、豊かとはいえない
までも文筆家として身を立てる目途を立てて一層の飛躍を期して行動的だった。

昭和13年で、井伏は40歳、若い方では村上28歳、太宰29歳、中村30歳である。
各人のこの期の行動、身の処し方は、家族を含め戦後の人生に大きく影響した。

 将棋会は会員の数が増えたことで個人的な誘い合いだけでは行き届かなくなり、
幹事役が会場設定や連絡などを受け持つ運営になり、折から続く将棋ブームで
一層活発な会合が持たれた。安成の「歌よみて 将棋をさして居らるべき 世と
思はねど これぞ楽しき」の時代で
、木山の日記や会員の随筆などに将棋会の
記述が見られるようになった。文学活動に、将棋に、酒にと、精力的、意欲的に
動いていたのである。会を離れた個人間の往来、交遊もさらに深めていた。

 しかし、この背景には「戦争」があった。盧溝橋事件(S12/7)に発した日中戦争は
泥沼化して太平洋戦争(S16/12)へと繋がり、国民生活のすべてが国家権力に
よる管理統制下に置かれた。召集、徴用があるだけでなく、検閲や出版統制で
作品を自由に発表することもできなくなっていった。
組織に属さない文筆家たちは
自由人特有の孤独感、不安感に苛まれて群れざるを得なかった面もあろう。

 戦況は厳しくなる一方で、遊興の会を催すなどは憚られる雰囲気になっていった。
昭和15年の会には「阿佐ヶ谷文藝懇話会」の名を付け、最後の組織的な会となった
高麗神社参拝(S18/12)の案内状ハガキの標題は「阿佐ヶ谷会練成忘年会」である。
苦心のほどが窺えるのである。


会員それぞれ、この期(S13頃〜S18頃)を概略

「名前( )」 の( )内年齢は、昭和13年(1938)の満年齢。

 井伏(40歳) 直木賞受賞(S13)、<文学界>同人(S13)、作品の映画化が本格化(S15)、
直木賞選考委員就任(S18)など、名実ともに一流作家の仲間入りを果たした。
太宰の再婚(S14)を仲介し、師弟の結びつきは一層強まった。阿佐ヶ谷将棋会の
中心者として仲間との交遊も活発だったが、陸軍報道班員として徴用(S16/11)され、
南方へ向かう途中の輸送船上で日米開戦を知った。1年で解除となり無事帰国した。

・ 青柳(39歳) 発見(S12)した尾形光琳筆の肖像画は「重要美術品」(S13:現在は重文)
の指定を受け、青柳の関心は益々骨董に傾いた。文筆の仕事は滞って収入は乏しく、
生活費は引き続き妻の実家が頼りで、妻の心労は続いた。一方、仲間たちとの交遊は
積極的だった。自宅を将棋会場にして蒐集品を披露したり、骨董の講師の立場で話しを
したりしていた。 ”御嶽遠足(S17/2)” ”高麗神社参拝(S18/12)” に参加している。

 秋沢(35歳) 昭和13年春、単身で中国に渡った。文芸復興の機運に乗れずに悩み、 
打開のための行動だったようだ。北京に住み、満洲・中国を旅する多くの作家らの世話
をしたが、結局作品は書けなかった。 昭和15年秋に帰国し、妻(桜井浜江)と離婚、
将棋会に出席するなどしたが、翌16年に再び中国へ渡った。その夏には新京で檀一雄
を訪ねているが、その後の消息は不詳である。戦後、産経新聞社文化部長を務めた。

・ 浅見(39歳) 昭和13年には最初の随筆集と2冊目の評論集を刊行した。小説の発表も
続けたが活動の重点は文芸評論に移った。柔軟な姿勢、良識的判断力で文士たち
の多くの親睦会などを主導し、同人活動で培った人脈関係をさらに広げ、深めた。
請われて出版企画にも携わり、人物、文学を観る確かな目で若手作家を援けた。
満洲、中国旅行(S15・S17)では時代の流れを体感したが、戦争とは距離を置いた。

・ 小田(38歳) 小田の人生において最も劇的な展開があった期である。 前半は芥川賞
受賞(S11)と日中戦争(S12/7〜)の影響で極貧は一転、中国関連の翻訳や執筆などで
超多忙だった。後半は徴用(S16/11)を受け、徴用員にとっては最も過酷だったとされる
ビルマ戦線に従軍し、何度か生命の危険に曝されたが無事帰国(S17/12)した。妻の
体調に不安が生じ、早い疎開を準備した。 将棋会の”高麗神社参拝”には参加した。

・ 亀井(31歳) 同人との人間関係に苦しんで<日本浪曼派>を脱退(S12/9)したが、 
池谷賞を受賞(S13)、<文学界>同人(S13)となり評論家としての地歩を築いた。
奈良を旅した(S12・S13)ことで仏教に救いを見い出し、仏教観に基づく亀井独自の
評論を展開した。一方、太宰が、亀井宅から徒歩15分の所(三鷹)に転居し(S14)、
交遊は急速に親密化し、この関係で将棋会の面々、特に井伏との親交が深まった。

・ 上林(36歳) 絶望の状況から発表した「安住の家」(S13)が好評で立ち直り、私小説 
作家として道が展けた。浜野との親交を深め、共に将棋会に参加したが、丁度その頃
(S14)から妻が精神疾患を発病し、実家や妹睦子らの援けを受ける生活の中で名作
「野」(S15)や”浜野物””病妻物”を発表した。将棋会メンバーとの交遊を心の拠所に
してほぼすべての会に出席したが、妻の病状は進行し辛い苦しい実生活が続いた。

・ 木山(34歳) 昭和13年に入ると積極的な執筆、発表に転じた。芥川賞を狙った初の 
創作集「抑制の日」(S14/5)は最終候補に残ったが受賞は逸し、その後の作品も候補
止まりで不本意な日々が続いた。昭和17年夏に満洲旅行をしたが、これは2年後の渡満
に繋がり、木山の人生に特大な影響を与えることになる。将棋会には熱心に出席したが
”高麗神社参拝”は不参加である。丁度徴用令が来た時だった。(徴用は検査不合格)

・ 太宰(29歳) 昭和13年の秋、井伏の仲介で見合いし再婚した。生涯で最も安定した、 
いわゆる“中期”とされる時期になる。結婚当初住んだ甲府から三鷹へ転居(S14/9)し、
近くに住む亀井や井伏ら将棋会仲間との親交を深める一方数々の名作を生みだした。
徴用は検査で不合格(S16/11)だった。長兄とは和解できたが、太田静子の出現や戦況
悪化は安定から再波乱への序章となった。”御嶽遠足””高麗神社参拝”には参加した。

・ 田畑(35歳) 昭和13年に初の創作集「鳥羽家の子供」を刊行し、記念の阿佐ヶ谷将棋会
が開かれた。これが「厚物咲」(中山義秀)と芥川賞を競い、受賞は逸したがその効果で
出版が相次いだ。体調は優れなかったが浅見の世話で長編を仕上げ(S16)た。満洲旅行
(S17)をし、仲間同士の親交に気を配るなど文学活動には熱心だった。戦中も”書くこと”を
信念に執筆に励み、「新民話叢書」のための取材旅行中に盛岡で急病死(S18/7)した。

・ 外村(36歳) 「草筏」が完結し(S13/5)、単行本になって(S13/11)池谷賞を受賞した。 
順調な文学活動が続き、裕福な実家との関係も良好で、同じ阿佐ヶ谷で親子七人家族
に相応しい広い家に引越すなど、平穏で幸せな時期だった。しかし、昭和17年になると
妻や子供が体調を崩し、自身の筆も進まなかった。 戦況悪化が加わり、これ以降の
数年間を、外村は「生活全体が空白」と表現している。”高麗神社参拝”には参加した。

・ 中村(30歳) 前年に続き「南方郵信」(S13/4)などが芥川賞候補に挙がるなど文学活動
は好調だった。昭和14年、取材のため真杉と共に長期の台湾旅行に発ったが、帰京後
同棲は解消した。徴用(S16/11)を受け、マレー班だったが中村の任務は楽だったようだ。
帰国(S17/12)直後に宮崎で見合い、結婚(S18/2)。東京に住んだが長女誕生(S18/12)
を機に帰郷(S19/4)した。その後、宮崎での活動のため東京に戻ることはなかった。

・ 浜野(41歳) 昭和14年頃から上林と頻繁に行き来した。上林は浜野を”心の友”と呼び、
上林の多くの小説や随筆のモデルになっている。 妻の発病で苦しむ上林を支えたのは
妹睦子ら肉親だが、浜野も有力な一人だった。将棋会ではアパートの自室を会場にしたり
(S14・S15)、御嶽遠足の幹事役など積極的に参加した。井伏の「荻窪風土記」に登場する。
昭和18年に成木村(現青梅市)に転居し、上林や会との親密な交遊は一段落した。

・ 古谷(30歳) この期の古谷の動向は判然としない。昭和11年には文芸評論家として活動
を始めたが、昭和17年には生活のためか評論分野を広げた著作が目立つ。 戦争で父
からの送金が止まり家計は窮迫、秘書(吉沢久子-後の妻)が関連する夫婦間の問題も
あったようだ。家を売却して阿佐ヶ谷に転居したのもこのころかもしれない。 ”御嶽遠足”
”高麗神社参拝”には参加していない。古谷の苦悩の時だった。昭和19年には応召した。

・ 
村上(28歳) 昭和12年に生活のため商工省嘱託として勤務する一方で、新進の翻訳家、
詩人としてデビューし、昭和14年〜同16年にはボードレールの訳詩や自身の詩集を刊行
したが、太平洋戦争開戦(S16/12)直前にサイゴン勤務となって赴任した。帰国(S18/8)
すると大東亜省勤務となり、戦争激化、戦況悪化で村上が文学活動を続けるのは困難
だった。 昭和20年に応召して終戦を迎える。 ”高麗神社参拝”には参加していない。

・ 安成(52歳) 「歌よみて 将棋をさして居らるべき 世と思はねど これぞ楽しき」(S14/6)、
御嶽遠足(S17/2)、高麗神社参拝(S18/12)には、安成の面目躍如たるものがある。
歌人、ジャーナリスト、社会活動家として幅広く活動したが、「家庭解散」(S15)の苦悩も
あった。国策新聞<大陸新報>に関係したり、満洲・朝鮮に長期旅行(S17夏)をしている。
帰国直後は牛込(現新宿区)に住んだようだが、将棋会には積極的に出席していた。

(蔵原:39歳 昭和9年秋に阿佐ヶ谷から大田区に転居し、昭和14年に初期の
代表作である詩集「東洋の満月」を発表した。この転居は小説から再び詩作に
戻るためだったと見られるが、転居後は、時間とともに阿佐ヶ谷の文学仲間との
交遊は薄くなった。戦後の阿佐ヶ谷会(S29)にはゲストとして一度出席している。

* まさに人生いろいろ、それぞれだが、昭和13年ないしその前後が、人生の大きな節目に
なっている会員が多い。それを機に文士から作家(文筆家)へと脱皮した観がある。

経済的に窮した会員や戦況悪化の影響を強く受けた会員もいるが、転進は考えず、
わが道一本を歩んでいる。 このことは、家族の戦後の人生をも左右していく・・。


将棋会の盛会期は、戦争を背景にした会員の文学活動の熱気と不安感の反映だった。

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”阿佐ヶ谷将棋会”は、高麗神社参拝(S18.12.23)が組織的開催の最後になった。

昭和19年に入ると、敗退を続ける戦況で国民生活の苦しさは深刻化する。
建物疎開、強制取壊が始まり(S19/1)、人員疎開推進が決まり(S19/3)、
大都市の学童集団疎開が決まる(S19/6)。国民生活の混乱は極まる。

会員の疎開も相次ぎ、”会”としては休眠状態にならざるを得なかった。
会員同志の個人的な行き来は続き、将棋などで気を紛らせていたが、
阿佐ヶ谷界隈に残ったのは、青柳、上林、外村、と三鷹の亀井の四人だった。

そして戦後、昭和22〜23年頃に、将棋抜き、飲み会だけの「阿佐ヶ谷会」が復活する。

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このころ(昭和13年〜昭和18年)

(「昭和史(元年〜25年)略年表」 も参照下さい。)


時勢は = 日中戦争長期化  新体制運動と大政翼賛会    .
             日米開戦(太平洋戦争)  戦局暗転 - 敗勢


* 日中戦争長期化 *

 第一次近衛内閣が成立して1ヶ月後、昭和12年7月7日夜に起きた盧溝橋事件
日中全面戦争へと発展し長期化、そのため欧米諸国との関係は一段と悪化し、
遂には太平洋戦争へと繋がった。

 日中戦争が長期化した最大の要因は、日本政府が「この機に一撃すれば中国は
短期間で屈服する。」と見通して軍隊の増派をしたことである。戦闘は局地的には
日本軍が優勢に進めたが、中国の徹底抗戦の意思は強固で、戦線は広大な
中国全土に拡大した。日本は情報収集・分析、外交の面においても拙劣だった
との指摘があるが、当初目論んだ「一撃で勝利、収束」に失敗したのである。

盧溝橋事件や日中全面戦争から太平洋戦争、敗戦への歴史の流れの詳細は
専門書に譲るが、日中戦争について一つだけ付言したい。
それは、発端となった盧溝橋事件の拡大、長期化は ”全て軍部の独断専行”という
論調があるが、それほど単純な状況ではなかったということである。

たとえば、事件の4日後(11日)に現地では停戦が成立していたが、日本では同日に
増派を閣議決定した。現地での停戦成立には軍部内にあった紛争不拡大の考え方が
反映したが、軍部の一方には強硬論があって近衛内閣はそれを承認したのである。

当初の局地戦での勝利で強硬論はさらに勢いを増し、マスコミ、特に新聞各社は競って
戦意高揚記事・写真を掲載した。世相はまさに ”それ行けどんどん・・”一色となった。

当局による言論、報道統制が厳しかったことは確かだが、新聞などは唯々諾々と権力に
追随したかに見受ける。 言論人、文筆家、新聞人らが自己の信ずるところを断固表明、
行動する姿勢を示せば、この時期はまだ日本は別の方向に動く余地があったはずだが、
心ある人といえども多くは三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)にとどまっていたようだ。

日本軍部の謀略に発する満州事変の経過に似ており、それを模した感もあるが、日本の
指導層は中国国内や国際情勢が大きく変わっていることを認識できなかったのだろうか。

国の最高指導層は内外情勢の的確な分析と把握に基づいて強硬論を制し、国民には
冷静な判断を求めるべきところ、確固たる見通しもないまま武力で全てを解決する道を
歩き続けたのであり、国民もそれに異を唱えなかった・・歓迎、熱狂すらしたのである。

中国国民を侮って増派し、戦争を仕掛けたことを正当化するため国民の戦意を煽った
ことで軍部に対しては制御不能に陥った観がある。 その背後には、”お上”に従順な
国民性、未熟な民度があり、「軍部独走による戦争拡大」とは断じ切れない所以である。

戦争が長期化するにつれ、当局の国民に対する統制、監視、締め付けは常軌を
逸するまでになり、当局に反体制とみなされる言動は死に繋がりかねなくなった。


 * 新体制運動と大政翼賛会 *

日中戦争長期化の誤算と日独伊三国同盟問題で苦境に立った近衛内閣は
昭和14年1月に総辞職した。この後、平沼内閣(〜S14/8)、阿部内閣(〜S15/1)
米内内閣(〜S15/7)、と短期政権が続いたあとに第二次近衛内閣が成立した。

この間、国際情勢は激しく複雑に動いており、日本の混乱振りが窺える。
ちなみに、平沼内閣総辞職時の声明 「欧州の天地は複雑怪奇」は日本の
置かれた立場、混乱を端的に表わす言葉として伝えられている。

 第二次大戦開戦(S14/9)でドイツはヨーロッパ制圧の勢いを見せ、日本の
政界ではドイツと提携して国内外の難局に対応する気運が高まる中、
近衛元首相側近の有馬頼寧らは国内新体制構築の運動を起こした。

* 昭和15年、近衛元首相がこの運動に乗り出すと運動は一気に加速した。 
当初、近衛らは軍部に対抗できる強力な政治勢力の結集を構想したが、
運動に加わった官僚、軍部、政党、右翼にはそれぞれの思惑があり、
第二次近衛内閣が成立(S15/7)すると新体制運動は急速に官製運動の
性格を強め、国民統合組織として大政翼賛会結成(S15/10)へと進んだ。

* 大政翼賛会は近衛や有馬らの意図とは異なった方向へと動き、
翌16年4月の改組で近衛側近グループは退陣、以降は、内務省が
主導権を握って上意下達の行政補助機関、国民動員組織となった。

* 日米開戦(太平洋戦争) *

* 日中戦争の長期化は中国における英米国の権益を損ない、日本の仏印武力進駐
(S15/9)、日独伊三国同盟締結(S15/9)、と続いて日米関係は悪化の一途を辿った。

* 近衛首相は外交交渉を進めたが、親ドイツ路線を強硬に主張する松岡洋右外相は
むしろこれを妨げた。近衛は第三次近衛内閣(S16/7)で松岡外相を更迭して日米首脳
会談を策したが米国側は拒否、国内でも対米強硬論が強く、進退窮まって総辞職した。

 東条内閣が成立(S16/10)し日米交渉を続ける一方で直ちに対米開戦可否
について検討を重ねた結果、昭和16年11月5日の御前会議において
12月初旬の対米英開戦を決定、12月1日の御前会議で開戦を最終確認した。

 昭和16年12月8日(日本時間)、日本海軍はハワイ真珠湾の軍港、飛行場を攻撃し
大損害を与えた。日本の不手際が原因といわれるが、「交渉打ち切り通告文」の
米国への手交はこの攻撃の後となったため、卑劣な”だまし討ち”として米国民の
怒りは凄まじく、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に団結、戦意を燃やした。

一説には 「米国は日本の暗号電報を解読しており事前に真珠湾攻撃を察知したが、
ルーズベル大統領は意図的に放置し、攻撃させた・・」とされるが、真偽は不明である。


なお、この戦争を当時の日本政府は日中戦争を含めて「大東亜戦争」と名付け、
戦後は一般に「太平洋戦争」と呼ばれ、最近は「アジア太平洋戦争」とされることが多い。
開戦の日(S16.12.8)、真珠湾攻撃の1時間以上前に日本は宣戦布告なくマレー半島上陸
作戦を開始、アジア地域での軍事作戦を拡大した。 呼称に”アジア”が付く所以である。


* 戦局暗転 - 敗勢 *

* 緒戦で日本軍は電撃的に進撃して大きな戦果を挙げたが、戦場となったのは日本を
遠く離れた東南アジア、南太平洋の国々、島々だった。もともと日本には長期戦の想定
はなかったが、予想を超える戦果に過信が生じたのか作戦はさらに遠くへと拡大した。

* 日米の国力には基本的に大差があり、米軍の反抗態勢は異常に早く整った。
戦局が大きく転換したのはミッドウェイ海戦(S17/6)とガダルカナル攻防戦(S17/8
〜S18/2)である。前者で日本海軍は多くの空母、艦船、航空機、熟練搭乗員を
失い、その打撃は計り知れなかった。後者では半年にわたる大消耗戦で陸海軍の
精鋭部隊、航空戦力、輸送船に大損害を蒙ってガダルカナル島を放棄、退却した。

ここにおいて日米の戦力は完全に逆転し、以降、日本は後退を続けるだけで敗勢は
決定的となったが政府は昭和20年に入っても「本土決戦」「一億玉砕」を掲げ、東京
大空襲など各地の空襲、沖縄戦、広島・長崎原爆投下を経て終戦(S20.8.15)となった。


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文壇は = ペン部隊  統制強化  文壇新体制        .
                  -日本文学報国会  文士徴用


日中戦争が始まると、新聞社、雑誌社は作家など文筆家を特派員として中国戦線へ派遣した。
吉川英治、吉屋信子、尾崎士郎、林房雄、岸田国士、石川達三らで、ほかに応召の火野葦平らが
従軍し、それぞれが戦記(ルポや小説)を書いた。石川の「生きている兵隊」や火野の「麦と兵隊」
などが注目されたことは 「Part1-続阿佐ヶ谷将棋会-、-外村繁のこと-」 に記した通りである。



* ペン部隊 *

時の権力者が、作家らの文筆力やその影響力を放っておくはずがない。
当局は、文章内容の検閲、報道・出版の統制、作家など関係者の言動監視によって
反体制活動を封じる一方、その能力を活用するためいわゆる”ペン部隊”の編成を策し
(S13/8)、菊池寛、久米正雄らや、画家、映画演劇人らが相次ぎ中国戦線に出発した。

ちなみに、第一陣は陸軍班として久米、川口松太郎、尾崎士郎、丹羽文雄、岸田国士、
林芙美子ら14名、海軍班として菊池、佐藤春夫、吉川英治、吉屋信子ら8名だった。
この後、作家で長谷川伸、中村武羅夫、甲賀三郎らや映画監督衣笠貞之助ら、
作詞・作曲家から西条八十、佐伯孝夫、古関裕而、飯田信夫らが選ばれた。


一方、日中戦争長期化の影響で日本ペン倶楽部(S10結成:会長島崎藤村)は
国際ペン倶楽部プラハ大会(S13)を欠席、この大会では日本に対する非難と
東京大会(S15予定)開催取り消しが決定し、日本は脱退のやむなきに至った。
ちなみに昭和15年予定の「東京オリンピック」と「万国博」も返上、中止となった。


* 統制強化 *

言論統制はさらに強まり、当局の意に沿う内容でなければ出版できなくなっていく。
自由主義的テーマは反戦的とみなされて弾劾される一方で戦記ものはベストセラー
になった。昭和13年の火野葦平の兵隊3部作(「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」)、
丹羽文雄の「還らぬ中隊」、上田広の「黄塵」、などは軍部が推奨したこともあって
大いに売れた。 戦記文学の流行は、報道統制によって情報を閉ざされた一般国民が
中国戦線の様子を少しでも多く知りたいと願う、その心の反映であったともいわれる。


* 文壇新体制 - 日本文学報国会 *

近衛首相による「新体制運動」は文壇にも及んだ。 高見順は『昭和文学盛衰史』に昭和15年当時の
文壇の動きを書き、櫻本富雄は『日本文学報国会』に当時の新聞等の出版物を主資料に成立過程や
組織、文学者たちの時勢への対応を書いている。 また、『日本近代文学大事典』は「日本文学
報国会」の項に尾崎秀樹が概要を簡潔にまとめている。      (この項は、H24/8改訂 UP)


日中戦争が始まり(S12/7)言論統制が強化される中にあって、文学者たちはそれぞれの
思惑で多くの団体を結成した。国策に協力する姿勢だが、国策に沿った形をとりながら
実質面で文筆家としての自由を少しでも確保したいという思いを込めた結成も多かった。
「農民文学懇話会」(S13:島木健作、和田伝ら)、「文学建設」(S13:海音寺潮五郎ら)、
「大陸開拓文藝懇話会」(S14:会長岸田国士)、「経国文藝の会」(S14:佐藤春夫、
倉田百三ら)などが次々と結成された。複数団体に加入の会員もいる。

第二次近衛内閣が成立(S15/7)すると、新体制運動は一気に高まり大政翼賛会発足
(S15.10.12)に繋がった。発足時は、総裁 近衛首相、事務総長 有馬頼寧で総務局など
5局23部から成り、企画局文化部長は岸田国士、副部長に上泉秀信らが就いた。
(蛇足で・・いずれも荻窪界隈在住だが・・偶然だろう)

このころ、文壇最大の団体「文藝家協会」(菊池寛会長:T15発足・会員375人(S15))も
新体制の時流に対応して昭和15年9月末には”文壇新体制準備委員会”を開催し、
全文檀の連絡機関としての”連絡協議会(仮称)”を設置した。この流れの結果として、
昭和15年10月31日に「文藝家協会」、「日本ペン倶楽部」、「農民文学懇話会」、「大陸
開拓文藝懇話会」、など有力14団体の加盟で「日本文藝中央会」が発足した。

一方、、内閣情報局、大政翼賛会文化部は、日米開戦(S16.12.8)のもとで一層強力な
文壇統合一元化を企図して文学者愛国大会を開催(S16.12.24)し、これが「社団法人
日本文学報国会」創立(S17.5.26)に繋がった。「日本文学報国会」は「文藝家協会」を
吸収し、機関紙は「日本文藝中央会」の<日本学藝新聞>を引き継いで<文学報国>と
改題(S18)した。 会員数は約4,000名とされ(平野謙の<婦人朝日>(S17/8)には
3,200名とある)、中里介山、内田百閧轤フ加入拒否は特殊例で、すべての文学者が
いわば否応なく戦争協力体制に組み込まれたのである。

大政翼賛会発足の昭和15年について、上林暁に「十五年度文藝界の決算」(<日本学藝新聞>(S16.1.10))
という一文がある。 ここに上林は、「今年ぐらい政治の力が文学の世界に押し寄せた時代はない」とし、
「我々作家が筆を執るに当って、禁令や時代の倫理から逸脱せざらんため、多少の窮屈さが感じられる
ことは事実だけれども、一面、新体制という理念が解放の精神を伴う以上、商業主義などをあまり顧慮
せず、暢び暢びと筆を執ることのできる機運が、早急に生まれることを私は期待したい。」 と書いている。


ここでいう商業主義は、売るために国策に迎合して安易な作品を書くことを指すが、
この当時、文学者らは新体制運動 - 大政翼賛会には “解放の精神がある” と考え、
言論統制強化に対する防波堤となることを期待していたことが窺える。

大政翼賛会文化部の要職に就いた岸田、上泉はその期待を担ったが、日米開戦にいたり、
結果的には軍、官僚組織の力には抗せず、「日本文学報国会」創立直後の第二次改革
(S17.6.15)で退任した。 すでに、有馬事務総長は辞任(S16/3)、近衛首相(総裁)も退陣
(S16/10)し、翼賛会は発足時の意図とは全く異なる国民統合、動員組織になっていた。

日本文学報国会は、戦勝を目指す文学者統合組織として戦争協力活動を推進した。
文学者個々の対応は様々だが、大半は協力しなければ生活難に陥る現実があった。


* 文士徴用 *

文士の徴用については、「第一部 -続阿佐ヶ谷将棋会- 」に井伏鱒二、
太宰治、小田嶽夫、中村地平について概略を記したように、昭和16年11月中旬に
作家、新聞社の記者・カメラマン、画家、学者、等々に徴用令書(白紙)が届いた。

高見順が「昭和文学盛衰史」に「徴用作家」の章を設けて詳述している。
高見自身の体験なので生々しい。それにしても徴用された作家の数が
多いのに驚いたのでそこから徴用作家の氏名を次に抜粋する。

(馬来方面)    会田毅、小出英男、堺誠一郎、神保光太郎、中村地平、寺崎浩、井伏鱒二
中島健蔵、小栗虫太郎、秋永芳郎、大林清、北川象一(冬彦)、里村欣三、海音寺潮五郎。
(年鑑に堺誠一郎をジャワ・ボルネオ組とあるは誤り)
(ビルマ方面)  倉島竹二郎、山本和夫、岩崎栄、清水幾太郎、北林透馬、榊山潤、豊田三郎、
高見順、小田嶽夫。
(ジャワ・ボルネオ方面)   大宅壮一、阿部知二、浅野晃、北原武夫、大江賢次、富沢有為男、
武田麟太郎、大木惇夫、寒川光太郎。
(比島方面)  沢村勉、石坂洋次郎、尾崎士郎、今日出海、火野葦平、上田広、三木清、
柴田賢次郎、寺下辰夫。
(海軍関係)  石川達三、海野十三、井上康文、丹羽文雄、間宮茂輔、村上元三、湊邦三、
山岡荘八、角田喜久雄、浜本浩、桜田常久、北村小松。

(高見は、「文藝年鑑」(S18/8:日本文学報国会発行)から引用しているが、「文藝年鑑」は
昭和15年までは文藝家協会が定期的に発行していたもの。(S16、S17は発行なし)
なお、神保光太郎、中島健蔵、清水幾太郎などは第二陣の徴用である。)



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== 4 休眠期 (昭和 18年頃〜昭和 23年頃) ==
 

この時期を”第4期 休眠期”としたのは、昭和17年2月の御嶽遠足の後は、会員が主体で
坪田譲治の徴用壮行会(S18/5)を行ったものの、戦況の悪化で遊興目的の”会”ができる
ような世情ではなく、昭和18年12月23日の高麗神社参拝(阿佐ヶ谷会錬成忘年会)の後は、
会員同士の個人的な往来は続いたが、組織的な会合はできなかったこと、また、疎開などで
阿佐ヶ谷界隈を離れた会員が多かったことなどによる。 (将棋会開催記録参照)

戦後も、早い時期から在京会員同士で、あるいは疎開者が上京したりで個人的な往来は
続いていた。組織的にはずっと休眠状態ながら「阿佐ヶ谷将棋会」は存在していたのである。
そして、戦後第1回の組織的な「会」は、昭和23年2月2日の青柳邸において開催された。

しかし、すでに将棋熱は醒め、専ら酒を飲み雑談する会になり、戦後においては、会の名称
に「将棋」は入らず、「阿佐ヶ谷会」である。会員の社会的成功や著名人の新加入などで
華やかさを増すが、以前の会員の中には参加しない者もいて会の性格は大きく変わった。

昭和初頭、大恐慌の最中に生れた「阿佐ヶ谷将棋会」は、戦争の時代を経て20年、
いわば大人になって、専ら酒と雑談を楽しむ「阿佐ヶ谷会」に変身したのである。

戦時の文筆・出版統制は苛烈だったが、戦後は一転、自由・民主・文化の国に変った。
この間の各人の対応はまさに各様で、本項は、この時代背景と会員模様を焦点にした。

このころ -- 時勢は ・・・   敗勢・疎開・空襲・敗戦 - 戦後の混乱
文壇は ・・・   戦時統制  文学報国会の活動 - 戦後文学 

(「昭和史(元年〜25年)略年表」 も参照下さい。)

(1) 戦況敗勢下、会員たちは ・・

   
疎開か 残るか それとも―

戦争末期の各会員の動向、終戦(S20.8.15)を迎えた場所、帰京時期は次の通り。
(( )内は昭和20年の満年齢 : 詳細は各人の項にて)

 井伏鱒二(47)   甲府へ疎開(S19/7)後、広島県の生家(福山)へ再疎開(S20/7) 
  :福山で終戦−S22/7に帰京
 青柳瑞穂(46)  疎開せず−阿佐ヶ谷の自宅で終戦 
 秋沢三郎(42)   昭和16年夏頃に再び中国へ行ったが、帰国時期などは未詳
 浅見 淵(46)   海軍報道班(S19/6-12):疎開せず−千葉県(御宿)の自宅で終戦
 小田嶽夫(45)   新潟県(高田)へ疎開(S19/9):高田(現上越市)で終戦−S23/9再上京
 亀井勝一郎(38)   疎開せず−吉祥寺の自宅で終戦
 上林 暁(43)  疎開せず−阿佐ヶ谷の自宅で終戦 
 木山捷平(41)    単身で満州の新京(長春)へ移住(S19/12)、現地応召(S20/8)
  :新京で終戦−S21/8帰国(引揚船・岡山県笠岡)−上京は遅れる
 太宰 治(36)    甲府へ疎開(S20/4)後、青森県の生家(金木町)へ再疎開(S20/7)
  :金木町で終戦−S21/11に帰京
 田畑修一郎(-)   故人(S18.7.23没:享年39) 
 外村 繁(42)  疎開せず−阿佐ヶ谷の自宅で終戦 
 中村地平(37)  宮崎市の生家へ疎開(S19/4):宮崎で終戦−東京へは戻らず
 浜野 修(48)   転居先(S18/8)の成木村(青梅)から杉並区に戻っていて終戦
 古谷綱武(37)   応召し(S19秋)終戦時の所属隊は高知県−数日で復員(帰京)
 村上菊一郎(35)   応召し(S20/7)終戦時の所属隊は広島県福山−すぐに復員(三原)
  :三原−S24/4再上京 
 安成二郎(59)  牛込あたりにいた模様て終戦−すぐに杉並区へ再転居 
 (蔵原伸二郎(46))  青梅へ疎開−埼玉県(吾野)へ転居し終戦−飯能に転居 


   会員の文学活動は―

戦争末期においては、当局による凄まじい言論弾圧や検閲、出版統制などで、作家らの文学活動
は一段と厳しい管理統制下に置かれた。 専ら時流に乗って活動した作家や、逆に沈黙を守った
作家もいたが、大半の作家らは著作を発表出来なければ収入が得られず、即生活難に陥る現実
があり、信条や良心との狭間で悩み苦しんだが、昭和19年〜20年は本土空襲という一層難しい
局面が加わり、全体としては、作家らの文学活動は一段と低調にならざるを得なかった。


こうした状況の中で積極的に執筆し発表を続けた太宰治の存在は、昭和文学史上において
際立っている。国策に迎合するでなく抗うでなく、太宰の才覚・才能を遺憾なく発揮している。

仙台時代の魯迅が主題の小説「惜別」は、 内閣情報局と文学報国会の委嘱なので、戦争
協力作品と見られがちだが、それは読み方如何だろう。 「仙台時代の魯迅」として素直に
読んで面白い。魯迅など人物の言動に太宰流の解釈が施されており、正しい魯迅像か、
的確な歴史・時代認識か等々の批判が強いが、むしろ太宰の非凡、多才ぶりを認めたい。
(執筆は戦中だが、出版は終戦の翌月(S20/9:朝日新聞社刊)である。 詳細は別項目


将棋会メンバーの様子は各人の項に詳記するが、亀井勝一郎の文学報国会での活動が
目立つほかは国策とは距離を置いた文学姿勢だった。上林暁は厳しい家庭事情の中で
地道に堅実に発表を続け、木山捷平は昭和19年12月になって満州へ単身移住するという
特異な行動をとったが、多くは疎開や応召、家庭事情などから文学活動は低調だった。

(2) 敗戦から戦後第1回「阿佐ヶ谷会」 まで

   「阿佐ヶ谷将棋会」は「阿佐ヶ谷会」に変身 

戦争直後の状況に関し、上林の随筆「阿佐ヶ谷会」(S37/2:<群像>)に次のようにある。  

「戦争がすんで、東京に居残っていて阿佐ヶ谷の屋台を飲み荒らしていた青柳、原
(現近三ビル支配人)、平島(現日大二高教頭)、外村、僕などの仲間が集まって、
純然たる飲み会として復活したのが、現在の阿佐ヶ谷会の起りである。」


上林は「阿佐ヶ谷案内」(S29.7.27:<読売新聞>)にも「終戦の年の暮れごろ、阿佐ヶ谷には
「おとは屋」という屋台が出て、やがて酒も飲ませ、他にも多くの屋台が並ぶようになった。」
旨を書いている。昭和21年には上の記述のような状況で、まだ会としての体裁ではないが、
終戦前の将棋会メンバーやその友人らが集まって将棋は抜きで飲むようになった。
上林はこれを戦後の「阿佐ヶ谷会の起り」としたのだろう。

「日本近代文学館 館報 第198号」に、高田市(現上越市)に疎開したままの小田に送った
差出人井伏、封筒裏面の日付「1月4日」の寄書きが収録されている。井伏、亀井、
小山書店の加納正吉、上林、島村利正、原二郎、真尾倍、青柳の8名が認め、
上林は、「久しぶりに阿佐ヶ谷会を青柳邸に催し、君を思うこと切なり、・・」と書いている。

開催日は明記なく、消印不明だが、同館報には、もう1枚、井伏が小田宛に書いた
ハガキが載っている。それは大晦日(S22)に書いた返信で、消印は「23・1・3」である。
そこには、「博多から帰って、外村君と亀井君に会ったきりまだ誰にも会いません。」と
あるので、この「阿佐ヶ谷会」は昭和23年1月1日から4日の間だったと見てよかろう。

推測だが・・、井伏宅を年始挨拶訪問した誰かと井伏との間で、急遽「集まれるものが
集まろう・・」となったのではないだろか。 亀井は終戦前は毎年年始訪問していたし、
加納と島村は二人で訪問しただろう時に声をかけられたことが考えられるのである。
この開催日は、井伏が封筒の裏に記した「1月4日」と考えてよさそうだ。

ちなみに、太宰は元日に井伏宅を年始訪問した。「帰ってからメソメソ泣いた」日である。
(美知子著「回想の太宰治」 - 詳細は 「太宰治の自殺(玉川上水心中)の核心」 の項)
1週間後に起稿した「美男子と煙草」の冒頭部分にある「・・徒党を組んで、やたらと仲間
ぼめして・・」から、この時、阿佐ヶ谷会を開く相談があったと関連付けできなくもない。

青柳は、「久しぶりのことです 悲しいような うれしいような 大学先生によろしく。」 と
 書いている。(註:「大学先生」は青柳の師で、現上越市に疎開中だった堀口大学だろう)
上林の文面と併せ、井伏が疎開から帰った後、初めて大勢でまとまって会ったのだろう。
将棋会の延長線上ではあるが、参加者名から年始の個人的な飲み会だったといえよう。

続いて、次の文面のハガキがある。発信人は井伏鱒二、青柳瑞穂、加納正吉の連名で
消印は”昭和23年1月30日”である。 (村上護著「阿佐ヶ谷文士村」(1994:春陽堂)より)

  久々で阿佐ヶ谷会をひらきますので是非お出で下さい。
     一、二月二日(月曜日) 三時 青柳宅
     一、御弁當御持参にて
     一、御飲物は御相談に応じます

まだ疎開先(岡山県笠岡)に留まる木山宛に寄書きをしたのはこの「阿佐ヶ谷会」だろう。
木山が寄書きを2月28日に受取っていることと、上林の寄書き内容などから、前記の
小田宛に続く寄書きと考えてよかろう。「将棋会」の会員は、安成、井伏、外村、上林、
青柳、亀井の6名で、それに原二郎、平山信義(読売文化部)、真尾倍、伴俊彦
(朝日新聞社)、巌谷大四、の計11名が認めている。(木山の日記(S23.2.28)より)

上林の寄書きは、「君が東京に来たのは丁度去年のこのごろであった。僕は不相変
飲んでゐる。今年になってからの棋戦六連勝です。」である。 木山は前年(S22)の
3月4日に上京、多くの旧知と会って 3月12日に笠岡に帰った。(木山の日記より)

将棋ではなく酒が目的の会だったのだろうが、個人的には指していたかもしれない。
寄書きに安成と上林は将棋のことを書き、「将棋会」の雰囲気が伝わる最後の会で、
同時に、専ら酒と雑談を楽しむ「阿佐ヶ谷会」に変身した最初の会だったといえよう。

上記1月と2月の「阿佐ヶ谷会」に太宰治の名は無い。太宰はすでに帰京(S21/11:
三鷹)していたが、井伏や将棋会仲間との交遊を避けていた。(詳細は各人の項)
そして、この4ヶ月後の6月13日に山崎富栄と玉川上水に入水、心中死した。



昭和初頭、大恐慌のさ中に生れた「阿佐ヶ谷将棋会」は、戦争の時代を経て20年、
いわば大人になって、専ら酒と雑談を楽しむ「阿佐ヶ谷会」に変身したのである。

   会員の文学活動は―

特記すべきは戦中に続く太宰の活躍である。青森に疎開中も執筆を続け、終戦直後も、別記
通り発表を続けた。ただ、太宰は、既成の価値観や、新たな時勢に便乗して革新や自由・民主
を唱える風潮を嫌悪し、反抗し、自身を「無頼派(リベルタン)」と表明して、帰京(S21/11)後は、
将棋会メンバーなど旧知との交遊を避けていた。井伏が帰京(S22/7)してからも同様だった。

詳細は各人の項に記すが、このころの太宰は、太田静子、山崎富栄と関係を持ち、生活は
乱れていた。「斜陽」(S22/7-10)に対する志賀直哉の批判に反発し、「如是我聞」(S23/3-7)を
書いて文壇の長老実力者志賀を激しく攻撃したが、「桜桃」(S23/5)、「人間失格」(S23/6-8)、
「グッド・バイ」(S23/7)などを残して、玉川上水に山崎富栄と入水心中(S23/6)した。


上林は、戦中から入院の妻が他界する(S21/5)という苦境にあったが、別記のように
発表を続け、以降も、地味ではあるが、私小説一筋に創作意欲を燃やし続けた。

井伏は、戦後、昭和20年の作品発表は見当たらないが、翌21年になると「経筒」<新生>、
「侘助」<人間>、「追剥ぎの話」<素直>、「橋本屋」<世界>、「当村大字霞が森」<中央公論>
など、地味ながら含蓄ある小品を発表している。これらは疎開中の福山での執筆で、
本格的な文壇復帰は、帰京(S22/7)後のことになる。

木山は、新京(満州)で現地応召して終戦を迎え、厳しい”難民生活”を送り、翌21年8月に
命からがら引揚船に乗り、郷里の笠岡に帰った。その年に「帰国」(S21/12・<瀬戸内海>)
を発表し、続いて「海の細道」(S22/1・<素直>)などを発表したが、心身の不調は長引き、
文学活動は難渋した。上京して落ち着くまで長い時間が必要だった。

ほかに、浅見、小田、亀井、外村 、古谷は、戦後も文筆専門の活動を続けるが、青柳らは
文筆は関連するが、専業ではない独自の道を歩んでいる。 詳細は各人の項に記す。

 

(3) 第4期 会員 それぞれ・・ 

 井伏鱒二 :「疎開(甲府・福山)− 帰京・文学再開」 の項へ

 上林 暁 :「睦子の支え - 終戦・妻の死 - 私小説一筋」 の項へ

 太宰 治 :「文学全開 - 太宰暴走 − グッド・バイ」 の項へ

 田畑修一郎 :「取材中の盛岡で急逝」 の項へ


 浜野 修 : 「ドイツ文学・上林暁と心の交遊」 の項へ

 村上菊一郎 :「早大仏文卒:応召:早大教授」 の項へ

   (各会員:順次作成中)


 このころ(昭和18年〜昭和23年)


時勢は
 = 敗勢・疎開・空襲 ・敗戦 ・戦後の混乱


* 敗勢・疎開・空襲 *

日米開戦(S16/12)で日本が優勢だったのは半年間だけで、ミッドウェイ海戦(S17/6)に
敗れた後は戦力の差は歴然とし、敗色濃厚となっていった。 しかし、軍部、政府は
昭和20年に入っても「本土決戦」、「一億玉砕」を掲げ、沖縄戦、東京大空襲、さらには
各地の空襲、広島へ原爆、ソ連の参戦、長崎へ原爆を経て終戦(S20.8.15)となった。

なお、本項で使用の数値は主に「昭和史の事典」(1995:東京堂出版)による。


昭和史(元年〜25年)略年表」も参照下さい。

* 「戦争が始まったからには勝たねばならない」は当たり前・・・、反戦、反軍、体制批判
には官憲による厳しい監視、取締りが行われ、国策への非協力的な言動は、
「非国民」として社会的に糾弾されるようになった。報道機関は政府・軍の代弁者で
しかなく、国民は事実を知らされず、意思表示はできず、ただ権力に従うだけだった。

 「贅沢は敵だ!」は昭和15年の標語である。まだ贅沢があったのであり、立看板の
「敵」の字の前に「素」を落書きして「贅沢は素敵だ!」と揶揄する余裕もあった。
が、昭和18年の公募では「欲しがりません勝つまでは」が入選し、全国に広まった。

 「物」がなくなったのである。 金属類回収令(S16.9.1施行)により、昭和17〜18年には、
一般家庭の鍋釜・箪笥の取手・火箸・置物・指輪・タイピンなどから寺院の梵鐘、仏具、
さらには銅像、線路(複線を単線化)といった金属製品が全国で大々的に回収された。 

物資は軍需最優先で、主要な食料・衣料品といった生活必需品は配給制になり、それも
日を追って不足して闇取引が横行し始めた。 物資だけでなく労働力不足も深刻化し、
学徒勤労動員は昭和18年以降本格化、翌19年には学徒勤労令により、中学生以上の
全学徒が工場に配置された。女子の場合も昭和18年には女子勤労挺身隊が結成され、
翌19年の女子挺身勤労令で動員が本格化した。

 兵力補充では、文科系学生の徴兵猶予を停止(S18/10)した。各地で「出陣学徒壮行会」
が行われ、東京では東条首相ら出席のもと、学徒ら約7万人が集まって明治神宮外苑
競技場で開催(S18.10.21)、12月に徴集された。終戦までに約30万人の学徒が入隊した。

また、この時期に、兵役年齢の引き上げ(S18/11:40歳→45歳)、徴兵検査年齢の引下げ
(S18/12:20歳→19歳:検査実施は翌19年)も行われ、兵員増強が図られた。

 昭和18年、全戦線における日本軍の敗勢は続き、米軍による日本本土爆撃を想定した
防空演習の徹底、さらには学童・人員・建物・工場の大規模疎開が検討された。
ただ、このころは本土には直接的な大きな被害はなかったので、日常生活の混乱と
不安は日毎に増大するものの、緊迫感・切迫感はそれほどでもなかったようだ。

昭和19年に入り、建物疎開(強制取り壊し)、学童集団疎開が行われるが、国民の
意識や受入地の問題で、工場・人員疎開の動きは鈍かった。それが、北九州地域
への空襲(S19/6〜)、東京空襲(S19/11)などで一気に加速することになる。

 日本は、昭和19年におけるマリアナ沖海戦(S19/6)、レイテ沖海戦(S19/10)の敗戦で
制空権、制海権を完全に米軍に奪われ、さらに日米双方の戦略上の要衝である
硫黄島陥落(S20/2)で米軍はマリアナ諸島(サイパン島、グアム島など)を基地にして
最新鋭の大型爆撃機「B29」による日本本土空襲を本格化した。

敗勢の中で全国民が必死に戦ったが、戦況は筆舌に尽くし難い悲惨な経過を辿る。
戦闘地全域における惨状はもとより、日本国内においても 10年以上も前に文筆家
の桐生悠々が「関東防空大演習を嗤う」(S8/8・信濃毎日新聞)で指摘した危惧が
そのまま現実になるのである。


 昭和19年10月10日、沖縄の那覇市は米軍機動部隊の艦載機による大空襲を受けて
日本で空襲による壊滅的被害を受けた最初の都市となった。翌20年3月、米軍は
沖縄上陸作戦を開始し、6月下旬には日本軍の組織的抵抗は終わった。日本軍の
死者9万人余、米軍死者1万2千人余の激しい戦闘だったが、戦火による沖縄住民
の死者は15万6千人余(餓死などを含む)に達するという痛ましい結末だった。

 「B29」による北九州地域の空襲(S19/6〜:中国の米軍基地から発進)や東京空襲
(S19.11.24:マリアナ諸島から発進)など、早い時期の爆撃は、主に軍需工場を目標
にした通常爆弾の投下だったが、住宅地への焼夷弾による大規模無差別爆撃は、
東京大空襲(S20.3.10:325機:マリアナ諸島から発進)から全国の都市へ広がった。

参考サイト 東京大空襲

日本本土 初の空襲 (「朝日新聞:H25.4.18付朝刊・東京」要約)
昭和17年4月18日、空母発進のB25爆撃機16機が、東京・川崎・名古屋・
神戸などを空襲。最初の被弾は東京の尾久で、爆弾3発、焼夷弾70発
以上が着弾した。死者10人、重傷者30人、全壊43戸、半壊14戸の被害
だったが軍部発表は「損害軽微」で、報道統制と住民への箝口令により
この事実の詳細は伏せられたため、一般にはあまり知られなかった。
(Wikiによれば、この後、東京の空襲は昭和19年11月24日までなかった)


この東京大空襲で、本所、深川、城東、浅草など東京の下町一帯は焦土と化し、
死者10万人(ちなみに関東大震災の死者も約10万人)、負傷者11万人で約100万人が
住居を失った。本土空襲による被害は、原爆を除いても少なくとも死者25万人、被災者
920万人と推定されている。(原爆では、広島で約20万人、長崎で約8万人が死亡した)

 昭和20年1〜2月には、支配層の一部に敗戦必至の認識から戦争終結を模索する動きが
あったが天皇の対応は消極的で、御前会議(S20.6.8)で本土決戦方針が確認され、
日本に無条件降伏を要求したポツダム宣言(S20.7.26)に対しては黙殺を表明した。
この後、広島に原爆(S20.8.6)、ソ連の参戦(同8/8)、長崎に原爆(同8/9)と続いた。


* 敗戦(S20.8.15) *


長崎に原爆が投下された日(S20.8.9)の深夜から御前会議が開かれ、ポ宣言への対応が議論
された。軍部は多くの条件を主張したが、国体護持(天皇制の維持)だけを条件に受諾(降伏)
するという案を天皇の栽断で決定し、これを政府はその日(S20.8.10)に連合国側に通告した。
国体護持という明確な回答がなかったため、再び本土決戦主張の勢いが強まり、再度の御前
会議(S20.8.14)で天皇は受諾という聖断を明確に下し、翌15日正午、天皇自身がラジオ放送で
国民に知らせた。(「玉音放送」といわれている。前夜、天皇が終戦の詔書を朗読、録音した)


* 戦後の混乱 *

敗戦により日本は連合国による占領管理下に置かれた。“連合国”というが、実態的には、米軍による
単独占領で、日本に対する国家統治権限を持った「GHQ」(General Headquartersの略:一般に連合国
最高司令官総司令部を指す)は、米本国の方針に基き、日本政府に対する指令を通じて(間接統治)
占領政策を推進した。 GHQの最高司令官は昭和26年4月までD・マッカーサー(米陸軍元帥)だった。

昭和20年(1945)9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリで降伏文書調印式が行われ、
GHQは指令第1号(日本陸海軍の解体等)を発表して本格活動を開始した。
(GHQによる指示は、口頭や文書、覚書、書簡などで発せられ、これらは指令として日本の
法体系を通じて施行されたが、事案によっては“ポツダム命令”として超法規的に実施された。
”命令”は、物価統制令、公職追放令、団体等規制令、警察予備隊令など計520件に及んだ。)

日本の統治に関し、米国は、ソ連などの日本分割占領の主張を退け実態的に単独占領したこと、
直接統治(軍政)ではなく間接統治にしたこと、天皇の戦争責任を問わず在位を維持したこと、は
日本国民に何がしかの安堵感を与え、米国の占領行政に資するところ大であったが、
終戦直後における現実の国民生活には、従属と飢餓という ”敗戦国の惨めさ” が際立っていた。

 戦後改革(民主化) ・・10月(S20)に入るとGHQは日本民主化政策を一挙に進め、
年末にかけて次のような改革の基本になる指示や覚書が発せられた。

・10/4 「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」
(一般に「人権指令」とか「民権自由に関する指令」といわれる。)

思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、
内務大臣・特高警察職員ら約4,000名の罷免・解雇、政治犯の即時釈放、
特高廃止などを命じていた。東久邇宮内閣はこの指令を実行できないとして、
翌5日に総辞職した。 つぎの幣原内閣では、この指令に基づき共産党員など
政治犯約3,000人を釈放、治安維持法など15の法律・法令を廃止した。

10/11 「五大改革指令」・・・幣原首相が新任挨拶のため総司令部を訪れた際、
会談の中でマッカーサーが表明。この会談記録が「五大改革指令」といわれている。
以降、ここに示された基本方針が各分野で具体化されることになる。

この5項目の表記は、刊行物によりマチマチで、「・婦人解放 ・労働組合結成
・教育民主化 ・秘密警察撤廃 ・経済機構民主化の方策」 のように簡略な
表記のものもあるが、会談記録に近い形で要約すると次の通りである。

1. .婦人の解放−参政権を付与、婦人も国家の一員という新しい政治概念を齎すこと。
2. 労働組合の組織奨励−労働者擁護、大きな発言権の付与、幼年労働是正など。  
3. 学校で自由主義教育実施−国民個々が事実に基く知識を得て発展し、政府は国民
の主人ではなく使用人である制度を理解することを推進する。
4. .秘密審問、恐怖の組織の撤廃−専制的不正手段から国民を守る制度に代える。 
5. 経済制度の民主主義化−生産や流通に関する手段の所有権を広範囲に分配する
保障方法を発達させることにより、独占的産業支配を是正すること。

10/22 「主要金融機関又は企業の解体又は生産に関する総司令部覚書」(財閥解体の覚書)

11/6 「持株会社の解体に関する件」(覚書)・・一般に「財閥解体指令」といわれる。

11/18 「皇室財産に関する件」(覚書)・・一般に「皇室財産凍結指令」といわれる。

12/9 「農地改革に関する覚書」・・・政府の第1次案が成立したが不十分な内容で
GHQは第2次改革の勧告(S21/6)を出した。

12/15 「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の
廃止に関する覚書」・・一般に「神道指令」といわれる。


さらに続く戦後改革、混乱関連の主な出来事・・(太字は私見で話題(重要)性大。)

・S21/1 天皇人間宣言, 軍国主義者の公職追放令   ・S21/2 日本農民組合結成, 金融緊急措置令施行
新円発行・旧円封鎖)  ・S21/4 総選挙(婦人参政権等)  ・S21/5 極東軍事裁判開廷, 食糧メーデー
・S21/8 日本労働組合総同盟結成, 全日本産業別労働組合会議結成  ・S21/11 日本国憲法公布

・S22/1 「二・一ゼネスト」宣言とGHQの中止命令  ・S22/4 六・三・三・四制教育実施(男女共学等)
第1回地方選挙・参議院選挙実施, ・S22/6 日本教職員組合結成  ・S22/10 国家公務員法公布,
改正刑法公布(不敬罪・姦通罪廃止)  ・S22/12 改正民法公布(家制度廃止), 内務省解体


・S23/1 米陸軍長官「日本を反共の防波堤に」と演説(東西冷戦の進行)  ・S23/6 ソ連、ベルリン封鎖開始
  ・S23/7 政令201号公布(公務員のスト権・団交権否認)  ・S23/12 GHQが日本経済安定九原則を発表

米国による初期の占領政策は、軍国主義排除による日本の民主化改革が主眼だったが、
チャーチル英首相の「鉄のカーテン」演説(S21/3)が示す米ソ対立(いわゆる「冷たい
戦争」)の顕在化と進行や、国内の飢餓、超インフレなどによる労働運動、社会主義運動
の高まりに対応するため、政策の重点は徐々に改革から反共・経済復興へと移っている。

労働運動の規制、財閥解体の弛み、経済復興、再軍備などの政策が進められ、国民は、
飢餓からはようやく脱しつつあったが、自立のための「耐乏生活」を強いられることになる。

これらの戦後改革の動きは、国民にとっては従来の価値観の大転換であり、国民間の利害
得失が絡む大変革で、政治・経済・社会のあらゆる面において変革期特有の大混乱を経て
現在の日本の姿に繋がっているが、その詳細については歴史書など専門家に譲る。

この時期、国民生活を襲った何よりも切実な問題は、”飢餓”と”貧苦” だった。

* 飢餓とヤミ市 ・・戦中から食糧は不足しており、食糧管理法(食管法:S17)で、統制は
          米だけでなく、麦、雑穀、芋類などの主食類に拡大し、配給制を実施していた。

・ 戦後も、この食管法は受け継がれたが、昭和20〜21年の食糧難は特に大都市部で
著しく、配給だけでは生きられない状態だった。政府は国民の生命を守るだけの食糧
を確保分配することできず、一般国民の食べ物入手のための混乱は極に達していた。

この時期の飢餓の状況を伝える代表的出来事として、ここでは次の三つを記す。

・大臣の「餓死1,000万人」発言・・・蔵相 渋沢敬三は、「米が一千万人分不足で、来年(S21)は
一千万人が餓死・病死するかもしれぬ」と発言し(S20/10)、国内外に波紋が広がった。


・山口良忠判事の餓死(栄養失調)・・・山口判事は東京地裁で食管法違反の事案を担当し、主に
ヤミ米売買所持などを裁いていたが、その立場から、自分はヤミ米を食べるわけにはいかない
として、昭和21年秋頃からこれを一切口にしなかった。 激務に栄養失調が重なって肺結核に
罹り、翌22年10月に死去した(享年33歳)。(「われ判事の職にあり」(山形道文著:文芸春秋))
このように、ヤミ米を拒否して餓死したといわれる事例は他にも少なからず伝えられている。

・「食糧メーデー」のプラカード・・・深刻な食糧不足の中、皇居前広場で行われた「飯米(はんまい)
獲得人民大会」(S21.5.19)は、一般に「食糧メーデー」あるいは「米よこせメーデー」ともいわれ、
約25万人が参加、大規模なデモが行われた。 この時のプラカードに、
「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」
があり、作成した共産党活動家は不敬罪で逮捕された。(後に名誉棄損罪に変わり、免訴となった。)


・ 戦中にも増して食糧事情が悪化した要因は、昭和20年の大凶作、輸入途絶(禁止)、
軍解体による復員、外地からの引き揚げなどがあるが、最大は国家権力による管理
統制力の弛緩だろう。国内にあったあるいは生産した食糧など諸物資は食管法など
の規制の外で大々的に取引されたのである。闇取引、闇(ヤミ)市の繁盛である。

・ 皮肉な見方だが、「ヤミのおかげで日本人は生き延びることができた」ともいわれる。
「ヤミ市」には食べ物も生活用品も揃っていた。大多数の国民が「ヤミ市」を利用した。
農村へ買出しに行き、衣類などの現物を米などと交換する、いわゆる「タケノコ生活」も
あった。闇取引は違法であることを承知のうえで、国民はこぞって現実対応の知恵を
絞り、政府に頼るだけではなく自力で凌いだのである。混乱が大きかったはずである。

* 貧苦と争議と政治と事件と ・・飢餓と一体の関係にあったのが貧苦である。    

・ 戦災で都市部では住む家や場所が不足し、孤児・浮浪者の生活はさらに深刻だった。
経済秩序の崩壊で超インフレとなり、国民は収入を遥かに上回る物価の高騰に
苦しんだ。金融緊急措置令(新円切替等:S21/2)、物価統制令(公定価格制等:
S21/3)などの対策があったが超インフレは収束せず貧苦による混乱は続いた。

・ 貧苦と民主化改革を背景に、社会党、共産党などの社会主義勢力は支持を広げ、
労働運動、大衆運動などに大きな影響力を持ち、労働争議が頻発した。その中で、
全官公庁共闘が昭和22年1月18日に宣言した「二・一ゼネスト」(2月1日から無期限
ゼネラルストライキ突入)は、史上最大規模のストで、日が近づくにつれ世情騒然の
雰囲気だったようだ。しかし、前日(1月31日)のマッカーサー命令で中止となった。
この後、国の圧力や左翼勢力内部での確執も強まって、労働運動は変質していく。

・ 戦争直後の頻繁な内閣交代は、国民生活の貧苦、混乱の表れでもあろう。    

内閣総理大臣名  就任日  退任日 日数  備考(退任事情など)
 東久邇宮稔彦  1945(S20).8.17   1945(S20).10.9  54   皇族首相:GHQの指令に対応できず総辞職
 幣原喜重郎  1945(S20).10.9  1946(S21)5.22   226   進歩党が S21/4の総選挙で大敗、総辞職
 吉田茂(第一次)  1946(S21).5.22   1947(S22).5.24  368   自由党が 2・1ゼネスト中止後の総選挙で敗北 
 片山哲  1947(S22).5.24   1948(S23)3.10  292   社会党首班:社会党内の左右対立で総辞職
 芦田均  1948(S23).3.10   1948(S23).10.15  220   民主党首班:閣僚が昭電疑獄に関連、総辞職
 吉田茂(第二次)  1948(S23).10.15   1949(S24).2.16  125   民主自由党:少数与党の強化を狙い早期解散 
 吉田茂(第三次)  1949(S24).2.16    1952(S27).10.30   1353   民自党は総選挙で過半数。(講和条約調印)


・ 価値観の急激な変化、飢餓・貧苦は人心の荒廃を招き、殺人事件など凶悪犯罪が多発
したといわれる。特に、東京で発生した「小平事件」(S20〜S21)と「帝銀事件」(S23/1)は
その特異性において社会に大きな衝撃を与えた。前者の犯人小平義雄は10件の連続婦女
暴行殺人事件で起訴され、最高裁で死刑が確定(S23/11:43歳)し、執行(S24/10)された。

後者は、帝国銀行椎名町支店を訪れた男が、行員と家族16名に毒物を飲ませて現金などを
強奪した。12人が死亡し、犯人として画家の平沢貞通(56歳)が逮捕され死刑が確定したが、
執行されないまま医療刑務所で病死(S62/5:95歳)した。再三の再審請求は却下されたが、
事件には多くの謎があり、平沢は真犯人でないとする見方も多い。真相は解明されていない。

・ 昭和24年になると、国鉄関連で「下山事件」(S24/7:下山定則国鉄総裁が轢死体で発見
された)、「三鷹事件」(S24/7:中央線三鷹駅で無人電車が暴走し、市民6名が死亡した)、
松川事件」(S24/8:東北本線松川駅付近で列車が転覆し機関士ら3人が死亡した)という
三つの事件が連続して起きた。当時、国鉄は大量解雇問題などで激しい労使対立があり、
複雑な背景が絡む事件で、「下山事件」には自殺説、他殺説があり、三鷹、松川両事件は、
国鉄労組員が逮捕され共産党の関与が喧伝されたが、事実関係は判然としていない。
米国機関が絡む謀略との説もあるなど、これらの真相は未解明のままである。

飢餓状態からはようやく脱しつつあったが、経済の混乱、貧苦は続いた。米国の対日政策は
冷戦激化の影響もあり、昭和24年以降は民主化改革から反共、経済対策へとはっきり転換した。
詳細は省くが、左翼活動への圧力、ドッジライン政策(超均衡財政でインフレは収束したが大不況
になり倒産・解雇激増)、為替制度(1ドル=360円)、シャウプ勧告(税制改革)などに表れている。
そして昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発し(〜S28/7)、日本経済は「特需景気」で復興に向かった。


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文壇は = 戦時統制  文学報国会の活動 - 戦後文学始動

戦争末期においては、当局による凄まじい思想・言論弾圧や検閲、出版整理などで、
作家らの文学活動は一段と厳しい状況に置かれた。「横浜事件」は思想・言論弾圧の
典型例であり、文学作品も掲載中止に追い込まれたり検閲で発売禁止や削除を命じ
られた例は数多い。出版事業では、出版社や雑誌の大規模な統廃合が進められた。

内閣情報局と大政翼賛会が企図して文学者の一元的組織として創立(S17/5)にいたった
「日本文学報国会」は、その意図に沿って三回にわたる「大東亜文学者大会」を開催する
など戦勝を期して戦争協力活動を推進し、大多数の作家らがこの活動に参加した。

本項では、これら戦争末期の具体的事象を通じて文壇の状況を記す。 前にも記したが、
作家らの大半は作品が発表出来なければ収入がなく、即生活難に陥る現実があった。
信条・良心との狭間で悩み苦しみもしたが、巷に国策に沿った作品・評論が氾濫したのは
当然の成行きで、作家らの無節操を一方的に咎めるわけにいかない面が見えるのである。



* 戦時統制 *

 「横浜事件」 ・・細川嘉六(政治学者・社会評論家)は<改造>(S17/8・9号)に、論文
「世界史の動向と日本」を発表した。内閣情報局の検閲を通って発売されたが(両号とも
前月25日発売)、陸軍報道部は「反戦主義の鼓吹、共産主義の宣伝」と糾弾した。雑誌
は発売禁止・回収となり、細川も同年9月に治安維持法違反で警視庁特高に検挙された。

これだけでも言論人への威圧は計り知れないが、これだけでは済まなかった。
後に、「横浜事件」といわれる横浜の神奈川県特高警察による凄絶な思想・言論
弾圧事件と関連付けられるのである。詳細は専門書などに譲り、概要を次に記す。

この論文発表の直前に、細川は郷里の富山県泊町(現朝日町)の旅館「紋左」に改造社など
の編集者ら7名を誘い一泊(S17.7.5)旅行を催した。その際、参加者の一人が細川を囲む集合
写真を撮ったが、翌年(S18)5月、別の件(特高では「ソ連事情調査会」事件)を捜査していた
神奈川県特高がその写真を入手し、泊町旅行で「日本共産党再結成の謀議を行った」とした。
(いわゆる「泊事件」:特高では「共産党再建準備会事件」) そして、この「ソ連事情調査会」の
こと、泊町のこと、細川論文、等々を一連のことと関連付け、以降、昭和20年にかけて改造社、
中央公論社、日本評論社、岩波書店の編集者や関係者など約60人を次々と治安維持法違反
で検挙した。 神奈川県特高による激しい拷問があり、2名が拷問死、2名が獄死したとされる。
雑誌「改造」「中央公論」は廃刊(S19)に追い込まれ、裁判は終戦直後(S20/8-9:治安維持法
廃止(S20.10.15)直前)に判決が下り、約30人が一律に懲役2年、執行猶予3年の有罪とされた。

その後、名誉回復のための再審請求がなされ、第四次再審請求において横浜地裁は、
「免訴」の判決(H21/3)とし、旧刑訴法の絡みがなければ「無罪」であり、刑事補償請求が
あれば、実態的判断が行われるとした。その刑事補償請求において、横浜地裁は「無罪」
と認め(H22/2)、官報などにその決定を公示した。 裁判所が冤罪を認めたのである。

(「横浜事件」は、主に「ドキュメント横浜事件」(2011/10:高文研)と
「横浜事件・再審裁判とは何だったのか」(同前)を参考にした。)


なお、、東京地裁では、横浜事件をめぐり国に賠償を求めた訴訟が続いている。(H25/2)

* 発売禁止 ・・谷崎潤一郎の「細雪」は、昭和18年1月号から<中央公論>に連載を 
始めたが検閲当局の圧力により、3回目からは「掲載自粛」として打ち切りになった。
谷崎は執筆を続けて上巻を自費出版(200部・S19/7)し友人知己に分けたが、中巻
(S19/12)は軍当局の干渉で印刷頒布を禁じられた。上中下巻の刊行は戦後である。

すでに、 昭和16年には徳田秋声の「縮図」が<都新聞>連載中に打ち切られているが、
文学作品でも“時局に不相応”の理由で発売禁止や削除になったケースは数多い。
例えば、阿佐ヶ谷文士では、太宰の「花火」(S17/10:<文芸>)が全文削除を命じられ
(戦後、小説集「薄明」(S21/12)に「日の出前」と改題して収録)、また、木山は、
昭和18年2月に詩集「路傍の春(66篇)」が出版審査で不承認になった、などがある。

検閲を意識して執筆・発表を控え、断念したケースは数限りがないだろう。永井荷風
のように、執筆はしても、国策に抵抗の意を込めて対外的には沈黙した作家もいる。

* 出版社、雑誌の整理 ・・内閣情報局の監督下で出版統制の実施機関として機能
した日本出版文化協会(S15/12設立)は、言論統制と出版界の整理統合をさらに
厳しくするため日本出版会に改組(S18/3)し、翌19年3月までに3千数百社の
出版社を172社に整理した。また、内務省警保局は、昭和19年1年間の
新聞雑誌の創刊360種、廃刊1,378種と発表した。

なお、国会図書館の「第135回常設展示 戦時下の出版」(ネット情報)には、
「昭和16年頃から始まった同種・同傾向の雑誌の自発的・強制的な統廃合は、
昭和18年の出版事業整備要綱に基づく企業整備の開始とともに加速し、
昭和19年度だけで約2000誌が廃刊に追い込まれた。」とある。

参考サイト 国立国会図書館が作成  第135回常設展示 戦時下の出版

言論統制上の効率強化が一層進んだ。紙不足対策の側面もあっただろうが、
作家らにとっては厳しい検閲に加え発表の場の減少は大打撃だったといえる。
巷に国策に沿った作品・評論が氾濫したのは当然の成り行きだったのである。

(「戦時統制」の項の主な参考図書は「日本近代文学年表」(小田切進編:1993:小学館))


* 日本文学報国会の活動 *

「社団法人 日本文学報国会」の創立(S17.5.26)については前期の項に記した通りである。
次いで発会式(S17.6.18)が行われ、日比谷公会堂は文学者ら3,000人余で溢れ、東条首相
をはじめ情報局総裁、文部大臣、陸軍・海軍報道部が祝辞を述べるなど大盛況だった。
会長には徳富蘇峰が就き、久米正雄、菊池寛らが当局と連携して主導する日本の文学者
全員(中里介山、内田百閧轤フ例外はあるが)を呑み込んだ一大組織の発会式だった。

設立の目的は定款に「皇国の伝統と理想とを顕現する日本文学を確立し、皇道文化の宣揚
に翼賛する」とあり、会の中に八部会(小説部会・劇文学部会・評論随筆部会・詩部会・短歌
部会・俳句部会・国文学部会・外国文学部会)を設け、会員はそれぞれの部会に所属した。

そして、直ちに具体的な活動に入った。 主なものを挙げると・・(太字は最大規模の活動)

「文芸報国運動講演会」(S17/8-11)のほか会員による講演活動、  「日本の母・讃仰」(S17/8)、
「大東亜文学者大会」(第1回・S17/11:東京)、   「愛国百人一首」選定発表(S17/11)

 「建艦献金運動」(S18/3)、  「文学報国大会」(S18/4)、  
「大東亜文学者大会」(第2回):「大東亜文学者決戦会議」と呼称」(S18/8:東京)
「大東亜戦争歌集」編纂(S18/9)、  「国民座右銘」選定発表(S18/10)

「勤労報国隊結成・活動」(S18/11〜S19/5)、  「国内文学者会」(S19/6:警戒警報で中止)
「日本精神昂揚古典講座」(S19/8〜10)、  「大東亜戦詩」編集(S19/10)
「大東亜文学者大会」(第3回・S19/11:南京)、 「大東亜共同宣言(S18/11)の作品化委嘱」(S19/12)



これらの活動を通じて、現下の戦争必勝のため、天皇制のもとで文学者が総力を
結集するという決意を示し、国民にも呼びかけて戦意高揚を図ったのである。

(活動費や役員・事務局員の報酬など運営に関わる費用の財源、規模などは
調べられなかったが、おそらくその大半は情報局の負担で膨大だったろう。)

昭和20年になると空襲、疎開などの影響もあって活動は低調になり敗戦(S20.8.15)を
迎える。「日本文学報国会」が解散した記録はなく、自然消滅の形で存在しなくなった。
そして、以降、文学者たちは「日本文学報国会」のことについては、多くを語らない。
「日本文学報国会」の存在自体が闇の中にあるように思う。

桜本富雄著「日本文学報国会」(1995/6:青木書店)は、報国会の理事ら役員をはじめ、
各活動毎の中心者、活動者名を載せている。名前の多さに驚く。「積極活動派」、「消極
活動派」がいたようだが消極活動者の活動状況ははっきりしない。大多数の一般会員は
動員に応じる程度で、それ以上のことはできなかった(しなかった)のではないだろうか。

権力への反抗は命が危ない。「沈黙」による抵抗は誰にでもできるわけではない。
「日本文学報国会」加入・活動は、文学者が戦時を生き抜くための方便でもあったろう。
時流に乗って活躍した「積極活動派」もいるが、それとても戦争のさ中にある故だろう。

問題とすべきは、戦争を始める前である。 始まってからのことは惨く、悲しい。



* 戦後文学始動 *

GHQによる日本民主化改革は急速に進んだ。 凄まじい弾圧、言論統制から一挙に解放された。
文学者や出版界の対応は素早かった。 紙不足状態は続いたが、雑誌の復刊、創刊が相次ぎ、
ベテランら既成作家が発表を再開し、新しい文学集団が生れ、新時代を背景にした文学・芸術論争
が活発化し、既成の規範や価値観を踏み越える生き方を模索する無頼派(新戯作派)が注目され、
中間・大衆文学が流行し、戦後派といわれる新進も続々登場するなど、文壇は活発に動き始めた。

戦後文学史に関しては、すでに多くの詳しい専門書がある。本項はその概略である。

 雑誌の復刊・創刊 ・・終戦の年(S20)には、「文藝春秋」、「新潮」などが復刊し、「新生」
など総合雑誌が創刊され、翌21年には一挙に増加、昭和23年前半頃までその勢いが
続いた。小説関係を中心に私見で主要、著名と思う雑誌を挙げていくと・・

(主に「日本近代文学年表」(小田切進編:1993:小学館)から抽出)

・S20 = 「文芸」(復:10)  「文学」(復:10)  「文芸春秋」(復:10)  「光」(総合雑誌:光文社・創:10)
「新生」(総合雑誌:新生社・創:11)   「新潮」(復:11)   「オール読物」(復:11)

・S21 = 「近代文学」(創:1)   「展望」(創:1)   「世界」(創:1)   「人間」(創:1 - 鎌倉文庫刊行)
「中央公論」(復:1)   「改造」(復:1)   「三田文学」(復:1)   「文明」(創:2)
  「世界評論」(創:2)   「朝日評論」(創:3)   「新日本文学」(創:3)   「黄蜂」(創:4)
「思索」(創:4)   「宝石」(創:4)   「赤とんぼ」(創:4)   「婦人公論」(復:4)
「高原」(創:8)   「素直」(創:9)   「群像」(創:10)   「創元」(創:12)

・S22 = 「風雪」(創:1)   「花」(創:3)   「文学会議」(創:4)   「日本小説」(創:5)   「肉体」(創:6)
「文学界」(復:6)   「綜合文化」(創:7)   「風報」(創:9-第2次)   「小説新潮」(創:9)
「VIKING」(創:10)   「悲劇喜劇」(創:11-第2次)   「文体」(創:12)

・S23 = 「作家」(創:1)   「個性」(創:1)   「表現」(創:2)   「改造文芸」(創:3)   「方舟」(創:7)
「心」(創:7)   「作品」(復:8)   「文学者」(創:10)

昭和24年になると復刊は見当たらず、創刊は少数で、廃刊が続出している。
世の動きと同様に、一時の興奮・混乱が鎮まり、落ち着きを取り戻してきた。
ちなみに、芥川賞・直木賞の復活は昭和24年上半期作品から(第21回)である。


* 太宰&大家の活躍 ・・雑誌の復刊・創刊の活況は、作家らの文学活動が活発になった
ことを物語る。終戦から昭和21年において発表が目立つのは、太宰治と永井荷風で、
太宰は戦中から引き続き、荷風は戦中の”抵抗の沈黙”を破っての一気の発表である。
それに、上林暁は、戦中から地味ながらも堅実な発表を続けていることを見逃せない。

3人が発表した主な作品を挙げると・・(詳細は、太宰作品一覧上林作品一覧

太宰 : 「惜別」(S20/9・朝日新聞社刊)   「パンドラの匣」(S20/10〜S21/1・河北新報連載)
「お伽草子」(S20/10・筑摩書房刊)   「戯曲 冬の花火」(S21/6・<展望>)
「戯曲 春の枯葉」(S21/9・<人間>)   「薄明」(S21/12・新紀元社刊)
「親友交歓」(S21/12・<新潮>)   「男女同権」(S21/12・<改造>)

荷風 : 「勲章」(S21/1・<新生>)  「踊子」(S21/1・<展望>)  「浮沈」(S21/1〜6・<中央公論>)
「罹災日録」(S21/3〜6・<新生>)   「問はずがたり」(S21/7・<展望>)

上林 : 「夏暦」(S20/11・筑摩書房刊)  「晩春日記」(S21/2・<新生>)  「現世図絵」(S21/3・<文明>)
「聖ヨハネ病院にて」(S21/6・<人間>)   「嬬恋ひ」(S21/9・<展望>)   
「晩春日記」(S21/9・櫻井書店刊)   「閉關記」(S21/11・桃源社刊)

荷風のほか、大家と目される志賀直哉は「灰色の月」(S21/1・<世界>)、「兎」(S21/9・
<素直>)、正宗白鳥は「戦災者の悲しみ」(S21/1・<新生>)を発表、谷崎潤一郎は「細雪
上巻」(S21/6・中央公論社刊)の後、中巻(S22)・下巻(S23)を刊行、宇野浩二は
「思い草」(S21/11〜12・<人間>)などを発表、川端康成も少し遅れるが本格的に発表を
再開している。ベテラン、大家の復活、活躍が目立つ。

そしてさらには、宮本百合子、佐多稲子、平林たいこ らの女性作家や、織田作之助、
坂口安吾、石川淳 ら太宰を含む無頼派(新戯作派)などが発表を積極化している。

第一次戦後派といわれる野間宏、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生、中村真一郎ら、
第二次戦後派といわれる大岡昇平、堀田善衛、三島由紀夫、安部公房らも
活発な文学活動を始めている。

* 新しい文学集団 ・・前掲の創刊雑誌の多くは同人誌なので、新しい文学集団が生れて
いることになるが、同人というより同志的な結びつきが強い会あるいは文学者同士の
連携を図る会を結成して、執筆だけでなく発言、行動の面をも積極化したのである。

例えば、「近代文学」(S21/1創刊)は、終戦(S20)直後の10月に、平野謙、本多秋五らの
評論家が創刊のための初会合を開いて発刊になり、以降、活発な文学論を展開した。
また、「新日本文学」(S21/3創刊)は、終戦の年の12月に、蔵原惟人、中野重治、
宮本百合子らがプロレタリア文学の流れを踏まえて「新日本文学会」を結成し、発刊した。

ほかに、終戦直後には、辰野隆、新居格らの「日本文化人連盟」(S20/9)、山本有三、
志賀直哉らの「同心会」(S20/10)が結成され、「日本文芸家協会再建」の創立総会も
開催された(S20/12.)。さらに、「児童文学者協会」(S21/3)、中島健三、豊島与志雄ら
の「火の会」(S21/4)、「日本文学協会」(S21/6)、などが結成されるなど、文学者は
活発に行動した。 「日本ペンクラブ」は「再建大会」を開催し(S22/2)、第3代会長に
志賀直哉を選出、翌23年には国際ペンクラブに復帰、第4代会長に川端康成が就いた。


* 活発な文学論争 ・・戦後文学の特徴の一つに、評論・文学論争の活発化がある。

前記の「近代文学」創刊(S21/1)は、平野、本多のほか、埴谷雄高、荒正人、山室静
など7名の評論家で始めたが、翌年からは同人拡大を行って「政治と文学」、「文学者の
主体性」、「戦争責任論」、「世代論」、などの戦後的な論点を提示、展開した。
特に、「新日本文学会」の中野重治との論争には多くの文学者が発言し活発だった。

俳句をめぐっては、桑原武夫が提起した「第二芸術論争」があり、短歌についても
臼井吉見らの否定論があって、俳壇、歌壇を巻き込んだ活発な論争が行われた。

* 無頼派(新戯作派)の活躍 ・・敗戦後の虚脱,昏迷状況のなかで,既成道徳や文学観、
特に自然主義的なリアリズムに反逆し、作品内容や実生活に自虐的、退廃的な
一面を持つ作家が「新戯作派」といわれ、特に若者に人気を得て大活躍した。
一般に太宰治、坂口安吾、織田作之助を指し、石川淳を加えることがあるが、活動に
共通基盤、連帯性があるわけでなく、各自の強烈な個性が作品、行動の特性である。
伊藤整、高見順、檀一雄などを指していうこともあるが部分的に見てのことだろう。

なお、一般に「新戯作派」を「無頼派」というのは、太宰治が戦後の軽薄な便乗的風潮を
批判的に捉えて、自分は「無頼派(リベルタン)」であると表現したことに因むとされる。
(井伏宛書簡(S21.1.15付)、「返事」(S21/5<東西>)、小説「パンドラの匣」(S21)など)
織田(S22/1没)、太宰(S23/6没)の死で無頼派文学は衰退する。

* 中間小説の流行 ・・「日本小説」(S22/5創;和田芳恵編集)が、純文学と大衆小説の
中間に”中間小説”のジャンルを設け、「小説新潮」(S22/9創)が同調、さらに
推進したことで小説の大衆化に成功した。話題作として、前者には坂口安吾の
「不連続殺人事件」(S22/9〜S23/8)など、後者には船橋聖一の「雪夫人絵図」、
石坂洋次郎の「石中先生行状記」などがある。ほかに、この時期、この分野では
丹羽文雄、田村泰治郎、林芙美子、井上友一郎、石川達三らが活躍した。

***************************************************

敗戦後の虚脱と興奮、混乱は昭和24年を境に落ち着きを取り戻したといえよう。
まだ、経済・社会の混乱は続くが、飢餓からは脱し、政権は安定化した。
昭和26年にはサンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約が締結された。
その頃、朝鮮戦争(S25〜S28)は特需景気をもたらし、日本は復興に向かった。

文学界では、作家らの文学活動の自由、発表の場は確保され、第一次、第二次と
いわれる戦後派作家の活躍が目立ってくる。大正後期から昭和生まれの世代で、
さらには「第三の新人」と呼ばれる作家が登場する。安岡章太郎、吉行淳之介、
庄野潤三、小島信夫、曽野綾子、小沼丹、遠藤周作、らである。

昭和24年には、芥川賞・直木賞が復活(第21回)、河出書房、春陽堂、講談社は
文学全集の刊行を始めた。数年後の本格的な全集ブームに繋がる。
文学論争は引き続き活発で、文学の大衆化は進み、文学界は活況を呈していく。


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ご参考 = 「このころの値段」 あれこれ

『値段史年表 明治・大正・昭和 』(週刊朝日編:昭和63年・朝日新聞社発行)から抜粋
(本書には計218品目がその資料提供者名とともに掲載されている。)

巡査の初任給    大正9年 45円  月俸:諸手当を含まない基本給   
昭和10年 45円
昭和19年 45円
昭和21年 420円 
昭和23年1月 1,800円 
昭和23年6月 2,340円 
小学校教員の初任給   大正9年 40〜55円  月俸:諸手当を含まない基本給  
昭和6年 45〜55円
昭和16年 50〜60円
昭和21年  300〜500円
昭和23年 2,000円 
公務員の初任給     大正15年 75円  月俸:諸手当を含まない基本給
 (高等文官試験合格の高等官)
    
昭和12年 75円
昭和21年 540円 
昭和23年1月 2,300円 
昭和23年6月 2,990円 
昭和23年12月 4,863円 
銀行の初任給   大正15年 50〜70円  第一銀行の大卒の水準
 (同一初任給による定期採用が
 ない時期もありバラツキがある)
  
昭和2年 70円
昭和15年 70円
昭和22年 220円
昭和23年 500円
コーヒー   大正10〜12年 10銭  喫茶店(東京)のコーヒー1杯  
昭和1〜5年 10銭
昭和9〜15年 15銭
昭和20年  5円 
昭和23年  20円 
カレーライス  昭和2年 10〜12銭  都心での普通の「並」1皿 
昭和6年 10銭
昭和11年 15〜20銭
昭和23年 50円
そば(もり・かけ)   大正9年 8〜10銭                       
                      
                      .
  
昭和10年 10〜13銭
昭和15年 15銭
昭和24年  15円 
昭和27年  17円 
ジョッキー一杯   大正15年 23銭  東京のビヤホール、飲食店の
 生ビール一杯(1/2g)の標準
  
昭和6年 23銭
昭和12年 25銭
昭和20年  1円75銭 
昭和22年12月  86円50銭 
映画館入場料     大正10年 30銭  日本映画封切館普通入場料    
昭和5年 40銭
昭和8年 50銭
昭和14年 55銭
昭和20年  1円 
昭和21年5月  4円50銭 
昭和22年9月  20円 
昭和23年8月  40円 
レコード   大正11年 1円50銭  国産のSP盤  
昭和7年 1円20銭
昭和12年 1円65銭
昭和20年 3円75銭 
昭和22年9月 75円 
新聞購読料     大正9年 1円20銭  「朝日新聞(大阪)」の
 月決め定価(夕刊込)
   
昭和5年 90銭
昭和16年 1円20銭
昭和20年7月  2円70銭 
昭和21年8月  8円 
昭和22年10月  20円
昭和23年  44円75銭 
総合雑誌    大正11年 80銭  「中央公論」   
昭和12年 1円
昭和16年 1円30銭
昭和19年1月 70銭 
昭和21年3月 4円 
昭和23年 25円 
家賃   大正13年 10円  板橋区仲宿(中山道沿)の1戸建
 または長屋形式(6・4.5・3・台所・
 洗面所)の家
  
昭和3年 11円50銭
昭和7年 12円
昭和13年 13円
昭和21年 50円 
昭和23年 150円 
下宿料金    大正15年 20〜25円  文京区本郷の標準:3食付きの
 一室(4.5ないし6畳)
   
昭和3年 25〜30円
昭和11年 30〜35円
昭和21年 100円 
昭和22年 1,500円
昭和23年 2,000円
芥川賞・直木賞 昭和10〜19年 賞金500円と時計(壷などの記念品の時もあり)


ちなみに・・・

*平成16年春の大卒者の平均初任給は、195,000円(男子198,300円・女子189,500円)、
高卒者は、152,600円であった。(厚労省調査:04/11/26付朝日新聞(東京朝刊))。

*朝日新聞の現在(平成16年)の月決め購読料(夕刊込)は、3,925円である。

*芥川賞・直木賞の現在(平成16年)の賞金額は、100万円である。 

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Part2 共通参考図書


(Part1の図書とともに、特に次の文献を参考にした。)

『昭和史の事典』 佐々木隆爾編 (1995) (株)東京堂出版
事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』 百瀬 孝著 (H2) (株)吉川弘文館 
『日本現代史読本(第2版)』 原田勝正著 (1997) 東洋経済新報社
『岩波新書 昭和史(新版)』 遠山茂樹他 (1982) (株)岩波書店
『決定版 昭和史 第5巻 昭和の幕開く(昭和元年--昭和5年)』 (S59) 毎日新聞社
『決定版 昭和史 第6巻 満州事変(昭和6年--昭和8年)』 (S59) 毎日新聞社

『値段史年表 明治・大正・昭和』 週刊朝日編 (S63) 朝日新聞社

『日本近代文学大事典』 (S53) (株)講談社
『日本近代文学年表』 (H5) 小田切進編
『詳解 日本文学史(三訂版)』 犬養 廉ほか監修 (1997) (株)桐原書店 
『昭和文学盛衰史』 高見 順著 (1987) (株)文芸春秋 (単行本全2巻(S33))
『昭和文壇側面史』 浅見 淵著 (1996) (株)講談社
『講座昭和文学史 第三巻 抑圧と解放』 東郷克美他編 (1988) 有精堂

『日本文学報国会』 櫻本富雄著 (1995) 青木書店
『文学報国会の時代』 吉野孝雄著 (2008) 河出書房新社

『大岡昇平全集 18 -「白痴群」解説-』 大岡昇平著 (1995) 筑摩書房

『阿佐ヶ谷界隈の文士展-井伏鱒二と素晴らしき仲間たち-』 (H元) 杉並区立郷土博物館編 
『井伏鱒二と”荻窪風土記”の世界』 (H10) 杉並区立郷土博物館編 
『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』 (H12) 杉並区立郷土博物館編
『阿佐ヶ谷文士村(杉並区立阿佐ヶ谷図書館)』 (H5) 杉並区立中央図書館編

『阿佐ヶ谷文士村』  村上 護著 (H5) (株)春陽堂書店
『新天沼・杉五物がたり』  杉並第五小学校創立七十周年記念事業実行委員会(H8)

『花万朶』 安成二郎著 (S47) (株)同成社 
『城外 夜ざくらと雪 (年譜-小田三月)』 小田嶽夫著 (S55) (株)青英舎
『中村地平全集(第三巻) (将棋随筆-S13)』 中村地平著 (S46) 皆美社
『中村地平全集(第三巻) (年譜-黒木清次・久保輝巳編)』 (S46) 皆美社
『新潮日本文学アルバム19 太宰治』 (S58) (株)新潮社
『木山捷平全集(第1巻) (日記-昭和7年〜14年)』 (S53) (株)講談社
『酔いざめ日記 』  木山捷平著 (S50) (株)講談社
『木山捷平全集(第8巻) (年譜)』 (S54) (株)講談社
『玉川上水 (海豹の頃)(わが文壇交遊録)等』 木山捷平著 (H3) 津軽書房
『木山捷平の生涯』 栗谷川紅著 (H7) 筑摩書房
『木山捷平研究』 定金恒次著 (1996) 西日本法規出版(株)
角川文庫 『恋愛論 (年譜)』 亀井勝一郎著 (S62)  (株)角川書店

 『阿佐ヶ谷貧乏物語』 真尾悦子著 (1994)  筑摩書房


『鶏肋集』 井伏鱒二著 (S11) 竹村書房
『私の履歴書(後に「半生記」と改題)』 井伏鱒二著 (S45) 日本経済新聞社
『井伏鱒二随聞』 河盛好蔵著 (S61) (株)新潮社

『井伏鱒二年譜考』 松本武夫著 (H11) (株)新典社

『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』 監修・青柳いづみこ・川本三郎 (H19) 幻戯書房

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「奥多摩 御嶽ハイキング」 の項 主な参考図書

『奥多摩行』  (上林暁著 「武蔵野」(S37/8:社会思想社)所収)
(「玉川屋」(S17作)・山気(S26作)・「御嶽参り」(S36作) の3編から成る。)
『太宰治と弁当』 (上林暁著 S31 「太宰治全集月報10」 筑摩書房)
『玉川屋』  (上林暁著 S47/5 <学燈>)
『旧作の発見』 (上林暁著 S48/9 <俳句新聞>)

上林暁のほぼ全作品は、『上林暁全集 増補決定版 全19巻』
(2000〜2001筑摩書房)に収録されている。該当の[巻]を次に示す。
・『奥多摩行』は、「玉川屋」と「御嶽参り」の2編から成る。・・[15]
・「山気」・・[14](全集収録の際、「奥多摩行」から分離したのだろう。)
・『太宰治と弁当』・・[19]
・『玉川屋』(S47作))・・[15]
・『旧作の発見』・・[19]
・『(作品名による「巻」の)索引』・・[19]
・『上林暁年譜』・・[19]
・『上林暁書目』・・[19]

『阿佐ヶ谷会雑記』 (木山捷平著  S31/1 <笑いの泉>)
(『木山捷平全集 第3巻』(S54:講談社) 所収)
『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50/8 講談社)

『太宰君の写真』 (安成二郎著(S23作) 「花万朶」(S47:同成社)所収)

『青柳瑞穂の生涯 -真贋のあわいに』  (青柳いずみこ著 2000/9 新潮社)

『阿佐ヶ谷界隈の文士展』 (杉並区立郷土博物館編集発行 H1)
『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』 (監修・青柳いづみこ・川本三郎 H19 幻戯書房)

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「高麗神社参拝」 の項 主な参考図書

『高麗村』  (上林暁著 「武蔵野」(S37/8:社会思想社)所収)
(「高麗村」の末尾には、(昭和19年9・10月)とある。)
『太宰治と弁当』 (上林暁著 S31 「太宰治全集月報10」 筑摩書房)

上林暁のほぼ全作品は、『上林暁全集 増補決定版 全19巻』
(2000〜2001筑摩書房)に収録されている。該当の[巻]を次に示す。
・『高麗村』・・[14]
・『太宰治と弁当』・・[19]

『武蔵野の地平線』 (青柳瑞穂著「壺のある風景」(S45/3:日本経済新聞社)所収)

『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50/8 講談社)

『安成貞雄を祖先とす-ドキュメント・安成家の兄妹』 (伊多波英夫著 H17 無明舎出版)

『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』 (監修・青柳いづみこ・川本三郎 H19 幻戯書房)
(上林暁著『太宰治と弁当』、青柳瑞穂著『武蔵野の地平線』 所収)


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