第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(六) 天沼の弁天通り == 太宰が来た、夢声も大先輩!!

   ★ 弁天通りの大先輩 ★

本編では、井伏の日常の通い道である天沼の弁天通り(現在の「教会通り」)に
移り住んだ4人の文学青年のうち、神戸雄一と伊馬春部の思い出を中心に綴り、
弁天通りの今昔や天沼、荻窪あたりの江戸時代からの成り立ちに触れている。

定住の地、通いなれた道への井伏の格別な思いが窺える一編だが、
<私はこの道路の通行人として昭和2年以来の古参だが、
誰も私のことを先輩だと知っているものはない。> と表わしているのが面白い。

   ★ 弁天通りに文学青年4人 ★

本編に、「昭和の初め頃にこの弁天通りに4人の文学青年が移ってきた」(要約)とある。
大学生(20代前半)の伊馬春部(当時は鵜平:本名高崎英雄)、太宰治(当時は津島修治(本名))、
中村地平(当時は治兵衛)と新婚(20代後半)の神戸雄一である。

太宰と中村は阿佐ヶ谷将棋会のメンバーだが、伊馬と神戸は参加していない。
また、中村の住居は、正確には中野区で、弁天通りではないが、
井伏を訪ねるなど、この通りを頻繁に通っていたということだろう。

   伊馬鵜平はムーラン・ルージュに就職 ・・・

伊馬鵜平(戦後は伊馬春部)が弁天通りの横丁に住んだのは、昭和7年から同14年までである。
荻窪駅北口前、現在の「オリンピック」の東寄りの裏側で、本編に「桐の木横丁」として紹介がある。

オリンピックの入っているビルは工事中で、オリンピックはなくなった。(H19/4)
平成20年、新ビル「ROOF」が完成。パチンコ、飲食店などが入っている。

太宰治が昭和8年から同10年まで住んだ家は、この伊馬の家のすぐ近く<百歩の距離>だった。
井伏によれば<太宰は酒を飲みに伊馬君をよく外に連れ出そうとしたが・・>
と親交振りを記している。(次の項<阿佐ヶ谷将棋会>の記述)

杉並区立中央図書館編小冊子「阿佐ヶ谷文士村」には、伊馬は、“昭和16年まで
天沼に居住” とあるが、実際は、昭和14年1月に森道子と結婚し、その年6-7月頃
芝区神谷町の仙石山アパートに転居した。ちなみに、伊馬春部著「桜桃の記」
(S42:筑摩書房)には、結婚は太宰と同日(1月8日)・・、厳密には、6日に挙式、
北九州(注・実家がある)から帰京したのが8日だったとある。続けて、伊馬と太宰
の長女の誕生は共に昭和16年で、この見知らぬ長女同士が学生旅行(慶応と
早稲田)の途中、北海道で偶然に出会って語り合ったという出来事を書いている。

伊馬のこの「桜桃の記」は、第一部は「桜桃の記−もう一人の太宰治ー」(戯曲)で、
第二部は「太宰治と私」(既発表の太宰に関する回想、随想など32篇)である。
伊馬は、太宰の死の直前まで親交が続いた数少ない友人の一人で、交遊を通じて
のエピソードや太宰観があり、太宰という人物を知るうえで興味深い文献である。

井伏が就職を橋渡ししたムーラン・ルージュで、伊馬は座付き作者として大好評を博していたが、
作品検閲のこと、劇団の女優望月雄子(仮名)との関係では、母親が大いに心配していた。

井伏は、母親に女優との結婚を諦めるよう説得を頼まれ、
阿佐ヶ谷のシナ料理店ピノチオに本人を呼び出したが・・

学生、インテリ層の絶大な支持を受けたムーラン・ルージュでの
若き日の伊馬春部の活躍と苦悩が伝わる一節である。

   神戸雄一のいた家は現在は化粧品店・・・そして蜂蜜専門店に

詩人の神戸雄一が昭和6年から8年まで住んだという家は、弁天通りのほぼ中央で
現在そこには「HIFUMIYA」(化粧品店)がある。(本編では<一二三屋>)
井伏が朝湯に行った「蔦の湯」(天沼3-27)は、井伏が逝って2年後くらいに廃業した。

*平成19年夏、「HIFUMIYA」(化粧品店)は取り壊され、現在(H19.10)は更地になっている。
この「一ニ三屋」の名前は、おそらく、所在地の昔の番地が「天沼中谷戸123」だった
ことに由来すると察するが、こうした店名が消えていくことに一抹の寂しさを感じる。

なお、平成22年4月、教会通りにある著名な蜂蜜専門店「ラベイユ」荻窪本店が、
その場所からHIFUMIYAの跡地に新築した近代的な瀟洒な建物に移転した。

本編執筆(発表は昭和56年7月)時、「「一二三屋」近くには「吉村医院」、「大沢(弁当屋)」、
「その隣の洋品店」、「ドリヤン(喫茶店)」、「花屋」、「無農薬野菜の店」、「鮨屋」、「床屋」
があり、戦前の頃とは違って店屋がびっしり並んでいる。」(要約)と記されている。

それから更に20年余、店毎の詳細は分からないが、教会通りはカラー舗装化
(平成5年12月完成)、街路灯整備が進み、「鐘の鳴る街、教会通り」として
鐘の音、BGMが流れる商店街に発展した。

井伏は大先輩であるが故に「鐘の鳴る街」となった現在の姿を見ることはなかった。

参考サイト 荻窪教会通り (鐘の鳴る街・教会通り商店街)


 

   「教会通り」入口==左側角は「みずほ銀行」
    (荻窪駅前支店:旧第一勧銀) (H14年7月撮)
 

 「教会通り」の入口はシンボル灯に変った。
  夜になるとイルミネーションが点灯する。
    (H22年1月完成:H22/3撮)

   徳川夢声も弁天通りの大先輩 ・・・

次の項<阿佐ヶ谷将棋会>の冒頭に、<天沼の桐の木横丁というのは新宿ムーラン・ルージュで
大当たりをとった伊馬鵜平の芝居「桐の木横丁」に因んで出来た名前だが、今では
もうそれが忘れられてしまった。現在の教会通り、鮨屋ピカ一の前を東へ枝道に入って・・>
と紹介されている。(「桐の木横丁」は昭和8年の初演)

<忘れられてしまった>と言うのは執筆時なので昭和56年頃。この時にはあった<鮨屋ピカ一>
(みずほ銀行の奥隣)は、現在はキムチ等韓国の惣菜類を販売する「ソウル食品」に変っている。
その店の2階あたりを見上げると<ピカ一>という看板がまだ残っていた。

(久しぶりで教会通りを歩いたら、「ソウル食品」の店名は「荻窪キムチ」に変り、
<ピカ一>の看板はなくなり、「荻窪キムチ」となっていた。・・H15.3.6記)
(現在は、韓国料理店になっている。・・H27.5.14記)



その枝道を入って道なりに行くと、200mほどで 「ことぶき通り商店街」 に出るが、その道筋あたりに
画家津田青楓(漱石門下で随筆も書いた)、太宰治、伊馬鵜平(春部)、徳川夢声が住んでいた。
伊馬は、自分が住む路地を 「桐の木横丁」 と称して作品にし、その名が有名になった。
この4人が、ここに同時に住んだ時期は太宰が居た昭和8年から昭和10年までである。

なお、津田青楓の居所は、鈴木信太郎著 「阿蘭陀まんざい」(1954・東峰書房) に、
極く概略だが、「前田ェ治の自宅兼アトリエを譲り受けて仕事場とし、荻窪駅近くの
洋風の日本家屋を居宅に借りた。 居宅の裏口から荻窪駅北口は直近・・」 とある。

前田ェ治は、今の天沼2丁目に、自宅兼アトリエの「前田写実研究所」を設立した。
津田は、前田の死去(S5/4)によって残されたその建物を譲り受けたが、居宅は、
井伏が書いたように、荻窪駅北口に近い桐の木横町の道筋に借りたと察せられる。

徳川夢声は、ここに自宅を新築して昭和2年暮から住んでいたので、井伏と同期の大先輩である。

   杉並最初の銭湯「寿湯」 ・・・

<伊馬君のいた露地の突当りには高い板塀があって、塀の向側にお湯屋と徳川夢声の家があった。>
とある。夢声の家があった場所は、現在は青梅街道北側沿いに建つ「FY荻窪共同ビル」になっている。

井伏は、さらに、<夢声さんは、女湯の桶の音や話し声が煩いと言って、防音装置を取り附けた。> と
続け、<青柳瑞穂がその見学に来たが、青柳の本心は夢声が入手したという古九谷の皿を見たかった
のだろう> と、当時の状況、交遊ぶりをユーモラスに伝えている。(次項<阿佐ヶ谷将棋会>の記述)

このお湯屋は「寿湯」(現在の天沼3-2・青梅街道北側沿い)で、杉並区で最初の銭湯である。
郷土博物館発行の小冊子「杉並のお風呂屋さん」(H20/5・第2刷)によれば、大正11年開業で、
昭和47年に廃業した。跡地は「荻窪勧業ビル」になっており、ビルの脇の通りの入り口には、
「グリーンロードことぶき」のアーチがあり、寿通り商店街がある。この銭湯に因んだ名称である。

「寿湯」の位置は、昭和初期の地図によれば、現青梅街道よりも南側である。
青梅街道の荻窪駅北口前は、昭和10年代に、天沼陸橋で中央線を越える
新ルートを建設しており、この影響で現道筋の北側沿いに移動したのだろう。

その結果、現在は、荻窪駅北口前の青梅街道北側沿いには、
「FY荻窪共同ビル」と「荻窪勧業ビル」が並んで建ったのである。


(現在(H27/5)は、「グリーンロードことぶき」の表示ではなく、「ことぶき通り商店街」と
なっているが、道路の舗装には緑色が残り、「グリーンロード」の名残りなのだろう。)

@@@ 雑記帳 @@@

   (1) 4人の文学青年

      ・神戸 雄一(かんべ ゆういち):明35(1902).6.22〜昭29(1954).2.25 享年51歳

宮崎県生れ。詩人・小説家。詩集に「岬・一点の僕」(昭2)、小説集に「番人」(昭18)など。
昭和19年に宮崎に疎開し、日向日日新聞社の文化部長、出版局長を歴任。本編によれば、
豪家出身の温厚な人格者で、貧乏な詩人たちのために同人雑誌を出してやったりしていた。

昭和8年、古谷綱武らと同人誌<海豹>創刊に関わり、太宰治、木山捷平を文壇デビューさせた。

      ・中村 地平(なかむら ちへい):明41(1908).2.7〜昭38(1963).2.26 享年55歳

宮崎県生れ。本名は治兵衛。小説家。「熱帯柳の種子」(昭7)で文壇にデビューした。
代表作に「南方郵信」(昭13:芥川賞候補作品)、「長耳国漂流記」(昭16)がある。
戦後は、宮崎県立図書館長を務めるなど、地方文化振興に貢献した。(「第三部」に詳記

      伊馬 春部(いま はるべ):明41(1908).5.30〜昭59(1984).3.17 享年75歳

福岡県生れ。本名は高崎英雄。劇作家。昭和7年にムーラン・ルージュ文芸部に入り、
伊馬鵜平の名で「桐の木横町」(昭8)などを発表した。
戦後、春部に改名、NHKラジオの「向こう三軒両隣」などを執筆。放送文化賞等を受賞している。

      ・太宰 治(だざい おさむ):明42(1909).6.19 〜昭23(1948).6.13 享年38歳

青森県生れ。本名は津島修治。小説家。「魚服記」(昭8)、「逆行」(昭10:芥川賞候補)等を発表。
心中事件、麻薬中毒など奔放な私生活で周囲を心配させたが、井伏が面倒を見ていた。
戦後、「斜陽」(昭22)などで流行作家になるが、過労と飲酒で健康を害し、
昭和23年、「桜桃」「人間失格」などを残して玉川上水に入水心中死した。(「第三部」に詳記

   (2) 新宿ムーラン・ルージュ(フランス語で「赤い風車」)

正式な劇場の名称は新宿座で、その劇場に専属の劇団名がムーラン・ルージュだった。
昭和8年暮れに浅草オペラの名テナーだった佐々木千里が創立した。
本家(パリ)ムーラン・ルージュのエスプリを取り入れようという思いがあったと思われる。

昭和20年の空襲ですべてが灰燼に帰し、戦後再建されたがストリップショウの攻勢に敗れ
昭和26年5月に閉鎖された。新宿駅南口の階段(現在は “東南口” を出て直ぐ前)を下りて
三越(現在は“ビックロ”)脇に通じる通りにある新宿国際劇場(ポルノ映画館:H14)辺りである。
(同劇場の建物は現在(H27/5)は取り壊されており、大型ビルへの建て替えが進行中である。)

戦前には、若き日の望月美恵子、明日待子、武智豊子、三島健(曾我廼家五郎八)、
有馬是馬、有島一郎、益田喜頓、左ト全等々の俳優が活躍しているが、
ムーラン・ルージュの特徴はスター中心の軽演劇ではなく、「作品で勝負する」ことにあった。

伊馬鵜平はその代表作家の一人になったが、島村竜三(初代文芸部長)、菊田一夫、
サトーハチロー、阿木翁助、中江良夫(戦後再建の中心者)等々が文芸部でペンを走らせ、
顧問には、文壇から新興芸術派の龍胆寺雄、吉行エイスケ、楢崎勤が名を連ねた。

伊馬春部は「新宿座の位置は、学生、インテリ層の集まるカルチェ・ラタンともいうべき
若いエネルギーが盛り上がり、同時に芸術的、文化的ムードのただよう区域であった。」
と述懐しているが、学生・インテリ層のファンを吸収し、大盛況であった。

(以上『新宿ムーラン・ルージュ』・『新宿歴史博物館 常設展示解説シート』による)

戦後は、若き日の森繁久弥、由利徹、三崎千恵子等が活躍したことが知られるが、
一変した時代環境にあって経営に行き詰まり、昭和26年、その歴史に幕を下ろしたのである。

創立(S6)から戦争、敗戦を経て80数年、そこは全く異質の文化で賑わう街になっている。

       ・ 望月美恵子(後に望月優子)

本名 鈴木(旧姓 里見)美枝子:大6(1917).1.28〜昭52(1977).12.1 享年60歳。
昭和6年、14歳で浅草のカジノ・フォーリーの踊り子として芸能界に入り、
昭和10年から約3年間、ムーランルージュで踊りや演技に活躍した。
その後、宝塚ショウや新派に入り、昭和17年に作家鈴木重雄と結婚、女優活動を続けた。

戦後は、舞台のほか映画にも出演し、代表作に「日本の悲劇」(昭28)、
「米」(昭32)などがある。ブルーリボン賞をはじめ、数々の演技賞を受賞した。

昭和46年には参議院議員(社会党)当選。同52年再出馬は落選。同年12月没。

著書「生きて愛して演技して」(昭32)には、作家Tさんとの関係や
その母親と上野公園で会ったことなどが記されている。

   (3) 江戸時代の20ヵ村(『杉並風土記』から要約)

    荻窪は伊賀忍者の領地

徳川家康が江戸城に入って(1590)、下荻窪村(現在の荻窪駅の南側一帯)は、伊賀忍者隊長の
服部半蔵の知行地、上荻窪村(同、西荻窪駅の南北一帯)は伊賀同心8名の知行地となったが、
下荻窪村は1600年(関が原の合戦)頃に天領になった。(本編に、下(上)井荻村とあるのは誤記)

    天沼、弁天通りは日枝神社領

1635年、三代将軍家光が下荻窪村とそれまで天領の阿佐ヶ谷村(現在の阿佐ヶ谷駅周辺)、
天沼村(同、荻窪駅の北側一帯)、堀之内村(同、堀ノ内あたり)の4カ村を寄進して
そこは麹町(現在永田町)日枝神社領となり、幕末まで続いた。

高円寺村(同、高円寺駅の東側一帯)、馬橋村(同、高円寺駅の西側一帯)は天領であった。
田端村、成宗村(両村とも阿佐ヶ谷村の南側)は、江戸時代初期の頃、
岡部氏の領地になったが、元禄11年(1698)に天領となった。

    環八(四面道〜井荻駅)周辺は今川氏の領地

上井草村(現在の上井草駅の南側一帯)と下井草村(同、井荻駅の南北一帯)は
江戸初期は井草村で老中井上正就の領地であったが、1645年に今川氏の領地となり(桶狭間
で信長に敗れた義元の曾孫、範英(直房)の代)、上・下井草村に分けられて幕末まで続いた。

なお、杉並区今川2丁目にある“観泉寺”は、これが契機で今川家の菩提寺となった。
“今川”の町名は昭和37年の住居表示法に基づいて定められたものである。(詳細後述

     今川領の年貢は過酷だった!!

今川氏の石高は2,500石だったが格式は10万石並とされ、その体面を保つため
年貢は過酷となり、その他に臨時税(夫金)や上納金が課せられたため領民は苦しんだ。
凶作が続いた天保年間には直訴事件(1836年)も起きている。

一方、日枝神社は将軍家との関係から名実ともに江戸一番の神社で裕福であったため、
領地から年貢を増徴する必要がなかった。幕末まで、この面で領民は恵まれていたが、
明治維新で調査の結果、その後の土地所有者の税負担は神社領時代の3倍以上になった。

江戸時代の年貢は、二公一民が原則で天領では大体守られていたが、
大名領、旗本領では九公一民を取り立てる例もあった。
領民の死活は、まさに領主の手中にあったといって過言ではない。

   (4) 明治で4カ村へ、大正末に"町"へ、 昭和7年"杉並区"へ

明治21年4月の市町村制公布により、旧20ヵ村は同22年(甲武鉄道開通の年)に、
下井草、上井草、下荻窪、上荻窪の4ヵ村が合併して「井荻村」
阿佐ヶ谷、天沼、高円寺、馬橋、田端、成宗の6ヵ村が合併して「杉並村」
堀之内、和田、和泉、永福寺の4ヵ村が合併して「和田堀内村」(和田堀村と書いた文書も多い)
上高井戸、中高井戸、下高井戸、大宮前新田、松庵、久ヶ山の6ヵ村が合併して「高井戸村」
の4ヵ村が成立した。(この年(M22)、東京市(旧15区)誕生)

そして大正13年には杉並村、同15年には他の3ヵ村も町制を施行して「町」になった。
(「和田堀内村」は「和田堀町」と名称変更。4町とも「東京府豊多摩郡」)

さらに、昭和7年、この4ヵ町によって「杉並区」(東京府東京市)が成立したのである。
昭和18年、東京市は東京都となった。

    大規模な新住居表示の実施

昭和4年発行の地図(東京府豊多摩郡杉並町全図)を見ると、弁天通りは天沼の中の
小名「中谷戸」と「四面道」の境界に位置している。それが昭和7年の「杉並区」誕生で
「天沼1丁目」となり、戦後の住居表示法(昭37)によって開始された大規模な
新住居表示によって同40年に「天沼3丁目」に変り現在に至っている。
(本編に、「天沼3丁目になったのは杉並区誕生に際して」とあるのは井伏の誤解である。)


ムーランルージュ関係は主に次の図書を参考にした。     (H14/11UP)

・『新宿ムーランルージュ』   窪田篤人著(平成元年)
・『生きて愛して演技して』   望月優子著(昭和32年)
・『新宿歴史博物館 常設展示解説シート』 新宿歴史博物館



(五)文学青年窶れ = 中央線に群れた!! (七)阿佐ヶ谷将棋会 = 三流作家の心の支え!!

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