第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

HOME (総目次)


(五) 文学青年窶れ == 中央線に群れた!!

昭和文学の源流は、大正末期に始る同人雑誌ブームにあるといわれる。昭和初期にかけて
別記のように多くの同人雑誌が生まれたり消えたりしていたが、芸術派の面々はプロレタリア
文学の勢いに押されて不遇をかこち、井伏のいう “文学青年窶れ” の時を過ごしていた。

   ★ 同人雑誌 =  文学青年のデビュー ★ 

     「同人雑誌」は世代交代の流れ !!

< 「戦闘文学」「文芸都市」「新文芸都市」「作品」「文学界」「四季」 >
井伏が、順次加わったと本編に記した同人雑誌の名前である。
大正末期〜昭和初期、多くの同人雑誌が生まれては消え、また生まれていた。

「昭和の初期の頃には、いわゆる文壇のギルド的なものは、力を弱めていたのではないか。
大家たちの締め付けも少なく、青年は思い思いの文学を志向できたであろう。
その一つの現れが同人雑誌の流行であった。」(要約)と『阿佐ヶ谷文士村』は記している。

つまり、既存の体制を超えて、幅の広い自由な文学活動が進行したということだろう。
文学青年たちは文壇デビューのために効率的かつ効果的な唯一の手段として、
何人かの仲間が集まって費用を出し合い、同人雑誌を発行したのである。

     メダカは群れたがる・・・結構 !! 

井伏が本編で、<人間は大なり小なり群れをつくる習性を持っている。・・中略・・
とかくメダカは群れたがるというが、それで結構だと私は思っている。>
と記しているのはこのような背景を念頭にしてのことだろう。

若い同人たちは、志は高いが収入は低く、その多くは経済的に困窮を極め、
また、仲間内に意見の相違が生じたり、軍国色が加速していく時勢にあって、
短命で終わっている同人雑誌も多い。
当然ながら、文学青年たち自身も時勢という激流に巻き込まれていく。

     左翼でなくては、うだつがあがらぬ !!

一方この時期、プロレタリア文学雑誌はよく売れた。また大衆文学の人気が急上昇していた。

本編に、<その頃、新宿紀伊国屋の店頭で、「文芸都市」は月に4冊か5冊くらい売れていたが、
左翼文芸雑誌「文芸戦線」は百冊配本のうち1ヶ月で百冊近く売れていたようだ。・・・中略・・・
文学青年も左翼でなくては、どうにもうだつが上がらぬ時節になっていた。>と記されている。

昭和3〜4年頃のことであるが、その後の左翼弾圧は一段と厳しさを増し、
その矛先は文芸活動にも向けられ、昭和5年、同7年には中野重治他多数の検挙、

昭和8年2月には地下活動中の小林多喜二検挙、取調べにより急死に至り、
プロレタリア文学は衰退から壊滅状態を余儀なくされた。

一方、大衆文学は新聞、雑誌の興隆と相俟って大人気となった。 作家名を掲げると
吉川英治、白井喬二、大仏次郎、 野村胡堂、長谷川伸、林不忘、菊池寛、等々である。

  ★ 井荻村下井草1810のエピソード ★

      神近市子女史と同居 ?

本編に、昭和4〜5年頃、文芸春秋社の「文芸手帳」に載った左翼の闘士 神近市子女史
住所が井伏と同じだったため、井伏が警察の執拗な取調べを受けたことが記されている。
左翼活動家は身を潜める時勢の一端が窺えるエピソードである。

      お隣の温情で稿料 ?

同じ頃、同番地の隣家、「都新聞」学芸部長の上泉さんの温情で同新聞に随筆を書き、
その稿料で苦しい家計を凌いだと、上泉家とのやりとりをユーモラスに記している。
苦しくとも「プロレタリア文学には組しない」という井伏の信念が窺えるエピソードである。

     大政翼賛会、有馬邸と荻外荘のご主人は ?

年を経て、「上泉さんは編輯局次長になったが、軍部の取締まりに閉口して退職し
大政翼賛会の役人に転向、岸田国士(きしだ くにお)文化部長のもとで副部長に
なったが、軍部を抑えるという初期の近衛、有馬の発想と裏腹に軍部に悪用され、
二人ともくたくたになって田舎に疎開した。」(要約)と記したうえで、

<荻窪八丁通りの有馬邸の御主人と善福寺川沿いの荻外荘(てきがいそう)
御主人はどんな気持であったろう。>と戦争へ向かう時局の展開を本編に記している。
井伏宅からは、徒歩10〜15分程度である。

(注:大政翼賛会は昭和15年10月発足。文化部長 岸田国士(同17年7月辞任))

  ★ 阿佐ヶ谷将棋会 ★

     発 足 !

本編に、阿佐ヶ谷将棋会が紹介されている。(詳しくは別項<阿佐ヶ谷将棋会>

<阿佐ヶ谷将棋会は、荻窪、阿佐ヶ谷に住む文学青年の会で、外村繁、古谷綱武、青柳瑞穂、
小田嶽夫、秋沢三郎、太宰治、中村地平、などが会員であった。それが毎月会合し、
後になると(昭和15年頃になると)、浅見淵、亀井勝一郎、浜野修、木山捷平、上林暁、
村上菊一郎などが入ってきた。元は阿佐ヶ谷南口の芋屋で兼業する将棋会席を会場に
借りていたが、人数が増えると阿佐ヶ谷北口のシナ料理店ピノチオの離れを借りて将棋を指し、
会がすむとピノチオの店で二次会をするようになった。>とある。

「発足がいつか?」は、後出の<阿佐ヶ谷将棋会>で<昭和4年頃>とあるが曖昧である。

     電話のない時代、歩け歩け !

荻窪〜阿佐ヶ谷はJR駅区間1.4kmで徒歩でも行き来できる距離にある。
当時、中央線沿線に左翼も含む数多くの文学青年が移り住むようになったのは、安価とともに
都心に近くて駅の間隔が短く、徒歩でも行き来しやすかったことも大きな理由であろう。

電話がまだほとんどない時代、電車賃も苦しい貧乏な同人たちはコミュニケーションのため
お互いに近くに住むことが必然の成り行きだったと考える。まさに「類は友を呼ぶ」だった。

(JR駅間距離 :中野-1.4k-高円寺-1.2k-阿佐ヶ谷-1.4k-荻窪-1.9k-西荻窪)

    ★ 阿佐ヶ谷駅設置裏話 ★

     古谷代議士は礼金を受け取らなかった !

本編に、土地の古老たちの話が載っている。(『杉並区史探訪』(森泰樹著)の要約)
「大正8年頃、阿佐ヶ谷の大地主たちが新駅を誘致しようと鉄道院に陳情したが一蹴された。
そこで、地元に住む古谷久綱代議士(現在の成田東4丁目)に依頼して猛運動を再開した。

同代議士は、自宅にある杉並で最初の唯一本しかない電話を情報伝達、交換に活用し、
そのおかげで現在の阿佐ヶ谷駅ができた。同代議士に礼金を持って行ったが
受け取らないので、せめてお抱え人力車が通れるようにと、地主たちが
土地を出し合って駅から自宅までの道を三間道路に整備した。」ということである。

(駅開設は大正11年7月:高円寺は中野〜阿佐ヶ谷の中間に必要として同時開設)

本編に、<古谷綱武からそんな話を一度も聞いたことがなかった。>とあるのは
古谷久綱代議士は、阿佐ヶ谷将棋会メンバーの古谷綱武の伯父であることによる。

     人力車道ができた ⇒ 明るいアーケードの商店街に !

その道は、駅から青梅街道まで通じている現在のパールセンターである。
全長約700m、高い、透明な天井のアーケードに覆われた明るい通りで、
両側には新・旧の商店が連なり、買い物客でいつも賑わっている。
現在は、夏の七夕祭りは、平塚、仙台と並び全国的にも有名である。

ちなみに、この七夕祭りは商店街の集客策として昭和29年から始められたものだが、
その2年前に中杉通り(現在は「けやき通り」で知られている)が開通し、パールセンターが
都内で最初に24時間歩行者専用道路に指定されたことも大きなきっかけとなったという。
アーケード化(S37)は「七夕飾りの色紙が雨で衣服を汚す」という苦情も一因だったとか。
(“ちなみに”の項は、<東京人 1月増刊:杉並を楽しむ本>(都市出版)より H17/12UP)

参考サイト 七夕祭りでも全国的に有名 阿佐ヶ谷パールセンター


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ?? 阿佐ヶ谷駅設置と古谷久綱代議士没年との関係など ??

井伏が引用した「杉並区史探訪」(S49/2 森泰樹著)には地元の古老の話として、
「阿佐ヶ谷駅は、大正8年〜9年頃の古谷代議士の尽力により大正11年に開設となった。
同代議士は礼金を受け取らなかったので地主たちは同駅から同代議士宅までの道路を
同代議士の人力車が通れるよう拡幅した。
それが現在のパールセンター通りである。」 とある。

また、木山捷平の「昭和8年2月11日」の日記(「酔いざめ日記」(S50:講談社))には、
「かえりに土曜会につき古谷君のところへよったが、誰も来て居ず、
オジサンなる代議士君と彼は酒をのんでいた。実におっとりした人。金持羨ましくなる。
マージャンをして12時前帰宅。伊予レモン、カマボコをもらった。」 とある。

さて・・・

古谷綱武の伯父 古谷久綱の没年を何冊かの人名事典などで確認したところ、
大正8年(1919年)で一致している。
月日は、明記されている資料では2月11日で一致している。

没年を出身地の愛媛県西予市にお尋ねしたところ、次のとおりだった。
大正8年 永眠 「従三位勲三等超勝院殿信慧笠麓大居士」


衆議院議員の選挙記録(「衆議院名鑑」(1977:日本国政調査会))によれば、
古谷久綱は大正4年の第12回総選挙と大正6年の第13回総選挙で当選している
(愛媛県から選出)が、次の大正9年5月の第14回総選挙には立候補していない。

参考サイト 宇和出身の先哲たち・・・ 宇和先哲記念館


さらに・・・

古谷綱武が書いた「大正の荻窪駅」(「自分自身の人生」(S57)所収))という
一文には、大正8〜9年頃のこととして、次のようにある。(要約)

「当時、ぼくは小学校6年生で、成宗(現杉並区成田東)の伯父の別荘に預けられ、
荻窪駅から四ツ谷の小学校に電車通学していた。伯父は政治家で、週末は中野駅
から人力車で来てこの別荘で過ごしていた。別荘では羊や鶏を飼い、果樹や野菜を
作っていた.。 いま、阿佐ヶ谷南口の商店街になって繁栄している道は、
その当時には、人家の一軒もない杉林の中の小道だった。」


この文面からすると、成宗にあったのは久綱の自宅ではなく別荘で、本人が来た
のは週末だけである。綱武の年譜によれば、綱武は大正9年に小学校6年生で、
その二学期にワシントン(父の任地)へ移っているので、小学校高学年で
成宗に預けられ、久綱の死後も1年半余りをそこで過ごしたことになるが、
この時点では、まだ後に商店街になる道はなかった。
また、この道ができた経緯について、綱武は何も触れていない。

そこで “??” だが・・・・・

古谷久綱の没年(大正8年2月11日)は確かなので、誘致活動と設置決定との関連
(開設:T11/7)や道路拡幅の事情などに関する地元の古老の話には、勘違いや
誤った言い伝えがあるように思うが・・。もう少し確かな資料が欲しいところである。

木山捷平の日記は、木山の単なる勘違いか思い込みだろう。
当日は久綱の祥月命日であり、来ていたのは一時帰国した父か、あるいは、綱武を
宇和島で中学受験から1年秋まで(T10〜T11)預かった叔父さんではないだろうか。

(この「??」の項は 「第三部 古谷綱武」 に関連して H17/5 UP:H23/11更新)

(参考図書) ・ 「自分自身の人生-大正の荻窪駅・日本人の血」 (S57:大和書房・銀河選書)  .
・ 「日本人の知性 20 - 古谷綱武」 (2010:学術出版会)       .
・ 「人生への旅立ち」(古谷綱武著 1982:全国学校図書館協議会編)
.

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

パールセンターを青梅街道に出て右に曲がると右手に杉並区役所があり、その前に
サイカチの木がある。 (井伏は<左手の>と書いているが勘違いだろう。)

現在のサイカチの木は高さ約3m。「当初の木は昭和14年に枯死、2代目も病死
したので、由来を後世に残すべく新たに植えられた」と標示板にある。
青梅街道の排気ガスに負けずに由来(里程指標)を思わせる巨木に育って欲しいもの。

  (H14年10月撮)

右がサイカチの木。『杉並風土記 中巻』には、高さ10数mの木と、“島津家の紋(丸に十の字)
が彫られた江戸城の石垣用と推測される大石” が紹介されている。現在、木はまだ3m程度、
石は説明なく置いてあったが(H14)、いつの間にかなくなっている(H23)。どこかへ移したか・・

左の木は「杉並区の木」の一つ「アケボノスギ(=メタセコイア)」。
「杉並区の木」は、他に「スギ」と「サザンカ」。(みどりの条例:昭和48年10月1日施行)

サイカチ=日本特産のマメ科の落葉高木。高さ15mに達する。枝、幹にとげが多い。
<タマリンド>=南アジア〜熱帯に分布し、20mを超えるマメ科の高木。街路樹にもされている。

-----------------------------------------------

@@@ 雑記帳 @@@

      (1)  一口メモ

      神近市子 (明治21(1888)年〜昭和56(1981)年)

大正〜昭和期の婦人運動家。大正5年、恋愛問題で大杉栄を刺し、2年間服役後
「女人芸術」等で文筆活動。戦後、昭和28年に衆議院議員(左派社会党)当選。
以降当選6回、売春防止法の制定に尽力、昭和44年政界を引退。

      都新聞 (「東京新聞」の前身)

明治17(1884)年創刊の「今日(こんにち)新聞」に始まり、同21年に「みやこ新聞」、
同22年「都新聞」と改題。文芸、演劇面に特色がみられた。
昭和17年に「国民新聞」と合併して「東京新聞」となった。

      大政翼賛会 (昭和15年10月に発足した官製国民統合組織)

近衛文麿と有馬頼寧らその側近が、軍部を抑制することを視野に強力な政治力結集を
構想して新体制運動を進め、第二次近衛内閣のもとで発足したが、陸軍・既成政党・
右翼等各勢力の思惑から、翌16年4月の改組で近衛側近グループは退陣となった。
以降は、内務省が主導権を握り、上意下達の行政補助機関、国民動員組織となった。

      ・有馬邸 (有馬頼寧(ありま よりやす)邸)

邸の主、有馬頼寧(明治17(1884)年〜昭和32(1957)年)は旧久留米藩主の長男。
大正13年衆議院議員、昭和4年貴族院議員。昭和12年の第一次近衛内閣の農林大臣。
大政翼賛会発足(昭和15年10月)時に事務総長に就任するが半年後に辞任。

昭和31年、中央競馬会理事長就任。競馬の「有馬記念競争」はその功績を記念したもの。
直木賞作家 有馬頼義(よりちか)(大正7(1918)年〜昭和55(1980)年)は頼寧の三男。

大正3年に荻窪八幡神社近傍(現上荻4丁目)の土地約15,000坪(250m×200mの面積 :
東京ドームよりやや広い)を購入し、昭和初期にはここに移り住んで、その後の政治活動
の拠点にもなっていた。この土地は、現在は普通の住宅街となっている。

      荻外荘 (近衛文麿(このえ ふみまろ)邸)

荻外荘(てきがいそう)の主、近衛文麿(明治24(1891)年〜昭和20(1945)年)は公爵。
昭和12年6月、近衛内閣成立。翌7月の盧溝橋事件は日中戦争に発展、同14年1月総辞職。
以降、第二次、第三次近衛内閣が成立し、政治上の重要会談の舞台にもなった邸。
昭和16年12月8日(東条内閣)、日本軍は真珠湾などを攻撃し太平洋戦争に突入。
同20年8月15日敗戦。近衛文麿は荻外荘で同年12月16日に自らの命を絶った。

近衛文麿邸は、昭和2年に大正天皇の侍医であった入沢達吉博士が建てた邸宅(伊東忠太設計)で、
当時、入沢家では「楓荻凹處」(ふうてきおつしょ=フリガナは杉並区役所確認:H27.4.28)と呼んでいたが、
昭和12年12月に近衛に譲渡され、元老西園寺公望が 「荻外荘」と名付けたと言われている。

荻外荘(現・荻窪2丁目)の周辺には豪邸が建ち並び、一寸奥まって高い緑の木々に囲まれた
門柱がひっそりと立つのが通りから見えるだけである。邸の中のことは分からない。(H14/10)

*敷地は6,150u(約1,900坪)で、木造平屋建て延べ433u(約130坪)の当時の建物が現存する。
杉並区は、「荻外荘」の歴史的価値に着目し、保存するために、平成26(2014)年2月、31億円で
買い取り、現在、公園にするための工事を進めている。(H26.12.2付朝日新聞(朝刊・東京)より)


*平成27年3月14日、南側庭園部分(約2,300u)が公園として整備され、一般開放された。

参考サイト 「荻外荘」関連の詳細情報 (PDF) 荻外荘周辺まちづくり懇談会のまとめ(H26.3.31)



    (2) 昭和初期・・・・・時勢と文学界(年表)

「芥川竜之介の死が、大正文学の終幕と同時に昭和文学の開幕を告げる銅鑼の響きで
あったことは、多くの文学史家が語っている。・・・中略・・・プロレタリア文学と
新感覚派--新興芸術派との対立によって代表される昭和初年代の文学が出発する。」
と『昭和文学史論』(久保田正文著)の冒頭にある。(芥川竜之介:昭和2年自殺)

この時期、世相は、金融恐慌、大不況、左翼運動の活発化とその取締り・弾圧の強化、
ファシズムの台頭があり、混迷の度を深めていった。
そして昭和10年代には、日本のすべてが戦争へと飲み込まれていくのである。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

大正末期〜昭和初期の主な作品(作者年齢)、同人誌、社会の出来事を年表にした。
昭和初期に40才を超えている作家は、いわゆる「大家」たちで数が少ない。
世代交代中の20〜30代文学青年たちの<文学青年窶れ>の背景が窺える。

大正末期〜昭和初期の主な文学作品と文学・社会関係出来事
(「荻窪風土記の背景」を念頭に、私の主観で選択したもの)
* はプロレタリア文学関連(転向後も含む)
西暦 作品(〜は連載を示す) 作者(年齢) 文学・社会関係出来事
大正
9 1920 5 岩野泡鳴没(47)
6 真珠夫人〜 菊池寛(31)
11 * 日本社会主義同盟結成(小川未明、尾崎士郎ら参加)
11 田山花袋・徳田秋声 生誕五十年祝賀会
10 1921 2 * 種蒔く人(土崎版:小牧近江、金子洋文ら)創刊〜4月
10 * 種蒔く人(第2次:東京版)創刊〜T12/10
11 1922 1 藪の中 芥川竜之介(29)
1 暗夜行路 後編〜 志賀直哉(38)
2 旬刊朝日(4月から「週間朝日」と改題)創刊
4 サンデー毎日 創刊
7 森鴎外没(61)
12 1923 1 文芸春秋(菊池寛)創刊
5 日輪 横光利一(25)
7 幽閉(後に「山椒魚」) 井伏鱒二(25) 世紀(小林龍雄、井伏鱒二ら)創刊〜T12/8
9 1日 関東大震災  
9 葡萄園(吉行エイスケら)創刊〜S6/3
13 1924 1 仇討十種〜 直木三十五(32)
    3 痴人の愛〜 谷崎潤一郎(37)
6 築地小劇場(小山内薫ら)開場
6 * 文芸戦線(青野季吉、小牧近江ら)創刊〜S7/7
7 富士に立つ影〜 白井喬二(34) * マウ゛ォ(村山知義ら)創刊〜T14/8
9 戯曲 チロルの秋 岸田国士(33)
10 文芸時代(横光利一、川端康成ら)創刊〜S2/5
12 注文の多い料理店 宮沢賢治(28)
14 1925 1 青空(外村繁、梶井基次郎ら)創刊〜S2/6
キング(講談社)創刊〜S32/12
3 治安維持法成立
7 第二の接吻〜 菊池寛(36) 不同調(中村武羅夫ら)創刊〜S4/2
11 淫売婦 * 葉山嘉樹(31)
12 * 日本プロレタリア文芸連盟(プロ連)結成
(林房雄、中野重治、鹿地亘ら)
15 1926 1 伊豆の踊り子〜 川端康成(26) 文芸家協会設立(菊池寛、山本有三ら)
1 大衆文芸(白井喬二ら)創刊〜S2/7
2 * マルクス主義芸術研究会(マル芸)発足(林房雄ら)
5 絵のない絵本 * 林房雄(23)
8 鳴門秘帖〜 吉川英治(33)
9 生きとし生けるもの〜 山本有三(39)
11 海に生くる人々 * 葉山嘉樹(32) * 日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)結成(中野重治ら)
11     * 日本無産派文芸連盟結成(小川未明、秋田雨雀ら)
12 一寸法師〜 江戸川乱歩(32) 「現代日本文学全集」刊行開始(円本ブームの口火)
12 25日 大正天皇崩御
昭和
2 1927 1 新宿紀伊国屋書店(田辺茂一)創業
3 河童 芥川竜之介(35) 金融恐慌(渡辺銀行等)
    5 赤穂浪士〜 大仏次郎(29)  
6 * プロ芸分裂で労農芸術家連盟結成(青野季吉ら)
7 芥川竜之介自殺(35)
7 * プロレタリア芸術(プロ芸機関誌〕創刊〜S3/4
10 或阿呆の一生 芥川竜之介(-)
11 * 労農芸術家連盟分裂で前衛芸術家同盟(前芸)結成
(蔵原惟人、林房雄ら)
3 1928 2 鯉〜 井伏鱒二(30) 文芸都市(船橋聖一ら〕創刊〜S4/7
3 夜更と梅の花 井伏鱒二(30) * プロ芸と前芸が合同し全日本無産者芸術連盟
3 卍〜 谷崎潤一郎(41) (ナップ)結成
4 放浪時代 龍胆寺雄(27)
5 * 戦旗(ナップ機関誌)創刊〜S6/12
6 張作霖爆殺事件
7 ある崖上の感情 梶井基次郎(27) * 女人芸術(長谷川時雨ら)創刊〜S7/6
10 放浪記〜 林芙美子(24)
11 1928年3月15日 * 小林多喜二(24)
11 上海〜 横光利一(30)
12 * ナップは、全日本無産者芸術団体協議会と改称
(プロレタリア作家同盟(ナルプ)、同劇場同盟、
同美術家同盟、同音楽家同盟、同映画同盟の五団体
に分け、各々が独自に活動、ナップが統括した。)
4 1929 3 朽助のゐる谷間 井伏鱒二(31)
3 鉄の話 * 中野重治(27) 文芸レビュー(伊藤整ら)創刊〜S6/1
4 夜明け前〜 島崎藤村(57) 白痴群(中原中也ら)創刊〜S5/4
5 山椒魚(幽閉を改作) 井伏鱒二(31)
5 蟹工船〜 * 小林多喜二(25)
6 太陽のない街〜 * 徳永直(30)
10 NY株式暴落・世界大恐慌
11 シグレ島叙景 井伏鱒二(31) 新文芸都市(阿部知二ら)創刊(1冊のみ)
11 屋根の上のサワン 井伏鱒二(31)  
11 不在地主 * 小林多喜二(26)
12 浅草紅団〜 川端康成(30)
5 1930 2 * 林房雄検挙
3 さざなみ軍記〜 井伏鱒二(32) 新興芸術派倶楽部結成(龍胆寺雄、井伏鱒二ら)
3 敵中横断三百里〜 山中峯太郎(44)
3 戯曲 瞼の母〜 長谷川伸(46)
4 工場細胞〜 * 小林多喜二(26)
5 * 中野重治、片岡鉄平、小林多喜二ら検挙
5 田山花袋没(58)
5 作品(堀辰雄、井伏鱒二ら)創刊〜S15/4
6 南国太平記〜 直木三十五(39)
6 寝園〜 横光利一(32)
8 谷崎潤一郎&佐藤春夫 夫人「譲渡」事件
9 * ナップ(ナップ機関誌)創刊〜S6/11
11 聖家族 堀辰雄(25) 浜口首相狙撃事件
6 1931 1 睡眠(詩集) 青柳瑞穂(31) 「のらくろ二等卒」(漫画・田河水泡)連載開始
2 丹下氏邸 井伏鱒二(33)
4 銭形平次捕物控〜 野村胡道(48) オール読物(文芸春秋社)創刊
6 戯曲 一本刀土俵入 長谷川伸(47) 雄鶏(小田嶽夫、田端修一郎編)創刊〜S7/6
8 仕事部屋〜 井伏鱒二(33)
10 つゆのあとさき 永井荷風(51)
11 清貧の書 林芙美子(27) * ナップ解散
11 鞭を鳴らす女〜 岸田国士(41) * 日本プロレタリア文化連盟(コップ)結成
12 井伏鱒二(33) 新宿ムーランルージュ開場
12 * プロレタリア文化(コップ機関誌)創刊〜S8/12
7 1932 1 上海事変
1 新文芸時代(伊藤整、上林暁ら)創刊〜S7/10
1 * 働く婦人(コップ出版部)創刊〜S8/4
1 * プロレタリア文学(日本プロレタリア作家同盟機関誌)
創刊〜S8/10
3 * コップに大弾圧。6月までに中野重治ら多数検挙
5 15日 五・一五事件
7 あらくれ(秋声会)創刊〜S13/11
8 青年〜 * 林房雄(29) 麒麟(田畑修一郎ら)創刊〜S8/9
10 女の一生〜 山本有三(45)
8 1933 1 ヒトラー、ドイツ首相(ナチス政権)就任
2 * 小林多喜二検挙、築地警察署の取調べにより急死
3 人生劇場 青春編〜 尾崎士郎(35) 日本、国際連盟脱退
3 魚服記 太宰治(23) 海豹(今官一ら)創刊〜S8/11
5 若い人〜 石坂洋次郎(33) 四季(第一次、季刊 堀辰雄編)創刊〜S8/7
6 春琴抄 谷崎潤一郎(46) * 共産党幹部 佐野学、鍋山貞親 転向を声明
* この後、文学関係者の転向多数
10 大衆倶楽部(山岡荘八ら)創刊〜S10/9
10 行動(船橋聖一、阿部知二ら)創刊〜S10/9
10 文学界(川端康成、小林秀雄ら)創刊〜S19/4
11 文芸(改造社)創刊〜S19/7
9 1934 1 紋章〜 横光利一(35)
    1 丹下左膳〜 林不忘(34)
2 * ナルプ解体
2 直木三十五没(43)
3 青ヶ島大概記 井伏鱒二(36)
4   鷭(壇一雄、古谷綱武ら)創刊〜S9/7
4 世紀(尾崎一雄、外村繁ら、三笠書房)創刊〜S10/4
5 白夜 * 村山知義(33)
5 日本剣豪列伝〜 直木三十五(-)
7 あにいもうと 室生犀星(44)
10 鶴八鶴次郎 川口松太郎(35) 四季(第二次、月刊 堀辰雄、三好達治ら)〜S19/6
12 ロマネスク 太宰治(25) 青い花(今官一編)創刊〜1冊のみ
10 1935 1 第一章 * 中野重治(33) 芥川賞・直木賞制定(文芸春秋)
1 草筏〜 外村繁(32)
1 真実一路〜 山本有三(47)
1 夕景色の鏡(雪国)〜 川端康成(35)
2 逆行 太宰治(25)
2 故旧忘れ得べき〜 * 高見順(28)
3 日本浪漫派(亀井勝一郎ら)創刊〜S13/8
4 蒼氓 石川達三(29)
4 鈴木・都山・八十島 * 中野重治(33)
5 集金旅行〜 井伏鱒二(37) 歴程(高橋新吉、中原中也ら)創刊
8 宮本武蔵〜 吉川英治(43)
9 芥川賞:第一回授賞=蒼氓(石川達三) 
直木賞:第一回授賞=鶴八鶴次郎等(川口松太郎)
10 木靴(外村繁、浅見淵ら)創刊〜S11/2
11 日本ペンクラブ結成(島崎藤村会長就任)



文学史に関しては主に次の図書を参考にした。    (H14/10UP)

・『大正文学史』     瀬沼茂樹著(昭和60年)
・『昭和文学史論』  久保田正文著(昭和60年)
・『日本近代文学年表』  小田切進編(平成5年)



(四)平野屋酒店 = 荻窪文士で出発進行!! (六)天沼の弁天通り = 太宰が来た、夢声も大先輩!!

HOME (総目次)