第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(四) 平野屋酒店 == 荻窪文士で出発進行!!

井伏鱒二は、昭和2年(1927)5月に、早稲田鶴巻町の下宿「南越館」から荻窪へ越してきた(29歳)。
新居が建つまでの約半年間を荻窪駅北口の「平野屋酒店」に下宿した。新居完成で結婚、習作に身を
入れ、代表作の一つ「山椒魚」を発表(S4/5)、さらに初の小説集「夜ふけと梅の花」を刊行する(S5/4)。

   ★ 二階からの眺め ★

     [様相一変]

井伏は、郷里の兄に<明窓浄机の境地>を訴えて建築費を送ってもらって、
昭和2年5月から10月にかけて新居を建てた。この間下宿生活をしたのが、
「平野屋酒店」の二階である。(現在の公生堂ビル(「はじめに」に詳記あたり)

<東側の窓を開けると、一面の麦畑で、斜め右手に十字架を立てた教会の屋根が見え、
その左に荻窪の三本松というアカマツの大木を取り囲むクヌギ林が見えた。西側の窓からは、
街道沿いに商店と空地が半々ぐらいの割で飛び飛びに並んでいるのが見えた>とある。

ところで・・地元には、「当時の天沼教会には十字架は無かった」 という有力な説がある。
同教会の公式HPの写真によれば、現在の教会堂は1983年(S58)の献堂で屋根の上に
十字架があるが、当時の会堂は「1917年(T6) 献堂」で、三角屋根の上に十字架はなく、
「荻窪風土記」執筆時の会堂(1959(S34)献堂)も壁面には十字架があるが屋根にはない。

地元の古老矢嶋又次作 「大正初期建築の天沼教会」絵図の屋根 には十字架があるので、
井伏はこの絵図に基づいて十字架が見えたと綴ったのだろう。 (H28/6記:詳細別記



今、二階の同じ窓を開けたとすると・・・現在の天沼教会の十字架が見えるだろうか?
二階からでは、見えるのは視界を遮る家々やビルの壁だけかもしれない。
本編に記された、青梅街道や、荻窪駅周辺、横丁や教会通り(当時は弁天通り)の店が
今にどのくらい引き継がれているのか、様相は一変していてわかり難い。
同じ店名はわずかに目にできる程度である。
そして、空いた土地はあっても「空地」はない。

なお、涌田佑編「井伏鱒二事典」(H12:明治書院)による平野屋酒店の所在場所は、
青梅街道南側沿い、四面道から西方向の荻窪八幡寄りで、本編の記述とは異なる。
この根拠を発行所に照会したが、編者は死去されており不明とのこと。(H27/8記)。

     [カンノンオンダシ]

本編に、<・・・、そこから通称「カンノンオンダシ」の横丁に折れ・・・、> とあるが、
これは現在の「白山通り」が青梅街道に出たところ(現在、片側は西友)のことである。
ここから荻窪駅西口へ、白山神社へ、そして中央線と環八が交わるガードへ出る道筋で、
環八を渡った角にある「光明院」のご本尊、観音様に因む地名であった。

現在では「カンノンオンダシ」の通称名を使う人は皆無といっていいだろう。

     [八丁通り]

本編に、八丁通りは <四面道から西にかけて有馬屋敷、八幡神社あたりまで>
とあるように、この間の青梅街道(約1km)を指すが、『杉並歴史探訪』によれば、
もともと「八町」が、大正の終わり頃から「八丁」になったもので、
この頃までは荻窪駅前あたりよりはるかに賑わっていた。

現在(H14)、荻窪八幡神社の向かい側に、日産自動車の工場(元は中島飛行機製作所)跡地、
荻窪消防署、荻窪警察署、荻窪郵便局などがあるが、かっては同神社側に約15,000坪の
広大な有馬頼寧(明治17年〜昭和32年)伯爵邸があり、向かい側には井荻町役場があった。
内田秀五郎町長が井荻町の区画整理や水道事業などに活躍した拠点だった。
薬王院桃井第一小学校は往時と変らず、現在の荻窪警察署と荻窪郵便局の間にある。

 
    ★ 結婚・荻窪生活スタート ★

     [地元の人々] 

      少年駅員 ・ 銭湯の奥瀬青年

井伏は「荻窪〜新宿間の定期券で、乗降客の少ない昼間の時間帯に、食事等のため
毎日乗降していたので、自然少年駅員と親しくなり英語の勉強の手助けを頼まれたり、
平野屋前の銭湯「武蔵野湯」で知り合った奥瀬さんという青年と野球チームを作って
西荻窪のチームと試合をした(*)。」(要約)とある。

      お隣の本望さん ・ 日銀の吉瀬さん

さらに井伏と同じ時期に新築した隣家の本望さんが昭和7年に急逝したことに触れている。
「幼子を抱えた未亡人は、一周忌後、井伏の家の井戸端にヒノキ材の長い頑丈な梯子を
置いて夜明け前にこっそり立ち退いたようだ。無言の置き土産と解釈し大事に扱った。

2年近く空家の後に入った日銀勤務の吉瀬さんは庭でゴルフの練習をした。
うるさい音に閉口しているところへ“打球棒”が飛んできたことがあったが、
その翌月くらいに転勤で引越すと、佐藤さんという老夫婦きた。」(要約)とある。

      再 会

       そして30年〜40年を経て・・

「昭和40何年かに、奥瀬さん(*)が忍者研究家としてテレビ出演していたのを見た。
本望さんのご長男は井伏宅を訪ね、隠し芸の落語を披露して帰った。
吉瀬さんは銀行の重役になっていて岩波主催の会で再会した」(要約)とある。
当時の少年駅員の消息は・・・記されていない。

新しい土地で、市井の中へ溶け込む井伏の姿が見えるようである。

ちなみに、荻窪駅の1日平均乗降客は当時1万〜1.5万人、現在は約17万人(JR)である。
また、当時の武蔵野湯のご主人は、昨年(H16)94歳で他界された。(H17/4/26:朝日新聞)

(*)さらに40年を経て・・平成23年(2011)4月9日朝日新聞朝刊(be面)に奥瀬さんを発見
「サザエさんをさがして-忍者ブーム」の記事である。「(60年代の伊賀上野に)忍者観光をなりふり
かまわず推進したのは、当時の市収入役で、69年から2期市長もつとめた故・奥瀬平七郎さん
だった。」とある。自身も忍術研究家として講演、執筆(代表作「忍術 その歴史と忍者」)に活躍し、
市職員には忍びの技を習得させて実演させたという。 井伏はこの実演をテレビで見たのだろう。

ただ、ネット情報によれば、「奥瀬平七郎=1911(M44)〜1997(H9):早稲田大学政経学部出身」
とあり、井伏と馬が合って野球をしたのが昭和2年(1927)とすると、奥瀬さんはまだ16歳である。
井伏が書いた奥瀬さんは青年で渋谷の方の会社勤務とあり、井伏に何か勘違いがありそうだ。
野球チームには奥瀬さんの弟もいたとあるので、平七郎さんはこの弟の方かもしれない・・。

     [中央沿線には三流作家]

近く(阿佐ヶ谷)に住む文学仲間として、青柳瑞穂蔵原伸二郎、那須辰造の
名前が記されている。「蔵原からは高利貸を紹介してくれ」と頼まれたという。

高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪の地に、次々と文学青年が引越してきた時期で、
<阿佐ヶ谷将棋会(後出)>で交友が広まり、年とともに文壇の一大人脈となっていく。
井伏は、いつしかその中心人物となった。

前出の<荻窪八丁通り>に次のように記されている(要約)のが面白い。

「この頃、文学青年の間では、引越が流行のようになっていた。
中央沿線方面には三流作家が移って行く。それが常識だと言う者がいた。
荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いても、近所の者が後ろ指を差すようなことは
ないと言う者がいた。貧乏な文学青年を標榜する者には好都合なところである。」

当時は、新開地として地代、家賃が廉かったことも確かである。

     [嵌められた・借金は続いた]

新居の建築は、知人に建築費の全額を支払って任せたが、建前をすませたところで
大工の棟梁が雲隠れしてしまった。 <初めからこちらを嵌める腹で、・・(中略)・・
この通俗な手に乗せられた自分の甘さがいまいましい。> と無念の心中を表わしている。

高利貸から借金して、新居はいわゆる安普請となったが出来上がり、
下宿生活は10月にかけて終わった。
この時に結婚して新居での生活が始まったのである。

      習作に身を入れる

「郷里の兄の援助があって高利貸には全額返済したが、平野屋の酒代ばかりでなく
米屋や、炭屋、質屋にいつも借金があって、子供が生まれてからも毎月のように月末の
支払がうまくいかなかった。」(要約)と経済的に苦しい時を過ごしていたことを記している。
それは、一方で収入にはなりにくい <習作に身をいれることにした> ことによる。

      梯子でシーソー

本編に「歳末閑居」と題して当時(昭和8年頃)の貧乏生活ぶりを詩にしている。
本望未亡人が残した梯子を材料に、年末を恬淡として長閑に過ごす風ながら、
手元不如意の現実をしっかり受けとめる様子を写した当時の作で、
井伏の生き方、作風が端的に窺えるように思う。

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時代は、金融恐慌(昭和2年)、張作霖爆殺事件(同3年)、世界大恐慌・大不況(同4年)、
金解禁・浜口首相狙撃事件(同5年)、満州事変(同6年)、上海事変、5・15事件(同7年)、
国際連盟脱退(同8年)と混迷の度を深め、2・26事件(同11年)へ、第二次世界大戦へと続く。

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@@@ 雑記帳 @@@

    (1) 「光明院」 = 「荻寺」 = 「荻窪の観音様」 

      七堂伽藍があった?         

「光明院」は、和銅元年(708)創立の伝承がある真言宗の古刹で「荻寺」と呼ばれ、
「荻窪」の地名の由来になったともいわれている。

南北朝時代(14世紀)作の千手観音像がご本尊で、「荻窪の観音様」と親しまれ、
『杉並風土記 上巻』には、大正初年頃までは境内で「馬がけ」や「大護摩」「盆踊り」
といった大規模な行事が盛大に行われていたが、境内が狭くなって衰えていったとある。

      境内は 中央線に, 荻窪駅に, 環八に !

現在、線路に接して小さく位置しているが、往時には七堂伽藍の大寺院であったと伝えられ、
『新天沼・杉五物がたり』によれば、広大な寺領地は明治政府の宗教政策で大きく減らされ、

次いで、現中央線敷設時また荻窪駅設置に際して所有する土地を提供、
さらには線路の複々線化、環八道路拡幅、立体交差化で削られて現在に至っている。

線路を挟んで反対側に光明院の墓地があり、線路下に作られた狭いトンネルで繋がって
いることで、わずかにその歴史が偲ばれるが、これらの経緯を知る人も今は少ない。

     「カンノンオンダシ」 = 観音押出し

『新天沼・杉五物がたり』によれば、「白山通り」は荻窪駅西口開設後の命名で、
もともとは、光明院とともにあり、「観音みち」その後「観音通り」といわれたこともあった。
「オンダシ」は大きな道との出合いの呼名で使われ、「押出し」が訛ったものである。

『杉並風土記 上巻』によれば、この方面の農家が野菜類を手車に積んで出荷する時、
この道を家族で青梅街道まで後押ししたので生まれた地名で、
区内には他に「馬橋押出し」「田端押出し」「保久屋押出し」があるとのこと。

    (2) 習作に身を入れ ・・・ 名作誕生

       直木賞受賞!

井伏が自ら設計した新居は、トラブルのため不本意な安普請となったが、
各所を補強、改増築して住み続け、その書斎からは数々の作品が発表されていった。

新居で<習作に身を入れることにした>作品の発表で、井伏の評価は高まっていった。

昭和4年には、大正12年発表の「幽閉」を書き改めて「山椒魚」を発表した。
また、『阿佐ヶ谷文士村』によれば、「昭和6年に発表された小説「丹下氏邸」で
井伏は初めて正当に評価されたというのが大方の見解である」とされる。

そして昭和13年2月に「ジョン万次郎漂流記」で第6回(昭和12年下半期)直木賞を
受賞し、広く世に知られるところとなった。

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「山椒魚」のこと ・・・

「山椒魚は悲しんだ。」で始まる短篇小説「山椒魚」は、井伏の代表作の一つとされている。
この作品は、大正12年(井伏25歳)に同人雑誌「世紀」に発表した「幽閉」を、
昭和4年5月(31歳)に書き改めて「山椒魚-童話-」と改題し「文芸都市」に発表したもので、
さらに、翌年(S5/4)、作品集「夜ふけと梅の花」刊行に際し、「山椒魚」として収録した。

頭が大きくなりすぎて、岩屋の出口から永久に外に出られなくなった山椒魚が
悲嘆にくれる話だが、冒頭の一行、「山椒魚は悲しんだ。」以外はすべて書き改められて、
この作品が高い評価を得た。

しかし昭和60年(87歳)に、井伏は自選全集(新潮社)を編むに際して、
作品の結末部分(「ところが」以後最後までの十数行)を削除した。
そのため、その「山椒魚」と、以前の「山椒魚」では読後感が全く異なる。

「文学作品の価値」について考えさせられるところである。
今(平成14年)なら井伏はどうするだろう? 

ところで・・、「山椒魚」について、井伏は “チェーホフの「賭け」を読んだ感動で書いた” というが、
粗筋は全く異なる。というより、同じロシアの作家シチェドリン著「賢いカマツカ」によく似ていると
いう指摘が多い。(註:カマツカ=コイ科の淡水魚)。しかし井伏はこのことに全く言及していない。
井伏ファンならずとも多くの文学ファンが戸惑うことの一つだろう。 (H18.1.7 「ところで・・」追記)

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最初の作品集「夜ふけと梅の花」を刊行!!

昭和5年4月に井伏は初の創作作品集「夜ふけと梅の花」を新潮社から刊行した。
<習作に身を入れることにした>結果で、井伏文学の出発点が揃っている。
この頃には「ほぼ文壇的地歩を築いた感がある。」(『井伏鱒二全集 別巻2 年譜』)という。
「所収作品」と(初出年/月))を収録順に記す。

・「朽助のいる谷間」(S4/3),  ・「炭坑地帯病院−その訪問記」(S4/8),
・「山椒魚」(S4/5),   ・「ジョセフと女子大学生」(S5/1),   ・「埋憂記」(S2/9),
・「休憩時間」(S5/2),  ・「シグレ島叙景」(S4/11),  ・「鯉」(T15/9)
・「生きたいという」(S5/1),  ・「岬の風景」(T15/2),  ・「遅い訪問」(S3/7),  
・「寒山拾得」(T15/1),  ・「うちあわせ」(T14/1),  ・「夜ふけと梅の花」(T14かT13)
・「屋根の上のサワン」(S4/11),  ・「一ぴきの蜜蜂」(S4/7)

なお、講談社文芸文庫の一冊 「夜ふけと梅の花・山椒魚」(H9・1997発行)には、
このうち「鯉」を除いた15編と「幽閉」の計16編が収められている。
「山椒魚」は結末を削除した方だが、巻末の「解説」に削除部分を掲載し、丁寧な説明がある。

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     太宰 治の結婚式・・・

太宰治は井伏を師と仰いだことが知られているが、きっかけは上記「幽閉」にある。
この作品を、偶々当時(大正12年)青森にいた14歳の中学生(後の太宰治)が読んで
「埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮した」のである。
(『井伏鱒二選集第1巻 後記(太宰治)』(S23・筑摩書房)より)

昭和5年に太宰は東大仏文科に入学、井伏に強引に面会を求めて、同年5月に初対面となった。
(後出<善福寺川>に詳述あり)。そして昭和8年に井伏宅から徒歩10分の天沼に引越してきた。

昭和14年1月には、太宰はこの井伏宅で井伏夫妻の媒酌で石原美知子と結婚式を行っている。


リンク情報 (写真)  井伏宅での太宰治結婚式

日本近代文学館
→ 写真検索 → 井伏鱒二(P0002213)

前列左から 井伏夫人・石原美知子・太宰治・井伏鱒二
後列中央 中畑慶吉・右端 北芳四

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徴用、戦争、疎開、終戦、と激しく時が流れたが、井伏は空襲を免れたこの家に
昭和22年7月に戻り、執筆に、文壇活動に、第一人者として活躍を続けた。

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    (3) 新居は旧居に ・・・ 旧居復元(杉並区立郷土博物館)

自ら設計し、数々の名作を生み、どれだけ多くの文人、マスコミ人、近隣、友人、知己の
交友の場となったか知れないこの家も築後32年、
さすがにその時期を迎え、昭和34年4月に取壊し、建替えが行われた。
(旧居は千葉県大原町に、知人の所一哉の手で移築、復元された。)

杉並区立郷土博物館には昭和2年新築時の復元模型が展示されている。
小さな博物館であるが、特別展・企画展の合間には「杉並文学館」が開設されていて、
井伏鱒二を中心とした阿佐ヶ谷文士が紹介されている。

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同博物館編集・発行の冊子 (同館および杉並区役所で購入できる。)
「杉並文学館--井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士--」〜700円
「井伏鱒二と”荻窪風土記”の世界」(生誕百年記念特別展)〜1000円

この2冊子には、同博物館所蔵の資料類がカラーで紹介され、住居復元の過程や図面、
阿佐ヶ谷文士の活躍振り、阿佐ヶ谷会開催状況、年表、が掲載されている。
「荻窪風土記」の世界を歩く面白さがさらに膨らむ内容と思う。

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     蛇足ですが ・・

展示室を入るとすぐ、「昭和時代」のパネルと展示品が目に飛び込んだ。
“木製の氷冷蔵庫, 七輪, お釜, おひつ, たらい, 洗濯板” が展示され、台所の模様が絵で
示されている。昭和2ケタ(10年代)生まれの者として、懐かしさとともに大変なショックを受けた。

最早、私の過ごした日々は博物館入りなんだ!!

<時のたつのが早すぎるような気がする。>(井伏:<荻窪八丁通り>)


   杉並区立郷土博物館       住所 杉並区大宮 1-20-8 
                       TEL  03-3317-0841

観覧料: 100円 中学生以下無料
      (特別展の場合には別途)
 休館日: 毎週月曜日・第3木曜日(祝日は翌日)、12/28〜1/4 
 

                                                 (H14/9UP)


(三) 震災避難民 = 仲間達は無事だった!! (五) 文学青年窶れ = 中央線に群れた!!

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