第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(三) 震災避難民 == 仲間達は無事だった!!

  ★ 立川駅に避難民列車 ★

   てくてく歩いた30km!

JR時刻表で高円寺駅〜立川駅間は21.4qで、敷設時の事情で一直線の区間である。
井伏は9.月9日(早朝に高円寺の光成宅を出発し、主にこの線路道をてくてく歩いた。
多少の危険はあるが、立川まで迷うことのない最短距離の一本道である。

本編に<阿佐ヶ谷駅はホームが崩れて駅舎が潰れていた。荻窪駅は・・・(中略)・・・
貨物積みのホームがちょっと崩れていたが大した被害は受けていなかった。>とある。

阿佐ヶ谷駅は前年(T11)7月開業であったが、『杉並区史(下巻):関東大震災と
杉並の地域』によると、「地盤が弱かったのでホームが崩れて駅舎も壊れ、汽車は
1ヶ月以上も停車できなかった。」(「杉並第7小学校五十年史:北島英一氏談」から)という。

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10年後(S7)に杉並区となるこの界隈(4ヵ村)の被害は市部に比べれば微小だった。
(高円寺・阿佐ヶ谷駅は杉並村、荻窪・西荻窪駅は井荻村)    

村名 死者・
行方不明
負傷者 住宅
全潰戸数

半潰戸数
焼失
家屋戸数
(大正11
年末戸数)
杉 並 0 0 10 39 0 (1,800)
井 荻 0 1 2 17 0 (1,341)
和田堀内 0 1 10 24 0 不明
高井戸 0 0 6 22 0 不明
0 2 28 102 0 -

(『杉並区史』(杉並地内村別震災被害状況表「東京百年史第4巻」より)による)

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本編に、「荻窪駅では南口の蕎麦屋(後に稲葉屋さんと知った)の前の広場で茶の接待があり、
避難民に鉄道の情報を知らせていた。塩尻・名古屋経由で帰れると分かった。
西荻窪では堂々たるクヌギ林があるのを目に留め、その木立の中へ入って通り抜けた。
また線路道に引き返して歩いた。立川駅には避難民が乗る汽車があった。」旨ある。

下戸塚を7日に出発、まだパニックが残る中、約30kmを歩き、9日に立川駅に着いた。
この日の夕方に甲府駅に着いているので立川駅に着いたのは午後1時か2時頃だろうか。

)実際は、9月8日だったのではないだろうか。(詳細は、別項「中野の1泊」参照)

   駅、駅、駅で人の情!

井伏は西荻窪でクヌギ林に入って観察する余裕を示している。用を足したのかもしれないが、
中野、高円寺で人の情に触れ、荻窪での湯茶接待と的確な情報とで気を強くしたせいだろう。

本編に、「避難民が乗るのを待っている列車があり、避難民は乗車券が不要だった。」
「甲府駅に着いたのは夕方」とある。井伏が乗ると直ぐに発車したのではないか。
立川から96.6km、現在の普通電車で約2時間を要する。2倍位はかかっただろう。

本編は概略次のように続く。「甲府では愛国婦人会や女学生の団体の出迎えがあって
弾豆の差し入れを受けた。上諏訪駅、塩尻駅でも弾豆を貰った。
塩尻で草履を買ったが、店のお上は避難民からは頂けないと代金を受け取らなかった。

夜明けは中津川駅だった。そこで握飯、味噌汁、薄皮饅頭の接待を受けた。
味噌汁が美味しくてお代わりをした。
名古屋駅ではホームに水と洗面器とタオルが用意されていた。饅頭の接待も受けた。」

立川から名古屋まで中央本線で約360km、この時は16〜17時間を要したと思うが、
各駅での人々の暖かい応対に感動した避難行程であったことが窺える。

井伏は「同じ避難列車でも、太平洋戦争の頃の駅頭風景とは違っている」と表わしている。

名古屋駅から普通の列車に乗り換えて東海道、山陽本線を400km余、福山着。
記述通りの行程なら、郷里に落ち着いたのは9月10日の夕方を過ぎた頃になる。

  ★ 文学仲間の消息 ★

福山で受け取った友人の小島徳弥の手紙は、この年の1月に「文藝春秋」を創刊した
菊池寛(34歳)が、5月に「蝿」、「日輪」で華々しく文壇に登場した愛弟子の横光利一(25歳)
を捜して早稲田界隈の街を幟を立てて歩いていたこと、人気絶頂の新国劇の沢田正二郎が
一座で罹災者たちに握飯を提供したことなどを伝え、井伏に東京へ戻るよう勧めていた。

井伏は10月に東京へ戻り、元の「茗渓館」に下宿。文学青年仲間を訪ねたが皆無事だった。
本編には、小島徳弥のほか同窓、同年輩の同人仲間などの名前が載っている。
横光利一、冨ノ沢麟太郎、藤森淳三、古賀龍視、中山義秀、小島勗、小林龍男、などである。

参考サイト 早稲田と文学 横光利一など早大関係者

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本編に「光成信男は、『今日は三越 明日は帝劇』と、カルピスの『初恋の味』の標語は
江部鴨村(仏教学者)の発案であると言った」とあるが・・。
光成は井伏の早稲田の数年先輩で井伏を岩野泡鳴の創作月評会に連れていった。
江部もその会員であった。江部は晩年の岩野とは臨終に立ち会ったほど親密だった。)

「初恋の味」については驪城(こまき)卓爾というカルピス創業者の後輩の作と次のサイトある。

参考サイト カルピス 初恋の味 (カルピス企業情報)

「三越・帝劇」に関しては、『帝国劇場開幕』(中公新書)に「今日は帝劇 明日は三越」として
三越宣伝部の浜田四郎が作者であると詳しく紹介されている。
(帝劇入場者用なので「今日は“三越”」ではなく“帝劇”である。)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 蛇足ですが ・・・ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

** 三越 と 帝国劇場(帝劇) ** 

『帝国劇場開幕』(中公新書)には、帝劇設立の背景、経緯から主として関東大震災までの
歴史が詳細に記されており、サブタイトルは「今日は帝劇 明日は三越」である。
同書の中で両者の関係に触れているが、その内容は、極く大雑把には次の通りである。

帝劇は明治44年3月に開場した。建物の設計は横河民輔(実業家としても活躍)である。
三越呉服店の建物は大正3年の完成だが、この設計も同じ横河民輔である。

三越の前身が呉服店「越後屋」であることはよく知られている。(1673年開店)
それが明治期に入り合名会社三井呉服店となり、さらに株式会社三越呉服店(M37)と
組織換えして三井本家から独立した「三越」が誕生、百貨店を目指す近代化経営が奏効し
業界首位の座を固めていった。

この経営戦略で重要な役割を果たしたのが宣伝広告であった。
浜田四郎(M6〜S27)はその三越の宣伝部にスカウトされ(M38)、目覚しい活躍をしていた。

帝劇開場に合わせて、三越は「東洋一の劇場」とのタイアップを強くアピールし、
大正初年には(これ以上正確には不明)「帝劇の筋書」に初めて「今日は帝劇 明日は三越」
のコピーが登場した。(同書には「帝劇プログラムの三越広告」の写真が2枚載っている。
竹久夢二の描く婦人像の横にこのコピーが印刷されている。)

このコピーには賛否とも大きな反響があった。三越内部にも強い反対論があったが
大正7年頃まで使用され、浜田の大阪転勤と同時に「帝劇の筋書」からこのコピーが消えた。

     == 延焼したが倒壊せず ==

関東大震災では、帝劇は午後2時頃、三越は同9時30分頃、延焼で炎に包まれたが
ともに倒壊はしなかった。三越は翌月から仮修復で一部営業を再開、その後本格的な
改修工事を行い、全館の大改造、増築工事が完了したのは昭和10年であった。
帝劇は内装、客席を大幅改造し、翌年(T13)10月再開した。いわゆる「大正帝劇」である。

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井伏は「今日は三越 明日は帝劇」と書き、普通にもそのようにいわれていると思う。
帝劇のパンフレットへ載せるなら当然「今日は帝劇」であるが、パンフを離れれば
「今日は三越」が自然である。三越の名コピーとしてこの形で語り伝えられたのだろう。

三越も帝劇も修築は設計者の横河の手で行われたが、帝劇はその後経営が松竹へ(S5)、
東宝へ(S12)と移り、昭和39年閉場。取壊して再建築されたので横河の設計の面影はない。
三越(現在の日本橋三越本店)は、基本的には当時を引き継いでいる。

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** 沢正(沢田正二郎) と 新国劇 **  

新国劇は、早稲田大学を卒業した沢田正二郎(24歳)が大正6年(1917)に創立した。
4月の旗揚げ公演(東京の新富座)は興行的に失敗で、京都(南座)、大阪(角座)へ移った。
関西で苦闘中に新しい殺陣(タテ)を案出、いわゆる「剣劇」を創始して大衆の人気を得た。

大正9年6月に上京、明治座公演が成功し新国劇の名は沢正の愛称とともに高まった。
劇団は順調に発展したが、昭和4年、沢正は中耳炎をこじらせて36歳の若さで急逝した。

後継者に、共に23歳だった座員の島田正吾(T12入団)と辰巳柳太郎(S2入団)が抜擢され、
正反対といわれる性格の2人の「コンビの妙」で戦前、戦中、戦後の幾多の苦境を
乗り切ったが、時勢には勝てず昭和62年(1987)に劇団70年の歴史に幕を下ろした。

島田正吾が『ふり蛙 新国劇70年あれこれ』(朝日文庫)を書いている。
以下は同書によるものである。

「新国劇」という名称は沢正の早稲田大学の恩師坪内逍遥が命名したと聞いている。
劇団のマークは柳に飛びつく蛙をデザインしたものだった。

沢正は、「右に芸術、左に大衆」の半歩前進主義をモットーとし、
大阪で上演した「国定忠治」や「月形半平太」が大衆の絶大な支持を得て東京に進出した。

島田は大震災の年(T12)の初夏、劇団が浅草で公演している時に入団した。

     == 警視庁で被災 ==

入団してすぐに関東大震災に遭ったが、この時沢正以下百余名の座員は警視庁にいた。
「象潟事件」で留置されていた浅草象潟警察署から朝10時頃移送されたのである。
(島田は事件の様子を詳しく書いているが、概略は本編<震災避難民>にある通りである。)

座員一同は縄付きのまま宮城前広場に避難させられ、帝劇の屋上が煙に巻かれるのを見た。
(当時の警視庁は帝劇の直ぐそばにあった。前掲『帝国劇場開幕』によれば、
「午後2時頃に警視庁から帝劇屋上の「翁の像」に飛び火し内部に延焼した」とある。)

夕方、火の手が激しくなって釈放となり、その夜は沢正以下同勢47名は上野公園で過ごした。
この直後、新国劇は市民慰安のために日比谷の野外大音楽堂で3日間「勧進帳」他を公演した。

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本編<震災避難民>に「沢正が新国劇を率いて罹災者のためにお握りを配った」旨あるが、
島田はこのことには全く触れていない。事実なら島田が知らないはずはなく、書くはずである。
井伏も後で確認しているように、「沢正ならあり得ること」という流言飛語の一つだったのだろう。

島田正吾は今年(H15)98歳。辰巳柳太郎は平成元年没(享年84歳)。
その後に活躍の俳優、緒方拳(H20没:享年71歳)、若林豪は新国劇出身である。

(島田正吾は、平成16年11月26日 99歳を目前に没 -- また一人、関東大震災を語れる人が逝った。)

  ★ 大地震に備える ★

「井伏や向かいの家の矢口さんは、ちょっと揺れても外に飛び出した」と本編にある。
大震災を体験した人に多く見られる習性のようだ。

現在は、外に飛び出すよりも、まず机の下に入って身を守ること、火を消すこと、
出口を確保すること、避難は最後の手段であること、等々の広報活動が行われている。

平成10年以降、日本で人的被害(負傷・死亡)があった「震度6弱」以上の地震は次の通り。
(気象庁の資料(HP)から抜粋 = 詳細は下記リンク情報参照)

発生年月日 M 現在確定の震央地 (気象庁命名の地震名) - 「政府による命名 最大震度
H10(1998).9.3 6.2  岩手県内陸北部 6弱
H12(2000).7.1 6.5  新島・神津島近海 6弱
H12(2000).7.15 6.3  新島・神津島近海 6弱
H12(2000).7.30 6.5  三宅島近海 6弱
H12(2000).10.6 7.3  鳥取県西部 (平成12年(2000年)鳥取県西部地震) 6強
H13(2001).3.24 6.7  安芸灘 (平成13年(2001年)芸予地震) 6弱
H15(2003).5.26 7.1  宮城県沖 6弱
H15(2003).7.26 6.4  宮城県中部 6強
H15(2003).9.26 8.0  十勝沖 (平成15年(2003年)十勝沖地震) 6弱
H16(2004).10.23 6.8  新潟県中越地方 (平成16年(2004年)新潟県中越地震) 7
H17(2005).3.20 7.0  福岡県北西沖 6弱
H17(2005).8.16 7.2  宮城県沖 6弱
H19(2007).3.25 6.9  能登半島沖 (平成19年(2007年)能登半島地震) 6強
H19(2007).7.16 6.8  新潟県上中越沖 (平成19年(2007年)新潟県中越沖地震) 6強
H20(2008).6.14 7.0  岩手県内陸南部 (平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震) 6強
H20(2008).7.24 6.8  岩手県沿岸北部 6弱
H21(2009).8.11 6.5  駿河湾 6弱
H23(2011).3.11 9.0  三陸沖 (平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震) - 「東日本大震災  7
H23(2011).3.11 7.6  茨城県沖(3.11の余震)  6強
H23(2011).3.12 6.7  長野県北部(3.11の余震)  6強
H23(2011).3.12 5.9  長野県北部(3.11の余震)  6弱
H23(2011).3.12 5.3  長野県北部(3.11の余震)  6弱
H23(2011).3.15 6.4  静岡県東部(3.11の余震)  6強
H23(2011).4.7 7.1  宮城県沖(3.11の余震)  6強
H23(2011).4.11 7.0  福島県浜通り(3.11の余震) 6弱
H23(2011).4.12 6.4  福島県中通り(3.11の余震) 6弱
H25(2013).4.13 6.3  淡路島付近  6弱
H26(2014).11.22 6.7  長野県北部 6弱
H28(2016).4.14 6.5  熊本県熊本地方 (平成28年(20016年)熊本地震) 7
H28(2016).4.14 5.8  熊本県熊本地方 6弱
H28(2016).4.15 6.4  熊本県熊本地方 6強
H28(2016).4.16 7.3  熊本県熊本地方(本震) 7
H28(2016).4.16 5.9  熊本県熊本地方 6弱
H28(2016).4.16 5.8  熊本県阿蘇地方 6強
H28(2016).4.16 5.4  熊本県熊本地方 6弱
H28(2016).6.16 5.3  内浦湾 6弱
H28(2016).10.21 6.6  鳥取県中部 6弱

参考サイト 気象庁 震度解説、主な被害地震、地震関連資料など諸情報

東京地域では島部以外では関東大震災以降は大きな地震を経験していないが、
それだけに何時きてもおかしくないことを前提に備えなければならない。


この編では主に次の図書を参考にした。               (H15/9UP)

『杉並区史 下巻』 杉並区役所(昭和57年)
『実写・実録 関東大震災』 講談社(昭和63年)
『中野区史跡散歩』 中野区史跡研究会編 学生社(平成4年)
『帝国劇場開幕(中公新書1334)』 嶺隆著 中央公論社(平成8年)
『ふり蛙 新国劇70年あれこれ』 島田正吾著 朝日新聞社(昭和63年)

『鶏肋集』(「井伏鱒二全集 第6巻」所収 筑摩書房(1997年)
『半生記』 (「私の履歴書 第42集」所収 日本経済新聞社(昭和46年)
『鷄肋集・半生記 (現代日本のエッセイ)』 井伏鱒二著 講談社(1990年)
「鷄肋集」の「「鷄」の字は、原典は鳥の部分が「ふるとり」


(二) 関東大震災直後 = 90年余が過ぎた!! (四)平野屋酒店 = 荻窪文士で出発進行!!

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