第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界
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新潮文庫(昭和62年発行) : カバーは熊谷守一
_____目 次_____
はじめに : 著者・井伏鱒二は“荻窪激変”の昭和を生きた!! |
(一) 荻窪八丁通り == 歩いてみよう荻窪!! * 昭和2年 井伏青年が見た情景 * ぶらぶら歩き30分コースご案内(略図)
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(二) 関東大震災直後 == 100年だ!! * 大正12年(1923)9月1日(土曜日) 午前11時58分 ・揺れた! ・郷里へ避難! ・100年間隔? ・井伏の感じた震度は「5-」・火災は3日間 ・恐怖の情報が理性を狂わせた etc ***** 関東大震災と阪神大震災 ***** |
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(三) 震災避難民 == 仲間達は無事だった!! * 立川駅に避難民列車 * 文学仲間の消息 *** 三越と帝劇 *** *** 沢正と新国劇 *** |
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(四) 平野屋酒店 == 荻窪文士で出発進行!! * 二階からの眺め * 結婚・荻窪生活スタート
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(五) 文学青年窶れ == 中央線に群れた!! * 同人雑誌 :文学青年のデビュー ・メダカは群れたがる ・・ 結構! * 井荻村下井草1810 * 阿佐ヶ谷将棋会 * 阿佐ヶ谷駅設置裏話
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(六) 天沼の弁天通り == 太宰が来た、徳川夢声も大先輩!! * 井伏は弁天通りの大先輩 * 弁天通に文学青年4人
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(七)阿佐ヶ谷将棋会 == 三流作家の心の支え!! * 阿佐ヶ谷将棋会小史 誕生~盛会~徴用・戦争・疎開~戦後復活~物故会員追悼(閉幕)
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(八) 続・阿佐ヶ谷将棋会 == 文士が戦場へ!! *召集令状(赤紙)がきた・・・!! *徴用令状(白紙)が来た・・・!!
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(九) 二・二六事件の頃 == 荻窪にも襲撃隊!! * 混迷の深まる中、日常が流れる * 日常の一大転機「二・二六事件」 ・花火でなく機関銃だった ・「兵に告ぐ」 “今カラデモ遅クナイ・・”
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(十) 善福寺川 == 太宰治と鮠釣り!! * 太宰治との出会い * 清流で鮠(はや)を釣る * 杉並に発し杉並に終わる一級河川 ・神田川と妙正寺川 ・ノーベル賞 小柴博士の散歩道 |
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(十一) 外村繁のこと == 豪商(近江商人)から文士に!! * 人生いろいろ ・疎開せず ・再婚 ・癌 ・「阿佐ヶ谷日記」 etc
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(十二) 阿佐ヶ谷の釣具屋 == “多師”済済!! * 将棋と絵と釣りと * 師 佐藤垢石など * 阿佐ヶ谷の釣師 |
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(十三) 町内の植木屋 == 高井戸宿・火薬庫・御犬小屋!! * 高井戸の旧家 ・内藤家の火事 ・内藤庄右衛門家 ・上質の杉丸太 *** 内藤新宿と高井戸宿 *** *** 「東京ゴミ戦争」==杉並清掃工場 *** *** 「杉並区」の名称由来 *** * 御焔硝蔵(火薬庫) ・明治大学和泉校舎 ・築地本願寺廟所 * 御犬小屋(生類憐れみの令) ・陸軍用地 ・中野区役所等々 |
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(十四) 病気入院 == 昭和8年「文芸復興」!! * 見舞い客同士、初対面 * 阿佐ヶ谷文士の昭和8年(1933) *** 同人誌「海豹」など -文芸復興の機運- *** * 太宰治・木山捷平、「海豹」でデビューのことなど |
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(十五) 小山清の孤独 == 悲運、薄幸の文士!! * 小山清 ・太宰治に師事 ・作品 * 太宰治の玉川上水心中 |
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(十六)荻窪(三毛猫のこと) == 敗戦、そして帰京!! * 乃木大将の写真を焼却 * 荻窪駅北口前 * 四面道の街路樹 * 三毛猫 VS マムシ *** 「トウカエデ」 *** *** 東京の街路樹 *** |
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(十七)荻窪(七賢人の会) == 滄桑の変!! * 荻窪病院 * 今川の観泉寺 * ”天沼八幡通り”の新本画塾 * おでん屋・魚屋・お菓子屋・銭湯・・・七賢人 * 滄桑の変・・・牛コロシの木
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「荻窪風土記」 年表 | 井伏鱒二 : 略年譜 | 昭和史(元年~25年)略年表 |
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[生涯荻窪]
井伏鱒二は、昭和2年(1927)5月、29歳の時に早稲田鶴巻町の下宿「南越館」から荻窪へ
越してきた。新居建築中の約半年間を荻窪駅(北口)に近い「平野屋酒店」に下宿した。
以来、平成5年(1993)7月10日、95歳の天寿を全うするまでの67年間をこの地に住み、
数多くの文人や地元の人々との交流を重ねながら執筆活動を続けた。
「荻窪風土記」は、この地に移って50数年を経た昭和57年(1982:井伏84歳)の刊行である。
<荻窪八丁通り><阿佐ヶ谷将棋会><二・二六事件の頃>等々、雑誌「新潮」に
「豊多摩郡井荻村」と題して昭和56年2月から57年6月まで連載した17編の随筆から成っている。
(「荻窪風土記」は、「豊多摩郡井荻村」を副題としている。)
[荻窪激変]
激動の昭和にあって、荻窪は農村から住宅・商業地へと急激に変貌した。
樹木の緑・土の香り・水の流れは、住宅に、アスファルトに、車の流れにとその姿を変えた。
その様を目の当たりにしてきた井伏は、往時の荻窪駅や青梅街道、善福寺川や
自宅界隈の情景を追想し、この地での多くの人々との出会いや親交、
激しく動いた時の流れに思いを馳せて筆を運んだのだろう。
井伏はその<あとがき>で<「荻窪あたりのこと」というつもりで「荻窪風土記」とした。
小説でなくて自伝風の随筆のつもりである。> <関東大震災で東京は急に変化して、
太平洋戦争でまた締めあげられるように変った。とにかくそういうことになってしまった。>
と書いている。
[井荻村]
井伏の新居の住所は、「東京府豊多摩郡井荻村字下井草1810」(現表示「東京都杉並区清水」
の一角)である。 荻窪駅から、教会通りを抜けても青梅街道を歩いても、徒歩約10分である。
また、新居建築中の約半年間を過ごした下宿先 平野屋酒店は、
現在は公生堂ビルがあるあたりだった。
公生堂ビル(本編では<公正堂ゼロックス店>とも)。
荻窪駅北口前の青梅街道四面道方向、北側沿い。
(1階はJTB、地階は「ぷりんとや」(コピー店)。
「ぷりんとや」は閉店(H28春頃)した。)
なお、涌田佑編「井伏鱒二事典」(H12:明治書院)による平野屋酒店の所在場所は、
青梅街道南側沿い、四面道から西方向の荻窪八幡寄りで、本編の記述とは異なる。
この根拠を発行所に照会したが、編者は死去されており不明とのことだった(H27/8)。
写真左側の路地を挟んだ隣は、あさひ銀行(H15.3.1からは銀行統合で「りそな銀行」)。
千川上水から分水して青梅街道に沿って流れていた灌漑用水は、ここで天沼田圃と
阿佐ヶ谷田圃に分岐し、天沼の流れは弁天池の流れと合流して「桃園川」になった。
この路地は天沼田圃への用水路の跡(暗渠:下水道)で、教会通りを横切って天沼
八幡神社の方向に通じ、「桃園川緑道」となって中野に通じている。 (H14年7月撮)
平成19年5月、りそな銀行の建物は建替えのため取り壊しが始まった。
1年後には新しいビルがお目見えするだろう。
平成20年5月、新ビルが完成し、りそな銀行は仮店舗から戻って営業を再開した。
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(一) 荻窪八丁通り == 歩いてみよう荻窪!!
★ 昭和2年 = 井伏青年が見た情景 ★
[田畑と雑木林と馬車]
巻頭の本編は、井伏が荻窪へ引越してきた頃(昭和2年(1927))の情景を、
土地の古老が語るその過去を交えて描いている。
「まえがき」に記した参考図書を総合すると、当時の荻窪あたりは、人家は急増していたが
まだ武蔵野の原野が残り、田や畑、雑木林や大きな木立、並木が広がる農村だった。
青梅街道は、現在とは異なり、駅の東側の大踏切で中央線と交差する旧道筋で、
道幅は10m前後、砂利敷道で雨が降るとひどい泥道となった。
道の両側には店が並んでいたが、まだ蹄鉄屋もあった。
野菜や大根漬け、肥桶等を積んだ車を馬が引いていた。
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[ご参考] 大正4年(1915)の杉並地域の土地利用=90%以上が田畑・山林原野!!
冊子「杉並区農業の歩み」の「資料」編に「大正4年産物表」があり、
そこに、豊多摩郡の4ヶ村(現杉並区)の民有地の地目の数値がある。
杉並区の100年前の姿は、田畑が70%以上、山林原野が20%で、
宅地は7%にも満たない。田畑・山林原野が広がっていたことが解る。
宅地 | 畑 | 田 | 山林原野など | 計 |
199 (6.8%) |
1,854 (63.4%) |
306 (10.5%) |
563 (19.3%) |
2,922 (100%) |
注1 : 単位は、「町」。 「1町≒0.00991736k㎡」 なので、2,922町は、約「29.00k㎡」 である。
現在の杉並区の面積は、約34k㎡で、差の約「5k㎡」は官有地などとみてよかろう。
(同資料によれば、和田堀ノ内村の官有地・免訴地は約64町で、同村面積の1割強に
相当する。道路、水路敷、学校、社寺、墓地等だが、他の村はその記載がない。)
注2 : この豊多摩郡の4ヶ村(現杉並区)は、和田堀ノ内村、杉並村、井荻村、高井戸村。
注3 : 「杉並区農業の歩み」(S50/2:編集・発行ー杉並区・杉並区農業委員会)の表には
4ヶ村別の地目と農産物が載り、「豊多摩郡誌」との表示がある。
「豊多摩郡誌」は、郡役所編集で大正5年に発行された。(S53:復刻版出版)
注4 : 本表は、「豊多摩郡誌(復刻版)」により数値を確認のうえ 「杉並区農業の歩み」の
山林原野の数値「567(町)」を「563」に修正した。
ちなみに、関東大震災(T12)から10余年、昭和10年になると・・宅地は5.7倍、40%に!!
単位 「k㎡」 | 宅地 | 畑 | 田 | 山林原野など | 計 |
大正4年 | 1.97 (6.8%) | 18.39 (63.4%) | 3.04 (10.5%) | 5.58 (19.3%) | 28.98 (100%) |
昭和10年1月 | 11.28 (39.9%) | 12.06 (42.6%) | 2.44 (8.6%) | 2.50 (8.9%) | 28.28 (100%) |
対大正4年比 | 5.73倍 | 34%減 | 20%減 | 55%減 | - |
注1 : 単位は、 「k㎡」。 大正4年(1923)の上表を 「k㎡」 に換算した。(1町≒0.00991736k㎡)
注2 : 昭和10年(1935)1月は 「杉並区史(下巻):表9-2-34 民有有租地面積」(S57)による。
なお・・、このころの人口増加状況は、別項目 「阿佐ヶ谷将棋会 第1期 出発期」 に記した。
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[田用水]
街道の北側に沿って千川上水分流の水田用水が流れ、そのまた分流や
善福寺川、妙正寺川、あちこちの湧水を水源とするきれいな灌漑用水が
そこここにめぐらされていた。
ただ、その清流は関東大震災(大正12年(1923))を境とした人口増とともに
汚染、変質が急速に進んでいて、街道沿いはドブ川化していたようだ。
井伏は、<いくら贔屓目に見ても気持ちのいい流れとはいえなかった>として、
井戸の水質を心配した訪問客(S2/12:富沢有為男)がいたことを記している。
上水道は昭和7年(1932)に「井荻町営水道」が給水を開始しているが、
それまでは、井戸の使用が普通だったのである。
なお、荻窪地区の電灯は大正10年から一般に普及したが、
電話、下水道の普及はずっと後のことである。
[鉄道は整備された]
この年(昭和2年)に中央線荻窪駅に北口が開設され(それまでは南口だけ)、現在の
西武新宿線も開通(高田馬場~東村山)し、下井草、井荻、上井草の駅が開設された。
また、荻窪駅南口を起終点として新宿までの路面電車(後の都電 杉並線)が
西武軌道会社により大正10年(1921)から運行されていた。
荻窪は膨張を続ける大都市東京の格好の住宅地として、
大震災以降の急激な変貌に拍車がかかった時期だった。
★ ぶらぶら歩き 30分~1時間 ★
|
*Olympicのビルは、平成20年、新ビル「ROOF」が完成。Olympicはなくなり、パチンコ店などが入っている。
また、東京衛生病院前の若杉小学校は、杉並第五小学校と合併し、天沼小学校となり(H20/4)、
旧五小の地に新築した校舎に移転した(H23/1)。
現在、 旧若杉小校舎の一部は保育園となっているが、最終利用はどうなるのだろう?(H24/8記)
荻窪駅北口 → 青梅街道 旧道筋(=荻窪銀座街) → 大踏切跡 →
地下道で南口へ → (プラスα) → 天沼陸橋 → 天沼八幡通り → 八幡神社
→ 弁天池跡(公園) → 天沼教会(東京衛生病院) → 教会通り → 荻窪駅北口
(所要時間 : 約2km 徒歩30分~1時間+(プラスα))
(プラスα) 「明治天皇荻窪御小休所」跡 と 区立大田黒公園
*地下道南口を出て、旧青梅街道筋を歩くと、直ぐ右にアメリカンエキスプレス社の
近代的高層ビル(=藤沢ビル)がある。そのビルの一角に(裏側の通りに面して)
古い長屋門と木立に囲まれた日本家屋が残され、「明治天皇荻窪御小休所」
(昭和11年11月建設)と彫られた史跡標石が立っている。
「史跡の指定は戦後に解除となったが、関係の方々の強い意向で標石は
そのままで建物の保全に努められている」(『杉並風土記 上巻』)とのことである。
*南口のさらに南方向約500m(徒歩10分弱)の所(荻窪3-33-2)に
昭和56(1981)年10月に開園した杉並区立大田黒公園がある。(入園無料)
音楽評論家、大田黒元雄氏(1893~1979)の遺志により寄付された屋敷跡を
整備した約2,700坪のこじんまりした閑静な日本庭園風公園である。
ある講演会で、井伏がこの公園の案内役となって散歩するビデオが放映された。
井伏宅からは徒歩で20分程度であり、時には散策に足を運んだようだ。
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もっと時間のある方は、 四面道、光明院、荻窪八幡神社、観泉寺、善福寺川、等に
足を伸ばしてみては如何でしょうか。それぞれ荻窪風土記の舞台です。
@@@ 雑記帳 @@@
(1)「八丁通り」は何処?・・・・・井伏の思い違い
井伏自身が後出の<平野屋酒店>の中で
<荻窪で昔から賑やかだったところは、四面道から西にかけて有馬屋敷、八幡神社
あたりまでの謂わゆる八丁通りであるそうだ。以前、私は八丁通りとは四面道から
荻窪駅あたりまでの街だと思っていた。>と記しているように、
標題の「八丁通り」は、荻窪駅北口前の青梅街道を指している。
この通りには昭和22年(1947)に現在の天沼橋(通称 天沼陸橋)」の西側から
荻窪駅前を経て四面道までの範囲で「荻窪北口大通り商店会」が発足しており、
「北口大通り」がわかりやすいと思う。
現在(H28)は、“教会通り”を境にして、四面道側には「荻窪北口大通り商店街」、
陸橋側には「荻窪駅前商店街」の小旗が掲げられているので別々なのだろうか。
[中央線・荻窪駅] 住民の反対で、人の少ない原野に真っ直ぐに敷設せざるを得なかった・・?
開 通!
JR中央線の前身は、明治22年(1889)4月に開通した新宿~立川
(同年8月には八王子まで)間の甲武鉄道会社線で、
明治39年(1906)に国有化され「中央線」となった。
(中央線や山手線の総称は、「省線電車」(鉄道省) ⇒ 「国電」(S24:国鉄発足)
⇒ 「JR」(S62:分割民営化でJR7社発足)と変った。民営化の際、JR東日本では
公募で「国電」を「E電」と改めて一時期使用したが定着せず「JR」が一般化した。)
一直線!
『新天沼・杉五物がたり』など多くの資料に、「この線は当初は甲州街道沿いに敷設する
計画だったが沿道住民の猛反対で断念し、次いで青梅街道沿いの二次案が検討されたが
これも田無宿の住民の反対で測量すらできなかった。そこでやむなく、住民の少ない
武蔵野台地の原野に一直線に敷設する第三案が現路線として実現した」とある。
現在、中野駅東側から立川駅までがほぼ直線なのはそうした事情があったことによる。
ちなみに、この間の事情は、中村建治著「中央線誕生」(2016/6・交通新聞社)に詳しいが、
それによれば、この直線区間は約25㎞で、現在の在来線では、JR室蘭本線(北海道)の
社台駅~沼ノ端駅間前後の約28㎞に次いで日本で2番目に長い直線ルートである。
開通時の駅は、内藤新宿-中野-境-国分寺-立川の五駅である。
「内藤新宿」は現在の新宿で場所もほとんど同じである。「境」は武蔵境。
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ところで、「中央線の一直線」 は “住民の反対運動の結果” だったのか??
「中央線は街道沿いの住民の鉄道敷設反対運動で一直線になった」 というのは、
いわば定説化した昔からの言い伝えだが、これには強い疑問を呈する論考がある。
青木栄一著「鉄道忌避伝説の謎」(2006・吉川弘文館)によれば、中央線について、
鉄道側の資料には甲州街道沿いの路線計画はなく、住民の反対に関しては、
街道に馬車鉄道を敷く計画に対し、角筈・中野・和田・和泉など9村連名の東京府
知事あて反対表明文書(M18/8)があるが、これは計画が蒸気鉄道に変更(M19/12)
される前のことであって、ルートが異なる蒸気鉄道への反対ではないとしている。
蒸気鉄道計画は1年余りの後に許可され(M21/3)、着工、翌年には開通(M22/4)
したが、その間に、住民が反対したという信頼できる客観的資料はなく、鉄道局は
蒸気に変更した際に、蒸気鉄道に適応した新たなルートを建設技術面やコスト面
から検討し、理想的と考えた武蔵野台地上の一直線ルートを決定したもので、
街道沿い住民の反対のために已むなく決めたルートではないと推定している。
(関連記事 : 杉並郷土史会会報 第255号(H28/1) ・ 第260号(H28/11))
私見で・・この蒸気鉄道は、明治16年に東京府に出願した馬車鉄道計画を変更
(M19/12)したもので、この馬車鉄道ルートに対しては、附近の住民の強い反対
運動があったことは明らかになっている。 蒸気鉄道に変更の際、鉄道側は、
同じルートにすれば、事態は一層混乱すると判断せざるを得なかっただろう。
当時、鉄道側にとって最も重要なことは、一刻も早く汽車を走らせることだった。
東京中心部と多摩地域を結ぶ物資の大量かつ高速な輸送手段を手にして
地域の活性化、発展を図り、利益を得るには待ったなしの状況で、住民説得に
要する労力・時間、高額になる用地買収費、建設費等を考慮すれば、これらを
一挙に解決できる “原野に直線” を採用したのは当然の成り行きだったろう。
逆に、反対運動がなかったとしたら・・馬車鉄道は街道沿いに完成していただろう。
とすると蒸気鉄道敷設はどうなっていたか? 推測不能としか言いようがないが、
結果的には住民の反対運動が現在の一直線ルートに繋がったともいえるだろう。
なお、付言すると、中央線の阿佐ヶ谷駅設置について、古谷久綱代議士の尽力
と現在のパールセンター通り拡幅とに関する言い伝えがあるが、史実としては
詳細の確認が必要だろう。(「文学青年窶れ-阿佐ヶ谷駅設置裏話」に詳記)
(ところで・・:H28/1追記・私見で・・:H28/9記)
荻窪駅開設!
その後、八王子、日野、大久保が開設され、次いで明治24年(1891)に荻窪駅が開設されたが、
この時は南口だけで、北口の設置(南北跨線橋方式)は昭和2年(1927)の春のことである。
井伏は、丁度この北口設置の頃に、この地に住むことを決めたのである。
ちなみに、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪の開設は大正11年7月(1922:関東大震災の前年)である。
荻窪駅は、昭和37年(1962)に地下鉄丸の内線の起終点となって、翌年には現在の地下改札口
方式による南北口が完成した。 西口改札口は、昭和35年(1960)に、地元の要請により
西口跨線橋とともに設置された。(「荻窪百点」(311号・H28/9)による)
[青梅街道・路面電車] 天沼陸橋の完成で青梅街道の道筋が変った。
新・旧の道筋は・・・
昭和2年(1927)当時の荻窪近辺の青梅街道は、
道幅10m前後の砂利敷道で、西側(四面道方面)から来ると、現在の北口交番右脇から
「荻窪銀座街」を通って駅の東側(新宿寄り)にあった大踏切で線路を渡り、直ぐに左折して
線路沿いに進んで現在の青梅街道に合流する道筋で、東側(新宿方面)から来ると、
天沼陸橋手前にある二股道の左側の道である。(右側が天沼陸橋を渡る現在の青梅街道)
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四面道方向から見た荻窪北口駅前(H14/7撮) : 新宿方向から見た天沼陸橋手前(H15/11撮)
(写真左) 左側の通りが四面道側から見た荻窪駅前の青梅街道、
右側の細い道が、駅北口バス広場を横切る旧道筋。
間にある白い壁の小さな建物は荻窪駅北口交番。
(この交番は、平成16年末に薄紫色の現代風建物に建て替えられた。)
左端奥、灰色の大きなビルは、インテグラルタワー(オフィスビル)。
中央奥、薄茶色の大きなビルは、アメリカンエキスプレス社(藤沢ビル)で
一角に「明治天皇荻窪御小休所」跡がある。
(写真右) 右側の通りが新宿側から見た天沼陸橋手前の青梅街道、
左側の細い道が荻窪駅南口に通じる旧道筋。
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爆 撃 ・・・
高円寺~荻窪間の舗装、拡幅(25m)化と中央線を陸橋で跨ぐ道路の工事は、
昭和9年(1934)頃着手され、10年後に完了したが駅周辺と、
昭和17年(1942)に本格化した陸橋工事は未完成だった。
そして、完成を目前にした陸橋は昭和19年(1944)12月3日の爆撃で破壊され、
戦後、昭和23年(1948)からの復旧工事で翌年には一応車馬の通行ができる程度と
なったが、青梅街道が名実ともに幹線道路として現在の姿を整えたのは、
「天沼橋(通称天沼陸橋)」として、幅25m、長さ42.4mの現在の陸橋が完成した
昭和30年(1955)である。
踏切閉鎖・・・
大踏切はその後も存続したが、昭和41年(1966)の中央線高架化複々線運転
(地下鉄東西線も乗り入れ)開始で閉鎖され、代わりにその場所に
歩行者と自転車のための南北連絡地下道が作られた。
荻窪駅は地上のままに・・・
中野~三鷹間は高架線となったが、間にある荻窪は旧来の地上のままとなった。
当時(昭和37年頃)高架化を希望する荻窪側と国鉄との交渉が不調だったことによる。
(高架化が決まりかけた交渉の席で、荻窪側の一人が漏らした一言で高架化が実現
しなかったとのこと、その模様が『新天沼・杉五物がたり』に記されている。)
特異な都電・・・ 最初の廃止路線・・・
大正10年(1921)に、西武軌道会社は青梅街道の荻窪~淀橋(成子坂)間に
路面電車を開業した。荻窪の起終点は駅の南口で、
旧道筋の大踏切の新宿寄りのところにあった。
(現在の南北連絡地下道出入口の新宿寄りあたり)
昭和26年に「都電 杉並線」として東京都が買収し、単線区間の鍋屋横丁(中野)~荻窪間を
順次複線化し、昭和31年には天沼陸橋を渡り、起終点を北口(現在のOlympic前*)に移した。
*Olympicの入っているビルは現在工事中で、Olympicはなくなった。(H19/4)
平成20年、新ビル「ROOF」が完成。 パチンコ店、飲食店などが入っている。
都のドル箱路線として大活躍していたが、交通渋滞や地下鉄丸の内線開通で
その役割を終え、昭和38年(1963)に都電最初の廃止路線となってその姿を消した。
『東京都電の時代』(H9:吉川文夫著)によれば、この「都電 杉並線」は、ファンには
特異な線として注目されていた。レールの幅が1,067mm(=JR在来線)で、他路線
(1,372mm)と異なっていただけでなく、都電になる前まではオープンデッキの木造車が
トロリーを2本立てて走っていたし、鍋屋横丁以西は単線区間であったことによる。
(3)「天沼八幡神社と弁天池」 弁天池は消えた! 弁天様は?
田畑のまっただ中!
天沼陸橋の西袂にある賑やかな八幡通り商店街を抜けた突き当りに
天沼八幡神社がある。(杉並区天沼2-18-5)
井伏は、大正10年頃のこととして<天沼八幡様の鳥居のわきにある弁天池のまわりを
歩きまわった。>と記しているが、大正12年(1923)撮影の写真(天沼八幡神社のHPや
『新・天沼杉五物がたり』)を見ると神社の杜の周囲には人家はなく、田圃ばかりでその中を
一本の細い道が鳥居に向かって真っ直ぐに伸びている。農道兼参道だったのだろう。これが
現在の八幡通りだが、井伏がここを初めて歩いて目にしたのは、まさにこの光景だった。
天沼八幡神社全景 (大正十二年十月)
(「天沼八幡神社HP」から転載(R6.2.16))
関東大震災直後、つまり、今から100年前の写真である。
荻窪駅から徒歩で10分とかからない地域で、現在は
住宅街になっており、田圃・畑地は皆無といってよかろう。
後記する石山太柏画伯の当時の作品(写実画)を合わせると
日本人の営みの原点風景に一層の郷愁、感慨が湧くが、
流れる月日の重さ、向後100年を思わずにはいられない。
同神社のHPによれば、創建は天正年間(1573~1591:戦国時代)で、この地域の鎮守さま
として長く天沼を守護してきた。昭和61年(1986)には創建400年祭を執行した。
現在は、境内には稲荷神社や大鳥神社など末社五殿があり、杉並区保護樹木約30本を
はじめ欅・松・樫など約100本の樹木が茂り、都会の中のオアシスといった雰囲気がある。
弁天池が消えた!
井伏が書いた<天沼八幡様の鳥居のわきの弁天池>は、天沼弁天池のことだろう。
神社の鳥居から西北方向約120mに天沼弁天池があり、弁天様が祀られていた。
『杉並風土記 中巻』によれば、500坪余の地に湧き水を水源とする約300坪の
池があり、この湧き水は昭和30年(1955)頃まではコンコンと湧き出ていたが、
その後涸れてしまった、とのことである。
現在(H14)、その地(天沼3-23)はぐるりと高い塀に囲まれていて
中に大きな建物があり木々がうっそうと繁っている。
その塀の南側の一角に一坪ほどの凹んだスペースが設けられていて、
そこに大谷石の台座があり、その上に小さな社殿(祠)が置かれている。
最新の地図に「天沼弁天」とあるので弁天様が祀られているのだろう。
『杉並風土記 中巻』によれば、そこには「この土地は1月に売買登記した故に八幡神社とは
関係がない。弁天様への参拝は合祀されている八幡神社にして下さい。」旨の立札が掲げ
られていた(写真掲載あり)がその立札は今はない。この地を、八幡神社は昭和50年1月に
西武系の西武ゴルフ(株)に売却した。 今は、弁天池がここにあったことを知る人も少ない。
”祠”(H14年7月撮) と 弁天池のあった所(塀の左端に祠がある:H14年9月撮)
今年(平成14年)の春(5~6月頃)には、この台座の上には何もなかったが、
今回、写真を撮りに行ったら社殿(祠)があった。
台座の石も、屋根なども新しいので、この時に修復されたのだろうか。
『杉並風土記 中巻』の写真に見える大きな鳥居(らしい)はなく、
以前とは様子が異なるが・・、でも、一寸、ホッとした気持だった。
平成16年(2004)、この土地は杉並区が入手し、同19年4月「天沼弁天池公園」に変わった。
弁天様の祠はそのままだが、上の写真にある塀や木々の姿はない。(H19/4 記)
上の写真とほぼ同じアングルで撮影.(H19年(2007)4月撮)
久しぶりで公園に行ってみた。(R5(2023).6.24撮)
・弁天様はすっかりスマートに! 木造から現代素材に改装の様子。
(天沼八幡神社HPによれば、改築が完成し2022.3.1、遷座祭斎行)
・奥には植栽が繁り、電柱はなく、
「天沼八幡神社 境外社
天沼弁天社 御祭神 一杵島姫命」
の案内板があった。
(右側の白い壁は工事用のシート。水害対策の大規模工事が進行中)
瓢箪池は・・現在の天沼弁天池公園に!
井伏は、<鳥居のわきの弁天池>のまわりを歩きまわったが、さらに、<それとは別に、
どこからともなく湧き出る水で瓢箪池が出来ていた。>と書いている。
この“瓢箪池”は、弁天池の北側にあった池で、現在の「天沼弁天池公園」の池について、
杉並区HP 「Hellow SUGINAMI (2007.6.1 №1801)」には、「公園内の池は、
当時より北側に人工的につくったもので、水源は井戸水を利用しています。」とある。
公園内には、“瓢箪池”の位置に石灯籠など当時の庭石を活かした池があるほか、大小
多様な庭石が配され、当時そこに建てられた弁天荘の庭園の面影が残されている。
同公園内にある杉並区立郷土博物館分館は、企画展「天沼弁天池があった頃~
三人が残した足跡~」(H28/10~12)と企画展「記憶を紡ぐ-天沼弁天池があった頃」
(H29/4~8)を開催した。 その展示パネルによれば、三人の中の一人である
宮崎三治郎(実業家)は大正12年5月に当時の天沼弁天池の北側に接する湧水池を
含む土地を入手し、この池を庭の一部に配して昭和2年に別荘「弁天荘」を建てた。
井伏は弁天荘が建つ前の原風景をも目にしていたことになる。
同展示には、さらに「弁天荘は昭和20年に三治郎が亡くなると、「割烹旅館 弁天荘」
となり、昭和27年頃まで営業したが、昭和28年1月、「弁天荘」の建物と土地は、
実業家 堤康次郎がそこに配された庭石を気に入って,、西武鉄道(株)が入手した。
その後、この場所には中華料理を出す料亭「池畔亭」ができた。」 とある。
この当時、その南側にある天沼弁天池は天沼八幡神社の所有だったので、池畔亭の
「池畔」は直接的にはこの湧水池の「池畔」だったといえるのではないだろうか・・。
延べ面積171坪(約560㎡)の「池畔亭」が完成したのは、昭和29年(1954)
6月である。(由井常彦編「堤康次郎-表・25」(1966/4:エスピーエイチ))
中国料理の料亭として、ネット情報では昭和48年(1973)まで営業した。
「池畔亭」の敷地の南側に接する天沼弁天池とその土地の所有者が
天沼八幡神社から西武ゴルフ(株)に変わったのは昭和50年(1975)である。
そして、平成16年(2004)、杉並区がこの南北の土地を西武から入手し、平成19年4月、
そこに「区立天沼弁天池公園」と「区立郷土博物館分館」がオープンしたのである。
昭和12年7月5日 東京日日新聞社発行 「最新杉並区明細地図」に赤線を入れた。 |
・天沼弁天池は「178」、湧水池は 「181」に曲線で示されている。 ・「179」「180」「181」が 弁天荘の敷地で、「180」の 位置に主屋が建てられた。 ・博物館分館の企画展などでは 昭和25年(1950)頃の弁天荘 と庭の様子を描いた絵図が 公開されている。 ・分館展示パネルにある昭和32年 と同46年撮影の空中写真には、 共に弁天荘の主屋と池畔亭の 屋根と思える像がある。 |
川が消えた!
この弁天池や湧水池は、灌漑用水として利用されていた桃園川の水源の一つで、流域の農民に
大切にされ、大正の半ば頃までは日照りのときは、弁天様に雨乞い祈願も行われていた。
この雨乞い神事のことは「杉並風土記 中巻」(森泰樹著)に記述があるが、日本画家石山太柏
の「雨乞い」にも描かれている。普段は見られない作品だが、前記の展示会で公開された。
自身が目にした光景を画題に、全体的に赤(日照りを思わせる)を基調にして農民たちの動きを
描き出した力作である。「杉並風土記」の記述にほぼ合致し、界隈の往時の生活が偲ばれる。
その桃園川も、現在は暗渠(上は遊歩道)と化すなどして川としては存在しない。
荻窪あたりには、天沼や清水という地名が物語るようにあちこちに
湧水池があったが、現在残っているものは皆無だろう。
ちなみに、妙正寺川が発する妙正寺池(清水3丁目)の水源も湧水だったが、
現在は近くに掘った井戸の地下水をポンプで汲み上げている。
善福寺川が発する善福寺池の水源も同様にポンプ揚水となっている。
このあたりには、レンガ様舗装の遊歩道や地図にない細い路地があちこちにあるが、
その多くはかっての川や用水で、下は暗渠(下水道)となっている。
お地蔵様も消えた!
昭和2年頃のこのあたりの様子について、本編に次の一節がある。
<その頃この辺には石地蔵が幾つか道端に立っていたが、
2年3年たつうちに、あらかた無くなった。
時のたつのが早すぎるような気持がする。
事実、早すぎたがために、川や井戸さえも目まぐるしく変って行った。
私がここに来てまだ1年2年たった頃は、裏の千川用水の土手に、
夏の夜は虫蛍が光っていた。春はガマ蛙が土手に群がっていた。>
今度は写真を撮ろうと思っていたら、その時にはもう消えていて撮れなかったという。
まさに変貌のさ中であった。
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石山太柏画伯(天沼に居住)の作品(日本画)
本編で、「天沼キリスト教会の東隣に住む」と紹介されている石山太柏の作品の中に、
「夕暗の天沼弁天(制作?年)」、「近郊二景:井草野・荻窪(S5作)」 がある。
昭和初期の荻窪辺りの情景が伝わる迫力ある名画(日本画)と思う。
参考サイト | 東京国立近代美術館 | 「夕暗の天沼弁天」 ; 「近郊二景(井草野・荻窪)」 |
美人横丁は・・・
本編に<美人横丁へ行く>との記述がある。
後出の<阿佐ヶ谷将棋会>の編で説明があるが、この横丁とは八幡通りのこと。
どこまで一般に言われていたか分からない(『新天沼・杉五物がたり』)が、
昭和10年代にこのように言った人もいたのだろう。今は聞くことがない。
(4)「天沼教会と教会通り(弁天通り)」 教会通り、昔の名前は弁天通り
井伏がいつも通った道・・・
弁天池跡から西方向約200mに東京衛生病院と天沼教会(天沼3-17)がある。
荻窪駅北口前の歩道橋を下りたところが教会通りの入り口で、
そこから道なりに300m位の所である。
前記の弁天池跡の台座(祠)のある道は病院の角で教会通りと繋がっている。
『新天沼・杉五物がたり』によれば、教会通りは、少なくとも終戦までは弁天様(池)に因んで
一般的に「弁天通り」といわれていたが、昭和30年(1955)に発足した新しい商店会名は
「荻窪教会通り新栄会」で、現在では「弁天通り」という名は消えた。
「教会通り」入口==左側角は「みずほ銀行」 (荻窪駅前支店:旧第一勧銀) (H14年7月撮) |
「教会通り」の入口はシンボル灯に変った。 夜になるとイルミネーションが点灯する。 (H22年1月完成:H22/3撮) |
カラタチの生垣、煉瓦造りの洋館・・・
キリスト新教セブンスデー・アドベンチスト教団は、ここに約3,000坪の土地を購入し、
大正3年~4年(1915)にかけて杉並区最初の煉瓦造り2階建ての洋館を建設した。
このころの情景は、矢嶋又次作画 「大正初期建築の天沼教会」に描かれている。
建物は、教会と印刷所を兼ねた本部のほか何人かの外国人牧師が住む住宅で、この
地区で初めて電灯がついて住民を驚かせたというが、これが現在の天沼教会になった。
ちなみに、『新天沼・杉五物がたり』によれば、この電灯は自家発電装置によるもので、
『杉並区史探訪』によれば、井荻村に初めて電灯がついたのは大正10年10月とあり、
荻窪あたりでの電灯の一般への普及はこのころからのことになる。
さらに、昭和4年(1929)、教団は、同じ敷地内に医療施設を開設したが、
これが現在の東京衛生病院に発展した。
(写真左、同じ敷地内にある教会と病院(右の建物)。手前は駐車場。(H14年8月撮))
H16/7 この駐車場の部分はぐるりと工事用の高い塀で囲まれ、写真の風景ではなくなった。
創立75周年記念事業で、来年(H17)には新しい病院の建物がお目見えする計画とか。
平成17年5月、東京衛生病院付属「教会通りクリニック」が完成、開業した。
4階建ての明るいビルだが、教会も十字架もその陰に隠れてしまった。
教会の正面は、もうこの写真のように遠くから一望することはできない。
(写真右、左奥のやや茶色がかった白い建物が教会。駐車場いっぱいに新病院が建った。)
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ところで、当時の天沼教会の屋根には “十字架” はなかった?
本編に 、<その頃(大正10年頃)天沼キリスト教会は、周囲をカラタチの生垣で取り囲まれ、
屋根に十字架の立っている礼拝堂の脇に、
地下水をモーターで汲み上げる高いタンクの塔があった。> とあり、
また、「平野屋酒店」の項には <十字架を立てた教会の屋根が見え、> の記述がある。
しかし、地元には 「当時の天沼教会には十字架は無かった」 という有力な説もある。
そこで、同教会の公式HPを確認したところ、教会堂の建物は三つの期間に区分され、
各期2枚の写真と説明が載っており、次のことが判った。(各写真の撮影時期は不詳)
① 1917年(T6)1月26日献堂~1959(S34)移設、増築 正面玄関の屋根は三角の尖塔で避雷針状の突起が空に伸びているが、十字架はない。 “高いタンクの塔” は写っていないので有無は不明。 ・戦争で1943(S18)に教団は全業務停止となり事実上消滅したが、戦後、活動を再開。 ・1950(S25)3月、 同敷地内で教会を移転し大改装 ② 1959(S34) 移設、増築~1983年(S58)7月16日 正面に平屋根の直方体の塔が聳えるが、屋根の上に十字架はない。 長方形の壁面には十字架の模様がある。 “高いタンクの塔” が直方体の塔の前に立っている。 ③ 1983年(S58)7月16日~現在(=上の写真) 正面玄関の屋根は三角で、その上に十字架が立っている。 “高いタンクの塔 ” は存在しない。(この塔がいつからいつまで存在したかは未詳)
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次いで、往時を物語る有力な資料、地元の古老矢嶋又次作画の 「大正初期建築の天沼教会」
を見た。 ①の教会堂が建つ直前の状況のようだが、最も大きい建物の屋根 には十字架が立ち、
その脇には “高いタンクの塔” が立っている。
これらの資料を総合すると・・、教会の屋根に十字架が立ったのは昭和58年(1983)からで、
井伏の上京時(T6/8)も、本編にある大正10年頃も、「荻窪風土記」執筆(S56~S57)の頃も
屋根に十字架はなかったことになり、井伏は、自分が実際に見たかどうかは意に介さず、
矢島又次作画の絵図をもとに筆を運んだと察せられる。 (H28/6記)
そして、カラタチの生垣も、煉瓦造りの洋館も、そして “高いタンクの塔” も、今はない。
四面道はシメントウ? == 諸説
現在では、青梅街道と環八通りとが交差する所が「四面道(シメンドウ)」で、
交差点とバス停の名であるが、
昭和4年発行の地図ではもう少し広い範囲の地名(天沼の中の小字名)となっている。
その地名の由来については、『杉並歴史探訪』によれば三説あり、要約すると次の通り。
(1)この交差点のところは、天沼、下井草、上・下荻窪4ケ村の接点で、そこにあった
秋葉神社(秋葉堂と呼ばれた)の常夜燈が、4ケ村を照らしていたので
「四面燈」と呼ばれたことに由来する。発音は「シメントウ」である。
(2)四っ辻の秋葉堂が四方に面していたから「四面堂」となった。
(3)四辻で道が四面に通じていたから「四面道」となった。
(結論) 資料不足でいずれの説が正しいかは不明。
地元の古老は、「シメントウ」と濁らずに発音していたとのことで、
本編では(1)説が紹介され、四面道には全編「しめんと」のふりがながある。
常夜燈はどこに? == 荻窪八幡神社
現在の四面道交差点の中央南側にあったという常夜燈は高さ2mくらいの石造で、
「嘉永7年」と彫られている。1854年なので江戸末期の建立である。
昭和44年(1969)に、環八通り拡張(その後立体交差化)のため秋葉堂と常夜燈は
荻窪八幡神社(上荻4丁目:本編では<上荻八幡神社>とある)の境内に移された。
秋葉神社は「数百年の永きに渡って四面道に鎮座していた」と移転事情を
記した小石碑にあり、この常夜燈よりずっと古い歴史がある。
なお、四面道交差点から西へ約1kmの荻窪八幡神社の先あたりまでが
本編標題の実際の「八丁通り」である。
(荻窪八幡へ遷座の常夜燈(左)と秋葉神社祠(右):H15年9月撮)
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大場通りは? == 天沼本通り ・ 日大(二高)通り
本編にいう「大場通り」のところは、現在は、地図には「天沼本通り」とあるが、
実際には「日大通り」とか「二高通り」、「税務署通り」という方が普通のようだ。
<太い幹のクヌギ並木のある広い道>と記されているが、今は街路樹はない。
四面道交差点と五叉路のように交わるバス道路で、複雑な信号に悩まされる。
なお、四面道側から順に、街路灯には「天沼新生会」「天沼協和会」の表示があり、
「天沼本通り」の表示はない。右側に荻窪税務署があってその先が日大二高で
「日大二高通り商店会」の表示となり、「日大通り」という交差点(信号)に達する。
(H14/8UP)
(一)荻窪八丁通り = 歩いてみよう荻窪!! | (二)関東大震災直後 = もうすぐ100年!! |
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