== 井伏鱒二 荻窪風土記 阿佐ヶ谷文士 ==

HOME (総目次)


井伏鱒二(いぶせ ますじ): 略年譜

 この略年譜は「荻窪風土記」の記述に関わりの深い事項を念頭に作成した。(参考図書は下記)

明治31年
(1898)
0歳  2月15日 広島県安那郡加茂村大字粟根(現・福山市加茂町)に生まれる。
  次男。本名、井伏滿壽二(いぶ ますじ)。(註:"Ibushi"のサインがある)
  井伏家は嘉吉2年(1442)まで遡れるという旧家で代々地主の家柄。
大正6年
(1917)
19歳  3月 福山中学(現・広島県立福山誠之館高校)卒業。
 9月 早稲田大学高等予科1年に編入学。早稲田界隈での下宿生活開始。
同 8年
(1919)
21歳  4月 早稲田大学(大学部)文学部仏文学科 1年。
    級友で秀才と目された青木南八と親交を結び深める。
同 10年
(1921)
23歳  4月 日本美術学校入学。
10月 片上伸教授との軋轢で大学を休学し因島に滞在。
同 11年
(1922)
24歳  3月 因島より帰京。復学手続きをとるが片上教授の反対で断念。
 5月 青木南八死去。早稲田大学と日本美術学校を退学。
同 12年
(1923)
25歳  7月 <世紀>創刊に参加し「幽閉」(後の「山椒魚」)を発表。
 9月 関東大震災にあい帰郷。 
10月 帰京して再び下宿生活。田中貢太郎を訪ね、以降師事する。
同 13年
(1924)
26歳  9月 初の単行本である翻訳書『父の罪』を聚芳閣より刊行。
11月 出版社”聚芳閣”入社。以降大正15年5月まで断続して勤務。 
同 15年
昭和元年
(1926)
28歳  1月 元<世紀>同人と<陣痛時代>を創刊し「寒山拾得」を発表。
 9月 「鯉(随筆)」を田中貢太郎主宰の随筆誌<桂月>に発表。
    田中貢太郎の紹介で佐藤春夫を訪ね、以降師事する。
同 2年
(1927)
29歳  5月 新居建築の間、荻窪駅北口の平野屋酒店に下宿して完成を待つ。
 9月 豊多摩郡井荻村字下井草(現・杉並区清水)の新居に住む。
10月 田中貢太郎の媒酌により秋元節代と結婚。
 この秋、<世紀>以来の同人がすべて左傾するので<陣痛時代>を脱退。
同 3年
(1928)
30歳  2月 「鯉」(「鯉(随筆)」の改作)を<三田文学>に発表。
 3月 <文藝都市>同人となり「夜更と梅の花」を発表。
    初出は大正14年の<鉄槌>。(大正13年の<人類>の説もある)    
同 4年
(1929)
31歳  3月 「朽助のいる谷間」を<創作月刊>に発表。 
 5月 「山椒魚-童話」(「幽閉」を改稿)を<文藝都市>に発表。
11月 <文学>の同人となり「屋根の上のサワン」を発表。
    「シグレ島叙景」を<文藝春秋>に発表。 
 この年ころ、阿佐ヶ谷将棋会が発足したが昭和8年頃まで中断。
同 5年
(1930)
32歳  3月 「逃げて行く記録」(「さざなみ軍記」冒頭部)を<文学>に発表。
 4月 初の創作作品集『夜ふけと梅の花』を新潮社より刊行。
    新興芸術派倶楽部創立総会に出席。
 5月 <作品>の同人となる。編集会議は毎月1回出雲橋”はせ川”で開催。
    4〜5月頃、初めて津島修治(後の太宰治)と会う。   
同 6年
(1931)
33歳  2月 「丹下氏邸」を<改造>に発表。小林秀雄の高い評価を得る。
 4月17日〜6月10日 初の新聞連載小説「仕事部屋」を<都新聞>に連載。
 8月 初の長編小説『仕事部屋』を春陽堂より刊行。
 8月 井伏作品、初の映画化:「東京の合唱」(小説「先生の広告隊」)公開。
同 8年
(1933)
35歳  2月 文筆家に戻って阿佐ヶ谷に引越した外村繁に初対面。
 2月 小林多喜二拷問死。阿佐ヶ谷のシナ料理店ピノチオに外村繁や
    青柳瑞穂などと集まったが、刑事がいるのに気付いて帰宅。
 2月 猩紅熱の疑いで約1ヶ月入院。
 2月 太宰治が天沼(井伏自宅近く)に引越、師弟関係深まる。
 この年、・阿佐ヶ谷将棋会がピノチオを会場にして再開。
      ・伊馬鵜平(後の春部)が新宿ムーランルージュで大活躍。
同 10年
(1935)
37歳  3月 「中島健蔵に」を<作品>に発表。(”サヨナラダケガ人生ダ”は有名)
 5月 「集金旅行第一日」(「集金旅行」の一部)を<文藝春秋>に発表。
同 11年
(1936)
38歳  2月 詩誌<四季>の同人となる。
 2月 2・26事件。渡辺教育総監を荻窪の自宅に襲った機関銃音を聞く。
同 12年
(1937)
39歳  4月 『集金旅行』を版画社より刊行。
11月 『ジョン萬次郎漂流記−風来漂民奇譚』を河出書房より刊行。
同 13年
(1938)
40歳  2月 『ジョン萬次郎漂流記』等で第6回(昭和12年下期)直木賞受賞。
 3月3日 記録(木山の日記)にある最初の阿佐ヶ谷将棋会開催。
 4月 『さざなみ軍記』を河出書房より刊行(初の自装本)。
 7月初旬 富士川で佐藤垢石に鮎釣りを習う。(”昭和11年”の年譜もある)
 9月 <文学界>の同人となる。
同 14年
(1939)
41歳  1月 井伏宅にて井伏夫妻の媒酌で太宰治と石原美知子の結婚式を行う。
 7月 『多甚古村』を河出書房より刊行。
同 15年
(1940)
42歳  1月 「多甚古村」を東宝で映画化。(以降、「南風交響楽」(S15)、「簪」(S16)、
    「秀子の車掌さん」(S16)、「本日休診」(S27)、「集金旅行」(S32)、
    「駅前旅館」(S33)、「黒い雨」(H1)と続いた。)
    なお、映画化作品第1号については、井伏の項「先生の広告隊」に詳述。
 7月 鮎釣りの定宿で、亀井勝一郎、大宰夫妻と共に河津川の洪水に遭う。
 9月 「釣魚記」を<文藝春秋>に発表。
同 16年
(1941)
43歳 11月 陸軍徴用を受け報道班員として入隊。
12月8日 輸送船でマレーに向け香港沖を南航中に日米開戦を知る。
同 17年
(1942)
44歳  2月 シンガポールに入り、英字新聞(昭南タイムス)の責任者となる。
 5月 神保光太郎が開校した昭南日本学園に勤務。
 8月17日〜10月7日 「花の街]を<東京日日新聞・大阪毎日新聞>に連載。
11月 徴用解除で荻窪の自宅に帰る。
同 18年
(1943)
45歳  5月 情報局の命令で講演旅行。
 8月 直木賞選考委員となる。(昭和32年度下半期まで) 
同 19年
(1944)
46歳  5月 山梨県甲運村(現・甲府市の一部)に家族が疎開。
 7月 井伏自身も同所に疎開。
同 20年
(1945)
47歳  4月 甲府に疎開してきた太宰治と度々交遊。小山清と初対面。
 7月 広島県福山市外加茂村の生家へ再疎開。
 8月6日 広島に原爆。 8月15日 終戦。      
同 21年
(1946)
48歳  4月 一時上京。「二つの話」を<展望>に発表。
 9月 同人<素直>に参加し「追剥の話」を発表。
同 22年
(1947)
49歳  前年秋から、藤原審爾や満州から引揚げた木山捷平らと交遊盛ん。
 7月 疎開を切り上げて荻窪の自宅に帰る。
同 23年
(1948)
50歳  2月 戦後初の阿佐ヶ谷会開催(青柳瑞穂宅)。
 3月 『井伏鱒二選集』(全九巻)を筑摩書房より刊行(翌24年9月完結)。
    (後記は太宰の担当だったが、死亡で第五巻から上林暁となった)
 6月 太宰治が玉川上水に入水心中。葬儀副委員長として列席。
 8月 『貸間あり』を鎌倉文庫より刊行。
11月 「10年前頃−太宰治に関する雑用事」を<群像>に発表。
同 24年
(1949)
51歳  8月〜翌25年5月 「本日休診」を<別冊文藝春秋>に連載。
同 25年
(1950)
52歳  2月 「遥拝隊長」を<展望>に発表。
 5月 第1回読売文学賞(小説賞)を受賞。
同 31年
(1956)
58歳  5月 第12回(昭和30年度)日本芸術院賞を受賞。
 9月〜翌32年9月 「駅前旅館」を<新潮>に連載。
同 32年
(1957)
59歳 12月 盲腸手術で荻窪病院に入院。観泉寺の除夜の鐘とともに全身麻酔。
同 33年
(1958)
60歳  1月 天沼八幡通りの新本画塾に以降6年程通う。
 7月 芥川賞選考委員となる。(昭和40年度下半期まで)
10月 新本画塾の”かるきす油彩画展”に初めての油絵”さかな”を出品。
同 34年
(1959)
61歳  1月〜9月 「珍品堂主人」を<中央公論>に連載。
 4月 荻窪の自宅を取壊して(知人が千葉県へ移築復元)建て替え。
同 35年
(1960)
62歳  3月 日本芸術院会員となる。
同 37年
(1962)
64歳  夏、おでん屋おかめの主人(末さん)から飲助の懇親会の誘いを受ける。
   (魚金、宝莱屋、武蔵野湯の主人などで”荻窪七賢(愚)人の会”)
同 40年
(1965)
67歳  1月〜翌41年9月 「姪の結婚」を<新潮>に連載(同8月、「黒い雨」と改題)。
同 41年
(1966)
68歳 11月 第26回文化勲章受賞。 第19回野間文芸賞受賞。
同 45年
(1970)
72歳  1月 「釣人」を<新潮>に発表。
11月1日〜12月2日 「私の履歴書」を<日本経済新聞>に連載  
同 47年
(1972)
74歳  2月 第23回読売文学賞受賞(随筆・紀行賞)。
11月 ”物故会員追悼阿佐ヶ谷会”開催(阿佐ヶ谷会の解散)。
同 50年
(1975)
77歳  2月 福山市名誉市民として顕彰される。
同 56年
(1981)
83歳  2月〜翌57年6月 「豊多摩郡井荻村」を<新潮>に連載。
  (57年11月『荻窪風土記 -豊多摩郡井荻村』として新潮社より刊行)
同 60年
(1985)
87歳  3月 第一回早稲田大学芸術功労者賞を受賞。 
同 64年
平成元年
(1989)
 91歳  3月 広島県名誉県民として顕彰される。
 5月 ”阿佐ヶ谷界隈の文士展-井伏鱒二と素晴らしき仲間たち”が杉並
     区立郷土博物館で開催され、同名の図録が同館編で刊行される。
平成2年
(1990)
92歳 10月 東京都名誉都民として顕彰される。
平成5年
(1993)
95歳  6月24日 天沼の東京衛生病院へ緊急入院。
 7月10日 同病院にて肺炎のため逝去。享年95歳。

 この略年譜は次の図書を参考にし、「荻窪風土記」の記述に関わりの深い事項を念頭に作成した。

・『井伏鱒二全集 別巻2 』 (年譜 寺横武夫 : 平成12年・筑摩書房)
・『井伏鱒二年譜考』 (松本武夫著 : 平成11年・新典社)
・『井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界』
 (年譜 : 平成10年・杉並区立郷土博物館)
・『夜ふけと梅の花・山椒魚』 (年譜 松本武夫 : 平成9年・講談社)
『現代日本文学館 29 井伏鱒二』 (年譜 : 昭和42年・文藝春秋社)
・『日本文学全集 19 井伏鱒二集』 (年譜 米田清一 : 昭和42年・河出書房新社)
・『荻窪風土記』 (井伏鱒二著 : 昭和57年・新潮社) 

 作品名等は、単行本は『 』、作品は「 」、雑誌・新聞等は< >で表示した。

なお、『井伏鱒二全集 別巻2』の年譜は113頁に及び、注記には詳細説明や関連情報等が記されている。
また、同巻には、211頁から成る著作目録や全集(全28巻・別巻2:平成8年〜12年・筑摩書房)の
総目録なども収められている。

                                              (H15/10 UP)


HOME (総目次)