第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(二) 関東大震災直後 == それから100年!!

  ★ 大正12(1923)年9月1日(土曜日) ★

   揺れた!

井伏は、片山伸教授との軋轢が原因で前年(T11)に早稲田大学を中退したが、
作家として身を立てるべくそのまま東京で「文学青年窶れ」の時を過ごしていた。

大正12年7月(25歳)、同人雑誌「世紀」創刊号に「幽閉」(「山椒魚」の原型)を発表、
続いて「寒山拾得」を執筆中の9月1日、牛込区下戸塚の下宿屋「茗渓館」(現在の新宿区
西早稲田)の2階自室で関東大震災に遭った。(『井伏鱒二全集 別巻2 年譜』より)

   郷里(福山)へ避難!

7日目(9月7日)に「立川から列車運行」の情報を得て塩尻、名古屋経由で郷里の福山へ
帰ることにし、直ちに不通の中央線を線路伝いに立川駅まで(約30km)歩き始めた。
途中、中野と高円寺で1泊、荻窪で鉄道情報を確認している。

その4年後(S2)には、ここが自分の永住の地となり、
さらには「荻窪風土記」を著してこの体験を追想することになるのだが・・。
本編は、地震の日から高円寺泊までの8日間の体験記である。

   100年間隔・・・!!

それから100年。過去の頻度(間隔)から見ると東京にはいつ大地震が起きてもおかしくない。
江戸時代以降、東京近辺震源の大地震(多数の死者がでた記録のある)は次表のとおり。

(『地震の事典』の「地震年表」から「江戸・東京」とあるものを抜粋した)

西暦による発生日 間隔 記 事
 1615. 6.26 (慶長20) - 88年  死者多数。(16051498 に、房総に巨大地震あり)
 1649. 7.30 (慶安2) 34年  圧死多数。
 1703.12.31 (元禄16) 54年  関東大震災に似ているが規模はもっと大きい。
 1812.12. 7 (文化9)  109年 109  死者多数。
 1855.11.11 (安政2) 43年 111年  直下のM7程度。大火災で死者6000余、壊家5万。
 1894. 6.20 (明治27) 39年  M7.0。死者31。
 1923. 9. 1 (大正12) 29年  M7.9。関東大震災。
       ? 100年経過中  (東京を襲った巨大地震は約100年間隔

今やその実体験を語れる人はほとんどいなくなったが大震災の記憶を風化させてはならない。
震動だけでなく火災と流言飛語(デマ)が取り返しのつかない惨事に繋がったのである。

  ★ 関東大震災 ★

「関東大震災  大東京圏の揺れを知る 」(武村雅之著:H15/5:鹿島出版会)がある。
著者(武村雅之)は地震学・地震工学の専門家で、最新の研究発表である。
「関東地震の個性を感じること」が震災対策の第一歩と分かりやすく説いている。



本編にある井伏の体験を、この書(以下“本書”とする)に重ねてみた。

   台風が通過した後だった!

井伏はこの日の朝の空模様を「土砂降りと入道雲」と表している。

本書によれば、「当日の朝6時の天気図には能登半島の近くに台風があった。
(中心気圧は997ヘクトパスカルで熱低もしくは温低になっている可能性もある)
この影響で早朝に所々でにわか雨、午前中は雲間から夏の日ざしがさし始めていた。」

   午前11時58分!

井伏は<地震が揺れたのは、午前11時58分から3分間。後は余震の連続・・>と記している。

本書によれば、「関東大震災の始まりは、午前11時58分32秒。
神奈川県西部から相模湾さらには千葉県の房総半島の先端部にかけての地下で断層が
動き始めたのである。そして、東京(本郷)が揺れ始めたのは11時58分44秒である。」

   強烈な余震!

本書に多くの体験談が紹介され整理されている。それによると、「東京の最初の揺れは
11時58分44秒から数10秒(30〜40秒)でこれが本震である。
2震目は2〜3分後の12時1分頃で継続時間は本震より短かったが同程度の強さだった。
3震目は12時3分頃で、前2回よりはやや弱いが相当強い揺れだった。」とある。

本書には、「超一級の余震群」としてこの後に続いた余震の状況が詳述されているが、
井伏が「3分間の揺れ」としたのは、この2震目までの強烈な印象を表わしたものだろう。

   井伏が感じた震度は「5-」(強震)!

井伏のいた<下戸塚で一番古参の古ぼけた下宿屋>は、階段が壊れたが倒れなかった。
本書によれば、この地域は震度「5-」で「木造住家全壊率0.1%未満」である。
旧東京市15区の中では最も小さい数値の揺れだった。(±は強弱を示す)

(本書には、「旧東京市15区の震度分布(5〜7)」が地図上に細かく表示されている。)

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気象庁震度階級(1949)と参考事項(1978)---『地震の事典』より(震度4以下は省略)

 震度 説 明  参 考事 項
 5  強震。壁に割れ目が入り、墓石・
 石灯籠が倒れたり、煙突・石垣などが
 破損する程度の地震動。

 立っていることはかなり難しい。
 一般家屋に軽微な被害が出はじめる。
 軟弱な地盤では割れたりくずれたりする。
 すわりの悪い家具は倒れる。

 6
 烈震
。家屋の倒壊は30%以下で、 
 山崩れがおき、地割れが生じ、多くの
 人が立っていられない程度の地震動。

 歩行はむずかしく、はわないと動けない。
 7
 激震
。家屋の倒壊が30%以上に及び、
 山崩れ・地割れ・断層などを生じる。

 

気象庁は、平成8年(1996)に震度階級の5と6を強弱に分けて10階級(0〜7)とした。
震度階級毎の詳しい説明が気象庁の次のHPに公開されている。

参考サイト 気象庁震度階級関連解説表(H21.3.31改訂)


   火災は3日間続いた!

井伏は近くの高台にあった早稲田大学の下戸塚球場のスタンドへ避難した。
本震からそれほどの時間は経っていなかっただろう。
スタンドから見て、「直ぐ近くの早大応用化学の校舎が単独で燃えていたが、
その他では火の手も煙もでていなかった」旨を記している。

本書などに火災の広がり方が時間を追って図示されている。
火災は、本震1時間後の13時頃は隅田川の両岸に点々と見える程度だったが、
夜半には下町低地の大部分が延焼地域となってしまった。
延焼地域の火災が完全に鎮火するのは3日目(9月3日)の午前10時頃だった。

井伏がいた牛込や小石川・四谷区などいわゆる山の手方面では延焼は小さかったが、
本所・深川・浅草・神田区などは震度6〜7で、避難による混乱や水道の被災で消防活動は
ほとんど行えず、台風の影響で吹いていた強風に火災旋風が加わって延焼が拡大した。

本所区(現墨田区横網)の被服廠跡では、そこに避難した人など約44,000人
(本書による)が、1日午後4時頃の火災旋風で命を落とすという惨事となった。

   恐怖の情報が理性を狂わせた!

井伏は本編に<鳶職たちの話では、ある人たちが群をつくって暴動を起こし、
この地震騒ぎを汐に町家の井戸に毒を入れようとしているそうであった。>
と記している。1日の夜のことで、地震直後から流言飛語(デマ)が流れていた。

町々に自警団が組織され厳重警戒のもと、朝鮮人に対しては暴行、虐殺が行われた。
『ドキュメント関東大震災』に「流言蜚語と虐殺」の項があり、
その中で吉野作造東京帝大教授(当時)は、「諸処に呪ふべき不祥事を続出するに
至った」結果、「虐殺された朝鮮人は2,613人(T12/10末まで)」と記している。

また、平成15年8月22日付朝日新聞(東京・朝刊)の「描かれた朝鮮人虐殺」展
(高麗博物館:新宿区大久保1丁目(職安通り):9月28日まで)の紹介記事には、
「民衆のつくった自警団に朝鮮人や社会主義者などが殺された。
犠牲者は約6,000人以上ともいわれるが、正確な人数はわかっていない。」とある。
         
大地震と余震、火災で民衆は未曾有のパニックに陥り、新聞・電信電話などの情報途絶で
(ラジオはない時代:NHK放送開始はT14)一般の人々が不安、迷妄の極にあるところへ、
口伝えに 「事実と思える恐怖の情報」 がもたらされたことでその防衛本能は衆愚と化し、
理性を失った過剰反応が各地で不祥事を招いたと推察する。

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世界各地で人間相互の不信感(国、宗教、貧富、人種等)が深く広がっている現在、
誤情報や権力による情報操作で人間の理性が狂わされる危険性が高まっている。
理不尽な行動は相互不信と憎悪を増幅し、しかも世代を越えて引き継がれていくのである。

   優しかった人々!

井伏は、7日目に立川駅を目指して歩き始めたが、中野駅で日暮れ時になり、
薯畑(現在の南口「丸井」あたり)で野宿することにして準備をしていると「日本人か」と
咎められた。日本人と分かるとその男は近くの自分の家へ案内してくれた。
疲れで直ぐに融けるように眠ってしまった。翌朝、蚊帳の中にいた。男はもういなかった。

中野から高円寺駅に向かっては昔(江戸:将軍綱吉の時代)犬小屋があったあたり
大通りを歩いた。途中、道端の「臨時接待所」には土瓶と湯呑が置かれ自由に
飲めるようにしてあった。急な下腹痛があったのでそこに腰掛けてお茶を飲んだ。
<うまいお茶であった。>とある。人の情の味である。

急遽、高円寺に住む先輩「光成信男」を訪ねることに決めたが住所がわからない・・
以前当人から聞いた場所の様子を警防団員に話すと、土地の長老らしい団員の所へ
連れて行ってくれた。説明すると直ぐに分かって無事探し当てることが出来た。

その夜は朝まで光成と高円寺駅南側の自警団で立番をした。
翌朝(9月9日)、光成の家で朝食をして、再び線路道に入って立川駅に向かった。

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自警団などが朝鮮人などに対する暴行、虐殺を行ったことは事実だが、
住民の秩序、生活維持の役割を十分に果たしたことも確かである。

それだけでなく、避難民など窮地にある同胞に湯茶や食事、
宿泊までも提供した人々がいたのである。井伏が受けた一宿一飯の恩、
美味しいお茶の味は決して井伏一人だけのものではなかったはずである。

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 ?? 中央線には避難民が少なかった ??

『杉並区史 下巻』にある「杉並第7小学校五十年史」には北島英一氏談として、
「・・・山梨や長野の郷里を訪ねて帰るため、中央線の線路伝いに西へ西へと
歩いて行く列が続いた。駅の要所要所に自警団の人が・・・」とあるが、
井伏は、「線路道を歩いている者は私のほかには誰もいなかった。」と書いている。

7日目とはいえ避難民が他にいなかったとは考え難い。別著の「半生記」
(私の履歴書:S45)には、「私のほかにも線路を歩いている人がいた。」とあるので、
その数は少なくなっていたということだろうか。

また列車の様子について、『実写・実録 関東大震災』には「汽車大混雑の実況」の
項目があり、集まった大量の避難民で駅や線路、車内が異常なまでに混乱したと
記されている(写真もあり)。本編では、「立川駅では列車が避難民が乗るのを
待っていた」という。様子は全く対照的である。

立川駅が市部から遠かったからか、運行情報が十分に伝わらなかったためか、
7日目にして初めて走った列車なのでその頃は落ち着きを取り戻していたのか。
市部やその近郊の駅の混乱も7日目頃には収まっていたのだろうか。

?? 渡れなかった「中野のガード」はどこ ??

ついでに、現在の高架式の中野駅は昭和4年にできたもの。(『中野区史跡散歩』より)
それまでは現在より高円寺方向に約100m寄った地点の平らな地面上にあった。

井伏が本編に<渡るのを止して駅に引き返した>と書いているガードはどこか・・・?
「中野通り」のガードと読めるのだが、当時は中野駅の手前(新宿方向)にあったので
引き返しても駅はない。中野駅から高円寺方向には、現在は「環七通り」のガードが
あるが、当時はなく、他にも大きなガードはなかったはず。井伏の筆の流れだろう。

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= 「中野の1泊」 は井伏の「創作」では・・? ==

私が読んだ井伏の関東大震災に関する3つの作品を比べると次表のような違いがある。

出来事 鷄肋集 (初出:S11) 半生記 (初出:S45) 荻窪風土記 (初出:S56)
従兄宅へ行った 震災3日目 4日目 5日目
谷崎精二を訪ねた 従兄宅へ行く途中 記述なし 記述なし
下宿の出発日 記述なし 7日目に夕飯を食べて 9月7日、お昼過ぎ
線路を歩いていた人 記述なし 私のほかにもいた 私のほかにいなかった
途中の宿泊 記述なし 中野・高円寺・車中で泊 中野・高円寺・車中で泊
福山帰着日 震災9日目夕刻 明記ないが、3泊で10日 明記ないが、3泊で10日
従兄の電報の到着 帰着から3日たって 8日後に帰着の前日あたり 帰着3日目
(「鷄肋集」の「「鷄」の字は、原典は鳥の部分が「ふるとり」)

このように、一つの出来事について異なる記述があり、一つが事実なら他は事実ではない。

私が最も気になったのは、「中野の1泊」である。大混乱の最中に帰郷を急ぐ時、
戸塚〜立川間、わずか約30qの途中で、2泊(中野と高円寺)するのは、特別な
事情がない限り考え難いことで、今回、そのような特別な事情は見当たらない。

そこで・・、まず、郷里(福山)への帰着日のことから考えてみたい。
「鷄肋集」では帰着日は、「震災9日目夕刻」とあり、地震は9月1日なので「9月9日夕刻」となる。
しかし「半生記」と「荻窪風土記」では「9月7日に下宿を出発」し、中野と高円寺で各1泊、
中央線車内で1泊したので、明記はないが帰着は「9月10日」(時刻は夕刻だろう)となる。

どちらが事実か・・、私は「鷄肋集」、つまり「9月9日帰着」が事実と推察する。 その理由は・・・、

1) 「鷄肋集」は「早稲田文学」に連載(8回:昭和11年5月〜12月)した「自叙伝」の収録である。
震災から13年、記憶が薄れていたとしても、事実確認はまだ容易だったはずである。

2) 「鷄肋集」の執筆は、井伏38歳、ようやく文壇中堅の地歩を築いた時期にあたり、早稲田の
関係者や先輩、知人、友人らの多くが健在でいる中、母校の雑誌に「自叙伝」と
銘打って書くからには、事実に沿って慎重に表現することを心がけたと考えてよかろう。

書き出しは、「これは私の自叙伝である。」で、次に「虚心坦懐」の執筆姿勢を表明している。
後の章で、日記帳の一部を引用して前章の誤りを訂正した箇所があるのもその表れだろう。
(なお、この書き出し部分は、後年、全集などへの収録に際して削除されているものもある。)

3) 「半生記」(初出は日本経済新聞の「私の履歴書」(S45/11))は、震災から47年後の執筆、
「荻窪風土記」は58年後で記憶の風化は否めない。年齢、経歴とも文壇の大御所的存在
になった井伏は、昔の細かい事実はさておき、随筆として大胆に綴ることができただろう。

(松本武夫著「井伏鱒二年譜考」と「井伏鱒二全集 別巻2 年譜(寺横武夫)」には、
「7日下宿発・9日福山着」と明記されている。井伏研究の第一人者が著した文献である。)

さて、7日発・9日着なら、車中泊は必然なので、中野か高円寺の宿泊はなかったことになる。
私の結論は、「中野の1泊」はなかった・・つまり、中野の芋畑での休息はあったとしても、
それに続く「中野の1泊」の記述は、井伏の創作か他人の体験談ではないかと推察する。
細かくなるが、以下にその理由などを記す。

もともと井伏の性格は堅実派といわれる。20台半ばでまだ東京生活は短く、地理不案内だろう。
下宿(下戸塚)から立川までは約30kmなので、普通は早朝に発って日暮れ前に着くことを考える。
大混乱の最中に、危険な野宿を予定して午後ないし夕方に下宿を出発するのは無謀に過ぎる。
それを敢行したのは、高円寺に住む光成を頼りにしたからだろう。 高円寺までなら6km程度で、
午後か夕方の出発でも、もしダメなら(当然アポなしだろうから)引き返すこともできるのである。 

「荻窪風土記」には、「光成宅は初訪問で、住所も覚えていなかった」と書いているが、
正確な住所はともかく、場所の見当はつけていたと考えるべきである。

それでは、光成宅は何処だったのか? 中野から高円寺までは、現在の駅間で1.4kmである。
「半生記」には、簡単に「光成宅に寄り、夜、自警の立番につきあった。」 ことしか書いてないが、
「荻窪風土記」によれば、「昔、幕府の鳥見番所があった場所」 とあり、土地の長老に「南口」と
教えられている。 「杉並風土記 中巻」(S62:森泰樹著)によれば「御鳥見役宅は現在の
高円寺南5丁目」 とあり、これが鳥見番所だろう。 確かに高円寺駅の南側で、中野駅との
中間あたり、井伏が寝る準備をしたという芋畑からは600〜700mほどの距離にすぎない。

井伏は、「大久保駅から線路道を歩き、中野駅まで来ると日が暮れてきたので線路道を離れて
南口の芋畑に出て寝る準備をした」 と書いているが、 実際は、中野のガード(現在の中野駅)
あたりまで来て線路を離れ、南側の一般道を高円寺にある光成宅の方向へ歩き、
日暮れ時に着いて夜警を共にし、泊めてもらったと考えるのが自然である。

仮に、中野に1泊したとすれば、朝から再び立川へ向かうはずである。線路は目の前にある。
予定になく、まして住所も場所も判然としない光成宅を捜し訪ねる必要はまったくない。 また、
訪ねたとしても午前中の早い時刻に着いたはずで、夜までそこに居て泊めてもらう必要はない。
帰郷を急ぐ状況にあって、中野で1泊、さらに高円寺でもう1泊は、どうにも考え難いことである。

・・とすれば、井伏は「半生記」になぜ「創作」を挿入したのか・・。それは井伏が作家だからだろう。
井伏はあえて記録性より文学性を求め、遠い昔の細かい事実にはあまりこだわらず、想いの
ままに筆を運んだと思うが如何だろう。このことは、特に「荻窪風土記」全体について強く感じる。

「履歴書」に創作を挿入することはもちろん許されないが、「作家の自伝」となれば随筆的色合いが
濃くなるのは当然で、自分だけに関することなら虚飾でない限りは目くじら立てることもなかろう。
井伏は、「中野の1泊」を書くことで、大震災当時の温かい世情、人情を語り伝えるとともに、
文学作品としての味わいを加味したといえる。私は井伏流の巧妙な「創作挿話」と感じ入っている。

さて、以前、某先輩に言われたことを思い出した。
「文学部的にはどうでもいいことでも・・・、法学部的には気になるんだろうネ〜」

                            (「中野の1泊」の項 H20/4UP)



== 本書「関東大震災」の説を紹介した朝日新聞(H15.9.1東京・夕刊) ==

(H15.9.2UP)

(この説は学界に定着し「理科年表」(丸善発行)は06年版で改訂の運びとなった。(H17.9.1:朝日新聞朝刊))

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関東大震災(関東地震)と阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)

現在、記憶に比較的新しいのは”震度7”を記録した阪神・淡路大震災である。
その時も火災による惨事は繰り返された。
本書により地震の規模、被害の数値を比較し、震災の認識を新たにしたい。

(発生日) 断層長さ 断層幅 M 死 者 全潰、全焼流失家屋
関東大震災(1923.9. 1) 130q 70km 7.9 105,385 293,387
阪神大震災(1995.1.17) 50q 15km 7.3 5,502 100,282

関東大震災では、火災がなければ死者13,604人、全潰家屋109,713棟、流出1,301棟との推定がある。
[諸井・武村共著「日本地震工学シンポジウム論文集」(H14)]

その後の調査で、阪神大震災の死者は6,434人(H25.1.17:朝日新聞・東京朝刊)、
全壊家屋は104,906棟(H17.1.17:朝日新聞・東京朝刊)となっている。
(最大震度は、共に「7」である。)


なお、本書には明治以降の被害地震ワースト20(死者数順)の表がある。
データの根拠についても詳述されている。


東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)

2011(H23)年3月11日 三陸沖を震源とする巨大地震が発生し、東北・関東の沿岸に巨大
津波が押し寄せた。福島第一原子力発電所の被災事故による放射性物質問題は深刻である。

(発生日) M  最大震度 死 者 行方不明  倒壊(全半壊)
東日本大震災(2011.3.11)  9.0  7  15,878  2,713 397,317 
(「2013(H25).1.17 朝日新聞・東京朝刊」より) 

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平成10年以降、日本の「震度6弱」以上の地震

(気象庁「震度データベース検索」により抜粋 = 詳細は下記気象庁情報参照)

発生年月日 M 現在確定の震央地 (気象庁命名の地震名) - 「政府による命名 最大震度
H10(1998).9.3 6.2  岩手県内陸北部 6弱
H12(2000).7.1 6.5  新島・神津島近海 6弱
H12(2000).7.9 6.1  新島・神津島近海  6弱
H12(2000).7.15 6.3  新島・神津島近海 6弱
H12(2000).7.30 6.5  三宅島近海 6弱
H12(2000).8.18 6.1  新島・神津島近海  6弱
H12(2000).8.18 5.1  新島・神津島近海 6弱
H12(2000).10.6 7.3  鳥取県西部 (平成12年(2000年)鳥取県西部地震) 6強
H13(2001).3.24 6.7  安芸灘 (平成13年(2001年)芸予地震) 6弱
H15(2003).5.26 7.1  宮城県沖 6弱
H15(2003).7.26 5.6  宮城県中部 6弱
H15(2003).7.26 6.4  宮城県中部  6強
H15(2003).7.26 5.5  宮城県中部  6弱
H15(2003).9.26 8.0  十勝沖 (平成15年(2003年)十勝沖地震) 6弱
H15(2003).9.26 7.1  十勝沖 6弱
H16(2004).10.23 6.8  新潟県中越地方 (平成16年(2004年)新潟県中越地震) 7
H16(2004).10.23 6.0  新潟県中越地方 6強
H16(2004).10.23 6.5  新潟県中越地方 6強
H16(2004).10.23 5.7  新潟県中越地方 6弱
H16(2004).10.27 6.1  新潟県中越地方  6弱
H17(2005).3.20 7.0  福岡県北西沖 6弱
H17(2005).8.16 7.2  宮城県沖 6弱
H19(2007).3.25 6.9  能登半島沖 (平成19年(2007年)能登半島地震) 6強
H19(2007).7.16 6.8  新潟県上中越沖 (平成19年(2007年)新潟県中越沖地震) 6強
H19(2007).7.16 5.8  新潟県上中越沖  6弱
H20(2008).6.14 7.2  岩手県内陸南部 (平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震) 6強
H20(2008).7.24 6.8  岩手県沿岸北部 6弱
H21(2009).8.11 6.5  駿河湾 6弱
H23(2011).3.11 9.0  三陸沖(平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震)-「東日本大震災  7
H23(2011).3.11 7.6  茨城県沖  6強
H23(2011).3.12 6.7  長野県北部  6強
H23(2011).3.12 5.9  長野県北部  6弱
H23(2011).3.12 5.3  長野県北部  6弱
H23(2011).3.15 6.4  静岡県東部  6強
H23(2011).4.7 7.2  宮城県沖  6強
H23(2011).4.11 7.0  福島県浜通り 6弱
H23(2011).4.12 6.4  福島県中通り 6弱
H25(2013).4.13 6.3  淡路島付近  6弱
H26(2014).11.22 6.7  長野県北部 6弱
H28(2016).4.14 6.5  熊本県熊本地方 (平成28年(20016年)熊本地震) 7
H28(2016).4.14 5.8  熊本県熊本地方 6弱
H28(2016).4.15 6.4  熊本県熊本地方 6強
H28(2016).4.16 7.3  熊本県熊本地方 (本震) 7
H28(2016).4.16 5.9  熊本県熊本地方 6弱
H28(2016).4.16 5.8  熊本県阿蘇地方 6強
H28(2016).4.16 5.4  熊本県熊本地方 6弱
H28(2016).6.16 5.3  内浦湾 6弱
H28(2016).10.21 6.6  鳥取県中部 6弱
H28(2016).12.28 6.3  茨城県北部  6弱
H30(2018).6.18 6.1  大阪府北部  6弱
H30(2018).9.6 6.7  胆振地方中東部 (平成30年北海道胆振東部地震) 7
H31(2019).1.3 5.1  熊本県熊本地方  6弱
 H31(2019).2.21  5.8  胆振地方中東部  6弱
H31(2019).6.18 6.7  山形県沖   6強
R3(2021).2.13 7.3  福島県沖 6強
 R4(2022).3.16  7.4  福島県  6強
 R4(2022).6.19  5.4  石川県能登地方  6弱
 R5(2023).5.5  5.9  石川県能登地方  6強
R6(2024).1.1  7.6   石川県能登地方(令和6年能登半島地震)   7 
 R6(2024).1.1  5.7  石川県能登半島沖  6弱
 R6(2024).1.6   4.3   石川県能登半島沖  6弱
 R6(2024).4.17  6.6  豊後水道  6弱
R6(2024).8.8  7.1  日向灘  6弱 
(R6(2024)816現在)

参考サイト 気象庁 震度解説、主な被害地震、地震資料、・地震情報など

東京地域では島部以外では関東大震災以降は大きな地震を経験していないが、
それだけに何時きてもおかしくないことを前提に備えなければならない。




この編では主に次の図書を参考にした。         (H15/8UP)

『関東大震災  大東京圏の揺れを知る 』 武村雅之著(H15:鹿島出版会)

『杉並区史 下巻』 杉並区役所(昭和57年)
『地震の事典』  萩原尊禮監修(S58:三省堂)
『ドキュメント 関東大震災』  現代史の会編(H8:草風館)
・『亀戸事件 隠された権力犯罪』 加藤文三著(H3:大月書店) 


はじめに 井伏(井伏)は荻窪激変の中を生きた (三)震災避難民 = 仲間達は無事だった!! 

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