第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十三) 町内の植木屋 == 高井戸宿・火薬庫・御犬小屋!!

井伏が荻窪に家を新築した時(S2)の生垣作りの若い職人が鳶(消防)の木下であった。
<荻窪八丁通り>で「高井戸生まれの井荻村育ち」と紹介され、本書に随所で登場するが、
本編執筆時(S57)には井伏宅の直ぐ近くに植木屋の親方になって住んでいた。

本編はその「鳶の木下」からの聞き書きでこの地の往時に思いを致している。
『杉並風土記』『杉並区史探訪』などの記述をあわせて往時を辿ってみた。

  ★ 高井戸の旧家 ★

     内藤家の火事

本編ではこの火事が何時のことか分からないが、『杉並区史探訪』にある高井戸東の
内藤庄衛門氏の話の中に「昭和6年に漏電で全焼した家の・・・」という部分がある。
記述内容から本編の火事はこの火事のことと考えていいと思う。

大震災後の人口増が続いている時期で、昭和7年には、杉並・井荻・高井戸・和田堀の
4町で編成した杉並区が誕生
しており、杉並消防署はこの時に設置されているので、
昭和6年の火事は旧制度のもとで各町単位の消防団が活躍していたのだろう。
なお、本編に<荻窪署の刑事>とあるが、荻窪警察署の設置は昭和10年なので
杉並署(T15設置)の刑事だろうか。

本編に「火事は9月」とあるが、大陸では9月18日に柳条湖事件(満州事変)が起きていた。

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・・・ 「鳶の木下」は木遣を歌った ・・・

鳶職の人たちの間で盛んに歌われていた木遣歌は、鳶職が中心であった江戸の
町火消に伝承され歌い継がれてきたが、現在では(社)江戸消防記念会が保存の
中心になっており、出初式や祭礼等で歌われている。東京都の無形文化財(S31)。

参考サイト 江戸消防記念会 −木遣り、纏(まとい)、梯子乗り、など

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     内藤庄右衛門家

『新編武蔵風土記稿』および『武蔵名勝図会』に、「百姓 庄右衛門」の記事がある。

概略すると「庄右衛門は当村旧家の百姓で、分家も7,8軒ある。
代々篤実で田禄は80余石、富めるといえど驕奢の心無く・・・(以下略)」とあり、
「高井戸宿 年寄 庄右衛門は日頃の行状がとても良いのでその褒美として
文化元年(1804)に「内藤」の苗字を名乗ることを許された」とある。

『新編武蔵風土記稿』は、幕府昌平坂学問所が文化7年(1810)から編纂を開始し、
天保1年(1830)に林述斎によって幕府に上呈された武蔵国全郡を対象にした地誌書。

『武蔵名勝図会』は、植田孟縉が文政3年(1820)に編輯した地誌。

「年寄」は江戸時代の村役人の呼称。一般に東国では名主、
西国では庄屋のもとにあってそれを補佐した。
 

高井戸村の検地帳によると、延宝2年(1674)の上高井戸の土地所有者の上位は
ほとんどが宿場居住者であったが、内藤新宿開設(1698)で高井戸宿がさびれたことも
あって、明治初年には宿場から離れた地区の内藤氏、横倉氏などが上位を占めている。

庄右衛門は植林に力を入れ、良質な高井戸丸太の生産に大きく貢献した。
昭和9年の皇太子殿下(現天皇)の初節句に掲げられた鯉幟の竿は
内藤庄右衛門氏の山林から献上された見事な杉の磨き丸太であった。

第13代内藤庄右衛門氏は杉並清掃工場建設問題で大変なご苦労をされたが、
昭和49年に亡くなられ、その後を第14代庄右衛門氏が継がれたとのことである。

『杉並風土記(下巻)』に「名家・内藤庄右衛門家」としてこのように紹介されている。
現在も高井戸地区に内藤姓の方が多いのはこのような歴史によるものであろう。
同書には内藤新宿の内藤家との関係については記されていない。

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・・・ 内藤新宿と高井戸宿 ・・・

豊臣秀吉は天正15年(1590)に北条氏を討つとその領地関東6ヶ国を
徳川家康に与え、家康は同年8月に江戸へ入って直ちに領国経営に乗り出した。

この時、徳川家譜代の家臣、内藤清成は今の新宿御苑一帯に広大な屋敷地を
与えられた。人家はほとんどない武蔵野の原野さながらの地であったようだが、
ここに屋敷を建てた。(一般に「内藤家の下屋敷」といわれている)

10年後、家康が関が原で勝利(1600)して江戸の整備は急速に進み、慶長9年(1604)に
日本橋を起点とする五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)が制定され、
甲州道中(明治以降に「街道」と呼称)の最初の宿場は高井戸宿と定められた。

五街道には江戸市街の出入口として「大木戸」が設けられたが、甲州街道の場合には
内藤家下屋敷(今の新宿御苑)の北東隅に接して「四谷大木戸」が設けられた。
(今の四谷4丁目交差点。玉川上水の終点(1653/4月開削開始・/11月完了)にもなった。)

ここから今の新宿通りを通って新宿3丁目(伊勢丹)交差点が「追分」と呼ばれた所で、
甲州街道と、慶長11年(1606)に開かれた青梅街道との分岐点であった。
道筋には往来する人のための町屋もできて、自然に「内藤宿」と通称されたようである。
内藤家が寄進した土地に太宗寺(内藤家菩提寺)が創建されたのもこの頃とされる。

高井戸宿は日本橋から4里余(約16km)あり、(他の4街道の最初の宿場は約2里)
遠くて不便であるということから、浅草の名主喜兵衛等五名が元禄11年(1698)に
冥加金(権利金?)5,600両(現在の5億円以上)を上納することで
その中間にあたる内藤宿(通称)に正式な宿場新設の許可を得た。

内藤家が幕府に返還した土地その他に幅約10mの道路を整備し、両側に旅館や
茶屋などを建設した。四谷大木戸から現在の新宿通り、新宿3丁目辺までと考えてよい。

享保3年(1718)から約50年間の閉鎖期間があるが内藤宿の新しい宿場なので
「内藤新宿」と呼ばれ、飯盛女のいる歓楽街として繁盛し明治維新に引き継がれた。

なお、内藤家が信州高遠藩三万三千石の城主になったのは、内藤新宿が
できる直前の元禄3年(1690)で、この時神田小川町に上屋敷を与えられた。
江戸に広大な屋敷地(今の新宿御苑)を与えられてから100年後のことである。

内藤新宿開設で高井戸宿は火の消えたようにさびれ、村民の生活困窮の要因になった。
旅人は高井戸宿を素通りしたのである。当初は24軒の旅籠屋をはじめ
商家が軒を連ねていたが、天明の頃(1781〜9)には旅籠屋は6軒になっていた。

高井戸は年貢の他に無料で人馬を提供する夫役の負担も大きく、田畑を金持ちや
商人へ売って小作人になったり、他所へ流れていくなどの”潰れ百姓”が多く発生した。
明治維新で他村は戸数増となったが高井戸は減となっており、その衰退の進行が窺える。

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・・・ 「東京ゴミ戦争」 == 杉並清掃工場 ・・・

京王線高井戸駅前(高井戸東3-7-6)に東京都杉並清掃工場がある。
160メートルの白い巨大な煙突がなければ清掃工場とは見えない建物である。

昭和58年(1983)から本格的操業を開始したが、建設予定地と発表された時(S41)から
操業までに16年余の歳月を経たのである。その経過を『杉並風土記(下巻)』等から概略する。

 昭和31年(1956)  東京都は「焼却工場建設十カ年計画』を発表、推進。
 昭和37年(1962)  杉並区は「清掃工場設置促進に関する請願」を採択し、
 「清掃工場建設促進の意見書」を都へ提出(S39・S40・S42)
 して建設を図った。
 昭和41年(1966)  都は、高井戸の現在の場所を清掃工場予定地と発表。
 関係地主と地元住民が反対期成同盟を組織し、反対陳情。
 昭和42年(1967)  都市計画審議会で「高井戸に清掃工場建設」の事業決定。
 反対期成同盟は東京地裁へ「事業決定取り消し」を提訴し、
 強力な反対運動を展開。
 美濃部知事になって(初当選)、特別な進展なく経過。
 昭和46年(1971)  生ゴミ投棄場となっている江東区が「ゴミ持込反対」を決議。
 知事が「東京ゴミ戦争」を宣言し「自区内処理」を掲げて
 杉並清掃工場建設推進のため反対期成同盟と話し合うも
 まとまらず、他の区内候補地も検討することになった。
 昭和47年(1972)  12月、江東区が杉並区のゴミ搬入を阻止。
 昭和48年(1973)  5月、江東区は杉並区のゴミを実力で阻止したため、
 杉並区のゴミ収集作業がストップ。
 都は、候補地を高井戸に再決定。江東区は阻止解除。
 昭和49年(1974)  11月、東京地裁の和解勧告で和解成立。
 昭和51年(1976)  埋蔵文化財の遺跡調査。
 昭和53年(1978)  4月、建設工事着手。
 昭和57年(1982)  7月、焼却炉の火入れ式。
 昭和58年(1983)  1月1日、本格的操業開始。

同書にはさらに「清掃工場の敷地の約半分、5,300坪が内藤家の所有地であったこと
から、第13代内藤庄右衛門氏は反対期成同盟の地主団団長、区議会議員に推され
ご苦労されたが、一方からは「高井戸エゴ」と非難の的になり、心労から病床に臥され、
和解成立直後の昭和49年12月に亡くなられた。」旨記されている。

和解成立とはいえ超長期にわたる「ゴミ戦争」の痛ましい経過であった。

なお、当時の「杉並清掃工場上高井戸地区建設反対期成同盟」委員長は内藤祐作氏(現在、
杉並正用記念財団理事長)で、『高井戸の今昔と東京ゴミ戦争』(H17/10)を著した。(H18/7追記)

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      上質の杉丸太

『武蔵名勝図会』に「高井戸丸太、杉の丸太なり。細く長きこと竹の如し。
上品にて吉野丸太と同じ。江戸にて作事に用うる良材とす。」とある。

『杉並区史探訪』に、高井戸東の材木商(故人)の方が
高井戸の杉丸太について概略次のように語っている。

「良材は元口と末口の直径があまり変らず(材木屋符牒で二分五厘落ち)、
節がなく、磨くと光沢が強く美しいので高値で取引されました。四谷の
銘木問屋が手を加えて「磨丸太」にして売りだしたので「四谷丸太」とも言いました。
中には業者が貨車で京都へ送り出し、京都から深川の材木市場に転送して、
京の北山産の銘木に化けることもあったそうです。

間伐材も舟竿として「高井戸物に限る」と東京湾岸の船頭さんに愛用されました。
並物は工事用の足場丸太になり、良材は幟竿や国旗掲揚塔の柱になりました。

昭和9年、皇太子殿下の初節句の鯉幟竿献上の時は内藤一族の方十数人で
リヤカー4台に載せて祝い歌を歌いながら宮城に運びました。」

参考サイト 京の北山杉とは? 北山杉 (京都北山丸太生産協同組合)

(転送という良心的?な産地偽装も窺えるが・・・、ブランド力は京が上だったか!)

古くから名産として出荷されていた高井戸杉だが、大正4,5年頃に病虫害で大打撃を受け、
さらに大震災後の住宅地化、国旗掲揚柱のための伐採、大戦後の宅地開発と続き、
今では杉並区には杉林も杉並木もなく、屋敷林として僅かに面影を残すだけになった。

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・・・ 「杉並区」の名称は青梅街道の杉並木から ・・・

江戸時代初期、成宗村、田端村の領主だった岡部氏は領地境の目印として青梅街道に
杉の木を植えた。この杉並木が近在で有名になって「杉並」という小字名が生まれた。
「杉並通」と記した享保13年(1728)の証文が残っていることから、当時は
現在の杉並区役所付近の青梅街道を「杉並通り」と呼んでいたことが窺える。

明治22年に天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺、田端、成宗の6ヶ村が合併した時に
「杉並村」という村名になった。
(高井戸村、和田堀内村、井荻村が誕生したのもこの時である。)

大正13年に杉並村が「町」になり、他の3村も同15年に「町」になった。

昭和7年(1932)に、この4町が東京市に編入され「杉並区」と名付けられた。
命名は「区役所設置予定地の町名を採用する」との原則(知事通達)に基づいた。

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  ★ 御焔硝蔵(火薬庫) ★

現在の明治大学和泉校舎と築地本願寺廟所の場所は、火薬庫だった。

     狐や狸の天国・・・警備の兵が化かされた

江戸時代、文化年間(1804〜17)の和泉村絵図に焔硝蔵が描かれている。
それ以前の何時建てられたものかは、はっきりしない。
『新編武蔵風土記稿』には、和泉村の項に「御焔硝蔵5棟」、「もと御林なりしが、
伐払になり其跡へ御蔵建てられしなり」旨の記述がある。

正式には和泉新田御焔硝蔵と呼ばれ、千駄ヶ谷御焔硝蔵とともに幕府の
二大火薬庫で、幕府の厳重な警備下にあった。周辺には鬱蒼とした森や木立があり、
そこは当然のことながら火気厳禁であったろうし、狩猟はもちろん立ち入りさえも
制限されていたと推察する。狐や狸、野鳥たちの天国になっていただろう。

明治になって兵部省武庫司の管轄になり、間もなく陸軍省和泉新田火薬庫となって
警備は士官1名、兵20名の編成で行っていた。周辺の状況はあまり変らず、
巡視の兵隊が狸や狐に化かされたという面白い話が伝わっている。

廃止になった昭和初頭まではそれほどに自然が残された地域であったことが窺える。

     火薬庫と関東大震災・・・爆発しなかった

『杉並歴史探訪』に、関東大震災(T12.9.1)当時雇員として火薬庫に勤務していた方の
話が記されている。そこから抜粋、要約させていただくと、

「火薬庫の広さは八町八反(26,400坪)で、そこに平屋建ての火薬庫が13棟あり、
1棟づつ高い土手で囲まれていた。震災当日は大阪で行われる大演習に使う火薬の
蔵出しをしていたが、昼食時で早めに作業を中断して引き揚げた直後に揺れがきた。
庫内の火薬箱の山が崩れ、二重作りの頑丈な扉が吹っ飛び、建物は壊れたが
爆発しなかったので人的被害はでなかった。

東京旧市内は地震と同時に火災が起こり、新宿駅の貨物ホームに集積してあった大阪行きの
火薬が危険になったので、至急引き上げるようにとの命令がでて取りに行った。
街では朝鮮人が暴動を起こし、火薬庫に押し寄せてくるとのデマが飛び、半鐘を鳴らして
付近の村々から在郷軍人等が集まり、日本刀や猟銃で武装して自警団を作り、甲州街道を
逃げてくる避難民を調べたりして、戦場のように殺気立っていた。」

     火薬庫廃止・・・民間へ払い下げ

大正13年、陸軍軍縮のため和泉新田火薬庫は廃止され、
敷地は昭和5年に明治大学と築地本願寺に折半して払い下げられた。

  ★ 御鷹場・御犬小屋 ★

     御鷹場禁制と鳥見役人・・・役人は威張ってた?

本編のこの部分については、井伏が<「杉並区史探訪」に書いてある>
と記しているようにほぼその要約である。

本編にあるように、御鷹場禁制や御鷹場法度で農民の日常生活は縛られ、農作業は
多くの制限を受けて農民たちは苦しんだ。将軍たちの遊猟のため、農民の生活より
野鳥の保護を重視し、鳥見役人が村々を巡回して監視していたのである。

鳥見役人は将軍直轄の若年寄支配で格が高かったが、高円寺の役宅には微禄な
御家人や足軽たちが常駐していて、古老の話では「威張り散らし、百姓の一寸した
落ち度にも難癖をつけたり、賄賂を取ったりしたので百姓はもちろん代官所からも
疫病神のように恐れ嫌われていて、役宅は明治維新でぶち壊しに襲われたようだ。」
という。役宅の所在地は正確には不明だが、今の高円寺南5丁目と推定されている。

このことが、一方では明治・大正期までこの地域の自然を守ってきたといえる。
大震災(T12)頃までは荻窪あたりには杉や桧の森が残っていたのである。
その後の急激な変貌についてはすでに記してきたところである。

    中野区役所・・・300年前は犬小屋

五代将軍綱吉が貞享2年(1685)から没するまでの20数年間にわたって度々出した
動物愛護・殺生禁止令が「生類憐みの令」で、これにより御鷹場は廃止となった。

(御犬小屋) 元禄8年(1695)、中野村(今の中野駅付近一帯)に設けられた
中野御犬小屋に約4万頭の野犬が収容された。同11年(1698)に増設のため
高円寺村の6万坪(今の高円寺北1丁目全域、同2丁目と高円寺南5丁目の一部)が
収用され、農民は強制立ち退きさせられた。

敷地の総面積は30万坪におよび、そこに建坪25坪の犬小屋、日除け地(運動場)、餌場、
役人役宅などの建物が2,000棟近く建てられ、最大8万〜10万頭の野犬が収容されたという。
宝永6年(1709)の綱吉の死去と同時に生類憐みの令は廃止された。
収用された敷地は元の農民に返還されたが、八代将軍吉宗の時代に御鷹場に戻った。

(陸軍用地) 明治22年、甲武鉄道開通と同時にこの内の中野駅北側の跡地に
陸軍鉄道隊が創設され、早稲田通りに平行して今の高円寺北、阿佐谷北を経て
2.5km先の天沼の日大二高まで、幅30〜50mの土地が軍用地として買い上げられた。
線路の敷設、機関車の運転訓練の演習場となったが、大正2年(1913)に鉄道隊は
千葉県津田沼へ移転し、その後は電信隊の電線架設演習場になった。気球隊もあった。

(中野区役所等々) 現在の中野区役所、中野サンプラザ、中野ブロードウェイ、
中野体育館、警察学校(跡)、等々は300年前には犬小屋があった所である。


この編では主に次の図書を参考にした。            (H15/6UP)

・『杉並風土記(下巻)』 森 泰樹著(平成元年)
・『杉並風土記(中巻)』 森 泰樹著(昭和62年)
・『杉並区史探訪』    森 泰樹著(昭和52年)
・『杉並歴史探訪』    森 泰樹著(昭和52年)
・『新編武蔵風土記稿抄』 杉並区資料叢書第一集(昭和57年)
・『武蔵名勝図会抄』    杉並区資料叢書第一集(昭和57年)

・『東京ゴミ戦争(高井戸住民の記録)』  杉並正用記念財団(昭和58年)
『高井戸の今昔と東京ゴミ戦争』 内藤祐作著(平成17年:非売品)

・『新宿御苑』        金井利彦著(昭和55年)
・『新宿うら町おもてまち』 野村敏雄著(平成5年)

(十二)阿佐ヶ谷の釣具屋 = ”多師”済済!! (十四)病気入院 = 昭和8年「文芸復興」!!

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