第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十二) 阿佐ヶ谷の釣具屋 == ”多師”済済!!

  ★ 将棋と絵と釣と ★ 

    画家になりたかった ・・・

井伏の将棋の腕は文士仲間では強い方というところだが、
絵と釣は本格派として周囲から一目置かれるほどの存在だったようだ。

絵については、県立福山中学校(現・福山誠之館高校)を卒業(T6:19歳)した際、
画家を志して京都の橋本関雪画伯に入門を請うたが果たせず、
文学に志望を変えて早稲田大学高等予科から文学部に進んだが、
好きな絵は美術学校や画塾に通うなど趣味として続けた経歴を持つ。

水彩、油彩、絵付皿、挿絵、デッサンなど多くの作品が残され、
『井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界』にその写真がいくつか載っている。

      釣も ・・・

釣については、『釣魚記』や『釣人』、『釣宿』など随筆風の多くの著作がある。

それらによれば、井伏は幼い頃から郷里(広島県深安郡加茂村・現福山市)で
魚取りに親しんでいた。7歳の夏休みに鞆ノ津(現鞆ノ浦)でチヌ(黒鯛)を釣り、
小・中学生の頃は谷川で投網を打っていたとある。

本編は昭和8年(35歳)頃からの書き出しで釣師佐藤垢石に弟子入りしたとあるが、
佐藤垢石とはそれより前、昭和4〜5年頃に増冨渓谷(山梨県)にヤマメ釣に行っている。

その後しばらくは「自分はこんなことをしていられない」という心境で本格的な釣からは
遠ざかっていたが、本編にあるように<鮒釣を止して鮎釣に転向したくなった>ので
佐藤垢石に頼んで富士川の十島(とうしま)でその教えを受けたのである。

    不況で釣が流行 ・・・

本編に「東京に釣師が増えたのは昭和8年〜9年頃と思う。
釣師の佐藤垢石は東京の釣人口は多くても40万人位と思って調べたところ、
結果は50万人に及んだ。」旨記されている。

あわせて、 「垢石は “東京の失業者の増加のしかたが想像できる” と言った。」
「林房雄は “不況になれば釣が流行する” と言って釣を始めた。」旨記されている。

本編で昭和8年〜9年の政治、社会、文化の動きを日本史年表で確認しているが、
経済の混乱は長期にわたり、時代はファシズム化、言論抑圧のさ中にあった。

ピノチオの常連客立野信之に連れられて来て井伏らと顔馴染だった阿佐ヶ谷に住む
左翼作家小林多喜二が昭和8年2月に築地署の取調べで急死した。拷問死とされる。
各界で左翼からの転向が相次ぐ時勢であった。
本編にある立野信之、林房雄はこの後左翼から転向した作家の一人である。

こうした逼迫した重苦しい雰囲気を紛らすため釣を始めた人が多かったのだろうか。

    鮎釣に転向、のめり込む ・・・

この頃から文士の間で将棋が流行したことは前出<阿佐ヶ谷将棋会>の通りである。
井伏35〜36歳の頃で文壇での地歩を築きつつあり、39歳(S13)で直木賞受賞に
至ったが、一方では周辺との人間関係や時勢との折り合いが一層難しく
複雑化していった時期でもあったと推察する。

鮎釣をしたくなったのはこのような環境の変化が関係していたのかもしれない。

垢石に教えられた鮎の友釣りに魅せられ、毎年夏には伊豆の河津川
(谷津温泉)に2〜3度は通い、昭和15年には洪水にも遭っている。
疎開中(S19〜S20)には、笛吹川で鮎の友釣りをし、富士川などでハヤ釣、
御坂峠の渓流などで山女釣を習っている。


?? 富士川で垢石に鮎釣の教えを受けたのは昭和何年 ??

垢石に教えを受けた鮎釣が昭和何年のことなのか判然としないのが面白い。

本編では昭和8、9年頃と読めるが、『釣魚記』でいう「去年」は同14年である。
垢石のことを記した『釣人』には同5年か6年頃とあり、全集等の巻末にある
年譜では「同11年」であるが、最近の筑摩書房の全集(別巻2・H12)には
「同13年」とあり、「鮎釣り‘94」(月刊つり人臨時増刊)に考証があるとのこと。

!! 河津川で太宰・亀井と洪水に遭う !!

昭和15年7月12日、河津川(伊豆)の「南豆荘」に鮎釣のため亀井勝一郎と投宿中
太宰治夫婦が訪ねてきたが、その夜、川が氾濫し全員が生命の危機に曝された。

明け方には水が引いて最悪の事態は免れたが、その日は丁度三宅島が噴火した日に
あたり印象が一層強かったようで、この体験に関わる随筆などが多く残されている。


参考サイト 河津温泉郷 (河津町観光協会)

(井伏の定宿「南豆荘」は廃業したが、随筆『釣宿』にある石田屋は格調高い旅館として健在)

  ★ 師 佐藤垢石など  ★

    「山川草木に溶けこめ!」

鮎釣の師 佐藤垢石は、明治21年生まれ(群馬県)で井伏より10歳年長である。
早大を中退して報知新聞記者になり、退社後釣師として、また随筆家として活躍した。
ベストセラーになった随筆集「たぬき汁」(S16)をはじめ多くの著作がある。

戦後「つり人社」を創立(S21)、同社は現在も雑誌「月刊つり人」の発行など
釣関係の出版社として定評がある。昭和31年没(享年68歳)。

垢石を井伏に紹介したのは、垢石の友人永井二郎(通称ジロさん)である。
昭和4〜5年頃の増冨渓谷(山梨県)のヤマメ釣にはこの3人で行っている。

永井二郎は<阿佐ヶ谷将棋会>に記したように当時の「ピノチオ」の経営者で、
大正末期には報知新聞記者をしており、垢石とはこの頃からの友人だろう。
本編に<新橋駅東口の魚籃堂という釣具屋>とあるが、永井が出した店である。

井伏は『釣人』に垢石の人となりを記し、『釣宿』に<戦前の私の釣は垢石を
抜きにしては話なすことができなくなってくる>としている。
垢石は随筆『弟子自慢』で井伏との増富と富士川での釣のことを記している。
同行者や時期などの状況に井伏の著作とは異なる点が若干あるが・・・

垢石は「山川草木に溶けこめ」、「釣の妙諦を会得するには『姿・心境・技』の
三つが揃わなくてはならぬ。」と教えた。
『阿佐ヶ谷文士村』によれば「酒を楽しみ、釣に生きた風流人士」とある。

酒豪として知られる井伏が「自分以上」と認める酒豪だったが、
釣前夜の酒席は別人だったという。釣の師弟という付き合いだけではなく、
井伏が垢石から「人生の妙」を吸収していたことが窺える。

    「川に喰らいつかなくちゃ!」

河津川(谷津)では、「カワセミの親爺さん」という釣上手の漁師 川端さんを師とした。
『釣人』によれば、「昭和7、8年頃から師匠と弟子の関係を保ってきた。」とある。

『釣魚記』では、出会いは垢石に富士川で教えを受けた後であるが、井伏が『釣人』で
「鮎釣で数を揚げるという点では垢石よりも上であろう」と認める実力の持ち主であった。
昭和35年頃、山に入って亡くなったという。

「お前さん、もそっと川に喰らいつかなくっちゃいけねえ」と教えた。

    「真面目に釣らなくては駄目!」

笛吹川では塩山町の矢崎さんという釣師に師事した。
ちょっと遊び半分で釣っているのを矢崎さんに見咎められ、
「もっと真面目に釣らなくっちゃ、駄目じゃないですか」と叱られたのである。

『釣人』によれば、甲州に疎開中(S19〜20年)のことで、そこは矢崎さんが
選んだ釣場であるが、以前垢石と一緒に釣ったのと同じ場所であった。

 ★ 阿佐ヶ谷の釣師  ★

    山女竿、東京第一号!

本編に阿佐ヶ谷の釣師のことが記されている。大沢釣具店の主人で<子供の
とき善福寺川で釣をしていた>、<大正14、5年の荻窪駅北口の模様も知って
いた>という大沢さんである。<釣師として沿線随一の上手>だが<甲州の
山女竿を昭和2年に初めて東京に将来した人である。>と紹介されている。

昭和34年発表の『釣師・釣場』の中に『阿佐ヶ谷の釣師』がある。
井伏自身が会員であった当時の荻窪の釣友会「荻つり会」のこと、その母体の
「杉並釣友会」は東京のハヤ釣競技会で抜群の成績だったこと、さらには
30年余り前に大沢さんが東京第一号の山女竿を作らせたこと、山女の釣り方
を佐藤垢石に話したら、それが本になって流布されたことなどが詳しく記されている。

大沢さんは<どうしても釣れなかったら馬鹿のような顔をして釣れ>と言ったとあるが
これは甲州で山女竿や釣り方を教えてくれた釣師佐野正一の教えとのことである。

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今、電話帳を調べても杉並区に大沢釣具店はない。東京第一号の山女竿を
持っているという蒲団屋も阿佐ヶ谷パールセンターには見当たらない。

富士川の十島は上流にダムができたため当時とは様子が一変しているとか。
井伏が遊び半分で滑り降りて師に叱られた笛吹川の大きな貝殻石もない。

井伏の定宿「南豆荘」はもう10年以上も前に廃業したとのことである。

垢石没して半世紀、今年(H15)は井伏鱒二 没後10年である。



この編では主に次の図書を参考にした。            (H15/5UP)

『井伏鱒二全集』(筑摩書房発行)より

・第5巻(平成9)    『中島健蔵に』(S10)
・第9巻(平成9) 『釣魚記』(S15)・『増冨の渓谷』(S16)
・第11巻(平成10)   『疎開者不漁』(S21)
・第12巻(平成10) 『恐るべき風月老人』(S23)
・第15巻(平成10) 『まへがき(川釣り)』(S27)
・第21巻(平成10年) 『釣師・釣場』(S34)・『谷津』(S35)
・第24巻(平成9年) 『釣場の佐藤垢石』(S44)・『釣人』(S45)・『釣宿』(S45)
・別巻2(平成12) 『河津川筋』・『著作目録』・『年譜』
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・『弟子自慢』(佐藤垢石著)---『鮎つりの記』(S59・朔風社)所収 

(十一)外村繁のこと = 豪商(近江商人)から文士に!! (十三)町内の植木屋 = 高井戸宿・火薬庫・御犬小屋

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