第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(七) 阿佐ヶ谷将棋会 == 三流作家の心の支え!!

  ★ 阿佐ヶ谷将棋会小史 ★

阿佐ヶ谷将棋会と会員の詳細 ・・ 第二部 「阿佐ヶ谷将棋会とその時代」 

    誕生 = 昭和4年頃〜 ・・・

<阿佐ヶ谷将棋会が発足したのは、大体の記憶だが昭和4年頃であった。>
と井伏は記している。場所は「阿佐ヶ谷駅南口通りをちょっと左に入ったところの会所」
とあるので、現在のパールセンター入口あたりだろう。

「プロレタリア文学でないとうだつがあがらぬ」時節の中、
若き日々を悶々と過ごす文士たちがお互い折に触れて集まって将棋に興じ、
二次会の酒や議論にストレスを発散していたと推察する。

この頃の記録がないので誰がメンバーでどのように集まったかははっきりしないが、
当時、井伏のほか青柳瑞穂、小田嶽夫、蔵原伸二郎、田畑修一郎、安成二郎、等々が
阿佐ヶ谷界隈に居たので、これらの面々だったのだろう。

   盛会 = 昭和13年頃〜

当初の会所は「賭け将棋をやる人がいて殺気立った雰囲気があり、傍迷惑なので会合を止め、
少し間を置き、昭和8年にシナ料理屋ピノチオの離れを会場に再発足した。」(要約)とある。
昭和8年というのは、太宰治が弁天通りへ引越した年で、中村地平もよくやって来た。

ほかに、木山捷平、外村繁、古谷綱武、浅見淵、亀井勝一郎、上林暁、村上菊一郎、等々が
界隈へ移り住むなどしてメンバーとなり、「将棋会」としての体裁が整っていったようだ。

日記等の記録で確認できる最初の「阿佐ヶ谷将棋会」開催は昭和13年3月3日である。
『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』に、記録で確認できたものの開催一覧等が
掲載されている。それによれば、その会場は阿佐ヶ谷の将棋屋、二次会がピノチオだった。
「井伏の直木賞受賞を記念した会で、小田、外村が幹事で太宰、古谷、等が参加」とあるが、
この記述に関する疑問などは、別記「 “第1回”将棋会」の項に詳記した。

時勢は戦争に向かって流れるばかりで、昭和15年12月6日には世間体から「文芸懇話会」として
開催、翌16年3月には「阿佐ヶ谷将棋会」に戻しているが、
井伏は<いつ戦争になるのかと、びくびくさせられる日が続いていた。>と振り返っている。

激動期にあって、文士たちは仲間同士の将棋と酒を拠所に不安・孤独と戦っていたのだろう。

“歌よみて将棋をさして居らるべき/世と思はねど/これぞ楽しき” (安成二郎)

(『我が交遊記 -二閑人将棋を指す図- 』(上林暁著)より)

阿佐ヶ谷将棋会」 開催一覧 (記録がある開催)

   徴用・戦争・疎開 〜 戦後は「阿佐ヶ谷会」

井伏、小田、中村は、昭和16年11月に陸軍徴用員として入隊し、輸送船でサイゴンへ向かう途中の
12月8日、船上で日米開戦を知らされた。(「続・阿佐ヶ谷将棋会」

将棋会メンバーの多くが徴用や疎開で東京を離れたが、残ったメンバーは
御嶽山(S17)や高麗神社(S18)へのハイキング(遠足)で「会」を続けた。

「御嶽行(昭和17年2月5日)には上林、太宰、青柳、浜野、安成、木山、林(太宰の連れ)の7名が
参加した。沢井駅で下車、多摩川の川原を御嶽まで散策して玉川屋という蕎麦屋に入った。

店の二階に将棋盤が一台あったので勝ち抜戦を行って小宴のあと、徴用中の井伏、小田、
中村に寄せ書きをした。」(『阿佐ヶ谷界隈の文士展』--木山捷平「阿佐ヶ谷会雑記」より要約)

井伏は、昭和17年11月に徴用解除で帰国、情報局や軍の命令で講演、執筆を行っていたが、
昭和19年5月から山梨県甲運村(現甲府市)、同20年7月には郷里(広島県加茂村)に疎開した。
荻窪の自宅に戻ったのは、昭和22年7月である。

戦時中杉並に残ったメンバーは、青柳、外村、上林、(吉祥寺に亀井勝一郎)だけだった。

上林は、「戦争がすんで、東京に居残っていた仲間が純然たる飲み会として復活した」旨を
回想しているので、戦後早々には「阿佐ヶ谷会」の会合が行われていたとみてよかろう。

記録にあるものでは昭和23年2月2日に「阿佐ヶ谷会」として青柳邸で復活している。
純然たる飲み会となり、戦前とは性格を変えているが、そのため新しいメンバーが参加、
ゲストの招待もあって、交友の幅が広がっていった。

     〜〜太宰は参加しなかった〜〜

一方、将棋会に熱心に参加していた太宰治は、戦後の「阿佐ヶ谷会」には参加しなかった。
むしろ戦後は師である井伏をはじめ会員たちとの交わりを避けていた。
そして昭和23年6月には自ら命を絶ってしまった。(「太宰治:玉川上水心中の核心」に詳記)

   「物故会員追悼」が最後 = 昭和47年11月25日 

戦後の会場は、大部分は青柳邸であった。酒を飲み、もっぱら雑談を楽しむ会として続いたが、
メンバーの多くは年とともに世に認められる存在となり、多忙な身となっていったこともあり、
昭和40年代には途切れがちとなった。

この間、何人かのメンバーが鬼籍に入り、昭和46年12月に
会場を提供していた青柳瑞穂が亡くなった後、昭和47年11月25日に新宿「東京大飯店」で
「物故会員追悼」の会が開かれたのが最後となった。

[この時の物故会員]   田畑修一郎(M36〜S18)・ 太宰治(M42〜S23)・ 浜野修(M30〜S32) 
火野葦平(M39〜S35)・  外村繁(M35〜S36)・ 中村地平(M41〜S38) 
三好達治(M33〜S39)・ 亀井勝一郎(M40〜S41)・ 木山捷平(M37〜S43) 
伊藤整(M38〜S44)・ 青柳瑞穂(M32〜S46)

  ★ 会員 それぞれ ・・・ ★

・青柳瑞穂(あおやぎ みずほ):明32(1899).5.29〜昭46(1971).12.15 享年72歳

山梨県生まれ。昭和2年から生涯を阿佐ヶ谷(現在の阿佐ヶ谷南3丁目)に住み、
将棋は出来なかったが、終始将棋会の主要メンバーの一人だった。

本業は詩人、仏文学者だが古美術品発掘、蒐集にも情熱を注ぎ、後に重要文化財に
指定された尾形光琳描く唯一の肖像画「中村内蔵助像」の軸物などを発見している。
その面でも会員各人との交流を深め、自宅で古美術品鑑賞会を行っていた。

戦後復活の「阿佐ヶ谷会」は、ピノチオは強制疎開で無く、料飲食店の営業禁止(S22)もあって
青柳邸が会場となり、食器類の乏しい時代、蒐集した由緒ある皿小鉢類が使用されたという。
その後もほとんどが青柳邸・・といっても8畳と4畳半の続き間だけとか・・で開催されていた。

詩集「睡眠」(S6)、随筆集「ささやかな日本発掘」(S35)等の作品がある。
慶応大学出身で、牧歌的応援歌として愛され歌い継がれている「丘の上」を作詞した(S3)。
                            (詳細は 「第三部 青柳瑞穂」の項

浜野 修(はまの おさむ):明30(1897).1.15〜昭32(1957).6.23 享年60歳

浜野修と上林暁が昭和14年から200番勝負(本編では100番とあるが)を行った記録が
「濱野里―二百番星取表―暁の杜」(実物は右から左への横書き)の標題で残っており、
欄外に会員名が四股名で書かれている。井伏は「井伏川」、中村地平は「地平山」の如く・・。
メンバーが将棋を楽しんでいた様子の一端が窺える。

本編にあるように、浜野は主にドイツ語の翻訳を仕事にしていたが、当時雑誌「改造」の
編集部員だった上林暁と知り合い、その後、ともに阿佐ヶ谷に住んだことから頻繁に
行き来して酒と将棋を楽しみ、心の友としての親密な交遊を持つようになった。

本編によれば、浜野のドイツ語の翻訳が「プラーゲ旋風(下記)」に巻き込まれ、
借金をして多額の賠償金を支払い、返済のためさらに多くの翻訳を手がけていたようだが、
合間には、井伏(M31生)を誘って小田急の鶴川で鮠(ハヤ)釣りを楽しんでいる。

今般(H24/3)発表された萩原教諭の「友情物語U」によれば、浜野が<国民新聞>
(S14/4)に書いた「プラーゲ咄し」の記述から、「プラーゲへの賠償金で多額の
借金をした」という井伏の記述は事実ではないとのことだが、事情は不詳である。

戦後、国会図書館に勤務していて亡くなったが、葬儀では上林が弔辞を読んだ。
                         詳細は 「第三部 浜野修」の項)

・上林 暁(かんばやし あかつき):明35(1902)10.6〜昭55(1980).8.28 享年77歳

昭和2年東大を卒業と同時に改造社に勤めながら作品を発表、「薔薇盗人」(S7)が認められて
昭和9年に文筆一本の生活に入った。7年間の改造社時代に井伏や浜野に出会っている。

一旦帰郷(S9/10〜:高知県)したが、昭和11年3月に再上京して阿佐ヶ谷(住所は天沼)に
住み、同14年頃から熱心に阿佐ヶ谷将棋会へ参加、浜野との200番勝負にも熱中した。
この地を選び、この地で生涯を過ごしたのは井伏の存在も影響したかもしれない。

私小説作家として尾崎一雄と並び称されるがやはり貧乏で、特に昭和14年に妻が発病し、
死にいたる7年間の生活は看病と戦争で経済的にも精神的にも困窮を極めた。
将棋を通じた交友に、求めるところの何かがあったのではないだろうか。
「病妻もの」といわれる作品の筆致は澄明で上林文学の特質を示すといわれている。

昭和27年に軽い脳出血の後、同37年に再出血で右半身の自由を失ったが口述筆記で作品を
発表した。昭和44年芸術院会員となり、同49年には「ブロンズの首」で川端康成文学賞を受賞
するなど伝統的私小説の分野で文学への情熱を見せた。(「阿佐ヶ谷界隈の文士展」より)
                         (詳細は 「第三部 上林暁」の項)

  ★ シナ料理店 ピノチオ ★(『阿佐ヶ谷界隈の文士展』より)


「ピノチオ」は、阿佐ヶ谷駅の北側、現在の西友阿佐ヶ谷店の前面にあったが、今は中杉通りの
拡張でその面影はなくなってしまっている。大正14年には、永井二郎(作家永井龍男の次兄)が
営業しており、店名は同年に刊行の佐藤春夫の翻訳童話「ピノチオ」(改造社)からとっている。

そのような関係から、もともと阿佐ヶ谷界隈の文士達が常連客だった。
日夏耿之助、岸田国士、横光利一、立野信之、小林多喜二、井伏、等々である。

昭和9年に経営は佐藤清に移り、昭和15年には大学教授の加藤に譲られ、大改装されたが
ほどなく出征のため権利を売却、岡茂が店名を「ぴのちお」として経営するに至った。
この間、阿佐ヶ谷将棋会メンバー等、文士の溜り場であることは変らなかった。

昭和20年5月に建物強制疎開命令で廃業したが、戦後同22年には近くの別の場所で再開した。
昭和31年まで営業したが、以前ほどの文士の出入はなかったようだ。

阿佐ヶ谷駅の位置は設置当時(T11)と変わらないが、駅周辺の道路・建物状況は戦時対応があって
大きく変わっている。このため、「ピノチオ」の場所を特定するのは難しいようだが、当時をよく知る人の
談によれば、阿佐ヶ谷駅の北側、現在の北口正面前にある天丼の店 “てんや” の前辺りの道路
(中杉通り)になっており、向かい側が “西友” とのことである。(H28/3記・・観光まちづくりシンポジウム)

@@@ 雑記帳 @@@

***** なぜ将棋が? 将棋熱の背景 *****

   「終身名人制」から「実力名人制」の時代へ

昭和初期の将棋界は、東京の関根金次郎十三世名人に対し、坂田三吉は大阪で名人を
自称(大正14年)したため東西は決定的に対立し、坂田は棋界で孤立を余儀なくされていた。

昭和10年になると関根名人は退位を宣言して終身名人制から「実力名人制」へ移行することに
なった。東京日日新聞(現毎日新聞)社が主催し、昭和10年6月から木村、花田ら八段の棋士9名
がリーグ戦を行い、同12年12月、木村義雄が1位(2位は花田)となり、第一期名人が誕生した。

このリーグ戦に坂田三吉は参加できる状況になかったが、読売新聞社の主催でリーグ戦最中の
昭和12年2月〜3月に「坂田対木村」、「坂田対花田」の東西対決が実現しファンを沸かせた。
(両局とも坂田は敗れたが、第2手目(後手坂田の1手目)の端歩突きは「何故?」と話題となった。)

この間の昭和11年6月、棋界はようやく全国統一組織「将棋大成会」結成でまとまり、
将棋界の近代化へ大きな一歩を踏み出した。(現在の「社団法人日本将棋連盟」である。)

時代は関根(M1生)・坂田(M3生)から、木村(M38生)を頂点とする若い世代へと移って、
各新聞社は競いあって自社が主催する将棋対局を大々的に報道した。
もともと庶民に人気のあった将棋のこと、世間の関心は一段と盛り上がったのだろう。

   木村義雄名人、無敵の強さ

木村名人は昭和22年まで連続5期10年、通算で8期名人位に就いて第十四世名人となる強さで、
「名人は戦時中に海軍大学校へたびたび招かれて将棋の話をした。それが作戦立案者には
大いに役立ったと喜ばれたという。となれば巷に将棋が流行してもそれは咎められずに
すむのであった。」(『阿佐ヶ谷文士村』)という世相でもあった。

   菊池寛の絶大なる影響力

文芸春秋社を創設(T12)した菊池寛は、関根名人、坂田三吉をはじめ棋界の主だった人たちと
親交があり、坂田の東京棋界との対戦復帰や新たな名人戦リーグに大きな役割を果たしていた。

またこの頃から、文芸春秋社と東京日日新聞社はその主催で文壇将棋大会を開催している。
文芸春秋社の社長(菊池寛)室にはテーブルに彫った将棋盤があり、自らも指していた。

軍国色に彩られる一方の時勢にあって、為す術のない編集者や文士たちの間で
将棋熱がどんどんと広まっていったのは自然な流れでもあったといえる。

阿佐ヶ谷将棋会だけでなく、文芸春秋、早稲田、創元社、本郷などのチームができて、
互いに対抗戦を行って親睦を深めたが、浅見淵によれば、そこには次々と召集されていく
若者の壮行会には、酒だけでなく将棋会を開いて清福を楽しもうという思いもあったという。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 蛇足ながら ・・・ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

昭和22年、第6期名人戦で木村名人は塚田正夫に敗れたが、同24年(8期)に名人に返り咲き、
3期守って同27年(11期)に大山康晴に敗れた。(第6期から、1期2年が1期1年に変った)

名人位通算5期獲得で永世名人の資格を得るという規定で、木村は第十四世名人となった。
第十五世名人は大山康晴(名人位通算18期)、第十六世名人は中原誠(同15期)、
第十七世名人は谷川浩司(同5期)で、今回(H19.6.29)森内俊之名人が4連覇(通算5期)
を達成し第十八世名人となる。羽生善治3冠は通算4期で足踏みし、森内に先を越された。

平成20年6月17日、挑戦者の羽生二冠が4-2で森内名人を破り、名人位に就いた。
通算5期で、第十九世名人となる。これで羽生は永世七冠(残すは「竜王」)に王手をかけている。
(永世七冠 : 名人、棋聖、王位、(名誉)王座、棋王、王将、竜王)


大山第十五世名人の自宅は、井伏宅のすぐ向かいにあり(S30〜)
井伏に先立つこと1年、平成4年7月にA級現役のまま70年の生涯を閉じた。

***** プラーゲ旋風 = 海賊版は許せぬ!! *****

本編に、「バーナード・ショウが昭和8、9年頃来日して早稲田大学の演劇博物館を訪れた際、
表敬の意味で日本語訳になっている同氏の作品を揃えて展示した」と紹介されている。

無断で翻訳されたものばかりで、同氏は展示品の前に立って呆気にとられたということであるが、
当時の日本においては、大学の博物館ですら著作権に対する認識はこの程度のものだった。

まさに「プラーゲ旋風」が吹き荒れる土壌があったのである。
『新版著作権事典』により、その概略を次に記す。

昭和6年(1931)頃から、ドイツ人ウィルヘルム・プラーゲは東京に事務所を設け、
外国音楽著作権団体(カルテル)の代理人として外国人音楽著作物を管理し、
その無断演奏、無断出版等を摘発して使用料を請求し、法的手段にも訴えていた。
その対象は、文学書の無断翻訳出版にも及んだ。

その請求自体は適法であったが、請求金額や手段、行動が日本の国民感情的反発を招き、
「プラーゲ旋風」として連日新聞紙上に現れた。もともと問題は著作権に対する日本側の認識に
あり、政府は昭和8年、著作権法一部改正において対応を試みたが効果なく混乱が続いた。

昭和14年(1939)にいたり、「著作権に関する仲介業務に関する法律」が制定され、
同年にこの法律のもとで「社団法人大日本音楽著作権協会(現在のJASRAC)」と
「社団法人日本文芸著作権保護同盟」が設立され、この2団体のみに仲介業務が許可された。
プラーゲには許可されず、やがて日本を去って長年月にわたった旋風もようやく終息した。

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なお、平成13年(2001)に「著作権等管理事業法」が施行され、仲介業務の独占制は廃止された。


将棋と著作権に関しては主に次の図書を参考にした。    (H14/12UP)

・『9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝』   岡本嗣朗著(平成9年)

・『新版著作権事典』 社団法人 著作権情報センター編


(六)天沼の弁天通 = 太宰が来た、夢声も大先輩!! (八)続阿佐ヶ谷将棋会 = 文士が戦場へ!!

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