第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(八)続・阿佐ヶ谷将棋会 == 文士が戦場へ!!

   ★ 召集令状(赤紙)がきた・・!! ★

盧溝橋事件(昭和1277日)に端を発した日中戦争は拡大の一途をたどった。
昭和13年に国家総動員法、同14年には国民徴用令が施行され、
国民すべてが否応なく戦争に巻き込まれていった。

本編によれば、「阿佐ヶ谷将棋会のメンバーで、最初に召集令状を受け取ったのは
青柳瑞穂、次いで中村地平である。
二人とも軍人嫌いだが否応なく、白地の布に名前を書いた出征兵の襷をかけて
「歓呼の声に送られて」出発した。

青柳は東京で入隊したが、軍服の不足というめずらしいいきさつで除隊となった。
中村は郷里宮崎の連隊に出頭したが胸部疾患で即日帰郷となった。」

昭和13年8月頃のこととあるので、青柳39歳、中村30歳の頃である。
二人ともたまたま兵役には服さなかったもののまさに総動員の風である。
(正しくは二人の召集は昭和12年10月である。中村の即日帰郷は慢性胃弱のため。)

本人と家族や親類、隣組、友人、知人など周辺の人々の複雑な心の奥底はともかく、
総出による派手やかな見送りは、この頃はまだ日本中に見られる日常の風景だった。

昭和16年になると、召集は軍の機密としてひっそりと出征する所もあったようだ。
本編にも、徴用令書には<出征軍人と見える様子を隠し>集結するようにと
付記されていたとある。井伏は軍刀を釣り竿袋に入れた釣り人スタイルだった。

    ★ 徴用令状(正しくは徴用令書:白紙)がきた・・!! ★

      [ペンと剣]

文学者は、その文筆力において軍隊の対内外宣伝・報道活動に関わらざるを得なかった。
支配権力による厳しい言論統制下ではあるが、そこで文学者たちは何を書いたか・・・
“その人”が問われるところである。

『南方徴用作家』はこの問題を、井伏鱒二を含む13名の徴用作家について論じている。

その序論によれば、「昭和12〜13年には吉川英治、小林秀雄、石川達三、吉屋信子
等々は、新聞社・雑誌社の特派員として中国に渡って事変ルポを発表している。

またその頃、菊池寛を中心に従軍文芸家の詮衡が行われ、陸軍、海軍合わせて40数名が
従軍している。これが「ペン部隊」と呼ばれたもので、その後の徴用への布石となった。

昭和14年施行の「国民徴用令」が文学者に適用されるようになったのは昭和16年10月に
なってからで、ドイツのPK部隊(Propaganda Kompanien)を模倣したものである。

第一次徴用は同年11月中旬に発令され、今のところ30名が判明している。
この後第二次、第三次と同19年まで続き、合計70名以上の文学者が徴用された。
ほかに画家、映画・演劇・放送・印刷関係や教師等々多数の文化人が徴用された。」

    [阿佐ヶ谷将棋会メンバーの徴用]

      カンカン虫ではなかった!

井伏は、昭和16年11月、釣りをするため小田嶽夫と甲府の旅館に逗留中に徴用令がきたことを
知らされた。井伏44歳だった。同時に、小田嶽夫(41歳)、中村地平(33歳)にもきていた。
太宰治(32歳)にもきたが、太宰は検査で胸部疾患のため即日徴用解除となった。

「徴用令書」は召集令状の「赤紙」に対して、「白紙」と呼ばれていた。

最初は一般の徴用でカンカン虫をさせられると思ったが、実際には陸軍の南方地域に
おける宣伝報道要員の第一次徴用で、30名を超える文学者が対象になっていた。
井伏、小田、中村には「軍刀持参で大阪城天守閣前広場へ終結」の命令だった。

<カンカン虫 = 艦船、タンク、煙突などに虫のようにへばりつき、
ハンマーでかんかん叩いてさびとり作業をする者。(広辞苑)>

(井伏は、徴用解除の直後の著作「旅館・兵舎」(S18/2)に、この時の様子を詳しく書いているが、
それには、「旋盤工」になるものと思っていて、新村出編纂の「辞苑」で「せんばん」を引いたと
書いてある。 戦中には「カンカン虫」とは書けなかったのか、それともどちらかが創作なのか?)

      軍隊の位で佐官か尉官!

軍刀の調達にはそれぞれ苦労したようであるが、『南方徴用作家』の高見順の項に
「文芸家、新聞記者らは奏任待遇」とあり、佐官か尉官クラスの待遇である。
また同書に、榊山潤の備忘録に「月給は200円、海外戦時手当200円、3ヶ月に1度
200円のボーナスがでる待遇」、「月給が加俸150円に減った。しかも尉官になっている」
とあると記されており、榊山は当初佐官待遇であったことがわかる。

徴用文学者たちは、個人差はあるようだが相当の厚遇だったといえる。

     [東京→大阪→輸送船(日米開戦)→サイゴン→シンガポール→東京]

     本編には、具体的な日取りは記されていないが、井伏の『南航大概記』等によると、

         S16.11.17 本郷区役所で身体検査(他の多くの文学者も同様)
         S16.11.20 ピノチオで阿佐ヶ谷将棋会の送別会。他2ヶ所の送別会。
                夜、「井伏鱒二集」(改造社 S17.9)の解説・略歴を書き終えた。
         S16.11.21 東京駅から列車で大阪へ。(小田、中村、高見、寺崎、豊田が同道)
         S16.11.22 大阪集結で部隊編成。
              井伏と中村はマレー方面(丁班)、小田はビルマ方面(乙班)であった。
              丁班には、海音寺潮五郎、小栗虫太郎、寺崎浩、堺誠一郎、等がいた。
              乙班には、高見順、豊田三郎、山本和夫、等がいた。
              (本編には「乙班、マレー方面・丁班、ビルマ方面」とあるが、乙、丁は
              逆が正しい。)
         S16.12.2 大阪港より輸送船アフリカ丸に乗船。(乙・丁班はサイゴンまで同行)
         S16.12.8 香港沖航行中に対米英開戦を知る。
         S16.12.18 サイゴン港着(乙班と別れる)

         この後、井伏ら丁班は浅香山丸に乗り換えてタイのシンゴラに上陸(S16.12.27)、
         陸路マレー半島を南下して、S17.2.16に陥落翌日のシンガポールに入った。

         S17.2.19 英字新聞「昭南タイムス」の責任者となり、翌20日第一号発行。  
         S17.3.17 第二次徴用の神保光太郎、中島健蔵、到着。
         S17.4  下旬頃、「昭南タイムス」を退社。
         S17.6   「昭南日本学園」(神保光太郎が園長)で日本歴史を講義。
         S17.8〜 東京日日新聞、大阪毎日新聞に「花の街」(後に「花の町」と改題)連載。
         S17.11.22 徴用解除になり空路福岡に帰着。1年振りに荻窪の自宅に戻った。

    中村地平は・・・

『阿佐ヶ谷文士村』によれば、「中村地平はシンガポールで英字新聞から翻訳して出す印度語
新聞を担当した。昭南タイムスと同じ社屋にあったから井伏と中村はここでも一緒だった。
井伏はボール紙で将棋の駒を作り、早速中村を誘ったという。」

1年後、無事、郷里宮崎へ帰還し、戦後は宮崎県立図書館長を務めるなどした。東京へ戻ることは
なかったが、戦後の早い時期の阿佐ヶ谷会に2回出席の記録がある。(第三部に「中村地平」の項

    小田嶽夫は・・

『南方徴用作家』によると、高見順の項で「ビルマ方面への乙班はサイゴンからトラックで
プノンペン経由バンコク着(S16.12.29)」とあり、小田も同道していただろう。

この班は最前線に近い所での活動が多かったようだ。小田は「マンダレー作戦に従軍の時、
突如敵の小銃攻撃が起こり、弾丸が頭上を雨霰のように飛び、迫撃砲弾も飛んで来て
生きた心地もなかった。友軍の爆撃機の応援で敵は退散し、死傷者はわずかで済んだ。」
(S51「新潟日報」)と書いている。危機に曝されながらも1年後の12月に無事帰還した。

昭和18年12月の阿佐ヶ谷錬成忘年会(埼玉県日高町高麗神社で開催。終戦前最後の
“将棋会”)に出席し、翌19年9月に郷里の新潟県に疎開した。

         ・小田嶽夫(おだ たけお):明33(1900).7.5〜昭54(1979).6.2 享年78歳

新潟県生れ。本名は武夫。小説家・中国文学者。東京外国語学校卒業。外務省勤務ののち
作家生活に入り、中国在勤中の心象風景を描いた「城外」(S11)で第3回芥川賞受賞。
昭和4年〜同19年、阿佐ヶ谷(成宗・馬橋)に住み、阿佐ヶ谷将棋会最古参会員の一人である。
                                  (第三部に「小田嶽夫」の項


@@@ 雑記帳 @@@

   (1) 一口メモ 

   ・盧溝橋事件(日中全面戦争に発展)

近衛内閣(第一次)成立の翌月、昭和12年7月7日に北京郊外の盧溝橋で日中両軍の
部隊が戦闘を始めた事件である。戦闘そのものの規模は大きなものではなく、
翌々9日に停戦成立、11日に停戦協定が結ばれた。

原因は夜間演習をしていた日本軍に対して中国側が発砲したこととされたが、
その真相は今なお不明である。

日本政府は事件不拡大の方針をとったが、軍隊を増派したため全面戦争へと発展した。
日本は宣戦布告をしておらず、支那事変とか日華事変と呼んだ。

なお、日本軍が南京を占領した際(昭和12年12月)に、婦人・子供など非戦闘員を含む
「南京大虐殺事件」を起こし、当時国際的に強い批判を浴びたが、
一般の日本人がこの事件を知ったのは戦後の極東国際軍事裁判によってだった。

   ・国民徴用令

国民を政府の指定する業務に強制的に就業させるために国家総動員法に基づき出された勅令。
昭和14年7月公布。当初は同年1月公布の「国民職業能力申告令」の要申告者を対象とし、
徴用令の発動も限定的であったが、昭和16年以降発動の範囲が拡大し、
軍需工場への徴用が増大した。昭和20年3月に廃止され、「国民勤労動員令」に引き継がれた。

     (国家総動員法)

昭和13年4月1日公布。戦争または事変に際して国家が人的・物的資源の動員・統制を行うこと
を可能にした法律。政府に広範な権限を与える授権立法で、議会制を形骸化するものであった。

統制の対象は、労務、物資、資金、施設、事業、価格、出版と経済・社会活動全般におよび、
政府の必要に応じて勅令が出され、統制が実施された。
中でも国民徴用令は労働力統制に大きな威力を発揮。(敗戦後の昭和20年12月に廃止。)

     (国民職業能力申告令)

昭和14年1月に公布・施行された勅令。労働力の適正配置の前提として国民の職業能力の把握
を目的とし、戦時労務動員に緊要と認められる職業能力を有する者を職業紹介所に登録させた。
初めは一定の有技能者だけを登録させたが、やがてその範囲を拡大し、
昭和19年1月には、男子12歳〜60歳未満・女子12歳〜40歳未満となった。

     (勅令)

明治憲法下の法形式の一つで、天皇の命令として国務大臣の輔弼のみにより
帝国議会の審議を経ないで制定・公布されるもの。
天皇大権に基づき行政府は、法律を執行するための「執行命令」のみならず、公共の秩序
保持、臣民の幸福増進のための「独立命令」や、「緊急勅令」「官制命令」を発することができた。
      

   (2) 召集令状(赤紙)=徴兵制度

日本の徴兵制度は、「国民皆兵」を理念として明治憲法のもとで公布された「徴兵令」
(明治6年)に始まる。数次の改正を経て昭和2年にこれに代わって「兵役法」が制定された。

その基本は、男子は満20歳になると全員が徴兵検査を受けること、甲種合格者は「現役兵」
としてすぐに2年間(海軍は3年)の兵役に就くこと(徴集)、現役終了者、乙種・丙種は
40歳までは「在郷軍人」と呼ばれ、召集により入隊して兵役に就くこと、であった。
(丁種は、兵役に適さない者(兵役免除)、戊種は、判定しがたい者)

当初(平時)は、甲種合格者は抽選制度によって一部の者が入隊していたが、
日中戦争で兵員不足が生じ、昭和14年に抽選制度が廃止されて
甲種合格者は全員が入隊することとなった。(『赤紙』(NHK取材班著))

日中戦争開始後の改正は頻繁で、昭和15年には補充兵役は17年4ヶ月とし、同16年には
予備役と後備兵役を統合、同18年には大学生の徴兵延期制を廃止(学徒出陣)、兵役義務を
40歳から45歳まで引上げ、徴兵年齢を19歳へ引下げ(同19年検査から)などが行われた。

なお、陸軍と海軍ではその仕組み、制度に共通点はあるが、
研究的立場からは別物と考えた方が間違いが少ないといわれる。
参考までに陸軍の階級、兵役区分を表示する。

(参考表)
階級=陸軍 兵役区分(昭和16年=陸軍(召集,徴集))
(終戦時)
大将 20歳 40歳
中将  
少将 現役兵 予備役
大佐 将校 (2年) (15年4月) 第一国民兵
中佐
少佐 既教育者
大尉   第一補充兵
中尉 (17年4月)
少尉
准尉 准士官
曹長 第二補充兵 第二国民兵
軍曹 下士官 (17年4月)
伍長
兵長   
上等兵
一等兵
二等兵
 (注) 昭和11年に、特務曹長を「准尉」と改称。昭和16年に「兵長」を新設した。
将校、准士官、下士官の階級は即官名であるが、兵は官吏ではないので階級は官名ではない。
(『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』および『赤紙』による)
.

上表で「現役兵(2年)」以外の人々を軍は「在郷軍人」と呼び、普段は一般の国民として生活しな
がら戦争や事変が起こると急遽召集を受けて兵士となる、いわば予備軍である。(『赤紙』より)

召集令状が「赤紙」と呼ばれたのは、文字通り赤い紙に印刷、記入されていて、戦時定員を
充足するための「充員召集令状」と、戦時に必要に応じて召集する「臨時召集令状」があった。
昭和12年以降、召集(赤紙)を受けた人数、兵員数の推移は次表の通り。

(参考表)
年度別召集兵数 兵員数の推移(各年12月)
昭和  陸軍 海軍 陸軍 海軍 合計
12年 47 45.9 13.4 59.3
13年 47 113 19.5 132.5
14年 54.4 124 18.0 142.0
15年 52 135 22.3 157.3
16年 63 210 31.1 241.1
17年 47 240 42.9 282.9
18年 96 9.4 290 70.8 360.8
19年 68 18.4 410 129.5 539.5
20年 115 20.4 547.2 169.3 716.5
(注) 単位 万人 : 昭和20年は8月まで
. (『赤紙』から引用) .

なお、俗に「1銭5厘の葉書」が郵送されたというがこれは誤説で、市町村の兵事係が届けた。
また、召集にはこの赤紙のほかに、白紙の「簡閲点呼」「教育召集」「演習召集」
「国民兵招集(陸軍のみ)」、青紙の「防衛召集」などがあった。

徴集・召集による入隊以外に、「志願兵制度」があり、特に海軍は志願兵の割合が高かった。

敗戦により、昭和20年11月に兵役法は廃止になった。
現在の日本に徴兵制度がないことは云うまでもない。


   (3) 井伏鱒二の徴用体験と評価

文学者たちはそこに何を見て何を書いたか、あるいは書かなかったか、
厳しい言論統制のもとでのこと、戦後の著作・言動も合わせて
歴史認識の観点からそれぞれの評価が整理されるべきところと考える。

井伏鱒二については、『南方徴用作家』の次の記述を引用する。
(「井伏鱒二--戦争を拒絶する文体」(前田貞昭著)の冒頭部分)

「井伏は、徴用体験を抹殺したり、頬被りしてやり過ごしたような作家ではない。戦後も、戦時
体験・徴用体験を反芻してきた作家である。それどころか、戦後の井伏文学は、「黒い雨」を
始め、戦時体験・徴用体験を抜きにしては語れない。戦争責任を総括しないままに、敗戦
直後の「民主主義」的言説になだれ込み、いつしかそうした戦争体験を記憶の彼方に押し
やった人々が大多数を占める状況の中に置いたとき、敗戦後30年余を経てなお、「徴用中の
こと」に徴用体験を書き綴った井伏は、まことに稀有な存在だと評さなければならないだろう。」

なお、同書にはほかに榊山潤、高見順、火野葦平、石坂洋次郎、寺崎浩、
武田麟太郎、北原武夫、海野十三、佐藤春夫、大仏次郎、林芙美子、佐多稲子
について異なった著者が分担して論じている。

  
この編では主に次の図書を参考にした。    (H15/1UP)

『南航大概記』    井伏鱒二著  (初出:昭和18年)
『徴用中のこと』  井伏鱒二著  (初出:昭和52年〜55年)

『南方徴用作家』    神谷忠孝 木村一信編 (平成8年)
『赤紙』         小澤真人+NHK取材班著 (平成9年)
事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』 百瀬 孝著 (平成2年)


(七)阿佐ヶ谷将棋会 = 三流作家の心の支え (九)二・二六事件の頃 = 荻窪にも襲撃隊

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