第三部 阿佐ヶ谷文士それぞれ (人生と文学)


青柳瑞穂 (あおやぎ みずほ) 

明治32(1899).5.29 〜 昭和46(1971).12.15 (享年72歳)

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将棋会 第1 出発期 (S3〜S8)】の頃  (“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像


= 文学の道 / 骨董の道 =

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

年譜は、主として『ささやかな日本発掘 - 現代日本のエッセイ 巻末(青柳いづみこ編)』に拠った。

   *阿佐ヶ谷界隈の最古参 ---

青柳瑞穂が、終の住処となった阿佐ヶ谷の家(現表示は阿佐谷南3丁目)に住んだのは
昭和2年4月からである。しかしその前、大正12年(24歳)の結婚当初は荻窪に住み、
翌年5月にはそこで長男が生まれている。その後、この界隈で小刻みな転居を経たが、
阿佐ヶ谷界隈に住んだということでは、実際には安成や井伏よりも早く、最古参である。

   *人物像は ---

青柳は、詩人・仏文学者・翻訳家・古美術発掘家として知られているが、井伏は、
「温厚に見える粋人だが一徹」、「骨董のこととなると勝負をしているように別人になる」
と評し、奥野信太郎(級友、後に中国文学者・慶大教授)は「青柳はめずらしく柔軟な
感情をもっていた。その感情から植物の芽のように生えのびている鋭敏な触手は、
すぐれたもの、うつくしいものを、貪婪に吸収していった。」と評している。

孫の青柳いづみこはその著「年譜の行間」などで、身内の立場から特に祖母(瑞穂の先妻
とよ)の死に関して、「『ささやかな日本発掘』の穏やかな筆致からは想像もつかないが、
サディズムは、祖父の中に棲みついていた。」と書き、とよはその犠牲者だったなど、
外からは知ることのできない瑞穂夫婦・親子の関係や生涯を赤裸々に描出している。

青柳いづみこ -- 瑞穂の長男家の長女(S25生)。東京芸大博士課程修了。 ピアニスト。
ドビュッシー研究家。CD、音楽関係著書多数。大阪音楽大学教授、朝日新聞書評委員(H16)。

参考サイト ピアニスト、文筆家 として活躍中 青柳いづみこ(公式ページ)

   *慶應へ ---

青柳は、大正8年(19歳)に慶大仏文科予科に入学、山梨県から上京して淀橋柏木
(現西新宿)の借家に住んだ。大正10年には西大久保の借家に移ったが、この間に同級の
蔵原伸二郎、翌年には奥野信太郎とも同級となって親しくなり、お互いの交遊が深まった。

東大法学部の学生だった野尻清彦(後の大仏次郎)とも共通の話題のフランス文学を通じて
親しくなり、柏木の借家では1年か2年くらい同居生活を送ったと青柳は回想している。

借家の1室にはピアノも置いてあった。音楽にも心を惹かれていたのである。
部屋にはドビュッシーやラベルの楽譜が積み上げられていたが、そこが仲間の
溜り場になって、蔵原と奥野は毎日のように訪れ、文学論、恋愛論に熱中していた。

優雅な学生生活である。第一次世界大戦が終り(T3〜T7)、好景気はその反動で
大きく後退した時期にあたるが、偏に生家の財力によるものとしか考えようがない。
青柳は「貧乏な慶應の学生だったが贅沢を嫌うものではなかった。」とも書いている。

   *生家と土蔵 ---

瑞穂は、明治32年5月、山梨県高田村(現市川大門町)に4男5女の末子として生まれた。
父、青柳直道は裕福な地主で県内では漢詩人として知られる文人でもあった。

青柳家はかっては質屋を営んだことがあり、土蔵には数多くの書画骨董の類が
収められていて、瑞穂は幼い頃からそこで遊ぶことを楽しみにしたという。
文学の才、古美術に対するセンスとも天性のものであったかもしれない。

高田村小学校では、現在の世界的名指揮者小沢征爾の父、小沢開作と同級だった。
県立甲府中学校を卒業(T6・17歳)すると進学せずフランス語を独学し、
2年後(T8)に上京して慶大文学部予科に入学したのである。

   運命の出会い ---

     蔵原伸二郎

青柳は後に、「もし蔵原伸二郎と出会わなかったら、自分はどんな人間になっていたこと
だろう、・・・」と述懐しているように、蔵原は青柳の人生の岐路に深く関わった存在だった。
一つは萩原朔太郎の詩をもたらしたこと、一つは書画骨董の世界へ誘ったことである。

慶應予科時代に、蔵原も青柳も<三田文学>に詩を発表(T10)し、二人は詩人としての
スタートを切った。青柳は卒業(T15)後は堀口大學に師事し、創作詩の発表を続けたが、
詩集「睡眠」を刊行(S6)した頃には詩作から離れ、フランス文学の翻訳が多くなっていた。

青柳は、蔵原によってもたらされた萩原朔太郎に耽溺した結果、「萩原朔太郎という
大きな暗礁に乗り上げて、にっちもさっちもいかず・・・」詩を離れたと書いている。
青柳の詩作の行き詰まりは、当時流行のモダニズムの影響が大きいとも評されるが、
詩作に代わり青柳の心を捉えたのが美術の世界だった。これも蔵原の先導だった。

『蔵原伸二郎選集』の年譜には、「大正12年、『青猫』が出て、初めて萩原朔太郎を知る。」とある。
青柳の記述ではこれより2〜3年前のことと読める。 「月に吠える」の出版は大正6年(再版はT11)
なので、蔵原が『青猫』まで朔太郎を知らなかったとは考えにくいが・・・。記憶(記録)の間違いか?


青柳が大正13年に阿佐ヶ谷へ転居すると、数十歩・数百歩の地点に、同年10月に結婚
したばかりの蔵原が越してきた。青柳は結婚届に保証人として署名した。しばらくして、
大正末か昭和初頭のある日、蔵原は古道具屋で買ったばかりの安い1枚の皿を青柳に示した。
青柳はこれに完全に魅了された。心奥の美意識が呼び覚まされ、骨董の世界に没入していく。

     妻(とよ)と山本家 

青柳は在学中の大正12年12月に山本とよと結婚して荻窪に所帯を持った。とよの実家は
静岡県引佐郡伊平(いだいら)の山本家で、広大な山林を所有する富裕な地主だった。

長男誕生(T13/5)の秋には、山本家が所有する阿佐ヶ谷の貸家の一つに転居したが、
義父との不和からそこを出た(T14夏)。昭和2年から終の住処となった阿佐ヶ谷の
家に移り、そこで長女が誕生(S2/7)した。この家も山本家の持ち家の一つだった。

この結婚は、今風にいえば”できちゃった婚”で、入籍しただけで結婚式は行っておらず、ここに至る複雑な
経緯とここから始る青柳家の私生活の一端が孫娘(いづみこ)の目で『年譜の行間』や『青柳瑞穂の生涯』
などに詳記されている。そのまま事実なら、とよの死(S23)はあまりにも痛ましく、哀しい家族関係である。

山本家当主はとよの兄気太郎になった。気太郎は青柳の生涯における最大の
恩人といって過言ではない。青柳の人生の岐路に関わった存在が蔵原なら、
その人生を物心両面で支えたのが気太郎である。 青柳と”ウマが合った”ことも
あろうが、妹とよへの兄の深い情愛がそうさせたといってもよかろう。

気太郎も慶大仏文科出身で青柳の少し先輩である。骨董に関心を持ち、蒐集もしていた。
青柳のよき理解者として骨董購入資金だけでなく、生活費までも面倒を見ていた。
気太郎の長男(仟一)は、東京の学校へ通うため、小学校3年(S11)から9年間を
青柳家に預けられている。両者には姻戚関係という以上の深い繋がりがあった。

青柳は頻繁に伊平の山本家を訪ね、この地に眠っている古美術品を発掘している。
有名なものに、鎌倉末期の能面”父尉(ちちのじょう)”(S10)と”平安の壷”(S14)が
ある。山本家の威光もあって地元の人々の協力が得られたようである。

後年(S30年台前半頃)、青柳は師堀口大學を案内して伊平の山本家を訪れ、約1週間
滞在した。堀口大學はこのときすでに著名な文化人であり(昭和54年、文化勲章)、
青柳は山本家に対し、山本家は地元に対して大いに面目を施した。
山本家が心を込めて最高のもてなしをしたことは云うまでもない。

気太郎は、昭和35年1月、風邪をこじらせて肺炎のため急逝した。享年64歳だった。
遺骨は以前青柳が贈り、気太郎が愛蔵していた”弥生の壺”に収められた。

   *そこで”阿佐ヶ谷将棋会” ---

井伏は「青柳瑞穂と骨董」に、「青柳君が骨董好きになったのは、慶應の文科にいるとき
からであったという。同級の蔵原伸二郎君と一緒に、阿佐ヶ谷の田端さんという骨董好きの
社会人の指導を受け、慶應を卒業すると田端さんの家の近くに引越した。蔵原君もその近くに
所帯を持った。ぼくがつきあいはじめたのはそのころだが、・・(以下略)」と書いている。

”田端さん”のことは他の記述が見当たらず不詳だが、井伏が早稲田から荻窪に越したのは
昭和2年であり、この頃に青柳・蔵原と井伏との近所付合いが始まったということだろう。

青柳は将棋はしなかったが、酒は母に似て強く、若年時から父の代理で酒席にでていた。
蔵原は、井伏や小田によれば、酒はあまり強くなかったが、酒の付き合いはよくしていた。
井伏らの将棋後などの酒の席に、この二人が一緒だったことが十分考えられる。
井伏は、「小田君についての点描」(S60)で、会員名として蔵原の名も掲げているので、
青柳はもとより、蔵原も”将棋会出発期会員”の一人だったとすべきかもしれない。

会場は、界隈の居酒屋、屋台あるいは井伏宅・・・・か。安成(T15)、田畑(S3)、小田(S4)、
木山(S7)の顔が揃い、太宰、中村が東大に入学して井伏宅に出入するようになった(S5)。
文学はもちろん、酒や将棋、骨董などで知り合い、付き合いは徐々に深まっただろう。

蔵原は交友が広く、界隈の文学青年同士を結びつけるような存在だったが(別記)、
昭和9年秋頃に当時の大森区雪谷へ転居し、さらに世田谷区奥沢へ移って(S11)、
阿佐ヶ谷文士との交遊はほとんど絶えた。文学上の理由があるともいわれる。

   *家計は火の車 ---

阿佐ヶ谷に落ち着いた年(S2・28歳)の7月、長女が誕生した。親子4人の生活となったが、
青柳は前年(T15)の慶大卒業後も定職には就いておらず、自身に収入はほとんどなかった。

青柳いづみこは、「山梨県の生家から毎月送金があったが、それだけではとても生活できず、
生活費の大半は気太郎の援助に頼っていた。生活には十分な援助の額であったが家計は
いつも苦しく、とよの苦労は並大抵でなかった。お金は骨董に消えていた。」旨を書いている。

気太郎の息子仟一は「勘当同然の叔父」と書いており、多少の生活費援助はあっても、
山梨の生家との関係が良好ではなかったことが窺える。生家はこの結婚や青柳の生き方
を快く思わなかったのだろう。結婚以降の生家との関係を物語る記述はほとんどない。

青柳の仕事は、詩作から翻訳へと移り、骨董の世界にも本格的に引き込まれていた。
このころの作品が初の詩集「睡眠」(S6/1)に収められているが、この刊行時にはすでに
前記の事情で詩作を離れ、生活の資を得るためもあって主に翻訳に取り組んでいた。

”翻訳”は文学としてはまだその価値が低く見られがちな時代だった。詩作に行き詰まり、小説も得手
でない青柳にとっては極めて辛い時期だっただろう。仕事も早くはなかったが、高山鉄男慶大教授は、
「青柳は言葉の美しさを何よりも大切にしており」、「その訳文には、流麗という形容がまさにぴったりで、
いずれも名訳の名に恥じない。」と評している。(『ささやかな日本発掘 (巻末「人と作品」)』)
(戦後、ルソーの「孤独な散歩者の夢想」(S23)で第1回戸川秋骨賞(S24)を受賞。)


この間、昭和3年に請われて作詞した慶應義塾の第二応援歌といわれる「丘の上」は、
今も学生・OBに親しまれ、歌い継がれている。(作曲:菅原明朗)
応援歌というより、カレッジソングというに相応しい歌詞とメロディーである。

青柳は、当時のことを、「礼金として70円もらった。70円といえば、相当大金であった。
私はこれで宋代の玳玻盞天目(たいはさんてんもく)を買った。」と書いている。
巡査の初任給45円の時代、記念とはいえ、苦しい家計の中で骨董の茶碗を
購入したところが当時の文士の面目か。それとも骨董の魔力だったのか・・・?

   *<雄鶏> 同人に ---

青柳の文士としての活動は<三田文学>への詩の発表(T10)に始り、卒業(T15・
26歳)後は生涯の師となる堀口大學の門下になり、堀口が関係する<パンテオン>、
<オルフェン>、<セルパン>、などに創作詩、フランス文学翻訳の発表を続けた。

別記のように同人誌全盛の時であった。蔵原は慶應系の<葡萄園>に加わって詩を
発表している(T14)ので、青柳の名もどこかにあろうかと思ったが見当たらなかった。
私生活面や骨董のことで同人活動に参加するだけの余裕がなかったのだろうか。
その後は堀口の下にあり、作品発表を同人誌にする必要はなかったこともあろう。

昭和6年に、田畑・小田・蔵原らが創刊した同人誌<雄鶏>に参加し、詩を発表している。
すでに詩作から離れた時期なので、当時の数少ない詩の一つである。(ずっと後になって
刊行(S35)の『睡眠前後』に収録)。この<雄鶏>に加わったのは、川崎長太郎・中谷孝雄・
中山省三郎など15名で、内11名は阿佐ヶ谷界隈に住み、みんな一様に貧乏だった。

<雄鶏>は出版社変更のため<麒麟>と誌名を変更(S7/8)したが、ここに青柳は同人として
随筆を寄稿している。この年、外村繁も同人に加わり、翌8年阿佐ヶ谷に越してくる。

昭和4年頃から、詩作から翻訳へと方向転換した青柳は、「怪談 仏蘭西編」(S6)、
「仏蘭西新作家集」(S8)などを刊行。これらが認められて翻訳家としての地位を確立した。

昭和7年12月には、骨董に関する初めての随筆を<セルパン>に発表した。
”文士の顔・骨董の顔” を持つ青柳瑞穂が出発し、”将棋会”は第2期 成長期に入る。

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【将棋会 第2 成長期 (S8〜S13)】の頃  (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 赤紙 & 「尾形光琳」発掘 =

昭和8年(1933)、青柳 34歳。 ”将棋会 第2期 成長期” は青柳の30代後半にあたる。
第1期において ”文士の顔と骨董の顔” を持つに至るまでを記したが、第2期に入ると青柳の
心は文学よりも骨董の世界に傾き、妻とよの兄、山本気太郎の援助なくしては生活できない
状態がさらに続いた。そして昭和12年には召集と光琳発見という人生の一大事が待っていた。

青柳本人の著書と孫娘青柳いづみこの著書を主体に青柳瑞穂の大事を辿った。


このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *ささやかな日本発掘 ---

      ・文学活動  ・・翻訳は評価されたが・・

詩作に行き詰まり、創作も不得手で、青柳の文学活動の主体はフランス文学の翻訳に
移っていた。昭和8年に刊行した「仏蘭西新作家集」はそれまでの翻訳作品の収録だが
これが評価されて翻訳家としての地位を確立し、昭和10年には第一書房の依頼で
「フランス現代小説・反逆児他4篇」の翻訳にとりかかり、翌11年に刊行している。

村上菊一郎が随筆「阿佐ヶ谷界隈」(S53)に、学生時代に青柳の翻訳の
下請けをさせてもらったと書いているが、この頃のことである。

同人誌では、青柳が参加していた<麒麟>の同人が<小説>や<青空>の同人とで
創刊(S9/4)した<世紀>に加わり、その創刊号に短編小説「隅田川」を発表した。
注目された作品ではないが、青柳にとっては活字になった唯一の小説とされる。

<世紀>はさらに<新文芸時代>などと合体して<文学生活>となり(S11/6)、青柳も
この同人となって「小田君のいる風景」(S11/10)を書いている。
<麒麟>、<世紀>、<文学生活>の同人、刊行などのことは、浅見淵の項に詳述)

他にも<セルパン>(S8/8)に随筆「トマト」を寄稿するなど執筆活動はしているが、
その量は多くない。このとき青柳の心を捉えていたのは文学よりも骨董だった。
青柳の同人活動には、文芸復興の機運に乗って積極的に行動する阿佐ヶ谷界隈の
文学仲間の一員として骨董を語り合いたいという気持が込められていたのだろう。

      ・鎌倉末期の翁の面発掘  ・・静岡県引佐郡(山本家)・・

昭和10年春、青柳は妻の実家山本家がある静岡県引佐郡(いなさぐん)で翁の面を
購入した。東京へ持ち帰って詳しく調べたところ、正和五年(1316:鎌倉末期)の作で、
「能面 父尉(ちちのじょう)」と判った。昭和30年には京都国立博物館に出陳されている。

参考サイト 能楽への誘い -鑑賞の手引き-    翁面 「父尉」

井伏は「荻窪風土記 - 二・二六事件の頃」に、この面を入手するまでの青柳の苦労話を
外村繁に聞いたと詳しく書いている。青柳本人は「ささやかな日本発掘 - 3 面との出会」
を書いた。内容に多少の違いはあるが、青柳は骨董探しで山本家を頻繁に訪れており、
その協力と、地元の指物師”友さん”の情報、行動力で蒐集してきた成果の一つだった。

青柳によれば、”友さん”とは30年来の付き合いで、つまり昭和初頭から”友さん”を
通して数々の骨董を探し出していた。「父尉」の他にも昭和14年に入手した「平安の壺」
(平安時代の自然釉壺)は注目され、翌15年、当時の帝室博物館の日本文化史展覧会
に出陳された。青柳はこの壺のことを同著に「 5 壺との出会い」と題して書いている。

「ささやかな日本発掘」(S35/10:新潮社)は青柳の初のエッセイ集である。表題作のほか美学論的な
随筆25編が収められ、昭和35年度の読売文学賞(評論・伝記部門)を受賞した。表題作は5部構成で
1. 村との出会 2. 石皿との出会 3. .面との出会 4. 光琳との出会 5. 壺との出会 から成り、その
入手経路が分るが、同時に青柳の美の見方、感じ方、古美術への愛着、郷愁を伝える内容である。
ちなみに、この時外村も「澪標」で読売文学賞(小説賞)を受賞し、二人で揃って授賞式に出かけた。

      ・生活の資  ・・山本気太郎に頼る・・       

”翻訳”は、現代とは異なり、文学としての価値は一段と低く見られがちな時代だった。
生活の資を得るためもあっただろうが青柳にとっては辛い時期が続いたのである。

しかし、仕事量は多くなかった。注文が少なかったのか、それとも仕事が遅かったのか。
孫娘の青柳いづみこは、”勤勉に仕事をする方ではなく、仏語力には難があった” ように
書くが・・・。 翻訳では生計は成り立たず、義兄 山本気太郎に頼らざるを得なかった。

昭和11年から9年間、気太郎の長男仟一(小学校3年)は東京の学校へ通うため、
青柳家に預けられた。両家には姻戚関係という以上の深い繋がりがあったといえる。
気太郎は仟一にかかる実際の費用を大きく上回る金額を毎月送金した。
いづみこによれば、毎月200円で、当時は親子4人が十二分に暮らせる金額だった。

仟一は、青柳は山梨の実家からは勘当同様の状態だったと書いている。この年(S11)
に実父が他界したので、ここで実家との縁は全く途絶えたのではないか。青柳は
その後の実家のことは書いていない。というより妻の郷里静岡に愛情を示す一方で、
山梨には嫌悪感を顕わにしている。山本家、気太郎との親密な関係を物語っている。

しかし、いづみこは ”青柳家の家計はいつも苦しかった。妻とよの心労は並大抵では
なかった。気太郎から送られたお金は生活にではなく骨董に消えていた・・。”
旨を書き、このことが、後には青柳家の家庭崩壊に繋がったと見ているようだ。

それはさておき、青柳は骨董に没入し、入手に要する莫大な資金も気太郎に頼った。
青柳にとって気太郎は大恩人であり、神様のような存在だったといって過言ではない。

   *「赤紙」来る!! ---  

ファシズムの勢いと戦争への流れは止まらなかった。日中戦争で国民は否応なく大陸の
戦場へと送り込まれた。兵員増強のための召集令状(俗に「赤紙」)が大量に発せられた。

昭和12年10月、すでに38歳になっている青柳にもこの「赤紙」が来た。
青柳は盛大な見送りを受けて入隊したが、間もなく召集解除となって帰宅した。

井伏は「荻窪風土記 -続・阿佐ヶ谷将棋会」や「青柳瑞穂と骨董」(S47)にこの状況を
”中隊長は全員を整列させ、軍服が3着不足のため除隊されたいものは3名だけ前へ
出るよう命じた。青柳は前へ出て帰された” ように書き、小田嶽夫は「文学青春群像」
(S39)に、”下士官は民家に分宿中の5人を整列させ、この中で戦地へ行かれるのは
2人だけなので希望する者は挙手するよう命じ、青柳は手を上げなかった”ように書く。

そして、井伏も小田も、”帰ってきたのは1週間か10日後”と書いているが、
青柳本人は前著「4.光琳との出会」に、 ”過剰人員ができたため、九段の宿舎で
1ヶ月ばかり過ごした後でとつぜん家に帰された” と書くだけで、事実は定かでない。

入営の期間を含め事実は藪の中だが、井伏は ”この時召集された若者の何人かは、
杭州湾上陸作戦に参加して戦死している。青柳が隊にとどまっていたら殺戮の場に
送り込まれたかも知れなかった” と続けている。 生死の岐路だったのかもしれない。

   *召集解除と光琳発見 ---

青柳は召集解除後間もなく、古物商で”思いがけない美しいもの”に出会ったのである。
前著「4.光琳との出会」によれば、家に帰って3日目に、青梅街道にあるS君の店で、
先客が買わなかった光琳の落款のある肖像画を、偽物扱いの値段で購入した。鑑定の
結果、尾形光琳唯一の真筆の肖像画で、「中村内蔵介(助)像」であることが判明した。
翌13年に重要美術品(後に重要文化財)に指定され、現在は大和文華館の所蔵である。

参考サイト 大和文華館

ところで・・・、青柳の入隊から光琳入手までの経緯は実際のところは判然としない。 
昭和12年10月に応召したこと、召集解除で家に帰ったこと、そして古物商で光琳の落款のある
肖像画を購入したこと、は確かだが、細部についての青柳の記述ははっきりしないのである。
井伏や小田など他の人の記述は、青柳の話や伝聞が素材なので真偽のほどは定かでない。

昭和51年刊行の「古い物・遠い夢」(新潮社)には、巻末に「年譜のように」という項があり、そこに当時の
状況を記した青柳自身の文章の一部が2編載っている。 1編は光琳発見直後執筆の稿「光琳を得る日」
(掲載誌不明)で、 2編目は戦後に書かれた「肖像画 -ほりだしものがたり-」(掲載誌不明)である。
これらとその後に書かれた前著「4.光琳との出会」を読み比べると、3編の間には明らかに違いがある。


私見だが、青柳はこの一連の人生の大事・快挙を記録に残そうと思えば、正確に記述できたはずだが
それをしていない。 ここに青柳のもう一つの顔 ”文士の顔” が見てとれるのではないだろうか。
3編それぞれの違いは、執筆時期による記憶違いや勘違いというものではなく、意識的である。
特に前著「4.光琳との出会」に記された購入までのいきさつには創作性が強いように感じる。
「ささやかな日本発掘」は、この「4.」だけでなく全編について同様のことが窺えるので、エッセー
というよりは、全5部からなる骨董美探求が主題の ”私小説” の傑作と解したいが如何だろう。

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

     ・仕事部屋を増築 ・・後に阿佐ヶ谷会々場・・ 

昭和11年、阿佐ヶ谷の家には青柳夫婦と長男(12歳)、長女(9歳)に、気太郎の
長男仟一(10歳)が加わった。手狭になったため、費用は全て気太郎に頼った
ようだが、青柳は4.5畳の自分の仕事部屋と、子供部屋、風呂場を増築した。
この仕事部屋(書斎)で骨董を愛で、翻訳に取り組み、訪問客や文学仲間たち
と置酒歓語、そして後には隣の6畳を合わせて阿佐ヶ谷会が開かれることになる。

     ・青柳怒る ・・田畑と仲違い・・

骨董のため文学活動は滞ったが、界隈の文学青年の動きに合わせ同人誌には参加し、
井伏を初め”会”の面々との交遊も積極的に続けていた。めぼしい骨董を入手すると、
そうした面々に披露していたが、先の能面「父尉」をめぐっては田畑修一郎と仲違いが
生じた。青柳が丁重に取り出した「父尉」を見るや田畑がプッと噴き出したのである。
井伏は「荻窪風土記 -二・二六事件の頃」や「青柳瑞穂と骨董」などに記している。

井伏や外村が気を揉んで仲直りに努めたが、誇りを傷つけられて怒り心頭の青柳は
収まらなかった。これ以前にも、田畑は青柳の蒐集品を見て、これなら自分の故郷
にはいくらでもあるというようなことを云って青柳の感情を損なったことがあった。
両者の骨董に対する価値観、接する姿勢の違いが根本にあり、
井伏は「骨董のことになると青柳は勝負しているように別人になる。」と評している。 

     応召で”別れの宴” ・・蔵原は居ない・・

青柳の応召で、青柳宅に文学仲間が集まった。村上菊一郎の年譜の記述を再掲する。
「昭和12年10月 青柳瑞穂氏応召、青柳氏宅にて、氏の壮行会を兼ねた阿佐ヶ谷会が
行われる。出席者は村上の他、外村繁、小田嶽夫、太宰治、井伏鱒二、田畑修一郎、
中山省三郎、秋沢三郎、
福田清人、伊藤整、長谷川巳之吉、保田与重郎の諸氏。」

青柳の ”文士の顔” の面目躍如である。田畑の名前があることにも安堵の思いである。
このころの、青柳との親交の深さを示す面々と考えてよかろう。
(長谷川巳之吉は第一書房創立者。”豪華版”刊行など、出版界で特異な活躍をした。
堀口大学訳「月下の一群」は有名である。昭和19年、講談社に営業譲渡し廃業した。)

小田も ”青柳は親しいもの20人位を呼んで、いわば別離の宴を張った。宴席は重苦しく、
憂愁の気に充たされるのを避けられなかった” と書いているが、この会のことだろう。

青柳を骨董の世界へ誘った蔵原伸二郎は、この時すでに阿佐ヶ谷を去り(S9秋頃)、阿佐ヶ谷文士との
交友をほとんど絶って再び詩作の道を歩んでいた。 昭和14年に初期の代表作である初の詩集
「東洋の満月」を刊行したが、昭和9年9月から1年間 <コギト>に発表し、萩原朔太郎の激賞を受けた詩篇
がその一部になっている。蔵原の転居には独自の詩作に回帰した文学上の理由があったことが窺える。

     友人葬 ・・緒方隆士の死・・

昭和13年4月28日、緒方隆士が死去し(享年33歳)、葬儀は7人の友人で行った。
2期 小田嶽夫の項に詳述)。  いわば7人による友人葬で、その1人が青柳で
あった。緒方とは<雄鶏>(S6創刊:S8<麒麟>と改題)、<世紀>(S9/4〜S10/4))の
同人仲間だったが、骨董に心を奪われた青柳が特別に親密だったとは考え難い。
それでも葬儀の前に火葬場の方へ駆けつけ、そこでお骨のことや費用の相談に
加わっているところに、青柳が”情誼の人”であった一面を窺い知ることができよう。

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 青柳は”阿佐ヶ谷文士村”草分けの一人で、昭和初頭から井伏ら界隈の文学青年
たちとの親交を深め、将棋は指さないが”将棋会”の最古参会員だった。
この第2期(成長期)に、青柳の”骨董の顔”は社会的にも注目されるようになり、
仲間の中では特異な存在となるが、いづみこの目から見ると次のようになる。

「瑞穂は仲間たちの発するすさまじいエネルギーに恐れをなし、尻尾を巻いて、一番楽な
骨董の中に逃げこんでしまったのではないだろうか?私には骨董の中から首だけ出して、
きょろきょろ外を眺めている彼の姿が目に見えるような気がする。」

”将棋会”は記録がある第3期(盛会期)に入るが、その最初の会(S13.3.3)の参加者
に青柳の名は見えない。木山の日記などには主に勝敗のことが書かれているので、
対局をしない青柳の名前は洩れたのかもしれない。青柳の不参加は考え難く、
対戦の席はともかく、二次会(ピノチオ)には参加していたのではないだろうか。

いずれにしろ、以降、青柳宅では骨董の鑑賞会やそれを兼ねた将棋会を開催するなど、
青柳は”会”の主要メンバーの役割を果し、それが戦後の阿佐ヶ谷会へと続くのである。

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【将棋会 第3 盛会期 (S13〜S18)】の頃  (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 骨董 & 骨董 & 文学少々 =

昭和13年(1938)、青柳 39歳。 ”将棋会 第3盛会期” は青柳の40代前半にあたる。
第2期において 光琳筆の肖像画を発掘するなど骨董関係では社会的に注目される存在に
なったが、反面、文学活動は低調にならざるを得なかった。 この第3期、文学青年だった
仲間たちは、文士となって活発に活動するが、青柳は骨董への傾斜を一層強め、
収入は乏しく支出は過大で、生活の資は、妻とよの兄、山本気太郎に頼っていた。

日中戦争から太平洋戦争へ、しかし青柳が残した随筆などには、その緊迫感は薄い。
家族は貧窮生活を強いられたが、青柳自身は骨董漬けの日常だったからなのか・・。

本項は、主に青柳瑞穂著「ささやかな日本発掘」と、孫娘青柳いづみこ著「青柳瑞穂の生涯」
を参考に、前項に続き青柳瑞穂の人生を辿る。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *骨董&骨董 ---

      ・光琳の肖像画が「重要美術品」指定

前項では、光琳筆の肖像画入手の経緯について触れたが、その後、青柳は自室に
その画を掲げてゆっくり点検、鑑賞した。 まず、青柳の心を惹きつけた肖像画の主
「藤原信盈」(讃に名がある)、微妙な複雑な雰囲気を醸して座すその人物について
思いをめぐらし、正体を確かめようと努めたが、青柳が得心できる情報はなかった。

もちろん、光琳の真筆であるか否かは、専門家の鑑定に委ねざるを得ないが、
その前に青柳なりにこの画のことを熟知しようと努力する心情は十分理解できる。
この画に没頭する日々が続いたであろう、そんなある日(昭和13年春頃だろう)、
青柳は、上野で帝国美術院付属美術研究所(八代幸雄所長:現在の東京文化財
研究所)に勤める慶応大学同窓の菅沼貞三に偶然に出会った。10年ぶりという。

青柳が、この肖像画のことを話して、ともかく一見しようということになった・・。
そしてその結果が「真筆」だったのである。

菅沼らの調査、研究で、3年後になってようやく肖像画の主「藤原信盈」は、
「中村内蔵助」であることが判明した。中村家は京都の銀座の役人で、貨幣鋳造に
携わって莫大な財を成し、内蔵助は光琳のパトロンとしても知られていた人物である。

「衣裳競べ」の催しで、”綾羅錦繍目もあやな美装”の中にあって、内蔵助は妻に白無垢
の下着に黒羽二重の小袖を着せて他を圧倒したという有名な逸話が残っているが、
この趣向を授けたのが光琳であったという。 この伝え(随筆「翁草」:神沢杜口(1710
〜1795)著)によれば、この後、内蔵助らは奢侈が過ぎるとの理由で財宝没収、遠島
となった。島から帰ってからの内蔵助は一文人として生涯を終わった(1730没・61歳)。


青柳いづみこによれば、その後、この肖像画は、この年(S13)9月に「重要美術品」に
指定され、上野の帝室博物館(現在の東京国立博物館)にも展示されることになった。
戦後、昭和32年3月に、八代幸雄が奈良に設立準備中だった大和文華館
(開館は昭和35年)に売却され、2年後(S34年)に「重要文化財」に指定された。
審査会議の席上、「真筆ではない」と最後まで反対した委員がいたとのこと。

青柳は、「あるコレクターの告白」の中で、「重美に指定されるその会議で、これを
光琳の真筆ではないとして、最後まで反対した、当時著名な審査官がいたということを
聞いている。」 と書いている。 重文指定に反対した委員は、同一人物かもしれない。

光琳の真筆と鑑定されて以降、画はずっと博物館に預けられ、各所の展覧会からの
出展依頼にも応じていたが、この売却で現在は大和文華館の所蔵となっている。

      ・「平安の壺」入手

青柳の随筆「ささやかな日本発掘 - 5 壺との出会」である。

光琳筆の肖像画が縁で菅沼貞三をはじめ、多くの美術の専門家との親交が広がった。
昭和14年8月、青柳はそうした専門家たちと東大寺三月堂の執金剛拝観のため奈良
を訪れ、帰途、浜松で下車して伊平へ寄った。山本家に3日間滞在して帰京の準備を
したところへ”友さん”が来たので、いつものように情報を引き出すうち、中川村(後に
気賀町と合併して細江町気賀)の農家に、都田川下流の水の引いた土砂から小学生
たちが見つけて掘り出したという釉のかかった土器風の壺があることがわかった。


青柳は、「ささやかな日本発掘 1. 村との出会」に
妻とよの実家「山本家」がある伊平村のことを書い
ている。浜松駅からバス(渋川行)で三方原を抜け、
金指の手前で都田川を渡り、北上すること約1時間。

浜松市北部、国道257号沿いで、愛知県境に近い。

青柳が頻繁に訪問していた昭和初期の行政区画は
「静岡県 引佐(いなさ)郡 伊平(いだいら)村」で

昭和30年に 「引佐郡 引佐町 伊平」 となり、
さらに平成17年に、
「浜松市 北区 引佐町 伊平」となって
現在に至っている。

「平安の壺」は都田(みやこだ)川が浜名湖に注ぐ
「気賀」(一帯の地名は細江)で発見された。
(気賀町は、昭和30年に中川村と合併して
細江町気賀になり、現在は浜松市北区。)

なお、青柳が「伊平川」と書いている国道257号線
沿いの小さな川は、左の地図には縮尺の関係で
表示がないが、「井伊谷(いいのや)川」である。
あるいは、地元の伊平辺では、「伊平川」と通称
しているのかもしれない。 気賀で都田川に注ぐ。

左図は、YAHOO!JAPAN地図から


青柳は、帰京を1日延ばして、その農家を訪問した。その壺を初めて目にした時の
様子を、「壺は中庭に面した縁側にさりげなくころがしてあったが、柿の青葉から
洩れる日光を受けて、この壺の半面をうずめている碧色の自然釉はかがやくようで、
私は目くらむ思いさえした。」と書いている。 持ち主の小学校の先生と交渉した。

青柳いづみこによれば、青柳が拍子抜けするほど安い値段で購入した。以前10円で
欲しがった人がいるから15円でどうかというような交渉だったという。銀行員の初任給は
70円、コーヒー1杯は15銭の時代である。現在なら5万円程度というところだろうか・・。

ちなみに、先に入手の翁の面は350円という破格の金額で、
光琳筆の肖像画は偽物扱いの値段で7円50銭だった。

東京へ持ち帰り、東洋陶磁研究所の小山富士夫に鑑定を依頼したところ、
「平安時代の自然釉の壺」ということだった。 高さ33.4cm、径27.2cmの壺である。

小山の推薦で、この壺は、翌年(S15)、帝室博物館で開催された「日本文化史展覧会」
(紀元二千六百年記念))に出品された。小山は、この壺が殊のほか気に入ったようで、
青柳いづみこによれば、随筆集「壺」の中で、個人的には国宝「秋草の壺」より
親しみを感じるといい、「口の広い、ちょっと、かしいだ、おおらかなその形もいいが、
胴に流れた青ビードロ色の自然釉がたまらなく美しい」と評しているとのこと。

青柳は、この壺を得た喜びを次のように書いている。

「引佐の野を流れている都田川から出たこの壺を、私はかたときもかたわらからはなすことが
出来ず、戦争中も、その自然釉の美しさに日々の不安をまぎらそうとした。また、つたない
ながらも、伊平村の山本家のあるじのために、こんな歌をつくって、感慨をもらさずにはいられ
なかった。 ”とほたふみの いなさほそえの 水よりも 青きこの壺 めでたかりけり”

青柳いづみこによれば、この壺は、昭和44年、500万円で京都の
古美術商柳孝に売却され、後に沼津のコレクターのもとに渡った。

  *文学少々 ---  

      ・翻訳を手がけるが・・   

フランス文学の翻訳家として認められた青柳だが、年譜を見るとその仕事量は少ない。
特に、光琳筆の肖像画が重美に指定された昭和13年、平安の壺を入手した翌14年は、
翻訳の方にはほとんど手がつかなかったようだ。

青柳いづみこによれば、青柳の骨董趣味と翻訳の仕事は完全に相反するものだった。
例えば、ジャン・デルベ著「スエズ運河」(第一書房)の翻訳は昭和14年5月に着手し、
順調に進んだところで、8月、「平安の壺」に出会い、翻訳は止まってしまった。 
師である堀口大学は、この時を含め、青柳の仕事の遅さにときおり苛立ち、
手紙や葉書で青柳に仕事を進めるよう催促していたという。

青柳自身も、自分には仕事と骨董を両立させるような器用なマネはできないと
自覚していたようで、戦後の随筆「骨董病」(S45)に次のように書いている。

「結果として、わたしは骨董というものの存在を詛うことになる。
こんな場合、人は自分の好きなものの方をかえって憎むものらしい。
こうなればやはり骨董は、病気 ― それも恐るべき病気である。」


堀口の督励の効果か・・昭和15年には「スエズ運河」とマルタン・デュ・ガール著
「ジャン・パウロの生涯」(今日の問題社)が出版され、相応の印税収入があったが、
後半は日中戦争の深刻化、新体制運動推進などが背景にあって言論統制や紙の
不足が一段と厳しくなり、文学者たちの活動は低調にならざるを得なかった。

青柳の昭和16年の翻訳、レニエ著「或る青年の休暇」は出版許可がおりなかった。
戦争は、青柳を骨董世界に押し込み、青柳は存分に「骨董病」を楽しめたのである。
・・が、仕事による収入の道は閉ざされたことになる・・

      ・家計困窮・・妻とよの心労       

前期まで、青柳家の家計は火の車だったこと、生活費は妻とよの兄山本気太郎の援助に
頼ったことなどを記したが、この期においても記すことはほとんど変わらない状態が続く。

上野で菅沼貞三に出会った昭和13年頃、青柳は上野の図書館で週に一度、フランス語
の講義をしていたが、おそらく、アルバイト的な勤務で、収入は多くはなかっただろう。

昭和15年の印税は相当な額だったようだが、青柳いづみこによれば、質の受け出し、
ピアノの調律、新たな骨董入手に消え、生活費に回ったかは全く疑問という。

つまりは、家計困窮は前期までと同様で、生活費は山本気太郎に頼らざるを得なかった。
東京の学校へ通うため青柳家に預けられた気太郎の長男仟一は、この時期、小学校
高学年から中学生だが、前項に記したように気太郎は毎月200円を青柳に送金した。
当時は親子4人が十二分に暮らせる金額だが、青柳はこれさえも骨董に回したという。

翻訳の仕事があっても家計は苦しいところ、なければなおさらのこと、妻とよの
心労は並大抵ではなく、とよから子供たちへの手記にその一端が窺えるという。

   *阿佐ヶ谷将棋会 ---

     ・第1回将棋会(S13.3.3)に青柳は不参加?

前項にも記したが、記録がある最初の会(S13.3.3)の参加者に青柳の名は見えない。
木山は、主に自分の対戦成績を日記に書いているので、対局をしない青柳の名前は
洩れたのかもしれない。二次会(ピノチオ)には参加していたのではないだろうか。

なお、多くの年譜や青柳いづみこは、この会を井伏の直木賞受賞を祝う会としているが、
これに疑問があることは別記した通りである。

     ・青柳が心に留めた会は・・

開催記録がある将棋会は別項の「開催一覧」の通り19回あり、このうち、青柳の参加が
明記されている会は8回である。先に記したように、将棋ができない青柳は、出席して
いても名前が書かれなかった可能性があり、実際の参加はもっと多かっただろう。

そのうち、青柳が、自身の心に深く留めた会は、次の5回ではないかと選んでみた。

       -- 昭和14年12月12日(会場 青柳宅) --

どのような経緯から青柳宅で開催されたのか不詳だが、これが、青柳宅で開催された
最初の会である。この年の8月、青柳は伊平村訪問時に「自然釉の壺」を入手しており、
この12月には「平安時代の作」という鑑定が出ていただろう。

3年前に、気太郎の援助で増築した4.5畳の青柳の書斎と、隣の6畳を合わせて会場に
したようだ。出席は、井伏、小田、上林、木山、太宰、中村、浜野で当時の主要メンバー
が揃っている。青柳は、お気に入りの「平安の壺」をお披露目したのではないだろうか。
「二葉」に席を移して宴会になり、そこには亀井、外村も参加している。    

       -- 昭和16年5月6日(会場 青柳宅) --

木山の日記に、「阿佐ヶ谷将棋会並びに美術講義を聞く会。於青柳邸。」とあり、
さらに「将棋会が終わって青柳邸にある、藤原時代のツボを見せてもらった。
よかった。いいものだった。」 とある。 「平安の壺」を見たのが、この時初めてと
すれば、上記した前回の青柳宅開催時にはお披露目していないことになるが・・。

いずれにしろ、このように名付けた会が開かれたことに、青柳の立場がはっきり
現れているように思う。 会のメンバーの大部分は後輩で、このころになると、
それぞれが”文士”として世に出ており、文学活動を活発に行っている。
青柳は「骨董病」で文学には手がつかないが、心底には文学が生きている。
そこで青柳は、骨董を仲間に理解してもらい、骨董を語ることで、先輩としての
立場や、文学と文学仲間たちとの関わりを保とうと努めたのではないだろうか。

青柳いづみこは、前項にも記したように、「私には骨董の中から首だけ出して、
きょろきょろ外を眺めている彼の姿が目に見えるような気がする。」と手厳しいが、
妻とよ、子供たちの生活の犠牲の上に成り立っていたという認識からの評だろう。

       -- 昭和16年11月20日(会場 ピノチオ) --

徴用3名(井伏、小田、中村)の送別会である。木山の日記には、「於ピノチオ。
集まる者、20人。途中で酒がなくなり、主賓は菊池寛の招待や、文学界の会で、
なかなか来られず、会がだれる。」とある。 出発前日のあわただしさが窺える。

出席者名は書いてないが、会の趣旨、出席者数からみて、青柳は当然居ただろう。
青柳いづみこによれば、青柳は、鎌倉時代の武将が出陣の際に兜にしのばせたもの
という高さ1寸ほどの金剛の仏像を、お守りとして井伏に渡したという。井伏が、大阪
集合中にこっそり書いて、外出する栗原信(画家)に投函を託した青柳あての手紙が
残っていて、それにはお礼の文言も書いてある。 この席で渡したものかもしれない。
いかにも青柳らしい、青柳ならではの心を込めたお守り、井伏は嬉しかっただろう。

       -- 昭和17年2月5日(奥多摩 御嶽ハイキング) --

 参加したのは青柳のほか、上林、木山、太宰、浜野、安成、林(名取書店)の7名で、
御嶽駅に近い、そば屋「玉川屋」で将棋と酒食後、徴用中の井伏らに寄書きをした。
「玉川屋」には、この時に書いた色紙が残っており、
青柳は、「そば きさらぎ 玉川や/川ざかな よろし よろし/青」 と書いている。

上林、木山、安成は、この時のことを随筆などに書いているので、
詳細を別項に記した。

       -- 昭和18年12月23日(高麗神社) --

参加したのは青柳のほか、小田、上林、外村、太宰、安成、平野零児の7名で、
「阿佐ヶ谷会錬成忘年会」として、埼玉県の高麗神社を参拝した。
参拝の後は、別席で神社の酒食のもてなしを受けたが、安成二郎と神社との
間に特別な関係があったことで実現した会で、食糧難、酒類の不足が顕著に
なってきたこの時期、会員には嬉しい企画だった。
そして、結果的にはこれが最後の「阿佐ヶ谷将棋会」となった。

青柳は、この参拝のことを、随筆「武蔵野の地平線」(S45)に書いている。 
詳細を別項に記した。

     -------------------------------------- 

昭和19年に入ると、敗退を続ける戦局で国民生活の苦しさは顕著になる。
兵員増強と軍需偏重の生産活動は食料を初め生活必需品の一層の不足を招き、
輸送船は潜水艦攻撃で機能せず、海外からの物資途絶がこれに拍車をかけた。

建物疎開、強制取壊が始まり(S19/1)、人員疎開推進が決まり(S19/3)、
大都市の学童集団疎開が決まる(S19/6)。国民生活の混乱は深刻化する。


阿佐ヶ谷将棋会は、メンバー同志の個人的な親密な関係は続くが、
疎開などもあって、会としては全くの休眠状態にならざるを得なかったのである。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

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「青柳瑞穂」 の項    主な参考図書

『ささやかな日本発掘 - 現代日本のエッセイ 』 (青柳瑞穂著 1990/8 講談社)
(初出は、『ささやかな日本発掘』 (1960/10 新潮社) = 読売文学賞受賞)
『蔵原伸二郎選集 - 蔵原伸二郎との交遊(青柳瑞穂記)』(1968/5 大和書房)
『壷のある風景』(青柳瑞穂著 1970/3 日本経済新聞社)=青柳瑞穂の随筆集
(「やきものの中の散歩-骨董病、ほか」、「武蔵野の地平線」などを所収)
『古い物、 遠い夢』 (青柳瑞穂著 1976/4  新潮社) = 青柳瑞穂の随筆集
(「ささやかな日本発掘」、「武蔵野の地平線」、「年譜のように」などを所収)

『年譜の行間 -「ささやかな日本発掘」をめぐって-』(青柳いずみこ著 <群像 1996/11> 講談社)
『青柳瑞穂の生涯 -真贋のあわいに 』  (青柳いずみこ著 2000/9 新潮社)
『青柳瑞穂 骨董のある風景』 (青柳いづみこ編 2004/4 みすず書房)= 青柳瑞穂の随筆集
(「わが骨董の歴史」、「あるコレクターの告白」ほか、主に短い随筆を所収)

『青柳瑞穂と私 叔父と我家との小さな歴史』 (山本仟一著 1994/8 近代文藝社)

『回想の文士たち 蔵原伸二郎 』(小田嶽夫著 1978/6 冬樹社)=他に太宰、木山など
『文学青春群像』 (小田嶽夫著 1964 南北社)

『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50 講談社)
『昭和文壇側面史 -阿佐ヶ谷会の縁起』  (浅見 淵著 1996/3 講談社)
『葬儀の朝 (中村地平全集 第3巻)』 (中村地平著 S46/7 皆美社)

『井伏鱒二全集 第2巻 蔵原伸二郎』 (井伏鱒二著 1997/2 筑摩書房)
『井伏鱒二全集 第25巻 青柳瑞穂と骨董』 (井伏鱒二著 1998/7 筑摩書房)
『井伏鱒二全集 第27巻 小田君についての点描』 (井伏鱒二著 1999/1 筑摩書房)

『杉並文学館 -井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士-』 (杉並区立郷土博物館(平成12年))