村上菊一郎は、太宰より1歳若く、本項16名の将棋会々員中の最年少である。
井伏とは12歳違い、つまり1回り若い戌年である。
村上は将棋会に加わった最後の会員だろうと推量していたが、年譜を確認したところ、
昭和12年に”阿佐ヶ谷会”に出席していた。上林、浜野より早い参加とみていい。
詩人、仏文学者、早大教授で、主に翻訳、研究分野で活躍したが世間一般に広く知られた
名前ではない。本人の著作や、『村上菊一郎訳詩集 年譜』、出身地(広島県)にある
「ふくやま文学館」発行の冊子『福山の文学 第5集』などから村上の足跡を辿った。
参考サイト | 井伏鱒二を中心に地元の文学者を紹介 | ふくやま文学館 |
「ふくやま文学館」は広島県福山市に平成11年に開館した文学館で、井伏鱒二を中心に
地元にゆかりの文学者を展示紹介し、関係諸資料の蒐集、図書の発行を行っている。
『福山の文学 第5集』は、「ふくやま文学館所蔵資料紹介 -井伏鱒二・福原麟太郎
・小山祐士・木下夕爾・村上菊一郎 小伝- 」だが、ほかにも「井伏鱒二と交友した
文学者たち」や「井伏鱒二と太宰治」など、阿佐ヶ谷文士との関わりの深い資料も多い。
“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像 | 昭和史 略年表 |
*小伝 村上菊一郎 ---
・中学時代まで
生まれは現在の広島県三原市東町で、家は4代続いた造り酒屋村上家の長男。
菊一郎が6歳(T6)の時、ある事情で父が破産、一家は上京し菊一郎は広島県立
女子師範付属小学校から東京の小学校に移り、卒業すると同時に三原に帰った。
大正12年4月 広島県福山市立高等小学校高等科入学。
大正13年 広島県福山中学校(現・福山誠之館高校)入学。
誠之館は井伏の12年後輩にあたる。(井伏は明治45年入学、大正6年卒業)
中学時代は福山の母の実家(醤油製造業)から通学し、その家業も手伝った。
かっては絵の勉強をしたことがあるという父の影響で一時は画家を志したが、
次第に文学に魅かれるようになり、2年次から毎年校友会誌「誠之会誌」に
随筆、誌、短歌を発表した。また4年次には全国弁論大会で2等に入賞した。
福山誠之館同窓会のHPに、「応援団の団長も務めた。成績は優秀で、
2年次に1番、卒業時に16番であった。」とある。
参考サイト | 誠之館関連の歴史、人物紹介など | 福山誠之館同窓会 (村上菊一郎) |
・早稲田時代 -- <ヴァリエテ>創刊
昭和4年(18歳)、福山誠之館中学校(福山中学校は在学中に改称された)を卒業。
昭和5年、早稲田第二高等学院文科に入学し、叔母の婚家 柴山家から通学した。
ここでも「学友会誌」にいくつかの詩を発表している。
昭和7年(21歳)、早大文学部仏文科に進学、吉江喬松、西条八十、山内義雄らの
諸先生の薫陶を受けた。特に山内義雄には目をかけられた。
同年7月、柴山教枝と結婚。 村上著「異変生ず -かみさんと酒-」(S40/4)に、
「家庭の事情で早婚だった。1歳年上の良妻賢母型の古風な女性」など記している。
昭和8年11月長女/ 10年9月長男/ 13年10月次男/ 18年10月三男/ 誕生
大学2年次には旧友11人と同人誌<ヴァリエテ>を創刊、以降、ここに
ボードレール、フロべール、ジイド、シュランベルジェなどの翻訳を載せた。
これらの仕事は西条八十に誉められ、また卒業までにボードレールの
「悪の華」の完訳を目指したというから、かなり勤勉な学生だったようだ。
この時期の日記にはいくつかの詩が記され、雑誌にも発表されたという。
・卒業 - 翻訳・創作でデビュー
昭和10年(24歳) 早大仏文科を卒業。私立フランス語学校に出講するかたわら、
訳業に専念し、翌年(S11)にボードレールの「巴里の悒鬱」と「悪の華」を出版した。
この年(S11)には、2人の友人と同人誌<肖像>をだして、創作にも意欲を示すが、
生活には困窮し、妻子を一時三原の実家にあずけたりした。
翌年(S12)には、商工省貿易局嘱託となり、生活を安定させ、以後、<文芸汎論>
<四季><改造>などの著名雑誌に、翻訳詩、随筆などを掲載、新進の翻訳家・詩人
として知られるようになった。 村上菊一郎、27歳の文筆家デビューである。
昭和14年9月刊行の、「悪の華」は「ボードレール全集 第1巻」に採用された。
予定されていた三好達治、小林秀雄の共訳が間に合わなかったため急遽採用
されたもので、まだ20代の若い村上にとっては思いがけない出来事だったろう。
30歳になった村上は、昭和16年にはボードレールの「散文詩」、自身初の詩集
「夏の鶯」、編集した「仏蘭西詩集」を刊行したが、12月8日に日本軍の真珠湾
攻撃で太平洋戦争が勃発し、村上も直ちに直接にこの戦争に巻き込まれる。
・開戦、即 サイゴン勤務
村上は昭和16年11月に外務書記生として西貢(サイゴン)勤務を命じられた。
村上が神戸港へ向かって自宅を出たのは、開戦の日12月8日の午後だった。
出航したのは12月12日、サイゴンに上陸したのは12月31日だった。
ちなみに、徴用を受けた文士たちのうち、井伏、中村地平らがマレー方面へ向かうため大阪港で
アフリカ丸に乗船したのは同年12月2日で、香港沖を航行中の12月8日に日米開戦を知った。
サイゴンに着いたのは12月18日、ここで井伏、中村らの班は船を乗り換えてタイへ向かった。
村上のサイゴンでの業務は多忙を極めたが、時間を見つけてはアンコールワットなど
に小旅行をしたり、酒場へ通ったり、古本屋でランボー、ヴィヨン、ヴェルレーヌ、ロチ
などの本を漁った。本屋巡歴の後「金はいくらあっても足りない」と記しているという。
・帰国−応召(広島)−敗戦
1年7ヶ月に及ぶサイゴン勤務を終えて昭和18年8月に帰国し、大東亜省に勤務した。
翌年(S19)5月には社団法人映画配給社南方調査部に入社したが、戦局は日増しに
悪化し、純文学的な活動は困難な状況になり、村上も十分な仕事はできなかった。
昭和20年7月、34歳で応召し、広島の部隊に入営したが、8月4日に福山へ転属した。
これによって8月6日の原爆を免れ、8月15日の敗戦で同月下旬に三原へ帰った。
妻子は疎開で三原の老父母のところに居り、村上はそこへ同居したのである。
・郷里を出て早大教授へ
昭和20年10月 三原工業学校教頭、翌21年4月〜23年5月 三原市立図書館長を務め、
昭和24年5月 恩師山内義雄らの推挙で早稲田大学文学部専任講師となって赴任した。
村上、この時 38歳。以降、助教授(S27)、教授(S32)と進み、
定年(70歳)退職を迎えて昭和56年に同大学名誉教授となった。
同年(S56)11月、脳腫瘍のため東京女子医大病院に入院。
翌年(S57)7月31日逝去 享年71歳。
*村上菊一郎 ”その人” ---
「福山の文学 第5集 村上菊一郎」の最後の項は ”人” である。以下に一部を引用する。
・風雅の人
「村上は象牙の塔に閉じこもっているという人ではなかった。
飾らないエッセー、難解な語句を避けながら、叙情的な詩語を
追及し続けた足跡によく表れているように、多くの人に愛された風雅の人であった。」
「『書物を買うことと酒を愛することのほかに道楽のない凡夫のあわれさを女房は
十分知っていてくれ』る、と彼自身書いているように、菊一郎は終生酒を愛した。
酒を介して、疎開中の井伏鱒二、木山捷平、藤原審爾らと親しく交流し、
上京後は、井伏を中心とする阿佐ヶ谷会の人たちと親交を深めた。」
村上の著作に”置酒歓語”という言葉が使われている。(「酒徒五つの楽しみ」(S32))など)
村上の人生の一面を自ら表現するにピッタリの言葉だったのだろう。
なお、楠本憲吉に「置酒歓語」と題した著作(随筆・随想等:S48:朝日新聞社)がある。
熟語の出典を調べたが判らなかった。「置酒高会」があるので「置酒+歓語」の造語か?
・旅と草木を愛した
「海外旅行はもとより、日本での学会出席ごとに、その地の名所旧跡を
訪ねてまわり、同僚とのドライブを楽しんだ。自宅の庭にも、別荘にも、
気に入った花・木を植え、育て、愛でた。」
(村上の随筆には植物の名前がよく出てくるが、井伏も植木などには造詣が深く、随筆
「ななかまど」(S29/12)などで草木に関する村上とのエピソードをいくつか披露している。)
・道心堅固、古風
井伏の随筆「艶書」(<新潮>S34/5)には村上が登場し、次のように結んでいる。 (文中の”例の
淡竹の結文”というのは、殆んどの客が学生の喫茶店で、店主が店の増築に際して見つけた結文。
女子学生が男子学生に宛てた3通で、淡竹に結ばれていた。村上が随筆の材料にと貰い受けた。)
「先日、酒場で村上菊一郎先生に逢った。例の淡竹の結文はどうしたかと聞くと、
もうとっくに破いて棄てたと云った。
道心堅固な先生だから、艶書なんか不潔だとばかりに破いてしまったことだらう。
『全て恋愛の名残の品は、恋愛と同じく消えて行くのですね。』村上先生はさう云った。
この先生は古風だから、酒を飲むと感傷的な言葉をよく口にする。
ヴェルレーヌの「雨の唄」を口誦んで、同席の者をぎょつとさせることもある。」
*そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---
・阿佐ヶ谷=学生時代から
村上と阿佐ヶ谷界隈の文学青年との繋がりは学生時代に遡る。
まず、村上著「井伏さんのこと」(S37)には、「在学中、清水町のお宅を何度か
お訪ねして、一つ年上の太宰治に紹介されたり、阿佐ヶ谷会のメンバーに
加えていただいたりしながら、小説家になる才能のなかった私はいつしか
この大先輩に対して無沙汰しがちにならざるを得なくなった。」 とある。
また、村上著「阿佐ヶ谷界隈」(S53)には「慶応出身のフランス文学者青柳瑞穂
には学生時代に翻訳の下請けをさせてもらった。」とあり、さらにこの界隈に住む
新庄嘉章、日夏耿之介、中山省三郎ら諸先輩の薫陶を受けたことも書いている。
学生時代といえば、昭和10年以前のことである。
杉並区立中央図書館発行の「阿佐ヶ谷文士村」によれば、村上は昭和10年から
同12年まで阿佐ヶ谷に、続いて馬橋4丁目に住んでいる。戦後は昭和24年に
杉並区に転入し、翌25年には善福寺町に居を定めて没年(S57)まで住んだ。
昭和10年には村上は早大を卒業、2人目の子供が生まれることもあっての転居
だろうが、阿佐ヶ谷の地を選んだのは界隈の諸先輩との縁ではないだろうか。
戦後東京に居を定めるに際してこの界隈を選んだのもこの延長線だったろう。
・将棋会にはいつから?
木山の日記に初めて村上が登場するのは昭和11年4月で「村上来訪」とある。
村上著「『酔いざめ日記』を読む」(S51/2)に、このころに小田嶽夫に
木山を紹介されたとある。すでにこの時点では、井伏、青柳だけではなく
小田、木山とも往き来があり、太宰とも交友の程度は不明だが面識はあった。
そして、「村上菊一郎訳詩集 年譜」に「昭和12年10月 青柳瑞穂氏応召、
青柳氏宅にて、氏の壮行会を兼ねた阿佐ヶ谷会が行われる。出席者は村上
の他、外村繁、小田嶽夫、太宰治、井伏鱒二、田畑修一郎、中山省三郎、
秋沢三郎、福田清人、伊藤整、長谷川巳之吉、保田与重郎の諸氏。」とある。
(年譜について、訳詩集刊行会の吉田軍治代表は、「この年譜作成のため奥様に克明な
ノートを作成していただいた」旨を記しているので、確かな記録に基づく事実と認め得る。)
この会では将棋はなかったかもしれないが、将棋会メンバーが半数以上であり、
村上はすでにこの時期(会の第2期 成長期)には会員であったと認めてよかろう。
この後、村上は昭和15年4月14日の浜野のアパートでの会に出席、さらに木山の
日記には、同年11月17日のピノチオでの会で「村上1勝4敗」などと記されている。
しかし、戦前の将棋会の出席の記録に村上の名前が載るのはこれだけなので、
将棋自体にはあまり熱心ではなかったといえる。むしろ、錚々たる先輩たちとの
酒と会話に魅力があって、遠慮がちながら折に触れ親交を保っていたのだろう。
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戦後は、疎開などで郷里に居た井伏鱒二、小山祐士、藤原審爾、古川洋三、大陸
から帰還(S21/8)した木山捷平、などと毎月集まって”置酒歓語”の会を持った。
昭和21〜22年だが、間もなく井伏(S22/7)など多くの人が東京へ戻って行った。
村上は早大講師として上京(S24/5:38歳)、舞台は再び東京へと移り、
純然たる飲み会として復活した「阿佐ヶ谷会」の主要会員の一人となった。
「村上菊一郎」 の項 主な参考図書 『福山の文学 第5集』 (ふくやま文学館発行(2004/3)) 『村上菊一郎訳詩集 年譜』(訳詩集刊行会編 S61/7 教育出版センター) 「マロニエの葉」 (村上菊一郎著 1967 現文社) から 『生まれた家』 (初出 <朗> S30/6) 『異変生ず -かみさんと酒-』 (初出 <酒> S40/4) 『原爆前後』 (初出 <風報> S35/9) 『酒徒五つの楽しみ』 (初出 <日本経済新聞> S32) 『井伏さんのこと』」(初出 講談社版日本文学全集月報17 S37) 「随筆集 ランボーの故郷」 (村上菊一郎著 S55/10 小沢書店) から 『東京の詩 -4 阿佐ヶ谷界隈-』(初出 東京新聞連載 S53/12〜S54/2) 『「酔いざめ日記」を読む』 (初出 <本の本> S51/2) 「井伏鱒二全集」 (1996〜2000 筑摩書房) から 『ななかまど』 (井伏鱒二著 全集17巻 : 初出 <文学界>(S29/12)) 『艶書』 (井伏鱒二著 全集20巻 : 初出 <新潮>(S34/5)) 『酔いざめ日記』 (木山捷平著 S50/8 講談社) 『阿佐ヶ谷文士村』 (杉並区立中央図書館発行(1993/2)) 『阿佐ヶ谷界隈の文士展』 (杉並区立郷土博物館発行(平成1年)) 『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』 (杉並区立郷土博物館発行(平成12年)) |