浜野 修の人生と作品

はまの おさむ = 明治30(1897).1.15〜昭和32(1957).6.23 (享年60歳)

(本名 = 濱野 修三 : はまの しゅうぞう)

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= ドイツ文学・上林暁と心の交遊 =

 濱野修 「略年譜」

 “阿佐ヶ谷将棋会”の全体像 と その背景 昭和史 略年表 

浜野修はドイツ文学者で翻訳などを多く残しているが、自身の創作、随筆などは目立たない。
したがって、一般に広く知られた名前ではないが、井伏が「荻窪風土記 -阿佐ヶ谷将棋会-」で
紹介しているのは、戦前の一時期、上林暁との交遊が特に親密で、上林と共に熱心に将棋会に
参加したからだろう。井伏とは釣の趣味でも一致して、印象深かったこともあろう。

浜野が “阿佐ヶ谷将棋会” に参加したのは、上林の項で記した通り、昭和14年からと推察する。
“将棋会 第3期 盛会期” だが、上林とはそれ以前から文学を通じて知り合っていた。
上林の多くの作品に登場するので、主として「上林暁全集」を資料に浜野をご紹介する。

阿佐ヶ谷文士の研究者萩原茂教諭(吉祥女子中学・高等学校)が、同校の「研究誌 第43号」(H23/3)に
「『二閑人』上林暁・濱野修の友情物語〜文学アルバム「二人の風景」〜」を発表した。
浜野修のご子息 安生(S23生)氏は、現在(H23)ドイツにおいて音楽関連業務で活躍されているが、同氏の
帰国時のインタビューや所持資料によって上林との交遊や浜野修の人間性、人生について詳述している。

さらに今般、同上「研究誌 第44号」(H24/3)に「『二閑人』上林暁・濱野修の友情物語U」を発表した。
新しい資料を交えて二人の交遊の様子や、浜野の業績・人生などが一層詳しくまとめられている。


共に非常に興味深い内容で、本ページで参考にした。(表題の抜刷(小冊子)は杉並区立中央図書館所蔵)

    *文学事典などから ---

「日本近代文学大事典(中村英雄)」から==明治30・1・15〜昭和32・6・23(1897〜1957) 
翻訳家。埼玉県出羽村に生まれる。本名 修三。東大美学科中退。
参議院、国会図書館に勤務のかたわらドイツ文学、とくにクライストの翻訳につとめた。
著書「クライスト」(大15・5 東方出版社)は日本語の最初の評伝。クライストの翻訳に
「シュロッフェンシュタイン家の人々」「ヘルマン戦争」「ホムブルクの公子」、
ほかに「トオマス・マン自伝」 「チロル短編集」など。上林暁と親交があった。

親交が深かった上林暁が後に書いた「自作自解-二閑人交遊図」(<春夏秋冬>S36/4)
によれば、浜野は独協中学から一高(医科)を経て東大美学へ進み中退した。
一高時代には、芹沢光治良、池谷信三郎、村山知義などが友人だった。
ドイツ語が達者で、「クライスト研究」という大著があり、翻訳は相当数に上る。
戦争中はドイツ語がもてはやされたので、仕事は忙しかった。

また、上林のいわゆる“浜野物”の最初の小説「寒鮒」(S14/1)には、浜野が
医学を続けなかったのは、目を痛めて顕微鏡が見られなくなったからとあるが、
その後の文学への取り組み姿勢を見ると、それは浜野の口実で、
本心は文学がしたかったからと思えなくもない・・。

浜野は、井伏(M31生)より1歳、上林(M35生)より5歳の年長で、東大美学科は、
阿佐ヶ谷将棋会では亀井勝一郎(M40生)、中村地平(M41生)の大先輩にあたる。

 (平成22年頃から、浜野安生氏(浜野修の長男)が遺稿・資料などの調査・整理を
本格化し、その経過や結果を順次 萩原教諭とともに上記「研究誌」や講演会で
発表している。 浜野の文業、人生、人間像が徐々に明かされてきている。)

    *上林との親交 --  

     ・出会い  

上林の「寒鮒」(S14/1)には、「浜野(小説では勝部)とは雑誌記者時代に知り合い、
5〜6年は会う機会がなかったが、旧交を温めることになった。」とあるが、
上林の「自作自解」(S36)には次のようにある。

「私が浜野を知ったのは、「改造」の編集部にいたころ、中間の読み物を懸賞募集して、
浜野の「黒色デカメロン」という読み物が二等に当選してからであった。
「文藝」の編集に移ってから、クライストのことを書いてもらったことがあった。」

(註) 「自作自解」のこの部分は上林に記憶違いがある。事実は、「入選作の題名は
「接吻漫談」(<改造>(S7/2))で、二等ではなく、当初は五人が入選予定のところ、
二人のみが入選」 だった。(「あかつき文学保存会 会報 第4号」(H24/4))
また、「黒色デカメロン」がその年の<改造>(S7/10)に掲載されるなど、<改造>には
掲載が続き、「クライストの恋」は<文藝>(S9/4)に掲載された。・・「略年譜」参照

上林の改造社在籍は昭和2年〜同10年4月で、同8年11月から「文藝」の編集を担当した。
昭和7年頃からの知り合いだが、「二閑人交遊図」の記述などと合せると同11年頃から、
つまりは、上林が再上京した後のころから友達付き合いをするようになり、
親交が一層深まったのは同14年頃からということになる。

昭和14年は、浜野は42歳、上林は37歳である。

     ・上林の小説「二閑人交遊図」など

上林の小説に「二閑人交遊図」がある。二閑人は浜野と上林で、実名ではなく
浜野は瀧澤兵五、上林は小早川保、とされている。
<月刊文章>昭和16年1月〜3月号に連載された作品である。

「はしがき」 「1 二閑人将棋を指すの図」 「2 二閑人釣魚の図 」「3 二閑人酒を
酌むの図」 「4 二閑人入浴の図」 「5 二閑人遣繰りの図」 から成り、実際には
生活に追われて心忙しい毎日を過ごす二人のほのぼのとした交遊が伝わってくる。

この「はしがき」では、二人の出会いは改造社時代ではなく、2・26事件(S11年)の後
の頃としている。浜野のドイツ語ゼミナールに入門、ゼミ解散で二人の個人的親交が
深まるのである。“瀧澤は数年前夫人を喪って、今は女学生の子供とアパート住まい
をしている。” と書いてある。このお嬢さんがご健在なら今90歳を超えるが・・・。

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= 浜野の将棋と上林との二百番勝負(星取表)のことなど =

「1 二閑人将棋を指すの図」は、これより先の昭和15年6月に国民新聞に載せた随筆
「我が交遊記 -二閑人将棋を指す図-」が原型で、この方は実名である。昭和14〜15年の
阿佐ヶ谷将棋会の様子や、浜野との200番勝負、酒のことなど、温かい交遊が記されている。

その中の一節に、浜野との将棋のことが次のようにある。浜野の人柄だろう。
「浜野氏と将棋を指して一番気持が好いのは、どんなに苦境に立っても将棋を投げないことだ。
つまり、浜野氏は将棋を大切にするのだ。それがまことに気持が好い。」
上林は、対戦成績は8対3くらいで自分が優勢だったという。

二人の200番勝負には、「星取表」が残っている。上林は小説「二閑人交遊図」に書いているが、
浜野が作成し、勝負毎に記入して保管していたようだ。400字詰原稿用紙を使用し、ほとんどは
浜野の筆跡で、上部中央の空白欄に―表取星番百二― (右から左への横書き)
 という標題を書き、(「番百二―」は中央右側、「―表取星」は中央左側)、
右側は浜野、左側は上林として升目に、○●が記入されている。(下の写真参照)
確かに上林の方が優勢だが、その勝敗数よりも空白欄に書かれた“落書き”が興味深い。

まず、右側中央(―の右横)に 里野濱 、左側中央(―の左横)に 暁の杜 、と大きな字で
四股名を横書きし、中央部に 乃 昭和十四年十二月二十日  至(乃の左横)  と縦書きが
ある。 里野濱 の下には 里の浜 とも書き、標題同様に右から読んで「はまのさと」だろう。

さらに、半日闥焉i注:浜野が居室に掲げた名前)という手作りのような赤い印が二個押してあり、
井伏川、小田ヶ嶽、亀井山、太宰川、捷木山、地平山、古ヶ谷、田畑山、阿佐ヶ谷(安成さん)と
縦に書かれ、井伏川の川の字の横には「灘」と赤で追記、同様に太宰川の川には「潟」、地平山の
山には「洋」、田畑山の山には「川」の字を加えたり、「上林」の文字をデザイン化して書いたり・・、

和気あいあいに楽しんだ風である。 当時の文士仲間の微笑ましい交遊ぶりが伝わってくる。
どんな言葉や文章でも表せない、激動の時代を強かに生きた文士たちの息吹でもある。

ところで、上林の四股名だが、 濱野里と標題に続けて右から読めば「もりのあかつき」となり、
左端行から始まっている上林の勝敗(○●)に合わせて左から読めば「あかつきのもり」となる。
 どちらか? 欄外をよく見ると、暁の杜 の文字の上に、薄い赤い字で 暁錦 の文字がある。
これは左から読んで「あかつきにしき」に違いないから、暁の杜 も左から読むことになる。
上林は「暁の杜」(あかつきのもり)である。 この方が四股名らしくピッタリくる・・。

   濱野修−上林暁 将棋二百番 星取表

        400字詰原稿用紙を利用
       (260o×359o:ほぼB4判)

    「日本近代文学館」(東京目黒区) 所蔵
           (濱野家が寄贈)


  ・同館は、閲覧、複製(有料)に対応している。
  ・阿佐ヶ谷文士関連の資料に載り、イベントで
   展示(レプリカ)されることも多い。

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浜野との交遊を題材にした小説、あるいは浜野が登場する随筆などは多数あり、
最初は小説「寒鮒」(<国民新聞>(S14/2):勝部=浜野、私=上林)である。
他に小説だけ題名を挙げると、「林檎汁」「鮠のたより」「花の精」「湯宿」「猿橋」
「白雲郷」などがあり、「浜野修訳編『チロル短編集』」(S14/10)という評論もある。

これらを総合すると、特に親密な付き合いは昭和14年から同18年までの数年間で、
浜野は妻の発病で苦しむ上林の心を支えた一人だった様子が窺える。

浜野は昭和15年7月に再婚したとある(「夏籠り」(<朝鮮新聞>S15/8))ので、
浜野も、侘しく苦しい人生の一時期、この交遊に求めるものがあったのだろう。

昭和16年9月に上林は第5創作集「悲歌」を刊行した。この題名は「二閑人交遊図」とするはず
だったが、時局柄、変更せざるを得なかったという。 この創作集の序文は「窓開く」と題して
浜野が書き、上林は「あとがき」に、「この2〜3年来親身な交際を願って、精神的にまた
生活的に、力になっていただいたこと、量り知るべからざるものがある。」と謝意を表している。

浜野との親交が題材の小説「二閑人交遊図」「湯宿」「林檎汁」「鮠のたより」などが収めてある。

     ・親密交遊は一段落    

この後上林が書いた小説「白雲郷」(S18/8)によれば、小野田(=浜野)は昭和18年に
西多摩郡の鳴井村に疎開(転居)し、二人の親交は途切れた。
まだ疎開騒ぎが大きくない時期だったが、小野田(=浜野)には、単なる疎開ではなく
成長した娘の生活についての思いがあったと書いている。

実際も、ほぼこの作品の通りで、浜野は、昭和18年7月に西多摩郡成木村(現・青梅市
成木)に転居し、4年半にわたる上林との親密な関係は一段落したのである。

   *歌人 浜野修 : 創作も・・ ---     

萩原教諭の前記著作中の「歌人・濱野修」の項に、「浜野は、一高時代には一高短歌会に所属
していた。卒業後も短歌を作り続け、吉植庄亮に師事し、短歌誌「橄欖」同人だった。」とある。
(金森徳次郎の弔辞からも、浜野がこの「橄欖」(かんらん)に深く関わったことが判る。)

同著によれば、浜野が残した小さなノートには 政治や妻子、家、戦争、釣りのことなど
多岐にわたるテーマの歌が認められており、その一部が紹介されている。
浜野の日頃の思いや考えが窺えるが、さすがに素人離れしている。後の項に記すが、
将棋会の御嶽遠足の際に玉川屋で認めた色紙の歌は安成と並んでやはり本格的である。

また、ご子息(安生氏)によれば、浜野は翻訳だけでなく創作をしたかったようで、井伏にも
小説を勧められていた。実際に何篇かの発表を行っており、未発表の小説(約50枚)も
残されているとのことだが詳細は現在確認中とのこと。ただ、井伏との交流が次第に薄く
なったのは、創作など文学に専念できなかった所為かもしれない・・という。

   *井伏鱒二著「荻窪風土記」の浜野 --- 

浜野と井伏の初対面が何時かは不明だが、昭和11年11月8日付の井伏の浜野宛ハガキがある。
浜野が将棋に誘ったことへの返信で、「一度御教授願ひたいと思ひます」とあり、交友はこのころ
から始まったと察せられる。 上林は大スランプの最中だが、仲介したのではないだろうか・・。

「荻窪風土記-阿佐ヶ谷将棋会」(第一部)には浜野が登場する。昭和14〜15年頃の浜野である。

     ・軍とヒットラー嫌い

・天沼の美人横丁(現・八幡通り)は、その奥にある軍人村の将兵たちがよく通った。
あるとき浜野が、そこに住む満州国の溥儀執政の弟に付添う下士官に向かって
「軍は無駄なことをするものだ」と言って喧嘩になり、殴られたかもしれないという。

・ドイツ文学者だが、戦争を始めたドイツ人の遣り口を嫌っていた。 特にプラーゲ
旋風以来、ヒットラーのすること為すこと、尻から出た虫のように悪く言ったという。

     ・プラーゲ旋風で借金

井伏は「浜野君は詩か小説か書きたい気持ちがあったに違いないが、身すぎ世すぎで
ドイツ語の論文を訳していた。」と書き、上林は「浜野はある借金のため毎月多額の
返済をしていた」と書いている。井伏によれば、 浜野は著作権侵害問題で
プラーゲ旋風に巻き込まれ、賠償金の支払いを命じられて多額の借金を
抱えたようだ。 自分の作品を書きたくても その時間を持てなかったのだろう。

今般発表された萩原教諭の「友情物語U」(H24/3)によれば、浜野が<国民新聞>
(S14/4)に書いた「プラーゲ咄し」の記述から、「プラーゲへの賠償金で多額の
借金をしたという井伏の記述は事実ではない」 旨あるが、必ずしも詳らかでない。

     ・井伏と鮠釣り

井伏が浜野の部屋を訪ねた時、浜野はドイツ語の原書を拡げ、その頁の上で
一心に蚊鉤を作っていた。「こうすると怠けていても気が鎮まるんだ」 と浜野は
言い、井伏を鮠釣りに誘った。数日後、井伏は浜野に連れられて小田急線柿生
の奥の鶴川へ鮠釣りに行き、その蚊鉤を使ったら割合よく釣れたという。

上林も浜野の釣のことを書いているが、浜野は釣がよほど好きだったようだ。
萩原教諭の前著にも釣行きや魚拓の写真が載っている。
井伏は同年輩で、将棋、釣、酒の楽しみが一致し、特に印象深かったのだろう。

このころの井伏は直木賞受賞、<文学界>参加、太宰結婚の仲人、「多甚古村」映画化等々で
いよいよ活躍が目立ってきた時期だが、将棋会の仲間との交友も大切にしていたようだ。
上林の没後1年、浜野没して24年余、井伏はここに浜野、上林らとの当時の交友を偲んでいる。
(「荻窪風土記 -阿佐ヶ谷将棋会-」の初出は<新潮>(S56/8)で、上林の1周忌にあたる。)

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---      

     将棋会の記録

杉並区立郷土博物館発行の冊子に記された「阿佐ヶ谷会開催一覧」には載っていないが、
上林が記している次の2回の開催については、次の機会には追記していただきたいと思う。

1. 開催は、昭和14年6月18日。  会場は、浜野のアパートの部屋。
出席者は、安成、浜野、井伏、浅見、古谷、青柳優、木山、亀井、上林の9名。
優勢だった井伏が途中退席して青柳優と上林の決勝。 青柳優が優勝した。
(上林暁著「将棋盤に題す」 <文藝>(S14/9)より)

この時に寄せ書きをしており安成は、「歌よみて将棋を指して居らるべき/世と思はねど/
これぞ楽しき」
、木山「攻むるは守るなり」、古谷「どうもかなはない」などが書かれていて、
浜野の部屋にピンで留めてあったという。(上林暁「我が交遊記 -二閑人将棋を指す図-」)

参考サイト  稀覯本の世界 − 「開催案内はがき」    阿佐ヶ谷将棋会 文學資料


2. 開催は、昭和15年4月14日。  会場は、浜野のアパートの部屋。
出席者は、安成、井伏、青柳(瑞穂)、木山、亀井、大江勲、外村、
古谷、山岸外史、村上、中村、小田、浜野、上林。
安成、古谷が8勝2敗で賞品の駒は古谷となった。
(「我が交遊記 -二閑人将棋を指す図- 」 <国民新聞>(S15/6)より)

会場の浜野のアパートは 「阿佐ヶ谷1-863 共栄荘」で(阿佐ヶ谷駅の南側:
現在のパールセンター通り)、昭和13年1月頃から昭和18年7月まで住んだ。

そこで、浜野の住居だが・・昭和11年11月8日付の井伏の浜野宛ハガキや浜野の
昭和12年の年賀状の住所は「阿佐ヶ谷五の八」とあり、阿佐ヶ谷駅の北側で、
上林の昭和13年1月28日付ハガキは「共栄荘」宛である。また、上林の「寒鮒」には、
浜野の家は荻窪駅近くの旅館兼下宿「秩父荘」(萩原教諭によれば、実際の名称は
「佑閣荘」)とあり、ここに住んだとすれば、浜野は離婚(S10)後、昭和11年から13年
にかけて長女(T14生)とともに頻繁に転居して「共栄荘」に落ち着いたことになる。

なお、杉並区立郷土博物館発行の冊子に載る阿佐ヶ谷文士に浜野の名はないが、
これは、“正業として他の職業で名を成している人は除いている” ためだろう。

     ・浜野の参加

上林の項で記したとおり、浜野と上林の参加は昭和14年6月からと考えていい。
上林はこの会を「復活第1回阿佐ヶ谷将棋会」と記しているが、前回の開催
(記録ではS13/7)からの間隔が長かったので「復活」としたのかもしれない。

この将棋会の案内ハガキには「阿佐ヶ谷将棋会御案内」とあるが、浜野は婚約中の
久保田英子への手紙には「阿佐ヶ谷文人将棋会」という名称を使っているという。
格好いい!・・というより、なるほど「阿佐ヶ谷将棋会」では、仲間内では
解っても、知らない人には地域住民による将棋会と誤解されかねない・・。

この後、二人とも熱心に参加したが、浜野は昭和17年2月の「御嶽・玉川屋」までで、
会として組織的な最後の開催となった「高麗神社」参拝(S18/12)には参加していない。

「御嶽・玉川屋」行きの詳細については別記したが、安成によれば、このときの幹事役は
浜野だった。参加者は会員6名(安成、浜野、青柳(瑞)、上林、木山、太宰)と名取書店
の林の7名で、浜野が林に案内役を依頼したようだ。玉川屋で、当時徴用で戦地にいた
井伏(シンガポール)、中村(同)、小田(ビルマ)、に寄せ書きをして送った。
御嶽で撮った写真もあり、上林をはじめ参加した会員の多くが随筆などに書いている。


戦地の井伏らへ送ったものと同内容かは不明だが、玉川屋には寄せ書きが残って
いて(1枚に3名で2枚)、その写真は多くの阿佐ヶ谷文士関係の資料に載っている。

浜野は「如月の空こそよけれ/妹をゐて/いなばやと思ふ/山の温泉へ」と記した。
結婚して約1年半、妻への想いを込めたが、妻はこの寄せ書を目にしただろうか・・

   *戦後の浜野 ---      

 濱野修 「略年譜」

     ・戦中に荻窪へ戻る - 国会図書館勤務と執筆意欲と長男誕生   

本項は、主に「略年譜」と萩原教諭の著書「『二閑人』上林暁・濱野修の友情物語」による。

浜野は成木村(現・青梅市)疎開から1年足らずの昭和19年4月に荻窪3丁目(現・荻窪5丁目)
へ戻り(転居)、その年12月に衆議院事務局の図書室に嘱託として勤務した。
さらに、終戦直前の昭和20年6月には西田町(現・荻窪3丁目)に転居、そこで終戦を迎えた。

地方への疎開が進む時勢に逆行して早々に荻窪に戻った事情は不詳だが、何か生活上の
想定外の問題が生じたのではないだろうか。(安生氏によれば、浜野が病気をしたとのこと
だが詳細ははっきりしない。) 年譜にはないが、上林からの葉書では、昭和20年4月には
中野区野方にも住んでいる。近間での転居は、東京大空襲(S20.3.10)や杉並区の
最大空襲(S20/5)の影響かもしれないが不安定な生活だったように思える。

年譜に、「昭和20年7月5日 久しぶりで上林君を誘う」とある。
この時の両者の家は、以前の阿佐ヶ谷と同様、中央線を挟んで南北の位置関係にあり、
距離は1.5q程度、以前よりは多少遠くなったかもしれないが、徒歩20分程度だろう。
以前のように頻繁には会っていない。つまり付き合い方は変わったが交遊は続いていた。

終戦(S20.8.15)後においても、上林から浜野宛の葉書によれば、昭和21年1月と2月には
浜野の問い合わせに答えるかたちで、出版社の情報を浜野に伝え、トオマス・マンを
求める時節にあるからと、戦前の翻訳の改稿出版を勧めている。
併せて著作権問題についてもアドバイスしており、浜野は衆議院事務局(図書室)に
勤務しながら文筆活動にも意欲を持っていたことを窺わせる。

昭和21年になると、それまでの国の図書館制度をあらためた国立図書館設立への
動きが具体化し、浜野はこの動きの中で設立準備に携わった。
昭和23年2月に国立国会図書館法公布、同年6月に赤坂離宮(現・迎賓館)で開館した。
初代館長は金森徳次郎で、浜野はここに主事として奉職した。
執筆意欲はあっても、勤務の多忙さがそれを許さなかったであろうことは想像に難くない。

時を同じくして、昭和23年3月に長男(安生)が誕生した。ちなみに、浜野51歳である。
浜野が遺した小さなノートには、昭和21年から自作の短歌が認められており、
萩原教諭は前記著書にその一部を掲載し、次のように書いている。

「政治のこと、妻のこと、家のこと、子供のこと、戦争のこと、釣りのことなどをテーマとし、
浜野の日頃の思いや考えを知ることができ、興味深い。わけても、子供(安生さん)を
詠んだ歌はとてもほほえましく、遅く生まれた子供への手放しの愛情というものを感じる
ことができる。また、「父は思想的にはリベラルだった」と安生さんがおっしゃっていたが
政治をテーマにした歌からも、そのことは伝わってくる。」 

     ・「ニイチェ詩集」刊行など   

浜野は、昭和25年12月に「ニイチェ詩集」を刊行した。戦前から手掛けていた翻訳を
ようやく完成させたのである。その後記(あとがき)の一部を次に引用する。

「自分ながら呆れるくらゐな長い道草をくつたものである。今思ひ返してもひとりでに涙笑ひに
なるのだが、あの恐ろしい戦争のさい中空襲のさ中に鉄かぶとを負つて濠の中に退避した
際なぞ、上着のポケットにはいつも此の小さな詩集が入つてゐた。長い、ほんとに長い間の
伴侶だった。忘れては思ひだし、思ひ出してはまた忘れ、さんざ道草を食つたあげくに、
仲善しの上林暁さんから、はげまされたり、呆れられたりしどほしだったのである。
本になったら、何をおいてもこの人のところへ駆けつけようと思つてゐる。(1950年11月7日)」

翻訳の端緒は17〜8年前になるとのことで、著作権問題や戦争に翻弄され、家庭のこと
や勤務に忙殺される状況の中、上林の友情に支えられて刊行に到った感慨が伝わる。
実際に、昭和25年12月10日にこの本を上林に届けている(略年譜)。

そして、昭和27年11月に、「酒・煙草・革命・接吻・賭博−話のモザイク」を刊行した。
この本は、浜野が過去に翻訳した多くの題材を浜野流にアレンジしたもののようで、
副題の「話のモザイク」に相応しく、幅広な雑学的面白さにあふれている。

これには、「黒いデカメロン」も収められているが、これは、上林が「二人の
出会いのきっかけになった」と勘違いした<改造>(S7/10)掲載作だろう。


「酒」の項には、上林が「Kさん」として2カ所に登場するが、上林は、酔うと土佐節の後
身振り手振りよろしく、もと摺唄(酒造りで、もと(酉編に元)摺りの工程で唄う唄)が
出ることを暴露。 上林が?・・愉快である。その歌詞は次のとおりで、
高知の実家の酒造りで覚えたようだが・・。今でも どこかで唄われているのだろうか?

「揃た 揃たよ 櫂(かい)の手が揃た ヤレショ  淀の 川瀬の水車 ヨイトソーレカノーエ
二十日鼠が 一升二升三升四升五升樽 かるうて ヤレショ  富士の山を 今朝越えた
ヨイトソーレカノーエ」 (”かるうて”は“かついで”の意味と注釈されている)

ネット情報によれば、「南部流酒造り唄」と「津軽よされ節」の歌詞が混在しているとか。

(この歌のことは、上林自身が小説「暮夜」(S23/5<社会>)などに書いている。
「子供の時 庫男たちが歌っていた」とあるが、小説上のことでなく、実際に
歌っていたことが分かる。・・ 「暮夜」はしっとりした小粋ないい作品である。)

「話のモザイク」も、翌年(S28)1月に上林を訪ねて謹呈している。(略年譜)

国会図書館開設の仕事が一段落した頃から積極的に執筆していることが分かる。
未発表の、約50枚の創作原稿が遺されているとのこと、これらのことから
浜野は、文学への情熱を生涯持ち続けたことが窺える。

    ・復活「阿佐ヶ谷会」には不参加   

終戦前の“阿佐ヶ谷将棋会”は、戦後間もなく将棋抜き、酒飲み専門の「阿佐ヶ谷会」となって
復活した。井伏、上林、青柳など将棋会のメンバーが主体だったが、浜野は参加していない。

確認できる戦後最初の「阿佐ヶ谷会」は昭和23年2月2日(月)、午後3時から青柳邸だった。
国会図書館開館の準備に追われている浜野には平日午後の出席は無理だっただろう。

時間的拘束を強く受ける勤務の性質上、こうした会合への参加はもともと無理だったことが
不参加の最大の理由だろうが、それに加えて思うに、あくまでも推測だが、浜野には、
今の自分はサラリーマンであるとの遠慮の気持も強かっただろうし、このころの公務員は
薄給の身、妻子を養うには自分に関する出費を抑える必要があったかもしれない。

50歳代になって、年齢的には持ち家のことも考えなければならなかっただろう。
昭和20年代の浜野は、家庭第一の慎ましい生活を心がけたように思うが如何だろう。
そして、昭和27年に杉並区善福寺に小さいながらも我家を新築して移り住んだのである。
その地には、今も長男安生氏の住まいがある。

    ・上林との交遊   

「阿佐ヶ谷会」には参加しなかったが、略年譜に「井伏鱒二を訪ねる」(S26)とあるように、
メンバーとの個人的なつながりは保っていたようだ。もちろん そのつながりは以前よりも
はるかに薄くなっていただろうが、上林との交遊は、いわば大人の付き合いに昇華して
続いていた。お互いが多忙になったことや、生活サイクルの違いから直接会う機会は
激減し、連絡には主に郵便が利用されたようだ。まだ、双方ともに電話はなかっただろう。
上林の妻の死(S21.5.3)とその葬儀のことは葉書で知らせている。

昭和25年頃から、正月には渋川驍を交えて3人で会っていた(次の項)。昭和27年1月2日の
会の翌日に上林が脳溢血で倒れ、以降は正月の会は中止となったが、浜野は折に触れ
上林を訪ねている。どんな会話が交わされたのか・・知りたいところだが、上林は、
この時期の交遊を題材とした小説は書いていない・・というより書けなかったのだろう。

昭和31年5月27日付の上林の浜野宛書簡が残っており、それによると、上林作品の映画化
「あやに愛(かな)しき」(宇野重吉監督)の試写会(S31.5.15)に浜野は出席できなかったようで、
上林は、“ご病気つづきの由 御大事に祈上げます” と書いている。

次の項に記したが、この時期に上林宅で撮った写真や上林との二泊の伊東旅行(S31/7)
からはそのような様子は窺えないが、これが重大な病気の前兆だったのかもしれない。

     ・病気の急速な進行    

浜野と戦後の同時期に国会図書館に勤務した作家渋川驍は、「上林暁全集 第8巻 月報」に、
「浜野、上林、渋川は、昭和25年頃から正月はお互い回り持ちで集まって、酒に、将棋に、
百人一首にと楽しんだ。昭和27年の正月に上林が軽い脳溢血で倒れた日の前夜(2日)は
3人で遅くまで飲んでいたので責任の一部があるようで胸が痛む。以後この集まりは取りやめ
たが、一番丈夫そうに見えた浜野が5年後に胃癌で亡くなったのは意外だった。」と記している。

上林の自宅で昭和31年に撮った写真が「上林暁全集(増補決定版)第14巻」の
月報に載っている。1年後に浜野が他界してしまうとは
到底思いもよらない、にこやかに寛いだ表情で上林と並んだ浜野である。


浜野(右)の後に上林の“ブロンズの首”が写っている)

上林の随想「伊東」(S32/9)によれば、H氏(=浜野)と上林は昭和31年の夏に
伊東温泉へ2泊の旅をしており、帰りに阿佐ヶ谷駅で別れたのが最後になった。
この時は元気に釣や酒を楽しんでいるので、
この直後に癌が急速に浜野の身体を蝕んだのだろう。

昭和32年3月に体調を崩し、20日から国会図書館を欠勤、本人は胃潰瘍と思っていたが、
重篤な肝臓癌で、6月8日に荻窪病院入院・手術、6月23日に不帰の人となった。享年60歳。

あまりに急な進行に、渋川驍が「胃癌」と書いたことや
上林が前年夏の伊東旅行以降は会っていない事情が理解できる。

     ・上林の「弔辞」    

上林と浜野との親交は、浜野の葬儀(S32.6.26:雑司ヶ谷キリスト教会)における
上林の弔辞に集約できよう。上林の「自作自解」から引用する。

   
   濱野さん                                                      
     あなたが亡くなられたとは、まだどうしても信ずることが出来ません。あなたは今でも、あの秀でた額に
     慈光を漂わせてほほゑみかけて来そうな気がしてなりません。            
     僕達の附合ひは殆んど同性愛とでも言へさうなものでした。僕はあなたの何とも云へぬ人間的魅力に
     惹かれて、長い歳月兄事して来ました。その間に、人間的な味わひとはどういふものか、生活を楽しむと
     はどういふものか、などといふことを、僕はどれだけあなたから學んだか知れません。それからまた、
     僕の難渋した時代に、あなたはどれだけ僕の力となり、頼みとなり、慰めとなってくれたことでせう。
     思ひ返へせば、懐かしさに身のよぢれる気持がいたします。しかし、今あなたは天上に昇られようとして
     ゐます。時々はこの僕達の下界に降って来て、天井の釣はどうか、ヤマメや鮎は釣れるかどうか、
     語って聞かせて下さい。                         
     僕はあなたと夜のそぞろ歩きをして別れねばならなくなる度に、「別れ難ないなァ」と呟くのが癖でした。
     今はもはや最後に、そして最大の悲しみを籠めて、「別れ難ないなァ」と言はねばならぬ時が来ました。
     濱野さん、安けくあって下さい。                             
                          昭和三十二年六月二十六日
                                           友人代表     上 林  暁


ちなみに、職場代表として国立国会図書館の館長 金森徳次郎も弔辞を読んでいる。

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上林への香典返し(あるいは一周忌時?)の紺暖簾には、浜野が気に入っていて 
短冊に書いていつも自分の机の前に置いていた自作の歌が染め抜かれているという。

「うすれゆく夕映雲をぬいて聳つ 富士大いなり虚空の下に」

上林が2回目の発症(S37)のため病床にある昭和40年1月13日の日記に
「夕方、故浜野修氏の妹来る。浜野氏未亡人暮れに死亡す。遺児安生君(高校二年)を
引き取って面倒を見ている由。」とある。この時浜野没後7年余、今はさらに50年を経た。

 濱野修 「略年譜」

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-- 阿佐ヶ谷文学講座 『「二閑人」上林暁と濱野修の友情物語』 開催 --

杉並区立阿佐ヶ谷図書館恒例の文学講座は今年(H23)で4回目、10月16日に開催された。
今回は、上林暁と浜野修の交遊がテーマで、いつもの萩原茂講師とともに、浜野修のご子息
浜野安生氏(63歳)がゲストとして話をされた。 父 修は安生氏が9歳の時に他界したので、
父についての鮮明な記憶は少ないが、未整理の資料は数多く遺されているとのことで
今回はその一部が明かされ、今後も徐々に整理を進められるとのことだった。
浜野修没後半世紀余を経て、ようやくその人生、生き方、文業に光が当てられることになる。

例えば、浜野家は江戸時代から代々医師で、修(本名修三)の兄は軍人になり、次男の修が
一高の医科に進んだ。大学(東京帝大)で文学部を選んだ理由は不詳だが、中学(独協)時代
から文学が好きだったことは確かだという。エリート中のエリートコースに変わりはないが・・、

戦後は、国会図書館に勤務し、阿佐ヶ谷会には参加しなかったが、多くの小説や
短歌を書き遺しており、文学への情熱は生涯持ち続けたように察せられるという。

ほかに、萩原講師からは、上林の私小説や随筆に関して、書く側と書かれる側(家族も含め)
には、時に、それぞれの思いに微妙なズレがあったようだという指摘もあり、文学作品における
事実と虚構(創作)という問題にも触れられた。現在においてはプライバシー問題として司法
の判断が求められるケースがあり、時代性や芸術性などを併せ考えさせられるところである。


-- 杉並郷土博物館(分館)で「孤独の扉を開く〜上林暁と濱野修の友情物語〜」展 開催 --

平成23年10月6日〜24年1月22日、天沼の杉並区立郷土博物館分館で開催された。

会場には、文学関係資料とともに、上林暁の作品等からイメージした谷川五男氏の絵
約10枚が掲げられ、この絵が展示資料に絶妙に溶け込んで往時の雰囲気を醸している。
上記の文学講座はその関連で、期間中には展示解説やギャラリートークも行われた。


-- 杉並郷土博物館(分館)で「荻窪の昭和−文士たちが大好きだった将棋の時間」 開催 --

平成27年3月15日(日)、天沼の杉並郷土博物館分館で開催中の「区民参加型展示 荻窪の昭和」の
イベントの一つとして、子供が主体の将棋の会が行われた。参加者同士の対戦や専門棋士による
指導将棋があり、子供たちに大人も混じって大いに楽しんだが、最後に、ビックリ対局があった!!

平成の“二閑人”対局・・濱野安生さん(濱野修のご子息) 対 大熊平城さん(上林暁のお孫さん)
が実現したのである。しかも、専門棋士による大盤解説付きで大いに盛り上がった。
(実際には、お二人は各々多忙な日々で、将棋を指す機会は滅多にないとのこと)
会場には、往時の文士たちが将棋を楽しんだ雰囲気を伝える 「濱野里(浜野修)−暁の杜(上林暁)
二百番星取表」(レプリカ )が展示され、多くの参加者、来場者が興味津津見入っていた。
(H26度 区民参加型展示「荻窪の昭和」 実施団体:NPO法人すぎなみ学びの楽園)  (H27.3.17記)

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「浜野 修」 の項     主な参考図書

『日本近代文学大事典』      (S53  講談社)

「『二閑人』上林暁・濱野修の友情物語〜文学アルバム「二人の風景」〜」
(萩原茂著 <吉祥女子中学・高校発行 「研究誌 第43号」(H23/3)>)

「『二閑人』上林暁・濱野修の友情物語U」(同上 「研究誌 第44号」(H24/3))

上林暁の作品より。<初出>(初出年月)
末尾の( )内数字は「上林暁全集(増補改訂版:増補決定版) 筑摩書房」の所収巻数


小説 『寒鮒』 <国民新聞>(S14/2) (2)
随筆 『将棋盤に題す』 <文藝>(S14/9) (19)
小説 『林檎汁』 <新風土>(S14/10) (3)
評論 『浜野修訳編「チロル短編集」』 <文藝汎論>(S14/10) (18)
小説 「鮠のたより」 <作品倶楽部>(S14/12) (3)
随筆 『我が交遊記 -二閑人将棋を指す図-』 <国民新聞>(S15/6) (14)
随筆 『夏籠り 二 』 <朝鮮新聞>S15/8) (14)
小説 「湯宿」 <日本の風俗>(S16/1) (3)
小説 『二閑人交遊図」』 <月刊文章>(S16/1〜3) (3)
第5創作集 『悲歌 (序文・あとがき)』 (桃蹊書房・S16/9) (19)
小説 『白雲郷」』 <創造>(原題:「白雲」 S18/10) (4)

「自作自解」  <春夏秋冬>(S35〜S37の間に8作品) (16)
評論 「小説における嘘と真」 <産経新聞>(S37) (18)
随筆 「旧作の発見」 <俳句新聞>(S48/9) (19)
随想 「伊東」 <温泉>(S32/9) (15)
日記 「寒日記(病中日記) -昭和40年-」 <群像>(S40/4) (19)

『上林暁全集(増補改訂) 第8巻 月報』 (渋川驍記 (S53/1)) (8)

『阿佐ヶ谷会雑記』 (木山捷平著 <笑の泉>(S31/1))
『アカンサスの花-雑司ヶ谷で』 (渋川驍著 青桐書房(1990/10))
『阿佐ヶ谷界隈の文士展』 (杉並区立郷土博物館発行(平成1年))
『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』 (杉並区立郷土博物館発行(平成12年))


*****************************

濱野 修 「略年譜」

本表は、浜野修の長男・安生氏が作成発表(H23.12.15)した「略年譜」を、
私(本HP作者)が表形式にし、諸資料で確認した(補注:   )を加えた。

 “阿佐ヶ谷将棋会”の全体像

昭和史(S25まで)  略年表

                              (H24.6.17 : 浜野安生氏作成の新資料により一部を改訂)
年 - 年齢   事 柄 著作((翻訳)以外の刊行は浜野の自著)
明治30年
(1897) 
0  1/15 :埼玉県南埼玉郡出羽村(現・越谷市越谷町)に
      生まれる
 (補注: 江戸時代からの医家(濱野家)の次男)
.
大正3.年
(1914)

17  3/ :独逸学協会学校中学を卒業
 (補注: 現・独協中学、高等学校)
.
大正5年
(1916)
19  9/ :第一高等学校三部(医科)一組入学・北寮に入る   
 大正7年
(1918)
21  2/8 :一高短歌会 例会(選者 白秋・・根津娯楽苑)
 5/  :     同     (選者 庄亮・・根津娯楽苑)

 (補注: ”選者”白秋は北原白秋、庄亮は吉植庄亮、だろう)
 
 大正8年
(1919)
22  9/ ・10/ ・11/ :一高短歌会例会(根津娯楽苑、パラダイス)  
 大正9年
(1920)
23  1/ :一高短歌会 例会(パラダイス)   
 大正10年
(1921)
24  7/ :一高卒業
 9/ :東京帝国大学文学部美学科入学

   中央新聞社に学部在籍のまま入社
  
 *
大正10年から12年の間、神田区神保町の独逸語講習所に
    約3カ年、麹町の上智大学に課外講師として約1カ年余り、
    いずれも独逸語、独逸文学の講義をする
 
大正11年
(1922.)
25   5/ :一高短歌会 例会
 12/ :国民新聞社に入社


 (補注: この年、浜野が師事した吉植庄亮は、歌誌「橄欖」を
     創刊し、浜野もその同人として深い関わりを持った。
    (「橄欖」の誌名は、一高の短歌誌名として既存だった))
 
大正12年
(1923)
26   4/ :東京帝国大学中退
 12/ :関野ミヨと結婚
 
 (補注: 9/1 :関東大震災)
 .
大正13年
(1924)
27  1/ :国民新聞社退社

 *
退社前後から引き続き、もっぱら著作活動に没頭 
 7/ :「緑衣のマヌエラ」(翻訳)刊行
 9/ :「露西亜の新しい画家」<中央美術>
 10/ :「赤露の藝術」<中央美術> 
大正14年
(1925)
28   2/ :長女 瑞子(みつこ)誕生

 *
大正14年から15年5月まで国民文庫刊行会 編纂委員
 1/ :「瑞典文壇の新進作家」<新潮>
 6/ :「西蔵潜行記」(翻訳)刊行

 7/ :「愛は貫く」(翻訳)刊行
大正15年
(1926)
29  *大正15年9月から昭和2年2月まで世界文学大綱 編纂委員
 4/ :「労農露西亜を通りて」(翻訳)刊行
 5/ :「クライスト」(世界文学大綱 第14巻)刊行
  (補注: 「クライスト」は、日本語の初の評伝)
 昭和2年
(1927)
30 .  .
 昭和3年
(1928)
 
31
 昭和4年
(1929)
 
32  .
昭和5年
(1930)
33  .  11/ :「鉄火の試練」(翻訳) 刊行
     :「赤露を旅して」(翻訳) 刊行
 昭和6年
(1931)
34  (補注: 9/18 :柳条湖事件ー満洲事変)   8/ :「マダム・カマクラの情事」
                 <オール讀物號>
 10/ :「スパイ跳梁」(翻訳) 刊行 
昭和7年
(1932)
35  (補注: 改造社懸賞入選が機で上林を知る。)  1/ :「独逸兵と女」<文藝春秋>
 2/ :「接吻漫談」<改造>(懸賞入選作)
 6/ :「タバコ漫談」<改造>
 7/ :「金」(アラスカ綺談)<文藝春秋>
 10/ :「黒色デカメロン」<改造>
    :「黒いドン・ジュアン」<日本国民> 
 昭和8年
(1933)
36  4/27 :「煙草の歴史」 出版記念会(レインボーホール) 

 (補注: 出版記念会出席者の寄せ書きがあり、芹沢光治良、
      小松清、湯地孝らの名がある) 


 3./ :「共産主義は何故に
            難破したか?」(翻訳) 刊行
 4/ :「煙草の歴史」(翻訳) 刊行
   :「黒人の伝説」<人情地理>
 5/ :「芸術の分析」(フロイト精神分析
               大系 10)(翻訳) 刊行
 6/ :「十九世紀の人気男
     ハインリッヒ・シュリイマン」<改造>
 11/ :「アラビヤ兵 ベン・シエメールの一生」
                           <改造>
 昭和9年
(1934)
37
 (補注: 昭和6年頃から、海外著作物に対する著作権侵害が
       糾弾され、日本は対応を迫られた。(プラーゲ旋風)
       対象は楽譜、演奏から文学書の翻訳にも及び、
       混乱は昭和14年まで続いた。 
       「荻窪風土記-阿佐ヶ谷将棋会」の項に詳記。

       井伏によれば、浜野はこの問題で多額の賠償を
       命じられたというが、萩原教諭は、その事実はない
       という。)
 1/  :「酒漫談」<経済往来>
 3./1 :「ざると巡査」<朝日新聞 夕刊>
     :「トバク漫談」<改造>
 4/ :「クライストの恋」<文藝>
 6/ :「酒・煙草・賭博」(随筆) 刊行
 7/ :「クライストの小説に就いて」<浪漫古典>
 8/22 :「恋の登録」<朝日新聞 夕刊>
 9/ :「漱石の「猫」とホフマンの「猫」と」
                      <浪漫古典>
 11/ :「トオマス・マン自伝」<浪漫古典>
 昭和10年
(1935)
38
 2/ :妻ミヨと離婚


 
 1/ :「美男の大盗マノレスク実伝」<改造>
 4/ :「ゲエテとベエトオヴェン」<文藝>
 8/ :「国文学夜話」<文藝>
    :「卓上噴水」<改造>
 9/ :「エチオピアに文学は無い?」<文藝>
 12/ :「くず餅」<橄欖>
 昭和11年
(1936)
39  (補注: 2/26 :二・ニ六事件) 
 (補注: 上林の「二閑人交遊図」によれば、二人は2・26事件の
       後の頃から友人付き合いになった) 


 (補注: 11/8付で井伏からハガキの返信があり、
      両者の交友が始まったことが窺える)
 3/ :「B侯爵夫人毒薬綺譚」<改造>
 7/ :「シュロッフェンシュタイン家の人々」
                      (翻訳) 刊行
 11/ :「ヘルマン戦争」(翻訳) 刊行
     :「ホムブルクの公子」(翻訳) 刊行 
昭和12年
(1937)
40  (補注: 7/7 :盧溝橋事件ー日中戦争)   11/ :「空襲今昔物語」<改造> 
昭和13年
(1933)
41  (補注: 1/28付の上林暁から将棋に誘うハガキがあり、
      交友が進行していることが窺える。)
 9./ :「リヒトフォーフェンの母の日記」
                       <新女苑> 
昭和14年
(1939)
42  (補注: 年初頃から上林暁との親交を深める。上林の小説には
      「寒鮒」(S14/2)に「勝部氏」の名で初めて登場する)

 6/18 :阿佐ヶ谷文人将棋会(共栄荘) 
 12/12 :阿佐ヶ谷将棋会(青柳瑞穂邸)
 12/20 :阿佐ヶ谷会

 (補注: “共栄荘”は、阿佐ヶ谷1-863(現・阿佐谷南1丁目)

 (補注: 9/ :ドイツ軍 ポーランド侵攻ー第二次世界大戦)
 3/ :「荒鷲の母の日記」(翻訳) 刊行
    :「酒と兵隊」<改造>
 4/21〜25 :「プラーゲ咄し」(4回連載)
                      <国民新聞>
 6/ :「チロル短編集」(編・翻訳) 刊行
 10/ :「トオマス・マン自伝」(翻訳) 刊行
 12/ :「野口英世言行録」(小型修養叢書) 刊行
昭和15年
(1940)
43  4/14 :阿佐ヶ谷文人将棋会(共栄荘)
 7/ :久保田英子と結婚
 9/19:釣り(津久井渓谷) 上林同行
 11/17 :阿佐ヶ谷将棋会(ピノチオの離れ) 


 (補注: 9/ :日独伊三国同盟締結)
 2/13〜17:「泥棒の置き土産」<国民新聞>
 6/ :「シシリイ島記」<公論>
 8/ :「悪魔の酒」上下 (翻訳) 刊行
昭和16年
(1941)
44  5/6 :阿佐ヶ谷将棋会(青柳瑞穂邸)
 7/16 :水曜会(ピノチオ)
 11/17 :阿佐ヶ谷会(エコー)
 11/20 :井伏、小田、中村三氏送別会(ピノチオ)

 (補注: ”ピノチオ“の送別会は、三氏「徴用」のため)
 (補注: 12/8 :対米英開戦ーアジア太平洋戦争)
 5/ :「Uボート」(翻訳) 刊行
    :「スツウカ」(翻訳) 刊行
 12/ :「不滅の鴻業」 フォン・ベエリングの生涯
                       (翻訳) 刊行
    :「大空の悲歌」(翻訳) 刊行
昭和17年
(1942)
45  2/5 :阿佐ヶ谷会、御嶽遠足
 (補注: 浜野が幹事役) 
.
 昭和18年
(1943)
46  1/8 :上林暁と猿橋へ旅行
 7/ :西多摩郡成木村(現・青梅市成木)に疎開 


 (補注: 転居で上林暁との親密交遊は一段落した)
 2/ :「欧米財閥史」(翻訳) 刊行
    :「アジアの旅」(翻訳) 刊行
 5/ :「少年船員クルト」(翻訳) 刊行
 10/ :「独逸軍神プリィン少佐」 刊行 
昭和19年
(1944)
47  4/ :杉並区荻窪三丁目(現・荻窪五丁目)に転居
 12/ :衆議院事務局に嘱託として奉職 図書室勤務
 9/ :「南方原住民の歌謡」 刊行 
昭和20年
(1945)
48  6/ :杉並区西田町(現・荻窪三丁目)に転居
 7/5 :久しぶりで上林君を誘う
. 
.  (補注: 8/15 日本の無条件降伏により終戦
 昭和21年
(1946)
49  1/ :上林暁に「トオマス・マン自伝」の再版を勧められる
 昭和22年
(1947)
50  1/ :長女瑞子結婚  .
 昭和23年
(1948)
51  3/ :長男 安生 誕生
    国立国会図書館の設立とともに、主事として転任
 8/ :同上受入部納本課納本月報係長となる
 11/ :同上受入整理部編纂課納本月報係長となる
 (補注: 国立国会図書館長(初代)は金森徳次郎))
昭和24年
(1949)
 
52  .
 昭和25年
(1950)
53  1/ :上林暁と一緒に渋川驍を訪ねる



 7/ :国立国会図書館受入整理部編さん課課長補佐となる


 12/10 :上林暁を訪ね、「ニイチェ詩集」を謹呈する
 5/ :「昭和23年度 全日本出版物総目録
            −編さん覚書−」<読書春秋>
 6/28 :「ニイチェの恋文」<図書新聞>
 8/ :「ニイチェの詩」<読書春秋>
 9/ :「盲人の図書館−訪問記−」<読書春秋>
 10/ :「ベエトオヴェンの「不滅の愛人」」
                       <読書春秋>
 11/ :「「全日本出版物総目録」に収載
   される資料の範囲と蒐集」<びぶろす>
 12/ :「ニイチェ詩集」(翻訳) 刊行

 (補注: <読書春秋>は、国会図書館の館報)
 昭和26年
(1951)
54  1/2 :渋川驍と一緒に上林暁を訪ねる
  /6 :渋川驍を訪ねる、後から上林君来る
  /28 :恩地孝四郎を訪ねる
 2/21 :井伏鱒二を訪ねる
 3/3 :上林暁を訪ねる

 5/14 :北海道へ出張、20日まで

 4/ :「現代ドイツ文学」<出版ニュース>

 11/ :「図書館めぐり -11-
          都立日比谷図書館」<読書春秋>
昭和27年
(1952)
 
55  1/2 :渋川驍と一緒に上林暁を訪ねる
  /6 :上林暁を見舞う
  /14 :一高旧室会(通産省常任委員会の食堂)
  /16 :上林暁を見舞う

 2/24 :上林暁を見舞う
 6/2 :文化人懇談会(参議員会館第一会議室)
 10/18 :橄欖 10月歌会(上野、黎明館)
 11/22 :ヰーン平和会議東京準備会(お茶の水)
 12/7 :杉並区善福寺に転居
     :「大芸術家の恋愛書簡」の一部が大阪朝日放送の
                 「恋愛教室」という番組で朗読される

  *
12月から1957年(S32)2月まで <出版ニュース>の
    海外ニュース欄でドイツを担当する

 (補注: 1/3 上林が最初の脳溢血を発症ーその後回復)
 2/ :「グリム兄弟」<読書春秋>
 3/ :「ソ連の演劇について」<読書春秋>
 7/ :「破防法はこう使われる」 戒能通孝
              (書評) <出版ニュース>
 9/ :「カフカのことなど」<読書春秋>
 10/ :「大芸術家の恋愛書簡」(翻訳)刊行
     (本書が日本図書館協会の
                    選定図書となる)
 11/ :「酒・煙草・革命・接吻・賭博」(随筆) 刊行
                     
    :「ステファン・ツヴァイクーフマニスト
            の人と作品」<出版ニュース>
 昭和28年
(1953)
56  1/10 :文化人懇談会(西荻窪駅前 こけしや)
  /17 :上林暁を訪ね、「話のモザイク」を謹呈する
 
 5/5 :小原節三胃癌にて死去

 (補注: ”こけしや”の会は、「カルヴァドスの会」だろう
    中央線沿線に住む作家、詩人、画家、評論家、俳優など
    の文化人が例会を開いていた)
 (補注: 「話のモザイク」は、前年11月刊行の「酒・煙草・
       革命・接吻・賭博」の副題)
 1/ :「金が歴史を作る」(翻訳) 刊行
  
 7/11 :「スイス山房の老作家」 T・マンとの
             会見記(翻訳) <図書新聞>
 9/ :「ドイッチェ・ビブリオテーク」 <読書春秋>

 10/ :「言葉とその騒音」<出版ニュース>
 10/24 :「五円硬貨」<毎日新聞・夕刊>
 昭和29年
(1954)
57  1/9 :上林暁を訪ねる
 7/8 :葉山 一色海岸海の家、管理人として出張(15日まで)
 10/19:無着成恭を囲む座談会

 11/ :「小原節三歌集」 刊行
 5/ :「一高対三高野球戦史」 (書評)
                  <出版ニュース>
 12/ :「独逸文庫」<読書春秋>
 
 昭和30年
(1955)
58  1/ :「大芸術家の恋愛書簡」の「オーロラの日にクララへ」他
     一編が「少女文化年鑑1955年度版」(学習研究社)に
     掲載される
 4/28 :一高同窓会
 8/ :「山は花ざかり−Der Berg bluht-」
                    <読書春秋>
 9/ :「トーマス・マン −その略歴と著作−」
                    <出版ニュース>

  (補注: トーマス・マン 8/12 心臓病で没す)
 
昭和31年
(1956)
59  2/10 :図書館 一高の会
 5/6 :上林暁を訪ねる

 7/6 :上林暁と伊東へ旅行(二泊三日)
 8/ :「もし犬がいなかったら人間は
       どうなっていただろう?」 <読書春秋>
昭和32年
(1957)
60  1/3 :釣り(本牧)
 2/1 :国立国会図書館受入整理部索引課課長補佐となる
 3/1 :手が痛く、よく動かなくなる
  /19 :深夜のどがはれる
  /20〜 :この日から欠勤する
 6/8 :荻窪病院に入院
  /18 :手術、肝臓癌で4,5日の命と言われる
  /23 :午前7時49分亡くなる
  /26 :雑司ヶ谷教会で葬儀
       金森徳次郎、上林暁、町田義知が弔辞を読む
 (補注: ”金森徳次郎”は、この時の国立国会図書館長)
 3/ :ゲオルグ・ウェールトとその遺作」 
                 <読書春秋>




昭和39年
 (1964)
-  (補注: 妻英子死去)  .
 昭和48年
  (1973)
 
-  1/ :「漱石の「猫」とホフマンの「猫」と」(<浪漫古典>(S9/9))が
    「夏目漱石全集」別巻(筑摩書房)に収録される
 
 .
平成13年
(2001)
-  .  4/ :「野口英世言行録」(復刻版) 刊行
 8/ :「スカパ・フローへの道」(翻訳)
               「Uボート」改題 刊行
 

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