第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界
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(九) 二・二六事件の頃 == 荻窪にも襲撃隊!!
★ 混迷の度、ますます深まる中、日常が流れる ★
昭和初頭 ・・・
日本の大陸への武力進出は、満州事変(S6)・上海事変(S7)・満州国建国(S7)、と続き、
国際連盟の非難に抗して国際連盟脱退(S8)にまで至った。国内では、政党が弱体化して
軍部と右翼が勢力を伸ばしファシズム化が進行、左翼等に対する弾圧徹底が目立っていた。
この背景にはいわゆる“昭和恐慌”がある。第一次世界大戦後および大震災後の不況、
金融恐慌(S2)、世界恐慌(S4)、大凶作(S6・S9)等による農村疲弊の深刻化等々、
昭和初頭の日本経済の混乱は長く続いていた。政党は有効な対応ができず、
むしろ財閥との癒着で政治不信を招き、軍部・右翼の台頭を招いていた。
軍部はこの苦境を乗り切るため大陸に進出したが、その陸軍内部では皇道派と統制派の
対立があり、永田軍務局長暗殺事件(S10:「相沢事件」とも云う)が発生している。
皇道派の相沢三郎中佐が統制派の永田鉄山軍務局長を白昼陸軍省で斬殺したのである。
日常が流れる中、“白虹 日を貫く” を見た ・・・
大震災から10年余、荻窪住人となって9年、井伏やその周辺は貧乏はしていたが
お互い仲良く一庶民として普通の生活の流れの中にいた。
井伏は本編に「昭和11年2月25日に都新聞学芸部を訪ねる途上で白い虹が太陽を横に
突き貫いているのを見た。用談後に「広辞林」を調べると「白虹、日を貫く」といって兵乱の
前兆だと書いてあった。」(要約)と記している。
翌日には現実となるのだが・・・それは知る由もない日常の一コマだった。
なお、井伏は、この「2/25に白虹を見た」という話を、すでに「黒い雨」(S41)の最終章に
書いているが、その種本である「重松日記」には記述がない。 現象が事実だったか確認
する術もないが、他では見聞きしたことがないので、井伏流の創作挿話とみてよかろう。
*「白虹 日を貫く」(広辞苑)[史記 雛陽伝] 白い虹が太陽を貫くことで、
中国で昔、国に兵乱のある凶兆とされた。 白虹は兵の象、日は君主の象。
青柳瑞穂と田畑修一郎が仲違い ・・・
その日家に帰った後、外村繁(<外村繁のこと>)から、阿佐ヶ谷将棋会メンバーの
青柳瑞穂と田畑修一郎が骨董(能面)のことで仲違いしてしまったと聞かされた。
この問題は日常の流れの中にあって井伏や外村たちが気になることの一つだった。
<骨董のこととなると勝負をしているように青柳は別人になる>と井伏は本編に記している。
(この骨董(能面)は、現存する鎌倉末期(1316)唯一の面で、
青柳が昭和10年に静岡県引佐郡三ケ日の農家から購入したもの。)
田畑修一郎(たばた しゅういちろう):明36(1903)9.2〜昭18(1943).7.23 享年39歳
島根県生まれ。本名は修蔵。小説家。早大英文科中退。在学中(T15)に火野葦平らと
同人誌「街」を創刊。その後創作に専念するに至り小田嶽夫らと「雄鶏」(S6:後の「麒麟」)
を創刊するなど多くの同人誌に関わった。「鳥羽家の子供」(S13)が芥川賞候補になり、
文壇に独自の位置を認められるに至ったが、昭和18年、民話取材のため岩手県に
赴いていて急逝した。<急性盲腸のため盛岡病院で亡くなった>と本編にある。
昭和3年から6年まで阿佐ヶ谷に住み、阿佐ヶ谷将棋会初期からの会員だった。
(第三部 「田畑修一郎」 の項に詳記)
遣らずの雪で徹夜の将棋〜未明にマーケットの安売り花火 ・・・
その夜、井伏宅へ早稲田の学生がきた。夜になって雪が降りだしたので学生は泊まることに
なり徹夜の将棋になった。明け方に朝刊がきたとき、花火を揚げるような連続音を聞いたが、
「いつもの駅前マーケットの安売りの花火・・・今日は早いな・・・」と思いながら寝てしまった。
★ 銭湯で知った日常の一大転機、「二・二六事件」 ★
大雪の道、昼過ぎに銭湯へ・・・花火でなく機関銃だった ・・・
2月26日、昼過ぎに目を覚まして大雪の積もった道を武蔵野湯(前出)に行った。そこで光明院
(前出)の裏通りに住む渡辺錠太郎教育総監が兵隊に襲撃され、殺害されたことを知った。
銭湯等で聞いた話の中には後で事実ではないと判ったことも多かったが、早朝の音は
花火ではなく機関銃だったことは確かで、まさに「兵乱の前兆」が現実となったのだった。
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昭和62年発行の本書(新潮文庫)には<訂正--->という7行が挿入されている。
『新潮』発表時(S56)や昭和57年発行の単行本にはなかった部分である。
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渡辺教育総監の私邸は、井伏宅から青梅街道の四面道を挟んで南へ徒歩10分足らずの所で
(現、上荻2丁目)、そこで後に「二・二六事件」と呼ばれる歴史上の大事件の一端が起きていた。
この事件が契機となって軍部勢力は一段と強力になり、その主導で中国・満州問題は
日中戦争(S12)へ太平洋戦争(S16)へと進み、庶民の日常も大きく変化していくのである。
布告文「兵に告ぐ」原案作成者が徴用時の班長 ・・・
結局、決行部隊は「奉勅命令」により反乱軍として帰順を迫られ、2月29日午後鎮圧されたが、
この鎮圧に大きな役割を果たしたのが、「兵に告ぐ」として有名な布告文である。
当時陸軍省新聞班員だった大久保弘一少佐が原稿を書き、ビラにして29日8時頃飛行機や
戦車から撒き、さらに8時50分からはNHKラジオで放送したが、この放送原稿はマイクを前に
して無造作に二分間足らずで一気に書き上げたものを即座に中村アナウンサーが読んだという。
ビラは何種類かあるが、飛行機から撒かれた次のビラが最も簡潔で名文として有名である。
下士官兵ニ告グ 一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ ニ、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル 三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ 二月二十九日 戒厳司令部 |
この大久保少佐が、井伏が徴用で宣伝班員としてシンガポール滞在中にその班長となった
時期があり、布告文の質問をされると機嫌がよかったと本編にある。縁というものだろう。
[満州事変・上海事変・満州国建国]
昭和6年9月18日、満州(中国東北部)に駐屯していた関東軍は奉天(現瀋陽)郊外の
柳条湖付近の南満州鉄道を爆破し、それを中国側の仕業と称して一斉に軍事行動
を開始(柳条湖事件)し、翌年2月にはほぼ満州全域を占領(満州事変)、
3月1日には清朝最後の皇帝である溥儀が執政となり「満州国」の建国が宣言された。
上海事変は、昭和7年1月、日本が上海で起こした軍事行動とそれに伴う日中間の戦闘。
満州事変から世界の目をそらし、かつ抗日運動を弾圧するため日本軍が謀略で引き起こした
戦闘である。(昭和12年8月の上海での日本の軍事行動と区別し、第一次上海事変ともいう。)
[二・二六事件]
昭和11年2月26日未明、皇道派青年将校20名に率いられた下士官・兵等1,400余名
(近衛歩兵第三連隊、歩兵第一、第三連隊等)が首相官邸などの襲撃を決行し、高橋是清蔵相・
斉藤実内大臣・渡辺錠太郎教育総監などを殺害、首相官邸・陸軍省・警視庁などをはじめ
永田町一帯を占拠して陸軍首脳に国体擁護(昭和維新の断行)を要求したクーデター事件。
陸軍大臣邸を占拠した香田大尉は、「蹶起趣意書」を川島陸軍大臣の前で読み上げたが、
その要点は「わが国は天皇統帥の国体であるが、現在この国体は私心我欲を恣にする者の
手によって破壊され、そのため国民は苦しい生活を強いられている。
その元凶である元老、重臣、軍閥、官僚、政党を除いて維新を断行し、国体を擁護する」
というものである。
野中大尉が書いた「決意書」に、2月24日村中元大尉が北一輝宅で筆を入れたものだが、
原文には難しい漢字・熟語が多く、現代では読むこと、まして理解するのに苦労する。
事件に対し翌早朝戒厳令が布かれた。陸軍の一部には決行部隊を擁護する動きも見られたが、
天皇は一貫して鎮圧を命じ、28日早朝に「奉勅命令」が下った。戒厳司令部は
決行部隊に帰順を迫る一方で東京周辺の部隊を集結して武力鎮圧の態勢をとった。
そして28日午後11時、香椎戒厳司令官は「叛乱部隊」として武力行使の命令を下したが、
翌日、下士官・兵は帰営し、将校は野中大尉が自決したほかは拘束されて無血で鎮圧された。
「厳罰主義で速やかに処断する」という陸軍の基本方針のもと、3月4日、緊急勅令で
東京陸軍軍法会議が設置され、7月5日に叛乱軍指導者17名に死刑判決が下り、
7月12日朝、代々木の陸軍衛戍刑務所に設けられた処刑場で15名に銃殺刑が執行された。
この日、朝早くから隣の代々木錬兵場では軽機関銃、小銃隊の射撃演習が行われた。
処刑の銃声を紛らすためだった。
この裁判は、一審制・弁護人なし・非公開で、4ヵ月後には判決・死刑執行の早さだった。
決行推進の中心人物の一人である磯部浅一(元一等主計)、村中孝次(元陸軍大尉)は、
その後の裁判の証人として処刑を延期されていたが、事件の理論的指導者とみられた
民間人の北一輝(輝次郎)と西田税(にしだみつぎ:元陸軍少尉)にも翌12年8月14日に
死刑の判決が下り、5日後の8月19日に4名に銃殺刑が執行された。
(磯部・村中はいわゆる「士官学校事件(S9)」後の行動で免官(S10)されており、民間人。)
陸軍最上層部の皇道派領袖真崎甚三郎大将は、東京憲兵隊本部の取調べを受けた後
昭和12年1月25日に起訴されたが、事件関与の追及をかわして否認した。
論告求刑は反乱者を利す罪で禁錮13年であったが、9月25日の判決で無罪となった。
法を超えた政治決着という見方が多いが、近年(H29)は関与の根拠を見直す研究がある。
真崎大将が決行青年将校等と共謀関係にあったかはともかく、日頃の関わりが深かったことは
確かで、裁判における言動は磯部側から見れば「狡猾な裏切り者」であり憎悪の対象となった。
磯部は獄中手記にこの気持を露にし、反乱幇助罪で告発(ほかに13名)さえしている。
この一連の裁判は、特別な軍法会議であったというだけでなく、陸軍の内部事情、国内の
政治・社会情勢と対中国等国際問題の強い影響を受けて短期間での決着が図られ、
判決には政治色が強く反映したといえる。これが本編で「暗黒裁判」という所以だろう。
この事件で、陸軍内における統制派の支配が確固たるものとなり、
軍部の政治的発言力も画期的に強まることとなったのである。
[渡辺錠太郎教育総監襲撃]
*渡辺錠太郎(わたなべ じょうたろう) (M7.4.16〜S11.2.26:享年61歳)
愛知県生まれ。陸士・陸大卒。陸軍大学校校長、航空本部長、台湾軍司令官を歴任して
昭和6年、大将・軍事参議官。陸軍内の派閥抗争には中立的であったとされるが、
昭和10年、統制派の主導により真崎甚三郎大将(皇道派)の
後任教育総監となり、皇道派からは統制派と目された。
天皇機関説に理解を示す言動もあり、特に皇道派将校の憤激を買った。
当初は襲撃対象としては保留されていたが、計画の最終段階で決定した。
高橋太郎少尉と安田優少尉らは、26日朝5時頃下士官兵約200名で四谷区仲町の
斉藤内大臣邸を襲撃して射殺後、直ちに下士官兵約30名を率いてトラックで
雪の青梅街道を荻窪に向かった。 6時過ぎ頃、私邸の玄関前にトラックが止まった。
渡辺錠太郎は拳銃で応戦したが機関銃、拳銃弾に壮絶な最期を遂げた。61歳だった。
高橋少尉・安田少尉は死刑となり、ほかの13名とともに7月12日に執行された。
高橋太郎 23歳、安田優 24歳の生涯だった。
命令を受けて機関銃を撃った中島上等兵は禁錮2年(執行猶予3年)だった。
*教育総監
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門柱の表札の名前は判読 できないが通用門にある表札 には「渡辺」とある。 門扉は変わっているが、 門柱は当時のままのようだ。 (H20.2.11撮) |
「二・二六事件」に関しては主に次の図書を参考にした。 (H15/2UP) ・『昭和史の事典』 佐々木隆爾編(平成7年) ・『二・二六事件 第一〜第三巻』 松本清張著 (昭和61年) ・『二・二六事件全検証』 北 博昭著 (平成15年) ・『二・二六事件(中公新書)』 高橋正衛著 (平成6年) ・『目撃者が語る昭和史 第4巻 2・26事件』 猪瀬直樹監修 (平成1年) ・『黒い雨』 井伏鱒二著 (昭和41年) ・『重松日記』 重松静馬著(相馬正一編集) (2001) |
2・26事件の刑死者19名、自決2名と相沢三郎中佐の22名の慰霊碑 死刑が執行された旧陸軍刑務所敷地の一角(現・渋谷税務署交差点) (NHK放送センター南口前から、H15/12撮) |
(八)続阿佐ヶ谷将棋会 = 文士が戦場へ!! | (十)善福寺川 = 太宰治と鮠釣り!! |
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