第三部 阿佐ヶ谷文士それぞれ (人生と文学)


 田畑修一郎(たばた しゅういちろう) 

明治36(1903).9.2 〜 昭和18(1943).7.23  (享年39歳)


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【将棋会 第1 出発期 (S3〜S8)】の頃  (“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像”


= 旅館を売却して過去と決別 =

本項の田畑修一郎と別項の小田嶽夫は、ほぼ同時期に文学一筋に生きることを決断し、
自身の過去と決別した。

田畑は、故郷(現島根県益田市)で相続した旅館業を昭和4年に売却して上京、
小田は、東京外国語学校卒業で勤務した外務省を昭和5年に退職したのである。

このとき二人は阿佐ヶ谷界隈に住んで出会い、文学青年同士として付き合い、
昭和6年には同人誌<雄鶏>を創刊、以後、格別の友情を深めていった。

この時期は、”阿佐ヶ谷将棋会 第
1期 出発期” に重なるのである。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

田畑修一郎:作品一覧 

渡辺利喜子という方が長年にわたり田畑文学の探索を続けておられる。本項は主に
その著 『田畑修一郎の手紙 -愛惜の作家生活をたどる- 』(1994/5)を参考にした

   *波乱の幼少年期 ---

明治36年(1903)、島根県美濃郡益田町(現益田市)で、河野家の三男として生まれ、
修蔵と名付けられた。母が病弱のため、修蔵は主に次姉(ノブ)の手で養育された。
明治39年、母死去。父は益田で料理屋「紫明楼」を営む田畑キクを後妻に迎えた。

(註) 益田市は、旧石見(いわみ)の国にあり島根県の西端で山口県と接する。
柿本人麻呂と雪舟にゆかりの地として知られる。 徳川夢声も当地出身。


大正元年、父は浜田銀行益田支店長で地元の有力者だったが仕事上の問題で自殺し、
河野家は破産した。三男三女の末子修蔵(9歳)は田畑キクの養子となった。

養母キクは「紫明楼」を旅館にして大いに繁盛した。
河野家の位牌を預かり、嫡子(一郎)を成人まで養育し、修蔵も可愛がったので
修蔵は何不自由なく育ったが、旅館業の雰囲気にはなじめなかった。
養母キクを嫌い、反抗した環境が後の「鳥羽家の子供」などの作品の根底にある。

大正5年、修造は島根県立浜田中学に入学し寄宿舎に入ったが、健康不安のため養家や
療養所で過ごす時期があり、また受験名目で東京に下宿、この間に文学に親しんでいた。

   *早稲田へ ---

大正11年 (18歳)、早稲田第一高等学院に入学したが秋には休学して益田へ帰った。
大正12年、1年に復学。中山省三郎、玉井雅夫(後に火野葦平)、丹羽文雄らがいた。

大正13年、2歳年上の木島マツと結婚。マツを益田に残し、修蔵は雑司ヶ谷に住んだ。
このころ、谷崎精二の紹介で宇野浩二に師事、ここで川崎長太郎を知った。
9月には田畑修三の名で詩を高等学院文芸部雑誌に発表している。

大正14年には、益田で長男誕生。 高等学院学友会雑誌に小説を発表している。
大正15年、早稲田大学文学部英文科へ進学。牛込弁天町(現新宿区)に住んだ。

   *同人活動へ ---

    益田と東京

進学と同時に、高等学院時代から準備していた同人誌<街>を創刊(T15/4)。
同人は学友の中山、玉井(火野)、坪田勝、寺崎浩らで丹羽も少し遅れて参加した。
筆名を田畑修一郎として創作活動を活発化し、創刊号に「林檎樹と猫」(代表作「鳥羽家
の子供」の第一稿にあたる)を発表、以後、2号(5月)、5号(11月)にも発表している。

この年(T15)、益田では、長女が誕生し、玉井(火野)が名付け親になった。

昭和2年、<街>の最終号(S2/7)に作品を発表したが、仲間の間で大学中退が流行し、
田畑も退学した(S2/10)。玉井(火野)、坪田、寺崎らも同様だった。東京と益田とを
行き来する生活だったが、東京の住所は杉並町阿佐ヶ谷の坪田勝の住所と同じだった。

昭和3年2月、養母キク死去。家督を相続し旅館「紫明楼」の経営者となった。
同3年に、<新正統派>(浅見淵・尾崎一雄ら)に坪田勝とともに加わったが、
作品は発表していない。書けるようなj状況にはなかったと察せられる。
このころの住所は、杉並町高円寺の坪田勝気付である。

田畑は東京での住所を坪田勝方としていたほどに二人は親しい友人だった。
(坪田は昭和16年に夭逝したが、葬儀で田畑は弔辞を読み、遺稿集を刊行している。
そのわずか2年後、昭和18年夏には自らがその後を追うことになるのだが・・。)

    決断 -- 阿佐ヶ谷

「紫明楼」は益田の一流旅館で、政治家や名士たちが利用していたが、その経営は
田畑の気質には合わないため、昭和4年に他人に売却した。この年に次男が誕生
しており、一家5人は東京に転居(S4/11)、阿佐ヶ谷に住んだ。 田畑26歳だった。

阿佐ヶ谷には、坪田だけでなく親しい仲間の中山(ロシア文学)もいた。 中山は文学や
趣味の骨董を通じて近くに住む青柳、蔵原、井伏などとすでに付き合いがあった。また、
蔵原と親しかった小田嶽夫が結婚して杉並町成宗に住んだのもこの年の4月である。

転居時(H4/11)には、田畑はこのメンバーたちのことも知っていたのではないだろうか。
なかでも、蔵原とは中山を介してずっと早い時期から知り合っていたかもしれない。

荻窪には一家が上京した際に一時身を寄せた長姉宅もあった。
阿佐ヶ谷に居を定めたのはこのような背景によるものである。

    小田が見た田畑

このころの田畑のことを小田は後に『文学青春群像』(S39)に、「痩せて背が高く、
色白な繊細な感じの容貌をしていた。 -(中略)- ものの考え方にわれわれより老成
しているところがあった。”裏と表”とか”それをひっくり返して見ればつまり・・・”とか
言う表現をうるさいぐらい使うのが印象的であった。」と記し、さらに「蔵原は、”田畑は
文学について何かとても難しい考え方をしている”と言っただけであった。」と書いている。

   *”阿佐ヶ谷将棋会” ---

田畑は酒はあまり飲めなかったが、酒の会合の席は嫌いでなく、お国自慢の
安来節や時には”鰌すくい”もでたという。(小田嶽夫の追悼文)

転居当時の将棋の腕前はわからないが、直ぐに阿佐ヶ谷界隈先住の文学青年たちとの
交友が始まり、広がり深まったことは確かだろう。井伏がいう将棋会発足の頃に合致する。

田畑と小田の初対面は、小田によれば「蔵原と阿佐ヶ谷の住宅街を歩いている時に
田畑と会って、蔵原が紹介した。」のである。遅くとも田畑の転居直後、つまり昭和4年末
か同5年初め頃と考えてよい。蔵原は既に田畑、小田ともに親交があったのである。

小田は、昭和3年には蔵原を介して<文藝都市>の同人になり、井伏と知り合っており、
田畑を含む面々が”将棋会”や飲み会などに同席したことは十分考えられるのである。

ここから田畑らによる<雄鶏>が生まれ(S6/5)、田畑と小田は特に親密さを増していく。

田畑は同じ阿佐ヶ谷で一度転居した後、昭和6年10月に吉祥寺(現武蔵野市)に新居を
建てて移ったが、電車に乗れば荻窪を挟んで6〜7分、阿佐ヶ谷界隈との交友は続いた。

別記した激動する時勢や世相に対応するには”群れる”ことも必要だった。
文壇は空前の同人誌時代、プロレタリア文学台頭・全盛の時期にあって、
田畑もまたこの渦中に飛び込み、文学青年窶れの時を過ごすのである。

   *同人活動は続く ---

<街>の最終号はさきに「T15/10頃?」としたが、渡辺利喜子著書に「S2/7」と明記されている。
研究を進めて判明したのだろう。また同著によれば、このころには、益田で友人知己との新劇研究
に力を入れ、「父帰る」「ドモ又の死」などを上演、巡業している。さらに、益田の友人による文芸雑誌
<雑木林>の創刊号に文学論を発表する(S2/11)など、郷里でも積極的に活動していたことがわかる。

    <雄鶏>=後に<麒麟> を創刊

<街>、<新正統派>(S3/1〜S5/5)の後、田畑は自分が中心になって<雄鶏>を創刊した。
昭和6年5月、小田・蔵原・緒方隆士も資金を提供。田畑は1,000円、他は300〜200円だった。

コーヒー1杯10銭〜15銭・新聞購読料1円/月・巡査の初任給45円の時代、大金である。
田畑は遺産、小田は退職金からで、収入が無いに等しい身には大きな負担だった。
文学一筋に生きることを決断した田畑らにとっては、退路を絶つ覚悟であったに相違ない。

この後、田畑も小田も緒方も、その日の糧に窮するほど貧乏になり、
本人の文学青年窶れはともかく、妻たちの苦労は半端ではなかった。
3人に限らず文学青年たちには、定職には就かず、お金のために原稿を書くこと
はしないという気概があり、脱俗・孤高の気風があったので一様に貧乏だった。

緒方はこの後結婚、肺を病み、妻子を福岡の実家に帰した。自身は療養費が続かない貧窮の中、
昭和13年に死去(享年33歳)した。最期は偶々中谷が看取った。葬儀は中谷・田畑・小田・中村・
青柳・外村・亀井という親交のあった7名の友人の手で執り行った。(2期 小田嶽夫の項に詳述


同人には、 間もなく青柳・中谷孝雄・古木鉄太郎・寺崎・中山・川崎らが加わり、15名に
なったが、川崎らを除く11名は、文学青年窶れの日々を過ごす阿佐ヶ谷の住人だった。

昭和7年8月、<雄鶏>は出版社変更に伴って<麒麟>と誌名を変更した。
<雄鶏>もそうだったが今回も田畑が命名、ここに多くの作品を発表した。

昭和7年3月には<文科>に「鳥羽家の子供」が、同10月には<文藝春秋>に
「父母系」が載り、ようやく田畑の名が文壇に知られるようになった。

     ”貧乏文士”の仲間入り

昭和8年は文芸復興の機運が高まった時期である。特高による小林多喜二虐殺(S8/2)
など左翼弾圧でプロレタリア文学は崩壊に向かうが芸術派は活発になった。新たな同人誌
の発行や、小規模乱立気味の同人誌の合体による強化が図られ、また、<文学界>、
<文芸>といった有力文芸雑誌の創刊があった。(「荻窪風土記 - 病気入院」に詳記)

田畑(S8:30歳)はこの流れの中で<世紀>など同人誌の創刊に積極的に関わり、その過程
で小田らのほか早稲田の先輩浅見淵(S8:34歳)との親交を深め、大いに援けられるが、
その一方で、意見の違いから中谷孝雄、緒方隆士が離れるなど人間関係に悩まされる。
さらには、収入は出費に追いつかず、ついに心身ともに苦難の”貧乏文士”時代に入る。
外村のような例外はあるが、小田も浅見も、ほかの大部分の仲間が貧乏の真只中だった。
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昭和8年、”阿佐ヶ谷将棋会”は、井伏がいう「再発足」で「第2期 成長期」に入る。
ピノチオの離れを会場にするほどの人数になっていくのである。、

外村繁が家業を弟に譲って文学の世界に戻ったのは<麒麟>からである。初めは<麒麟>に
対する経済支援が目的の加入(S7/11)だったが、翌8年2月に阿佐ヶ谷へ転居し、7月に
正式に加入、9月の「鵜の物語」発表で復帰を果たした。阿佐ヶ谷へ移ると直ぐに
井伏との交友が始っており、"将棋会"にも参加している。(「荻窪風土記 - 外村繁のこと」

昭和8年3月には<海豹>が創刊され、ここには古谷綱武、木山捷平、太宰治がいた。井伏に師事した
中村地平もこの年に東大を卒業して文学生活に入った。 いずれも"将棋会"メンバーである。
太宰(青森)、中村(宮崎)、田畑(島根)、小田(新潟)らのお国言葉での会話は想像するに微笑ましい。

田畑修一郎:作品一覧 

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【将棋会 第2 成長期 (S8〜S13)】の頃    (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 三宅島滞在で立ち直る =

田畑修一郎(明36(1903).9.2 〜 昭18(1943).7.23  享年39歳)

昭和8年(1933)、田畑 30歳。 ”将棋会 第2成長期” は田畑の30代前半にあたる。
第1期において、田畑は過去を棄て文学一筋に生きることを決断して故郷を去り、阿佐ヶ谷
界隈に住み、活発な同人活動で文壇に少しづつ名が知られるようになったことを記したが、
第2期には、文学にも家計にも行き詰って、妻を巻き込んで立ち直りに苦しむことになる。

田畑の年譜については、多くの研究者が作成、編集しているが、「田畑修一郎全集 第3巻」
(S55)の年譜は紅野敏郎編で、田畑志摩夫(修一郎の長男)も編集委員なので基本になろう。
最近の渡辺利喜子著「田畑修一郎の手紙 -愛惜の作家生活をたどる-」(H6)の年譜は、
それまでの年譜を基本に増補したとされ、その後の研究成果が反映されているようである。

ただ、いずれも、田畑の作品の記述に拠っていると思うような部分もあり、事実かどうか
確認困難なところもありそうだ。年譜によって相違点があるのはそのような事情だろう。
私小説の場合、記述が事実なのか創作なのか、文学的には区別する意味がないかも
しれないが、作者の生き方、人間性、背景などを思うとき、やはり気になるところである。


このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

田畑修一郎:作品一覧 

   *生活逼迫 ---

     ・養母の遺産 ・・ 底をつく

昭和4年11月、田畑が上京の際に手にしていた養母の遺産(益田の旅館売却)は、家族5人が
10年くらいは何とか生活できるほどの額だったという。大雑把だが、当時の1世帯年間生活費
は1,000円くらいと見て、10,000円ほどの額だったろう。現在なら5千万円くらいというところか。

阿佐ヶ谷に居を定めた田畑は昭和6年に入ると<雄鶏>創刊に1,000円を拠出するなど積極活動
を展開するが、これらのため遺産は減る一方で、これを心配した友人からせめて家だけは確保
しておくようにと忠告があり、昭和6年10月に吉祥寺に100坪ほどの土地を借りて新居を建てた。

翌7年、田畑は<雄鶏>(この年<麒麟>と誌名変更)を拠点としながら<文科>、<文芸春秋>にも
作品を発表し、文壇に少しづつ名前は知られてきたが収入に結びつくまでには至らなかった。

こうして迎えた昭和8年だが、田畑は翌9年まで作品らしい作品を書いていない。
同人誌をめぐっては文芸復興の機運のもとで合併など活発な動きがあり、<麒麟>も
この渦中にあって多忙だったことが理由の一つだろうが、それだけではなかった。

後の作品(S10〜S11))、「南方」など”三宅島もの”によれば、この時期、田畑は
不眠症、神経衰弱に苦しんでいた。恋愛(不倫)感情にも悩んだように書いている。
収入はほとんどなく、同人活動などで出費は嵩み、遺産は底をついてきた。
経済的不安、同人活動における複雑な仲間関係、心身の不安定が悪循環となって
書ける状態にはなかったのだろう。 実際、家計は限界に達していたのだった・・。 

昭和9年、田畑31歳・妻33歳・長男9歳・長女8歳・次男5歳の5人家族だった。

     ・妻が洋裁店開業 ・・ 家を手放す

小田嶽夫は、「田畑はいよいよの場合の計らいとして、夫人を洋裁学校へやっていた。夫人は
もともと裁縫専門の女学校の出身で、彼の郷里の町の学校で和裁の先生をしていたことが
ある人で、洋裁の方も習い出せば普通の人よりずっと飲み込みが早い・・・」と書いている。
文学での挫折を心配し、家を建てる他にも生計の道を準備した田畑の冷静さが窺える。

そして遂に、妻は実際に洋裁店を開業せざるを得なくなった。吉祥寺公園通りに
店を借り、”ヒツジヤ”とした。田端は自分の家を手放して一家でそこへ引越した。
田畑自身も開業準備や生地の仕入れ、装飾などを手伝ったが健康状態は
思わしくなく、仕事部屋(兼休息室)をヒツジヤの近くのアパートに借りたようだ。

田畑が手放した家を買ったのは加藤三郎夫妻で、田畑の友人で阿佐ヶ谷将棋会
メンバーの一人である中村地平の姉夫妻だった。当時、この姉夫妻の家に同居
していた中村は、それまでは田畑の書斎だった部屋におさまったのであった。

昭和10年の田畑の年賀状の住所は転居前のものとか。3月末頃から滞在した
三宅島から浅見にあてた4月18日付ハガキにはヒツジヤのことが書いてある。
ヒツジヤの開店時期は不祥だが、転居は昭和10年1月〜3月の間だろうか。

ヒツジヤ開店時期やアパートのことなどは判然としない。昭和9年9月とする年譜や昭和10年春先
とする年譜がある。浅見淵は昭和9年頃のこととして自分が雑司が谷で貧窮生活を送っている時、
田畑がヒツジヤの仕入れで東京市内に来た際には屡々立ち寄ったと書いている。 しかし一方で、
家を手放した金でヒツジヤを開業したとも書いており、これだと昭和10年のことになろう。

小田は、「ヒツジヤ開店は昭和9年に入ってから」 「中村はこの家へ移る少し前に都新聞社に入って
いた」と書いている。 都新聞社入社は昭和9年4月なので、転居は昭和9年のことといえそうだが・・。
いずれにしろ、昭和9年秋頃から昭和10年春ないし初夏頃にかけての動きだったのだろう。
(浅見著「昭和文壇側面史」、小田著「文学青春群像」 - 共に戦後の著書で記憶違いもあり得る。)

     ・三宅島に滞在 ・・ 立ち直りの契機

田畑は昭和10年3月半ば過ぎから5月初旬頃まで、約1ヶ月半を三宅島で過ごした。
浅見あての書簡の中に、”予定を切り上げて5月に入ったら帰る” 旨書いてあるのだが、
小田は、「多分3ヶ月ぐらい田畑はそこにいた。」と書いている。細かくは不祥である。)


三宅島第一の豪家の当主 浅沼悦太郎の世話になったが、浅沼は早稲田時代には
<新正統派>の同人で、浅見の後輩、田畑の先輩にあたり、浅見と親しかったことから
その紹介で長期滞在が実現した。この2年後(S12)に、やはり浅沼の招きで
浅見・井伏らも三宅島を訪れ、1週間ほど滞在したことは別記の通りである。

田畑が何故この時期に三宅島に渡り、長期間を過ごしたのかはっきりしないが、
帰京後に発表した作品(いわゆる”三宅島もの”)を読むと、東京には身の置き所
がなかったと思える。現実を離れられれば三宅島でなくてもよかったのだろう。

田畑の代表作「鳥羽家の子供」は幼少期の実体験が題材の私小説だが、「南方」
をはじめ”三宅島もの”といわれる一連の作品においても、大筋ではほぼ事実を
書いていると考えていい。 過去2年間が無為に過ぎたこと、つまり、文学は収入に
繋がらず、生計は妻の働きに頼るようになり、また、同人関係では旧い親しい友人
との確執や、ある女性(一説に坪田勝の妹)への思いに悩むこともあったようで、
焦燥感、無力感、罪悪感などに苛まれ、心身の不調が激しくなったのだろう。
生きる意味さえも見失って現実から逃避したということではなかったろうか。

しかし結果的には、田畑は、狭い厳しい生活環境の島で自分の全てを曝け出して
逞しく生きる人々と接することで、自己を見つめ、家族を思うことができたのだろう。
田畑をよく知る友人たちは三宅島で田畑は死ぬのではないかと心配し、
田畑に寄せ書きを贈ったようだが、田畑は危機を乗り越え、無事帰還した。

     ・再転居 ・・吉祥寺で3軒目       

ヒツジヤは、昭和12年に妻が過労で倒れたため7月に閉店、店の権利を譲渡して
10月に一家は吉祥寺山谷松原の借家に転居した。吉祥寺で3軒目の家となった。
苦しい生活は続いたが、田畑には文学以外の道で生きる術はなかった。 
<文学生活>、<早稲田文学>を拠点に地道に執筆を続けた。

三宅島行きが立ち直りの契機になったとはいえ、田畑の前に明るい道が開けたのは、
翌13年6月に「鳥羽家の子供」を発刊してからである。まだまだ辛い日が続くのである。

   *文学活動 ---  

     日曜会(宇野浩二を囲む会)発会:幹事

昭和8年2月、学生時代から師事した宇野浩二を囲む会(後の「日曜会」)を開催し、
田畑は幹事役となった。日曜会は文芸復興の機運の中で、早稲田関係だけでなく
阿佐ヶ谷界隈からも木山、小田、など多くの文学青年が出席し賑わったが、発会日
(上野三橋亭:2/20(月))は、奇しくも小林多喜二が逮捕、虐殺されたその日だった。

ここからプロレタリア文学は壊滅に向かい、半面で文芸復興の機運が高まったが、
日本におけるファシズムの流れがこの年に決定的になったことは別記の通りである。

     ・同人活動を主導 

浅見淵の項で詳述したように、昭和8年には同人誌をめぐって芸術派の大合同
図られるなど動きは活発だった。田畑ら<麒麟>の同人もこの動きの中にあって、
昭和9年には浅見らの<小説>などの同人と合体して<世紀>を創刊(S9/4)した。
<麒麟>の同人はそのまま移っており、<麒麟>としては発展的な解消だった。

一方、亀井勝一郎の項に詳述したように、昭和9年には<日本浪曼派>創刊
準備が進み、<世紀>からは中谷孝雄がこれに参加、中谷は緒方隆士を
誘っていた。田畑は思いとどまるよう中谷を懸命に説得したが聞き入れられず、
そのころ田畑と感情の疎隔を来していた旧友の緒方もついに<世紀>を去った。

<世紀>からは淀野隆三も<日本浪曼派>に参加したことで<世紀>は解散した。
<日本浪曼派>の創刊は昭和10年3月で、<世紀>の解散は4月である。
田畑が三宅島へ渡ったのは丁度この時期に当たる。
田畑の心身の不調にはこの同人関係も大きく影響していたに違いない。

三宅島から帰京した後、田畑、浅見、小田、尾崎一雄、外村繁ら小説家志望の10名
は<木靴>を創刊(S10/10)し、さらに翌11年には上林暁、伊藤整らの<新文芸時代>
などと合体して<文学生活>を創刊(S11/6)した。 (浅見淵の項に詳述)

経済的には困窮が続いた。田畑は洋裁店を手伝ったが商人には馴染めず、
自分は文学の道でしか生きられないと改めて思い定めたはずである。 帰京直後
の昭和10〜11年にかけて”三宅島もの”を発表しながら、文芸復興の流れの中で
激しく行動する文学仲間と共に、田畑も積極的に同人活動に参画したのである。

     ・浅見淵との親交

同人活動を通じて多くの文学青年と知り合ったが、友人として特に親しくなったのは
<雄鶏>創刊(S6)以来の小田、早稲田時代からの旧知で、<世紀>創刊(S9)で協力
した浅見、尾崎一雄だろう。小田の第一創作集「城外」(S11)に田畑は心のこもった
「跋」を書いている。このころからは、中村地平木山捷平とも親しさを増していった。

浅見宛の手紙が渡辺利喜子の著書「田畑修一郎の手紙-愛惜の作家生活をたどる」
にまとめられている。昭和8年正月から昭和18年5月(田畑急逝の約2ヶ月前)までの
書簡で田畑のことや両者の交友、友人関係や文壇、時代背景などが読み取れる。

浅見との交友は三宅島行きから急速に深まり、帰京後の同人活動では常に行動を
共にしている。浅見が先輩として何かと田畑の面倒を見ていたように見受ける。
浅見は尾崎一雄と共に<早稲田文学>復刊(第3次:S9)に携わり、砂子屋書房
創業(S10)・経営に参画するなど文壇での活動が軌道に乗ってきた時期である。

以降、浅見は自著(評論集)「現代作家研究」(砂子屋書房:S11/9)や「現代作家
30人論」(竹村書房:S15/10)で田畑を書き、戦後も「昭和の作家たち」(S32)で
田畑を偲んでいる。浅見は戦後いち早く石原慎太郎を認めて世に送り出しことでも
知られるが、当時、評論家としての目で田畑を高く評価していたのだろう。

昭和16年のことになるが、田畑は浅見の世話で浅見の住む千葉県御宿町に約1ヶ月
滞在し、小説「医師高間房一氏」を書き上げた。名作の評がある長編小説である。

     ・”三宅島もの” 好評 

三宅島から帰ると(S10/5)、島での体験を題材にした短編を続けて発表した。
”三宅島もの”といわれる作品である。「南方」(<早稲田文学>:S10/6)、「断片」
(<文藝通信>:S10/7)、「三宅島通信」(<作品>:S10/7)、「石ころ路」(<文藝通信>
:S11/11)などがあり、中でも「南方」と「石ころ路」は好評だった。浅見は「田端の
作品では、この一連の作品が最も感動的なのではないか。」と書いている。また、
「私の手紙」(<文陣>:S10/11)を、当時、浅見は”近来稀な名随筆”と絶賛した。

ちなみに、「南方」は尾崎が編集に携わっていた<早稲田文学>に載った。尾崎は
田畑の前年の作品「明日」(<世紀>:S9/11)に感心しており、浅見同様に田畑の
才を認めていたようだ。<世紀>廃刊直後なので尾崎の計らいがあったのだろう。
「石ころ路」が載った<文藝通信>は文藝春秋社の発行で永井龍男の編集だった。

これらの高い評価を得て田端は自分の文学に自信を取り戻したはずである。
ただ、昭和12年には目立った作品は見当たらない。夏に妻の過労でヒツジヤを
閉じ、転居するなど世事に追われたのだろうが、もともと体調には不安を抱え、
遅筆、寡作の田畑なので、休養と充電が必要だったのかもしれない。 

     ・田畑身辺にも軍靴の響き 

日中戦争(S12/7〜)は激化した。 田畑の2人目の子供(長女)の名付け親である
火野葦平(戦後の阿佐ヶ谷会々員)は9月に応召、一兵卒として大陸の前線にいた。
応召直前に発表した「糞尿譚」が昭和12年下期の芥川賞に選ばれ、前線で授賞式
が行われて話題になった。 (この時の直木賞は井伏の「ジョン万次郎漂流記」)

この年(S12)の秋には”将棋会”の青柳、中村にも召集令状が届いたこと、昭和13年3月には
石川達三の「生きている兵隊」が発禁となり、石川は新聞紙法違反で有罪判決を受けたこと、
徐州作戦を描いた火野葦平の「麦と兵隊」(S13/8)は大ベストセラーになったこと、など
文学の世界にも戦争が色濃く反映してきたことは既述の通りである。


これよりさき、田畑は、検閲で「明日」(S9/11:尾崎が感心した作品で、後に「ピク
ニック」と改題)の原稿を4頁削除されたことがあり、また2・26事件(S11)では
吉祥寺にも異様な雰囲気があり、妻と共に不安な思いを募らせた経験をしている。

昭和8年(将棋会第2期)になると、ファシズムの流れは決定的となり、思想・言論
統制は強化され、国民全体が否応なく戦争へと駆り立てられていったのである。
文芸復興の流れもまた戦時下で急速に国策文学へと組み込まれていく。

浅見によれば、<早稲田文学>の後輩たちも相次いで出征し、戦死の報もあった。
ビヤホールなどで出征の壮行会が催されたが、このようなことから「大いに清福を
楽しもうということになり、将棋会を思いついた」という。将棋会流行の側面だった。

田畑修一郎:作品一覧 

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

     ・田畑と将棋会メンバー 

 <麒麟>の同人のうち、田畑、 青柳瑞穂、小田、外村繁、は将棋会の会員でもある。
蔵原伸二郎もいた。この面々は井伏、木山、浅見、、古谷綱武、中村、太宰治と親交
があり、個々の関係に濃淡はあるが第1期に続き将棋や酒に頻繁に行き来していた。

既述のように、田畑は昭和8〜9年頃に ”古谷サロン” に出入りしている。青柳との
能面トラブルは昭和10〜11年頃のことである。 また、木山の日記に田畑の名前が
見えるのは昭和11年1月で、「田畑修一郎君来訪。」とある。次いで同年5月、
「田畑修一郎君来訪。将棋1敗引分1.」とある。この日は日曜会にも出席しているので
田畑と一緒だったのかもしれない。田畑が木山と知り合ったのはもう少し前のはず、
おそらく昭和8〜9年頃なので、親しさが増したことの表れだろう。

田畑は酒は強くなかったが酒の席を含め付き合いは多かった。
将棋会第2期(成長期)も第1期に続いてメンバーの一人である。

     ・緒方隆士の友人葬

緒方は昭和13年4月に死去した。(享年33歳)。緒方は将棋会には参加してないが、
阿佐ヶ谷界隈に住み、<雄鶏>創刊には田畑、小田、蔵原と共に多額の拠出を
するなど田畑の旧い親しい友人の一人だった。

<日本浪曼派>創刊では中谷に誘われて田畑から離れたが小田とは親しくしており、
身寄りがない緒方の葬儀は、中谷、田畑、小田、青柳、中村、外村、亀井の7人が
費用を分担して執り行った。中谷以外の6人は阿佐ヶ谷将棋会のメンバーである。
いわば友人葬で、緒方の交友関係や、同人、将棋会仲間の心の繋がりが窺えるが、
詳しくは ”2期 小田嶽夫の項” に記した通りである。

田畑は「木椅子の上で」(S15/8)や「蜥蜴の歌」(S16/3)で緒方(作品では三崎))との
友情と感情の疎隔を書き、33歳の若さで無念の思いを抱いて逝った緒方を偲んでいる。

そして、「蜥蜴の歌」から2年余の後、昭和18年7月には田畑自身が後を追うことになる・・

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【将棋会 第3 盛会期 (S13〜S18)】の頃   (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”) 


= 取材中の盛岡で急逝!!=

田畑修一郎
(明36(1903).9.2 〜 昭18(1943).7.23 享年39歳)

昭和13年(1938)、田畑 35歳。 ”将棋会 第3盛会期” は田畑の30代後半にあたる。
"三宅島もの"で立ち直った田畑は、昭和13年6月には初の創作集「鳥羽家の子供」を
発刊し、秋には、これが芥川賞の最終候補に残った。 マスコミの注目を浴びたことで
原稿依頼が増え、 田畑の活発な活動は”将棋会 第3盛会期”に重なるのだが・・

本項は、主に、前項に記した渡辺利喜子著「田畑修一郎の手紙」に加え、「田畑
修一郎全集 第3巻」所収の「日記、書簡、著書一覧、初出年表」を参考にした。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

田畑修一郎:作品一覧 

   *信念は「作品を書くこと」 ---

     ・初の創作集「鳥羽家の子供」刊行  

昭和13年6月、田畑は初の創作集「鳥羽家の子供」を刊行した。浅見が砂子屋書房
企画した第一小説集叢書で、外村「鵜の物語」(S11/2)、仲町貞子「梅の花」(S11/6)、
太宰「晩年」(S11/6)、尾崎一雄「暢気眼鏡」(S12/4)などに続くシリーズ10作目である。
この時は浅見と入れ替わって<早稲田文学>からきた尾崎一雄が編集に当たっていた。

「相似」(初出:S6)、「鳥羽家の子供」(同:S7)、「郵便」(同:S9)、「悪童」(同:S10)、
「五年間」(同:S10)、「ふさえの話」(同:S10)、「二つの部屋」(同:S11)、
「南方」(同:S10)、「三宅島通信」(S10)、「石ころ路」(S11)、の10篇を収めた。
翌7月には阿佐ヶ谷将棋会や日曜会で出版記念会が開かれている。

     ・芥川賞を中山義秀と競う  

そして、秋にはこの「鳥羽家の子供」が芥川賞の有力候補になった。最終選考には
中山義秀の「厚物咲」との2篇が残り、選考委員の意見は割れたが、結果は中山に軍配
が上がった。 「鳥羽家の子供」は最初の発表が6年前(S7)だったという難点が最後に
響いたようだ。芥川賞は逸したが作品の内容が評価されたことで、以降はマスコミからの
注文が増え、田畑の生活と文学活動はようやく軌道に乗ったのである。田畑35歳だった。

     ・著書、出版相次ぐ

初の創作集「鳥羽家の子供」(S13/6)の後、発刊は次のように続いた。

S13/6:「鳥羽家の子供」(”第一小説集叢書”の一冊:10篇:砂子屋書房)

S14/3:「鳥打帽」(”新文学叢書”の一冊:感想・随想16篇:赤塚書房)  

S14/8:「乳牛」(「赤松谷」など小説8篇:初版1,200部:砂子屋書房)    

S15/8:「石ころ路」(”短編傑作集”:表題作など小説9篇:人文書院)   

S15/11:「狐の子」(”新ぐろりあ叢書16”表題作など小説10篇:      
                                 ぐろりあ・そさえて)

S16/4:「医師高間房一氏」(単行本:長編小説:砂子屋書房)       

S16/10:「蜥蜴の歌」(表題作など小説8篇:墨水書房)           

S17/7:「さかだち学校」(少年少女向け書き下ろし物語:偕成社)     

*1S18/1〜S18/4:「郷愁」(<大陸新報>(日刊紙)連載小説)      

*2S18/9:「ぼくの満洲旅行記」(子供向け旅行記:児童図書出版社)  

S18/8:「文学手帖」(満洲紀行、随筆、文学論、文芸時評など:三杏書院)

S18/8:「出雲・石見」(”新風土記叢書4”:小山書店)             

S18/9:「泥と赤土」(合著”書下ろし創作集「十年」”中の一篇:二見書房) 

S19/2:「郷愁」(単行本:長編小説:翼賛出版協会)              

*1紅野敏郎編の「初出年表」(S55)には、連載期間は「S17/12〜S18/5」(未確認)と
あるが、渡辺利喜子著の「年譜」(H6)には「S18.1.31〜S18.4.6」とあるので、これによった。
(日刊新聞(<大陸新報>は、現物が現存するので確認された日付と考えた。)

参考サイト <大陸新報>とは ? 大陸新報」復刻 (ゆまに書房)

*2「ぼくの満洲旅行記」の初出について、紅野敏郎編の「年譜」(S55)と田畑志摩夫編の
「年譜」(S53)には「S17/9:金の星社」とあり、同じ紅野敏郎編の「著書一覧」(S55)の方には
「S18/9:児童図書出版社」とある。また、渡辺利喜子著の「年譜」(H6)には「S18/9:金の星社
・遺著」とある。ネットで古書を検索すると、S17発行は見当たらず、S18が「初」として出てくる。

「田畑修一郎全集 第3巻」所収の「ぼくの満洲旅行記 あとがき ―父兄へ―」の冒頭には、
田畑本人が、「この本は、昨夏満州を旅行したときの、見聞にもとづいて書いたものです。」
と書いている。初出は、S18と考えるべきだろう。 出版社は、ネットでは「児童図書出版社」
である。渡辺利喜子が”金の星社”とした根拠が不明なので、本項はネット情報によった。

参考サイト  田畑修一郎 単行本書目 (「稀覯本の世界」−御宿での浅見淵との写真あり)

     ・浅見淵は恩人

田畑が三宅島で立ち直り、「鳥羽家の子供」刊行で作家としての前途が開けたのは
浅見淵の支援があったからこそである。公開された書簡や日記から、以降も、二人の
親密な関係が続いていることが窺える。 浅見は、先にも記したように、自身の著書
「現代作家研究」(S11/9)の後も、「現代作家30人論」(S15/10)に田畑を登場させた。

浅見は昭和14年に千葉県の御宿に転居したが、田畑はこの時の送別会(S14.4.9)の
幹事を務めた。会場は結婚間もない仲町貞子(「梅の花」著者)・井上良雄(文芸
評論家・神学者)夫妻の吉祥寺の自宅で、30人ほどが集まった。この時の記念写真が
「昭和文壇側面史-仲町貞子さんのこと」(S43:講談社)に載っていて、出席者名が
記されている。上林、外村、小田、木山、古谷らが写っているが、田畑が見えないのは
田畑が撮ったのか、写真の右端がカットされているようなので、そこにいたのか・・。

普通は、この人数で個人宅を会場にすることは考えにくいが、浅見によれば、真偽の
ほどは定かでないが、井上良雄は金解禁のとき暗殺された蔵相の遺児という噂が
ある財産家で、井の頭に豪邸を構えたのだという。そこを利用したのである。


仲町貞子・・M27、長崎県の大地主の家に生まれた。北川冬彦と駆け落ちして上京したが、
別れた後、井上良雄と結婚(S13)し、吉祥寺に住んだ。 浅見が企画した第一小説集叢書の
二冊目が「梅の花」(S11/6)で、短編小説家として当時の著名作家らの高い評価を得たが、
昭和15年頃には夫とともにキリスト教への信仰を深め、文筆を絶った。72歳(S41)で永眠した。


田畑は浅見の勧めによって、昭和16年2月の1ヶ月間を浅見の住む御宿に滞在した。
田畑は、長編小説「医師高間房一氏」の執筆が進まずに苦しんでいたが、体調不良
がその一因だった。日記には「睡眠不足」とか「風邪気味」といった記述が目立つ。
この状況を心配した浅見は、自然環境に恵まれた御宿での執筆を誘ったのである。

田畑は、この誘いに甘え、御宿での住居や食事場所などの手配を浅見に依頼し、
御宿滞在中も、浅見宅で夕食をご馳走になるなど、何かと浅見夫妻の世話に
なりながら執筆を進め、長編小説「医師高間房一氏」(378枚)を書き下ろした。
4月(S16)には、砂子屋書房から発刊となり、好評だった。
ちなみに、この小説は、田畑の義兄岡村豊氏(開業医)がモデルである。

尾崎一雄と浅見は、日頃から文学活動において良き相棒として行動していた。「人間的な
感じは”尾崎の剛・浅見の柔”で正反対」(小田嶽夫)といわれるが、気が合ったのだろう。
田畑に関しては、尾崎も浅見とともに親身になって支えたようだ。田畑の人生にとって、
この二人は、先輩・友人といった域を越えた恩人といっても過言ではない存在だった。

     ・田畑の信条 「作品を書くこと」

昭和16年1月に<文学者>に発表した「初冬日記」の一部に、田畑の政治に対する
姿勢がはっきり示されている。引用するには長すぎるので大意を記すと――

「政治と文学の区別はないという。が、僕には不審である。政治上の言葉には、はじめから
要請、指示、規制、命令、時に強制を含み、それを保証しているものは常に権力だが、
文学上の言葉はいつも説得で、それを保証するのはそれを云う人の思考力だけである。
これをごっちゃにすると混乱が起きるので、その不幸を避けるため沈黙を余儀なくされる
場合があるが、すると消極的とされかねない。これも解せない。消極にも積極にもいろいろ
あり、積極ということは常に一つの方を向くことだけに当てはまるのではない筈だ。
僕は作家としての積極ということを常に考える。それは作品を書くことだ。」

というのである。この時期としては大胆な記述だろう。浅見の支援でこの直後に完成した
のが「医師高間房一氏」であり、「蜥蜴の歌」発刊、「片多信彦伝」 「さかだち学校」執筆
と続く。 そして約40日間の満洲旅行(S17/6〜7)に出発、懸命に書き続けるのである。

     ・長編「医師高間房一氏」 と 幻の長編「片多信彦伝」

田畑は、昭和8年の<麒麟>に「医師高間房一氏(一)(二)」を、同10年の<早稲田文学>
に「医師高間房一氏」を発表したが、これは、昭和16年に書き下ろした長編の習作的
部分と位置づけられる。その後は生活面、心身面の不調が続き、三宅島で立ち直りを
見せたとはいえ、このテーマを長編として書き下ろすまでにはさらに時間が必要だった。

昭和14年からの日記には、この長編の執筆に意欲を示す記述が頻繁に表れるが、
これは、文学活動がようやく軌道に乗ったことの表れだろう。ただ、体調の優れない
日が多いため、執筆は思うようには進まず、前記のように、浅見の援けで御宿で
ようやく仕上げて(S16/2)出版の運びとなった。 が、田畑は、続けて第2巻を
書く構想を持っていた。4月5日(S16)の日記に「高間房一氏の第二巻にかからん
として終日考ふ」とあるが、実際には、構想をメモした段階で終わってしまった。

一方、昭和14年11月19日の日記に「(片多信彦伝)を考へつく。医師高間房一氏以降
に書くつもりなり。」の記述がある。田畑はもう一件の長編を考えていたのである。
「医師高間房一氏」を発刊(S16/4)すると、9月に執筆を開始、翌10月に、青柳優が
経営する上高地温泉ホテルに滞在して240枚を書き、帰京して300枚を仕上げた。
日記には題名を書いてないがこれが「片多信彦伝」だろう。 

ところが・・、「河出書房より刊行される予定のものであったが、時局に不要不急の
ものとみなされ、この原稿は焼いてしまった。」(「年譜」(紅野敏郎編))のである。

「医師高間房一氏」を書き継ぐ意欲や、「片多信彦伝」300枚を焼く姿勢は、
まさに作家の執念、意地の為せる業、田畑の作家魂を見る思いがする。

     ・長編童話「さかだち学校」 

「さかだち学校」(S17/7)は、田畑の子供たちが通った明星学園をモデルにしている。
渡辺利喜子によれば、戦時中、同校は体育に力を入れ、生徒全員にさかだちを
指導したことから「さかだち学校」といわれており、それを題名にしたとのこと。
戦争が激しさを増し、国家統制が強まる中、田畑なりの題材を求めたといえよう。
戦意高揚色のない児童教育のあり方を求めて実践する学校の姿を描いている。

     満洲旅行  

どのような動機、経緯から出かけたのかはっきりしないが、「年譜」(紅野敏郎編)には、
昭和17年の項に「6月中旬から7月中旬にかけて満鉄の招きで満州を旅行。満州を題材
とした子供の本とともに後藤新平伝の構想、調査をも兼ねての旅であった。」 とある。

6月9日(S17)、東京発、大阪に2泊して11日神戸港を出発。海路で14日大連着。
7月16日、大連にて乗船(黒龍丸)、帰途に就いた。
この間のことは、毎日詳しく記録しており、田畑の日記として公開されている。
大連、奉天、吉林、牡丹江、ハルピン、チチハル、新京、など広範囲を巡ったが、連絡の
手違いや下痢に悩まされ、取材、観光どころか心身をすり減らす苦しい旅になったようだ。

田畑が奉天駅に着いたとき、木山捷平が出迎えていた(S17.7.12)。木山も6月7日に東京
を発ち北京に向かい、満洲各所、京城(ソウル)を経て8月3日に帰京したが、この日は
田畑らと行動を共にし、一時迷子になったり、宿泊の世話になったりした。田畑の記述
には、「木山は文なしにて北満その他を歩くといふ。残金あれば少々渡す。」ともある。
”地獄で仏”は大袈裟にしても木山は嬉しかっただろう。 文士仲間の友情が微笑ましい。

同じ頃、安成二郎も満洲に居て、田畑を訪ねている(S17.6.17)。結局会えずに電話連絡
だけで終わったようだが、安成は京城(ソウル)では木山に会っている。多くの日本人が
大陸へ渡っている時期で、”同胞意識”は強く、仲間同士の情報交換は密だったようだ。

帰国後、この旅行を題材に「満洲紀行」(「文学手帖」(S18/8)所収)と
子供向け紀行文「ぼくの満洲旅行記」を発表した。
後藤新平に関する取材は不首尾だったようで、帰国後に原稿にした形跡はない。

     ・没直後の発刊

「文学手帖」(S18.8.18) ・・ 満洲紀行、随筆、感想、文学論、文芸時評、などを所収。
小田嶽夫が、「序」に追悼文を書いている。

「出雲・石見」(S18.8.20) ・・ 「新風土記叢書(4)」として刊行された。この叢書は、国策
に基づく小山書店の企画だが、作品内容と国策との関連度合いは別問題である。
もちろん国策に逆らえば刊行されないので、作家の姿勢、力量が試されたともいえる。

ほかには、伊藤永之介「秋田」(8)、太宰治「津軽」(7)、稲垣足穂{明石」(6)、中村地平
「日向」(5)、青野季吉「佐渡」(3)、佐藤春夫「熊野路」(2)、宇野浩二「大阪」(1)がある。
(続刊予定の「田中英光「土佐」(9)、中山義秀「白河」(10)は出版社の都合で刊行なし)


取材のため、約1カ月間(S17秋)、上京(S3)以来、最初にして最後の郷土旅行をした。

「泥と赤土」(S18.9.15) ・・ <早稲田文学>創刊十周年(第3次)記念の短編集「十年」に
収録。ほかに井伏、浅見、尾崎一雄、中山義秀、丹羽文雄、火野葦平らが書いている。

「ぼくの満洲旅行記」(S18.9.20) ・・ 子供向きに書かれた啓蒙ふうの満洲紀行文。 

「郷愁」(S19.2.10) ・・ 青野季吉の斡旋で上海で発行された日刊紙<大陸新報>に連載
した小説を単行本化して刊行した。 中村地平が跋文「死と『郷愁』と」を書いている。

(絶筆)について、渡辺利喜子は、短編「ユーカリ樹」(S19/12:<新文学>)であるとし、
次のように書いている。この作品のことは、他の年譜や資料では確認できなかった。

「昭和18年7月頃に、20人ほどの作家による新作小説選集のために書いたもので
あるが、都合で出版出来ずはからずも絶筆になったもののようで、宇野浩二の
「『ユーカリ樹』について」という絶筆になったことを惜しむ一文が添えられている。」


(前記した「ぼくの満洲旅行記」の初出時期、「郷愁」の新聞掲載期間、そして
この絶筆のことは、渡辺利喜子の調査、探究の成果だろう。功績大と思う。)

田畑修一郎:作品一覧 

   *田畑の日記から ---  

「田畑の日記」公開 = 田畑修一郎全集(全3巻)の第3巻に、昭和14年〜18年の日記が公開された。
(昭和17年は「満洲旅行」記のみ)。日付がほとんど連続しているので、抜粋ではなく全文のように思える。

主な内容は、来客名や訪問先の名前、友人・知人との往来、体調や、執筆枚数、進捗状況、
稿料受取に関することで、家族や親戚に関する部分もあるが、事実だけを短く記しており、
思考や評論、感想的な記述はほとんどない。 作家の実用メモといったところだが、それでも
田畑の日常行動や交遊関係を通じて田畑の生き方の一端が窺える。
ただ、昭和17年だけは、何故、満洲旅行記だけが公開で、それ以外は非公開なのだろう??

     ・親密な仲間たち

日記に登場する文学仲間の多くは、吉祥寺・阿佐ヶ谷界隈に縁の深い人物である。
大別すると、文学活動に直接関連する同人誌関係や早稲田人脈の仲間と、
その仲間を介して知り合った人物たちがいる。

前者は、浅見、尾崎一雄、小田、中村、宇野浩二、坪田勝、丹羽文雄、青柳優、中山義秀、
中山省三郎、川崎長太郎、山崎剛平、古木鉄太郎、寺崎浩、谷崎精二、火野葦平、等々
(小田、中村、川崎、古木、のほかは早稲田出身(中退を含む))

後者は、井伏、木山、亀井、太宰、青柳瑞穂、上林、外村、仲町貞子・井上良雄夫妻、
坪田譲治、真杉静枝、北原武夫、等々     (前者、後者とも順不同)


もちろん、交遊には濃淡があり、これまでに浅見らのことなどを記したが、
ほかにも田畑の気質を示す交遊振りがあるので次に付記する。

坪田勝遺稿集「トロイの木馬」の発行 = 早大で<街>を創刊して以来の親友
坪田勝が昭和16年3月18日に病没した。田畑は葬儀で弔辞を読み、遺稿集発行
を企図した。遺稿を集め、熱心に発行に努めたが、実現は翌17年12月だった。
遅れたのは時節柄だろう。 編集者は田畑、発行は「街の会」となっている。
遺影と表題作など5篇から成る。田畑は、追悼文と年譜を書いている。

「小田嶽夫君のこと」 = 小田は日記に最も多く登場する一人である。随筆集
「鳥打帽」(S14)に「小田嶽夫君のこと」(初出・S11)を収めた。他には浅見、尾崎
に関する項があるが、このことからも小田との親密度が窺える。 

<新風>創刊に参加 = 昭和15年7月、<新風>が中央公論社から創刊された。
高見順、丹羽、石川達三らが30代作家の総結集を呼びかけたもので、田畑は
丹羽に誘われ、田畑は小田、中村に話して3人は同人になった。田畑は、当日の
日記(S15.3.25)に「大して期待はせず」と書いたが、結局、<新風>は、当局の圧力
によって創刊号だけで終わってしまった。(総勢30名余:太宰、古谷も参加した。)

御坂峠は気に入らず = 昭和15年8月に田畑は御坂峠に登った。原稿を書く
適当な場所ということで、太宰が勧めたようだが、田畑は気に入らなかった。日記
には書いてないが、富士山は整いすぎて通俗に過ぎると太宰を批判したという。

このことで、「田畑と中村が組んで、二人は太宰と仲違した。太宰は、この二人に
”吉祥寺リアリズム”と悪口を云った。」 と書く文献もあるが話を面白く書いたのだろう。
そもそも、この仲違は、御坂峠のことに発したのではなく、<青い花>
<日本浪曼派>の
創刊時に発しており、昭和10年〜同11年頃がヤマだった。感情的に決定的に
喧嘩分かれしたというわけではなく、以降も相互に行き来しているのである。

     ・家計、家庭

昭和13年、田畑(35歳)の家族、妻(37歳)、長男(13歳)、長女(12歳)、次男(9歳)は、
吉祥寺で3度目の転居先、山谷2243(現、武蔵野市吉祥寺南町2丁目)に住んでいた。

家計は苦しかった。 もともと、経済的に窮して転居を繰り返したのであり、芥川賞の
候補になったことで収入が増えたとはいえ、まだ家計にゆとりが生じる状況には
遠かった。日記には、稿料や印税の前借、督促、友人らからの借用の記述が
頻繁にあり、「夜質屋に行き四十円つくる。」(S16.6.4)もある。 田畑は執筆の場を
求めて度々旅行するが、出発の前には、そのための金策にも歩いていた。 

家庭での田畑について、長男(田畑志摩夫)は、「つむじまがりの弁」(1980:筑摩
現代文学大系60・月報)に次のように述懐(抜粋)している。

(テレビ番組で、わが子の作文を聞いた父が感動で目を潤ませる場面を見て・・)
「父と子と、その間の情愛とは果たしてそんな風に涙ぐましいものなのだろうか」

「と言うのも、私自身は物心ついてからしばらくの間―そう中学3年生になるぐらいまで、
父田畑修一郎に対して『ぼくはお父さんが大好きです』などと、お義理にも言えない
時代を持っていたからである。いつも昼近くになってからようやく起き出して来て、
しかも何かと言えば母に文句ばかりつけていた父。私の幼少時代にあっては、
父の笑顔の記憶は全くない。勿論、遊んでもらった覚えなどあるべくもなかった」

「そんな父が、まるで人が変ったように私たち子供にもしばしば笑顔を見せるように
なったのは、思うに昭和15、6年頃のことだったろうか。日曜の朝など、私たちと同じ
くらいに起きだして、自分で書斎を掃除し、あまつさえ仏壇に線香を上げてチンチンと
カネを鳴らし手を合わせる―。そんな父の姿さえ見受けるようになった。」

田畑は、”三宅島もの”の「南方」(S10)に、家族への思い、苦悩を書いているが、
田畑の気持はともかく、その日常生活や態度は、妻はもちろんのこと、子供たち
の心にも大きな影響を与えていたのである。日記には、昭和14年の末頃から
子供との関わりのことが頻繁に記されるのだが・・。 文士の宿命といえようか。

田畑の子供たちは、井の頭公園に近い私立「明星学園」の小学校に通った。長男の
入学(S7)に際し妻が見つけた学校だが、洋裁店をしている妻に代わって田畑が
学校に行く機会が多くなり、学内報に明星の教育に関する感想を書いたり(S10)、
昭和16年の日記には、学園の恩給、退職金のことに関わった記述がでてくる。
このような学校との関わりが、先に記した「さかだち学校」に繋がるのである。

     ・趣味(息抜き) : 会合(幹事役)

田畑には生真面目、神経質といったイメージが強く、また実際にそのようだったと思う
が、日記を見ると、多くの趣味を持っていたことがわかる。 最も意外なのは、ダンス
ホールへの単独(だろう)行である。「新宿帝都にて八時半まで踊る」(S14.5.30)とある。
同様の記述はほかにもあり、時々、踊りに行っていた。 息抜きが欲しかったのだろう。
映画もよく見ている。ただ、これは、映画評を書くという仕事絡みもあったようだ。

また、文学仲間や出版関係者とは、囲碁、麻雀、花札の付き合いもしている。
将棋、酒だけでなく、こうした遊びを器用にこなして交友を深めていたことがわかるが、
それが好きだったのかどうか、強かったのかどうかははっきりしない。勝気で、勝敗に
こだわる性格のように思えるので、ストレス発散になっていたかどうか・・。

さらに、同人誌や「日曜会」のような文学関係の会だけでなく、友人、知人の歓送迎会、
懇親会といった会や飲み会の幹事役、世話役を数多く引き受けていることがわかる。
これもストレスになって体調不良を招く要因と化してはいなかっただろうか・・。 

     ・戦争と田畑  

田畑は招集も徴用も受けなかった。徴用の井伏、小田、中村の壮行会(S16.11.20)に
出席、翌日は東京駅で見送ったが、多くの先輩、後輩が”作家”として徴用される中、
自分に声がかからないことをどのように感じていただろう・・。このころの気持について
「報道班」(「文学手帖」(S18/8)所収)で触れているが、複雑だったに違いない。

対米英開戦の日(S16.12.8)の日記には、ラジオのニュースをそのまま記しただけで、
感想的なことは何も書いていないが、5日後の13日には小田の家に寄り、木山を
訪ねて見舞金の打ち合わせをしている。戦場へ送られた仲間たちのことが
気になったのだろう。そして、その13日の日記には、「メモ」として次の付記がある

「午後の日は明々と畑の上にさして、冬大根の干し吊るされたのがいくらか
黄味がかって光っている。その手前を女の人が買い物に行くのか歩いている。
これが昭和16年12月8日 宣戦の日だ。」

平常の平静な様子を冷静に書いているが、このような描写は他の個所にはない。
さりげない風ではあるが、開戦5日後、平静ではいられない気持の表れだろう。

木山と分担して見舞金を募ったようだが、田畑は各所に依頼の手紙を出し、
集金に回り、12月21日に自分が集めた見舞金168円を小田宅に届けた。
小田だけで、井伏や中村への見舞金はないようだ。諸事情を考慮したのだろう。

戦争で文筆家の活動は極度な制約を受けたが、田畑は「僕は作家として積極という
ことを常に考える。それは作品を書くことだ。」という信条によって懸命に書き続けた。
しかし、作品は、童話、旅行記、郷土もの、が主体であり、題材には特に配慮した
ことが窺える。 戦争や政治権力には距離を置き、時勢・時局への迎合は見られない。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

     ・田畑の”出版記念将棋会” 

記録にある最初の2回の将棋会の参加者には田畑の名前はないが、3回目は田畑の
「鳥羽家の子供」出版記念将棋会として、昭和13年7月12日に阿佐ヶ谷の碁会所で
行われ、二次会はピノチオだった。木山の日記や中村の「将棋随筆」に記されている。

優勝は井伏と山崎剛平(砂子屋書房創業者)で、田畑は2等だった。他に木山、太宰、
尾崎、小田、浅見、中村、塩月糾、二次会には中山義秀、川崎長太郎も参加した。
田畑の嬉しさは一入だっただろう。 

ちなみに、砂子屋書房の出版では、昭和11年2月に外村の「鵜の物語」、同7月に太宰の「晩年
同10月に浅見の「現代作家研究」、山崎の「挽歌の会」、翌12年4月に尾崎の「暢気眼鏡の会」と
記念の会が飲食店で開かれた。田畑は太宰と山崎の会以外には出席しており、この時期の交友
関係の濃淡が窺える。田畑の会が将棋会という企画になったのは”戦時下”も影響していようか。

     ・田畑の将棋と酒

日記にある将棋と酒の記述は、囲碁、麻雀など他の付き合いよりはずっと多い。
将棋会へ参加するだけでなく、将棋を指したり、酒を飲むために、自ら相手の家を
訪ねて誘っている。そして、将棋の勝敗数は日記に記している。

将棋の腕は、亀井や太宰よりは少し上といったところで、それほど強くはなかった
ようだ。上林暁の項に記した「颯爽会」の将棋会(S14.3.26:上林が優勝)に田畑も
参加したが、直後の浅見宛の葉書(S14.3.31付)には、「先日のショウギ会、全敗で
当分やる気がなくなりました。」とある。浅見ら10人が参加した会での全敗なので
ショックが大きかったか? この将棋会前後の1週間だけは日記がない。

いつも将棋を指していたにしては、阿佐ヶ谷将棋会への出席は少ないが、昭和
15年12月6日の会では幹事の一人になっている。この会は時局を慮ったのだろう、
「文藝懇話会」開催の案内になっていて、田畑、中村、小田の3名が連名で世話役
になっている。ピノチオで12名参加、賑やかだったが、将棋はない会だったようだ。

御嶽ハイキング(S17.2.5)には、田畑は参加していない。事情は不明である。

昭和18年5月20日、田畑の日記に、「夜五時より阿佐ヶ谷ピノチオにて坪田さんの
壮行会、井伏、中村、小田、浅見、上林、日向、外村等。」の記述がある。
徴用で出発する坪田譲治の壮行会で、田畑が幹事役となって案内状を送った。
浅見宛の文面(S18.5.4付)には、日記の名前のほか、上泉(秀信)、木山(捷平)、
尾崎(一雄)、仲町(貞子)の名があり、計13人で開催とある。ほとんどが阿佐ヶ谷
将棋会のメンバーなので、将棋はしなかったと思うが、会の開催記録に加えた。

について、酒量は少ないが酒の席にはよく参加した。また、田畑の方から個人的
に誘いに行って飲んでもいた。興に乗って郷土の安来節を歌ったり鰌すくいを披露
したりもしている。日記に「小林倉さんの会、佐藤さん(注:春夫)も出席、非常に
楽しかった、たうとうドジョウ掬ひをやらされる、」(S15.12.27)という記述がある。

田畑の酒と文学について、小田の追悼文に次の一節がある。

「酒飲みは酒を飲んでいる時は平素の鬱屈も忘れ、又しばしば無責任の放言をしたりし、悦に入る。
けれども君はいつも醒めてい、それがはたから見ていて何か苦しそうであった。文学の上に於いても
それが、危なげなく、浮いたものにしない点はあったにしても、何か一脈窮屈さを感じさせるところが
無いでもなかった。そして恐らく君自身も苦しかったのであろう。」(「文学手帖 序」より)


前後の文章を割愛したので、追悼文としての小田の真情は伝わりにくいが、
心が通じた友人同士だからこそ感じとり、書けた田畑の酒と文学といえよう。

   突然の死 ---

     ・新民話研究会の取材 

新民話研究会について、渡辺利喜子は、「昭和18年、上泉秀信、坪田譲治両氏の発起で
新民話研究会が出来、浅見淵、小田嶽夫、田畑修一郎、中村地平などが加わり、手分けして
地方に出かけ、古い民話を発掘した。 (中略) 新民話叢書は、「槍ヶ岳の鐡くさり」(浅見淵)
「雪女」(小田嶽夫)、「酒折宮」(小山東一)、「河童の遠征」(中村地平)などが出されている。」
と書いている。 なお、ネット検索によれば、4篇とも、昭和19年、翼賛出版協会発行である。

「九時半家を出て、十一時三十五分着列車にて十日町着、午後六時半。」

昭和18年7月13日の田畑の日記である。
田畑は、新民話研究会に依頼された取材のため、この日の朝、自宅を出て岩手へ
向かった。十日町を経由したのは、妻の実家(新潟県)などに寄ったためである。

日記を追うと、2か月前の5月20日には、田畑が幹事役で坪田譲治の壮行会をピノチオ
で開催、井伏、小田、中村ら阿佐ヶ谷将棋会の多くのメンバーが集まった。1か月前の
6月24日には、早稲田文学者会で、丹羽、寺崎、石川等他 24〜5人が集まっている。

ラジオで山本連合艦隊司令長官の戦死を聞き(5.21)、アッツ島玉砕を聞いた(5.30)。
山本長官の国葬は6月5日で、田畑は、アッツ島のことを合わせ「粛然」とメモしている。
6月25日には「志マ夫、今日、海機身体検査合格」 と書いている。 戦局の悪化は
国民の目に見えるようになり、田畑にも不安な、落ち着かない気持が広がっただろう。

この間、発熱や下痢に悩まされ、7月に入っても発熱で寝込む日が続いた。
7月9日には「起きたれど元気なし」の記述があるが、12日には外出して上泉ほか
関係者に会い、取材用の紹介状や旅費を受け取り、予定通り出発したのである。

     ・盛岡で盲腸炎手術

盛岡入りしたのは、7月19日である。 盛岡では、深沢紅子(吉祥寺に住む洋画家・
「石ころ路」、「蜥蜴の歌」の装丁者)の実家に泊まって約40日間滞在する予定だった。
翌20日、取材に出た帰途、腹痛を覚え、近医の診察で注射を打ったものの
依然激痛があるため、赤十字病院へ行った。
診断は盲腸炎で、破裂一歩手前の状態にあり、即刻手術した。

     ・昭和18年7月23日 永眠(39歳) 

翌21日は、経過はよく、本人は「心配するから、家人には知らせないように」と云う
ほどだったが、夕方から寒気を覚えはじめ、翌22日は高熱に苦しみ、終夜続いた。
そして、23日、朝食にトマトジュースとおも湯を与えたが口にしなかった。
午前8時頃、咽喉がごろごろなり、同15分医者が駆けつけた時は既に絶命していた。
心臓麻痺。人工呼吸を施したが、効果なかった。 40歳を目前にした死だった。

(7月19〜23日の経過は、渡辺利喜子著「田畑修一郎の手紙」から要約した。)

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〜〜伊藤整の日記(S18.7.24)に思う〜〜

田畑の死は、翌7月24日の新聞で報じられた。 伊藤整はその日の日記に、田畑の
死に関して次のように書いている。田畑の気質、作品・作風に触れ、作家の宿命、
死は身近にあるとの思いを記した興味深い内容なので長いが引用する。

「朝刊の読売と東京に田畑修一郎君が盛岡で突然死んだことが出ている。三面の一番下の端に小さく出ている。
びっくりする。私と同じ頃から文壇に出て、近年仕事の質がよくなると共に寡作となり、これから次第にいい仕事
をする人だろうと私など考えていた。田畑君にしてもまだまだ死にたくはなく、これから、と考えていた所であろう。
自分と同期の作家の死の最初のような気がして感慨甚だ深い。田畑君は負けぎらいであった。数年前外村繁君
の作品が初めて中央公論にのり、単行本も出て、外村君が「自分は幸福だ」と言った時、田畑君は「君の幸福は
まだ完全でない」と面と向かって言った由。
またいつか上野の一平で尾崎一雄の「暢気眼鏡」の会があった時、田畑君は早稲田で同期の丹羽君、しかも
その頃花形的な流行作家であった丹羽君に向かって、何かのことから言い争い、「よし、それじゃ競争しよう、
仕事の上で」と言い張った。蒼白い肩のいかついた痩せた姿も目に浮ぶ。またこれはもっと前永松定君が在京
していた頃、私や永松や荒木嶷君のスキイをしている写真が読売の文芸欄に出て、それがたまたま私たち五
〜六人で入った酒場にあった。永松君がその写真を女給に見せびらかしていると、田畑君はそれを奪い取り、
まるめてテーブルの下に衝動的に棄てた。
そういう気質からか近年の仕事は凝った、なかなかいいものであった。田畑君の仕事は、これで終わりになり、
完成したのだ。良い点も、悪い点も、それ自体作家が死んだことによって完成し、修正も出来なく、増減も出来
なくなった。その静止の姿は、羨ましくもあり、また私を淋しい気持ちにもする。彼の作品の質は、上林暁君とも
近い所があり、堀辰雄ともやや近い味のある抒情風なものであった。そうだ、私たちもやがて死ぬのだ。その
気持が痛切に来る。思うような仕事をしようがしまいが、ある時病気か事故か空襲か戦争かで突然他動的に
私たちの生涯は終りになるのだ。同情とか何とかの問題でなく、冷厳な生の事実だ。私も私の友人もやがて
みな死ぬのだ。」  (伊藤整著 「太平洋戦争日記(二)」より)


伊藤自身も杉並区内の居住期間が長く、阿佐ヶ谷文士の一人とも目されるが、
この日記に出る外村、上林は阿佐ヶ谷将棋会のメンバーであり、尾崎もそれに
準じる存在で、田畑の文学活動が阿佐ヶ谷と深い関わりを持つことがはっきり
わかる。前に書いたように青柳との間には能面トラブルがあった。将棋を指す
会への田畑の出席回数は多くないが、田畑は阿佐ヶ谷将棋会メンバーを中心と
する阿佐ヶ谷文士との交遊の中で揉まれ育った作家だったことは確かである。

気質の違いからか、太宰や太宰と親しい亀井とは同じ吉祥寺同士にしては行き来は
多くない。浅見、尾崎は別にして、小田、中村、木山が近かった。次いで井伏、青柳、
外村、上林らだろう。生活の不安が高まる緊迫した時勢にあって、早稲田人脈中心の
文学活動に加え、将棋や酒の会に情報と心の癒し・潤いを求めて参加したのだろう。
その気質故に、そこで十分な心の癒しや潤いが得られたかは定かでないが・・。

それにしても、幻の小説「片多信彦伝」は自伝的内容だったといわれるだけに、原稿
が残っていないのは残念である。 また、「医師高間房一氏」は発表部分だけで完結
と評されるが、私の読後感は、余韻というより中途半端感が強い。主人公の青年期
の過程がほとんど空白であることも気になる。 長編小説として完成して欲しかった。


あまりにも早い、早すぎる 旅立ちだった。

法名は文誉修道居士 : 東京都小平霊園に眠る。

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田畑修一郎:作品一覧 

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

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「田畑修一郎」 の項     主な参考図書

『田畑修一郎の手紙 愛惜の作家生活をたどる』 (渡辺利喜子著 1994/5 武蔵野書房)

『田畑修一郎全集 全3巻 』  (S55 冬夏書房) より
 「南方」「三宅島通信」「石ころ路」「木椅子の上で」・「年譜(紅野敏郎編)」 など
『現代日本文学全集 63 - 年譜』  (S48/4 筑摩書房) 
『筑摩現代文学体系 60 - 年譜(田畑志摩夫編)』 (S53/4 筑摩書房) 

『文学青春群像』 (小田嶽夫著 1964 南北社)
『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50 講談社)
『昭和文壇側面史』  (浅見 淵著 S43/2 講談社)
『昭和文学盛衰史』  (高見 順著 1987  文芸春秋)
『太平洋戦争日記(二)』  (伊藤 整著 1983/9  新潮社)
『浅見淵著作集 第1巻 評論』  (浅見 淵著 S49/8 河出書房新社)

『葬儀の朝 (中村地平全集 第3巻)』 (中村地平著 S46/7 皆美社)

『杉並文学館 -井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士-』 (杉並区立郷土博物館(H12))