木山捷平 の 人生と文学

きやま しょうへい : 明治37(1904).3.26 〜 昭和43(1968).8.23 (享年64歳)

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将棋会 第 出発期 (S3〜S8)】の頃  (“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像

= 無断転進 : 子の道・父の怒り =

木山捷平の生涯については第一部で簡潔に触れたが、本項では、結婚して阿佐ヶ谷に
転居し、詩作から小説の世界に転進して界隈の文学青年たちと交わるまでを辿る。
木山の小説は基本的には私小説で、やはり生まれ育った環境、実生活に深く根ざしている。

第一部に記したように、栗谷川虹に「木山捷平の生涯」という著書がある。また、定金恒次に
「木山捷平研究」などの著書がある。いづれも木山の人と作品を読み解くうえでの力作・好著
と思う。 以下は主にこれらの著書を参考にした。 特に、父親との関係は重要で、
太宰治などと同様にその出自が木山文学と人生そのものまでを決定付けたといえる。
なお、年譜は、「木山捷平全集 第八巻(巻末:木山みさを編)」(講談社)に拠った。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

    *旧家の長男 ---

木山は、明治37年(1904)3月26日、岡山県小田郡新山村(現 笠岡市山口)に生まれた。
木山家の長男で、捷平は本名である。当時、父は村の収入役をしていたが、捷平が生まれると
退職して果樹栽培に携わった。今も生家には「木山園」の立派な扁額が残っているという。

木山が作品に描くこの郷里は狭い山間にある寒村で、自身は貧農出の何のとりえもない劣等者
の如くであるが、実際はむしろその逆で、そこには瀬戸内独特の明るい風景が広がっており、
生家はそのころ、小地主程度で裕福とはいえないまでも村では有力な旧家の一つだった。

    *成績優秀 ---

木山の小学校の成績は優秀で、岡山県立矢掛中学に入学した。高等科を1年経ての入学だが
当時のこの地方ではこれが普通だったようで、それよりも中学へ進学したこと自体が成績の
優秀さと家の豊かさを意味していると考えてよい。同級生によれば、中学でも成績は何時も
上位にあり、特に国語漢文、英語を得意とし、作文は先生が舌を巻くことが多かったという。

木山は終生これらの事実に触れることを避けたが、詩人で古く(S4)からの親友、野長瀬正夫は
「木山捷平と私」の中で、「自分の詩人的立場を擁護し正当化するために、-(中略)- あたかも
貧農の倅であるかのように見せかけておきたかったのではあるまいか--」と訝っているという。

木山の詩、随筆、小説などの多くの作品に、卑下・劣等視した自分や父が描かれる。実像と異なる部分が殊更に
誇張されてフィクション化され、そこに独特の飄逸さ・滑稽さ・ペーソス・土の匂い・庶民精神といった木山文学
の特徴が醸しだされるのである。「虚実一如」とか「仙味」といった晩年の評の原点がここにありそうである。
(定金は「木山捷平文学における自虐性」(前著の第8章)でこの点について、「木山文学には人間的な魅力と
温かさが横溢している。人間の真実の姿を追求しようとする作者の真摯な創作活動の所産である。」としている。)

    *文学に目覚める ---

木山の中学入学は大正6年(13歳)である。片道8キロの道を徒歩通学したが、3年生の秋に父は
当時では高価な貴重品である自転車を購入、捷平は通学や友人宅訪問などに大いに利用した。
家では離れに自室を持ち、比較的自由で安定した中学時代を過ごすうち文学に目覚めていく。

中学4年(16歳)の時には、文学雑誌に樹山宵平の筆名で詩、短歌、俳句などを投稿して入選
している。 5年生(17歳)では同級生とガリ版刷りの同人誌<余光>を編集、第5輯まで出した。
そして卒業に際しては父に「東京(早稲田大学)の文科」への進学を希望したが適わず、
大正11年(18歳)、父の説得にあって嫌々ながら姫路師範学校第二部(修学期間1年)に
入学したが、これが父との確執を深める端緒となった。

    父(静太)との確執 ---

父 静太は、昭和9年に没する(享年54歳:捷平30歳)が、木山は父をモデルに多くの短篇を
書いている。長男として教員になってでも郷里で家を継ぐことを切望する父と、文学への道を諦め
られない子との確執がその底流にあるが、作品の上での父親像と実像とは必ずしも一致しない。

「父 木山静太」 明治12年生まれで、7歳の時に跡継ぎのため叔母夫婦の養子となり木山姓となった。
聡明ではあったがひ弱な体質で農作業は無理というような子供であった。独学で漢学を身につけ、
文学の道へ進むことを願ったが養父(吉三郎:捷平の祖父)は許さなかった。 静太は20歳の頃、両親には
無断で上京し、岩渓裳川(いわたにしょうせん)の門に入ったが、数ヶ月で挫折し帰郷を余儀なくされた。

(岩渓裳川は永井荷風の漢詩の師として知られ、荷風と静太は同年齢で、この時知り合ったようである。)

静太の挫折はひ弱な体質によるものだったようで、帰郷時はひどい皮膚病で痩せ細っていたという。
新山村役場の書記となり(M33)、2年後(22歳)収入役に就任、結婚(M36)、捷平誕生(M37)となる。

この地の振興には果樹栽培が最適との信念から、28歳(M39・捷平2歳)のとき役場を退職して、桃・柿・梨など
の種苗作りに着手した。精魂込めた努力の結果、特に水密桃は好評を博し全国各地にその名を知られた。
前記した立派な「木山園」の扁額は、その手腕と功績を称えて果樹篤農家たちから贈られたという。
採算度外視で、売れるほど損失が膨らんだというが、現在岡山名産となっている水蜜桃作りの元祖である。

また、村の名誉助役に任ぜられたり、推されて村議会議員を長年務めたりして村人からは厚い信望を得ていた。

木山によって描かれた父親像は作品によって大きく異なるが、定金は「木山捷平文学における父親像」
(前著の第4章)でこの点を詳しく論考し、「これは父静太に対する木山の感情が大きく揺れ動き、屈折を
くり返しているため」という。つまり、各作品はフィクションで静太の一面ではあっても実像ではないのである。

東京で文学を志すことに父が反対したのは、自分の経験に照らしてのほか、当時の木山家の
経済的事情があり、これで捷平は納得せざるを得なかったのだろうと栗谷川は推察している。
「第一次大戦後のインフレと不況は、農村では小作争議を激増させ、地主層の衰退を招いたが、
小地主木山家も例外ではなかった。 -(中略)-  大勢の子供たちの教育のためにも、まず
長男を早く自活させる必要があった。」という。果樹栽培への投資も大きな要因であっただろう。

師範学校に入ったものの文学志向は変わらず、父を悩ませる反抗と中途半端な生活のうちに
1年が過ぎ、最低線の成績ではあったようだが卒業して、大正12年4月(19歳)、兵庫県出石町
の弘道尋常高等小学校(定金によれば前身は出石藩の「弘道館」で由緒ある学校)訓導に
任ぜられた。当時の制度で、木山は授業料は免除されたが、卒業後2年間は教職に就く
義務があり、指定された学校で正規の教員を務めたのである。

第一部に既述したように、木山の小説家としての文壇デビューは<海豹>(S8/3)に発表した「出石」
だが、このほかにも出石を舞台にした何篇かの作品がある。それらによれば強要された辛い
教員生活だったという感はなく、むしろ青春時代の一コマとして心地よく懐かしんでいる風もある。
大正14年3月までの2年間は、文学には遠かったがそれなりの充実があったのかも ・・ しかし・・

    *“転進”  ---

大正14年4月(21歳)、木山は父に無断で教員を辞めて上京し、東洋大学へ入学した。

弟の木山鳳は「兄の想い出」(S45)に、「その事実を知らせる兄の手紙を読んだ父はかんかんに怒ったことを
今も思い出す」と書いている。父の心中如何ばかりであったか察するに余りあるが、父の返信は冷静であった。
後に木山が<海豹>(S8/9)に発表した「子におくる手紙」と題する作品は、この返信に始る約半年間の
父からの手紙で成っており、辛口で有名な朝日新聞の雑誌評(S8/9)が、<海豹>とこの作品を高く評価した。


木山が上京したのは、井伏は「木山捷平の詩と日記」(S56)に「当時若い天才詩人との評判が高かった宵島俊吉
(本名 勝承夫)に憧れてのことである。」旨を書いている。勝承夫は、東洋大学学生の時、姫路師範学生の木山
に会って縁が続いたと同大交友会報(S43/11)で木山を追悼しているので、勝承夫の存在が影響しことは
確かだろうが、木山自身にはこのことに触れた記述はなくどの程度の関わりがあったかははっきりしない。


この転進について、木山は「愚父と愚子」(S42/4)で “子供のような衝動” によるものとしている。
上京後の生活に特別の計画や目処があったわけでなく、たちまち行き詰まってしまう。
加えて肺の病気に罹り、つまりは正に父静太の轍を踏むことになるのである。

東京府北豊島郡の雑司ヶ谷(現豊島区)に下宿し、近くの墓地(片隅に市ヶ谷監獄合葬地が
あった)を毎日のように散歩しながら思いをめぐらし詩を作っていた。同郷の出身で東洋大学の
先輩でもある赤松月船の詩誌<朝>(同年(T14)<氾濫>と改題)の同人となり、大鹿卓、草野心平、
黄瀛(こうえい:中国籍)ら同人との親交が始った。月船の口添えで、木山の詩が<万朝報>
に載り、たばこ銭程度というが初めて原稿料を得たのがこの時(T14/6:21歳)であった。

     挫折 : 父の轍 

しかしこの時以降、昭和4年に再上京するまでの木山の動静について、木山自身は多くを語らず、
父の手紙や日記など数少ない資料から推測するしかないが、帰郷はまさに父の轍を踏んでいる。


東京での生活は経済面と肺の病気(肺尖カタル?)で行き詰まり、大學を中退して9月頃に一旦
帰郷したが、直ぐ上京・帰郷をくり返し、ようやく翌年(T15)4月から郷里の父の許に落ち着いた。
栗谷川は「当時、東京に仕事(臨時教員か?)があって、東京に強く執着したからだろう」という。

昭和2年4月、木山は、父の了解の下に飾磨郡荒川村の荒川尋常高等小学校(現在の
姫路市立荒川小学校)に訓導として勤務、さらに、翌昭和3年4月には、飾磨郡菅野村の
菅生(すごう)尋常高等小学校(現在の姫路市立菅生小学校)に訓導として勤務した。
荒川小学校時代には個人詩誌<野人>を発行し、翌年(S3)には<全詩人連合>に参加して
創刊号に詩を寄稿している。このころの木山の体調や生活状況、文学活動についての
詳細は不明だが、文学への志を持ち続けていたことは確かである。

そして、菅生小学校に残る木山の履歴を記した公的書類の最後の欄には、
「昭和4年3月31日 東京府へ出向を命ず」とある。 木山は再び上京したのである。 

平成20年9月、ふくやま文学館(広島県)は、特別展「井伏鱒二と木山捷平」を開催した。
それに合わせて同名の小冊子を編集・発行したが、そこに、「木山捷平の姫路時代を
探索する −荒川尋常高等小学校と菅生尋常高等小学校のこと-」(前田貞昭著)が
発表されている。 昭和2年4月から同4年3月までの姫路での木山の勤務先(学校)や
居所を、現地で丹念に調査して明らかにしている。

そこに、昭和4年2月撮影の「菅生尋常高等小学校」の木山ら10名の写真(当時の
校長・教員一同と察せられる)と、木山の履歴を記した公的書類「勲功位等級」の写し
が載っている(両者とも、写真提供は姫路市立菅生小学校)。興味深い資料である。

しかし、すでに80年前のこと、木山の生活や活動状況が判然としないのはやむを得ない。
また、「東京府へ出向を命ず」の背後には、どんな事情があったのか、一寸謎めいている。

                    (姫路関連の箇所は、H20/12改訂UP)

     再度の上京 : 詩集出版-結婚-勘当状態

昭和4年4月の再上京について、木山(25歳)は父にどのように話したのだろうか。 事前か、
それとも事後だったのか・・。事実は不詳だが、いずれにしろ、上京は父の心に副わなかった
に違いない。 これを機に、帰郷によって安らいだ父子の関係は再び危うくなったのである。

父静太から捷平あての手紙は、昭和5年正月が最後で、以降は途絶えたままとなった。
日記も、同年4月13日付で 「この子にはあいそがつきた」、同8月11日付で 「捷平帰省」、
同19日付で 「捷平出て行った」とある以降、捷平に関する記事はない。


上京した木山は、東京府南葛飾郡の小岩や小松川(現江戸川区)に下宿し、小松川第二
小学校に教員として勤務するかたわら、直ちに(S4/5)処女詩集「野」を自費出版した。
前回の上京とは異なり、姫路において相応の準備が為されていたことが窺える。

元来、若い小学校教員の県外、それも遠隔の地への転勤は極めて異例だろうし、今回
の木山の場合には「東京府へ出向を命ず」の欄にだけは発令者の記入もなく、正規の
転勤だったとは考え難い。詩集出版の時期からみても、木山の希望を汲んだ校長らの
個人的な好意によって実現した円満退職-上京-再就職だったと解すべきだろう。


この教員生活は昭和6年頃までだった。この間、昭和5年春に下宿を東京府豊多摩郡
大久保百人町(現新宿区)に移し、翌6年6月には第二詩集「メクラとチンバ」を自費出版、
11月に現在の萩市(山口県)近くに住む宮崎みさをと結婚した(木山27歳・みさを23歳)。

このころのことについて、本人はやはり多くを語っていないが、後に極めて親しい友人となった
野長瀬正夫と小田嶽夫が残した一文から、木山は小松川の教員時代に組合活動を行ったこと、
多分そのため小笠原への転勤が命じられたこと、赴任せず退職したことなどが読み取れる。

結婚は、父が心にかけた多くの縁談を拒んだあげくで、しかも、思案の末とはいえ父母には一通
の手紙で知らせたに過ぎない。父が驚き、歎き、怒ったことは想像に難くない。木山が記した
「勘当状態のまま幽明境を異にする」(「愚父と愚子」(S42/2))のは、この3年後(S9/6)である。

妻 みさを  明治41/7、山口県大津郡(日本海側)で出生。 平成14/12/8 没(享年94歳)
幼時に父が早世したため弟と二人、母の手一つで育てられた。生活は苦しかったが
山口県立女子師範学校を卒業(S2)して、郷里の小学校で教員をしていた。

結婚は、みさをの短歌が雑誌に載り、それを目にした木山が誉めて励ましの手紙を送ったことが始まりだった。
木山は昭和6年8月に萩を訪問して初対面となったが、9月にはみさをの母に結婚申込みの手紙を送り、
承知の返事があって、11月23日にみさをが上京、新婚生活が始った。(「捷平と短歌」(木山みさを:S54))

この木山と母の手紙の全文が「木山捷平の生涯」(栗谷川虹著)に載っている。ともに味わい深い文面であるが、
特に、読み書きはほとんど平仮名しかできなかったという母からの返事は、明治の女性の価値観、気骨、
そして母としての心情があふれる名文であると思う。日本女性史研究の上でも貴重な資料ではないだろうか。

みさをは結婚後も短歌を続けられるという夢を抱いていたようだが、木山存命中は一切筆をとらなかった。
木山の日記を見ると、貧乏だけでなく木山は家庭では我儘な暴君的振舞いが多かったようだが、
みさをはこれに耐え従い、木山の文学を理解し、木山の人生そのものを支えていた感がある。

木山の没(S43)後、みさをは短歌、随筆などの文筆活動を始め、木山文学の紹介にも積極的に尽力した。
また、応募した短歌が入選して昭和45年正月の宮中歌会始に出席する栄に浴している。

ちなみに、長男(萬里・ばんり:S11生)は、慶応大学を卒業(S35)して東京ガス(株)に入社、常務取締役、
関連会社会長を歴任(H14退任)。現在は、講演会などで、父(木山捷平)とその文学について語っている。

平成22年10月17日、「阿佐ヶ谷文学講座 木山捷平と阿佐ヶ谷会(講師:萩原茂)」(於・杉並区立
阿佐ヶ谷図書館)に出席され、短時間だったが亡父母や井伏との思い出などを話された。

    *第二の“転進”  ---

新婚生活は、大久保百人町の四畳半の下宿で始った。木山は上京するみさをに「蒲団二組を
先に送ってくれ」と頼んだ。蒲団がなかったのである。貧乏振りは並ではなかったようだが、
翌年(S7)3月に阿佐ヶ谷へ転居し、5月には近くの馬橋に転居した。3部屋の一戸建て、
家賃は15円で当時の相場だが、実家からの援助は無理な状況で生活の苦労は続いた。
栗谷川は「家計は木山とみさをの家庭教師のようなアルバイトで支えた。」と推察している。

木山がこの年(S7)1月1日から書いた日記が公表されている。抜粋(尾崎一雄がみさをに確認)だが、
当時の政情、世相や文壇の動向に触れられた部分もあり、貴重な資料として多くの文献に
引用されている。(「酔いざめ日記」・「木山捷平全集:全八巻の各巻末に分割掲載」(ともに講談社))

     詩から小説へ : 小田、井伏を知る

自費出版した二つの詩集は好評だった。新進の詩人として認められたといってよい。
昭和6年頃には野長瀬正夫、草野心平、倉橋弥一らの詩人との親交が深まっている。
転居先を阿佐ヶ谷にしたのは、親しい詩人仲間が近くにいたからではないだろうか。

しかし、阿佐ヶ谷へ転居した頃には詩作は急に減っている。このころは失業のため
就職活動に苦労していたが、それだけではなく木山は小説を目指したのである。

昭和7年8月、木山は新婚旅行ということでみさをの実家(山口県)を訪ね、帰途、みさをだけを
先に東京に帰し、自分は一人で出石町に立寄っている。9年前(19歳)に教員をした小学校を
訪ねるなど当時の知人としばし旧交を温めたが、この年の11月には小説「出石」を
書き上げているので、この訪問の前からすでに小説を書く気持があったと考えていいだろう。
(みさをは 「一人で東京へ帰る汽車の中で、味の悪い旅をかみしめた。」(「苦い旅」:S62) と述懐している。)

師とした同郷の赤松月船やこのころ知り合ったであろう蔵原伸二郎に小説を見て貰っている。
倉橋に連れられて初めて小田嶽夫を訪問したのもこの年(S7)である。阿佐ヶ谷界隈に住む
小説家志望の文学青年たちとの交友を求め、井伏との初対面もこの年の末頃だったろう。
翌8年には井伏から年賀状がきており、2月には初めて井伏宅に上がってご馳走になった。

     文壇デビュー <海豹> : 阿佐ヶ谷将棋会

木山は後(S40)に「わが文壇交遊録 -阿佐ヶ谷将棋会-」に、将棋は「昭和6年であったか、
7年であったか、それとも8年に入っていたか ・・・」に井伏に手ほどきを受けたと
書いているが、6年ということは考えにくく、親しく接するようになった8年に入ってからだろう。

別記のように、この年(S8)木山は同人誌<海豹>に参加し、3月創刊号に「出石」を発表した。
続いて5月に「うけとり」、9月に「子におくる手紙」を発表、いずれも好評だった。この<海豹>
木山と太宰が文壇デビューしたのである。古谷、太宰、新庄嘉章らの同人を知り、さらにその
同人を通じて木山の交友関係は急速に広がった。(第一部「病気入院:文芸復興の機運」

井伏に将棋を習い、将棋に酒に、阿佐ヶ谷界隈での付き合いは広がり深まっていった。
“阿佐ヶ谷将棋会”は第2期・成長期にさしかかるが、発足期を知る古参メンバーの一人として
井伏、青柳、田畑、小田、太宰、中村、外村、などと名を連ねるのである。

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【将棋会 第 成長期 (S8〜S13)】の頃  (この時期の“阿佐ヶ谷将棋会”

= 父の死・苦闘に次ぐ苦闘 =

木山捷平
(明37(1904).3.26〜昭43(1968).8.23  享年64歳)

昭和8年(1933)、木山 29歳。 “将棋会 第2成長期” は木山の30代前半にあたる。
木山は、第1期(出発期)に記したように、25歳(S4)の時、父に無断で再上京して詩人を
目指し、さらには父の意を無視して結婚(27歳:S6)、父は怒り、いわば勘当のような状態
になった。そんな中で、昭和7年3月、木山は阿佐ヶ谷へ転居し、小説を書き始める。

詩人から作家を志すに至った木山の心に何があったのかは定かでないが、
ここから、木山は長い、長い、苦闘に次ぐ苦闘の道を歩むことになる。

本項では、<海豹>での作家デビュー(S8)から、同人活動、父の死、苦悩の日々、
そして木山が日記に書いた初めての将棋会までを、その日記を中心にして辿る。
別記の井伏、太宰らの項との重複があることはご容赦願いたい。

なお、木山の生涯については第一部でも簡潔に触れているので参照して下さい。

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木山の日記について (第一部「病気入院」の項から再録) 

「酔いざめ日記」(S50:講談社)に木山の昭和7年以降の日記が収められている。
(「木山捷平全集 全八巻」の巻末には、各巻収録作品に見合う時期分を分載)

実際の日記からの抜粋(尾崎一雄がみさを夫人に確認)ではあるが、
当時の文士たちの交友関係や動静、時勢の動きに触れている部分が多いので、
昭和文学研究の貴重な資料として多くの著書に引用等されている。

しかしこの日記は、むしろ木山捷平の人生そのものであり、木山の作品の背景や
木山自身の真の姿が窺えるという意味で極めて興味深く、貴重であると言ってよい。

「木山捷平の生涯」(H7:栗谷川虹著:筑摩書房)という著書がある。
題名通り、その生涯を木山日記や作品を中心に関係文献や郷里笠岡市の取材等で
描いた力作で、木山を知らなくても、その作品を読んだことがなくても面白く読める。

昭和に生きた一人の人間の生き方、宿命、運命、周囲の人々や時代の姿が
伝わってくる。もちろん、その後は木山の多くの作品を読みたくなるのだが・・・。

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このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *作家人生スタート

昭和7年に始まる木山の「酔いざめ日記」を読むと、同年中に木山と深い交友があった
人物は、赤松月船、草野心平、倉橋弥一、野長瀬正夫、蔵原伸二郎神戸雄一である。
いずれも詩人としての縁である。 この年に書き始めた小説「出石城崎」の原稿は
赤松と蔵原に見せて評を仰いでいる。3月から阿佐ヶ谷へ転居しているので、
小田や井伏にも会っているはずだが、まだこの年の日記にはその名は見えない。

     ・無職無収入?

阿佐ヶ谷(馬橋)で迎えた昭和8年1月1日の日記に次の記述がある。

「いよいよ30となったが立てもせず。失業中。文学がやり通せるか。
又ツトメを心がけようかと考える。一日中炬燵でねてくらした。」

そして、実際に1月7日の日記には、新聞社2社の求人広告を見て応募の
ため出かけたとあるが入社した様子はなく、無職状態は変わらなかった。
次いで、10日には「みさを今日口頭試問を受けた」とある。就職試験だろう。
だがこちらも、就職した様子は見えない。つまり夫婦とも定職はなさそうだ。

無職では生活困窮は当然のことで、みさをが口頭試問を受けた1月10日の
次の記述が現実の懐具合を如実に物語っている。

「蔵原氏来たり、(質草の靴持てれど今日休日なりと気付きたりとぞ)煙草なきか
という。なし。新聞、紙、びんをうりて35銭得。すなわち煙草かいてのむ。」

詩集が好評だったとはいえ収入になったとは考え難い。日記に「みさを家庭教師」
とある(S7.2.10)ように、アルバイト的な収入に頼ったのか?・・不祥である。
というより謎である。二人の実家からの仕送りは考え難いところだが、勘当の状態
とはいえ、ひょっとしたら木山の実家は多少は援助をしていたのではないだろうか。
もちろん木山にもみさをにも、どこにも、それらしい記述は残っていないが・・。

そして日記には、この後も貧乏による悲哀を綴った箇所が随所に見られる。

     ・井伏、小田との出会いと親交 

木山と井伏との初対面が何時だったのかははっきりしない。
木山は後に、「将棋は昭和6年だったか、7年だったか、それとも8年か・・、に井伏に
手ほどきを受けた」ように書いているが((S40:「阿佐ヶ谷将棋会」)、6年は考え難い。
みさをが口頭試問を受けた1月10日(S8)の日記に「井伏氏賀状来る」とある。
おそらく木山の賀状への答礼だが、ここに初めて「井伏」の名前が登場する。

次いで1月30日には道で井伏に出会い、奢られたことが書かれ、翌2月9日に初めて
井伏宅を訪ねて井伏の部屋に上がったことが書かれている。この動きから見て、
二人の初対面は昭和7年末頃で、親しく接したのは8年に入ってからのことだろう。

小田は、昭和7年に木山が倉橋に連れられて小田宅を訪れて初めて会ったという。
小田も貧乏の極に居て<雄鶏(麒麟)>の同人活動をしていたが、
作家を目指した木山はこの同人仲間に近づきたかったのではないかと推測している。
小田はすでに井伏と親交があり、蔵原も井伏とは親しい。木山が井伏を知ったのは
自然な成り行きだったろうし、<海豹>参加で井伏との距離はさらに縮んだだろう。

     ・作家活動は<海豹>の末席から・・      

       日記にはナマの姿・・

既に再三触れてきたように、昭和8年当時はプロレタリア文学崩壊に代わって
文芸復興の機運が高まり、芸術派といわれる文学青年たちは活発な同人活動を
行っていた。木山の日記からもその一端を知ることができるが、<海豹>創刊(3月号)
に関する記述を抜粋して木山らのナマの動き、心情に触れてみたい。

S8. 1. 27 ・・・神戸君「海豹」という雑誌をやるという。小生は同人費がなかろうから
入会を遠慮していたという。・・・  (・・・部分は省略を示す。以下同じ)

同. 2. 4  朝赤松月船訪問。『出石』書き改めたものを見てもらう。これにて短編に
なりし由。 ・・・ 夜、海豹同人会。古谷綱武宅。会費5円。集まるもの―-
大鹿卓、今官一、岩波幸之進、塩月赳、新庄嘉章、
吉村○○○、神戸雄一、藤原定、小池○○、太宰治、小生。

同. 2. 15  ・・・道を歩きつつ中谷に「僕『海豹』の末席」だと言ったら「そんなこと
言うのはずるい」といった。「名前は『海豹』ときまったのか」ときかれ「そうらしい」
といったら、「同人がそんなこと言うのはおかしい」と言った。さむさ大分ひどし。

同. 2. 21 ・・・神戸雄一君が、『出石』の校正刷りを持ってやってくる。古谷君の所へ
同道して、そこで校正をなす。奥さんと四人で上高田の方を散歩したりして、
夕飯をよばれる。大鹿君も来て、古谷を高円寺まで連れて神戸君のところかえる。
神戸君は又校正のことで守部と二人で太宰のところへ行ったので、小生たちは
雑談して帰る。 (註:続いてこの後に小林多喜二の連行と死に関する新聞記事
を抜書きしているが、他の部分からも木山が時勢に敏感だった様子が窺える。)

同. 2. 27  ・・・神戸君の夫人が来て「海豹」創刊号が昨夜出来たことを知らせる。
同氏宅へとりに行き塩月君にも届ける。雑誌は印刷と表紙が上出来でない。
塩月君しきりに不平なり。塩月君と二人で古谷君宅を訪問。神戸、金子あり。
雑誌の出来ばえについて話す。塩月君しきりに不平なので、
又小生もあきたらなさがあるのでそれを古谷に忠言す。・・・

同. 3. 2 ・・・今野君が来た。「海豹」にのった『出石』をほめてくれる。連れ立って塩月君
訪問。同君『出石』を巻中第一とほめてくれるうれしい。・・・朝の郵便で太宰から
六銭の手紙着いた。『出石』の批評がのっていてずいぶん手きびしくやっつけてある。
---彼は小生をまだ子供のように思っているらしい。しかし批評の態度はうれしい。

この後、3月4日夜の同人会は出席者が少なくて進展せず、やり直しになったこと、
7日に大塚の病院に入院中の井伏の見舞い(「荻窪風土記-病気入院」に既述)と続く。

       神戸雄一に誘われる・・(昭和8年1月)

木山は、昭和7年秋頃には作家として世に出るための同人活動を意図して数点の作品を
手がけていたが、<海豹>創刊(3月)号にはそのうちの「出石」を仕上げて提出したのである。
神戸雄一は「荻窪風土記-天沼の弁天通り」に記した通り、木山より2歳年上、宮崎県の
実家は素封家で中学時代に上京し、処女詩集を刊行(T12)している。二人は時期は
多少ずれるが東洋大学に在籍(中退)しており、その縁で知り合った可能性もあるが、神戸は
木山よりも前から阿佐ヶ谷界隈に住み、多くの広範な仲間たちと熱心な文学活動をしていた。

<海豹>創刊の中心者は古谷綱武で神戸はサブの立場だったように見受ける。
神戸は木山が小説を書いていることを知っていたので、創刊の話が煮詰まった
段階で木山に声をかけてみた・・、同人費のこともあるが、作品(小説)のことも
心配でこのタイミングになったのだろう。木山は渡りに舟と応じて、一週間で
「出石」を仕上げて創刊のための同人会(古谷宅:S8.2.4夜)に臨んだのである。

木山は戦後、このころのことを「海豹のころ」(S30)、「太宰治」(S39)などいくつかの
随筆などに適当な脚色とユーモアを交えて書いている。神戸、大鹿以外の面々とは
初対面だったが、会の後は古谷馴染みのおでん屋で飲んで気楽になったこと、
太宰らとはさらにもう一軒寄ったことなど、急速に打ち解けた様子が読み取れる。

日記と合わせて読むと、当初は「自分は同人として添え物だった・・」という卑下意識
が強かったが、仲間に「出石」が認められたことを素直に喜び、それが自信となって
古谷、太宰、塩月らの同人や尾崎一雄、檀一雄ら「古谷サロン」出入りの面々、
そして井伏、小田ら阿佐ヶ谷界隈の文学青年との交遊が一層進んだことが窺える。

       <海豹>の三作は好評・・

次いで3号(5月)に「うけとり」を発表、これも好評だった。木山は<海豹>に強い愛着を
持ったようだ。太宰は8月に脱退するが木山は<海豹>を売るため書店回りをしたり、
同人の間での不協和音に対して<海豹>存続のために努力した様子が日記から
読み取れる。7号(9月)に載せた三作目の「子に送る手紙」は辛口の批評で知られる
杉山平助(筆名 氷川烈)の朝日新聞評で誉められ、古谷も<新人>誌上で賞賛した。

創刊時は影の薄い存在だった木山が次第に重きをなしたが、<海豹>は昭和8年秋に
解散した。木山は後に9号(11月)まで続いたと書き、日記では11月7日、12月10日に
同人会がありそれで解散になったとある。8号(S8/10)、9号(S8/11)には木山は執筆
していない。(「太宰治全集 別巻」(1992:筑摩書房)に、1号〜9号の細目掲載あり)
解散理由は日記からも不祥だが同人費の未納や同人の気持の齟齬だったようだ。

       <海豹>後・・(昭和8年秋〜昭和9年)

作家として順調な出足とはいえ、それで直ちに原稿の注文がきたというわけではない。
日記にある木山自身やみさをの体調不良はこの経済的苦境も大きな原因だったろう。
木山だけでなく、木山周辺の文学青年の多くは30歳前後に達していて、それぞれが
生活上の問題を抱えており、何としても早く世に出たい、一本立ちしたいと懸命だった。

昭和8年は井伏(35歳)でさえも文壇で認められたとはいえまだ経済的に苦しい状況で、まして
木山(29歳)、浅見(34歳)、小田(33歳)、田畑(30歳)、太宰(24歳)などは苦闘の最中にあった。
同人の解散、合併など活発な動きはこの反映でもあるが、この段階では木山は<海豹>に拘り、
例えば<海豹>合併による新同人への推薦を拒むなど、何故かこの動きには加わっていない。

それに、木山は何故<麒麟>に加わらなかったのか。親しくしていた蔵原は創刊の同人であり、
小説も見てもらっている(S7.11.30日記)。あまりに親しく、お互いに遠慮があったのだろうか?
<世紀>へ続く流れの中で、寄稿はしているが同人として木山の名前がないのは単なる
成り行きなのか、それとも木山の世渡りの不器用さ故なのか、一寸解り難いところである。

       <文藝>懸賞小説応募・・

<海豹>解散前後の木山の文学活動には、やはり収入を得るための努力が見える。
エピソード的だが、木山はこの時創刊(S8/11)の雑誌<文藝>(改造社)の懸賞小説
に応募した。「出石」に手を加え「出石城崎」として提出したが、結果は「選外第一席」
だった。木山は12月19日の日記に「・・天下に汚名をさらした・・」と書いている。
この時の<文藝>の編集主任は上林暁だったのである。
もちろんこの時の二人は見ず知らずの間柄だが、後には長く親しい友人になる。
上林は木山追悼文「思い出」に当時を「今でも覚えている・・」と振り返っている。

また、木山は「東京週報」「政界往来」といった小さな商業誌に小品を書いている。
いくらかの原稿料を手にしたはずだが、まだ雀の涙ほどのものだっただろう。
昭和9年春にかけて他に<作品>などの同人誌に小品や詩、随筆を寄稿している。

将来のことを木山がどのように考えていたのか不祥だが、昭和9年1月7日の日記には
宇野浩二を訪問、佐藤春夫を初めて訪ねたとあり、期待するものがあったのだろう。
同年4月に古谷、太宰は檀一雄とともに<鷭>を創刊したことは別記の通りで、木山は
随筆「三月となるの記」を寄稿したが同人ではない。人生は手探り状態だったと推察
するが、5月22日夜「チチワルイ カへレ・・」の電報を受け取って新たな展開となる。

       -父の死(昭和9年6月)-

翌日(S9.5.23)の汽車で岡山へ向かった。4年ぶりの帰郷である。日記には「昭和6年
8月末以来」とあるが、これはみさをの実家(山口県)へ行った時で岡山には立ち寄って
いないはずである。木山の勘違いで正確には昭和5年夏の帰郷以来ということだろう。

父の病状は進んでいた。正常な意識とうわ言が入り混じる状態で、帰郷17日目の
6月9日、不帰の人となった(享年54歳)。木山(30歳)は家督を継いで葬儀を仕切り、
遺産の整理にかかり、母や兄弟の将来のことを決めていったはずだが詳しいことは
不詳である。年末の日記(S9.12.29)では戸主としての気苦労を嘆じている。

ただ、帰郷直後の5月28日の日記には、「・・農村救済事業の話『六十五円の中三十円
を自分が出すことにしてあること』遺言。兄弟のこと、捷に後を委かす。
籟は学校をつづけること。桃郎は百姓をさすことを言う。・・」 とあり、
この時は父は正気で木山に後を託したことが窺える。父子の確執が解けたとまでは
いえないまでも、木山は何かホッとしたものを感じたのではないだろうか。

父の心の奥底は知れないが、少なくとも憎悪や決定的な怒りではなかったことが窺える。
先に、「ひょっとしたら実家から援助があったかもしれない」と記した所以である。


木山は後にこの時のことを「父危篤」(S11)、「現実図絵」(S13)、「春雨」(S19)、「裏の山」
(S37)などに書いたが、別記のように父の生き方や自身のこと、生活実態などには
木山特有の相当な脚色(フィクション)があり、あくまでも文学作品としての内容である。

例えば遺産のことでは、作品には借金ばかりが残されたようにあるが、実際には家や
相当程度の土地や資産が残されていて母や弟たちの生活が脅かされた様子はない。
まして、父存命中の経済状態は貧農という作品上の印象とは全く違ったはずである。


とりあえずの整理を済ませて、木山は7月15日に帰京して文学活動に戻り、
<世紀>に「出石城崎」を寄稿するが、9月には再び帰郷するなど、
以降3年間にわたって岡山との間を行き来する事後対応を余儀なくされる。

     ・<青い花>創刊に参加(昭和9年12月) 

<青い花>については、太宰の項で木山の日記を引用して詳述したように、木山が
帰郷して相続問題などに追われている間に東京では発刊が具体化していた。
木山は岡山で中村地平からの報せを受けてその様子を知り、加入したいと伝えた。
中村の仲介で参加が実現し、創刊号(S9/12)に随筆「青い花の感想」を載せた。

しかし、<青い花>はこの1冊だけで終わり、木山らは<日本浪曼派>に合流した。
<日本浪曼派>創刊(S10/3)の経緯などは亀井、太宰の項に詳述の通りである。

     ・<日本浪曼派>に加入(昭和10年2月)       

木山の昭和10年2月20日、翌21日の日記から、木山はこの時に<青い花>は続かないと
確信し、<日本浪曼派>の中谷孝雄と相談のうえで、太宰、山岸、中村を<日本浪曼派>に
誘ったが直ぐには実現しなかったことなど、太宰の項に詳述した通りである。

木山は同28日夜の<日本浪曼派>同人会に出席した。出席者は木山、亀井、保田、中谷、
緑川貢、淀野隆三(飛入り)とある。木山はこのときから同人に加わったといえる。
<日本浪曼派>の2号(S10/4)に「僕のおぢいさん」(後に「おぢいさんの綴方」)を載せた。

この同人会が終わるとその日の夜行列車で再び帰郷したが、この28日の日記は
「文学一途の友人羨まし。」と結んでいる。この時期の木山の心境が鮮明である。

   *創作活動(S10〜S12) 

父の死で中断せざるを得なかった執筆を再開した。岡山で「掌痕」を書き次ぎ、3月中(S10)
に仕上げて<文藝>に載せた。尾崎一雄、林芙美子の力添えがあった結果だが、40円ほどの
原稿料が4月に改造社から岡山に送金された。稿料としては初めてのまとまった額だろう。
木山は家族の手前面目を施したに違いない。しかし母は木山の上京を不安がっていた。
同4月20日の日記に「・・我家のもの皆して小生の首をしめているかの如し。・・」などなど
戸主としての重圧を愚痴り、文学に専念できない焦りを赤裸々に書いている。

母の意を振り切って帰京し、文学仲間との交友を深めながら<早稲田文学>からの依頼
に応えて小説「尋三の春」を発表(S10/8)し、谷崎精二などに好評だったようだが、
この年(S10)は他には<日本浪曼派>などに詩、随筆を発表しただけに終わった。

 昭和11年(32歳):長男誕生 <早稲田文学><作品>などに小品、随筆などを発表したが、
<日本浪曼派>に発表した「父危篤」(S11/10)のほかはあまり注目されなかったようだ。
むしろこの年は4月に阿佐ヶ谷(馬橋)から中野区に引越し、7月に長男誕生、10月には
同一町内で引越し、4月と12月の2度、岡山を往復するなど私事多端だった感がある。

昭和12年(33歳:):作品の発表なし 日記には「今年は仕事をしなければならぬと思う」
(1/11)、「嗚呼仕事に没入したい」(2/12)、「この頃人生面白からず」(2/14)、「仕事が
したい」(4/10)、「近来小説の書けぬ理由・・」(6/12)、などとあり、9月には中野区から
再び阿佐ヶ谷(高円寺)へ引越し、「気分を新たにして勉強したい」(9/20)と書く。

また、弟の籟応召で帰郷、さらに弟の桃郎病死で帰郷、みさをや長男(萬里:ばんり)
の体調不調など、気の晴れないことが続き、思い悩むことが多い1年だったようだ。

転機? 木山の研究者栗谷川は、昭和12年に作品発表がないのは、翌13年以降の作品
の主題が以前とは大きく変化しているとして、実家や家庭の事情という外因だけでなく、
「内的な、作家としての一つの転機に起因していたのではないか」と考えている。

焦り? 周辺の仲間の活躍に焦りを感じた風も見える。昭和10年創設の芥川賞では、
第1回に外村、太宰が、第2回では檀、川崎長太郎、小山祐士が最終候補に挙がり、
第3回には小田が受賞、第5回には尾崎が受賞、中村は最終候補だった。
第6回では大鹿、中谷が最終候補、井伏は直木賞を受賞した。
昭和10年〜12年、木山の名前は挙がらない。心は切なく、思い悩むのは当然だろう。

生活費? 栗谷川は、みさをのアルバイトで生活を支えたと考えているようだが無理では
ないだろうか。日記に「債権を9円80銭で売った。」(S12.12.31)とあるが、この債権は
木山自身が購入していたとものとは考え難い。遺産の一部と考える方が自然であり、
生活はいまだに実家頼りという自己嫌悪、苦悩が木山には潜在したとも推察できる。
もし、ほとんどをみさをの収入に頼っていたとすればなお一層のことだろう。
(萬里(長男)氏によれば、木山が満洲へ行った当時(S19)、「母は先生をしていた。」
とのこと(H22.10.17・講演会での談)、もっと以前からで長期のことかもしれない。)

木山はこの時期、創作活動は低調だったが “文士活動” は積極的だった。同人誌や
「古谷サロン」「日曜会」を通じて交友範囲は大きく広がり、宇野浩二、佐藤春夫らの
交誼も得ている。この2年間(S11〜12)で日記に最も多く見える名前は小田で、次いで
中谷、石浜三男、太宰、田畑、外村、尾崎、亀井、檀、らで以前の詩人仲間は少ない。
執筆は進まなかったが小説に活路を見出すための交遊を続けたように見受ける。

ところで、木山の日記で最も目に付くことは、当時の文学青年が実に頻繁に先輩や仲間の家を
訪問し合っていることである。公表された日記の大半はその記録といっても過言ではない。
電話は普及前の時代、アポなどはなく、留守も多いが逆に偶然大勢集まることもあった。
そこで新しい出会いがあったり、情報交換したり、励ましあい、傷をなめ合い、口論したりと
酒はつき物でなかなか賑やかだったようだ。花札やマージャン、トランプ、将棋にも興じ、
コリントゲームもでてくる。 後年、木山、小田が夢中になる囲碁にはまだ無縁だったが・・

お互いが近くに住んでいるからできることで、“阿佐ヶ谷文士村”形成の大きな要因だろう。
時間にはあまり頓着なく、誘い合って近くの仲間の家や安い飲み屋を歩き回っている。
妻や家族の迷惑、苦労は並大抵でなく、経済的負担も相当だったはずだが、これも立派な
文学活動のうちで、“文士” と呼ばれるのは、こうしたこの時代特有の生き方故といえよう。
(木山の生活がみさをのアルバイトだけでは無理だったと推察(前記)する所以でもある。)

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 

木山の将棋が日記に出るのは、「・・新宿にかえり野長瀬の所で将棋をする。」(S8.9.8)
が最初だが、後の「太宰治」(S40)には、<海豹>創刊号の校正の時(S8/2)に
「私は覚えたてであったが・・」と古谷と将棋を指したことを書いている。
おそらく、このころに井伏の手ほどきを受けて覚えたのだろう。

なお、木山捷平の年譜(木山みさを編:木山捷平全集 八巻)には昭和11年の項に「4月 阿佐ヶ谷会が
初めて開催された。」とある。木山の日記の一部かもしれないが、公表部分には見えないので詳細は
不明である。"阿佐ヶ谷会”と呼べるようなメンバーの集会に木山が初めて参加したということだろうか。


その後、年毎に将棋の記述が増えて、昭和12年の日記には将棋以外の遊びは見えず、
石浜、小田、太宰らと頻繁に指すようになっている。将棋流行の世相と一致し、
文壇では菊池寛の影響が大きかったことは別記の通りである。

この時期の日記には井伏の名前は少ないが、「外村が『木山は井伏のメイで中谷のオイだ』
と言った」 がある(S12.3.29)。外村は、文体、作風を評したと思うが、木山と井伏・中谷との
仲間としての関係が濃いことを示しており、井伏とも折に触れ指していただろう。

再々記したように、このころはまだ“将棋会”という体裁はなく、阿佐ヶ谷周辺の多くの
文学青年が流行に乗って指し、時に何人かの顔が揃って楽しんだという状況だったろう。
木山もその1人で、日記には「○○と将棋 ○戦○勝」のような記述が多くなっている。

昭和13年2月に井伏が直木賞を受賞し、木山は小田と直ぐに井伏宅にお祝いに行き、
その日の日記(S13.2.15)に、「・・。将棋、井伏氏とは2戦1勝1敗、小田君とは4戦4敗。
2時ころ辞して3人で荻窪駅前のすしやで朝4時迄のみ、朝になって帰る。」とある。
将棋と酒はこのころの木山の日常生活の一部だったのである。

そして3月3日の日記に、「阿佐ヶ谷会。アサガヤの将棋屋にて。・・」の記述になる。
“将棋会” という体裁が整った初めての記録である。木山の成績は散々でピノチオの
二次会も楽しめず不本意な1日だったようで、自身以外の会の様子は詳しくない。
この記述中に井伏の名前がないのが気になるが、偶々対戦しなかったのだろうか。

この3月3日の将棋会について、「井伏鱒二年譜考」(松本武夫著)や「井伏鱒二全集 別巻2」
(筑摩書房)などの年譜、「杉並文学館-井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士」(杉並区立郷土博物館発行)
などに“井伏の直木賞受賞記念”とあるが、私は疑問に思う。 詳細は別途「第3期 
盛会期」に
「ところで・・ この3月3日は 「井伏の直木賞受賞記念将棋会」か ? ・・ “文学と記録”」
の標題で記した。

 3月3日、6月7日、7月12日と本格的な “会” が続き、将棋熱の高まりがはっきりする。
背景には日中戦争の拡大があり、浅見淵は「昭和文壇側面史」に、召集で戦地に赴く
若者の壮行会を酒だけでなく将棋会を開いて清福を楽しもうという思いもあったと書く。

「第期 成長期」は多くの文学青年が文芸復興の機運に乗って世に出た時に重なる。
木山は仲間の後塵を拝する形になったが、昭和13年には作品の発表を再開する。
栗谷川がいうように確かに題材には大きな広がりが見られるが、私小説で、短編で、
劇的な抑揚を感じさせない筋、という地味な作品であることに変わりはなく、
“好評ではあるが売れない” 存在だったことは否めない。以降、長年にわたり
木山が悩み、苦闘を強いられたのは、この木山文学の本質にあったと考える。

“阿佐ヶ谷将棋会” は記録の残る「第期 盛会期」に入り、会員の面々は本業に励む
一方で戦争の不安を紛らすかのように仲間との将棋や酒に一層のめり込んでいった。

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将棋会 第 盛会期 (S13〜S18)】の頃  (この時期の“阿佐ヶ谷将棋会”

= 芥川賞候補・・満洲旅行 =

木山捷平(明37(1904).3.26〜昭43(1968).8.23  享年64歳)

昭和13年(1938)、木山 34歳。 “将棋会 第3盛会期” は木山の30代後半にあたる。
昭和11〜12年の木山は、家庭や郷里の事情に追われて執筆は思うように進まず、
苦悩、失意の時を過ごしたが、昭和13年になると作品の発表を再開した。
創作集を発刊して芥川賞の候補になったが受賞には至らず、心の晴れない日は続く。

時勢は戦争一色に向かい、応召や徴用、検閲、出版規制強化で作家をはじめ文筆家は
対応に悩んだが、木山はそれまでの姿勢を変えず、戦争や政治・思想とは距離を置いて
身辺を題材にした地味な短編を書き続けた。一部で高い評価を受けたが、売れなかった。
昭和17年6月から約2ヶ月間、満洲を旅行し、戦争末期(S19/12)には、何故か、突然、
単身で満洲の新京(長春)に渡り住むことになるが、こうした背景がなさしめたことだろう。

一方、家計は苦しいが、文学仲間との積極的な交遊は続いた。日記には阿佐ヶ谷将棋会
や日曜会の記述が頻繁に現れる。出版記念会や壮行会など諸会合への出席、仲間相互
の訪問も活発である。満洲行のことは、こうした仲間の情報や誘いが大きく影響しただろう。

なお、木山の生涯についてはPart1でも簡潔に触れているので参照下さい。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *文学活動本格化!!

昭和12年には発表作品がなかったが、13年になると、積極的な発表に転じる。
4月「抑制の日」、5月「歯痛の日」、6月「民謡」、7月「雛子」、12月「現実図絵」などで、
随筆数編も執筆している。(発表作品は、後記「木山捷平 主要作品一覧」参照)
宇野浩二や佐藤春夫を訪ねるなど、先輩や文学仲間との往来も一層活発化する。

     ・木山 と 宇野浩二・芥川賞

木山と宇野浩二の初対面は、第2詩集「メクラとチンバ」の出版記念会(S6/6)だった。
(詩集「路傍の春−宇野の序文」(S18:審査不承認で出版なし)。その後、どのような
関係にあったか不詳だが、木山の昭和8年2月11日の日記に、宇野を訪ねたとの記述
がある。この日は、木山が初めて書いた小説「出石」の校正刷り(<海豹>創刊号)が
できる10日前に当たる。木山はこの直前に「出石」の原稿を蔵原や赤松月船に見て
もらっており、宇野にも、作品と小説家転進の木山を知って欲しかったのかもしれない。

この日は不在で会えなかったが、以降も訪問、日曜会に参加して交誼を得ている。
長いが、木山の胸中が窺えるので、日記から宇野関連の部分を要約して抜き出す。

S8.2.11 倉橋と待合わせ。午前、宇野を訪問も不在、友人宅を回って帰りに寄るも留守で会えず。
(直後(2/20)に宇野を囲む最初の会(後の日曜会)が開かれたが木山は出席していない。)

S9.1.7 古木鉄太郎と宇野を訪問、4時間ほど対談。 <文学界>に世話をしてくれることになった。
(この後、佐藤春夫(古木の義兄)宅を初めて訪問。話はできなかったが夕食をふるまわれた。)

(5/23〜7/15 木山は父の病気、死去(6/9)、葬儀等のため郷里滞在)

S9.7.27 古木と宇野を訪問、不在。中山義秀訪問後、再訪するも不在。(川端康成を訪問も不在。)

S9.8.31  古木と宇野を訪問。 「旅行中との由。どうやら居留守らし。」の記述あり。

S11.5.17 
日曜会 :12名出席「余り面白くなし。」の記述あり。(この日には、古木、田畑来訪
の記述もあるので同道したのだろう。田畑は日曜会の幹事役の一人である。)

S12.2.14 
日曜会 :初参加は石川淳、稲垣足穂、衣巻省三、高見順、松沢太平、笹本寅、他数人。

S13.1.15 倉橋が来て、「宇野さんは、余や渋川君の如き地味な作家はみとめられること遅しと
いっていた由きく。」の記述あり。

この時、宇野は芥川賞選考委員になり、第6回(S12下期作品)〜第45回(S36上期)
(第17回(S18)〜第20回(S19)を除く) の選考で主要な役割を果たしている。


S13.1.30 日曜会 :富山に誘われ出席。渋川、新田、神西が初出席。井伏、田畑など出席率はいい。

S13.4.17  
中村の出版記念会で宇野に会い、帰途、宇野に誘われ倉橋と不二家に行った時、
「宇野さん、余の作品をほめてくれた。某氏をあげてそれよりもいいという。」の記述あり。

S13.5.22 
日曜会 :風邪だったが田畑、小田、富山が来て同道。中座して帰る時、「宇野さんが後を
追ってきて、「民謡」愛読しました。他に作品はないかとのこと。短いものしかないと答う。」の記述あり。

S13.7.31  
日曜会 :田畑、渋川の出版内祝。中野重治初対面。 「芥川賞は田畑、中山、
大分有望らしいとのこと。」の記述あり。 (結果は、中山の「厚物咲」が受賞)

S13.12.12 
:「宇野浩二氏より来信。貴創作集、早い方がよいと思いますが、来春御出版の方が
いいことがありはしないかと思います。これは18日ハイビの折に。処女創作集という意味でだけで
なくです。―とあった。」の記述あり。

S13.12.18 
日曜会忘年会 :(出席したが、自他の酔っぱらいの記述だけで、宇野に関する記述なし)

S14.2.5  
日曜会 :「席上芥川賞候補として、北原武夫、南川潤、中村地平、一瀬直行、
木山などのこっていると伝えられる。 宇野さんは余を物陰によんで、「小説集を出すと、
又次の候補にもなるから出した方がよい」と言ってくれた。」の記述あり。

(実際には、宇野が出席した2月3日の第1回委員会で最終候補が決められ、
木山の「現実図絵」はそこには残らなかった(受賞は中里恒子「乗合馬車」。
日記では、宇野は承知の上でこのように伝え、木山に勧めたことになる。)

S14.2.24 
「文芸春秋3月号にて芥川賞経緯及小説などよみ心おだやかならず。」の記述あり。

S14.4.16  
春の日曜会 :宇野に関する記述はなく、「余り面白くなかった。」とあり。

(S14/5 : 木山の第1創作集「抑制の日」(赤塚書房)刊行)

S14.6.17 
「倉橋弥一君来訪。「抑制の日」を宇野さんがほめていた由。芥川賞にしたいと言って
いた由。しかしこれは見込みがないので宇野さんがそう言っているかもわからぬ。
「智者仁者」もほめていたと伴野も言っていたと。」の記述あり。


(S14/7 : 第9回芥川賞発表。木山は「抑制の日」で最終候補6人に残ったが
受賞はなく、宇野の選評は、木山については他の委員より詳しいが「一皮むけ
なければならぬ」として、他の候補を推している。(受賞は、長谷健と半田義之)

S14.8.20 
文芸春秋(9月号)の芥川賞選評を読んで、「選者たちは神様にでもなったつもりで
書いている。宇野浩二のタヌキまで悪口を書き居る。ひいきのひきたおし、という奴だ。腹が
かきむしられるようだ。ともかく、いい作品をかかねばならんのだが、こんなに書かれては
めいるばかりだ。出るところへ出ると人間はたたかれると言ったらいいのだろうか。
「あさくさの子供」と「鶏騒動」(註:受賞の2作品)をよむ。 ともかくこれからは、90枚、
120〜30枚という枚数がものを言っていることだけはたしかだ。」の記述がある。

S15.5.24
 
日曜会 :「去年の春以来のこと。」と書き、出席者10人の名前を書いているだけで
宇野や芥川賞のことには触れていない。以前もそうだったが、古木、田畑と帰途を共にしている。

(S15/7 : 第11回芥川賞発表。木山の「河骨」は最終候補6人に残ったが受賞は
なかった。木山について宇野だけが選評を書き、「あまり香ばしい作品ではない」
としている。(受賞は高木卓だったが辞退して、受賞なしとなった。)


なお、木山の「卵」(S16/8<知性>)は、第14回芥川賞予選候補20篇の中の1篇である。
宇野は「これまで書いて来た小説のなかで、出来のわるいものである。」と選評し、他の
委員に選評はなく、最終選考の3篇には残らなかった(受賞は、芝木好子「青果の市」)。
この「卵」に関しては、木山の日記には何の記述も見当たらない。

この後、S17.8.3、
S17.11.29 日曜会出席の記述があるが、出席人数や名前があるだけで、
宇野や芥川賞などに関するものはない。


参考サイト  芥川賞に関する詳細は・・ 芥川賞のすべて・のようなもの 

長い引用をしたが、ここに、当時の木山の心情、哀歓、行動心理、つまりは素顔と
人生の綾が見える。 宇野は、比較的早い時期から木山の才を認めてはいたが、
選考委員としては客観的評価に徹したとみてよかろう。 ただ、木山(S13:34歳)
にしてみれば上手く乗せられただけという感がないわけではないだろう。

太宰が芥川賞を熱望して、選考委員の佐藤春夫や川端康成に強く反発して話題に
なったように、芥川賞は当時から文学青年たちにとっては最大の関心事だった。
当然ながら木山もこれに執着したが受賞はならず、この後は木山流に対応する。

昭和15年以降、「河骨」「卵」が候補になっているにも拘わらず、木山は、日記では
芥川賞に触れていない。わずかに「文藝情報(S15/4上旬号)」に掲載された芥川賞に
関する宇野の対談記事から木山関連の部分を抜き書きしている(記入日不明)だけで
ある。昭和14年8月20日の記述に自分の思いのすべてを込め、それをもって芥川賞
を慮外のものとし、長編を視野に自分流の文学に専念することを決意したと察する。

幻の長編・・実際、木山は長編を書き始めたのである。「矢吹草」の題で、「原稿2枚
書いて35枚となった。」(S15.5.24)とある。 <文学者>の岡田三郎に掲載を依頼し、
昭和16年2月号に250枚にして掲載してもらうことにした(S15.9.30)。 ところが、
木山は120枚書いたこの原稿を紛失してしまったのである。 年譜には「9月、新宿
あたりで紛失、呆然自失する。」とある。以降、日記に「矢吹草」の題名は出ない。

代って「侏儒の友」(67枚)を岡田三郎に届けた(S15.12.21)が、結果的には<文学者>
ではなく、<公論>(S16/2)に載せた。 「矢吹草」の内容は不明だが、「侏儒の友」の
人物“矢吹矢太郎”は木山自身がモデルのようでもあり、客観的な半生記のようなもの
を書きたかったのではないか。 完成していれば「河骨」を超える長編だったが・・。 

     ・創作集の刊行

S14.5.20刊行  第一創作集「抑制の日」(赤塚書房) : 表題作など5篇所収。

宇野のアドバイスによる刊行といえる。近作で評判の良かった「抑制の日」(S13/4)
を表題にして、表題作と過去の好評作「子におくる手紙」(S8/9)、「うけとり」(S8/5)、
「父危篤」(S11/10)、それに掌編の近作「歯痛の日」(S13/5)を加えている。
既述のように、第9回芥川賞候補で最終選考6人に残ったが受賞は逸した。

木山については、宇野のほか瀧井孝作、横光利一、佐藤春夫、小島政二郎が
選評しており、概して好意的だが、佐藤が「少々影が薄い」と評するように、表現は
違っても「何かもの足りない・・」というのが各評に共通しているところといえる。

ところが、赤塚書房は、この「抑制の日」が芥川賞候補になったことで木山に無断で
再出版(S14/10)し、しかも本の帯には保田与重郎の書評を無断引用するという
おまけがついた。 木山は怒った。「道徳も仁義もない」、「全くなめられた。
芥川賞がこんなにも俺に恥をかかすか。」 と日記に記している(S14.10.11)。


S15.7.25刊行
  第二創作集「昔野」(ぐろりあ・そさえて社) : 全6篇所収。
新ぐろりあ叢書の一冊。 装丁は棟方志功。

(ちなみに、田畑修一郎の「狐の子」(S15/11)も、”新ぐろりあ叢書”の一冊である。)

芥川賞候補になったことで「新ぐろりあ叢書」での出版が急速に具体化したようだ。
自分の番は遅くなると思った(S14.9.27付日記)ところ、出版社から年末に連絡があり、
1月(S15)から7月までの日記に、出版社とのやりとりや原稿、校正、広告、印刷部数、
印税のことなどについての経過が記されている。 所収は「定期乗車券」(S14/9)、
「智者仁者」(S14/6)、「現実図絵」(S13/12)、「小さな春(「尋三の春」改題)」(S10/8)、
「おぢいさんの綴方」(S10/4)、「うけとり」(S8/5)の6篇で、木山が「後記」を書いている
(「後記」は未確認)。日記(S15.1.31)には初出誌、原稿枚数など詳しい記述がある。

「昔野」は「むかしの」と読むと思うが、日記には『なつかし野』とか「『昔野』(なつかし野)
の校正」とある。「昔野」という小説はないので、自分の半生や身内のことを顧みて
特別な思いが残る6篇を括った総称だろう。「なつかしの」と読ませたいのかもしれない。

S16.3.刊行  第三創作集「河骨」(昭森社) : 表題作など5篇所収。

木山の長編小説といえば 戦後の「大陸の細道」や「長春五馬路」があるが、これらは、
短編を繋いで長編にしたもので、「河骨」(こうほね)は中編だが、実質的には最も長い
小説といえる。 当時の木山として、それだけ期するところがあった作品のはずである。
(長編「和気清麻呂」(270枚:S19)があるが(未読)、”児童向け”なので対象外とした。)


木山が「河骨」を書き始めたのは昭和14年2月である。日曜会で宇野に小説集を
出すよう勧められた(S14.2.5)頃である。日記(S14.9.27付)を引用する。

「夜『河骨』3枚書き脱稿、155枚、 (中略)。 しばらく雑文を書いてその間
休んでいたり、いろいろ後悔する振舞いあったりして、嫌になったりしたが、
ついに脱稿した。2月初旬より書き初めたもの。」


日記を追うと、3月9日に「2月20日に書き初めた原稿51枚に入る。」とあり、さらに、
4月5日に「原稿99枚となる。(河骨)」、4月16日に「127枚」とある。 この後、童話
や「智者仁者」(49枚)を書き、創作集「抑制の日」の刊行あり、深酔いの失敗あり、
芥川賞をめぐって気分は晴れず等々、筆が進まなかったが、ようやく155枚を脱稿
した。 それまでの木山の作品の多くは50枚までの短編ないし掌編なので、
その3倍以上、初めて短編を超える中編小説を仕上げたと云っていいだろう。

発表は<文学者>(S15/2)で、既述のように第11回芥川賞の最終候補に残ったが、
受賞は逸した。この時の宇野の選評(S15/9<文芸春秋>)の結論は「あまり香ばしい
作品ではない」で、他の審査委員の選評はない。あまり認められなかったといえる。
以前の作品に比べると物語性、創作性が強く感じられるが、木山が期待したほどの
評価は得られなかったということか。 日記にはこれに関しては何の記述もない・・。

昭和15年の木山は、芥川賞への思いを断ったと見てよかろう。 日記から、2月の
「河骨」発表、7月の第二創作集「昔野」刊行、5月〜9月は長編「矢吹草」執筆、
11月には「河骨」と題した第三創作集の原稿準備、「氏神さま」執筆開始、年末には
「侏儒の友」(「矢吹草」の内容と関連だろう)の脱稿等々、文学活動専念が窺える。

創作集「河骨」所収作品は、「河骨」(S15/2)、「一昔」(S9/5)、「猫柳」(S15/4)、
「村の挿話」(S9/3)、「猫」(S11/1)、の5篇である。 (日記(S15.11.20)によるが、
「村の挿話」は年譜によれば、初出は「啓太の帰郷」(S9/3) ⇒補筆して「帰村記」
(S9/11) ⇒改題して「明暗」(S15/8) ⇒改題して「村の挿話」である。)

     ・「昔野」、「河骨」 出版記念会      

昭和16年4月30日、新宿で「昔野」「河骨」の出版記念会が行われた。この日の日記
には、出席者名や二次会(銀座)での寄せ書きなど、当日の様子が詳記されている。
全文を引用したいが長いので、特に阿佐ヶ谷文士関連ということで抜粋(要約)する。

司会は小田、外村、倉橋弥一、他に 古木鉄也、青柳(瑞)、田畑、太宰、坪田譲治、
山岸外史、田辺茂一、井伏、村上、野長瀬正夫、伊馬鵜平、真杉静枝、青柳(優)、
亀井、中谷孝雄、保田与重郎 等々35名の名が出席として記されている。(記載順)

13名ほどの寄せ書きが記されているが、さすがに上手い・・・。 いくつかを抜粋する。

井伏鱒二 「捷平と血族をあらそふ春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」
太宰治 「川そひの路をのぼれば赤き橋 また行き行けば人の家かな」
青柳瑞穂 「せふ平は 谷間に鳴けよみそさざゑ    みそさざゑといふ
         鳥は姿をかしくやや風格あり。 春宵銀座裏町」
小田嶽夫   「捷平が風格にやせる春の宵」
村上菊一郎 「虱取る男もありて春の宵―河骨にちなみて」
真杉静枝   「銀座にてピエタを偲う春かなし」
亀井勝一郎  「捷平は大根ふりあげて道教へけり」
外村繁  「凡夫凡婦 即卒伍の臣」
伊馬鵜平(後の伊馬春部) 「捷平の姿なつかしく出て来た    
               今宵 麦酒も豊富 話も豊富」


このうち、井伏の「血族をあらそふ・・」だが、木山は以前から周囲に、作風が井伏に
似てると云われていた。 木山の日記に「外村は『木山は井伏のメイで中谷のオイだ』
と言った」(S12.3.29)とか、「石浜は『君は井伏のコブン』と言った。」(S13.2.5)とある。
出席した保田によれば、この日の会でも似ている云々の会話があったという。

作風の近さや親密さが仲間内で話題になったことを受けての井伏の配慮だろう。
また、太宰の自作短歌は、揮毫を求められると好んで書いていたようだ。 昭和11年の
小館善四郎あて葉書(S11.11.29付)にあり、御嶽遠足(S17.2.5)の寄書きや他にもある。

それぞれに、それぞれの個性が表れ、木山の雰囲気を映し、温かい励ましになっていて
木山は嬉しかっただろう。 「記念会は何となくいやだったから先日小田にことわったが、
しかし、これでハッキリしていい気もする。」と、木山らしいコメントを日記に残している。

     ・創作集―その後  

創作集刊行と合せて、小説、随筆、詩の発表はあるが、この時期の小説で三冊の創作集
には収録がなく、没後刊行の「木山捷平全集 全八巻」に収録の小説は短編ないし掌編の
「山ぐみ」(S16)、「氏神さま」(S18)、「ねんねこ」(S19)、「春雨」(S19)だけである。

収録に際し、主要小説としてあえてテーマが郷里に関するものを選んだのかもしれないが、
それにしても、特に創作集刊行後の小説執筆の質量には物足りなさを感じざるを得ない。

なお、「全集 全八巻」の収録は発表順で、各巻末には発表時期に見合う日記が
載っており興趣が増す。(日記は、単行本「酔いざめ日記」にもなっている。)
「第八巻-年譜」には、発表年月、作品名、発表誌、が載っている。

年譜をもとに「木山捷平 主要作品一覧」を後記したので参照下さい。

 木山捷平 主要作品一覧

      木山作品 初のNHK放送・・

昭和16年11月20日、木山の作品が初めてNHKで放送された。日記は次の通り。

「秋酣けて」放送。0・05分より。木山捷平作、物語 佐々木信子、宮下晴子、
伴奏東京放送管弦楽団、指揮久岡幸一郎。初めての自作の放送をきく。


(この「秋酣けて」について、内容を知りたかったが、分からなかった。
同名の作品、文献は見当たらない・・。  読み方は「あきたけて」だろうか?)

   *再びスランプか?

     ・昭和17年のこと(満洲旅行)  

年譜によれば、この年発表の小説は5篇あるが、全集には収録がない。あまり注目され
ない作品だったのだろうか。日記を見ても、執筆に関する記述は非常に少ない。
戦争関連の記述が多いのは必然として、他は、文学仲間との往来関係が多い。
本来の文学活動である執筆、発表には、あまり集中できなかったのかもしれない。

そして、6月7日発〜8月3日帰京の満洲旅行が入る。木山にはこの年最大の出来事で、
結果的には、これが木山の人生における最大で最後の転進の序章となっている。
しかし、木山はこの旅行について多くを語っていない。日記には旅行手続・準備の
記述だけである。みさを夫人によれば、「その間の日記は空白、旅行メモは一切
見当たらず。葉書4〜5枚留守宅に届いたのみ。」である(木山の日記(S17)に付記)。


木山がこの旅行について最も深く触れた記述は、戦後に書いた「花枕」(S32:「大陸の
細道−第四章」(S37))である。昭和19年の満洲単身移住について「もとをただせば、
この旅行が複雑微妙な作用をはたらいているからである。」と冒頭の部分にある。

当時、満洲、北京には多くの日本人が渡り住み、活発に活動していた。旅行者も多く
文筆家も私的に活発に往来して現地報告や旅行記、随筆、小説などを書いていた。
木山は、文学仲間との往来でこの状況をよく知っており、また、実際に親しい知人、
友人の何人かは北京や満洲に住んで活躍中で、木山にも来るよう誘っていた。

戦況はまだ日本優勢の時期で、満洲で強大な力を持つ満鉄は、内地からの著名人を
招聘、優待するなど、動きやすい環境にあった。木山は著名人とはいえないまでも
知人たちの尽力で鉄道の無料パスが利用できるようになった。未知の世界に触れ、
新たな体験をすることで小説の題材を増やそうと思い立って出発したのではないか。
戦後、脚光を浴びるにいたった木山が、「花枕」に生田春月の辞世の詩を引用した
のは、実はこの旅行には期するところがあったのだと言いたかったように推察する。

とはいえ、木山の場合には、懐不如意覚悟の苦しい旅だった。 この時期、たまたま
田畑も満洲旅行中で北京に寄ったが、その時(S17.7.12)木山に会った。 田畑の
記述に、「木山は文なしにて北満その他を歩くといふ。残金あれば少々渡す。」とある。
木山にはこのことに触れた記述はないが嬉しかっただろう。(田畑修一郎の項に詳記

また、帰途の京城(ソウル)で、やはり旅行中だった安成二郎に会い、将棋を指した。
外地の旅でのこうした邂逅は嬉しく、気が休まっただろう。 当時の日本人には
強い”同胞意識”があり、旅行者同士の情報交換が緊密だったようだ。(安成二郎の項

旅先で旅費を工面しなければならないという二カ月間の貧乏旅行だったが、知人、友人
の温かいもてなしや計らいがあった。 苦しいながらも気ままに旅して無事帰京した。

この後、12月までの日記には、「『ロシアを見に行く』 9枚速達で送る。日本農業新聞宛」
(S17.9.28)があるが、他には満洲旅行関係を含め原稿を書いたという記述はない。
年譜には、「北支・満洲見聞記のほか随筆十数編」 とあり、執筆はしたようだが、
戦時一色化の時節もあって、小説には手が回らなかったようにみえる。

     ・昭和18年のこと    

      審査不許可−出版出来ず

日記によれば、昭和18年2月、詩集「路傍の春(66篇)」(当初は「三月の花」)の編輯を
終り、宇野に序文を依頼する手筈になった(S18.2.18)。宇野の序文を得て、その全文
を日記(S18.5.7)に写している。 木山の「軽妙、諧謔性」を書いた温かい文面である。

しかし、この詩集は出版出来なかった。出版審査で不承認だったのである。理由は、
日記(S18.11.6)によれば、「ダダイズム、ニヒリズムというのではないが、そういうもの
あり」「感激をもって書いてない詩もあり」とのこと。戦局は悪化の一途にあり、「時局
不相応」だったのだろう。 少なくとも戦意高揚に繋がる詩ではなかったはず、木山は
このことには何も触れていないが、“作家の魂” が衝撃を受けたことは確かだろう。

戦後刊行された「木山捷平詩集」(S42/3・昭森社:「木山捷平全集 第1巻」所収)に
「三月の花」が入っているので、この詩集に収録された40篇のうち、昭和13年までの作
30篇は、出版出来なかった「路傍の春」の66篇中から選んだものではないだろうか。

      徴用令書!!

このころの木山は、執筆や発表という本来の文学活動より、先輩や仲間たちとの往来が
目立つ。木山に限らず、戦局悪化で文学活動は一段と低調にならざるを得ない状況で、
勤務先を持たない文士たちには十分な時間があり、仲間同士で集まったり、行き来して
情報交換し、慰め、励まし合うなどして、日常生活の不安を少しでも軽くしたかっただろう。
著名作家や”戦争物”を書く作家はともかく、売れない文士の不安は一層強かっただろう。

そんな木山に、昭和18年12月13日、徴用令書が来た。17日に杉並区役所に出頭した。
その日の日記に「体格は坐骨神経痛のためg1印。」とある。結果は不合格だった。
2年前(S16)、井伏、小田、中村、太宰が徴用を受け、太宰は肺疾患ということで不合格
だった。この時の木山と太宰とのやり取りが絶妙だが(太宰の項に詳記)、今度は木山が
不合格。木山がどんな顔をしたか・・興味深いところである。 木山は40歳が目前だった。

      仕事は「和気清麻呂」のみ!! (大晦日の日記)

「和気清麻呂」(S19/8)は、書下ろし長編小説(日本少年歴史文学選)である。

この「日本少年歴史文学選」は、淡海堂出版による出版で、他に「北条時宗」(伊藤佐喜雄)、
「豊臣秀吉」(中谷孝雄)、「菊池武時」(荒木精之)などがあり(ネット情報)、児童書である。
確認はしていないが、国策に沿った企画だったのではないだろうか。


木山が執筆に至った経緯は不詳だが、日記(S18.4.20)では、「野長瀬のところで
「清麻呂」の印税の中、300円受取る。この前と合せて500円となった」とあり、野長瀬
の関係での依頼だろう。 5月には取材のため奈良、大阪、岡山方面を10日間に
わたり旅行している。稿料など、恵まれた条件だったことが窺える。

執筆に入って「第1章を書く」(S18.5.22)、「53枚」、「109枚」・・と順次増え、「250枚。
あと一章で終わる。」(S18..10.30)となり、大晦日の日記を次のように締めている。

「今年も暮れる。小生この年「和気清麻呂」が長引いて270枚書いたのみ。
小説の仕事ができなかったのは残念である。来年は少し書かねばならぬ。」

前年の日記に、倉橋が来て「少年読物の話。小生やる気はないかときく。あると
笑う。」とある(S17.11.12)ので、あるいはここから始まったことかもしれない。
”生活費のため”という気持ちが「笑う」という表現になっているように思える。
取りかかったものの、長引いて本来の小説が書けなかったと残念がっている。

確かにこの年(S18)の創作は前年に続き低調である。3月に短編「氏神さま」を発表
したが、この作品は昭和16年から手がけて、前年にはほとんど仕上がっていた。
元日(S18.1.1)の日記に、「氏神様」終りの方少々書き直すこと5枚。」とある。
何篇かの執筆はあるが、注目されるのは掌編の「春雨」「ねんねこ」くらいである。
本人として不本意な1年だったはずで、“スランプ” を意識していたかもしれない。

   *木山文学の原点は “故郷”

木山の随筆「わが文学の故郷」(S19/4<早稲田文学>)に、「私の文学の故郷は、私の故郷――
つまるとろ備中の草深い田舎のことである。」 「先祖代々の百姓精神の横溢した、一度読んだら
3月ぐらい笑いの止まらぬような朗らかなやつが書けないものだろうか。お父ッつァんー。」とある。


木山の作品は、自身や身辺の出来事を素材にして、自分の原点である故郷の百姓精神
をそのまま庶民生活に投射した短編の私小説といえる。そこに表出された庶民の人生
の一コマは、日常生活における飄然の風と、そこに漂う哀感、郷愁といったおかしみと
情緒性に富むが、半面、筋の抑揚、主張の展開や迫力、社会性に乏しいきらいがある。
「地味」故に認められにくく、売れないことで木山は悩んだはずである。

なお、木山の小説は、体験などの素材を大幅に加工していることから、木山の研究者 
栗谷川虹は、その創作性に着目して「私小説ではなく“私小説”である。」としている。


先に触れた木山と井伏の類似について、栗谷川虹著「木山捷平の生涯−井伏鱒二と
木山捷平」によれば、保田与重郎は「似ていることより似ていない点が面白い」と書き、
著者も「例えば、井伏はユーモアを眺めるが、木山は演じる。」と違いを書いている。

私見で・・、文体には「飄然の風」という意味で似ている面があると思うが、
木山が書いた庶民は木山自身ないし分身であるのに対し、井伏が書いた庶民は
井伏ではなく、井伏が創出した庶民像である、という根本的な違いがあろう。
換言すれば、描いた庶民の動きは木山は右脳的、井伏は左脳的といえようか。


このように見てくると、この時節、作品発表は非常に困難な状況だったとしても、創作集
刊行後の発表に先細り感が否めないのは、やはり小説の世界の狭さのように思う。
創作と筆力によって木山独特の味わいがある “私小説” 小説にはなっているが、
過去の身辺素材に頼るだけでは質的にも量的にも限界があったのではないだろうか。

昭和18年大晦日の日記は、木山自身がそのことを物語っているように思える。
1年後、敗戦色が見える昭和19年12月、木山は単身で満洲に渡り住む。何故か?
木山は真意を明かしていないが、私はこの日記の延長線上の行動のように思う。
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“下駄” は、木山文学の象徴

私見で・・
、木山の詩に「五十年」(S31作:「木山捷平詩集」(S42/3刊)所収)がある。

「濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるやうな   
どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと
言ふような
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた。」

そして、やはり戦後の作だが、みさを夫人が特に好きだったという「下駄の腰掛」(S34/9)
があり、「下駄に降る雨」(S34/2)がある。いずれも下駄が重い役割を持つ名作と思う。

さらに、「村の挿話」(S15「明暗」を改題)には下駄屋の娘が登場する。
下駄屋でなくても、雑貨屋でも小間物屋でもいいのだが下駄屋である。
他にも、下駄や下駄を履いてきた友人のことを書いた詩や随筆がある。
また、日記にも、酒席の後、他人の下駄を履いて帰ったり、
鼻緒が切れて困ったり、という下駄にまつわる記述が多い。

思うに、下駄は昭和の庶民の日常生活の象徴だろう。 木山は、濡れた下駄は自分の
一生を象徴しているような気がするというが(「下駄に降る雨」)、木山にとっては、下駄は
故郷や庶民の生活に繋がっているように思う。木山文学の象徴といってもよかろう。

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 

     ・木山と井伏

木山が井伏と親しく接するようになったのは既述のように昭和8年初め頃だろう。その後、
将棋会や酒を共にし、親交を深め、この時期になると日記には井伏の名前が頻出する。

「木山は井伏に似ている」と言われたことは先に記したが、木山にすれば
恐れ多かったのではないだろうか。みさを夫人は次のように書いている。

「太宰、亀井両氏は正月二日に紋服姿で年賀に井伏邸を訪問される様子を
私が知ったのは、「日本浪曼派」時代であった。捷平はそのころは年賀参上
は遠慮したのはやはり先生とは格が違うと尊敬していたからであった。」

木山が、井伏に対し深い敬愛の念を抱いていたことは確かである。このことは栗谷川
など他の研究者も認めており、栗谷川は、「捷平の敬意からすれば、師事といった方が
むしろ正確かもしれない。」と書いている。師事というより私淑の方が適切だろう。

一方、井伏からについて、みさを夫人は先の引用に続いて次のように書いている。

「しかし先生は心の一隅で捷平を見ておられた。小説が書けなくなった頃で
あった、高円寺氷川神社下の二階で将棋を十番位指し終って深夜阿佐ヶ谷
の酒が長く続いたのは、捷平をいたわる心であったと捷平は言った。
(「井伏鱒二/弥次郎兵衛/ななかまど-あとがき」(講談社文芸文庫:1995/8)


ただ、井伏は戦前の木山の作品については厳しい見方をしていた面もある。木山が
日記に書いているところでは、「うけとり」について、井伏は「コマ絵になりかけてなって
いない。」(S8.5.6)とか、「『氏神さま』よくないと言われる。」(S18.4.20)である。
一方で、やはり日記からだが、井伏は、木山を個人的に将棋に誘ったり、酒の席や
自宅へ招いたりすることが多かったように見受ける。
作品評は木山への期待、励ましを込めてのことだったかもしれない。

木山の将棋の腕は、会のメンバーの中では中堅と見ていい。安成、井伏、上林の
次あたりで小田と並び、太宰、亀井、中村より上、勝敗にはこだわる方だったようだ。
当初はかなりの熟考派で、井伏を怒らせたというエピソードがある(S14.2.5)。
おそらくその時のことだろう、長考していると、井伏に、「君は八段の真似をするね。
文章でもポーズで書く人があるね。」と言われた。 木山は、「それからは早ざしに
かわった。」と書いている。(「文壇交友抄」(<別冊文芸春秋>(S40/12))

     ・木山と小田嶽夫の百番勝負

木山と小田の交友は、既述のように、木山が昭和7年に小田宅を訪問したことに始まる。
貧窮に苦しむ者同士、気が合ったのだろう、将棋、酒を介して交友が深まり、往来が増えた。
木山が絶不調の時期(S11〜S12)に日記に登場する最多の名前は小田である。
昭和13年で木山34歳、小田38歳。 以降も親交は続き、戦後はよき碁敵、生涯の友となる。


小田は、第3回芥川賞受賞(S11上期:「城外」)で仲間内では一歩早く貧窮を脱するが、
阿佐ヶ谷将棋会のメンバーとの交遊は変わることなく、会への出席率は木山、上林と
ともに抜群である。木山は、その小田と昭和16年9月13日から将棋百番勝負を始めた。

この勝負について、木山は「文壇交友抄−阿佐ヶ谷将棋会」(S40/12<別冊文藝春秋>)で、
小田は「逃亡の季節」(S40/8<文芸>)で、それぞれ触れている。(以下、小田の項と重複)


当日の木山の日記には、小田が来訪、将棋は2戦して1勝という程度しか書いてないが、
この両書によれば、この日から星取表を作って白星黒星を記録したようだ。

濱野修の項に記したように、上林暁と濱野修は昭和14年12月から二百番勝負を
開始し、星取表を作成して楽しんでいた。これに倣ったのかもしれない。


しかし、その年(S16)11月には、小田が井伏などとともに徴用されたので出来なくなり、
木山によれば19戦で、小田によれば自分の12勝6敗で中断したという。
小田が帰国して昭和18年から再開したが、翌年には小田の疎開(S19/9:郷里・新潟県)
で再び中断した。最終対局は、疎開前の昭和19年6月15日で、木山によれば計78戦、
小田によれば、計74戦で紙が千切れて不明の分(14戦)を除くと、木山36勝、小田24勝
だったという。小田は、木山は自分の徴用中に腕を上げたことになると書いている。

     ・木山と上林暁の “阿佐ヶ谷将棋会”    

阿佐ヶ谷将棋会(戦前の阿佐ヶ谷会)に関する記述は数多いが、木山の日記ほど長い
期間続いた明確な記述はない。昭和13年3月3日以降、木山は出席した会の対戦相手
と勝敗を記録し、二次会の模様も書いている。 開催が判明している会で木山が欠席した
のは最後の会、高麗神社遠足(S18.12.23)だけである。この時木山は徴用令書を受け、
12月17日に出頭しており、参加は無理な状況だった。(「開催一覧」参照)

井伏をはじめ太宰、亀井など、会の開催を楽しみにしたメンバーは多いが、木山と上林
小田の三人の出席率は抜群で、三人がこの会を殊のほか大事にしていたことが窺える。
戦後、木山は「阿佐ヶ谷会雑記」など、上林は「玉川屋」など、小田は「阿佐ヶ谷将棋会」
など、多くの随筆に書いているが、いずれも戦前の将棋会の交遊に思いを馳せている。

会には、将棋を楽しむだけでなく、二次会の酒席と酒談が一体という側面があって、
一層人間的な交遊が深まったことで三人とも自然に足が会に向かったのだろうが、
特に、木山と上林については、生まれ育った環境に似通ったところがあり、
生活困窮の苦悩が長く続いたことが出席率に関係していたかもしれない。

二人は地方の比較的豊かな農家に生まれ、長男、父はインテリ、村の指導者的存在で、
両者ともに父の本心は家を継いで欲しかったのである。 戦争へと動く激動の時勢下、
父の胸中に抗って故郷を離れ、頼れる人もない東京へ出ての文士生活は苦しかった。
家族を支えるだけの文筆収入はなく、経済的にも精神的にも不安だらけの二人にとって
会を通じてのメンバーとの交遊には心安らぐものがあり、出席に熱が入ったのだろう。

木山も上林も、独特の味わいを持つ私小説作家として戦後に盛名を得たが、
そこに至るには、筆舌に尽くし難い特異な人生経験を経たという共通点もある。
戦後、純然たる飲み会として復活した “阿佐ヶ谷会” でも主要メンバーである。

ところで、日記には木山自身と家庭の日常のことのほか、将棋会に限らず戦前の
文学青年たちの“群れ”や行き来のことが記されている。昭和大恐慌から戦争の
時代という激動期を文筆1本で生きる決意をした面々の生き方が伝わってくる。

私見だが、日記に現れた事実、ナマの姿には、記録、個人の過去というだけでなく、
時代と、当時における人間の生き方を映す迫力を感じる。文学に対する見方にも
よるが、この木山の日記はそういう意味で立派な文学作品だと思うが如何だろう。

木山は、庶民の土への郷愁、親子の情感、生活の哀歓と芯の強さを描きながら、
平穏に生き切ることの難しさとその価値を作品にし、日記でも語っているように思う。

戦後70年、日本の社会、経済、生活様式は一変した。木山文学の象徴である
下駄は姿を消したが、日本人の、特に庶民の心の奥にあるものまでが一変
したとは思えない。木山捷平という作家、人間の姿にもっと触れたいと思う・・。

公開されている日記は一部分の抜粋で、残念ながら大半は未公開だろう。
すでに相当の時を経ていることでもあり、更なる公開はできないものだろうか。


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木山の苦闘は、この阿佐ヶ谷将棋会 “第期 盛会期” においても続いた。
文学的にも家庭的にも、心の休まる時はなかっただろう。 再三、芥川賞候補になり、
文士から作家へと脱皮したが受賞には至らず、何といっても収入が心許なかった。

生活面は、妻みさをに頼る部分が大きかっただろう。木山の亭主関白的な乱暴な行動も
木山の日記に見られるが、よく辛抱したものと思う。 日記には、妻への本音、いたわり、
詫びの気持が僅かに覗くが、それを感知することができた賢婦人だったと推察する。

昭和18年も後半になると、戦況悪化、敗戦色が感じられる時勢になり、組織的な将棋会
の開催は困難で、“第期 休眠期” になる。 もちろん個人的な行き来は活発に続くが、
疎開も現実味を帯びてくる。 翌昭和19年に入ると、建物疎開、強制取壊が始まり、
人員疎開になる。本土空襲、食糧不足など国民生活の混乱は顕著になる。

この状況下で、木山は単身だが満洲(新京(長春))移住を決行する(S19/12)のである。
木山は真意を明かさないままだが、文学の行き詰まりを意識し、
生活のためにも命がけで打開を図ったとしか思えないのだが・・。

終戦(S20.8.15)の3日前に、現地で応召する。シベリア送りは逃れたが、
難民生活の末、昭和21年8月、引き揚げ船で生還した。
しかし、苦闘はまだ続く。 木山の明るい復活までには
さらに10年の歳月がかかることになる。

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木山捷平 : 主要作品一覧

本一覧は 「木山捷平全集 全八巻」(S53〜S54・講談社発行)に拠る。

注1. 「作品名」欄には、詩集と随筆はその旨を付した。題名だけのものは小説である。
随筆は、「木山捷平全集 全八巻」(講談社)に収録されているものだけを記した。
注2 「巻」欄の数字は、収録されている全集の巻数。「-」は、収録なし。各巻の配列は、
作品種類別の発表順。巻末には、収録作品に見合う期間の日記が掲載されている。
なお、「木山捷平全集 第1巻」には、「木山捷平詩集」(S42刊:T10〜S41作の40篇)
と、「詩篇拾遺」(T13〜S43作の28篇)が収められている。

「詩 集」 ・ 「随 筆」 ・ 「小 説」

初出年月
作品名 初出誌(紙) 備 考
S4(25歳) 5  詩集 「野」  抒情詩社   処女詩集 :自費出版 1
S5(26歳)  不詳  随筆:小松川雑記  詩と散文 . 1
S6
 (27歳) 
3  随筆:歴史的に見た雨  小学校新聞  1
5  随筆:何でもない詩論 詩人時代  1
6  詩集 「メクラとチンバ」 天平書院   第2詩集 :自費出版 1
 S7

(28歳) 
1  随筆:秋から冬へ  民謡レヴュウ . 1
2  随筆:おしのに送る手紙  詩人時代 1
3  随筆:彼の「そして」と僕      の「そして」  愛誦 1
4  随筆:野長瀬正夫君と私 詩人時代 1
S8

(29歳)
3  出石 海豹  創刊号・木山の処女作:太宰治も「魚服記」を発表 -
5  うけとり 海豹  「抑制の日」、「昔野」に収録 1
9  子におくる手紙 海豹  「抑制の日」に収録. 1
11  赤木先生 東京周報 . -
  S9

(30歳)
3  啓太の帰郷 政界往来  S9/11に補筆し「帰村記」⇒「明暗」⇒「村の挿話」 -
4  随筆:三月となる記      . 1
5  一昔 作品  「河骨」に収録. 1
9  出石城崎 世紀  「出石」を改稿. 1
11  帰村記  文藝首都   「啓太の帰郷」(S9/3)に補筆−全集は「村の挿話」 1
S10

(31歳)
4  僕のおぢいさん 日本浪曼派  後に「おぢいさんの綴方」と改題:「昔野」に収録 1
5  掌痕 文藝 . 1
8  尋三の春 早稲田文学  「昔野」(「小さな春」と改題)所収:全集は「尋三の春」 1
S11

(32歳)
1  猫 早稲田文学  「河骨」所収 -
9  老紳士 作品   -
10  父危篤 日本浪曼派  「抑制の日」所収 1
12  後月一夕話 早稲田文学 . -
S12(33歳) .   ― .  (発表作なし) .
S13

(34歳) 
 4    抑制の日 コギト   「抑制の日」所収 1
 5    歯痛の日 作品   「抑制の日」所収 1
 6    民謡 早稲田文学    . -
 7    雛子  日本文学  . -
 12  現実図絵 早稲田文学  「昔野」所収 第8回芥川賞候補 1
S14

 (35歳)  
 5     *創作集「抑制の日」 ―   処女創作集(赤塚書房刊) 第9回芥川賞候補 .
 6    智者仁者 新日本   「昔野」所収 1
 6   母と子 少女画報   . -
 7    月光 作品クラブ  . -
 8    山羊のなく風景 ユーモアクラブ  . -
 9   定期乗車券 新風土  「昔野」所収 1
S15

(36歳) 
 2    河骨 文学者   「河骨」所収 第11回芥川賞候補  2
 4    猫柳 若草   「河骨」所収 2
 7     *創作集「昔野」   第2創作集(ぐろりあ・そさえて刊)  .
 8    明暗 新風土   「帰村記」(S9/11)を改題:全集は「村の挿話」 1
S16
 
 (37歳)    
 2    侏儒の友 公論     .  2
 3     *創作集「河骨」  ―    第3創作集(昭森社刊)  .
 6    爺婆 日本の風俗   .  -
 8     知性   第14回芥川賞候補.  -
 8    河鹿 政界往来   .  -
(11)  秋酣けて   木山作品の初めてのNHKラジオ放送  -
12  山ぐみ 月刊文章   .  2
 S17

 (38歳)
 3    初旅 知性  . -
 3    金策 若草    . -
10  春ぼけ 現代文学    . -
11  瀧川先生  衣服研究  -
不明  成吉思汗の一夜  大東亜公論  -
 S18

 (39歳)  
 1   無名作家と柿盗人  早稲田文学   . -
 3   氏神さま  文藝  2
 3   岡.見  月刊文章  -
 9   随筆:わが名作鑑賞  現代文学  . 2
S19
 (40歳)  
1  ねんねこ     . 2
4  随筆:わが文学の故郷  早稲田文学    2
8  和気清麻呂  (淡海堂出版)   書下ろし長編(日本少年歴史文学選)  -
不詳  春雨  不詳   郷里の小雑誌に掲載 (S23/3に「早稲田文学」)   2
S20(41歳) .   ―   .  (満洲で応召・敗戦・難民生活) .
S21(42歳) 12  帰国  瀬戸内海   引き揚げ後の第1作 2
以下、作成準備中 

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「木山捷平」の項      主な参考図書

『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50/8 講談社)
『木山捷平全集 第八巻(年譜)』 (S54/6 講談社)
『木山捷平全集 全八巻』 (木山捷平著 S53/10〜54/6 講談社)

『木山捷平の生涯』 (栗谷川虹著 1995/3 筑摩書房)
『木山捷平研究』 (定金恒次著 1996/3 西日本法規出版)
『井伏鱒二と木山捷平』 (ふくやま文学館 編集・発行 2008/9)

『井伏鱒二全集 第7巻 -日記抄』 (井伏鱒二著 1997 筑摩書房)
『将棋随筆 (中村地平全集 第3巻)』 (中村地平著 S46/7 皆美社)

『玉川上水』 (木山捷平著 1991/6 津軽書房)には、<海豹>のこと、太宰のことや
井伏などとの往時の交遊に関する随筆などが収めてある。(本項関係を次に記す)
「海豹のころ」 (初出 <筑摩書房版「太宰治全集-月報1」 S30/10>)
「太宰治」 (初出  <新潮 S39/7> ) 他、太宰関連の随筆など多数所収
「わが文壇交遊録-3-阿佐ヶ谷将棋会」 (初出 <別冊文芸春秋 S40/12>)

『井伏鱒二/弥次郎兵衛/ななかまど-あとがき(木山みさを記)』(講談社:1995/8)
『鳴るは風鈴-木山捷平ユーモア小説選-あとがき(木山みさを記)』(講談社:2001/8)

『感恩集 木山捷平追悼録』 (木山みさを編 S45/9 永田書房)
『木山捷平 父の手紙』 (木山みさを編 S60/3 三茶書房)
『台所から見た文壇 -捷平と短歌- ほか』 (木山みさを著 S57/8 三茶書房)
『生きてしあれば -苦い旅- ほか』 (木山みさを著 1994/9 筑摩書房)

『回想の文士たち 』 (小田嶽夫著 1978 冬樹社)所収から
「木山捷平の想い出」(S46/7)
「逃亡の季節 −戦中交遊譚」(初出 <文芸 S40/8>)

『昭和文壇側面史』   (浅見 淵著  1996/3  講談社)
『杉並文学館―井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士』(H12:杉並区立郷土博物館発行)


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