木山捷平の人生と作品

(本名同じ) きやま しょうへい : 明治37(1904).3.26 〜 昭和43(1968).8.23 (享年64歳)

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木山捷平:作品一覧

将棋会 第 出発期 (S3〜S8)】の頃  (“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像

= 無断転進 : 子の道・父の怒り =

木山捷平の生涯については第一部で簡潔に触れたが、本項では、結婚して阿佐ヶ谷に
転居し、詩作から小説の世界に転進して界隈の文学青年たちと交わるまでを辿る。
木山の小説は基本的には私小説で、やはり生まれ育った環境、実生活に深く根ざしている。

第一部に記したように、栗谷川虹に「木山捷平の生涯」という著書がある。また、定金恒次に
「木山捷平研究」などの著書がある。いづれも木山の人と作品を読み解くうえでの力作・好著
と思う。 以下は主にこれらの著書を参考にした。 特に、父親との関係は重要で、
太宰治などと同様にその出自が木山文学と人生そのものまでを決定付けたといえる。
なお、年譜は、「木山捷平全集 第八巻(巻末:木山みさを編)」(講談社)に拠った。

このころ・・ 時勢 : 文壇 昭和史 略年表

    *旧家の長男 ---

木山は、明治37年(1904)3月26日、岡山県小田郡新山村(現 笠岡市山口)に生まれた。
木山家の長男で、捷平は本名である。当時、父は村の収入役をしていたが、捷平が生まれると
退職して果樹栽培に携わった。今も生家には「木山園」の立派な扁額が残っているという。

木山が作品に描くこの郷里は狭い山間にある寒村で、自身は貧農出の何のとりえもない劣等者
の如くであるが、実際はむしろその逆で、そこには瀬戸内独特の明るい風景が広がっており、
生家はそのころ、小地主程度で裕福とはいえないまでも村では有力な旧家の一つだった。

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木山捷平の生家、笠岡市に寄贈 遺族が申し入れ、市は活用検討

笠岡市山口出身の詩人・小説家木山捷平(1904〜68年)の生家が遺族から市に寄贈される
ことになった。今年は捷平没後50周年の節目。市教委は生家の修復・保存を図り、捷平を
顕彰する拠点としての活用を検討する。 生家は明治期に新山村役場の収入役を務めた
父・静太が建てたとされ、木造2階延べ125平方メートル。1階は和室など6部屋、
2階には屋根裏部屋がある。−以下略ー (「山陽新聞digital」(2018.10.09更新)より)

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    *成績優秀 ---

木山の小学校の成績は優秀で、岡山県立矢掛中学に入学した。高等科を1年経ての入学だが
当時のこの地方ではこれが普通だったようで、それよりも中学へ進学したこと自体が成績の
優秀さと家の豊かさを意味していると考えてよい。同級生によれば、中学でも成績は何時も
上位にあり、特に国語漢文、英語を得意とし、作文は先生が舌を巻くことが多かったという。

木山は終生これらの事実に触れることを避けたが、詩人で古く(S4)からの親友、野長瀬正夫は
「木山捷平と私」の中で、「自分の詩人的立場を擁護し正当化するために、-(中略)- あたかも
貧農の倅であるかのように見せかけておきたかったのではあるまいか--」と訝っているという。

木山の詩、随筆、小説などの多くの作品に、卑下・劣等視した自分や父が描かれる。実像と異なる部分が殊更に
誇張されてフィクション化され、そこに独特の飄逸さ・滑稽さ・ペーソス・土の匂い・庶民精神といった木山文学
の特徴が醸しだされるのである。「虚実一如」とか「仙味」といった晩年の評の原点がここにありそうである。
(定金は「木山捷平文学における自虐性」(前著の第8章)でこの点について、「木山文学には人間的な魅力と
温かさが横溢している。人間の真実の姿を追求しようとする作者の真摯な創作活動の所産である。」としている。)

    *文学に目覚める ---

木山の中学入学は大正6年(13歳)である。片道8キロの道を徒歩通学したが、3年生の秋に父は
当時では高価な貴重品である自転車を購入、捷平は通学や友人宅訪問などに大いに利用した。
家では離れに自室を持ち、比較的自由で安定した中学時代を過ごすうち文学に目覚めていく。

中学4年(16歳)の時には、文学雑誌に樹山宵平の筆名で詩、短歌、俳句などを投稿して入選
している。 5年生(17歳)では同級生とガリ版刷りの同人誌<余光>を編集、第5輯まで出した。
そして卒業に際しては父に「東京(早稲田大学)の文科」への進学を希望したが適わず、
大正11年(18歳)、父の説得にあって嫌々ながら姫路師範学校第二部(修学期間1年)に
入学したが、これが父との確執を深める端緒となった。

    父(静太)との確執 ---

父 静太は、昭和9年に没する(享年54歳:捷平30歳)が、木山は父をモデルに多くの短篇を
書いている。長男として教員になってでも郷里で家を継ぐことを切望する父と、文学への道を諦め
られない子との確執がその底流にあるが、作品の上での父親像と実像とは必ずしも一致しない。

「父 木山静太」 明治12年生まれで、7歳の時に跡継ぎのため叔母夫婦の養子となり木山姓となった。
聡明ではあったがひ弱な体質で農作業は無理というような子供であった。独学で漢学を身につけ、
文学の道へ進むことを願ったが養父(吉三郎:捷平の祖父)は許さなかった。 静太は20歳の頃、両親には
無断で上京し、岩渓裳川(いわたにしょうせん)の門に入ったが、数ヶ月で挫折し帰郷を余儀なくされた。

(岩渓裳川は永井荷風の漢詩の師として知られ、荷風と静太は同年齢で、この時知り合ったようである。)

静太の挫折はひ弱な体質によるものだったようで、帰郷時はひどい皮膚病で痩せ細っていたという。
新山村役場の書記となり(M33)、2年後(22歳)収入役に就任、結婚(M36)、捷平誕生(M37)となる。

この地の振興には果樹栽培が最適との信念から、28歳(M39・捷平2歳)のとき役場を退職して、桃・柿・梨など
の種苗作りに着手した。精魂込めた努力の結果、特に水密桃は好評を博し全国各地にその名を知られた。
前記した立派な「木山園」の扁額は、その手腕と功績を称えて果樹篤農家たちから贈られたという。
採算度外視で、売れるほど損失が膨らんだというが、現在岡山名産となっている水蜜桃作りの元祖である。

また、村の名誉助役に任ぜられたり、推されて村議会議員を長年務めたりして村人からは厚い信望を得ていた。

木山によって描かれた父親像は作品によって大きく異なるが、定金は「木山捷平文学における父親像」
(前著の第4章)でこの点を詳しく論考し、「これは父静太に対する木山の感情が大きく揺れ動き、屈折を
くり返しているため」という。つまり、各作品はフィクションで静太の一面ではあっても実像ではないのである。

東京で文学を志すことに父が反対したのは、自分の経験に照らしてのほか、当時の木山家の
経済的事情があり、これで捷平は納得せざるを得なかったのだろうと栗谷川は推察している。
「第一次大戦後のインフレと不況は、農村では小作争議を激増させ、地主層の衰退を招いたが、
小地主木山家も例外ではなかった。 -(中略)-  大勢の子供たちの教育のためにも、まず
長男を早く自活させる必要があった。」という。果樹栽培への投資も大きな要因であっただろう。

師範学校に入ったものの文学志向は変わらず、父を悩ませる反抗と中途半端な生活のうちに
1年が過ぎ、最低線の成績ではあったようだが卒業して、大正12年4月(19歳)、兵庫県出石町
の弘道尋常高等小学校(定金によれば前身は出石藩の「弘道館」で由緒ある学校)訓導に
任ぜられた。当時の制度で、木山は授業料は免除されたが、卒業後2年間は教職に就く
義務があり、指定された学校で正規の教員を務めたのである。

第一部に既述したように、木山の小説家としての文壇デビューは<海豹>(S8/3)に発表した「出石」
だが、このほかにも出石を舞台にした何篇かの作品がある。それらによれば強要された辛い
教員生活だったという感はなく、むしろ青春時代の一コマとして心地よく懐かしんでいる風もある。
大正14年3月までの2年間は、文学には遠かったがそれなりの充実があったのかも ・・ しかし・・

    *“転進”  ---

大正14年4月(21歳)、木山は父に無断で教員を辞めて上京し、東洋大学へ入学した。

弟の木山鳳は「兄の想い出」(S45)に、「その事実を知らせる兄の手紙を読んだ父はかんかんに怒ったことを
今も思い出す」と書いている。父の心中如何ばかりであったか察するに余りあるが、父の返信は冷静であった。
後に木山が<海豹>(S8/9)に発表した「子におくる手紙」と題する作品は、この返信に始る約半年間の
父からの手紙で成っており、辛口で有名な朝日新聞の雑誌評(S8/9)が、<海豹>とこの作品を高く評価した。


木山が上京したのは、井伏は「木山捷平の詩と日記」(S56)に「当時若い天才詩人との評判が高かった宵島俊吉
(本名 勝承夫)に憧れてのことである。」旨を書いている。勝承夫は、東洋大学学生の時、姫路師範学生の木山
に会って縁が続いたと同大交友会報(S43/11)で木山を追悼しているので、勝承夫の存在が影響しことは
確かだろうが、木山自身にはこのことに触れた記述はなくどの程度の関わりがあったかははっきりしない。


この転進について、木山は「愚父と愚子」(S42/4)で “子供のような衝動” によるものとしている。
上京後の生活に特別の計画や目処があったわけでなく、たちまち行き詰まってしまう。
加えて肺の病気に罹り、つまりは正に父静太の轍を踏むことになるのである。

東京府北豊島郡の雑司ヶ谷(現豊島区)に下宿し、近くの墓地(片隅に市ヶ谷監獄合葬地が
あった)を毎日のように散歩しながら思いをめぐらし詩を作っていた。同郷の出身で東洋大学の
先輩でもある赤松月船の詩誌<朝>(同年(T14)<氾濫>と改題)の同人となり、大鹿卓、草野心平、
黄瀛(こうえい:中国籍)ら同人との親交が始った。月船の口添えで、木山の詩が<万朝報>
に載り、たばこ銭程度というが初めて原稿料を得たのがこの時(T14/6:21歳)であった。

     挫折 : 父の轍 

しかしこの時以降、昭和4年に再上京するまでの木山の動静について、木山自身は多くを語らず、
父の手紙や日記など数少ない資料から推測するしかないが、帰郷はまさに父の轍を踏んでいる。


東京での生活は経済面と肺の病気(肺尖カタル?)で行き詰まり、大學を中退して9月頃に一旦
帰郷したが、直ぐ上京・帰郷をくり返し、ようやく翌年(T15)4月から郷里の父の許に落ち着いた。
栗谷川は「当時、東京に仕事(臨時教員か?)があって、東京に強く執着したからだろう」という。

昭和2年4月、木山は、父の了解の下に飾磨郡荒川村の荒川尋常高等小学校(現在の
姫路市立荒川小学校)に訓導として勤務、さらに、翌昭和3年4月には、飾磨郡菅野村の
菅生(すごう)尋常高等小学校(現在の姫路市立菅生小学校)に訓導として勤務した。
荒川小学校時代には個人詩誌<野人>を発行し、翌年(S3)には<全詩人連合>に参加して
創刊号に詩を寄稿している。このころの木山の体調や生活状況、文学活動についての
詳細は不明だが、文学への志を持ち続けていたことは確かである。

そして、菅生小学校に残る木山の履歴を記した公的書類の最後の欄には、
「昭和4年3月31日 東京府へ出向を命ず」とある。 木山は再び上京したのである。 

平成20年9月、ふくやま文学館(広島県)は、特別展「井伏鱒二と木山捷平」を開催した。
それに合わせて同名の小冊子を編集・発行したが、そこに、「木山捷平の姫路時代を
探索する −荒川尋常高等小学校と菅生尋常高等小学校のこと-」(前田貞昭著)が
発表されている。 昭和2年4月から同4年3月までの姫路での木山の勤務先(学校)や
居所を、現地で丹念に調査して明らかにしている。

そこに、昭和4年2月撮影の「菅生尋常高等小学校」の木山ら10名の写真(当時の
校長・教員一同と察せられる)と、木山の履歴を記した公的書類「勲功位等級」の写し
が載っている(両者とも、写真提供は姫路市立菅生小学校)。興味深い資料である。

しかし、すでに80年前のこと、木山の生活や活動状況が判然としないのはやむを得ない。
また、「東京府へ出向を命ず」の背後には、どんな事情があったのか、一寸謎めいている。

                    (姫路関連の箇所は、H20/12改訂UP)

     再度の上京 : 詩集出版-結婚-勘当状態

昭和4年4月の再上京について、木山(25歳)は父にどのように話したのだろうか。 事前か、
それとも事後だったのか・・。事実は不詳だが、いずれにしろ、上京は父の心に副わなかった
に違いない。 これを機に、帰郷によって安らいだ父子の関係は再び危うくなったのである。

父静太から捷平あての手紙は、昭和5年正月が最後で、以降は途絶えたままとなった。
日記も、同年4月13日付で 「この子にはあいそがつきた」、同8月11日付で 「捷平帰省」、
同19日付で 「捷平出て行った」とある以降、捷平に関する記事はない。


上京した木山は、東京府南葛飾郡の小岩や小松川(現江戸川区)に下宿し、小松川第二
小学校に教員として勤務するかたわら、直ちに(S4/5)処女詩集「野」を自費出版した。
前回の上京とは異なり、姫路において相応の準備が為されていたことが窺える。

元来、若い小学校教員の県外、それも遠隔の地への転勤は極めて異例だろうし、今回
の木山の場合には「東京府へ出向を命ず」の欄にだけは発令者の記入もなく、正規の
転勤だったとは考え難い。詩集出版の時期からみても、木山の希望を汲んだ校長らの
個人的な好意によって実現した円満退職-上京-再就職だったと解すべきだろう。


この教員生活は昭和6年頃までだった。この間、昭和5年春に下宿を東京府豊多摩郡
大久保百人町(現新宿区)に移し、翌6年6月には第二詩集「メクラとチンバ」を自費出版、
11月に現在の萩市(山口県)近くに住む宮崎みさをと結婚した(木山27歳・みさを23歳)。

このころのことについて、本人はやはり多くを語っていないが、後に極めて親しい友人となった
野長瀬正夫と小田嶽夫が残した一文から、木山は小松川の教員時代に組合活動を行ったこと、
多分そのため小笠原への転勤が命じられたこと、赴任せず退職したことなどが読み取れる。

結婚は、父が心にかけた多くの縁談を拒んだあげくで、しかも、思案の末とはいえ父母には一通
の手紙で知らせたに過ぎない。父が驚き、歎き、怒ったことは想像に難くない。木山が記した
「勘当状態のまま幽明境を異にする」(「愚父と愚子」(S42/2))のは、この3年後(S9/6)である。

妻 みさを  明治41/7、山口県大津郡(日本海側)で出生。 平成14/12/8 没(享年94歳)
幼時に父が早世したため弟と二人、母の手一つで育てられた。生活は苦しかったが
山口県立女子師範学校を卒業(S2)して、郷里の小学校で教員をしていた。

結婚は、みさをの短歌が雑誌に載り、それを目にした木山が誉めて励ましの手紙を送ったことが始まりだった。
木山は昭和6年8月に萩を訪問して初対面となったが、9月にはみさをの母に結婚申込みの手紙を送り、
承知の返事があって、11月23日にみさをが上京、新婚生活が始った。(「捷平と短歌」(木山みさを:S54))

この木山と母の手紙の全文が「木山捷平の生涯」(栗谷川虹著)に載っている。ともに味わい深い文面であるが、
特に、読み書きはほとんど平仮名しかできなかったという母からの返事は、明治の女性の価値観、気骨、
そして母としての心情があふれる名文であると思う。日本女性史研究の上でも貴重な資料ではないだろうか。

みさをは結婚後も短歌を続けられるという夢を抱いていたようだが、木山存命中は一切筆をとらなかった。
木山の日記を見ると、貧乏だけでなく木山は家庭では我儘な暴君的振舞いが多かったようだが、
みさをはこれに耐え従い、木山の文学を理解し、木山の人生そのものを支えていた感がある。

木山の没(S43)後、みさをは短歌、随筆などの文筆活動を始め、木山文学の紹介にも積極的に尽力した。
また、応募した短歌が入選して昭和45年正月の宮中歌会始に出席する栄に浴している。

ちなみに、長男(萬里・ばんり:S11生)は、慶応大学を卒業(S35)して東京ガス(株)に入社、常務取締役、
関連会社会長を歴任(H14退任)。現在は、講演会などで、父(木山捷平)とその文学について語っている。

平成22年10月17日、「阿佐ヶ谷文学講座 木山捷平と阿佐ヶ谷会(講師:萩原茂)」(於・杉並区立
阿佐ヶ谷図書館)に出席され、短時間だったが亡父母や井伏との思い出などを話された。

    *第二の“転進”  ---

新婚生活は、大久保百人町の四畳半の下宿で始った。木山は上京するみさをに「蒲団二組を
先に送ってくれ」と頼んだ。蒲団がなかったのである。貧乏振りは並ではなかったようだが、
翌年(S7)3月に阿佐ヶ谷へ転居し、5月には近くの馬橋に転居した。3部屋の一戸建て、
家賃は15円で当時の相場だが、実家からの援助は無理な状況で生活の苦労は続いた。
栗谷川は「家計は木山とみさをの家庭教師のようなアルバイトで支えた。」と推察している。

木山がこの年(S7)1月1日から書いた日記が公表されている。抜粋(尾崎一雄がみさをに確認)だが、
当時の政情、世相や文壇の動向に触れられた部分もあり、貴重な資料として多くの文献に
引用されている。(「酔いざめ日記」・「木山捷平全集:全八巻の各巻末に分割掲載」(ともに講談社))

     詩から小説へ : 小田、井伏を知る

自費出版した二つの詩集は好評だった。新進の詩人として認められたといってよい。
昭和6年頃には野長瀬正夫、草野心平、倉橋弥一らの詩人との親交が深まっている。
転居先を阿佐ヶ谷にしたのは、親しい詩人仲間が近くにいたからではないだろうか。

しかし、阿佐ヶ谷へ転居した頃には詩作は急に減っている。このころは失業のため
就職活動に苦労していたが、それだけではなく木山は小説を目指したのである。

昭和7年8月、木山は新婚旅行ということでみさをの実家(山口県)を訪ね、帰途、みさをだけを
先に東京に帰し、自分は一人で出石町に立寄っている。9年前(19歳)に教員をした小学校を
訪ねるなど当時の知人としばし旧交を温めたが、この年の11月には小説「出石」を
書き上げているので、この訪問の前からすでに小説を書く気持があったと考えていいだろう。
(みさをは 「一人で東京へ帰る汽車の中で、味の悪い旅をかみしめた。」(「苦い旅」:S62) と述懐している。)

師とした同郷の赤松月船やこのころ知り合ったであろう蔵原伸二郎に小説を見て貰っている。
倉橋に連れられて初めて小田嶽夫を訪問したのもこの年(S7)である。阿佐ヶ谷界隈に住む
小説家志望の文学青年たちとの交友を求め、井伏との初対面もこの年の末頃だったろう。
翌8年には井伏から年賀状がきており、2月には初めて井伏宅に上がってご馳走になった。

     文壇デビュー <海豹> : 阿佐ヶ谷将棋会

木山は後(S40)に「わが文壇交遊録 -阿佐ヶ谷将棋会-」に、将棋は「昭和6年であったか、
7年であったか、それとも8年に入っていたか ・・・」に井伏に手ほどきを受けたと
書いているが、6年ということは考えにくく、親しく接するようになった8年に入ってからだろう。

別記のように、この年(S8)木山は同人誌<海豹>に参加し、3月創刊号に「出石」を発表した。
続いて5月に「うけとり」、9月に「子におくる手紙」を発表、いずれも好評だった。この<海豹>
木山と太宰が文壇デビューしたのである。古谷、太宰、新庄嘉章らの同人を知り、さらにその
同人を通じて木山の交友関係は急速に広がった。(第一部「病気入院:文芸復興の機運」

井伏に将棋を習い、将棋に酒に、阿佐ヶ谷界隈での付き合いは広がり深まっていった。
“阿佐ヶ谷将棋会”は第2期・成長期にさしかかるが、発足期を知る古参メンバーの一人として
井伏、青柳、田畑、小田、太宰、中村、外村、などと名を連ねるのである。

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木山捷平:作品一覧


【将棋会 第 成長期 (S8〜S13)】の頃  (この時期の“阿佐ヶ谷将棋会”

= 父の死・苦闘に次ぐ苦闘 =

木山捷平
(明37(1904).3.26〜昭43(1968).8.23  享年64歳)

昭和8年(1933)、木山 29歳。 “将棋会 第2成長期” は木山の30代前半にあたる。
木山は、第1期(出発期)に記したように、25歳(S4)の時、父に無断で再上京して詩人を
目指し、さらには父の意を無視して結婚(27歳:S6)、父は怒り、いわば勘当のような状態
になった。そんな中で、昭和7年3月、木山は阿佐ヶ谷へ転居し、小説を書き始める。

詩人から作家を志すに至った木山の心に何があったのかは定かでないが、
ここから、木山は長い、長い、苦闘に次ぐ苦闘の道を歩むことになる。

本項では、<海豹>での作家デビュー(S8)から、同人活動、父の死、苦悩の日々、
そして木山が日記に書いた初めての将棋会までを、その日記を中心にして辿る。
別記の井伏、太宰らの項との重複があることはご容赦願いたい。

なお、木山の生涯については第一部でも簡潔に触れているので参照して下さい。

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木山の日記について (第一部「病気入院」の項から再録) 

「酔いざめ日記」(S50:講談社)に木山の昭和7年以降の日記が収められている。
(「木山捷平全集 全八巻」の巻末には、各巻収録作品に見合う時期分を分載)

実際の日記からの抜粋(尾崎一雄がみさを夫人に確認)ではあるが、
当時の文士たちの交友関係や動静、時勢の動きに触れている部分が多いので、
昭和文学研究の貴重な資料として多くの著書に引用等されている。

しかしこの日記は、むしろ木山捷平の人生そのものであり、木山の作品の
背景や木山自身の真の姿が窺えるという意味で極めて興味深く、貴重である。

「木山捷平の生涯」(H7:栗谷川虹著:筑摩書房)という著書がある。
題名通り、その生涯を木山日記や作品を中心に関係文献や郷里笠岡市の取材等で
描いた力作で、木山を知らなくても、その作品を読んだことがなくても面白く読める。

昭和に生きた一人の人間の生き方、宿命、運命、周囲の人々や時代の姿が
伝わってくる。もちろん、その後は木山の多くの作品を読みたくなるのだが・・・。

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このころ・・ 時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *作家人生スタート

昭和7年に始まる木山の「酔いざめ日記」を読むと、同年中に木山と深い交友があった
人物は、赤松月船、草野心平、倉橋弥一、野長瀬正夫、蔵原伸二郎神戸雄一である。
いずれも詩人としての縁である。 この年に書き始めた小説「出石城崎」の原稿は
赤松と蔵原に見せて評を仰いでいる。3月から阿佐ヶ谷へ転居しているので、
小田や井伏にも会っているはずだが、まだこの年の日記にはその名は見えない。

     ・無職無収入?

阿佐ヶ谷(馬橋)で迎えた昭和8年1月1日の日記に次の記述がある。

「いよいよ30となったが立てもせず。失業中。文学がやり通せるか。
又ツトメを心がけようかと考える。一日中炬燵でねてくらした。」

そして、実際に1月7日の日記には、新聞社2社の求人広告を見て応募の
ため出かけたとあるが入社した様子はなく、無職状態は変わらなかった。
次いで、10日には「みさを今日口頭試問を受けた」とある。就職試験だろう。
だがこちらも、就職した様子は見えない。つまり夫婦とも定職はなさそうだ。

無職では生活困窮は当然のことで、みさをが口頭試問を受けた1月10日の
次の記述が現実の懐具合を如実に物語っている。

「蔵原氏来たり、(質草の靴持てれど今日休日なりと気付きたりとぞ)煙草なきか
という。なし。新聞、紙、びんをうりて35銭得。すなわち煙草かいてのむ。」

詩集が好評だったとはいえ収入になったとは考え難い。日記に「みさを家庭教師」
とある(S7.2.10)ように、アルバイト的な収入に頼ったのか?・・不祥である。
というより謎である。二人の実家からの仕送りは考え難いところだが、勘当の状態
とはいえ、ひょっとしたら木山の実家は多少は援助をしていたのではないだろうか。
もちろん木山にもみさをにも、どこにも、それらしい記述は残っていないが・・。

そして日記には、この後も貧乏による悲哀を綴った箇所が随所に見られる。

     ・井伏、小田との出会いと親交 

木山と井伏との初対面が何時だったのかははっきりしない。
木山は後に、「将棋は昭和6年だったか、7年だったか、それとも8年か・・、に井伏に
手ほどきを受けた」ように書いているが((S40:「阿佐ヶ谷将棋会」)、6年は考え難い。
みさをが口頭試問を受けた1月10日(S8)の日記に「井伏氏賀状来る」とある。
おそらく木山の賀状への答礼だが、ここに初めて「井伏」の名前が登場する。

次いで1月30日には道で井伏に出会い、奢られたことが書かれ、翌2月9日に初めて
井伏宅を訪ねて井伏の部屋に上がったことが書かれている。この動きから見て、
二人の初対面は昭和7年末頃で、親しく接したのは8年に入ってからのことだろう。

小田は、昭和7年に木山が倉橋に連れられて小田宅を訪れて初めて会ったという。
小田も貧乏の極に居て<雄鶏(麒麟)>の同人活動をしていたが、
作家を目指した木山はこの同人仲間に近づきたかったのではないかと推測している。
小田はすでに井伏と親交があり、蔵原も井伏とは親しい。木山が井伏を知ったのは
自然な成り行きだったろうし、<海豹>参加で井伏との距離はさらに縮んだだろう。

     ・作家活動は<海豹>の末席から・・      

       日記にはナマの姿・・

既に再三触れてきたように、昭和8年当時はプロレタリア文学崩壊に代わって
文芸復興の機運が高まり、芸術派といわれる文学青年たちは活発な同人活動を
行っていた。木山の日記からもその一端を知ることができるが、<海豹>創刊(3月号)
に関する記述を抜粋して木山らのナマの動き、心情に触れてみたい。

S8. 1. 27 ・・・神戸君「海豹」という雑誌をやるという。小生は同人費がなかろうから
入会を遠慮していたという。・・・  (・・・部分は省略を示す。以下同じ)

同. 2. 4  朝赤松月船訪問。『出石』書き改めたものを見てもらう。これにて短編に
なりし由。 ・・・ 夜、海豹同人会。古谷綱武宅。会費5円。集まるもの―-
大鹿卓、今官一、岩波幸之進、塩月赳、新庄嘉章、
吉村○○○、神戸雄一、藤原定、小池○○、太宰治、小生。

同. 2. 15  ・・・道を歩きつつ中谷に「僕『海豹』の末席」だと言ったら「そんなこと
言うのはずるい」といった。「名前は『海豹』ときまったのか」ときかれ「そうらしい」
といったら、「同人がそんなこと言うのはおかしい」と言った。さむさ大分ひどし。

同. 2. 21 ・・・神戸雄一君が、『出石』の校正刷りを持ってやってくる。古谷君の所へ
同道して、そこで校正をなす。奥さんと四人で上高田の方を散歩したりして、
夕飯をよばれる。大鹿君も来て、古谷を高円寺まで連れて神戸君のところかえる。
神戸君は又校正のことで守部と二人で太宰のところへ行ったので、小生たちは
雑談して帰る。 (註:続いてこの後に小林多喜二の連行と死に関する新聞記事
を抜書きしているが、他の部分からも木山が時勢に敏感だった様子が窺える。)

同. 2. 27  ・・・神戸君の夫人が来て「海豹」創刊号が昨夜出来たことを知らせる。
同氏宅へとりに行き塩月君にも届ける。雑誌は印刷と表紙が上出来でない。
塩月君しきりに不平なり。塩月君と二人で古谷君宅を訪問。神戸、金子あり。
雑誌の出来ばえについて話す。塩月君しきりに不平なので、
又小生もあきたらなさがあるのでそれを古谷に忠言す。・・・

同. 3. 2 ・・・今野君が来た。「海豹」にのった『出石』をほめてくれる。連れ立って塩月君
訪問。同君『出石』を巻中第一とほめてくれるうれしい。・・・朝の郵便で太宰から
六銭の手紙着いた。『出石』の批評がのっていてずいぶん手きびしくやっつけてある。
---彼は小生をまだ子供のように思っているらしい。しかし批評の態度はうれしい。

この後、3月4日夜の同人会は出席者が少なくて進展せず、やり直しになったこと、
7日に大塚の病院に入院中の井伏の見舞い(「荻窪風土記-病気入院」に既述)と続く。

       神戸雄一に誘われる・・(昭和8年1月)

木山は、昭和7年秋頃には作家として世に出るための同人活動を意図して数点の作品を
手がけていたが、<海豹>創刊(3月)号にはそのうちの「出石」を仕上げて提出したのである。
神戸雄一は「荻窪風土記-天沼の弁天通り」に記した通り、木山より2歳年上、宮崎県の
実家は素封家で中学時代に上京し、処女詩集を刊行(T12)している。二人は時期は
多少ずれるが東洋大学に在籍(中退)しており、その縁で知り合った可能性もあるが、神戸は
木山よりも前から阿佐ヶ谷界隈に住み、多くの広範な仲間たちと熱心な文学活動をしていた。

<海豹>創刊の中心者は古谷綱武で神戸はサブの立場だったように見受ける。
神戸は木山が小説を書いていることを知っていたので、創刊の話が煮詰まった
段階で木山に声をかけてみた・・、同人費のこともあるが、作品(小説)のことも
心配でこのタイミングになったのだろう。木山は渡りに舟と応じて、一週間で
「出石」を仕上げて創刊のための同人会(古谷宅:S8.2.4夜)に臨んだのである。

木山は戦後、このころのことを「海豹のころ」(S30)、「太宰治」(S39)などいくつかの
随筆などに適当な脚色とユーモアを交えて書いている。神戸、大鹿以外の面々とは
初対面だったが、会の後は古谷馴染みのおでん屋で飲んで気楽になったこと、
太宰らとはさらにもう一軒寄ったことなど、急速に打ち解けた様子が読み取れる。

日記と合わせて読むと、当初は「自分は同人として添え物だった・・」という卑下意識
が強かったが、仲間に「出石」が認められたことを素直に喜び、それが自信となって
古谷、太宰、塩月らの同人や尾崎一雄、檀一雄ら「古谷サロン」出入りの面々、
そして井伏、小田ら阿佐ヶ谷界隈の文学青年との交遊が一層進んだことが窺える。

       <海豹>の三作は好評・・

次いで3号(5月)に「うけとり」を発表、これも好評だった。木山は<海豹>に強い愛着を
持ったようだ。太宰は8月に脱退するが木山は<海豹>を売るため書店回りをしたり、
同人の間での不協和音に対して<海豹>存続のために努力した様子が日記から
読み取れる。7号(9月)に載せた三作目の「子に送る手紙」は辛口の批評で知られる
杉山平助(筆名 氷川烈)の朝日新聞評で誉められ、古谷も<新人>誌上で賞賛した。

創刊時は影の薄い存在だった木山が次第に重きをなしたが、<海豹>は昭和8年秋に
解散した。木山は後に9号(11月)まで続いたと書き、日記では11月7日、12月10日に
同人会がありそれで解散になったとある。8号(S8/10)、9号(S8/11)には木山は執筆
していない。(「太宰治全集 別巻」(1992:筑摩書房)に、1号〜9号の細目掲載あり)
解散理由は日記からも不祥だが同人費の未納や同人の気持の齟齬だったようだ。

       <海豹>後・・(昭和8年秋〜昭和9年)

作家として順調な出足とはいえ、それで直ちに原稿の注文がきたというわけではない。
日記にある木山自身やみさをの体調不良はこの経済的苦境も大きな原因だったろう。
木山だけでなく、木山周辺の文学青年の多くは30歳前後に達していて、それぞれが
生活上の問題を抱えており、何としても早く世に出たい、一本立ちしたいと懸命だった。

昭和8年は井伏(35歳)でさえも文壇で認められたとはいえまだ経済的に苦しい状況で、まして
木山(29歳)、浅見(34歳)、小田(33歳)、田畑(30歳)、太宰(24歳)などは苦闘の最中にあった。
同人の解散、合併など活発な動きはこの反映でもあるが、この段階では木山は<海豹>に拘り、
例えば<海豹>合併による新同人への推薦を拒むなど、何故かこの動きには加わっていない。

それに、木山は何故<麒麟>に加わらなかったのか。親しくしていた蔵原は創刊の同人であり、
小説も見てもらっている(S7.11.30日記)。あまりに親しく、お互いに遠慮があったのだろうか?
<世紀>へ続く流れの中で、寄稿はしているが同人として木山の名前がないのは単なる
成り行きなのか、それとも木山の世渡りの不器用さ故なのか、一寸解り難いところである。

       <文藝>懸賞小説応募・・

<海豹>解散前後の木山の文学活動には、やはり収入を得るための努力が見える。
エピソード的だが、木山はこの時創刊(S8/11)の雑誌<文藝>(改造社)の懸賞小説
に応募した。「出石」に手を加え「出石城崎」として提出したが、結果は「選外第一席」
だった。木山は12月19日の日記に「・・天下に汚名をさらした・・」と書いている。
この時の<文藝>の編集主任は上林暁だったのである。
もちろんこの時の二人は見ず知らずの間柄だが、後には長く親しい友人になる。
上林は木山追悼文「思い出」に当時を「今でも覚えている・・」と振り返っている。

また、木山は「東京週報」「政界往来」といった小さな商業誌に小品を書いている。
いくらかの原稿料を手にしたはずだが、まだ雀の涙ほどのものだっただろう。
昭和9年春にかけて他に<作品>などの同人誌に小品や詩、随筆を寄稿している。

将来のことを木山がどのように考えていたのか不祥だが、昭和9年1月7日の日記には
宇野浩二を訪問、佐藤春夫を初めて訪ねたとあり、期待するものがあったのだろう。
同年4月に古谷、太宰は檀一雄とともに<鷭>を創刊したことは別記の通りで、木山は
随筆「三月となるの記」を寄稿したが同人ではない。人生は手探り状態だったと推察
するが、5月22日夜「チチワルイ カへレ・・」の電報を受け取って新たな展開となる。

       -父の死(昭和9年6月)-

翌日(S9.5.23)の汽車で岡山へ向かった。4年ぶりの帰郷である。日記には「昭和6年
8月末以来」とあるが、これはみさをの実家(山口県)へ行った時で岡山には立ち寄って
いないはずである。木山の勘違いで正確には昭和5年夏の帰郷以来ということだろう。

父の病状は進んでいた。正常な意識とうわ言が入り混じる状態で、帰郷17日目の
6月9日、不帰の人となった(享年54歳)。木山(30歳)は家督を継いで葬儀を仕切り、
遺産の整理にかかり、母や兄弟の将来のことを決めていったはずだが詳しいことは
不詳である。年末の日記(S9.12.29)では戸主としての気苦労を嘆じている。

ただ、帰郷直後の5月28日の日記には、「・・農村救済事業の話『六十五円の中三十円
を自分が出すことにしてあること』遺言。兄弟のこと、捷に後を委かす。
籟は学校をつづけること。桃郎は百姓をさすことを言う。・・」 とあり、
この時は父は正気で木山に後を託したことが窺える。父子の確執が解けたとまでは
いえないまでも、木山は何かホッとしたものを感じたのではないだろうか。

父の心の奥底は知れないが、少なくとも憎悪や決定的な怒りではなかったことが窺える。
先に、「ひょっとしたら実家から援助があったかもしれない」と記した所以である。


木山は後にこの時のことを「父危篤」(S11)、「現実図絵」(S13)、「春雨」(S19)、「裏の山」
(S37)などに書いたが、別記のように父の生き方や自身のこと、生活実態などには
木山特有の相当な脚色(フィクション)があり、あくまでも文学作品としての内容である。

例えば遺産のことでは、作品には借金ばかりが残されたようにあるが、実際には家や
相当程度の土地や資産が残されていて母や弟たちの生活が脅かされた様子はない。
まして、父存命中の経済状態は貧農という作品上の印象とは全く違ったはずである。


とりあえずの整理を済ませて、木山は7月15日に帰京して文学活動に戻り、
<世紀>に「出石城崎」を寄稿するが、9月には再び帰郷するなど、
以降3年間にわたって岡山との間を行き来する事後対応を余儀なくされる。

     ・<青い花>創刊に参加(昭和9年12月) 

<青い花>については、太宰の項で木山の日記を引用して詳述したように、木山が
帰郷して相続問題などに追われている間に東京では発刊が具体化していた。
木山は岡山で中村地平からの報せを受けてその様子を知り、加入したいと伝えた。
中村の仲介で参加が実現し、創刊号(S9/12)に随筆「青い花の感想」を載せた。

しかし、<青い花>はこの1冊だけで終わり、木山らは<日本浪曼派>に合流した。
<日本浪曼派>創刊(S10/3)の経緯などは亀井、太宰の項に詳述の通りである。

     ・<日本浪曼派>に加入(昭和10年2月)       

木山の昭和10年2月20日、翌21日の日記から、木山はこの時に<青い花>は続かないと
確信し、<日本浪曼派>の中谷孝雄と相談のうえで、太宰、山岸、中村を<日本浪曼派>に
誘ったが直ぐには実現しなかったことなど、太宰の項に詳述した通りである。

木山は同28日夜の<日本浪曼派>同人会に出席した。出席者は木山、亀井、保田、中谷、
緑川貢、淀野隆三(飛入り)とある。木山はこのときから同人に加わったといえる。
<日本浪曼派>の2号(S10/4)に「僕のおぢいさん」(後に「おぢいさんの綴方」)を載せた。

この同人会が終わるとその日の夜行列車で再び帰郷したが、この28日の日記は
「文学一途の友人羨まし。」と結んでいる。この時期の木山の心境が鮮明である。

   *創作活動(S10〜S12) 

父の死で中断せざるを得なかった執筆を再開した。岡山で「掌痕」を書き次ぎ、3月中(S10)
に仕上げて<文藝>に載せた。尾崎一雄、林芙美子の力添えがあった結果だが、40円ほどの
原稿料が4月に改造社から岡山に送金された。稿料としては初めてのまとまった額だろう。
木山は家族の手前面目を施したに違いない。しかし母は木山の上京を不安がっていた。
同4月20日の日記に「・・我家のもの皆して小生の首をしめているかの如し。・・」などなど
戸主としての重圧を愚痴り、文学に専念できない焦りを赤裸々に書いている。

母の意を振り切って帰京し、文学仲間との交友を深めながら<早稲田文学>からの依頼
に応えて小説「尋三の春」を発表(S10/8)し、谷崎精二などに好評だったようだが、
この年(S10)は他には<日本浪曼派>などに詩、随筆を発表しただけに終わった。

 昭和11年(32歳):長男誕生 <早稲田文学><作品>などに小品、随筆などを発表したが、
<日本浪曼派>に発表した「父危篤」(S11/10)のほかはあまり注目されなかったようだ。
むしろこの年は4月に阿佐ヶ谷(馬橋)から中野区に引越し、7月に長男誕生、10月には
同一町内で引越し、4月と12月の2度、岡山を往復するなど私事多端だった感がある。

昭和12年(33歳:):作品の発表なし 日記には「今年は仕事をしなければならぬと思う」
(1/11)、「嗚呼仕事に没入したい」(2/12)、「この頃人生面白からず」(2/14)、「仕事が
したい」(4/10)、「近来小説の書けぬ理由・・」(6/12)、などとあり、9月には中野区から
再び阿佐ヶ谷(高円寺)へ引越し、「気分を新たにして勉強したい」(9/20)と書く。

また、弟の籟応召で帰郷、さらに弟の桃郎病死で帰郷、みさをや長男(萬里:ばんり)
の体調不調など、気の晴れないことが続き、思い悩むことが多い1年だったようだ。

転機? 木山の研究者栗谷川は、昭和12年に作品発表がないのは、翌13年以降の作品
の主題が以前とは大きく変化しているとして、実家や家庭の事情という外因だけでなく、
「内的な、作家としての一つの転機に起因していたのではないか」と考えている。

焦り? 周辺の仲間の活躍に焦りを感じた風も見える。昭和10年創設の芥川賞では、
第1回に外村、太宰が、第2回では檀、川崎長太郎、小山祐士が最終候補に挙がり、
第3回には小田が受賞、第5回には尾崎が受賞、中村は最終候補だった。
第6回では大鹿、中谷が最終候補、井伏は直木賞を受賞した。
昭和10年〜12年、木山の名前は挙がらない。心は切なく、思い悩むのは当然だろう。

生活費? 栗谷川は、みさをのアルバイトで生活を支えたと考えているようだが無理では
ないだろうか。日記に「債権を9円80銭で売った。」(S12.12.31)とあるが、この債権は
木山自身が購入していたとものとは考え難い。遺産の一部と考える方が自然であり、
生活はいまだに実家頼りという自己嫌悪、苦悩が木山には潜在したとも推察できる。
もし、ほとんどをみさをの収入に頼っていたとすればなお一層のことだろう。
(萬里(長男)氏によれば、木山が満洲へ行った当時(S19)、「母は先生をしていた。」
とのこと(H22.10.17・講演会での談)、もっと以前からで長期のことかもしれない。)

木山はこの時期、創作活動は低調だったが “文士活動” は積極的だった。同人誌や
「古谷サロン」「日曜会」を通じて交友範囲は大きく広がり、宇野浩二、佐藤春夫らの
交誼も得ている。この2年間(S11〜12)で日記に最も多く見える名前は小田で、次いで
中谷、石浜三男、太宰、田畑、外村、尾崎、亀井、檀、らで以前の詩人仲間は少ない。
執筆は進まなかったが小説に活路を見出すための交遊を続けたように見受ける。

ところで、木山の日記で最も目に付くことは、当時の文学青年が実に頻繁に先輩や仲間の家を
訪問し合っていることである。公表された日記の大半はその記録といっても過言ではない。
電話は普及前の時代、アポなどはなく、留守も多いが逆に偶然大勢集まることもあった。
そこで新しい出会いがあったり、情報交換したり、励ましあい、傷をなめ合い、口論したりと
酒はつき物でなかなか賑やかだったようだ。花札やマージャン、トランプ、将棋にも興じ、
コリントゲームもでてくる。 後年、木山、小田が夢中になる囲碁にはまだ無縁だったが・・

お互いが近くに住んでいるからできることで、“阿佐ヶ谷文士村”形成の大きな要因だろう。
時間にはあまり頓着なく、誘い合って近くの仲間の家や安い飲み屋を歩き回っている。
妻や家族の迷惑、苦労は並大抵でなく、経済的負担も相当だったはずだが、これも立派な
文学活動のうちで、“文士” と呼ばれるのは、こうしたこの時代特有の生き方故といえよう。
(木山の生活がみさをのアルバイトだけでは無理だったと推察(前記)する所以でもある。)

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 

木山の将棋が日記に出るのは、「・・新宿にかえり野長瀬の所で将棋をする。」(S8.9.8)
が最初だが、後の「太宰治」(S40)には、<海豹>創刊号の校正の時(S8/2)に
「私は覚えたてであったが・・」と古谷と将棋を指したことを書いている。
おそらく、このころに井伏の手ほどきを受けて覚えたのだろう。

なお、木山捷平の年譜(木山みさを編:木山捷平全集 八巻)には昭和11年の項に「4月 阿佐ヶ谷会が
初めて開催された。」とある。木山の日記の一部かもしれないが、公表部分には見えないので詳細は
不明である。"阿佐ヶ谷会”と呼べるようなメンバーの集会に木山が初めて参加したということだろうか。


その後、年毎に将棋の記述が増えて、昭和12年の日記には将棋以外の遊びは見えず、
石浜、小田、太宰らと頻繁に指すようになっている。将棋流行の世相と一致し、
文壇では菊池寛の影響が大きかったことは別記の通りである。

この時期の日記には井伏の名前は少ないが、「外村が『木山は井伏のメイで中谷のオイだ』
と言った」 がある(S12.3.29)。外村は、文体、作風を評したと思うが、木山と井伏・中谷との
仲間としての関係が濃いことを示しており、井伏とも折に触れ指していただろう。

再々記したように、このころはまだ“将棋会”という体裁はなく、阿佐ヶ谷周辺の多くの
文学青年が流行に乗って指し、時に何人かの顔が揃って楽しんだという状況だったろう。
木山もその1人で、日記には「○○と将棋 ○戦○勝」のような記述が多くなっている。

昭和13年2月に井伏が直木賞を受賞し、木山は小田と直ぐに井伏宅にお祝いに行き、
その日の日記(S13.2.15)に、「・・。将棋、井伏氏とは2戦1勝1敗、小田君とは4戦4敗。
2時ころ辞して3人で荻窪駅前のすしやで朝4時迄のみ、朝になって帰る。」とある。
将棋と酒はこのころの木山の日常生活の一部だったのである。

そして3月3日の日記に、「阿佐ヶ谷会。アサガヤの将棋屋にて。・・」の記述になる。
“将棋会” という体裁が整った初めての記録である。木山の成績は散々でピノチオの
二次会も楽しめず不本意な1日だったようで、自身以外の会の様子は詳しくない。
この記述中に井伏の名前がないのが気になるが、偶々対戦しなかったのだろうか。

この3月3日の将棋会について、「井伏鱒二年譜考」(松本武夫著)や「井伏鱒二全集 別巻2」
(筑摩書房)などの年譜、「杉並文学館-井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士」(杉並区立郷土博物館発行)
などに“井伏の直木賞受賞記念”とあるが、私は疑問に思う。 詳細は別途「第3期 
盛会期」に
「ところで・・ この3月3日は 「井伏の直木賞受賞記念将棋会」か ? ・・ “文学と記録”」
の標題で記した。

 3月3日、6月7日、7月12日と本格的な “会” が続き、将棋熱の高まりがはっきりする。
背景には日中戦争の拡大があり、浅見淵は「昭和文壇側面史」に、召集で戦地に赴く
若者の壮行会を酒だけでなく将棋会を開いて清福を楽しもうという思いもあったと書く。

「第期 成長期」は多くの文学青年が文芸復興の機運に乗って世に出た時に重なる。
木山は仲間の後塵を拝する形になったが、昭和13年には作品の発表を再開する。
栗谷川がいうように確かに題材には大きな広がりが見られるが、私小説で、短編で、
劇的な抑揚を感じさせない筋、という地味な作品であることに変わりはなく、
“好評ではあるが売れない” 存在だったことは否めない。以降、長年にわたり
木山が悩み、苦闘を強いられたのは、この木山文学の本質にあったと考える。

“阿佐ヶ谷将棋会” は記録の残る「第期 盛会期」に入り、会員の面々は本業に励む
一方で戦争の不安を紛らすかのように仲間との将棋や酒に一層のめり込んでいった。

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木山捷平:作品一覧

将棋会 第 盛会期 (S13〜S18)】の頃  (この時期の“阿佐ヶ谷将棋会”

= 芥川賞候補・・満洲旅行 =

木山捷平(明37(1904).3.26〜昭43(1968).8.23  享年64歳)

昭和13年(1938)、木山 34歳。 “将棋会 第3盛会期” は木山の30代後半にあたる。
昭和11〜12年の木山は、家庭や郷里の事情に追われて執筆は思うように進まず、
苦悩、失意の時を過ごしたが、昭和13年になると作品の発表を再開した。
創作集を発刊して芥川賞の候補になったが受賞には至らず、心の晴れない日は続く。

時勢は戦争一色に向かい、応召や徴用、検閲、出版規制強化で作家をはじめ文筆家は
対応に悩んだが、木山はそれまでの姿勢を変えず、戦争や政治・思想とは距離を置いて
身辺を題材にした地味な短編を書き続けた。一部で高い評価を受けたが、売れなかった。
昭和17年6月から約2ヶ月間、満洲を旅行し、戦争末期(S19/12)には、何故か、突然、
単身で満洲の新京(長春)に渡り住むことになるが、こうした背景がなさしめたことだろう。

一方、家計は苦しいが、文学仲間との積極的な交遊は続いた。日記には阿佐ヶ谷将棋会
や日曜会の記述が頻繁に現れる。出版記念会や壮行会など諸会合への出席、仲間相互
の訪問も活発である。満洲行のことは、こうした仲間の情報や誘いが大きく影響しただろう。

なお、木山の生涯についてはPart1でも簡潔に触れているので参照下さい。

このころ・・ 時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *文学活動本格化!!

昭和12年には発表作品がなかったが、13年になると、積極的な発表に転じる。
4月「抑制の日」、5月「歯痛の日」、6月「民謡」、7月「雛子」、12月「現実図絵」などで、
随筆数編も執筆している。(発表作品は、別項「木山捷平:作品一覧」参照)
宇野浩二や佐藤春夫を訪ねるなど、先輩や文学仲間との往来も一層活発化する。

     ・木山 と 宇野浩二・芥川賞

木山と宇野浩二の初対面は、第2詩集「メクラとチンバ」の出版記念会(S6/6)だった。
(詩集「路傍の春−宇野の序文」(S18:審査不承認で出版なし)。その後、どのような
関係にあったか不詳だが、木山の昭和8年2月11日の日記に、宇野を訪ねたとの記述
がある。この日は、木山が初めて書いた小説「出石」の校正刷り(<海豹>創刊号)が
できる10日前に当たる。木山はこの直前に「出石」の原稿を蔵原や赤松月船に見て
もらっており、宇野にも、作品と小説家転進の木山を知って欲しかったのかもしれない。

この日は不在で会えなかったが、以降も訪問、日曜会に参加して交誼を得ている。
長いが、木山の胸中が窺えるので、日記から宇野関連の部分を要約して抜き出す。

S8.2.11 倉橋と待合わせ。午前、宇野を訪問も不在、友人宅を回って帰りに寄るも留守で会えず。
(直後(2/20)に宇野を囲む最初の会(後の日曜会)が開かれたが木山は出席していない。)

S9.1.7 古木鉄太郎と宇野を訪問、4時間ほど対談。 <文学界>に世話をしてくれることになった。
(この後、佐藤春夫(古木の義兄)宅を初めて訪問。話はできなかったが夕食をふるまわれた。)

(5/23〜7/15 木山は父の病気、死去(6/9)、葬儀等のため郷里滞在)

S9.7.27 古木と宇野を訪問、不在。中山義秀訪問後、再訪するも不在。(川端康成を訪問も不在。)

S9.8.31  古木と宇野を訪問。 「旅行中との由。どうやら居留守らし。」の記述あり。

S11.5.17 
日曜会 :12名出席「余り面白くなし。」の記述あり。(この日には、古木、田畑来訪
の記述もあるので同道したのだろう。田畑は日曜会の幹事役の一人である。)

S12.2.14 
日曜会 :初参加は石川淳、稲垣足穂、衣巻省三、高見順、松沢太平、笹本寅、他数人。

S13.1.15 倉橋が来て、「宇野さんは、余や渋川君の如き地味な作家はみとめられること遅しと
いっていた由きく。」の記述あり。

この時、宇野は芥川賞選考委員になり、第6回(S12下期作品)〜第45回(S36上期)
(第17回(S18)〜第20回(S19)を除く) の選考で主要な役割を果たしている。


S13.1.30 日曜会 :富山に誘われ出席。渋川、新田、神西が初出席。井伏、田畑など出席率はいい。

S13.4.17  
中村の出版記念会で宇野に会い、帰途、宇野に誘われ倉橋と不二家に行った時、
「宇野さん、余の作品をほめてくれた。某氏をあげてそれよりもいいという。」の記述あり。

S13.5.22 
日曜会 :風邪だったが田畑、小田、富山が来て同道。中座して帰る時、「宇野さんが後を
追ってきて、「民謡」愛読しました。他に作品はないかとのこと。短いものしかないと答う。」の記述あり。

S13.7.31  
日曜会 :田畑、渋川の出版内祝。中野重治初対面。 「芥川賞は田畑、中山、
大分有望らしいとのこと。」の記述あり。 (結果は、中山の「厚物咲」が受賞)

S13.12.12 
:「宇野浩二氏より来信。貴創作集、早い方がよいと思いますが、来春御出版の方が
いいことがありはしないかと思います。これは18日ハイビの折に。処女創作集という意味でだけで
なくです。―とあった。」の記述あり。

S13.12.18 
日曜会忘年会 :(出席したが、自他の酔っぱらいの記述だけで、宇野に関する記述なし)

S14.2.5  
日曜会 :「席上芥川賞候補として、北原武夫、南川潤、中村地平、一瀬直行、
木山などのこっていると伝えられる。 宇野さんは余を物陰によんで、「小説集を出すと、
又次の候補にもなるから出した方がよい」と言ってくれた。」の記述あり。

(実際には、宇野が出席した2月3日の第1回委員会で最終候補が決められ、
木山の「現実図絵」はそこには残らなかった(受賞は中里恒子「乗合馬車」。
日記では、宇野は承知の上でこのように伝え、木山に勧めたことになる。)

S14.2.24 
「文芸春秋3月号にて芥川賞経緯及小説などよみ心おだやかならず。」の記述あり。

S14.4.16  
春の日曜会 :宇野に関する記述はなく、「余り面白くなかった。」とあり。

(S14/5 : 木山の第1創作集「抑制の日」(赤塚書房)刊行)

S14.6.17 
「倉橋弥一君来訪。「抑制の日」を宇野さんがほめていた由。芥川賞にしたいと言って
いた由。しかしこれは見込みがないので宇野さんがそう言っているかもわからぬ。
「智者仁者」もほめていたと伴野も言っていたと。」の記述あり。


(S14/7 : 第9回芥川賞発表。木山は「抑制の日」で最終候補6人に残ったが
受賞はなく、宇野の選評は、木山については他の委員より詳しいが「一皮むけ
なければならぬ」として、他の候補を推している。(受賞は、長谷健と半田義之)

S14.8.20 
文芸春秋(9月号)の芥川賞選評を読んで、「選者たちは神様にでもなったつもりで
書いている。宇野浩二のタヌキまで悪口を書き居る。ひいきのひきたおし、という奴だ。腹が
かきむしられるようだ。ともかく、いい作品をかかねばならんのだが、こんなに書かれては
めいるばかりだ。出るところへ出ると人間はたたかれると言ったらいいのだろうか。
「あさくさの子供」と「鶏騒動」(註:受賞の2作品)をよむ。 ともかくこれからは、90枚、
120〜30枚という枚数がものを言っていることだけはたしかだ。」の記述がある。

S15.5.24
 
日曜会 :「去年の春以来のこと。」と書き、出席者10人の名前を書いているだけで
宇野や芥川賞のことには触れていない。以前もそうだったが、古木、田畑と帰途を共にしている。

(S15/7 : 第11回芥川賞発表。木山の「河骨」は最終候補6人に残ったが受賞は
なかった。木山について宇野だけが選評を書き、「あまり香ばしい作品ではない」
としている。(受賞は高木卓だったが辞退して、受賞なしとなった。)


なお、木山の「卵」(S16/8<知性>)は、第14回芥川賞予選候補20篇の中の1篇である。
宇野は「これまで書いて来た小説のなかで、出来のわるいものである。」と選評し、他の
委員に選評はなく、最終選考の3篇には残らなかった(受賞は、芝木好子「青果の市」)。
この「卵」に関しては、木山の日記には何の記述も見当たらない。

この後、S17.8.3、
S17.11.29 日曜会出席の記述があるが、出席人数や名前があるだけで、
宇野や芥川賞などに関するものはない。


参考サイト  芥川賞に関する詳細は・・ 芥川賞のすべて・のようなもの 

長い引用をしたが、ここに、当時の木山の心情、哀歓、行動心理、つまりは素顔と
人生の綾が見える。 宇野は、比較的早い時期から木山の才を認めてはいたが、
選考委員としては客観的評価に徹したとみてよかろう。 ただ、木山(S13:34歳)
にしてみれば上手く乗せられただけという感がないわけではないだろう。

太宰が芥川賞を熱望して、選考委員の佐藤春夫や川端康成に強く反発して話題に
なったように、芥川賞は当時から文学青年たちにとっては最大の関心事だった。
当然ながら木山もこれに執着したが受賞はならず、この後は木山流に対応する。

昭和15年以降、「河骨」「卵」が候補になっているにも拘わらず、木山は、日記では
芥川賞に触れていない。わずかに「文藝情報(S15/4上旬号)」に掲載された芥川賞に
関する宇野の対談記事から木山関連の部分を抜き書きしている(記入日不明)だけで
ある。昭和14年8月20日の記述に自分の思いのすべてを込め、それをもって芥川賞
を慮外のものとし、長編を視野に自分流の文学に専念することを決意したと察する。

幻の長編・・実際、木山は長編を書き始めたのである。「矢吹草」の題で、「原稿2枚
書いて35枚となった。」(S15.5.24)とある。 <文学者>の岡田三郎に掲載を依頼し、
昭和16年2月号に250枚にして掲載してもらうことにした(S15.9.30)。 ところが、
木山は120枚書いたこの原稿を紛失してしまったのである。 年譜には「9月、新宿
あたりで紛失、呆然自失する。」とある。以降、日記に「矢吹草」の題名は出ない。

代って「侏儒の友」(67枚)を岡田三郎に届けた(S15.12.21)が、結果的には<文学者>
ではなく、<公論>(S16/2)に載せた。 「矢吹草」の内容は不明だが、「侏儒の友」の
人物“矢吹矢太郎”は木山自身がモデルのようでもあり、客観的な半生記のようなもの
を書きたかったのではないか。 完成していれば「河骨」を超える長編だったが・・。 

     ・創作集の刊行

S14.5.20刊行  第一創作集「抑制の日」(赤塚書房) : 表題作など5篇所収。

宇野のアドバイスによる刊行といえる。近作で評判の良かった「抑制の日」(S13/4)
を表題にして、表題作と過去の好評作「子におくる手紙」(S8/9)、「うけとり」(S8/5)、
「父危篤」(S11/10)、それに掌編の近作「歯痛の日」(S13/5)を加えている。
既述のように、第9回芥川賞候補で最終選考6人に残ったが受賞は逸した。

木山については、宇野のほか瀧井孝作、横光利一、佐藤春夫、小島政二郎が
選評しており、概して好意的だが、佐藤が「少々影が薄い」と評するように、表現は
違っても「何かもの足りない・・」というのが各評に共通しているところといえる。

ところが、赤塚書房は、この「抑制の日」が芥川賞候補になったことで木山に無断で
再出版(S14/10)し、しかも本の帯には保田与重郎の書評を無断引用するという
おまけがついた。 木山は怒った。「道徳も仁義もない」、「全くなめられた。
芥川賞がこんなにも俺に恥をかかすか。」 と日記に記している(S14.10.11)。


S15.7.25刊行
  第二創作集「昔野」(ぐろりあ・そさえて社) : 全6篇所収。
新ぐろりあ叢書の一冊。 装丁は棟方志功。

(ちなみに、田畑修一郎の「狐の子」(S15/11)も、”新ぐろりあ叢書”の一冊である。)

芥川賞候補になったことで「新ぐろりあ叢書」での出版が急速に具体化したようだ。
自分の番は遅くなると思った(S14.9.27付日記)ところ、出版社から年末に連絡があり、
1月(S15)から7月までの日記に、出版社とのやりとりや原稿、校正、広告、印刷部数、
印税のことなどについての経過が記されている。 所収は「定期乗車券」(S14/9)、
「智者仁者」(S14/6)、「現実図絵」(S13/12)、「小さな春(「尋三の春」改題)」(S10/8)、
「おぢいさんの綴方」(S10/4)、「うけとり」(S8/5)の6篇で、木山が「後記」を書いている
(「後記」は未確認)。日記(S15.1.31)には初出誌、原稿枚数など詳しい記述がある。

「昔野」は「むかしの」と読むと思うが、日記には『なつかし野』とか「『昔野』(なつかし野)
の校正」とある。「昔野」という小説はないので、自分の半生や身内のことを顧みて
特別な思いが残る6篇を括った総称だろう。「なつかしの」と読ませたいのかもしれない。

S16.3.刊行  第三創作集「河骨」(昭森社) : 表題作など5篇所収。

木山の長編小説といえば 戦後の「大陸の細道」や「長春五馬路」があるが、これらは、
短編を繋いで長編にしたもので、「河骨」(こうほね)は中編だが、実質的には最も長い
小説といえる。 当時の木山として、それだけ期するところがあった作品のはずである。
(長編「和気清麻呂」(270枚:S19)があるが(未読)、”児童向け”なので対象外とした。)


木山が「河骨」を書き始めたのは昭和14年2月である。日曜会で宇野に小説集を
出すよう勧められた(S14.2.5)頃である。日記(S14.9.27付)を引用する。

「夜『河骨』3枚書き脱稿、155枚、 (中略)。 しばらく雑文を書いてその間
休んでいたり、いろいろ後悔する振舞いあったりして、嫌になったりしたが、
ついに脱稿した。2月初旬より書き初めたもの。」


日記を追うと、3月9日に「2月20日に書き初めた原稿51枚に入る。」とあり、さらに、
4月5日に「原稿99枚となる。(河骨)」、4月16日に「127枚」とある。 この後、童話
や「智者仁者」(49枚)を書き、創作集「抑制の日」の刊行あり、深酔いの失敗あり、
芥川賞をめぐって気分は晴れず等々、筆が進まなかったが、ようやく155枚を脱稿
した。 それまでの木山の作品の多くは50枚までの短編ないし掌編なので、
その3倍以上、初めて短編を超える中編小説を仕上げたと云っていいだろう。

発表は<文学者>(S15/2)で、既述のように第11回芥川賞の最終候補に残ったが、
受賞は逸した。この時の宇野の選評(S15/9<文芸春秋>)の結論は「あまり香ばしい
作品ではない」で、他の審査委員の選評はない。あまり認められなかったといえる。
以前の作品に比べると物語性、創作性が強く感じられるが、木山が期待したほどの
評価は得られなかったということか。 日記にはこれに関しては何の記述もない・・。

昭和15年の木山は、芥川賞への思いを断ったと見てよかろう。 日記から、2月の
「河骨」発表、7月の第二創作集「昔野」刊行、5月〜9月は長編「矢吹草」執筆、
11月には「河骨」と題した第三創作集の原稿準備、「氏神さま」執筆開始、年末には
「侏儒の友」(「矢吹草」の内容と関連だろう)の脱稿等々、文学活動専念が窺える。

創作集「河骨」所収作品は、「河骨」(S15/2)、「一昔」(S9/5)、「猫柳」(S15/4)、
「村の挿話」(S9/3)、「猫」(S11/1)、の5篇である。 (日記(S15.11.20)によるが、
「村の挿話」は年譜によれば、初出は「啓太の帰郷」(S9/3) ⇒補筆して「帰村記」
(S9/11) ⇒改題して「明暗」(S15/8) ⇒改題して「村の挿話」である。)

     ・「昔野」、「河骨」 出版記念会      

昭和16年4月30日、新宿で「昔野」「河骨」の出版記念会が行われた。この日の日記
には、出席者名や二次会(銀座)での寄せ書きなど、当日の様子が詳記されている。
全文を引用したいが長いので、特に阿佐ヶ谷文士関連ということで抜粋(要約)する。

司会は小田、外村、倉橋弥一、他に 古木鉄也、青柳(瑞)、田畑、太宰、坪田譲治、
山岸外史、田辺茂一、井伏、村上、野長瀬正夫、伊馬鵜平、真杉静枝、青柳(優)、
亀井、中谷孝雄、保田与重郎 等々35名の名が出席として記されている。(記載順)

13名ほどの寄せ書きが記されているが、さすがに上手い・・・。 いくつかを抜粋する。

井伏鱒二 「捷平と血族をあらそふ春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」
太宰治 「川そひの路をのぼれば赤き橋 また行き行けば人の家かな」
青柳瑞穂 「せふ平は 谷間に鳴けよみそさざゑ    みそさざゑといふ
         鳥は姿をかしくやや風格あり。 春宵銀座裏町」
小田嶽夫   「捷平が風格にやせる春の宵」
村上菊一郎 「虱取る男もありて春の宵―河骨にちなみて」
真杉静枝   「銀座にてピエタを偲う春かなし」
亀井勝一郎  「捷平は大根ふりあげて道教へけり」
外村繁  「凡夫凡婦 即卒伍の臣」
伊馬鵜平(後の伊馬春部) 「捷平の姿なつかしく出て来た    
               今宵 麦酒も豊富 話も豊富」


このうち、井伏の「血族をあらそふ・・」だが、木山は以前から周囲に、作風が井伏に
似てると云われていた。 木山の日記に「外村は『木山は井伏のメイで中谷のオイだ』
と言った」(S12.3.29)とか、「石浜は『君は井伏のコブン』と言った。」(S13.2.5)とある。
出席した保田によれば、この日の会でも似ている云々の会話があったという。

作風の近さや親密さが仲間内で話題になったことを受けての井伏の配慮だろう。
また、太宰の自作短歌は、揮毫を求められると好んで書いており、昭和11年の
小館善四郎あて葉書(S11.11.29付)や、御嶽遠足(S17.2.5)の寄書きなどにもある。

それぞれに、それぞれの個性が表れ、木山の雰囲気を映し、温かい励ましになっていて
木山は嬉しかっただろう。 「記念会は何となくいやだったから先日小田にことわったが、
しかし、これでハッキリしていい気もする。」と、木山らしいコメントを日記に残している。

     ・創作集―その後  

創作集刊行と合せて、小説、随筆、詩の発表はあるが、この時期の小説で三冊の創作集
には収録がなく、没後刊行の「木山捷平全集 全八巻」に収録の小説は短編ないし掌編の
「山ぐみ」(S16)、「氏神さま」(S18)、「ねんねこ」(S19)、「春雨」(S19)だけである。

収録に際し、主要小説としてあえてテーマが郷里に関するものを選んだのかもしれないが、
それにしても、特に創作集刊行後の小説執筆の質量には物足りなさを感じざるを得ない。

なお、「全集 全八巻」の収録は発表順で、各巻末には発表時期に見合う日記が
載っており興趣が増す。(日記は、単行本「酔いざめ日記」にもなっている。)
「第八巻-年譜」には、発表年月、作品名、発表誌、が載っている。

年譜をもとに「木山捷平:作品一覧」を別項目にしたので参照下さい。

 木山捷平:作品一覧

      木山作品 初のNHK放送・・

昭和16年11月20日、木山の作品が初めてNHKで放送された。日記は次の通り。

「秋酣けて」放送。0・05分より。木山捷平作、物語 佐々木信子、宮下晴子、
伴奏東京放送管弦楽団、指揮久岡幸一郎。初めての自作の放送をきく。


(この「秋酣けて」について、内容を知りたかったが、分からなかった。
同名の作品、文献は見当たらない・・。  読み方は「あきたけて」だろうか?)

   *再びスランプか?

     ・昭和17年のこと(満洲旅行)  

年譜によれば、この年発表の小説は5篇あるが、全集には収録がない。あまり注目され
ない作品だったのだろうか。日記を見ても、執筆に関する記述は非常に少ない。
戦争関連の記述が多いのは必然として、他は、文学仲間との往来関係が多い。
本来の文学活動である執筆、発表には、あまり集中できなかったのかもしれない。

そして、6月7日発〜8月3日帰京の満洲旅行が入る。木山にはこの年最大の出来事で、
結果的には、これが木山の人生における最大で最後の転進の序章となっている。
しかし、木山はこの旅行について多くを語っていない。日記には旅行手続・準備の
記述だけである。みさを夫人によれば、「その間の日記は空白、旅行メモは一切
見当たらず。葉書4〜5枚留守宅に届いたのみ。」である(木山の日記(S17)に付記)。


木山がこの旅行について最も深く触れた記述は、戦後に書いた「花枕」(S32:「大陸の
細道−第四章」(S37))である。昭和19年の満洲単身移住について「もとをただせば、
この旅行が複雑微妙な作用をはたらいているからである。」と冒頭の部分にある。

当時、満洲、北京には多くの日本人が渡り住み、活発に活動していた。旅行者も多く
文筆家も私的に活発に往来して現地報告や旅行記、随筆、小説などを書いていた。
木山は、文学仲間との往来でこの状況をよく知っており、また、実際に親しい知人、
友人の何人かは北京や満洲に住んで活躍中で、木山にも来るよう誘っていた。

戦況はまだ日本優勢の時期で、満洲で強大な力を持つ満鉄は、内地からの著名人を
招聘、優待するなど、動きやすい環境にあった。木山は著名人とはいえないまでも
知人たちの尽力で鉄道の無料パスが利用できるようになった。未知の世界に触れ、
新たな体験をすることで小説の題材を増やそうと思い立って出発したのではないか。
戦後、脚光を浴びるにいたった木山が、「花枕」に生田春月の辞世の詩を引用した
のは、実はこの旅行には期するところがあったのだと言いたかったのだろう。

とはいえ、木山の場合には、懐不如意覚悟の苦しい旅だった。 この時期、たまたま
田畑も満洲旅行中で北京に寄ったが、その時(S17.7.12)木山に会った。 田畑の
記述に、「木山は文なしにて北満その他を歩くといふ。残金あれば少々渡す。」とある。
木山にはこのことに触れた記述はないが嬉しかっただろう。(田畑修一郎の項に詳記

また、帰途の京城(ソウル)で、やはり旅行中だった安成二郎に会い、将棋を指した。
外地の旅でのこうした邂逅は嬉しく、気が休まっただろう。 当時の日本人には
強い”同胞意識”があり、旅行者同士の情報交換が緊密だったようだ。(安成二郎の項

旅先で旅費を工面しなければならないという二カ月間の貧乏旅行だったが、知人、友人
の温かいもてなしや計らいがあった。 苦しいながらも気ままに旅して無事帰京した。

この後、12月までの日記には、「『ロシアを見に行く』 9枚速達で送る。日本農業新聞宛」
(S17.9.28)があるが、他には満洲旅行関係を含め原稿を書いたという記述はない。
年譜には、「北支・満洲見聞記のほか随筆十数編」 とあり、執筆はしたようだが、
戦時一色化の時節もあって、小説には手が回らなかったようにみえる。

     ・昭和18年のこと    

      審査不許可−出版出来ず

日記によれば、昭和18年2月、詩集「路傍の春(66篇)」(当初は「三月の花」)の編輯を
終り、宇野に序文を依頼する手筈になった(S18.2.18)。宇野の序文を得て、その全文
を日記(S18.5.7)に写している。 木山の「軽妙、諧謔性」を書いた温かい文面である。

しかし、この詩集は出版出来なかった。出版審査で不承認だったのである。理由は、
日記(S18.11.6)によれば、「ダダイズム、ニヒリズムというのではないが、そういうもの
あり」「感激をもって書いてない詩もあり」とのこと。戦局は悪化の一途にあり、「時局
不相応」だったのだろう。 少なくとも戦意高揚に繋がる詩ではなかったはず、木山は
このことには何も触れていないが、“作家の魂” が衝撃を受けたことは確かだろう。

戦後刊行された「木山捷平詩集」(S42/3・昭森社:「木山捷平全集 第1巻」所収)に
「三月の花」が入っているので、この詩集に収録された40篇のうち、昭和13年までの作
30篇は、出版出来なかった「路傍の春」の66篇中から選んだものではないだろうか。

      徴用令書!!

このころの木山は、執筆や発表という本来の文学活動より、先輩や仲間たちとの往来が
目立つ。木山に限らず、戦局悪化で文学活動は一段と低調にならざるを得ない状況で、
勤務先を持たない文士たちには十分な時間があり、仲間同士で集まったり、行き来して
情報交換し、慰め、励まし合うなどして、日常生活の不安を少しでも軽くしたかっただろう。
著名作家や”戦争物”を書く作家はともかく、売れない文士の不安は一層強かっただろう。

そんな木山に、昭和18年12月13日、徴用令書が来た。17日に杉並区役所に出頭した。
その日の日記に「体格は坐骨神経痛のためg1印。」とある。結果は不合格だった。
2年前(S16)、井伏、小田、中村、太宰が徴用を受け、太宰は肺疾患ということで不合格
だった。この時の木山と太宰とのやり取りが絶妙だが(太宰の項に詳記)、今度は木山が
不合格。木山がどんな顔をしたか・・興味深いところである。 木山は40歳が目前だった。

      仕事は「和気清麻呂」のみ!! (大晦日の日記)

「和気清麻呂」(S19/8)は、書下ろし長編小説(日本少年歴史文学選)である。

この「日本少年歴史文学選」は、淡海堂出版による出版で、他に「北条時宗」(伊藤佐喜雄)、
「豊臣秀吉」(中谷孝雄)、「菊池武時」(荒木精之)などがあり(ネット情報)、児童書である。
確認はしていないが、国策に沿った企画だったのではないだろうか。


木山が執筆に至った経緯は不詳だが、日記(S18.4.20)では、「野長瀬のところで
「清麻呂」の印税の中、300円受取る。この前と合せて500円となった」とあり、野長瀬
の関係での依頼だろう。 5月には取材のため奈良、大阪、岡山方面を10日間に
わたり旅行している。稿料など、恵まれた条件だったことが窺える。

執筆に入って「第1章を書く」(S18.5.22)、「53枚」、「109枚」・・と順次増え、「250枚。
あと一章で終わる。」(S18..10.30)となり、大晦日の日記を次のように締めている。

「今年も暮れる。小生この年「和気清麻呂」が長引いて270枚書いたのみ。
小説の仕事ができなかったのは残念である。来年は少し書かねばならぬ。」

前年の日記に、倉橋が来て「少年読物の話。小生やる気はないかときく。あると
笑う。」とある(S17.11.12)ので、あるいはここから始まったことかもしれない。
”生活費のため”という気持ちが「笑う」という表現になっているように思える。
取りかかったものの、長引いて本来の小説が書けなかったと残念がっている。

確かにこの年(S18)の創作は前年に続き低調である。3月に短編「氏神さま」を発表
したが、この作品は昭和16年から手がけて、前年にはほとんど仕上がっていた。
元日(S18.1.1)の日記に、「氏神様」終りの方少々書き直すこと5枚。」とある。
何篇かの執筆はあるが、注目されるのは掌編の「春雨」「ねんねこ」くらいである。
本人として不本意な1年だったはずで、“スランプ” を意識していたかもしれない。

   *木山文学の原点は “故郷”

木山の随筆「わが文学の故郷」(S19/4<早稲田文学>)に、「私の文学の故郷は、私の故郷――
つまるとろ備中の草深い田舎のことである。」 「先祖代々の百姓精神の横溢した、一度読んだら
3月ぐらい笑いの止まらぬような朗らかなやつが書けないものだろうか。お父ッつァんー。」とある。


木山の作品は、自身や身辺の出来事を素材にして、自分の原点である故郷の百姓精神
をそのまま庶民生活に投射した短編の私小説といえる。そこに表出された庶民の人生
の一コマは、日常生活における飄然の風と、そこに漂う哀感、郷愁といったおかしみと
情緒性に富むが、半面、筋の抑揚、主張の展開や迫力、社会性に乏しいきらいがある。
「地味」故に認められにくく、売れないことで木山は悩んだはずである。

なお、木山の小説は、体験などの素材を大幅に加工していることから、木山の研究者 
栗谷川虹は、その創作性に着目して「私小説ではなく“私小説”である。」としている。


先に触れた木山と井伏の類似について、栗谷川虹著「木山捷平の生涯−井伏鱒二と
木山捷平」によれば、保田与重郎は「似ていることより似ていない点が面白い」と書き、
著者も「例えば、井伏はユーモアを眺めるが、木山は演じる。」と違いを書いている。

私見で・・、文体には「飄然の風」という意味で似ている面があると思うが、
木山が書いた庶民は木山自身ないし分身であるのに対し、井伏が書いた庶民は
井伏ではなく、井伏が創出した庶民像である、という根本的な違いがあろう。
換言すれば、描いた庶民の動きは木山は右脳的、井伏は左脳的といえようか。


このように見てくると、この時節、作品発表は非常に困難な状況だったとしても、創作集
刊行後の発表に先細り感が否めないのは、やはり小説の世界の狭さのように思う。
創作と筆力によって木山独特の味わいがある “私小説” 小説にはなっているが、
過去の身辺素材に頼るだけでは質的にも量的にも限界があったのではないだろうか。

昭和18年大晦日の日記は、木山自身がそのことを物語っているように思える。
1年後、敗戦色が見える昭和19年12月、木山は単身で満洲に渡り住む。何故か?
木山は真意を明かしていないが、私はこの日記の延長線上の行動のように思う。
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“下駄” は、木山文学の象徴

私見で・・
、木山の詩に「五十年」(S31作:「木山捷平詩集」(S42/3刊)所収)がある。

「濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるやうな   
どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと
言ふような
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた。」

そして、やはり戦後の作だが、みさを夫人が特に好きだったという「下駄の腰掛」(S34/9)
があり、「下駄に降る雨」(S34/2)がある。いずれも下駄が重い役割を持つ名作と思う。
「長春五馬路」(S43)の「第4節 中国服」の原題は「下駄と指」である。

さらに、「村の挿話」(S15「明暗」を改題)には下駄屋の娘が登場する。
下駄屋でなくても、雑貨屋でも小間物屋でもいいのだが下駄屋である。

「竹の花筒」(S32)には、気に入らず、何度も下駄を並べ替える場面がある。
他にも、下駄や下駄を履いてきた友人のことを書いた詩や随筆がある。
日記にも、酒席の後、他人の下駄を履いて帰ったり、
鼻緒が切れて困ったり、という下駄にまつわる記述が多い。

思うに、下駄は昭和の庶民の日常生活の象徴だろう。 木山は、濡れた下駄は
自分の一生を象徴しているような気がするというが(「下駄に降る雨」)、
木山にとって、下駄は故郷や庶民生活そのものであり、木山文学の象徴といってもよかろう。

 木山捷平:作品一覧

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 

     ・木山と井伏

木山が井伏と親しく接するようになったのは既述のように昭和8年初め頃だろう。その後、
将棋会や酒を共にし、親交を深め、この時期になると日記には井伏の名前が頻出する。

「木山は井伏に似ている」と言われたことは先に記したが、木山にすれば
恐れ多かったのではないだろうか。みさを夫人は次のように書いている。

「太宰、亀井両氏は正月二日に紋服姿で年賀に井伏邸を訪問される様子を
私が知ったのは、「日本浪曼派」時代であった。捷平はそのころは年賀参上
は遠慮したのはやはり先生とは格が違うと尊敬していたからであった。」

木山が、井伏に対し深い敬愛の念を抱いていたことは確かである。このことは栗谷川
など他の研究者も認めており、栗谷川は、「捷平の敬意からすれば、師事といった方が
むしろ正確かもしれない。」と書いている。師事というより私淑の方が適切だろう。

一方、井伏からについて、みさを夫人は先の引用に続いて次のように書いている。

「しかし先生は心の一隅で捷平を見ておられた。小説が書けなくなった頃で
あった、高円寺氷川神社下の二階で将棋を十番位指し終って深夜阿佐ヶ谷
の酒が長く続いたのは、捷平をいたわる心であったと捷平は言った。
(「井伏鱒二/弥次郎兵衛/ななかまど-あとがき」(講談社文芸文庫:1995/8)


ただ、井伏は戦前の木山の作品については厳しい見方をしていた面もある。木山が
日記に書いているところでは、「うけとり」について、井伏は「コマ絵になりかけてなって
いない。」(S8.5.6)とか、「『氏神さま』よくないと言われる。」(S18.4.20)である。
一方で、やはり日記からだが、井伏は、木山を個人的に将棋に誘ったり、酒の席や
自宅へ招いたりすることが多かったように見受ける。
作品評は木山への期待、励ましを込めてのことだったかもしれない。

木山の将棋の腕は、会のメンバーの中では中堅と見ていい。安成、井伏、上林の
次あたりで小田と並び、太宰、亀井、中村より上、勝敗にはこだわる方だったようだ。
当初はかなりの熟考派で、井伏を怒らせたというエピソードがある(S14.2.5)。
おそらくその時のことだろう、長考していると、井伏に、「君は八段の真似をするね。
文章でもポーズで書く人があるね。」と言われた。 木山は、「それからは早ざしに
かわった。」と書いている。(「文壇交友抄」(<別冊文芸春秋>(S40/12))

     ・木山と小田嶽夫の百番勝負

木山と小田の交友は、既述のように、木山が昭和7年に小田宅を訪問したことに始まる。
貧窮に苦しむ者同士、気が合ったのだろう、将棋、酒を介して交友が深まり、往来が増えた。
木山が絶不調の時期(S11〜S12)に日記に登場する最多の名前は小田である。
昭和13年で木山34歳、小田38歳。 以降も親交は続き、戦後はよき碁敵、生涯の友となる。


小田は、第3回芥川賞受賞(S11上期:「城外」)で仲間内では一歩早く貧窮を脱するが、
阿佐ヶ谷将棋会のメンバーとの交遊は変わることなく、会への出席率は木山、上林と
ともに抜群である。木山は、その小田と昭和16年9月13日から将棋百番勝負を始めた。

この勝負について、木山は「文壇交友抄−阿佐ヶ谷将棋会」(S40/12<別冊文藝春秋>)で、
小田は「逃亡の季節」(S40/8<文芸>)で、それぞれ触れている。(以下、小田の項と重複)


当日の木山の日記には、小田が来訪、将棋は2戦して1勝という程度しか書いてないが、
この両書によれば、この日から星取表を作って白星黒星を記録したようだ。

濱野修の項に記したように、上林暁と濱野修は昭和14年12月から二百番勝負を
開始し、星取表を作成して楽しんでいた。これに倣ったのかもしれない。


しかし、その年(S16)11月には、小田が井伏などとともに徴用されたので出来なくなり、
木山によれば19戦で、小田によれば自分の12勝6敗で中断したという。
小田が帰国して昭和18年から再開したが、翌年には小田の疎開(S19/9:郷里・新潟県)
で再び中断した。最終対局は、疎開前の昭和19年6月15日で、木山によれば計78戦、
小田によれば、計74戦で紙が千切れて不明の分(14戦)を除くと、木山36勝、小田24勝
だったという。小田は、木山は自分の徴用中に腕を上げたことになると書いている。

     ・木山と上林暁の “阿佐ヶ谷将棋会”    

阿佐ヶ谷将棋会(戦前の阿佐ヶ谷会)に関する記述は数多いが、木山の日記ほど長い
期間続いた明確な記述はない。昭和13年3月3日以降、木山は出席した会の対戦相手
と勝敗を記録し、二次会の模様も書いている。 開催が判明している会で木山が欠席した
のは最後の会、高麗神社遠足(S18.12.23)だけである。この時木山は徴用令書を受け、
12月17日に出頭しており、参加は無理な状況だった。(「開催一覧」参照)

井伏をはじめ太宰、亀井など、会の開催を楽しみにしたメンバーは多いが、木山と上林
小田の三人の出席率は抜群で、三人がこの会を殊のほか大事にしていたことが窺える。
戦後、木山は「阿佐ヶ谷会雑記」など、上林は「玉川屋」など、小田は「阿佐ヶ谷将棋会」
など、多くの随筆に書いているが、いずれも戦前の将棋会の交遊に思いを馳せている。

会には、将棋を楽しむだけでなく、二次会の酒席と酒談が一体という側面があって、
一層人間的な交遊が深まったことで三人とも自然に足が会に向かったのだろうが、
特に、木山と上林については、生まれ育った環境に似通ったところがあり、
生活困窮の苦悩が長く続いたことが出席率に関係していたかもしれない。

二人は地方の比較的豊かな農家に生まれ、長男、父はインテリ、村の指導者的存在で、
両者ともに父の本心は家を継いで欲しかったのである。 戦争へと動く激動の時勢下、
父の胸中に抗って故郷を離れ、頼れる人もない東京へ出ての文士生活は苦しかった。
家族を支えるだけの文筆収入はなく、経済的にも精神的にも不安だらけの二人にとって
会を通じてのメンバーとの交遊には心安らぐものがあり、出席に熱が入ったのだろう。

木山も上林も、独特の味わいを持つ私小説作家として戦後に盛名を得たが、
そこに至るには、筆舌に尽くし難い特異な人生経験を経たという共通点もある。
戦後、純然たる飲み会として復活した “阿佐ヶ谷会” でも主要メンバーである。

ところで、日記には木山自身と家庭の日常のことのほか、将棋会に限らず戦前の
文学青年たちの“群れ”や行き来のことが記されている。昭和大恐慌から戦争の
時代という激動期を文筆1本で生きる決意をした面々の生き方が伝わってくる。

私見だが、日記に現れた事実、ナマの姿には、記録、個人の過去というだけでなく、
時代と、当時における人間の生き方を映す迫力を感じる。文学に対する見方にも
よるが、この木山の日記はそういう意味で立派な文学作品だと思うが如何だろう。

木山は、庶民の土への郷愁、親子の情感、生活の哀歓と芯の強さを描きながら、
平穏に生き切ることの難しさとその価値を作品にし、日記でも語っているように思う。

戦後70余年、日本の社会、経済、生活様式は一変した。木山文学の象徴である
下駄は姿を消したが、日本人の、特に庶民の心の奥にあるものまでが一変
したとは思えない。木山捷平という作家、人間の姿にもっと触れたいと思う・・。

公開されている日記は一部分の抜粋で、残念ながら大半は未公開だろう。
すでに相当の時を経ていることでもあり、更なる公開はできないものだろうか。


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木山の苦闘は、この阿佐ヶ谷将棋会 “第期 盛会期” においても続いた。
文学的にも家庭的にも、心の休まる時はなかっただろう。 再三、芥川賞候補になり、
文士から作家へと脱皮したが受賞には至らず、何といっても収入が心許なかった。

生活面は、妻みさをに頼る部分が大きかっただろう。木山の亭主関白的な乱暴な行動も
木山の日記に見られるが、よく辛抱したものと思う。 日記には、妻への本音、いたわり、
詫びの気持が僅かに覗くが、それを感知することができた賢婦人だったと推察する。

昭和18年も後半になると、戦況悪化、敗戦色が感じられる時勢になり、組織的な将棋会
の開催は困難で、“第期 休眠期” になる。 もちろん個人的な行き来は活発に続くが、
疎開も現実味を帯びてくる。 翌昭和19年に入ると、建物疎開、強制取壊が始まり、
人員疎開になる。本土空襲、食糧不足など国民生活の混乱は顕著になる。

この状況下で、木山は単身だが満洲(新京(長春))移住を決行する(S19/12)。
木山は真意を明かさないままだが、文学の行き詰まりを意識し、
生活のためにも命がけで打開を図ったとしか思えないのだが・・。

終戦(S20.8.15)の3日前に、現地で応召する。シベリア送りは逃れたが、
難民生活の末、昭和21年8月、引き揚げ船で生還した。
しかし、苦闘はまだ続く。 木山の明るい復活までには
さらに10年を超える歳月がかかることになる。

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 木山捷平:作品一覧


将棋会 第4 休眠期 (S18〜S23)】の頃 (この時期の“阿佐ヶ谷将棋会”

= 満州移住 - 応召・敗戦 - 難民生活 - 引揚げ =

木山捷平(明37(1904).3.26〜昭43(1968).8.23  享年64歳)

昭和18年(1943)、木山 39歳。 “将棋会 第4休眠期” は木山の40代前半にあたる。
昭和18年については、前項に記した通り、大晦日の日記を 「小生この年『和気清麻呂』が
長引いて270枚書いたのみ。小説の仕事ができなかったのは残念である。来年は
少し書かねばならぬ。」 と締めたことが全てを物語っており、戦況悪化が背景にあるが、
不本意な一年だったことが窺える。 昭和19年には疎開が始まり、空襲があるなど、
戦況悪化はさらに進み、国策による戦争文学以外の発表はますます困難になった。

このころ・・ 時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *昭和19年(1944) 年末に満州移住 ---

昭和19年、木山がどのような文学活動を行なったか、どのような生活だったかは不詳である。
年譜によれば、発表作品は、1月の欄に、<曙>に「ねんねこ」、郷里の小雑誌に「春雨」、
<早稲田文学>その他に随筆数編を執筆,、とあるだけである。小説二篇は前年中(S18)に
執筆の小品で、大晦日の日記では、木山としては仕事をしたうちに入っていないと察せられる。

妻みさをは、次のように書いている。(「木山捷平全集 第二巻 - あとがき」 )

「戦争が加速度的に拡大された頃、在郷軍人会や警防団の猛々しい声に促されて、隣組
の各種訓練もさかんになっていたが、ある日の訓練で某大学教授と木山が匍匐前進を
中途でやめたといってひどい叱咤怒声を受けたそうで、もう文学どころではなかった。

昭和19年暮の12月、木山は新京(長春)にある農地開発公社の嘱託として渡満した。
なぜこうした思い切った心境となったのか、私は計り兼ねた。木山は、満州では
まだもの書きができる希望でもあったのか、著作集も出版できると思ったのか、
原稿や切り抜きなど全部持って行った。」

木山は、満州にある農地開発公社に就職し(嘱託として招聘)、昭和19年(1944)12月28日に
新京(中国名 長春)に着いて単身生活に入った。しかし、翌20年8月15日に敗戦、昭和21年
8月に引揚者として着の身着のままで帰国したので、昭和19年・20年の日記帳や記録、メモ類
は何も残っていない。さらに、帰国後も渡満の経緯や心境、満州での実際の出来事の詳細は
ほとんど書かず、語らずなので、当時の妻あての手紙や戦後の作品から読み取ることになる。

木山の満州関連の多くの作品から、主なものを挙げると・・

小説 〜 ・大陸の細道
(*1) ・長春五馬路 ・幸福 ・コレラ船 ・耳学問 ・お守り札 ・男の約束
随筆 〜 ・木山捷平二等兵 ・元陸軍二等兵の告発 ・長春より佐世保まで(*2)

(*1) 「大陸の細道」(S37/7・新潮社)は、「海の細道・雪の原・白兎・花枕」の全4章から成るが、
各章は昭和22年から書き継いだ短編小説 (順に、S22・S24・S25・S32発表) で、
それに手を入れて長編として仕上げた作品である。

小説ではあるが、大筋は事実に近いだろうと推察できる。主要人物は、
主人公「木川正介」=木山本人、「村田」=北村謙次郎、「栗原」=藤原審爾、
「佐P氏」=佐藤春夫で、満州で逝った逸見猶吉は本名で登場する。

「第一章 海の細道」 と「第二章 雪の原」 には、渡満の経緯と満州の極寒体験を、
「第三章 白兎」に は、応召・対ソ連戦車肉弾攻撃訓練の体験を書いている。
「第四章 花枕」 は、先の満州旅行時(S17)の体験記で、すでに前項で触れた。

(*2) 「長春より佐世保まで」(S50/9・ 「自画像」 所収:永田書房)には、編者による次の注記がある。
(本編は著者が、「引揚報告書」として昭和21年8月、引揚船の中で書いたものです。『未発表』)
木山は「提出用」と書き、文学作品というより、見聞した事実を客観的に書き留めた文章である。

本項は、これらの記述と妻みさをの著作、栗谷川虹著 「木山捷平の生涯」 などを参考にした。

     ・満州生活 - 経緯と文学活動

昭和19年(1944)の戦況は日を追う毎に悪化し、年末頃には本土空襲が始まるなど一般市民の
間でも敗戦が囁かれる状況だった。そんな時節に、木山はなぜ満州移住を決行したのか・・

別記 : 昭和史 略年表

「大陸の細道 第一章 海の細道」 によれば、大凡は次のような状況によるものと察せられる。

・木山は、昭和19年春、満州における文学活動の中心的存在である北村謙次郎から手紙を
受け取った。要約すると、満州に農地開発公社ができて内地の文筆人を求めている。
課長に準じた待遇で住宅は提供される。東京で言論の圧迫に喘いだり、防空演習隣組で
腹を立てたりしているより、満州旅行のつもりで来ないか・・という誘いだった。

北村謙次郎は、木山と同年生れ(M37)で、日本浪曼派同人となり小説を発表、木山の
旧い親しい友人の一人である。昭和12年に満州に渡り、同人誌「満州浪曼」創刊を
推進した。大陸の新天地に満州文学という新たな独自性を持つ文学を確立する情熱を
持って活動し、そこには、やはり木山の旧友で詩人の逸見猶吉も参加していた。

北村は、時折帰国して木山と会っていた。「こんな高円寺の路地裏に年中くすぶって
いるより、時には日本を離れて、満目荒涼とした大陸の風景でも見ると、命の洗濯が
できるかもしれないよ」 と木山に行動を促した。木山の初めての満州旅行(S17)には
こうした背景があり、北村の言葉の端々は木山の胸にずっと潜在していたのだろう。

・木山は、佐藤春夫に会って北村からの誘いのことを話すと、佐藤は木山の台所事情も察し、
海軍報道班員の斡旋を提案したが、木山にはそれまでする気はなかった

・この時、佐藤に 「どうもこのご時勢では原稿は書けず、書いても僕のものなんか金にはなら
ないし、」 と話しているが、時勢の所為というだけでなく、この時期における木山の創作の
行き詰まりが窺える。前年(S18)からの発表作品は少ないだけでなく、主題に偏りがあり、
戦後の発表作にも、この時期から構想があったと思える作品は見られない。

その後、北村から何回か催促の手紙が来たが、サイパン全滅(S19/7)の後の頃、
木山は 「意を決して」 履歴書を書き、それを北村に送った。

10月中旬、嘱託招聘決定の手紙が農地開発公社と北村から届いた。

履歴書はいい加減に 「書きなぐった」、「嫌で嫌でたまらぬ気持」 とあり、東京で
赴任手続きを終っても 「まだ飛んで満州へ行く気にはなれなかった」 とある。

このような経緯、状況から、木山は苦渋の選択をしたことが窺えるが、前記のように、
出発に際し原稿や切り抜きなどを全部持って行った。満州での北村、逸見らとの
活動に自らの活路を見出そうと一縷の望みを抱いた決断だったと察せられる。

木山は日本の冬の服装のままでいきなり満州に入り、先ず、異常な寒さに苦しめられた。

このころ、すでに満州でも物資不足が生じていた。防寒用具の配給は2月半ばになった。
年末年始を過ごした旅館、ホテルの暖房はきかず、押入れに入って寝たが零下10度の
寒さで、喘息と肋間神経痛が出で木山は生きた心地がしない状態だった。

間もなく、北村、逸見に再会し旧交を温めたが、北村は 「・・満州随一の専門作家と
いわれた小生も、ついに原稿を書く場所がなくなって、オマンマが食えなくなった・・」
と言い、新京から満州奥地の鶴立に移って県庁の嘱託になったという現実があった。

新京に着いて1か月、木山は「第一章 海の細道」を次のように結んでいる。

「まだまだ体の調子は本物ではなく、真の勝負はこれからであろうが、満州の酷寒と
病気と格闘して、ともかくここまで辿りついた、自分の力が正介は嬉しかった。」


2月、ようやく防寒用具が整い、木山は北村の誘いに応じて鶴立県への出張を願い出た。

出張は1ヶ月間で、鶴立県の農地造成工事の現場視察だが、視察はそこそこに北村と
酒を飲む日々だった。この「第二章 雪の原」の記述は、妻への書簡類を合せると事実
のままではなく、実際には、木山はもっと真面目に仕事をしているが、弘報課嘱託の
任務の重要さははっきりしない。というより、社員の言動や木山の生活の窮屈さから、
すでに農地開発公社の存立自体が危うくなり、仕事どころでなかったようにも見える。

木山が北村と鶴立で酒に明け暮れた3月(S23)、東京は大空襲(3./10)を受けた。木山は、
同日(3/10)、妻宛に 「今日は陸軍記念日で北村君と一杯やってきた・・」 など酔った文字
て飄々と面目躍如の手紙を書いた。この手紙は4月末に妻の元に着いたが、高円寺の
家は4月14日の空襲で焼失していた。(杉並区資料に4/13〜14、高円寺地区空襲とある)

このころの木山の家族 ・・ 一人息子は木山の渡満前(S19/9:小2)に郷里(岡山)に
疎開、妻みさをも3月(S20)に同所に疎開し、木山の母と農作業で生活していた。

木山も妻も筆まめで、木山の満州からの書簡類(妻、子、母宛)は27通が残っている。
(S19.12.29付〜S20.8.1?付まで :「木山捷平全集 第二巻」・「酔いざめ日記」に収録)


文学活動に関しては ・・ 心に期したところだろうが、木山はあまり多くを書いていない。.
妻への書簡に、「出版社が原稿用紙300枚を届けていた」とか「『満州公論』に
小説30枚を書かねばならぬ」 など書いているが実際にどうだったかは不詳である。

ただ、帰国後早い時期に書いた小説「幸福」(S22/1・<東国>)にその一端が窺える。
それによれば、そのころ、北村、逸見、木山の三人は軍部の驥尾に付さない
純文芸誌の計画をたて、題は「飛天」と決め、逸見は表紙もすでに描きあげて、
創刊号に百枚の詩を予定し、北村は随筆を予定、木山は小説を約束していた。
しかし、ソ連の参戦によって計画は万事無期延期となってしまったとある。

この 「飛天」 は、計画に加わった菊地康雄によれば、4月頃、古美術に詳しい北村が
命名し、逸見による表紙も出来上がっていた。雑誌刊行の手段として航空文学会を
結成したが戦況は雑誌どころでなくなった、という。(「逸見猶吉ノオト」(1967:思潮社))

     ソ連の対日参戦(S20.8.8) - 応召(S20.8.12)・特攻訓練

本土各地への空襲、沖縄戦終結(6/23)、広島原爆投下(8/6)と続き、日本の敗戦は
決定的だった8月8日、ソ連は対日宣戦を布告、ソ連軍は翌9日にソ満国境を越えた。

「第三章 白兎」には、ソ連参戦(8/8)直後の8月12日に召集令状を受取り、
即日入隊して二等兵として軍事訓練を受けた様子を中心に書いている。

木山は、ソ連参戦を伝えるラジオを聞き、一杯飲み屋で北村、逸見と飲んで別れた後、
妻宛に遺書的な手紙を書いた。「第三章 白兎」に、日付は「昭和20年8月12日早朝」で、
その日に航空郵便で出したとあるが、妻の手元には届いていない。当時実際に書いたのか、
創作なのか不詳だが、ソ連軍の侵攻を目前に緊迫した現地の木山の偽らざる心境だろう。

この日、この手紙を書き終わった朝、召集令状を受け取った。
当日(8/12)の18時集合という急な異例の指示だった。

日本軍の動き・・木山は、帰国直後から小説、随筆などに軍首脳への怒りを表している。

例えば、“ソ連参戦が伝えられた頃、関東軍(満州の日本の陸軍)の周章狼狽と
独善主義は、軍人本人やその家族が戦場の危難から避難することを第一とした。

一般市民は彼等の家族が公用の馬車や自動車で避難用軍用列車に急ぐ有様を
目撃して私かに眉をそむけた。この一事は新京に於ける家族の疎開風景として
末永く歴史の一頁に特筆すべき珍光景である、とし、さらに、軍首脳はすでに
通化(注:満州南部、北朝鮮との国境近くの町)に退却していたので、下僚の一部が
新京に残り、招集は無秩序、無定見滅茶苦茶に行なわれていた。

国を護るのが務めの軍の将校が一般人民をすてておいて、自分の家族を最初に
避難をさすなんて馬鹿げた無茶が何処の国の軍隊にあるものか・・” と書き、

さらに、“招集は男子40代までいわば根こそぎで、凶器(ナイフ、包丁など刃物)
とビール瓶持参の指示だった。凶器(ナイフなど)は木剣の先に括りつけて敵を刺す
ためでビール瓶はこの中に爆薬をこめて敵の戦車に投げ込むためだった” と続く。

”高級将校は通化へ早逃げして、後は野となれ山となれ、われわれ老兵に
新京を死守させて1時間でも半時間でも、敵が通化へ攻め寄せてくるのを
遅らせようという非人道きわまる作戦をとっていた” とも書いている。

任務は、「戦車飛込特攻隊」・・8月12日18時、公園に集合で、召集兵は5〜600名、
木山は150人ほどの隊に入った。深夜に市内を歩いて順次分散、落後者の如く最後尾を
歩いた木山ら40才過ぎの老兵40人ほどは、最後に国民学校の教室で一夜を過ごした。

翌朝(8/13)の集合で健康状態を問われ、木山らが不調を申し出たが、ソ連軍侵攻という
緊急事態を理由に全く考慮されず、全員にスコップが渡され道路の穴掘りを命じられた。

穴掘りの途中で、召集兵の一人が 「何のための穴か?」 と質問したのに対し、古参兵は
「お前達の墓穴みたいなものさ」 と答えた。ソ連の戦車が来たらこの穴で止めて
穴の両側に隠れた招集兵らが爆弾を抱えてその戦車に飛び込むという作戦で、
召集兵が持参したビール瓶に爆薬を詰め込むとそれが爆弾になるということだった。

次には、学校の講堂に整列させられ、戦車に飛び込む訓練だった。戦車に見立てた
乳母車を動かし、爆弾代わりのフットボールを乳母車の車輪めがけて投げつけた。

昼食後には、戦車飛込特攻隊(「耳学問」では「戦車飛込肉弾隊」)が編成され、木山は
分隊長、古参兵、新兵5人の計7名の分隊となり、持ち場の十字路で穴掘りとなった。

「第三章 白兎」はこの13日で終っているが、翌々日(8/15)に終戦、
そして8月19日に召集解除となって、難民生活が始まる。

招集、軍隊生活に関しては、「大陸の細道」のほか、「長春より佐世保まで」(S21)、
「幸福」(S22)、「耳学問」(S31)、「木山捷平二等兵」(S42) などに同様の記述が
見られる。帰国直後から書き始めており、これらはほとんど事実と見てよかろう。

     敗戦(S20.8.15 - 召集解除〜難民生活

8月15日に終戦となったが、召集解除は19日で、木山は1週間前の応召時の住いだった社宅
の部屋(トキワホテル2階25号室)に戻った。そこは最早ホテルではなく、北満方面からの
避難民(大部分が婦女子)のたまり場のようになったが、木山にとっては貴重な居場所だった。

直ちにソ連軍が進駐し、日本人男性の徴発、シベリア送りが始まった。
木山は危うくこれを免れたが、難民生活を逃れることはできなかった。

敗戦で農地開発公社は解散し、木山にも解散手当が支給されたが、生きるためには収入を
得なければならなかった。白酒(パイチュウ)行商など商売をしたが上手くいかず、解散手当
が底をついた翌年(S21)4月、ボロ(襤褸)を売る仕事の誘いがあった。

他人(雇主)が仕入れたボロ (大部分は日本人家庭が出した古着) を木山が座布団カバーに
詰め込んで町へ持ち込み、露天を開いて売る、・・道路に大きな風呂敷1枚を敷くだけだが・・
いわば売り子の役割だった。

長編小説「長春五馬路」(注)は、この木山の難民生活が主題で、ボロ売りで生活費と酒代を
稼ぎ、しぶとく生き抜いた顛末を書いているが、日本人難民の現実には深くは触れていない。

というより、色模様が絡む小説の後半などはほとんどフィクションだろうが、木山はボロ売りの
難民生活を楽しんだ書き方である。自身を含め日本人の悲惨な生活や多くの犠牲者がいた
ことを知り尽くしていながら、あるいは知っていたからこそ、無事帰還できた身である木山には
このような個人的な書き方しかできなかったということだろう。木山の複雑な心奥が窺える。

(注)
 長編小説「長春五馬路」(S43/10:筑摩書房) は、「1.墓標 2.襤褸(ぼろ) 3.戦禍
4.中国服 5.太常の妻 6.七家子」 の全6節から成り、木山の没直後の刊行である。

 著書目録(全集 第八巻(講談社))に「短編連作」とあり、原題名は次の通り。
1. 「墓と鏡台」(S32/9) 2. 「長春五馬路」(S38/3) 3. 「弾痕」(S39/1)
4. 「下駄と指」(S39/5) 5. 「太常の妻」(S40/3) 6. 「七家子」(S40/7)
(( )内は初出、掲載誌は、1. 3 <群像>、 2. 4 .5 .6 <新潮>。)

ちなみに、木山の日記(S43/4〜8)から、本書の当初の予定は、
五編(2.〜6.)の.短編集だったが、長編「長春五馬路」とすることに
変り、「弾痕」に朱を入れて 「戦禍」 にした経緯があることが判る。

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「昭和史の事典」(1995・佐々木隆爾編) には、ソ連参戦〜敗戦時の状況が次のようにある。


「開戦に先だって満州の関東軍は主力を北朝鮮方面に後退させつつあったので、ソ満国境附近に
入植していた日本人開拓移民(壮年男子はほとんど招集されていたので老人・女性・子どもばかり
の開拓団が多かった)は戦場に取り残され、混乱のなかで多くの犠牲者・孤児が出る結果となった。」


木山はまさにこの歴史の渦中にいて、木山独特の飄々たる文体で作品化し、軍首脳・強者
の狡猾さ、無力な庶民・弱者の逃げ場のない悲運、そしてしぶとく生きた自分を伝えている。

しかし、前記したように、木山は敗戦後に日本人を襲った悲惨な現実に関しては、
新京の無警察状態、満州人の一部の暴徒化、ソ連兵による略奪・暴行・強姦、
日本人男性のシベリア強制連行、国共内戦の銃撃戦など、不安な日常生活を
書いてはいるが、これらを主題にした作品や実録的な詳しい記述はほとんどない。

敗戦当時の新京の日本人約23万人の内、その冬だけで8万人が亡くなった。
自分がその中に入らなかったのは奇跡のようなものだと言うが、妻みさをによれば、
当時のことを聞いても木山は多くを語らず、その苦悩を表現する言葉がないからだと
言ったという。心の奥にはあっても、書けなかった、話せなかったということになる。

そして木山は、次のように言った。(「木山捷平全集 第三巻−あとがき」(S54:講談社))

「敗戦後の長春での一年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた。

― もし墓碑銘ということがあれば、この言葉が最も適切である ―」

これが、二年間にわたる満州生活のすべてだろう。

                            (ご参考:旧満州(現・中国東北部)の略図)
   「大陸の細道」、「長春五馬路」など
木山の満州関連作品に出る
主な地名に印を付した。 

(当時の「三江省」に鶴立県は
あったが、詳しい位置は確認中)


は、近代史によく出る地名。
旅順・大連 (日露戦争 M37〜M38)
関東州 (旅順に関東軍設立 T8)
奉天郊外・柳条湖事件 (満州事変 S6)
山海関 ・熱河作戦 (S8)
盧溝橋事件 (北京郊外 S12)
ノモンハン事件 (日ソ戦闘惨敗 S14)


長春(新京)〜葫蘆島(ころとう)の
距離は、大雑把だが約530qで、
東京〜大阪間と大体同じくらい。

(「世界地図」の縮尺で算出の概数)

参考資料:重田敞弘著『母と子でみる
A24 「満州」 再訪・再考「平頂山虐殺」と
「731部隊」への道』(2003 草の根出版会)
および、ネット「満州国の鉄道路線」


   *引揚げー郷里(岡山県笠岡市)へ ---

木山が引揚げ船内で綴った 「長春より佐世保まで」 の冒頭部分は次の通り。

「我々は長春に於ける日本人遣送の第七次団として去る七月十四日長春を出発したものである。当時総員は
二千五百名であったが、船舶の都合で団員は二分され、うち九百有余名が七月二十二日LST・QO四十五号
に乗船を許可された。今、厚生省当局の指示に基づき、長春に於ける一カ年間の見聞を左に記さんとす。

そしてこの後に、「新京に於ける八月九日前後(昭和二十年)」、「ソ連軍新京に進駐」
「邦人の退職手当」、「邦人の街頭進出」、「日本人会の組織」、「東北工営のことども」
「八路軍と邦人」、「ソ連の軍人狩など」、「正統中央軍の入域」、「物価」、
「満人の邦人に対する感情」、「邦人道徳と教育の問題」 の12項目などを記している。

実録的な記述で、「長春五馬路」など敗戦前後の満州を舞台にした木山作品の背景である。

     長春(新京)から葫蘆等(ころとう)まで

木山のメモによれば、 昭和21年7月14日、4時、小雨の中、木山は引揚げ者の一員として南長春駅を
出発した。乗ったのは無蓋車(注・主に石炭を輸送する屋根のない貨車)で、雨に濡れての出発だった。
奉天で日本酒を買い、15日、16日と車中、「収容所行」とあるので16日に葫蘆島辺に着いたようだ。
17日〜20日は草取り、使役などとあり、21日不眠。22日未明出発。
「小生は荷馬車(500円)にのる。」とある。これは収容所から港までの移動だろうか・・

長春から葫蘆島まで、距離は大雑把ながら500〜550q、東京〜大阪と同じくらいだが
3日間を要している。運転速度の所為だけでなく、動かない時間が長かったのである。

木山のメモや作品にあるこの行程は、自身の体験として淡々と書いているが、他の多くの体験記録、
調査資料などによれば、その途は不安、危険の連続で筆舌に尽くし難い非情、悲惨な現実もあった。
木山は、引揚船上の心境を 「もうここまで辿りつけば、強姦もないし、シベリア送りの拉致もない・・」 と
書くが、道中の見聞に深く触れた文章はなく、生還した多くの人に共通のいわば貝化状態が見られる。

7月22日、引揚げ船「LST・Q045」に乗船、同日、葫蘆島を出港した。

     引揚船(LST・Q045号)・・コレラ発生−上陸遅延

 「LST」は、米海軍の戦車揚陸艦で、引揚げ船として使用された。本来の用途は戦車運搬で、
戦車を積んだまま敵地の砂浜に乗り上げ、戦車は自力で船倉の口から出て砂浜に上陸する
構造の軍艦である。船倉は戦車を置くため平らな鉄板敷きで、そこに人間が乗ったのである。
人間のための特別の造作はなく、ゴザを敷いたくらいの状態だったようだ。

参考までに・・木山の文章にある、「日本人遣送」、「葫蘆島」、「引揚船 LST] に関して

*「日本人遣送」・・「遣送」(けんそう)あるいは「遣返」(けんへん)という文言があるが、
これは日本語にはなく、中国での呼称。日本人にすれば「引き揚げ」である。

*「葫蘆島(ころとう)」・・遼東湾にある港湾都市で、島ではない。鉄道が通じている。

*「引揚船」・・LST(略号Q)の他、米軍のリバティ輸送船(V)や日本船舶も使われた。

行き先は山口県の仙崎港(現・長門市)で、乗船した引揚げ者は900余名、出港4日後の
7月26日未明に仙崎沖に着いたが・・、上陸を待つ間に思わぬ事態が発生した。検便で
コレラ患者が見つかったのである。このため仙崎では上陸できず、船は佐世保に向った。
木山は、葫蘆島から佐世保上陸までの船内模様を日記風のメモにしている(「酔いざめ
日記」などに収録)。また、この間を題材にした小説「コレラ船」(S34)を発表している。
小説の大半はフィクションだろうが、メモを併せると安堵と不安、船内の雰囲気が伝わる。

佐世保上陸は長春を発って40日、8月23日だった。郷里の笠岡駅に降りて、迎えに来た
妻みさをと再会したのは、8月26日の夜遅くだった。妻みさをによれば、木山の第一声は
「飯はあるか、酒はあるか」 だったという。木山の生家(新山村・現笠岡市)は、笠岡駅から
北へ約10qの山間にあり、その夜は駅前の旅館に泊まるほかなかった。そこで木山は
猛烈に食べ、飲んだ。そして妻みさをから、その年の1月に母(為)が他界したことを
聞いたが、木山はその悲しみがわいてこなかったと、小説「立冬」で述懐している。

(これらの帰郷時の様子は、木山の小説「立冬」、「豆と女房」、
妻みさを著の「生と死の詩-文学の道」(S47) などに詳しい。)


なお、木山は触れていないが、佐世保から笠岡まで乗ったのは貨物用車両だったかも
しれない。日本国内でも、客車は不足しており、有蓋貨車(屋根がついた貨車)だった
可能性がある。体験記などによれば、客車は少なく、無蓋車も使われていたようだ。


                       
引揚げに関して参考まで・・

          ネット上に多くの情報がある。木山の満州体験に深く関連するサイトの記述を挙げた。
                なお、体験記的なサイトも数多くあるが、ここでは除外した。

  *参考サイト「戦後中国に於ける日本人の引揚げと遣送」 (佐藤 量:立命館言語文化研究25巻1号)
   
       (引揚げ者の視点ではなく、送り返す側など関係国間の思惑が絡んだ歴史問題として捉えた論文で、
       満州の関連では、次のような記述がある。)

   
ポツダム宣言には、日本の軍隊は武装解除し、軍人は本国送還と明記されたが、民間人については明記が
     なく、扱いは地域に於ける統治者に委ねられた。

   
終戦時(8月〜9月)、日本政府は諸要因に鑑み「民間人は現地残留」を基本方針としたが、戦後、実際には
     アメリカ、中国(国民政府・共産党)、ソ連など関係国・勢力の思惑が絡み合う中で、アメリカと中国(国民政府)
     との2度の上海会議(S20/10・S21/1)で、アメリカの意向が反映されて日本人早期送還の方向が決まった。
   
      (注) 日本政府の方針は、9月(S20)には日本人早期引揚げに変わったが、日本はGHQの統治下に置かれ、
          外交交渉もGHQの指示、指令に基づいた。
          満州は、進駐したソ連軍が支配し、ソ連兵による略奪、暴行、強姦は凄まじかった。(撤退はS21/4)
          中国は、国民政府(アメリカが支援)と共産党(中共軍:ソ連が支援)が内戦状態にあり、両者が
          満州においても勢力範囲の拡大を図っていたので、統治、治安は極めて不安定だった。

   
昭和21年5月11日に「在満日本人の本国送還に関する協定」(アメリカ・中国)が成立し、葫蘆島が送還の
     輸送基地として確保され、満州地域からの集中的な大量人員輸送の体制が整えられた。

      (注) 「在満日本人の本国送還に関する協定」が共産党(中共軍)との間で成立したのは昭和21年8月。

   アメリカは、LST輸送船85隻、リバティ輸送船100隻、病院船6隻を提供し、これに日本の船舶が加わって
     組織的に大規模な輸送を開始、葫蘆島から100万人の日本人が引揚げるにいたった。



  *参考サイト 「中国残留日本人孤児訴訟 判決全文」 (神戸地方裁判所 第6民事部・H18.12.1)

 
   (判決文中の「認定事実」の項には、歴史的事実が示されており、満州関連では次のような記述がある。)

   
関東軍は、昭和20年7月10日、弱体化した関東軍の人員補填のため、在満邦人のうち18歳以上45歳以下
     の男性全員約20万人を一斉に招集し、これらをソ満国境付近に配置した(いわゆる「根こそぎ動員」)。

    (注) 判決文中、「争いのない事実」の項には、次の記述がある。
        
     ・ソ連は、昭和20年8月8日、対日参戦通告をし、ソ連軍は、翌9日午前零時を期して満州への侵攻を
        開始したが、大本営は、我が国の国土であった朝鮮半島を確保することを第一義とし、満州を防衛の
        対象としておらず、関東軍は、軍人・軍属とともに朝鮮半島方面に後退したため、ソ連軍の侵攻は
        極めて速かった。

        そして、戦況について何も知らされていなかった開拓団民らは、突然のソ連軍の侵攻にさらされ、混乱し、
        多数の犠牲者を出しながら避難を開始し、避難民となった。
        原告らを含む一般開拓民の逃避行は困難を極め、ソ連軍の襲撃による殺戮、強姦、強奪、集団自決等に
        より多大の犠牲者を生み出した。また、無防備な逃避行に対しては中国人からの襲撃もまれではなかった。

   日本は、ソ連参戦後の一時期、在満邦人に対して現地土着政策ともいうべき政策を取ろうとしていた。この政策は、
     終戦後に我が国が占領され、GHQの占領政策により政府の防衛・外交機能が全面停止させられたことから、
     結果的に実行に移されることはなかったが、(中略)、一部において引揚げを遅延させる原因となった。


   
GHQは、(中略) 昭和21年3月16日、引揚げに関する基本的大綱(引揚げに関する基本指令)を策定した
     後は、これにより包括的に指令した。
     
     GHQは、各国からの輸送に当たり、各地の連合国軍及び各国政府と連絡を取り、軍人軍属の復員と緊急を
     要する地域の邦人の引揚げを優先し、一般邦人については各国との協定によって順次帰還させる方針を採った。
     この間、政府は、GHQに対して引揚げに必要な船舶の貸与を要請し、輸送船100隻、LST輸送船85隻、
     病院船6隻の貸与を受けた。
     
     満州地域は、(中略) ソ連軍はGHQの上記方針を受諾せず、また、在満邦人の本国送還について何ら措置を
     執らなかったため、この地域の引揚げ開始は他の地域に比べ大幅に遅れることとなった。


   
ソ連軍は、昭和21年4月、在満邦人引揚げについて措置を執らないまま満州から撤退した。
     当時、中国国内は、国民党政府軍(国府軍)と中国共産党軍(中共軍)の内戦状態にあり、旧満州地域も同様で
     あった。米軍は、昭和21年5月、国府軍の中国東北保安司令官との間で在満邦人の本国送還に関する協定に
     合意し、昭和21年8月、中共軍との間においても送還協定に合意した。これら協定に基づき、昭和21年5月から
     同年10月までに約100万人の引揚げが実施された。
     (中略)
     その後も昭和21年11月から昭和23年8月まで、大規模な集団引揚げが順次実施され、合計約4万人の
     在満邦人が引揚げることができた。
     もっとも、これら集団引揚げで引き揚げることができたのは、自力でコロ島まで移動することができた者であり、
     中国人に引き取られた残留孤児が引揚げに参加することは不可能であった。


  *参考サイト 「かえり船 厚生労働省 あさコラムvol.23」

       (厚労省のサイトで、引揚げ船での感染症に関し、次の記述がある。)

   
「引揚検疫史」に基づく引揚げ検疫実績によりますと、昭和20年(1945)10月から昭和21年(1946)12月
     までの佐世保港に於ける検疫人員は約112万人、782隻の検疫船舶数のうち汚染船舶数は104隻。
     この間、コレラの患者数は299名で死者は72名、発疹チフスは患者数107名で死者7名、痘そう(天然痘)は
     患者数29名で死者5名となっています。

     (注) 木山が乗ったLST以外に、葫蘆島から舞鶴に入港したリバティ輸送船もコレラで佐世保に回航された。
        (「舞鶴地方援護局の年表:S21.7.27・V27号(2485名)」・・サイト「引揚げの歴史-3-上安時代」)
        佐世保に入港した782隻中104隻といえば13%余で、かなりの高率に思える。コレラ発生の船はすべて
        佐世保に回航されたのだろうか? 

        佐世保市役所に問い合わせたところ、理由は不明だが、昭和21年5月に、GHQからコレラ発生の引揚船は
        佐世保に回航するよう指示があったとのことである。
        
        なお、「在外邦人引揚の記録」(S45:毎日新聞社)によれば、昭和21年5月14日に、葫蘆島引揚げの
        第1船、1219名が佐世保に上陸した。以後、各地の受入れ港に続々と着く引揚船にはコレラの発生が
        想定され、その対応を佐世保に委ねたのかもしれないが、同書よれば、同年7月に葫蘆島から博多へ
        入港した船にコレラか続発し、同年8月5日に、博多はコレラ港に指定されたとある。


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木山捷平:作品一覧

                       (「将棋会 第4期 休眠期(S18〜S23) 引揚げ」 まで・・H30/9UP)

   *郷里にて ---
     
     ・上京切望も叶わず

木山は、昭和21年8月30日の日記に、「命あって、我家にいることの不思議さを味わう。
母の墓に帰国後今日始めてまいる。下痢つづく。百舌鳥なく。妻豆こなし。」 と書いた。

自宅に帰り着いて4日目、この日から、本格的に日記を再開したのだろう。
生還を喜び、生きている実感を味わう姿が伝わる。

このとき、木山が切望したことは上京だった。佐世保からの切符は東京までで、笠岡は途中
下車だった。木山の心は急いだ。何としても直ちに満州への出発点高円寺の地に立ち戻り
たかった。そうしないと人生が現在に繋がらない・・再出発出来ないとの心境だったようだ。

しかし、体調は激しい下痢で栄養失調状態が続いた。妻みさをによれば、帰郷後4〜5日で
上京すると言ったという。無理なことで、みさをがこれを制して実現しなかったが、木山は
よほど無念だったようだ。後に、「あとあとまで、家内をつかまえて不平を言ってやった。」
と 「井伏鱒二」(S39/10<群像>)に書いているが、みさをは、次のように書いている。

「このことで後年、恵まれない生活の時、私を悪妻と罵る言葉となった。『お前の
悪計にのせられて、あたら文学の道を遠くした』。 口癖のように私を詰った。」
(みさを著「生と死の詩−文学の道」より。帰郷時の様子が詳記されている。)


木山は、みさをの心配を意に介さず、旺盛な食欲に任せて 「胃腸再建のため益々メシを
投下してやったのである」 の状態だったが、9月9日の日記に 「不思議なことに下痢
止む。」 とある。下痢は2週間以上続いたが、いわば木山流治療法を貫いて克服した。

この9月9日の日記に、田辺茂一からのハガキで旧友倉橋弥一の事故死を知ったとある。
戦前からの友人知人たちに郵便で帰国報告をしながら旧友の消息を訊ねていたようだ。
森の太宰治からの返事には、伊馬春部、今官一、塩月赳、亀井勝一郎、井伏鱒二の
居所が書かれ、「僕も今年中には東京移住のつもりです。」とあった。
また、同日の日記には、倉敷に藤原審爾を訪ね2泊したことなども書いている。

原稿も書き始め、「帰国」(S21/12)、「幸福」(S22/1)、を発表、通院で健康回復に努め、
文学活動の本格化を目指しながら、藤原ら近くに居る文学仲間との交遊を始めた。

     ・井伏と再会−文学仲間との交遊

10月14日(S21)の日記に、井伏と再会したことを書いている。井伏は、この時、郷里に
疎開中(現・福山市)で、笠岡(福山と隣接で近距離)に疎開中の古川洋三(M43〜H9
:直木賞候補(S40)) のところに三人が集まって飲み、明朝はハゼ釣の予定という
簡単な記述だが、木山は、後に 「井伏鱒二」(S39)の中でこの時を詳記している。

井伏もまた、木山の長編 「長春五馬路」刊行(S43)に際し、追悼文で「木山君の人がら」
(S43/10・「井伏鱒二全集 第24巻」所収)を寄せ、この再会の様子を詳記した。

木山は、井伏に師事したわけではないが畏敬の念を抱いており、井伏は、以前、木山の
出版記念会(S16)の色紙に「捷平と血族をあらそふ春の宵 弟たりがたく 兄たりがたし」
と認めたように、二人は、文学仲間らに作風の近さや親密さを言われる間柄にあった。

昭和19年9月、井伏は当時疎開先の甲府から上京して木山宅を訪ね、将棋を指し、
持参の野菜類を置いて帰った。木山は、野菜不足の東京でとてもありがたかった、
リュックを背負った姿が印象的だった、と書く来訪だったが、それから約2年、特に
木山にとっては生死の境をくぐり抜けての再会に、感動に震える喜びだったようだ。

この後の日記には、当地の文学仲間が集まって酒を飲む記述が目立つようになるが、
こうした会合について、木山は前出の「井伏鱒二」に次のように書いている。

「その後東京の疎開者が集合して酒をのむようになった。メンバーは、上記三人(注:
井伏、古川、木山)のほか、小山祐士、村上菊一郎、大江賢次が加わり、在郷組からは
藤原審爾、高田英之助、木下夕爾なども参加した。会場はその都度あちらこちらで、
笠岡のこともあれば、倉敷のこともあり、尾道のこともあれば、三原のこともあり、と
いうような具合であった。ただし、これらはみな山陽本線に沿った町であった。


この会には名前がなかった。例の会と口で言ったり、葉書に書いたりすると、
それであッと通じた。それほど、この会はたのしいものであった。御大であり
長老である井伏鱒二氏のかもし出す雰囲気にわれわれは酔った。文壇の
エース井伏鱒二氏を、われわれ疎開組だけで独占しているような快感が、
この会には満ちあふれていた。会に出ればみな東京気分になった。」

しかし、この会は、井伏が疎開を終わり東京へ帰ってしまうと(S22/7)・・、

「残留組は1、2度残念会みたいなことをやって気勢をあげたが、(中略) 田舎が
つまらなくなり、その後何ヶ月かの間に続々と皆上京してやっとけりがついた。」

このころ、東京では大家・中堅作家が活動を再開、新人の台頭、文芸誌の復刊、新刊、
同人誌発刊などがあり、文学・出版界は活況を呈していた。太宰はすでに帰京(S21/11)
して、出版社の座談会への出席や「ヴィヨンの妻」(S22/3)、「斜陽」(S22/7〜)
発表などで活躍し、井伏も執筆や度々の上京など戦後新時代への対応に忙しかった。

木山は、屈託なく会合を楽しんだ風に書いているが、当初はともかく、時が経つにつれ
その胸中は複雑に変化し、井伏の出立後は焦りの気持が強かっただろう。
井伏からの東京情報を耳にして、 “東京気分になった” どころか、一日も早い上京の
思いに胸が痛んだはずである。しかし、体調問題だけでなく資力が乏しかった。

井伏によれば、再会の折に、木山は「僕は地主で、家内が小作人」と言ったという。
つまり、自分は何もしていない、生活は妻の働きで維持しているという不甲斐なさを
意識した言葉だろう。実際、木山の原稿料収入などは微々たるもので、生活は
専らみさをによる農作業と衣類など持ち物の処分といった金策に頼っていた。

     ・念願の東京行−執筆努力

昭和22年3月4日、「東京行。念願していた東京行やっと叶った。」・・日記の冒頭である。

「高円寺駅に降りて、バラックの中を通りぬけ、五八八番地の我家(借家)の焼け跡に
佇むことしばらく。」とある。「耳かき抄」(S30/7)に「東京から出発したものは、東京に
帰着せんければ、気持の筋が通らない」と書いているが、ようやく筋を通したのである。


この日は、阿佐ヶ谷の外村繁、青柳瑞穂を訪ねて再会を喜び、佐々木金之助宅に宿泊、
帰郷は3月12日で、8泊9日の滞在だった。おそらく知人・友人宅での宿泊だろう。
日記に、「この間に逢った人」 として次の名前が列記されている。

「佐々木金之助、外村繁、上林暁、青柳瑞穂、平島秀隆、加納正巳、小森盛、新生社、
小山書店、鎌倉文庫、文藝春秋香西、交通公社古賀、読売新聞篠原文雄、
早稲田逸見広、群像、光編集者、庄野光雄、月原橙一郎、安藤一郎、浅見淵(敬称略)」


戦前戦中に親交があった面々や出版関係者だが、塩月赳、太宰治の名がない。
翌年3月、6月に相次いで逝ったこの二人だが、会えなかったのだろうか?

年譜、書誌類を見ると、「帰国」(S21/12)、「幸福」(S22/1)を発表の後、「春の消息」(S22/6)、
「海の細道」(S22/9)、短歌「長春望郷歌」(S22/12)、「水たまり」(S23/2)、「春雨」(S23/3)、
「原野」(S23/3)、「どろ柳」(S23春)、「老梅」(S23/4)、「立冬」(S23夏)、「枯木の花」(S23秋)、
などを執筆、発表している。 (別項目 「木山捷平:作品一覧参照)

このうち、「海の細道」と「どろ柳」(後に改稿「白兎」)は、長編「大陸の細道」
(S37)の原形である。みさをによれば、「初め300枚くらいの長編を書くつもりで
いたが、引揚げ後の回復が遅れ、生活上の不安からくる心身の不調が重なり、
一気に書きあげることができず、ぽつりぽつり短編として書きついでいた。」


困難な状況の中で、複雑な心情を抱いて文学仲間と交遊しながら
執筆に努めた木山の懸命な姿が窺える。

     阿佐ヶ谷会の復活と木山

昭和23年2月28日、日記に「阿佐ヶ谷よせ書来る。」として、寄書きを次のように載せている。

木山捷平大人に 捷平と将棋さしたし 東京を恋ひて泣くとふことの悲しも   安成二郎
げいじゅつをやれ   井伏鱒二
ぼくはカストリを飲みたい   外村 繁
君が東京に来たのは丁度去年のこのごろであった。僕は不相変飲んでゐる。
 今年になってからの棋戦六連勝です。   上林 暁
東京にて呑まさらま志   原 二郎
ご健闘を祈る。読売文化部   平山信義
酒闘一闘の兄。   真尾 信
木山君へ、僕はただこれだけです。   青柳瑞穂です。
井伏さんを通じてしか知らない悲しみ。   朝日新聞社 伴 俊彦
木山やなつかしきとこそ思へど、ただ言ふ早く来よ(酔ひて)   亀井
月をまつ心は、人を待つ心。   大四(巖谷)
              (朱色二十字詰原稿用紙五枚、墨書大文字)

日記の記述はこれだけだが、後の「耳かき抄」(S30)には次のように書いている。

「おのおの、田舎住まいの私を鼓舞激励するみたいな文句が、躍っているのであった。」
(筆者名はないが、亀井、巖谷、青柳、安成、の書を例示)
「何処で飲んだのか、いずれは阿佐ヶ谷あたりの隠れ家であろう。酔筆朦朧とした文句を
一瞥した私は、その場の情景が目に浮かんで、今すぐに見てはならぬものを見たような
気分が勃然とわいて、急ぎ寄書きを封筒に収めると、・・」

木山は、たまらず笠岡の町へ自転車で飛び出していった。
感激と強烈な刺激とで じっとしていられなかったのだろう。

終戦前の「阿佐ヶ谷将棋会」は、この時、将棋抜きの純然たる飲み会「阿佐ヶ谷会」に変身し、
復活していたのである。(詳細は別項「敗戦から戦後第1回「阿佐ヶ谷会」まで」参照)

木山は、戦後のこの「阿佐ヶ谷会」にも熱心に出席した。昭和31年には<笑の泉>1月号に
「阿佐ヶ谷会雑記」を書くなど、飲み会を楽しんでいた様子が窺える。

木山は、特に戦前からの友人小田嶽夫と親しく交遊し、趣味は将棋から囲碁に変わった。
木山は囲碁初心者で、小田に手ほどきを受けたが、負けず嫌いは相変わらずで、
小田は、負けが続いた木山が碁盤をひっくり返したエピソードを紹介している。

     上京−帰郷−上京−帰郷−単身転居したが・・

日記によれば、阿佐ヶ谷会の寄書きに心が震えた翌月(S23/3)、東京から塩月赳の訃報があり、
6月には太宰治の心中を新聞で知った。弟の籟は昭和20年6月に沖縄で戦死との報があった。

ほかにも知人の戦死、家族死亡の記述が多い。日記には無いが、4月には青柳瑞穂の妻の訃報
もあっただろう。その都度、木山は驚き、悲しみ、故人の在りし日に思いを馳せたことだろうが
そのような記述はない。満州以来、夥しい人の死に接した木山の胸中に、文章にはならない、
常人には窺い知ることのできない戦争への怒りや無力感、無常感が交錯していただろう。

年末(S23)には外村繁の妻の訃報、さらにはA級戦犯東条英機ら7名の処刑が記されている。

戦後新時代への社会の動きは速かった。郷里の生活が長引くにつれ、木山には焦りが募った
ようだ。当地で親交を深めていた後輩の藤原審爾は、前年発表の「秋津温泉」が好評で、
5月(S23)には東京に居を移して本格的な作家生活に入ったことも影響しているだろう。

みさをによれば、身体が恢復するにつれて精神的な焦立ちが激しくなったという。感情を
制御できず、イライラを爆発させてみさをに暴行する(例えば8月21日の日記)ことなどが
あり、木山は、このままの状態では郷里で朽ちていくだけと覚って上京を決意したようだ。

日記によれば、9月10日(S23)の夜行列車で、帰国後2度目の上京をした。みさをによる金策、
切符・食料手配だったようだ。滞京約20日間、10月2日に帰郷した。この間、知人宅などに
泊まり、井伏、藤原ら旧知の仲間に会い、29日には復活した阿佐ヶ谷会にも出席した。
原稿「枯木の花」は創芸社に売れた。「突然なり」とあるので望外の収穫、喜びだったようだ。

推測だが・・ 木山は、この上京であわよくば東京に居つこうとしたのではないだろうか。
最大の問題は住居で、藤原審爾の場合には師である外村繁の家に同居することで上京
できたが、東京の住宅不足は極めて深刻で、家賃は高騰していた。長い東京滞在で
貸家を探したが、やはり木山の資力では無理で、一旦帰郷するほかなかったのだろう。

昭和24年を郷里で妻子とともに迎えたが、このころ、旧友小田嶽夫は疎開先の新潟から東京
へ転居、笠岡で親交を深めた古川洋三も東京へ移っていた。木山の気持は推して知るべしで
みさをが骨董屋、古着屋を呼んで資金作りを進め、3月9日、東京転入を目指して出立した。

3月26日、木山45歳の誕生日に、杉並区西荻1−1 に2階6畳間を借りて移り住んだが・・、
単身の自炊生活に疲れ切って5月末頃に帰郷、8月末にようやく西荻に戻った。

しかし、11月22日の日記に 「近頃、家のことで頭が痛む。早く狭くても一戸に入らねば妻子も
上京できぬ。そして自分の生活も駄目になる。神経衰弱気味。」 とあり、心身の不調は続いた。

   *東京定住 ---

     ・“絶不調”は続くが・・私生活に大転機

この状態は昭和25年になっても変わらず、7月2日の日記に、「この頃、一人の生活の苦しさ、収入
少なく死ぬほど寂寞、近日又田舎に帰らんと欲す。」と記し、11月まで約4ヶ月間帰郷した。年末には
「今年も体が悪くて年の瀬となった。一人暮し心身共に疲れた。妻も子も亦哀れである。」 と記した。


心身の不調を紛らすことになっていたのか、阿佐ヶ谷会出席など文学仲間との交遊は積極的だった。
安酒に憂さを晴らすことも多かったようだ。このころの日記には会費や酒代など細かい支出に関する
記述が多く、生活苦が窺える。原稿に関する記述もあるが、大きな収入には繋がらず苦労している。
執筆は思うように進まず、作品発表は減少、先細り状態にある。(別項目「作品一覧」参照)

そして・・ 昭和26年、私生活面は大きな転機となった。

1月19日の日記に 「1月7日にひいた風邪咳に苦しんだが、やっと元気になった。懐中時計を
入質して三百円。嗚呼いやなさびしい人生、死にたいような気持でくらした。小山書店に二度
電話をかけたが断られた。文藝春秋鈴木貢氏来訪、一万円持参してくれた。これにて当分
ほっとすることが出来る」 とある。昭和26年初頭の木山の実情の全てを物語っている。


この1月に “突然”、3月に “ひょっこり”、みさをが上京した。木山の不調を心配した対応だったかも
しれない。3月の上京では家や土地探しをした。その結果だろうか・・、3月19日に練馬区立野町の
土地(58坪少々)に手金二千円をおき、みさをに何としても金策して至急上京するよう依頼した。

4月にこの土地の購入手続きを完了した。資金は郷里の山林の売却で得たようだ。続いて5月に
中学2年になった息子が上京して木山と同居した。中学の先生に東京の高校へ入学するよう
勧められ、それなら今から東京の中学に通わないと無理ということで、5月に急な転校となった。
息子を連れて上京したみさをは郷里へ帰り、木山と息子の二人の東京生活となった。

しかし、心身の不調は続いた。例えば10月23日の日記に、「このごろ心臓がおかしい気がする。
血圧が高いのか。どきどきして不安なり。時々ふるえている気持である。」 などとあるが、帰郷は
していない。代わって、みさをが再々上京し、年末の上京ではみさをが金策に回り、藤原審爾宅
まで訪ねて一万円借りた。木山の胸中は一寸気になるが・・、新年は東京で家族三人で迎えた。

     ・「木山捷平を激励する会」(S27.8.10)

昭和27年、日記に体調不調の記述は少ない。不調は続いたようだが、息子との同居、みさをの頻繁な
上京があって落ち着いてきたように見える。私生活面では、息子が都立西高に合格、住居のことでは、
4月に家主の都合で西荻窪を出て近くの大宮前に二部屋を借りた。さらに7月に荻窪(天沼)の
荻窪荘に転居した。立野町の土地に家を建てることにも奔走し大忙しだった。

一方、執筆はほとんど進まなかった。ここ2年間で、発表作品は短編小説2篇(「独身者」(S26/8)、
「流浪抄」(S27/1))のほか随筆少々だけである。文筆収入は僅かなもので、どのように暮らしたのか
不思議なくらいである。みさをの才覚、生家の家財処分などに頼るほかなかっただろう。

そんな中、8月10日に「木山捷平を激励する会」が新宿樽平で開かれた。木山の不調を見かねた
井伏らが発起人で、出席者は、河盛好蔵、外村繁、小田嶽夫、浅見淵、原二郎、北村謙次郎、
巌谷大四、小沼丹、吉岡達夫、庄野、亀井勝一郎、村上菊一郎、加納正吉、赤岡、井伏鱒二で
(木山の日記の記載順)、大半が阿佐ヶ谷会のメンバーである。嬉しかったに違いない。

この翌日、落選続きの住宅公庫だったが、ようやく当選の通知が届いた。

     新居−無門庵−完成!

住宅公庫からの借り入れで、練馬区立野町に13坪余の家を新築した。、杉並区に接しており、最寄り駅は
吉祥寺で(中央線:荻窪-西荻窪-吉祥寺-三鷹)、北へ徒歩約20分である。12月17日(S27)に入居した。

この時、木山48歳、みさを44歳、息子は16歳(高校1年)だった。

12月31日(S27:大晦日)の日記に次のようにある。

「今年は辛い苦しい年であった。心身ともに疲労して、
仕事も出来なかったが、十三坪の家だけは借金で出来た。」

木山は、後に、この家を「無門庵」と称し、生涯の住居とした。

   *それからの木山 ---

*念願の土地を持ち、小さいながらも我家を建て、家族3人の生活が戻ったことで精神的な落ち着きが
感じられる。阿佐ヶ谷会など文学仲間や文学関係者との交遊は活発で、発表作品も増えている。

とはいえ、経済的、体調的な苦しい状態は続いている。

*昭和28年には、生家の小作田を売却した。「祖先の残した農地、解放後、所有として認められていた
僅かの地所売却に心暗し。しかし、それより他によい思案も方法もあるまい。」(S28.3.20日記)とある。

*体調面では、日記に、脳下垂体手術)の失敗(S28)と右手指の怪我(S28)の不治、神経痛(S29)と円形
脱毛症(S29)の記述があり、昭和29年を次のように締めくくっている。 「苦しい年月がつづいて
神経も指も痛んだ。経験した人でないと解らないだろうが、収入の少ない生活がつづくと、
いらいらして円形ハゲになるとは、笑い話のような、かなしいことである。」(S29.12.30)

*昭和30年-31年になると、右手指の痛みに関する記述はあるが体調不調に悩む様子は見えない。
執筆や原稿料、文学仲間の動き、社会情勢など自身の活動に関連する出来事が目立ってくる。
金策に苦労する様子も窺えない。息子は慶応大学に合格(S31)した。運気上昇の兆しだった・・。

     作家としての転機−「耳学問」(S31)

昭和31年の正月は郷里で迎えた。年末から帰郷し、3月2日まで2ヶ月余の滞在だった。
祖父母の33回忌法要、中学同窓会、親類縁者、旧知との再会などで旧交を温めた。
帰京の日に墓参し、日記には、「諸氏に畑と山林の管理を依頼しておく。」とある。

推測だが、この後の生家の資産管理がやりやすくなるよう、多くを整理したのだろう。
その結果、東京での生活費を補うことができ、文学集中度が上がったとも思える。


このころの日本は、神武景気(S29/12〜S32/6)といわれる好景気にあり、「もはや戦後ではない」
(経済白書(S31/7)の文言)という流行語もあった。高度成長期の明るさがあり、文学・出版界も
石原慎太郎「太陽の季節」(S30/7・S31/1芥川賞受賞)が大きな話題になるなど賑やかだった。


昭和31年、木山は「耳学問」を<文藝春秋・10月号>に発表した。

敗戦直後の新京(長春)での難民生活にあって、シベリア送りを免れるため
ロシア語の短いフレーズ一つを習うなど苦労したが、幸運にもロシア兵や
中国人官憲に捕まらなかった物語を木山独特の筆致で書いたものである。


この作品を、文芸評論家の平野謙が毎日新聞の文芸時評(S31.9.23)で賞賛した。
木山は、自身の写真も載ったその評を日記(S31.9.24)に書き写し、「平野氏の評を読み
ながら、今日ほど心たのしいことはなかった。」 と記した。よほど嬉しかったに違いない。

好評を受け、創作集「耳学問」出版の準備が進み、翌年1月(S32)には直木賞候補になった。
賞は逸したが(受賞は今東光「お吟さま」と穂積驚「勝烏」)、木山は注目を浴びる存在となり、
作品発表数は、昭和32年(1957)から急増している。

ようやく、作家 木山捷平の出番がきた。

     ・長編「大陸の細道」−芸術選奨文部大臣賞受賞


(別項目 「木山捷平:作品一覧参照)

昭和32年からの発表量の急増は、「作品一覧」で一目瞭然である。亡くなるまで(S43)の10年余、
木山はそれまでの不調が嘘のような作家生活が続き、栗谷川虹は、「井伏鱒二をして、『木山君は
才能をいままで貯金をして使わないでいたらしい』といわしめた(河盛好蔵による)」 と書いている。

文学賞など栄誉とは縁が薄かった木山だが、昭和37年刊行の初の長編「大陸の細道」は、芸術選奨
文部大臣賞に輝いた(S38/3)。木山の創作活動は、小説・詩に紀行文、随筆に加え俳句を始めた。
テレビ出演、ラジオ放送もあり、木山の名前と新旧の作品が広く社会に受け入れられたのである。

ところで・・、ここで昭和39年春の早大教授S氏との握手事件に触れないわけにはいかない。
木山の気持は解るにしても、一連の対応には尋常ではない、理解に苦しむものがある。
(栗谷川虹著「木山捷平の生涯」、岩阪恵子著「木山さん、捷平さん」に詳記がある。)

思うに、S氏の握手に悪気はなく、その後の言動にも悪意はなかったと認めていいが、
木山にとっては強者による無神経な暴力暴言で、恐怖・怒りを納められなかったようだ。

日記(S39.2.24)によれば、この日の仲間との会合の後、泥酔したS氏が木山と握手し、
その時、木山の指がボキッと鳴った。ひどい痛みを感じて帰宅したという。
この右手指の痛みは終生続き、S氏のその後の言動への不信感などを多くの作品で
発表した。二人は<海豹>(S8)同人以来、長い交友があったがその関係は断たれた。

私見で・・、握手とはいえ、強い握力で傷つけられた右手薬指の痛みは執筆をも妨げた。
心奥に収めていた長い不遇時代の悲哀、苦衷が甦ったかもしれない。友人らの取りなしを
頑なに拒んだが、指の痛みとともに、理不尽、無慈悲な境遇に心の傷の深さを窺わせる。
木山の無念、悲鳴が聞こえるようで、さながらムンクの名画「叫び」を思わせるのである。

   *見るだけの 妻となりたる 五月かな ---      

昭和43年正月を練馬区立野町の自宅で迎えた。木山63歳、妻みさを59歳、
長男31歳、長男の妻27歳、孫(女)1歳、の5人家族になっていた。

この年(S43)元日の日記に「右指痛む。つくづくと見て、この痛み終生癒えるざるを悲しむ。」とある。
握手事件から4年だが、この時、木山の身体にはさらなる深刻な異変が進行していたのである。

みさをの回想によれば、1月5日、碁友との酒になり、いつもの銘柄の酒だったが木山は「不味いから
取り替えてくれ」と云った。取り替えた銘柄の酒も「不味い」と云った。碁友は美味しい云い、木山は、
日頃、酒や肴の味に注文をつけたことはないので、みさをは胃に変化があるのかと思ったという。

日記によれば、2月になると胃痛、背痛が出て、症状は急速に悪化する様子が分かる。
4月に、慈恵医大病院を受診、東京医科歯科大学病院に入院、食道の疾患と診断され、
その専門医である中山博士のいる東京女子医大病院を紹介されて5月6日に転入院した。

食道癌で、手術、放射線治療など手を尽くしたが、昭和43年8月23日、永眠した。(享年64歳)

遺された木山の手帳には、なぐり書きで 「見るだけの 妻となりたる 五月かな」 とあったという。

昭和43年9月29日、岡山県笠岡市山口の長尾山に埋葬。

戒名 寂光院寿蘊捷堂居士


(晩年の木山については、妻みさを著「生と死の詩」(S47/10:永田書房)に詳しい)
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= 昭和を生きた生粋の庶民作家・詩人 木山捷平 =

栗谷川虹著「木山捷平の生涯」の最終章「黒富士」に次の一節がある。
木山の人生と作品の真髄と思うので、次に引用させていただく。

「人生はなにも、英雄や優れた人、あるいは異常な体験に遭遇した人ばかりのものではあるまい。
巷に埋没して目立たぬ平凡な人生が、取るに足りぬなどということがあり得ようはずがない。
私たち凡人の生と死が平凡であるならば、平凡なる生と死こそが、私たちのもっとも切実な問題と
なるだろう。彼は、あたかも大海に浮かぶ無数の泡沫のような、庶民の生活ひとつひとつに眺め
入り、その生と死を詩に昇華した。思想というならば、そこにこそ木山捷平の思想があった。」

木山は、「よせやい!」 と言って苦笑しているかもしれないが、私流に解釈すれば、
木山は、庶民の土への郷愁、親子の情感、現実生活の哀歓と特有の強かさを
作品にして、平穏、平凡に生き切ることの難しさとその価値を訴えたと言ってよかろう。

昭和、平成、そして令和と時世は移る。木山を象徴する“下駄”を目にすることは
稀になってしまったが、幸福を求める庶民の姿、心意気は不変だろう。

木山作品は、もっと多くの人に親しまれ、もっと高い評価が得られていいのではないか・・。

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木山捷平:作品一覧

木山捷平の人生を辿るとき、妻みさをの存在の大きさを思わずにはいられない。
内助の功というより、みさをがいてこそ捷平があると追記して本項を閉じる。

                     (「将棋会 第4期 休眠期(S18〜S23)」・・H31/4 完了)
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「木山捷平」の項    主な参考図書

『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50/8 講談社)

『木山捷平全集 第八巻(年譜)』 (S54/6 講談社)
『木山捷平全集 全八巻』 (木山捷平著 S53/10〜54/6 講談社)

『木山捷平の生涯』 (栗谷川虹著 1995/3 筑摩書房)
『木山捷平研究』 (定金恒次著 1996/3 西日本法規出版)
『木山さん、捷平さん』 (岩阪恵子著 2012/12 講談社)

『井伏鱒二と木山捷平』 (ふくやま文学館 編集・発行 2008/9)

『井伏鱒二全集 第7巻 -日記抄』 (井伏鱒二著 1997 筑摩書房)
『将棋随筆 (中村地平全集 第3巻)』 (中村地平著 S46/7 皆美社)

『玉川上水』 (木山捷平著 1991/6 津軽書房)には、<海豹>のこと、太宰のことや
井伏などとの往時の交遊に関する随筆などが収めてある。(本項関係を次に記す)
「海豹のころ」 (初出 <筑摩書房版「太宰治全集-月報1」 S30/10>)
「太宰治」 (初出  <新潮 S39/7> ) 他、太宰関連の随筆など多数所収
「わが文壇交遊録-3-阿佐ヶ谷将棋会」 (初出 <別冊文芸春秋 S40/12>)

『井伏鱒二/弥次郎兵衛/ななかまど-あとがき(木山みさを記)』(講談社:1995/8)
『鳴るは風鈴-木山捷平ユーモア小説選-あとがき(木山みさを記)』(講談社:2001/8)

『感恩集 木山捷平追悼録』 (木山みさを編 S45/9 永田書房)
『木山捷平 父の手紙』 (木山みさを編 S60/3 三茶書房)
『台所から見た文壇 -捷平と短歌- ほか』 (木山みさを著 S57/8 三茶書房)
『生きてしあれば -苦い旅- ほか』 (木山みさを著 1994/9 筑摩書房)
『生と死の詩 -文学の道- ほか』 (木山みさを著 S47/10 永田書房)

『回想の文士たち 』 (小田嶽夫著 1978 冬樹社)所収から
「木山捷平の想い出」(S46/7)
「逃亡の季節 −戦中交遊譚」(初出 <文芸 S40/8>)

『昭和文壇側面史』   (浅見 淵著  1996/3  講談社)
『杉並文学館―井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士』(H12:杉並区立郷土博物館発行)



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