亀井勝一郎の人生と作品

(本名同じ) かめい かついちろう : 明治40(1907).2.6 〜 昭和41(1966).11.14 (享年59歳)

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「将棋会 成長期 :S8〜S13」 の頃まで

= ”転向” 苦悩の精神遍歴 =

昭和14年、太宰治が三鷹の亀井宅近くに転居してから亀井は太宰や井伏などとの交友が深まり、
将棋や酒、釣を一緒に楽しむようになった。つまり ”阿佐ヶ谷将棋会 第3期”からの会員であるが、
後述のように、亀井は転向後、高円寺、阿佐ヶ谷に居を定めて左翼文筆活動を開始し(S7)、次いで
<日本浪曼派>(S10〜S12)では太宰、木山捷平、外村繁、中村地平などとも同人として知り合った。
まだ付き合いは浅い時期だが、将棋会との機縁となっているので本項で亀井を紹介させていただく。

亀井の著作を集めた 『亀井勝一郎全集(全24冊)』(講談社)には、死後に初公開された草稿や
ノート(日記)なども収められており、 ”転向” を背負った亀井の苦悩の生き方を辿ることができる。
中でも、『我が精神の遍歴』、『私の文学経歴』、『人間教育』、『ノート』、『獄中記』 などはまさに
亀井の精神の自叙伝で、自己形成の過程、価値観の原点が凝縮されている。

文芸評論家の武田友寿はこれらの著作、資料を基にして『遍歴の求道者亀井勝一郎』を著し、
また、亀井の妻(斐子=アヤコ)は『回想のひと亀井勝一郎』を著しているので参考にした。

 “阿佐ヶ谷将棋会”の全体像

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *”富める者”の苦渋 ---

     ・函館屈指の富豪:亀井家

函館の亀井家は江戸後期に能登の国(現石川県)から移住し、網問屋として財を成した。
勝一郎の生まれた亀井家はその有力分家の一つで、父(喜一郎:工藤家出身)は函館
貯蓄銀行の支配人(常務取締役)のほか幾多の公職に就く函館屈指の富豪であった。

明治40年、勝一郎はその長男として元町(”ガンガン寺”などがあり、現在は函館の観光名所の
一つとして有名)で誕生したが、いわゆる家つき娘の母(ミヤ)は病弱のため専ら祖母(ミヤの母)
の手で育てられた。勝一郎が10歳の時(T6)、母は27歳の若さで没した。匂うばかりの美貌の
人で、源氏物語を愛読していたという。勝一郎の端正な容貌と文学性は母親譲りかもしれない。

3年後(T9:13歳)、教師出身の継母(幾代)が来た。当初はなかなか馴染めなかったというが、
後に、当主喜一郎急逝(S10:59歳))後の亀井家の莫大な資産は幾代の才によって守られ、
亀井の文筆活動もその理解と支援に負うところが大きかった。
幾代が他界(S19:61歳)して2〜3年後にはこの亀井家は没落する。もちろん
戦後の変動もあったが、有能な管理者を失ったことが大きな理由であったといわれる。

元町の生家の前には亀井家の菩提寺である浄土真宗 東本願寺函館別院がそびえ、
隣にはフランス系、その隣にロシア系、その前にはイギリス系、坂を一寸下るとアメリカ系の
教会があった。港の守護神 船魂神社や道教の廟堂を兼ねる中国領事館も近くにあった。
(ちなみに、”ガンガン寺”はロシア系のハリスト正教会で、鳴らす鐘の音に由来する通称)

幼時から祖母の念仏や僧侶の読経を身近にし、 これら寺院や教会を遊び場として過ごし、
小学校入学の年(T2:6歳)からはアメリカ系のメソジスト教会の日曜学校に通い、
中学3年(T10:14歳))まで宣教師から聖書と英語の個人教授を受けた。
亀井は「幼い私は宗教的コスモポリタンであった。」と書いているが、洗礼は受けなかった。

     ・「君はいいなあ」

大正8年、亀井は函館中学(現函館中部高校)に進んだ。小・中学校を通じて秀才の誉れ
が高く、父自慢の少年だった。生まれながらにして富と名声が備わっていたのである。
しかしこのことは「富める者は罪人なり」という思いで亀井少年の心を苦しめる。

中学1年(T8)の頃、一つの出来事があった ・・・ ある寒い冬の日の朝、亀井少年が
外出のため暖かい羅紗服と外套を着て家を出たところへ電報配達の少年が来た。
つぎはぎだらけの薄い小倉の服に地下足袋姿、ひびだらけの手に電報を持っていた。
この少年は、小学生の時、亀井とクリスマスの児童劇を演じた相棒だったのである。
偶然の再会に二人ははにかみながら互いの姿を見合ったが、少年は羨望の面持ちで
無邪気に「君はいいなあ」と言って冷気の中に白い息を残して去っていった ・・・。

亀井はこの時の衝撃を、「少年の僕が、初めて「富める者」という自覚ををち、
且つそれが苦渋であることを知ったのはたしかにこの時である。」と記している。

そして、「この世には「富める者」と「貧しき者」と二つある。この差は心の高さや才能に
由るのでなく、ただ偶然の運命である財力に基づくものだ。これは罪悪ではないだろうか。」
と考えるようになり、大正11年(中学3年:15歳)に町の公会堂で賀川豊彦の講演を聴いて
「富める者は罪人なり」と宣告されたと確信するに至った。

参考サイト 賀川豊彦記念 松沢資料館

     ・函中4年から山形高校

大正12年(16歳)、中学の4年間を真面目な秀才で過ごし、山形高等学校(現山形大学)
文科乙類(ドイツ語)へ進んだ。当時、北海道には北大と小樽高商があったが実業家を
育てる校風で亀井の志望するところでなく、本州で近くといえば、第二高等学校(仙台)、
弘前高校、山形高校しかなく、この中からごく自然に山形を選んだという。

4年からの進学は秀才の証明でもあり、父は喜び、親類、知人の賞賛と祝福を受けたが
亀井には富める者の罪の意識から「羞恥」と「嫌悪」の情も入り混じっていたようである。

高校の3年間、亀井はよき師、よき友に恵まれ、自由に伸び伸びとした学生生活を送った。
家族をはじめ諸々の日常の人間関係のしがらみから開放され、学業は優等生を保ちながら
演劇・文学・絵画の世界にも興味を持って自らの才能を愉しむかのような夢中の日々だった。

例えば、先輩に阿部六郎、同級に阪本越郎、1年下に神保光太郎らがいて、阪本らと同人誌
<橇音>を創刊(T13)した。亀井は初めて小説、戯曲を書いて発表したが、<橇音>は現存せず、
翌年(T14)校友会雑誌に発表した戯曲2編が亀井の最初の作品として残っている。

亀井は高校時代を回想するとき、影響を受けた印象深い師として岡本信二郎、吹田順助
の名前を挙げている。二人は、授業や演劇指導を通じて人生観や文学論を熱心に語り、
亀井らの創作意欲が刺激されて<橇音>創刊や作品発表に繋がったようである。

絵画については山形在住の画家 鳥海太郎がいた。亀井は絵を習いながら 「殆んど毎夜のように先生を
訪れ人生を論じ美術を語った。」 「上野の美術学校へ入りたいというのが当時の希望だった。家の事情で
許されなかったが、希望通り進んでいれば私は画家になっていた筈である。」と書いているほどである。


この3年間、「富める者は罪人なり」は何処へいったのだろうか。
山形にも既に左翼思想、運動は入っており、亀井は「山川均の「資本主義のからくり」という
パンフレットを読んで共産主義との対決が念頭に上るようになった。」旨を書いているので、
亀井の内心に刻まれた「罪の意識」が呼び覚まされることはあったようだが、それはまだ
感傷的ないし妄想的な心情の域を出ず、”富める父”からの十分な仕送りを受けて
満ち足りた愉しい時が過ぎ、瞬く間に3年間が終わったのではないだろうか。

     ・東大文学部美学科

大正15年(19歳)、亀井は東京帝国大学文学部美学科に入学した。
何故そこに? 亀井は「文学部を見渡して、美学が芸術と一番関係がありそうで・・・」
とか、「無試験だったから・・・」などと書いているが、次の一節に集約できよう。
「要するに、私は絵とか芝居とか小説などを書くことに漠然と憧れていたわけで、
どれを自分の道にするかは決しかねていたのだ。
或いはこうした雰囲気の中で青春を楽しんでいたといってもいい。」

少なくとも、「東京で左翼運動に関わろう」という明確な意思形成はなかったようだが、
振り返れば、ここから内心の感傷的ないし妄想的な罪の意識は一挙に深みに導かれ、
行動となり、そしてその結果を背負って苦悩と再生の道を歩んだからこそ
亀井の本性が表現されるに至った・・・、いわば宿命の進路だったのかもしれない。

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大正15年に亀井は東京帝国大学へと進んだが、亀井が自我に目覚めた頃の時代背景、
つまり大正後期の内外情勢を概略すると・・・

日本近代化の過程で「大正デモクラシー」と云われるが、当時、「民主主義」は吉野作造が
あえて「民本主義」と唱え、この言葉が一般に使われ、国民多数の支持を得て民衆運動
が盛んになった。大正14年には普通選挙法(25歳以上男子に選挙権)が成立したが、
一方で後に言論、思想弾圧に乱用された治安維持法が公布された。

第一次世界大戦(T3〜T7)の影響が大きく、日本は戦時の好景気の後、その反動ともいえる
大不況に突入し、関東大震災(T12)の追い討ちで昭和恐慌へと繋がる。参戦によって日本は
世界列強の一つとなり大陸に権益を得たが、中国、アメリカなどの関係国との摩擦が強まった。

世界では、ロシア革命(T6)・ソ連邦成立(T11)、中国共産党結成(T10)・第一次国共合作
(T13)、国際連盟成立(T9)、ワシントン会議(T10)など日本を取り巻く重大事が続いた。

国内情勢をもう少し細かく見ると、戦争による好景気は物価高騰に賃金が追いつかない状態となり、
大正7年夏には米価急騰に対する富山県の漁民の主婦の要求行動がいわゆる”米騒動”に発展して
全国各地に広がった。また労働争議も大正5年108件が大正8年には497件と急増している。
民衆行動のエネルギーの凄まじさを目の当たりにして、国は支配体制の再編、強化を図るが、
一方で労働組合の草分け「友愛会」は大正8年の結成7周年大会で「大日本労働総同盟友愛会」と改称し、
さらに大正10年には「日本労働総同盟」と改称して ”戦う組合” を志向した。
結成時(M45)は 5組合だった友愛会は、大正7年には107組合、大正9年には273組合になっている。

農民運動においても、大戦後には農産物価格が下落し、そのしわ寄せを受けて苦しんだ小作農民による
小作争議は、大正6年には85件だったが 7年256件、9年408件 10年1680件と急増している。
こうした背景から大正11年4月には日本農民組合設立、組合長杉山元治郎、理事に賀川豊彦らを選んだ。
設立時、253名だった組合員数は、3年後には5万人を超える大組織に成長した。

同じ大正11年3月には、全国水平社創立大会が開かれ、部落解放運動がスタートした。
7月には、非公然の組織として出発せざるを得なかったが、徳田球一らによって日本共産党が創立された。

また、女性の職業進出も目覚しく、労働組合婦人部が生まれ、大正9年には平塚らいてう、市川房枝らによって
新婦人協会が組織され、治安警察法第5条の改正を求めるなど女性参政権獲得を目指した運動を開始した。

ちなみに、プロレタリア文学の嚆矢とされる<種蒔く人>(金子洋文ら)の創刊は大正10年2月である。


関東大震災(T12)直後に、中央線沿線の人口が急増したことは既述の通りである。
大正期には都市人口が急増し、中でもサラリーマンなどいわゆる新中間層の激増は
新しい大衆文化を生み出していた。

大正15年12月に昭和へと移るが、昭和初期の情勢は「時勢は=」に既述したところである。

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   *共産主義活動 ---

     ・マル芸-新人会-共産主義青年同盟

亀井が本郷東片町の下宿に入って最初にしたことは築地小劇場へ行ったことである。
ここで、東京のインテリの最先端の雰囲気に触れて亀井は先ず大きな衝撃を受けた。
「築地小劇場とは私の青春を覚醒させてくれるひとつの雰囲気であり、刺激であった」と
書いている。亀井の罪の意識は”心情”から急速に”思想”となって左傾していく。

早々に(T15/7頃)、中野重治と知り合い、マル芸(マルクス主義芸術研究会)に参加、
同年12月には新人会(東京帝国大学学生社会科学研究会新人会)に加入し、
翌年(昭和2年)は新人会の活動に忙殺される。学校に出ることは殆んどなくなった。

亀井は新人会の合宿生活、気風を「会合、研究会、宣伝ビラの印刷、配布、暇さえあれば
国禁の書の耽読という日常であった。」 「若い者が大勢集まっているが、女の話は全くなく、
酒は厳禁である。あたかも厳しいストイックな修道院の生活を彷彿せしめる。」旨を
書いているが、マルクス主義の実現を目指して民衆の中に入り(ブ・ナロード)、共に行動
することを第一義とし、亀井は出版労働組合の書記として働き、争議の現場で労働者に
マルクス主義のABCを宣伝するために出かけるなどの実践活動に明け暮れていた。

マルクス主義への急傾斜について、亀井は、「ブルジョアジーに生まれた自分」、「マルキ
シズムは正しい」、「自分が没落する階級に属することの恐怖」、「2〜3年のうちに
革命が起こると確信」、等々の心境の過程を「ノート」などに記している。

昭和3年2月には共産主義青年同盟の一員となった。三・一五事件の1ヶ月前である。
21歳、上京後2年にして亀井は青年マルキストになっていた。
東京帝大は、「学生であることに意義を見出せない」ということで中途退学した。

最初の普通選挙(S3/2)で無産政党から8名が当選した。非合法であった日本共産党が合法の労働農民党
を通して選挙運動を行ったことに危機感を持った政府は、3月15日に全国一斉に共産主義者の検挙、捜索
を実施した(3・15事件)。この後も治安維持法強化により左翼に対する徹底した取締りが行われるのである。

亀井は政府の強権発動に恐怖しながらの生活になったが、ついに4月20日、治安維持法
違反容疑で逮捕された。基本的にはロマン的な芸術志向で、余りに優しく純粋、生真面目
な本性の亀井青年は、ここで初めて自分自身の現実に直面し、困惑したといってよかろう。

父は・・・、この間、函館の家族、特に父親はどのように考え、対応していたのだろうか?
山形時代には、父は音信がないことを心配して学校へ手紙で状況を問い合わせ、学校の
丁寧な回答で安心したことがあった。その往復の手紙が現存しているという微笑ましい
エピソードがあるが、東京でのことには余り干渉しなかった・・自由にさせていたようだ。

函館ドックなど函館の企業に争議が頻発した際(S2〜S3)、亀井はオルグでこれに参加し、
警察に何回か捕まったが、その都度、父は亀井の身柄を貰いさげに行ったという。
父はその活動を熟知しながら、送金停止などの力でこれを止めようとした様子は見えない。

田舎育ちで世間知らずの金持の坊ちゃんが、東京に出て突然に多くの才士、先端思想
に出会って内心の意識が高揚し、父が知る息子の本性とは離れたところで動き始めた・・・
いわば一時の熱病のようなもの、逞しくなってまた戻ってくる・・・と考えたのかもしれない。

     ・逮捕-独房:2年半

前記の『亀井勝一郎全集』に初めて収められた「ノート」、「獄中記」により、逮捕から出所までの過程や
背景が相当に細かく分かる。ともに出所直後から書かれ、「獄中記」は私小説風の下書き(未完)である。

昭和3年4月20日、亀井は秘密連絡のため札幌の同志の家族宅を訪ねたところを
張込み中の刑事に捕らえられた。10日後、手錠をされて東京へ護送された。

一通りの取調べの後、5月22日に未決囚として市谷刑務所へ、夏には豊多摩刑務所へ
送られた。約2年半におよぶ独房での閉ざされた生活(21歳〜23歳)が始まった。

なぜ2年半もの間出られなかったのか・・?  それほどの重大容疑だったのか・・?
取調べは繰り返し行われたようだが、拷問を受けたことはなさそうである。
結局は昭和5年10月1日に転向上申書を提出して、10月7日に未決で釈放されたが、
私見で結論付ければ、この期間は亀井自身が必要とした時間だったのである。

おそらく亀井は共産主義活動の放棄を約束すれば早期に釈放されることを知っていたが
これを拒否した。外見には共産主義への信念がそうさせたと映るが、実際には胸中は
かなり複雑に揺れていた。亀井は後に「組織から離反し背反の心的準備を重ねて
いるようなものだった」と率直に書いているが、簡単にいえば、違約を前提に出所して
元の活動家に戻ることの価値に疑問を覚え、一方、活動を離れることによって裏切り者、
背信者の謗りを受けることを恐れ、身動きが出来なくなったということではなかったろうか。

そこに文学という絶好の、というより亀井の生来の本性を目覚めさせる対象があった。
ここでも父は寛大で、もちろん転向による早期の出所を求め、そうすることを強く説き、
願ったようではあるが、一方で亀井が希望するままに文学書などを差し入れていた。
生活は不便だったが、何に煩わされることもなく存分に本を読み、思索に耽り、人生、
つまりは生き方を探求した・・・亀井にとっては安息の場所、時ではなかったか・・・

しかし、刑務所の独房という劣悪な生活環境は確実に亀井の肉体を蝕んでおり、
昭和5年7月、喀血した。今度は病による死に怯えた。何としても生きたかった。病状を
大袈裟に申告して市谷刑務所の病監に移してもらい、生きるための転向を決断した。

     ・転向-釈放-帰郷-再上京

転向上申書には、自分の今後のこととして次の三項目(要約)を書いた。
第一、政治活動はしない。第二、革命的戦士を尊敬し、同志や党の誹謗はしない。
第三、プロレタリア陣営内における主として芸術的哲学的研究に一身を捧げる。

昭和5年10月1日提出、受理されて同月7日、2年6ヶ月ぶりで塀の外へ出た。
21歳2ヶ月から23歳8ヶ月までの間であった。未決ではあるが自由の身となった。
亀井は「革命家として入獄し、詩人として出獄する」と表現している。そして
”政治活動は不可だが芸術活動は可”とされるのは悲しみであると書いている。

つまりは、亀井の革命家、マルキストとしての存在は、本人の思い、心意気ほどには官憲側にとっては
重要でなく、釈放の理由があればよかったという状況ではなかっただろうか?この時期は、まだ文芸活動
への取締りは比較的緩やかで、コップ(日本プロレタリア文化連盟)への大弾圧は昭和7年3月に始まる。


亀井は1週間ほど東京にいて函館の家へ帰った。体調は思わしくなく、病床の生活が
翌春まで続いた。10月17日から「ノート」を書き始めている(S34まで続く)。
ここでの時間は全てが読書に費やされたと言っても過言でないほどの読書量で、
しかも精読であることが「ノート」にある批評、感想、思索などの記録から読み取れる。

ロシア、ドイツの思想、哲学、文学が主体で、マルクス主義の理論武装を強固にすると
ともに芸術観や宗教観を総合した生き方、人生論の確立を目指していたように思える。
ただ、函館の富める家の平穏な環境の下で暮らすことはマルクス主義とは相容れない。
政治活動からの離反は誓約したが思想そのものは正しいと信じる亀井に居場所はなく、
昭和6年7月に上京、高円寺などに約半年間滞在して最新状勢の把握に努めた。
そして翌7年1月、函館の家を脱して上申書三項目に沿った新たな道を歩み始めた。

昭和6年9月には満州事変が始まり、ファッショ化、左翼弾圧は激しさを増していた。
「ノート」(S6.12.31)に書かれた新年の態度(生活)に関する箇条書などを見ると、
亀井は状勢を十分認識し、自分が歩むべき道を慎重に再確認して踏み切っている。

それにしても、亀井は生活費や行動に要する諸費用をどうしていたのか、どうするつもりだったのか。
ここまで、そしてこれからも父の支給だろう。当面は自分自身には収入の目処はないはず・・・。

   *文筆活動開始 ---

     ・プロレタリア作家同盟(ナルプ)でデビュー

上京して亀井は高円寺に住んだ。前年の上京時にも東大新人会時代の仲間 川口浩の
世話になったようだが、今回も亀井は川口を頼り、同夫妻宅の隣家を借りて住んだ。

このころ、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の事務所に近い中央線沿線、特に阿佐ヶ谷界隈には、
川口のほか小林多喜二をはじめ多くの主要メンバーが住んでいた。立野信之、上野壮夫、本庄陸男、
平林英子(夫、中谷孝雄)等々である。芸術派の面々も多く住み、賑やかな「阿佐ヶ谷文士村」だった。

この直後、昭和7年3月からコップ(日本プロレタリア文化連盟)に対する厳しい取締りが
始まった。ナルプはコップの中心団体の一つで、この大弾圧により 指導者の蔵原惟人、
中野重治らは捕らえられ、小林、宮本顕治らは地下活動に入るなどの大打撃を受け、
有能な働き手が不足した。この事態に川口は亀井の登場を促したのである。

昭和7年6月、亀井はナルプ機関紙<プロレタリア文学>に「創作活動に於ける当面の
諸問題」という評論を発表し注目され、讃嘆と期待の中でデビューを果たしたのである。
続いて同誌に「監房細胞」(S7/7)、「リアリズムについて」(S7/9)、「同志林房雄の
近業について」(S7/10)を発表、ナルプの論客としての評価を得たが、「同志林房雄の
近業について」では地下の小林、宮本から大批判を受けた。 政治と芸術との関係に
ついて、亀井の本性と小林、宮本らの考え方との間に決定的な差異があったといえる。

しかしこの問題の直後、昭和8年2月、小林は築地警察署で虐殺され、6月には共産党
幹部の佐野学、鍋山貞親が転向声明を出し、ナルプは組織として壊滅状態となった。
亀井はこのころ、ナルプの中央常任委員(教育担当)に選任された(S8/6)。組織として
大混乱の最中であったが、亀井の実力を物語っているといってよかろう。委員長は
山田清三郎で、常任委員には川口、立野、淀野隆三、宮本百合子などの名前がある。

結婚(S7/12):執行猶予(S8/12):ナルプ解体(S9/2)

この間、昭和7年12月、亀井(25歳)は東京で知り合った斐子(日女大出:21歳)と結婚し、
阿佐ヶ谷の家賃18円の家に移った。斐子の両親は強く反対したが、強引な同棲婚で、
結局は両家ともこの結婚を認め、亀井の実家からは毎月60円の仕送りがあった。
夫婦で普通には生活はできる金額だった。

昭和8年12月、亀井は懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けた。函館の父が依頼した大物
の弁護士(後に最高裁判事)に、法廷では転向を表明するよう言われ、亀井は抵抗した。
しかし父はここで仕送りを止めたという。最初で最後の実力行使ではなかっただろうか?
亀井は窮した・・・。転向と認められる表明がなければ執行猶予はなかったはずである。
この判決で亀井の長年にわたる心のわだかまりに一区切りがついたことは確かである。

弾圧による左翼衰退、壊滅は、一方で”文芸復興の機運”と重なるが、ナルプの各人は
あらためて自己の道を模索せざるを得ず、翌9年2月には「ナルプ解体声明」が出された。

     ・<現実>創刊

亀井は<プロレタリア文学>のほか<文化集団><批評><人物評論>にも評論を書いたが、
発行者にはいろいろな性格、思惑があるので、やはり自分の本拠が必要だった。
亀井は昭和8年末頃には新しい雑誌の発行を準備していたようで、ナルプの本庄と胸襟を開いて
付き合えるようになり、本庄が亀井に東大美学2年後輩の保田与重郎を紹介したことで話が進み
昭和9年3月、藤原定、田辺耕一郎、小野康人、龍口直太郎の計7名の同人で<現実>を創刊した。

このころ、亀井は微熱を出すようになり、医師の転地の勧めで三鷹村下連雀へ引越した(S9/3)。

<現実>は経済上の破綻と同人の気持ちの不一致から第5号(S9/9)で終刊となったが、
これで亀井は「政治活動から離れて文学に専心する気持ち」に弾みがついただろう。

この時(S9/9)には処女評論集「転形期の文学」を出版した。約2年半、ナルプの評論家
として書いたものをまとめたもので、出版記念会には、江口渙、林房雄、高見順、平野謙、
神保光太郎、阪本越郎、中谷・平林夫妻、保田、本庄、藤原、等々、ナルプ、山形高校、
<現実>、の関係者などが顔を揃えている。亀井(27歳)の新たな道への出発だった。

     ・<日本浪曼派>創刊

昭和9年初夏の頃、平林英子が<現実>の同人会の帰りに亀井、保田を家に連れて帰り、
夫の中谷に紹介した。中谷は2人に強い印象を持ったようだが、特に保田は独身(24歳)で、
その後も頻繁に中谷宅を訪問し、親交を深めていた。中谷32才、亀井27歳、だった。

<現実>廃刊の頃、中谷、保田は新しい同人誌を計画し、亀井もその相談に加わるようになった。
同人は少数にすることに決め、各人が1人ずつ友人を連れてくることになった。中谷は
<世紀>の緒方隆士、保田は<コギト>の中島栄次郎、亀井は山形高校後輩の詩人神保を誘った。

中谷、緒方の<日本浪曼派>参加により、<世紀>は廃刊となり、新たな同人誌が生まれていく。
<コギト>は昭和7年、保田、中島ら大阪高校出身者を中心に創刊された文芸雑誌。ドイツ浪漫派の
影響下に詩と評論を中心として日本古典美の探求を目指した。昭和19年まで、全146冊発行。

誌名は保田、亀井が浦和に住む神保を訪ねて郊外を散歩している時にふっと「日本浪曼派」
が出てきた。”曼”にサンズイは付けない、”ニホン”でなくニッポンと読む、となったという。

そして上記6名の連名で<コギト>11月号(S9)〜1月号(S10)に、”日本浪曼派 広告”が載った。
「宣言」といえる。文学関係者に大きな反響があり、賛否両論、というより批判殺到の観があった。
保田が書き、中谷が了解して掲載したようだが、他の4名がどのように関わったのか判然としない。
亀井の妻斐子は、亀井はこれを目にした時には驚いていたと書き、事後承認だったようだ。

創刊は昭和10年3月である。木山の日記には、昭和10年2月に木山が<青い花>の太宰、
中村、山岸外史、を<日本浪曼派>に誘っていると書かれ、28日開催の同人会の
出席者は「緑川貢、保田、亀井、中谷、淀野飛び入り」とある。創刊号(3月)の発行を
終わり、次号以降の打ち合わせだろうが、当初の少人数という方針は変わったようである。

創刊号には6名のほか緑川が執筆し、第3号に載った同人名は、この7名のほか、
伊東静雄、伊馬鵜平、芳賀檀、淀野、太宰、檀一雄、山岸、木山、等々合計22名である。
この後、中村地平、さらに今官一、林房雄などが加わり、そして昭和12年には佐藤春夫、
萩原朔太郎、中河与一、三好達治、外村繁なども名を連ね、総勢56名となるに至った。

父の死・・・<日本浪曼派>創刊直後の昭和10年7月、亀井は妻斐子を伴って初めて函館へ帰った。
斐子は父には父が上京の都度会っているが、ほかの家族とは初めての対面だった。
ところが、この函館滞在中に父は高熱を発し、8月2日、不帰の人となってしまった。
享年59歳であった。家は弟が継ぎ、継母幾代が資産管理に生涯尽くしたという。

長女誕生・・・ 昭和11年9月、亀井は子供が生まれるので吉祥寺へ引越した。家賃25円で、以前の
14円と大違いである。文筆での収入に目鼻がついたのだろうか。翌12年4月に長女が誕生した。

亀井はやがて同人数の増加とその反面に生じた同人意識の希薄さ、活動の低調さに不満を
抱くようになった。また、中でも同人の中心的存在である保田に対しては、その優れた才知を
認め、特に日本の古典美に関する見識からは多大な影響を受けながらも自分の本性とは
異質なものを明確に意識するようになった。亀井の「東洋の希臘人」と題する保田与重郎論
(<日本浪曼派>(S12/1))はこのことがテーマで、苦い別れの方向がにじんでいる。

     ・模索は続く

妻斐子の回想によれば、「吉祥寺へ引越した頃、私が<日本浪曼派>の台所を預かっていた
記憶がある。」とのことで亀井は同人費の未納に悩み、督促葉書を頻繁に書いていたという。
そして昭和12年9月、亀井は<日本浪曼派>を脱退した。外村と真壁仁に宛てた脱退を知らせる
葉書が残っており、木山の日記にも「脱退の葉書が来た」とある。しかし保田や林はこの脱退を
知らなかったと言い、斐子は「公表はしなかった」と書いている。脱退の状況は不透明である。

その後、<日本浪曼派>は外村が編集人となり3冊発行した。その2冊目(4巻2号(S13/3))に亀井は随想を
載せている。そして緒方(S13/4没)の追悼文を載せた4巻3号(S13/8)で終刊となった。全29冊だった。)

脱退して直ぐ(S12/10)、亀井は初めて大和地方を旅した。古寺めぐりはこのときに始まる。
亀井(30歳)の更なる新たな出発だった。

同年12月には、<日本浪曼派>を本拠にして熱心に執筆した文章を主体に、
「人間教育 ゲエテへの一つの試み」を刊行し、昭和13年に池谷賞(S13上期)を受賞した。
亀井の転向の苦悩と新たな道の模索がその内容である。ゲーテを通じて西欧の古典美に
誘われ、やがて亀井自身が日本の古典美探求にいたった過程の記録といえよう。

ちなみに、保田は奈良県(桜井)出身で「日本の橋」で第1回(S11)池谷賞を受賞している。

昭和13年に入ると、奈良訪問を契機とした亀井の仏教に傾斜した行動が目立つ。
そして9月には、当時の文壇の最有力者のグループと見られていた<文学界>に加入し、
文学活動はさらに活発化するのである。

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阿佐ヶ谷将棋会はこの時期、”3 盛会期”に入る。 亀井は昭和13年6月7日の会に
参加しているが、井伏、太宰などとの親交が深まるのは冒頭に記したように昭和14年、太宰が
三鷹の亀井宅近くに引越してからである。戦後の阿佐ヶ谷会を含め主要会員の一人となった。

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「将棋会 盛会期 :S13〜S18」 の頃  

= 仏教開眼 ・ 太宰との親交 =

昭和13年(1938)、亀井 31歳。 ”将棋会 第3盛会期” は亀井の30代前半に重なる。
前期において、左翼活動を離れ、創刊に参画した<日本浪曼派>を保田与重郎との苦い
交友関係を経て脱退(S12/9)した亀井は、脱退の翌10月に初めて奈良旅行をするが、
奈良への旅は翌13年以降も続け、また一方で、将棋会に参加、太宰・井伏らとの親交を
深める中、戦争激化を背景に、亀井の人生の方向が定まっていくのである。

本項は、前項に記した武田友寿著『遍歴の求道者亀井勝一郎』、亀井の妻 斐子(=アヤコ)著
『回想のひと亀井勝一郎』のほか、「亀井勝一郎全集 第2巻」所収の「ノート」(亀井のメモ=
いわば日記)」と、「亀井勝一郎全集 第6巻」所収の「私の批評家的生い立ち」「私は何をやって
来たか ―批評家物語―」、『無頼派の祈り』所収の「太宰治の思い出」などを主に参考にした。

 この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *仏教開眼 ---

     ・初めての奈良

亀井はなぜこの時(S12/10)に奈良へ向かったのか・・? 
奈良への旅に亀井が込めた願いは何だったのか・・。 武田友寿は、「保田与重郎の
影響もあっただろうが、それだけではない」とし、次のように書いている。

「ゲエテのイタリーへの旅、武者小路のローマへの旅が亀井を「日本のローマ」奈良に
向かわせたのである。精神を没落の危機から回生せしめた二人の詩人に擬して彼もまた
自己の精神を賦活させようと意図したのである。」 (前掲書・第12章「求道者の誕生」)


亀井はこの心境について、後に、「保田を通して日本の古典美に目をひらかされた」
(「私は何をやって来たか ―批評家物語―」(S26))と書き、さらに当時を振り返って
「現代史の中のひとり」の中に、次のように書いている。

「自分の思想的方向は依然として決しかねていた。自分にとって最大の盲点である日本歴史と
古典への無智を埋めようと思った。この“古典日本”は、私にとっては異国も同様な存在だった。
これまでの私は“北海道人”であり、机上で学んだヨーロッパ文学が念頭にあるだけで、本質的
にはヨーロッパに対しても”古典日本”に対してもエトランゼだった。どうかしてこの不安定な
境地から逃れたいと思った。」  (「大和の古寺をめぐって」(S29/10)から要約)


生まれて初めての奈良の旅は、「ノート」によれば昭和12年10月12日朝、「燕」に乗り、
夜6時着だった。 妻斐子への絵葉書には、「13日は主に帝室博物館、薬師寺で
多くの本物、一流の仏像をみた」とあり、14日、15日は法隆寺だった。
「ここへ来て初めて仏像の美しさがわかります」と書いている。

仏像の美に驚嘆し、奈良の風物に魅せられた3日間の旅だったが、帰京後に、
「ノート」には「こここそ真に憩いの場となるところらしい。」と書いている。
不安定な境地から逃れられる、憩い・安らぎの場を得た旅だったようだが、
亀井はここで、”信仰”と”天皇”という二つの問題と直面することになった。

ところで・・、
「ノート」などには、「奈良初訪時には救いを求めるという強い目的があった」ような
記述もあるが、実際は<日本浪曼派>脱退の過程で積もった心労を癒すため、机上を離れて
直に本物の古典美に触れたくなり、和辻哲郎の「古寺巡礼」を懐に、案外軽い気持ちで出発
したのではないだろうか・・。 もちろん、再生の願い、ギリシャやローマ、保田やゲーテらの
こと等々が念頭にあっただろうが、奈良旅行に関する亀井の主要な記述は、帰京後ないし
戦後であるところから、この短い旅は、結果として亀井の新たな出発点となったと考えたい。
昭和14年に発表した「私の批評家的生い立ち」の一節(後出)はそのようにも読めよう。

     ・日本上代史の研究

和辻哲郎の「古寺巡礼」は、亀井の美術鑑賞と教養を高めるために大いに
役立ったが、それだけでは済まなくなった。亀井は、古都奈良で古典美を
より深く理解するには日本の上代史を学ぶことが必須であるとの思いを強く
したのである。さきの「ノート」(S12.10.12)に次のように書いている。

「次に、日本史をよく学ぶこと、出来たらエジプト、印度、支那の歴史に精通することである。
飛鳥、白鳳、天平を知り、岡倉天心や万葉集をくりかへし勉強する必要があることだ。
早くゲーテを片づけて、十分にこれらのものを研究しなくてはならない。」

こうして亀井は、同年12月に「人間教育 ゲエテへの一つの試み」(池谷賞受賞)
を刊行してそれまでの人生、文学活動に一区切りをつけたのである。

”天皇”に関しては、亀井は「日本書紀」から入り、そこに”人間天皇”の存在を明確に
認識し、天皇の時代苦と人生苦からくる恐怖や悲哀を古寺の成立に結び付けて
考えた。ただ、亀井の実感として、それは東洋を軽視した日本中心の日本史
だったので、それは直ちに国粋主義の心理に結びついてくるのだった。

”信仰”に関して、亀井は、「私は何をやって来たか」の中に、次のように書いている。

「私は文壇内では、文芸評論家ということになっているが、文壇外では宗教評論家として
時々振舞うことがある。さきに述べた再生への願いといったものは、それ自身宗教的な性格を
持つことは容易に想像されよう。且つ大和の古寺など巡っているうちに、私は俄然大菩提心を
喚起せしめられ、仏門に帰依することになったのである。」 (「四 宗教について」(S26))

     ・仏教開眼

亀井の2回目の奈良訪問は、初訪問から6ヶ月後の昭和13年4月だった。先ず
法隆寺金堂の百済観音の前に立った。「ノート」には「忘れ難い百済観音の姿は、
私にとってはもはや観照の対象ではなく、信仰の対象となっていた。」と書き、
さらに「念仏を唱えつつ金堂の中をへめぐったら、それで心は満ち足りるのだ。」
(S13.5.1)としている。百済観音との出会いが亀井の新たな出発点になっていた。

幼少時の亀井は宗教的コスモポリタンだったと前記したが、学生時代以降は宗教、
特に仏教とはほとんど無縁だった。転向による自己再生という問題に直面した亀井
の心には、ギリシャとローマがあったが、時勢から訪問できるはずもなく、せめても
の思いで日本の古典に目を向け、奈良を訪れて仏教に再会したといってよかろう。

昭和14年に亀井が発表した「私の批評家的生い立ち」に次の一節がある。

「嫌な想ひ出のあるこの国で、否応なしに私は再生の道を歩まなければならぬ。
一昨年の暮れあたりから、仏典や聖書や宗教的情熱を求めた本をよんだ。
内村鑑三、武者小路実篤、倉田百三氏等の印象と感銘をかいたのは昨年である。
一切放棄して自然の子になれ―彼らの教へるところは畢竟この一大事のみである。
私は政治には失望した。戦争と動乱の激烈な時代であるが、この無情の大河に漂ふ
純粋の生命を索めて私は暫く漂泊することにした。天も私の志を憐んだか、
つひに観音様があらはれて大乗の妙諦を説いて下さった。 (S14/11:<文芸>)


亀井はその時の心情をそのまま公表したのだろう。当時としては大胆な文章とも
思うが、奈良を訪れたことで、仏教に救いを求めるに至った過程が読み取れる。

「ノート」などによれば、亀井は、初訪時に見た百済観音の姿に幼少時に馴染んだ
聖マリア像からは得られない心の安らぎを覚えたが、再訪時には亀井の心は醒めて
いた。百済観音ではなく「念持仏の右方にある天平の聖観音」に”美の極致”を見て、
さらに多くの観音像を拝観するために大和の諸寺を廻ったのである。

ところで・・、亀井が”美の極致”を見たという”天平の聖観音”とは?
亀井の「大和古寺風物誌」(初出S18)には、「橘夫人念持仏の厨子を中心にして左側に
百済観音、右側に天平の聖観音が佇立していた」(「法隆寺:初秋の思い出」)とあり、
さらに「念持仏厨子の右側に立つ天平の聖観音像」(「法隆寺:金堂の春」)とある。
昭和13年当時は金堂に”天平の聖観音”があったのだろう。 

現在の法隆寺文化財目録を見ると、大宝蔵殿に「観音菩薩像:時代-奈良:木彫銀泥:切金
板光背は平安時代 高182.1p:重文」があるので、この像かと思うが、この像のことやその
美しさが特に評判になったということはなさそうだ。むしろ「橘夫人念持仏の脇侍(観音像)」
が亀井が描写するような女体美を持つ像として高く評価され、人気があるように思う。
(なお、「百済観音」(飛鳥)、「橘夫人念持仏(阿弥陀三尊像)及び厨子」(白鳳)は国宝。)


いずれにしろ、観音像によって仏教への傾斜が決定的となったが、キリスト教に満た
されず、仏教に救いを求めたという経過において岡本かの子に通じるものがある。

     ・岡本かの子・一平夫妻と観音経

亀井は、奈良初訪から帰ると、宗教関連の読書、研究に没入し、随筆「百済観音」
(S13/1:「新日本」)を発表した。さらに岡本かの子著「やがて五月に」の月評を
書いたが(S13/4:「文芸」)、岡本作品の精読を通じてかの子の宗教観に共感し
観音経の研究を本格化したようだ。奈良再訪の後、「観音経覚書」を<文学界>に
連載(S13/10〜S14/3)したが、ここにはかの子の影響が強く表れている。
同時期にはかの子との直接の親交も始まったが、かの子の急逝(脳溢血・S14/2
:享年49歳)で束の間の親交に終わり、「牡丹観音」と題して追悼文を書いた。

斐子によれば、亀井は、かの子だけでなく、夫の一平(漫画家・作詞家)から受けた
影響も大きいという。一平の出生地は亀井と同じ函館市元町である。そこに住んだ時期
は異なるが奇縁といえよう。昭和を代表する画家の一人 岡本太郎はその長男である。


この後、昭和20年までの亀井の主な著書は、「東洋の愛」(S14)、「捨身飼虎」(S15)、
「信仰について」(S17)、「大和古寺風物誌」(S18)、「親鸞」(S19)、「日本人の死」
(S19)、「聖徳太子」(S21)、等である。すべて、何らかの意味で宗教に触れており、
奈良訪問に始まる亀井の仏教への傾倒がはっきりしてくる。

   *文芸評論家への道 ---

     ・<文学界>加入

昭和13年9月、亀井は<文学界>に加入した。「昭和12年に加入」とする亀井自身の
記述があるが勘違いだろう。河上徹太郎が、同誌昭和13年9月号に、新同人として
紹介している。 斐子によれば、林房雄、河上の誘いによるもので、時期的なことで
<日本浪曼派>脱退との関連を云々されることがあるが全く無関係とのことである。

<文学界>は当時の文壇最有力者のグループと見られており、この時は
亀井とともに、中村光夫、井伏鱒二、今日出海、中島健蔵、真船豊、
堀辰雄、三好達治の8名が加わって、総勢26名の大きな勢力となった。

ちなみに、<文学界>の同人名を掲げると・・、亀井が錚々たるメンバーの一員に加わったことが判る。

創刊(文化公論社:S8/10)〜  武田麟太郎・林房雄・小林秀雄・川端康成・深田久弥・(広津和郎・宇野浩二)
S8/12〜  (豊島与志雄)      S9/2〜  (里美ク)・横光利一・ 藤沢垣夫   
 ---  S9/3から 休刊  :  S9/6から 発行所 文圃堂で再刊 :  ( )の4名はS10に脱退  ---
S11/1〜 村山知義・森山啓・島木健作・船橋聖一・阿部知二・河上徹太郎  [S11/7〜 発行所 文芸春秋社]  
S11/9〜  岸田国士・芹沢光治良    S12/3〜  佐藤信衛・三木清    S12/4〜  青野季吉
S13/9〜  亀井など上記8名  なお、S15/4に中山義秀・火野葦平・上田広が加わり総勢29名となった。


この時、亀井は31歳。27歳の中村光夫に次ぐ年少者で、共に文芸批評家として出発
したところだった。亀井は最大の勉強の場として先輩らから文芸批評を学び、書いた。
特に、亀井にとって青野季吉、小林秀雄、河上徹太郎の三先輩の存在が大きかった。
ほぼ同時代人では中村光夫のほか、同人ではないが、山本健吉、吉田健一、
保田与重郎、山岸外史、芳賀檀、中島栄次郎等が批評家として名乗りを上げていた。


 参考サイト (写真)  「文学界」 同人

日本近代文学館
→ 写真検索 →亀井勝一郎(P0003487)

(S13頃 集合写真)

前列左から 横光利一・亀井勝一郎・中村光夫・島木健作・
村山知義・林房雄・青野季吉・中島健蔵・
後列左から2人目佐藤信衛・1人おいて河上徹太郎・深田久弥・
今日出海・井伏鱒二・舟橋聖一・阿部知二・小林秀雄


亀井は、後に「私はその間にあって、自分の凡庸さがわかり甚だ困惑してきた。
それだけに刺激されるところ多く、勉強になった。」と振り返っている。
(「現代史の中のひとり」から「よく学びよく遊ぶ」(S29))

     ・三人の先輩

<文学界>同人になって、青野、小林、河上という三人の先輩批評家と親しく接することが
できたが、亀井はこのことについて「私の幸運だった。」とし、さらに次のように書いている。

「いくつになっても、こっぴどく自分をやっつけてくれる先輩を持つことは、悔しいけれど、人生の
幸福である。私は、青野氏からは、時代苦をまともに背負って「遠き道を行く如し、急ぐべからず」
といった強靭な平凡人の自覚を教えられた。河上氏からは、自己弁解をせず、一切に耐える
沈黙の試練を学んだ。小林氏からは、日本の「近代」なるもののあらゆる病性に対する強烈な
抵抗を学んだ。いや、ここには書ききれぬほど三氏から様々のことを示唆されたが、とりわけ
文芸評論の範囲を広げて、人生論もやり美術や音楽論もかき社会批判もこころみるといった
ことが、後から仕事を始めた私の気持ちをどれほど自由にしてくれたかわからない。」
(「私は何をやって来たか―批評家物語― : 一 伝授について」(S26))

一方で・・、亀井が同人になった当時の「ノート」には次の記述がある。

S13.10.15 「小林秀雄は江戸の職人である。(中略)小林秀雄は栄養料理の名手である。
只 この料理が必ずしも吾々の美観をまんぞくさせぬ。」
「<文学界>は結局、川端を除けば下町職人の集まりにすぎない」

S14.7.5 「小林秀雄のものをよむと人間が小さくなる。鋭いが針の鋭さである。利口すぎる
人間なのだ。もっと馬鹿になれ、もっと甘く大様に語るがいい。ここには
悠久の思想一つもなし。身振りが小きざみであって人の心を狭くする。」

S14.7.20 河上徹太郎の「批評の悦び」を読んで、「あまりに批評家という言葉にとらわれ
すぎている。僕は自分が批評家とよばれようとよばれまいと大して意に介さない。もう少し
ゆとりある一個の人間であればいい。(中略)徹底した客観などというものは認められ
ないのである。政治のみならず、文学においてさえ客観の姿ほどあいまいなものはない。」


若き日の亀井の両先輩に対する精一杯の反発であり、第一人者揃いの<文学界>では
あるが、しっくり馴染めない気質があることを「ノート」故に率直に書いたのだろう。

この「一 伝授について」は、転向による自己再生の苦悩を背負いながら仏教に
救いを求め、戦争、敗戦という国民共通の苦難と価値観の大転換の中を生き、
幅広い人生経験を積んで批評家として大きく成長した亀井の興味深い述懐である。
この項は、続いて次のように締めくくられている。

「他方では、井伏鱒二、太宰治等の作家に長く交わり、ともすれば生硬になりがちな
批評家の批評筋肉といったものを、柔らかくもんで貰ったことも記しておきたい。」

     ・戦争肯定

このころの日本は、日中戦争の泥沼化と日米開戦への流れが止まらなくなっていた。


このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

亀井はこの戦争をどのように考え、どのように対応したか・・、「ノート」の記述量は少なく、
深くは触れていない。この時期、亀井は<日本浪曼派>脱退、自己再生といった自身が
背負った重い課題で精一杯で、対中戦争や国際問題、政治問題を考えるだけの精神的な
ゆとりがなかったのかもしれない。 時を経ずして日本の古代史や宗教にのめり込み、
その視点から日本(人)の伝統やあり方を考えるようになったことが窺える。

日中戦争に関しては、盧溝橋事件(S12)の翌月、8月25日の「ノート」に次の記述がある。
これが以降の戦争に対する亀井の基本的な姿勢だったといえよう。 亀井に限らず、多くの
文学者、そして国民大多数に共通する認識だったのではないだろうか。権力に抗うことの
恐怖と、”戦争に負けるはずがない”という妙な確信がその心底にあったと考えてよかろう。

「旧左翼の戦争反対論はいまや一の空論になった。我々はあくまで見物人であってはならぬ。
責任を回避した第三者的批判は避けるべきだ。少なくともそうなる性質が存する。
戦争はすでに来たのである。いかなる戦争においても我々が勝利しなければならない。」


そして、「支那は戦敗国である。」と書き、当時の中国(人)を見下した感覚が覗く。
事実、戦後の著書「わが精神の遍歴 第二章」に次のようにあるので引用する。

「私自身は中国を旅したこともなく、中国人と交わることもなかったが、しかも心中では、
いわれなき蔑視あるいは軽侮の感情をもち、この国と戦わねばならね悲しみを身に
しみて感ずるようなことはなかったのである。」 (初出 S22/6 戦争と自分T<文学界>)

なお、「わが精神の遍歴 第二章 戦争と自己」は、敗戦にいたる約10年間の戦乱期に
亀井が何を考え、行動したか、現在それをどのように観じているかの報告となっている。
(S22〜23に雑誌に発表したものを、後に集大成した。「亀井勝一郎全集 第6巻」所収)

対米英開戦については、日中戦争の延長線上ではあるが、亀井には、明治以来
の西欧文物の流入による日本の変様に対する伝統の反抗と捉える気持があり、
日米開戦時前後の著作「信仰について」でそのことに触れている。戦後の著作の
「私は何をやって来たか」では、「私は、この戦争に対し極めて肯定的であった。」
と再確認し、さらに「現代史の中のひとり」には次の一節があるので引用する。

「ところで私の感情としてあった中国人侮辱感は、その半面にヨーロッパ人やアメリカ人への
劣等感を伴っていた。今度の戦争で無条件降伏するよりもずっと以前に、我々は「ヨーロッパ
近代」に無条件降伏してきたのではなかったか。それで私の対米英戦争肯定の気持の中
には、この劣等感に対する反発のあったことにも気づくのである。少なくともそれが私の民族
主義のひとつの根拠になっていたのだ。しかし戦争責任の根本は中国侵略の肯定である。」
(「現代史の中のひとり」から「戦争責任について」(S29))

亀井の戦争肯定の気持には、明治以来の欧米に対する屈服的態度に対する反省と
英米側がその国益を力ずくで押しつける無神経への怒りが込められていたのだろう。

内閣情報局と大政翼賛会の肝いりで、昭和17年5月に「日本文学報国会」が設立され、
小説・劇文学・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学、の八部会がおかれた。
会員数約4,000名を擁し、亀井は「評論随筆部会」の幹事の一人となり、同部会が
担当した「国民座右銘」の選定に携わるなど、文学報国会関係の事業に関わった。

しかし、亀井のこの間の主な著書は、前記した「東洋の愛」(S14)、「捨身飼虎」(S15)、
「信仰について」(S17)、「大和古寺風物誌」(S18)、「親鸞」(S19)、「日本人の死」(S19)、
「聖徳太子」(S21)、等で、亀井独自の戦争肯定論を含む部分があるとはいえ、すべて
宗教が主題で、戦意高揚とか国策宣伝色は薄い。亀井は批評家、文学者としての拠所
を信仰に基く仏教探究の一点に定め、戦争末期は親鸞と聖徳太子の執筆に没頭した。

     ・家庭では・・

亀井には、家庭について触れた記述は太宰絡み以外にほとんどないが、
妻の斐子が「回想のひと亀井勝一郎」に記しているので触れておきたい。

亀井は、昭和9年に転地療養の意味で阿佐ヶ谷から三鷹(下連雀)へ転居、昭和11年に
斐子が妊娠したので吉祥寺の西五条通へ転居、翌12年4月に長女が誕生した。
ここは二階屋で、亀井は2階を書斎に使ったが手狭になって、昭和14年に吉祥寺の
御殿山へ転居した。井の頭公園(現自然文化園)のすぐ北側に位置し、静かで吉祥寺駅
へ出るにも便利な所で、亀井は6畳の離れ間を書斎に使った。 昭和18年4月に長男が
誕生したが、斐子は特に産後の体調が優れず、失明状態の厳しい時期を過ごした。

引越しの度に家賃は14円→25円→38円と上がり、住環境は格段に良くなっている。
亀井の文筆による収入増があってのことだろうが、この時期はまだ函館の実家からの
援助が続いていたのではなかろうか。父亡き(S10)後、継母幾代の才覚で亀井家の
資産は守られ、勝一郎と実家の関係は円満に運んでいた。祖母の死(S17)、継母の死
(S19)があり、函館の亀井家は弟の勝三が継いだが、その後も円満な関係は続いた。

亀井と斐子と二人の子供は、仲良く、円満にこの吉祥寺(御殿山)の家に住んだ。
現在も、「亀井」の表札があるとのこと、斐子の次の記述がすべてを物語っていよう。

「文筆家には家庭の破綻が間々あるようだが、彼には仕事と家庭を大切にすることが
それほど衝突しなかった。私ごときを許して長年を過ごした忍耐が思われる。
北国育ちの辛抱と克己心、仕事のいらいらを家族にぶつけることのないこの太陽の
微笑に慣れて、私たち母子は彼を喪うと共に太陽をも失ってしまった。」(前掲書)


斐子は4歳年下で、昭和時代のいわゆる良妻賢母の典型だったように見受ける。強引な
同棲から始まった結婚だったが、両家、特に亀井の函館の実家との関係を円満に保ち、
文士の不安定な家計をやり繰りし、編集者や文士、不知の来客の接待、応対をこなし、
産後の体調不良時でさえも亀井と太宰の深夜の酒の付き合いを許した。

このころの亀井は、親鸞に打ち込み、次いで聖徳太子に取り組んだため、空襲下の東京
を離れることができなかった。小学2年生になった長女だけは疎開させたが、亀井は
吉祥寺の自宅で執筆に励んだ。未だ体調不十分な斐子の、母として妻としての奮闘は
続いたのである。 文筆家の妻として”内助の功”は絶大だった。 

日本の敗勢は日ごとにはっきりし、昭和19年になると本格的な本土空襲が始まった。
三鷹に近い中島飛行機の工場などが初めて本格爆撃を受け、翌20年3月10日には
死者10万人ともいわれる「東京大空襲」があった。多くの人が東京から疎開したが、
亀井は激しい空襲の中、吉祥寺で執筆を続け、そこで敗戦の日(S20.8.15)を迎えた。

 *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

     ・亀井と将棋

亀井が最初に阿佐ヶ谷将棋会に参加したのは、記録では昭和13年6月7日である。
木山捷平の日記に「13等 亀井勝一郎 3勝9敗」との記述がある。この会は、井伏の
直木賞受賞記念の会(私見)で、別項「開催一覧」にある通り多数の参加があった。
このころの亀井と井伏との関係は、面識はあるといった程度にすぎず、誰かに誘われての
参加だろうが、亀井は文壇における交友関係の拡大に新たな一歩を踏み出したといえる。

亀井は、記録にある第1回、3月3日の会には参加していない。2回目からの参加だが、
この間の4月、奈良再訪から帰ると<日本浪曼派>創刊時の同人緒方隆士が死去(4/28)、
この時の葬儀は7人の友人によるいわば“友人葬”だったが(別項参照)、亀井は7人の
一人として、他の6人(小田、中村、外村、青柳、田畑、中谷孝雄)と協力して執り行った。
中谷以外はすでに会の仲間という親しさがあり、<日本浪曼派>の関係で亀井とも親交が
あっただろう。将棋会のことが話題になって亀井も参加する気なったと考えてよかろう。

亀井の将棋の腕前については太宰の項で触れたように、中村と並んで最下位クラス
だったようだ。 斐子によれば、将棋の駒の動き方を教えたのは斐子だという。
その斐子も「父や弟たちがよく指すのをみて動かし方だけ知っていた」程度だというから、
初参加には勇気が要っただろう。 3勝したのは立派というほかない・・。

小田が亀井と太宰の将棋を評して、「二人が弱いのは当然で、いっこうに熱や真剣さが
感じられなかった。面白くないことは無さそうだったが、要するにどうでもいいこと
だったらしい」と書くところである。(「亀井勝一郎全集 月報:「戦争中のこと」(S47/6))

     ・亀井と井伏

亀井は将棋会に参加して井伏との交遊が始まるが、親しく行き来するようになったのは
太宰と親密になってからだろう。将棋会への出席は、昭和15年以降に多いように見える。

昭和15年夏、鮎釣りで井伏、太宰夫妻と投宿中の伊豆の宿で洪水に会い、危うく生命の
危機を脱したことは太宰の項などに記したが、井伏との親密な様子がはっきり見えるのは、
井伏が徴用解除で帰国した翌年8月(S18)からほぼ3か月間の井伏の日記である。
亀井、太宰との将棋と酒の日々の記述が目立つ。 

なお、この8月(S18)においては次の3つの事柄に触れておく必要がある。
・会員の田畑修一郎が急逝(39歳)し、吉祥寺の自宅で告別式(8/6)が行われた。
・井伏は直木賞選考委員を委嘱され、吉川英治、大仏次郎らと共に委員になった。
・文学報国会の「大東亜文学者決戦大会」が開催され、亀井は積極的に参加した。

これらは、亀井自身ないし極く身近な仲間に関わる大事であり、それなりに心に強く
感じるものがあったはずである。 時に(S18)、井伏45歳、亀井36歳、太宰34歳だった。


参考サイト (写真)  亀井勝一郎と太宰治の2ショット 2枚 

日本近代文学館
→ 写真検索 → 亀井勝一郎

写真@ P0002232:亀井(向かって左)と太宰(同右)

(昭和17年正月:井伏宅:伊馬春部撮)

徴用中のため井伏は不在だったが、年始挨拶で
荻窪の井伏宅を 連れだって訪れた。

二人の明るい表情が印象的である。
親密さを示す写真として よく見かける所以だろう。
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写真A P0002224:亀井(向かって右)と太宰(同左) 

(S15/8:三鷹の太宰の自宅の前)

     ・亀井と太宰

太宰の項で触れたとおり、二人の出会いは太宰の<日本浪曼派>加入(S10春)が契機の
はずだが、亀井は、「太宰と初めて会ったのは、いつだったかはっきり思い出せぬ。
たしか昭和11年秋の「晩年」出版記念会であったろう。」 と書いている。初対面が
いつにしろ、二人の親密な交遊が始まったのは、再婚した太宰が甲府から三鷹に
越してきて(S14/9)からであり、太宰が疎開から帰京した(S21/11)当初まで続いた。

亀井は昭和39年に「無頼派の祈り」を刊行した。それまでの太宰に関する著作を整理した
著作集で、太宰存命中に書いたのは「富嶽百景解説」(S18)と死の直前の「無頼派の祈り」
だけである。”作品論・作家論”、”作品解説”、”交遊の思い出”の三部から成り、他は死の
直後から十数年の間に雑誌などに書いたものである。信仰に救いを求めた亀井の眼から
見た太宰の作家像・人物像だが、堅苦しさはなく、当時の二人の雰囲気に引き込まれる。

なお、亀井は、この中で太宰の長編について、「津軽」を筆頭に、「右大臣実朝」、「惜別」を
三大代表作としている。「史実や魯迅の言行の解釈の上では異論もあろうが」としながらも
「惜別」を代表作に挙げるのは亀井独特の感性だろう。 「惜別」は戦時中のいわゆる国策
小説だが、そのことは別にしても、一般的な評価としては代表作とするのは少数派である。

(「惜別」については、別項「太宰治著「惜別」:執筆経緯と評価の疑問」を参照ください)

 亀井の表現を借りれば、「”無頼派”と”無頼派”の“中間派”時代の太宰とのつきあい」
だったが、このことについては、双方の妻もその親密ぶりを回想記に記している。
これらを併せて読むと、単なる”お付き合い”を越えた親密さが伝わってくる。

亀井は堅い理論家でいわば左脳主導派であるのに対し、太宰は繊細な情緒に溢れる
いわば右脳主導派であると考えると、この二人の組み合わせは奇異にも感じるが、
「太宰は私にとって、何よりもまず東北人であった。」 と亀井が書くところが二人の親交の
根っこにあり、その上に、共に大金持ちの家に優秀な頭脳を持って生まれ育ちながら、
青春時代の強烈な挫折によって再生を背負って生きなければならなくなった運命に
あがき、立ち向かい、いまや壮年を迎える者同士の共感があったのだろう。

亀井は太宰によって酒が飲めるようになり、連日、連れだって飲み屋に通ったのである。
斐子の前掲書から抜粋引用する。二人の親密な様子がよく伝わる。

「三鷹村下連雀という玉川上水べりに越してきた太宰治が、吉祥寺の町へ出るのに必ず御殿山の
わが家を通らなくてはならないという自然の理に加えて、「日本浪曼派」でただ二人の東北人という
こともあって大変親しくなったことが亀井のお酒の話には欠かせないのである。」

「夕方街に灯りがとぼる頃になると、太宰さんはうちの玄関へ現れる。 (中略) 同じ頃になると
勝一郎の方も何となく落ち着かないで待っているのだから、ベルと共に玄関へ飛んで行く。」

「コップ一杯のビールさえ半分は残していた亀井が、この「よき友」の指導で腕をあげた進歩の
ほどは信じられないほどだった。」

「太宰さんと語る時は彼も太宰さんに負けない毒舌となり、二人の人物・作品批評は辛辣だった。
どこかで通じ合う二人だった。自分で働いた金で飲めるというのは何と愉快なことだろうと太宰さん
が言われたよし、二人とも長い親がかりから脱してオトナになったばかりだった。抑制の強い亀井が
自分の持たない奔放さに惹かれた心情がよく解るが、一方どうしてあの太宰さんが温厚な亀井に
飽きずに深い「友」となったのか。二人になると彼にもさき様に負けない皮肉や広言が出てきて
話が面白くなるようだった。」


太宰の家から亀井宅まで徒歩で約15分、飲み屋はさらに吉祥寺駅方向へ歩いて
数分の「コスモス」(亀井の命名か?)だろう。 戦時下、酒類は不足し、なかなか
飲めなくなったが、この店では飲めるとのことで、二人が最も頻繁に通ったのは
昭和18〜19年、斐子が産後の体調不良でほぼ失明状態の時期だったという。

ただ、亀井の「太宰治の思い出」には、次の一節がある。亀井の太宰回想の記述
には全般に親愛の情、敬愛の情が読み取れるが、この一節だけは少し異なる。
親密さの裏返しの表現と読めないこともないが、別の意味もあるのではないかなど、
亀井の真意が気になるところなので、少し長いが引用する。

「彼と飲んでいると、人力ではどうにもならぬことを、どうにかしてくれと強制しているような感じを
受ける。酒を強制しているような外観を呈するが、寂寥を強制しているように感ずる。或は運命を。
他愛ない酒ではないのだ。他愛ない酒だと称するが、その声がいかにもつらそうなのだ。私に
どうなるというのか。玄関払いをくらわしてやろうと思ったことが屡々あった。
それに、彼と話すのは、なかなか骨が折れるのだ。言葉のなまりこそ東北弁とはいえ、この繊細な
神経家は、わずかな言い廻し、ふとした比喩、ちょっとした悪口にでもすぐ傷つくのだ。人の傷痕に
ふれることは、罪悪にはちがいない。他の話をしながら、無意識裡に人を傷つける場合もあろう。太宰
にはそれがこたえる。親しいものほど悪人視される可能性が多くなる。彼は自分を理解してくれる人の
いないことをかこつが、もし理解してくれる人が出たら、彼はその人を最も憎むだろう。神経を
余り使う必要のない、自分を甘やかしてくれるような、低能な女が、孤独者にはふさわしいのである。」

(「無頼派の祈り」所収 「太宰治の思い出」(初出:S23/9<新潮>) 太宰の心中死の直後の発表)

戦後の太宰は、井伏をはじめ旧知と会うことを避けるようになり、阿佐ヶ谷将棋会が
将棋抜きで復活した”阿佐ヶ谷会”には参加していない。太宰が太田静子、山崎富栄との
関係を深めた時期で、間もなく(S23/6)玉川上水で心中する。「井伏さんは悪人です」
という書き置きが見つかったが、これらについては太宰の項に詳記した。

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阿佐ヶ谷将棋会「3 盛会期」は、御嶽ハイキング(S17.2.5)と高麗神社参拝(S18.12.23)
終わるが、亀井はどちらにも参加していない。単に都合がつかなかっただけなのか、ほかに何か
特別な事情があったのか・・、理由は全く不明である。ちょっと気になるところである。

会は、「第
4期 休眠期」を経て戦後、昭和23年2月2日には、将棋抜きの飲み会「阿佐ヶ谷会」と
なって復活している。亀井はこの会に参加し、以降の出席回数も多く、主要会員の一人になる。

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「第4期 休眠期」  準備中


「亀井勝一郎」 の項 : 主な参考図書

『亀井勝一郎全集 第2巻 ノート(S7〜S19)』 (亀井勝一郎著 S53 講談社)

『亀井勝一郎全集 第6巻 』 (亀井勝一郎著 S53 講談社) 所収より
「私の批評家的生い立ち」(S14/11 <文芸>)
「信仰について」(S16〜S17の著作の集大成: S17 筑摩書房)

「我が精神の遍歴」(S22〜S23の著作の集大成:初出後の修正が多い)
「私は何をやって来たか -批評家物語-」(初出S26/7 <新潮>)
「現代史の中のひとり」(S29〜S30の著作の集大成) ほか

『大和古寺風物誌』  (亀井勝一郎著 H2刷 (初出はS18) 新潮社)

『無頼派の祈り』  (亀井勝一郎著 S39/8 審美社)所収より
「無頼派の祈り」(初出:S23/6<文学界>)
「太宰治の思い出」(初出:S23/9<新潮>)
「罪と道化と」(初出:S30/9<文学界>) 

「作品解説」(S34〜S35:筑摩書房「太宰治全集」解説) ほか

『遍歴の求道者亀井勝一郎』  (武田友寿著 S53 講談社)
『回想のひと亀井勝一郎』 (亀井斐子 S51 講談社)

『日本の古寺美術1 法隆寺1 歴史と古文献』  (高田良信著 S62 保育社)
『古寺巡礼』  (和辻哲郎著 1996刷 岩波書店)

『日本近代文学大事典』      (S53  講談社)
 『文学青春群像』    (小田嶽夫著 1964 南北社)
『酔いざめ日記』   (木山捷平著  S50/8  講談社)
『昭和文学盛衰史』  (高見 順著 1987  文芸春秋)
『阿佐ヶ谷文士村』   (村上 護著 1994  春陽堂)


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