太宰治著 「惜別」 : 執筆経緯と評価の疑問

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太宰治(人生と作品)


太宰治の小説「惜別」は、太平洋戦争終戦(S20.8.15)直後の昭和20年9月5日に初版が発行された。
部数は1万部で、発行は朝日新聞社(印刷は同社の大阪)である。発行日は戦後となったが、戦争中
の手配がそのまま印刷され、奥付には出版会承認番号があり、定價(マル停)貳円八拾錢とある。

表紙に「傳記小説 惜別」とあり、背と扉に「醫学徒の頃の魯迅」という副題と、本文に続いて太宰が
書いた「あとがき」があるが、その後の改訂版(S22/4:講談社)では、「傳記小説」の文字と「副題」
と「あとがき」 は削除され、戦時下を反映した語句は大幅に削除訂正され、加筆が行われたという。

なお、近年発行の「惜別」のほとんどは初版を底本にしており、本文語句の大幅な
削除訂正はないが、「傳記小説」と「醫学徒の頃の魯迅」の文字は削除されている。
「あとがき」は付しているものと、ないものとがある。
例えば「太宰治全集(筑摩書房)」にはあるが、新潮文庫(H15・33刷)にはない。
(ネットの「青空文庫」は、筑摩書房の全集が底本で、「あとがき」が付いている。)


太宰は、魯迅の随筆「藤野先生」を主題に据えて、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に留学
(M37(1904)/9:23歳〜M39(1906)/3)した周樹人(後の魯迅)が、医学を懸命に学ぶうち、
これを放棄して文学に転じることを決意し、仙台を去るまでを書いている。

内閣情報局と日本文学報国会、つまりは国の委嘱を受けて書下ろした長編小説である。
戦況悪化が著しい昭和18年11月開催の「大東亜会議」で採択された「大東亜共同宣言」の
五つの綱領(五大宣言とか五(大)原則ともいわれる))を文学作品化することになり、
小説部会では6人が委嘱され、「惜別」は「独立親和」の原則に対応する作品だった。

「津軽」「新釈諸国噺」執筆などで超多忙な日々だったが、昭和19年12月に委嘱が決定し、
太宰は本格的な執筆態勢に入り、12月20日夜(S19)、取材のため仙台に向かった。
仙台での丸4日間にわたる精力的取材と、小田嶽夫の「魯迅伝」(S16)や小田らの協力で
収集した資料、竹内好から贈られたその著「魯迅」(S19)などをもとに執筆を進め、
翌年(S20)2月20日頃に脱稿した。

作品に対する評価は、手厳しい批判から好意的なものまで幅広いが、概して芳しくない。
魯迅の人間像や医学から文学に転じて日本を去った心奥、中国事情、歴史・時代背景
に対する太宰の理解が不十分というのがその要点だが、文学作品としてというより、
国の委嘱による国策小説ということに重きが置かれて批判される面が強いように思う。

魯迅研究の権威で「魯迅」の著者竹内好や、尾崎秀樹、武田泰淳ら多くの有力文学者の酷評が
定着した所為jか、最近はあまり注目されず、話題になることも少ないが、委嘱過程や
作品評価に関して、詳細な再検証と“小説”としての真正面からの評価が必要ではないだろうか。

(「惜別」の執筆経緯・成立については、「太宰治全集7-解題(山内祥史)」
(1990:筑摩書房)が詳しく、本項はこれを主に参考にした。)

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私見だが、この「惜別」を戦争協力作品と見るかどうかは読み方次第だろう。
「若い清国留学生 周さんの人生の岐路の物語」と素直に読んでいいのではないか。
極論すれば、“周さん” は “魯迅” にならなくてもよかったのである。

“周さん”の人物設定は太宰流であり、太宰の分身的発言をさせる場面が多いことから、正しい
魯迅像なのか、中国の現実や歴史・時代に対する認識は的確なのかといった批判が強いのは
理解できるが、太宰は、歴史的事実の追究が専門の学者でも歴史家でもなく、小説家である。

日本にとって政治的にも社会的にも微妙な立場にいた “魯迅” という近代中国における
啓蒙派巨匠を、没(S11)後間もなく、しかも戦時統制下にあって小説化するのは元々が
無理だったろう。若い無名の一留学生が、日本の地方都市で医学を学び、そこで医学
を捨て、文学を志す決意をした経緯、苦悩、葛藤にテーマを絞ったのはこのためであり、
“周さん”は太宰の非凡な才能が生み出した小説上の人物と割り切っていいように思う。

「惜別」執筆の背景や太宰の思いは、「『惜別』の意図」と「あとがき」によく表れている。
これを、この作品の「序章」、「終章」として読んだらどうだろう。 通して読むと、大戦下、
敗色歴然の時勢にあって小説家太宰治が懸命に書いた一篇であることがはっきりする。

ちなみに、「『惜別』の意図」は、内閣情報局と日本文学報国会が委嘱作家選定のため執筆希望者全員
に求めた“小説の梗概・意図の提出”に、太宰が応じて書いた(S19/2上旬頃)5枚半の短い文章である。
標題は、最初、2行目に「清国留学生」(仮題)と書き、それを抹消して右側1行目に「支那の人」と書き、
さらにこれを抹消して3行目に「『惜別』の意図」と書いて決定した。(「太宰治全集7-解題」:山内祥史)

太宰は、この「『惜別』の意図」を次のように結んでいる。
「魯迅の晩年の文學論には、作者は興味を持てませんので、後年の魯迅の事には一さい觸れず、
ただ純情多感の若い一清國留學生としての「周さん」を描くつもりであります。中國の人をいやしめず、
また、決して輕薄におだてる事もなく、所謂潔白の獨立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで
書くつもりであります。現代の中國の若い智識人に讀ませて、日本にわれらの理解者ありの感懷を
抱かしめ、百發の彈丸以上に日支全面和平に效力あらしめんとの意圖を存してゐます。」
(青空文庫 「惜別」の意図 で読める。 底本は、「太宰治全集11」(1999:筑摩書房)

なお、標題の「惜別」は、魯迅(周樹人)の「藤野先生」の一節に次のようにあることに因む。
「出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。」
(周が仙台を去る2〜3日前、藤野先生は周を自宅へ招いて、記念に自分の写真を渡したのだろう。)

「惜別」は、太宰が直接時局に関わった唯一異色の作品で、湧き上る意欲で自在にペンを走らせたと
いうより、書こうという強い意志をもって魯迅の作品や膨大な資料を読破し、そこから得たエピソード
を繋いだ感があり、あくまでも私見だが、いつもなら、いわば右脳全開で闊達に“人間”を描くところ、
今回は国の委嘱を念頭に左脳主体で魯迅の「藤野先生」に向かって “周さんの物語” を組み立て、
そこに太宰自身の文学論や国家観、時局観を細心かつ巧妙に披歴したということではないだろうか。

凄まじい言論統制下にあって魯迅とその随筆を題材にすれば、太宰はこれ以外の書き方をする
気にはならなかったろうし、内容的に必ずしも戦争讃美、戦意高揚作品にはなってはいないので、
逆にこれこそが、太宰が「惜別」に取り組んだ真の動機だったように思える。(時局逆便乗!

日露戦争の勝利は、万世一系の天皇と国民の忠義、そこから生まれた国体の実力によるものと
しながら、一方で日本人の愛国心は無邪気過ぎるという見方を示したことに注目すべきである。
時局に向き合って題材を選び、工夫を凝らして書き続けた太宰ならではの作品と高く評価したい。

文学関係者には、ここでもう一度読んで、“小説”として真正面から評価していただきたいが・・。

“周さん”に、日露戦争(M37〜M38)に関して「日本人の愛国心は無邪気過ぎる」
と云わせたが、太宰の昭和の時代はどうだったのか・・? そして平成の今は・・?


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ところで・・、この「惜別」の委嘱過程には、何かいわくがありそうだ。
先ず、太宰の対応を焦点に、その過程を略記する。


・昭和18年11月5〜6日開催の大東亜会議は、五つの綱領から成る「大東亜共同宣言」を採択した。
(この「五綱領」は、「五要綱」、「五原則」、「五大原則」、「五大宣言」、などともいわれる。)

・日本文学報国会は、この五綱領を各部会毎に作品化することを決め、執筆候補者を発表した。
昭和18年11月10日付(旬刊)機関紙「文学報国 第9号」は、部会毎の執筆候補者を載せ、
小説部会(幹事長白井喬二)は次の25名である。(掲載順・(*)は2月3日の協議にも出席)

白井喬二(*)・尾崎士郎・戸川貞雄(*)・木村毅・福田清人・日比野士郎・濱本浩・
富澤有爲男・深田久彌・竹田敏彦(*)・久米正雄・中村武羅夫・加藤武雄・
吉川英治・甲賀三郎・眞杉静枝・林房雄・火野葦平・鶴見祐輔・菊池寛・片岡鐵兵・
海野十三・山岡荘八・岩田豊雄・山中峰太郎(*) 

ここに、太宰の名はない。 が、

・太宰は昭和19年1月30日付山下良三宛書簡に、「新年早々、文学報国会から大東亜
五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、
他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」 と書き、
4日後、2月3日開催の小説部会の協議会に出席した。

・この2/3の会は、「文学報国(第15号:S19.1.20付:実際の発行は2月3日以降)」
(注)
によれば、”執筆希望者約50名の協議”で、出席作家として次の26名が載っている。
先に発表された候補者25名の中からは4名、太宰など22名は新たな名前である。
(掲載順 : (*)は11月10日付「文学報国」に掲載の執筆候補者4名)

湊邦三・平野零児・立野信之・張赫宙・荒木巍・小田嶽夫・太宰治・船山馨・大林清・
山中峰太郎(*)・柴田賢次郎・倉島竹二郎・長谷川幸延・間宮茂輔・白井喬二(*)・
庄司聰一・大江賢次・竹田敏彦(*)・藤森成吉・芝木好子・辰野九紫・伊藤佐喜雄・
川端康成・戸川貞雄(*)・保高徳蔵・貴司山治・(他に情報局・星野)

この会で、小説の梗概、意図を提出すること、10名限度で依嘱すること、審査委員会は
執筆希望者以外の権威ある文学者・官庁関係官で構成すること、などが決議された。

(この会に出席した伊藤佐喜雄は、その著「日本浪曼派」(S46:潮出版社))に
「出席者は50名ほど」 と書いているが、記憶違いだろう。)

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(注) この記述に関し、尾崎秀樹の著作によれば開催日は1月3日で、それなら
「文學報國」発行日が2月3日以降という根拠は何か・・との疑問が寄せられた。

資料をあらためて確認した結果は次の通りです。 (H30/2記)

1) 開催日を「1月」とする記述は、尾崎説のほか筑摩書房刊「太宰治全集 第七巻」
(S51)と「同 小説7」(1998)の解題(関井光男)があるが、どれも根拠を
示していない。これらの記述に拠って「2/3開催は誤り」とするのは無理だろう。

2) 1/20付「文學報國」(第15号)には「事務局・事務日誌」の欄に「1月」として
「1/8〜1/31」が載っている。その「1/29」に「高麗神社参拝」があり、記事の
本文にも「意義ある一日だった。」として参加者名など詳細が載っている。
つまり、「1/20付」ではあるが、1月中の発行ではないと判断できる。

(このころは、実際の発行が発行日付より遅いことがしばしばあった。
「文學報國」(S19.3.1)の編輯後記は、これを挽回すると記している。)

3) 事務日誌「1/17」に 「小説部会幹事会」 とある。この時に太宰の名が挙がり、
太宰に何らかの連絡があったと察せられる。太宰の山下良三宛書簡(上記)に
「新年早々、・・難事業を言ひつけられ」云々とあるのは、このことと推察できる。

(美知子夫人は、「『惜別』ノート」 には説明会の開催を「1月」と書いたが、
これを改訂した 「『惜別』と仙台行」 では、「2/3」と日にちを明記した。)

もともと、作家50人を集める協議会を正月三が日中に計画することは考えにくい。
事務日誌も1/8から始まり、松の内の記述はない。事務日誌の「2/3」の欄に
協議会開催の記述がないことは気になるが、当日の開催を否定する決定的
材料はなく、2/3開催は事実と考える。 ただ、開催日が1月中か、2/3かは、
「惜別」執筆経過という観点では、それほど重要な意味を持つことでもなかろう。


(前記したが、「惜別」執筆の経緯については、筑摩書房刊「太宰治全集 7」
(1990)の「解題」(山内祥史)に詳細な論述がある。)


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・太宰は、この直後の2月上旬に「『惜別』の意図」を書いて提出し、同じ頃に
阿佐ヶ谷将棋会で親しい先輩である「魯迅伝」(S16)の著者小田嶽夫
関連資料の提供を依頼し、入手した資料を読むなど執筆準備を進めた。
(小田も2月3日の会に出席しているが、太宰の依頼に快く応じて援助した。)

・昭和19年8月29日付堤重久宛書簡と、同10月13日付小山清宛葉書には、
「そろそろ魯迅に取りかかる」のように書いている


・そして、昭和19年12月に委嘱があり、 太宰は、同19日の文学報国会による「宣言五原則
の理念を聴く会」に出席し、翌20日(S19/12)夜、取材のため仙台へ出発したのである。
妻美知子は、「1年前からの宿題であった『惜別』の資料集め」と表現している。

この委嘱決定に関して、「文学報国」(S20.1.10付の第44号)は、 「愈々このほど委嘱作家
の決定を見た」として、小説部門6名と戯曲部門(劇文学部会)5名の委嘱作家名を載せ、
執筆に先立ち12月19日に「宣言五原則の理念を聴く会」が開催され、関係幹部や太宰ら
執筆者7名(小説3、戯曲4)が出席したこと、「二月下旬には執筆完成」と報じている。

要約すれば、 最初に25名の候補作家を発表し、さらに希望者を加えて約50名(?)に
“梗概“の提出を求め、1年を経てようやく6名(計画は最初5名、次いで10名限度)を
決定したが、太宰は早くから準備し、内々ではずっと執筆することを明言していた。

「惜別」の「あとがき」には “委嘱がなくてもいつかは書いてみたいと思っていた”と
あるが、この年(S19)の太宰の超多忙な仕事・私生活と決定までの期間の長さ、
「惜別」の作品内容などを併せると、自ら執筆を急ぐ必要はなかったように思える。
太宰は自分に委嘱があることを早い時期から知っていたと見る方が自然だろう。
そうでなければ、親しい間柄とはいえ、2月3日の会に執筆希望で同席していた先輩
の小田嶽夫に、その時点で資料提供の援助を乞うことなどはできなかっただろう。

次いで、小説部会で決定した委嘱作家、次の6名のことだが、全員が最初は候補でない。
(劇文学部会(戯曲部門)は5名中4名が最初の16名の候補者中から選ばれた。)

・大江賢次 ・高見順 ・太宰治 ・豊田三郎 ・北町一郎 ・大下宇陀児 

しかも、2月3日の希望者の協議に出席していたのは太宰と大江だけで、12月19日の
「宣言五原則の理念を聴く会」に出席したのは、太宰、大江、豊田の3名である。

“何故 こうした6名が・・?” と思うのは考え過ぎだろうか。
最初の候補作家と決定6名とは、時局対応において何か違う雰囲気を感じる。
6名の方が、時局関連の文筆活動はむしろ消極的だったのではないだろうか。

「文学報国」は、1月の委嘱発表時点で「二月下旬には執筆完成」と書いたが、
実際に作品を提出したのは、6名の中で太宰だけだった。(戯曲では森本薫)

この件は、2月3日の協議会以降決定までの間、「文学報国」の事務日誌欄に
何回か小説部会幹事会の議題として載っているが、審査委員名や審査過程
などの記事はない。 決定発表前の早い時期から太宰が自分への委嘱を
知っていたと察せられることや積極的な執筆希望があったかどうかはっきり
しない作家が選ばれていることなど、決定に到るまでの不透明感は拭えない。

要因として、小説部会長徳田秋声が死去(S18/11)して、後任を日本ペンクラブ
会長に就任したばかり(S18/11)の正宗白鳥が引受けたこと(S19/1)や、
内閣情報局と日本文学報国会の思惑、作家側の事情、などが考えられるが、
状況は全く不明である。 言論統制に関わった権力組織の闇の部分といえよう。

もう一点、太宰の「雲雀の聲」の刊行に触れたい。 太宰を信奉する木村庄助の日記を
基にした小説で、小山書店の勧めで昭和18年10月末に書き下ろし200枚を完成したが、
検閲不許可をおそれて出版を見合わせた。その後、伊藤整の「太平洋戦争日記
(S19.3.9欄)」によれば、“この小説が不許可になったと新潮社で騒いでいた”という。

ところが、太宰の8月29日(S19)付堤重久宛書簡には「2〜3カ月中に『雲雀の聲』と
『津軽』が小山書店から出る」とあり、同12月6日付小山清宛書簡に「『雲雀の聲』は
発行間際に印刷工場が焼夷弾にやられて全焼」とある。結局は刊行されなかったが、
夏前頃には出版許可が下りたのである。この間の経緯は不明だが、「惜別」執筆との
関連を思うのは勘繰り過ぎだろうか。  (「津軽」は予定通り発行(S19/11)された)

なお、「雲雀の聲」の校正刷は、終戦時には太宰の手元にあり、戦後直ぐに、これを
改稿して「パンドラの匣」と改題し、<河北新報>に連載(S20/10〜S21/1:64回)した。

                                               (本ページは H25/10UP)
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太宰治(人生と作品)

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