小田嶽夫の人生と作品

おだ たけお = 明治33(1900).7.5〜昭和54(1979).6.2 (享年78歳)

(本名 = 小田武夫 : おだ たけお)


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「将棋会 出発期 (S3〜S8)」 の頃まで  (“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像


= 外務省退職で過去と決別 =
 
本項の小田嶽夫と別項の田畑修一郎は、ほぼ同時期に文学一筋に
生きることを決断し、自身の過去と決別した。

田畑は、故郷(現島根県益田市)で相続した旅館業を昭和4年に売却して上京、
小田は、東京外国語学校卒業で勤務した外務省を昭和5年に退職したのである。

このとき二人は阿佐ヶ谷界隈に住んで出会い、文学青年同士として付き合い、
昭和6年には同人誌<雄鶏>を創刊、以後、格別の友情を深めていった。

この時期は、”阿佐ヶ谷将棋会 第
1期 出発期” に重なるのである。

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小田の著書に『文学青春群像』(S39)がある。小田が蔵原と知り合った頃(T11頃)から、
外務省を辞め、文学を志して苦闘した戦前の文学仲間との交遊を実名で記している。
”事実”を意識して書いているように感じられ、それだけに現実が伝わる迫力がある。
昭和初期の雰囲気が背景に漂い、阿佐ヶ谷文士ファンには逃せない好著と思う。
以下は主に本著を参考にし、年譜は『城外 夜ざくらと雪』の巻末(小田三月編)に拠った。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *高田中学(新潟県)から東京外語へ ---

明治33年(1900)7月、新潟県中頚城郡高田町(現上越市)で呉服卸商の
次男として生まれた。(本名 小田武夫。兄と姉の3人兄弟の末子。)

(註)上越市は、直江津市と高田市が合併(S46)してできた市。
高田は豪雪と日本のスキー発祥の地としても有名。


翌、明治34年、父が急死(享年37歳)。この年、母は32歳、兄9歳。

大正2年、12歳 新潟県立高田中学に入学。回覧雑誌を出し、短歌投稿をしたりした。
4年生から野球選手になり、2番・センターだった。文学と野球に時間を費やした。

大正7年、同校卒業。東京高等商業(現一橋大学)と東京外国語学校英語科
(現東京外国語大学)を受験したが不合格だった。

大正8年、18歳 東京外国語学校支那語科(現東京外国語大学)入学。
母方の叔父宅(大森)に寄宿した。歌舞伎に親しんだ。

   *外務省勤務 : 杭州領事館赴任 ---

大正11年、21歳 東京外国語学校支那語科を卒業。外務省亜細亜局に入る。

大正13年8月、24歳 杭州領事館(中国)に書記生として赴任。

大正15年、 26歳 蔵原伸二郎の勧めで<葡萄園>の同人となる。

昭和2年、<葡萄園>の2月・4月・6月の各号に小説を発表。

   *帰国 ・ 結婚 : 文学に傾く ---

昭和3年5月、 27歳 帰国。東京の本郷に下宿。 <葡萄園>に戯曲を発表。

昭和4年4月、 28歳 郷里の医師の長女と見合結婚。 杉並町成宗に住む。
<文藝都市>と<葡萄園>に作品を発表。

   *決断! 外務省退職 : 「小田嶽夫」誕生 ---

昭和5年7月、文学に専心するため外務省を退職。
<葡萄園>の新年・9月・12月各号に作品を発表。
9月号の「陰性な話」から、筆名を「小田嶽夫」とした。

なお、「小田嶽夫著作目録(小田三月編)」(S60)によれば、その前の
「玉拾ひ」(<近代生活>S5/5)から「小田嶽夫」の筆名を使用している。

新しい家族の誕生!!   昭和6年 長男 ・ 昭和11年 長女

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小説家「小田嶽夫」が生まれるまでの経歴を年譜(小田三月編)を参考に記した。
小田は自分の半生(終戦まで)を「人生を作る」と題して<新潟日報(夕刊)>に
昭和51年6月14〜7月19日の間、毎週月曜日に6回にわたり連載している。

1歳頃に父が急逝のため、父を知らず母の手でわがままに育ったこと、中学時代は
教師に”始末に負えない生徒”と思われるようなワルぶりを発揮したこと、早稲田の
文科を志望したが家の資力では私大は無理とあきらめたことなどが綴られている。

それにしても、中学卒業の時、ストレートで東京外語英文科に合格していたら・・・
人生にタラレバは禁物だが、「小田嶽夫」も、もちろん「城外」も存在しなかっただろう。
翌年には同校の支那語科へ入っている。人生の綾、宿命を感じないではいられない。

   == 文学の道 ==

    蔵原伸二郎と<葡萄園>が出発点

中学時代から文学に強い興味を持つようになったが、文学的出発は<葡萄園>から始る。

21歳で外務省に入り(T11)、自分は勤め人には向かないと自覚して本腰を入れて文学の
勉強を始めていた頃、慶応の学生だった中学の同級生の家で、1歳年上の同じ慶応の
蔵原と初めて会った。大塚に住む蔵原を時々訪ねて文学を志すものとして親交を深めた。

杭州領事館勤務の命には大いに悩んだが生活のためにやむを得ず赴任(T13/8)した。

大正15年夏、杭州を訪れた中河与一(M30生:小説家)を、小田が舟で西湖を案内した時、
中河の口から「蔵原が<葡萄園>の同人になって毎月のように作品を載せている」ことを知り、
”いよいよ始めたな、俺も・・・” という気持ちになって蔵原の活躍を悦ぶ手紙を出したところ、
その返事で小田にも同人になるよう勧めてきた。

小田はこれに応えて同人になり、その年(T15)の終わりころ「傷心の町」という短篇を蔵原に
送ったところ、翌2年2月号に掲載された。これが小田の作品が活字になった最初で、蔵原に
進境を認められ、<三田文学>には好意的な記事が載った。以降、<葡萄園>に発表を続けた。

中国情勢は、蒋介石の北伐により急を告げ、日本は対中国干渉を積極化、山東出兵(S2〜)
は済南事件(S3/5)となり、張作霖爆殺事件(S3/6)が続き抗日運動は激化の最中にあった。


小田は上司である領事の仕事振りに疑問を持ち、帰国を願い出て昭和3年5月に東京に帰任
したが、この流れの中で小田の気持ちは外務省を辞し、文学に生きる方向に大きく傾いた。
(小田の作品には、代表作「城外」をはじめ、この勤務体験が基盤にあるものが多い。)

    *<文藝都市>にも参加、井伏を知る

昭和大恐慌といわれる不況は続き、映画「大學はでたけれど」(S4)が大ヒットする時節、
街には失業者が溢れていた。職を失うとたちまち路頭に迷う現実があるにもかかわらず
小田は外務省を退職し(S5/7)、文学一筋に生きることを実行に移したのである。

退職は帰国2年後のことであるが、この間の文学活動は<葡萄園>に作品を発表する一方、
<文藝都市>の同人にも加わった。やはり蔵原の紹介によるもので昭和3年の秋頃である。

この時の同人会の帰途、小田は蔵原を介して井伏を知り、小田は挨拶の気持で2人を
本郷の下宿近くのカフェに案内してビールを注文したところ、井伏が「金は使わん方が
いいよ」と言った。小田はその井伏に「大人を感じ、文学一本で生きている人のきびしい
姿勢のようなものを感じさせられた。」と書いている。井伏30歳、小田28歳の時である。

    *文士 「小田嶽夫」 出発

小田は間もなく、翌年春の結婚(S4/5)に備えて、杉並町成宗の借家に移った。蔵原の
住居近くを選んだもので、阿佐ヶ谷駅に近く、青柳や中山もいた。荻窪には井伏がいた。

田畑との初対面は昭和4年末〜同5年初め頃であろう。「蔵原と阿佐ヶ谷の住宅街を
歩いている時」と書いている。また、阿佐ヶ谷に住む緒方とも蔵原の紹介で知り合った。

阿佐ヶ谷界隈に住む多くの文学青年に接し、文学で身を立てることの難しさを知る一方で
その生き方に共鳴し、内心忸怩たるものがあった外務省生活との決別に踏み切ったので
あろう。小田本人が「私の行動はたしかに奇矯といえる。」と書いているが、大不況下、
前途に見通しがあるわけではなく、不安に満ちた無謀ともいえる29歳の遅い船出だった。

退職(S5/7)の後、最初に発表した小説「陰性な話」( <葡萄園>9月号)から
筆名を「小田嶽夫」とした。文士として不退転の決意を示したに違いない。

なお、「小田嶽夫著作目録(小田三月編)」によれば、初めて「小田嶽夫」の筆名で発表
した作品は「玉拾ひ」(<近代生活>S5/5)で、「陰性な話」は、正しくは2番目である。

    *田畑修一郎との出会い  -  <雄鶏>創刊

小田は、田畑修一郎と出会い蔵原宅や田畑宅で会うなどして親交が深まるうち、
「田畑に非常に人間としての一種の大きさを感じた。」と書いている。小田より3歳年下
だが、育った環境やすでに3人の子供がいることなどがそのようにさせたのだろう。

田畑が1,000円を基金に拠出して同人誌<雄鶏>を創刊することになった(S6)。
小田は頼まれたわけではないが、”人生意気に感じて” なけなしの300円を拠出した。
(小田は、前記<新潟日報>には「田畑 500円・緒方200円」と書いている。)

300円は大金である。小田の退職金は意外に多く、2,000円位で2年間は普通に
生活できるくらいの金額だったというが、退職後約1年を過ぎてもほとんど収入のない
状態が続いており、そこへこの支出で小田の生活はたちまち窮することになった。

これにより<葡萄園>をやめ、<雄鶏>を本拠とした。翌年には出版社の変更で<麒麟>と
改題するが実体は変らず、作品の発表を続けた。翌8年には他誌の <作品>・<セルパン>
・<作家> にも小説を発表するが特に評価されることはなく、文士として苦闘が続く。

    貧窮の中、広がる交友 - 太宰・木山・中村

小田は「私は昭和7年夏には無一文になった。」と書いている。(<新潟日報:S51>)

小田は、昭和7年から約1年間、春陽堂で中国文学の翻訳や「支那語雑誌」の編集の
仕事に携わった。 春陽堂の担当者が小田の生活困窮を見かねて依頼したもので、
小田は、「そんな仕事は死ぬほどいやだったが、背に腹は代えられなかった。」「唯一の
抵抗として隔日出勤にしてもらい」引き受けたという。 毎日勤務の求めだったが文士
としての意地を通したようである。報酬は半額の月40円(外務省の月給は85円だった)
となったとのことで貧窮は続いた。まさに”文士は食わねど高楊枝”の意気である。

そんな最中、<雄鶏>・<麒麟>の同人の他、小田の人生を綾なす新しい出会いも多かった。
自著『回想の文士たち』に次のようにある。(要約)

「太宰治とは、昭和6〜7年に知り合い、当初は知り合ったというだけだったが、
昭和12〜13年頃から酒などの付き合いが始まり、戦争末期に最も親しくなった。」

(註) 太宰との初対面の状況は不明だが、昭和6〜7年といえば、太宰は東大生、天沼(荻窪駅北口)
へ越してくる前で、井伏宅に出入しはじめた時期である。接点は井伏辺ではなかったか。
小田31歳、太宰22歳くらい。井伏(33〜34歳)宅で将棋を指し、ご馳走がでたかもしれない。

なお、『文学青春群像』には、太宰とはじめて会ったのは昭和8年春、東中野の喫茶店の
ようなところで、<海豹>の会合の後の様子だったが、中村地平も同席していたとある。

木山にはじめて会ったのは昭和7年と思う。顔見知り程度の知人だった(後には親しくした)
倉橋弥一に木山が連れられて私の成宗の住居へ来た。倉橋は木山の詩の友人だったが、
その頃2人とも小説を志していたので、<雄鶏>の同人に接近したかったのだろう。」

(註) 木山との初対面は、小田32歳、木山28歳くらいである。木山はこの年に阿佐ヶ谷へ引越し(S7/3)、
直ぐに馬橋へ移っている(S7/5)。 小田宅の近くであった。木山は翌年<海豹>創刊(S8/3)の同人となり、
小説「出石」を発表した。太宰もこの時<海豹>同人になって「魚服記」を発表した。
「荻窪風土記 - 病気入院」に既述)。小田と木山は、この後、生涯の友としての付き合いとなる。


「中村とは昭和8年頃であったか、蔵原の家ではじめて会った。親しくなったのは共に坪田譲治
に近づき、坪田の家やその近くに居た中村の所に寄ったりしたことからのような気がする。」

(註) 小田と、坪田譲治・小川未明との出会いについて。
小田は、中国から帰った時(S3)、阿佐ヶ谷の蔵原宅で帰国祝の意味でご馳走になったが、
そこへ偶然坪田が訪ねてきて初対面した。その席で小田が郷里(高田)の大先輩で、坪田の師
である小川未明に紹介して欲しいというと、近くだから(高円寺)直ぐ行きましょうということになり、
蔵原も一緒に3人で出かけて会うことができた。小田28歳、坪田38歳、小川46歳の時である。
以降、小田は坪田との親交を深めた。後に「小説 坪田譲治」(S45)を著している。

    *同人活動は続く

田畑の場合がそうだったが、小田も同人誌遍歴が長い。<麒麟>の後は<世紀>(S9)・
<木靴>(S10)・<文学生活>(S11)
創刊と続く。田畑ら仲間たちと行動を共にしている。
そして小田の貧窮生活は続く。田畑や緒方、ほかの多くの同人仲間の貧乏も続いた。

紅野敏郎は、「そういう苦節10年的な文学青年のありようは、一見、愚直とも見えるが、
彼らの文学に対する熱愛は生涯変らず、その純な心情は、俗なジャーナリズムに迎合
することなく、ある意味において、つねにこれらのメンバーには、純乎たる文学精神が、
その底辺には漂っていた。」と記している。(『城外 夜ざくらと雪』の巻末解説)

    *”阿佐ヶ谷将棋会”  

小田にもこの第1期(発足期)の”会”のことに触れた記述がないので不詳ではあるが、
”会”に集まったと目される井伏・青柳・田畑・太宰・木山らとの接点はこの時期にあたる。
小田はすでに酒はいける口だった。このころには仲間の一人として将棋や酒に
付き合い、文学や人生、時世や女性談義に花を咲かせていたと推察する。

昭和8年には外村が阿佐ヶ谷に住んだ。井伏は青柳・小田と共に早速に外村宅を訪問し
交友が始まった。外村は青柳同様、将棋はしないが酒には目がなかった。古谷綱武、
秋沢三郎らも加わる。”阿佐ヶ谷将棋会”は、第2期 成長期へと向かうのである。

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「将棋会 成長期 (S8〜S13)」 の頃   (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”) 


= 芥川賞受賞で貧窮を脱出 =

小田嶽夫(明33(1900).7.5 〜 昭54(1979).6.2 :享年78歳)

昭和8年(1933)、小田 33歳。 ”将棋会 第2成長期” は小田の30代半ばにあたる。
第1期の項において、小田は、文学一筋に生きることを決断して外務省を退職し、
阿佐ヶ谷界隈に住んで蔵原伸二郎、田畑修一郎らと活発な同人活動を行ったが、
さして評価されることなく苦闘が続いたことを記した。

第2期に入ると家計はどん底にまで達したが、そんな折、創刊に加わった<文学生活>
に載せた「城外」が芥川賞を受賞し、ようやく文学で生きられる目処がつくに至った。

それにしても、小田と田畑は、世に出るまでの経歴、経過に共通点が多い。
共に、経済的に安定した環境に居ながらあえて文学の道を選び、その過去を棄てた。
二人が出会ってからは同人活動を共にしたが、文学生活はなかなか軌道に乗らず、
たちまち蓄えは尽きて貧窮生活に陥り、家族も塗炭の苦しみを舐めることになった。
30代半ばになってようやく芥川賞(候補)に選ばれて前途に明かりが見えた・・・。
二人の代表作は、いずれも作風は異なるが”私小説”の範疇である。

本項は主に小田の著書「文学青春群像」 と 自伝「新潟日報(夕刊) -人生を作る-」、
小田の著作集「城外 夜ざくらと雪」巻末の年譜(小田三月(嶽夫の長男)編)、による。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *生活逼迫 ---

昭和5年7月、小田が外務省を辞めて手にした退職金は約2,000円、家族は当時の相場
2年間位は暮らせる計算だった。大雑把だが、現在なら1千万円くらいというところか。
そして2年後、無収入の状態が続いて、昭和7年にはやはり無一文になってしまった。
春陽堂の好意で「支那語雑誌」の編集などに携わったが、自分の意地を通して隔日勤務に
したこともあって十分な収入ではなく、家賃が滞る・・払うと食べられない・・状態だった。

     ・退職金 ・・ 底をつく

小田は、「だが、本当の貧乏は翌年(昭和8年)暮、「支那語雑誌」がつぶれ、
全くの無収入になって以降である。」と書いている。
本棚は空っぽも同然、タンスから妻の衣類も消えた。質屋の利子に苦しむようになり、
親戚、知人など借りられるところは全て借り尽くして行く所がなくなった。家賃が滞って
畳替えなどは頼めず、荒廃しきった部屋で徳用米という特別安い米のご飯に、
お菜はなくて、醤油をかけて食べることもよくあった・・・という。惨憺たる状態である。

     ・意地も、恥もない ・・

数え年四つになった長男は、小田が遊んでやると嬉しがって天真爛漫に笑った。
「ああ、子供は何も知らない」という思いが浮かび、小田はぞっと全身に戦慄を
覚えさせられた。その時は何よりも原稿料が欲しかったと当時を述懐している。

昭和9年、<新潮>に載った短編小説「日本学士蔡萬秋」は、挨拶する程度の
知り合いでしかなかった新潮社の楢崎勤を頼って持ち込んだ原稿だった。
意地も、恥じも外聞もなかった。それを躊躇していられる状態ではなかった。

あまり気が進まない仕事だったが、中国文学の翻訳や紹介も手がけた。最初の
翻訳は、郁達夫(いく たっぷ)の「過去」(S7:春陽堂)で世界名作文庫の1冊だった。
芥川賞受賞の直後に発行された「大過渡期」は、茅盾(ぼう じゅん)の小説「蝕」だが、
取り掛かったのは「城外」発表の前である。生活のために引き受けたとはいえ、小田の
序文には茅盾という作家と作品についての丁寧な説明があり、熱心に仕事をしたことが
感じられる。発行が「城外」掲載の<文藝春秋>と同時期になって売上面に幸いしただろう。

     ・”中国青年”で転居

小田は、昭和10年に成宗から馬橋(阿佐ヶ谷駅から徒歩10分くらい)に転居した。
夜逃げではない・・、しっかりした事情があった。

上海の知人から「これから日本に行く中国青年に日本語を教えてやってくれ。」という
依頼がきた。小田は気は進まなかったが断れない自分であることを感じないわけには
いかなかった。引き受けて月額20円の報酬を得た。 当初は青年の下宿に隔日に
出向いていたが、1ヶ月ほどして小田宅に同居させて欲しいという要望があり、
そのためには相応の広さの家に変わる必要があった。
敷金や家賃は中国青年も相応に負担してくれるとのことで転居したのである。

この青年は、翌11年、早稲田大学に入学したがその年の夏休みに帰郷した。
留守の間、小田は生活費のため、青年には無断でまだ新しい早稲田大学の
制服を入質したと告白している。小田の貧窮ぶりが窺えるエピソードである。

青年はそのまま戻ってこなかった。日中間の政治情勢の反映だったようだ。
青年の持ち物全てを返送したが、その時は幸いにも小田は貧窮を脱していた。

     ・貧窮脱出       

昭和11年、<文学生活>6月創刊号に掲載した「城外」が芥川賞を受賞した。
賞金(500円)もさることながら、それまでほとんど無名の小田が一躍文壇
デビューを果たし、社会で脚光を浴びたことの意味は大きい。
ようやくにして数年間の貧窮生活から抜け出すことができたのである。

   *文学活動 ---  

<葡萄園>に始まった小田の同人活動は、、自分たち(田畑、小田、蔵原、緒方)が創刊した<雄鶏>
(S6)を本拠とするようになった。<雄鶏>は翌7年、出版社が変わって<麒麟>と誌名を変えたが、
20名近い同人はそのままで、実体は変わらなかった。小田は、<作品>、<セルパン>など
他誌にも発表したが認められることなく、経済的に困窮していったことは前記の通りである。

     ・芽が出ない・・

昭和8年、文芸復興の機運が高まる中、同人誌の合併話など同人活動は活発化した。
<麒麟>の同人はこの動きに呼応して<世紀>創刊(S9/4)に参加、<日本浪曼派>創刊
めぐり<世紀>は解散し、小田は田畑らと<木靴>を創刊(S10/10)したが、その作品は
相変わらずほとんど認められることがなかった。どん底の貧窮生活に陥ったのである。

前項に、<新潮>掲載(S9/9)の短編小説「日本学士蔡萬秋」のことを記したが、この
作品の反響はよくなかった。小田は、名誉挽回をしなければならないと意欲が強く
沸いたが、一面、現実からして、このまま自分の青春が終わろうとしていることに
”ふと無限の寂寥感に襲われた”と書き、次のように続けている。

「私はやりきれなくなって、私の去って行った若年時を、呼び戻したい思いでいっぱい
になった。併し、そんなことはできるものではない。そのうちに私は無性に杭州時代
の生活が書いて見たくなった。むろん、思い出として書くのではなく、書くことによって
その時代を再生活するのであった。そうするほかにはこの欝は癒されそうが
ないのであった。」 --- 時に小田34歳。 芥川賞作品「城外」の陣痛だった。

     ・<文学生活>創刊号に「城外」 

昭和10年に入ると小田はペンを執り、順調に進んで 1月のうちに完成した。
「城外」と題し、題にも作品にも自信が持てた。稿料が欲しかったので、改造社の
<文藝>編集部の酒匂郁也に届けた。一緒に酒を飲んだことがあり、人柄に好意を
持ち、その鑑賞眼を信じていたからだったが、その後ずっと沙汰がなかった。

4〜5ヵ月後に返事を求めたが、この作品のことは曖昧なままでその年は過ぎた。
小田は<木靴>も廃刊(S11/2)になったのでそのままにしていたが、春になると(S11)
<文学生活>創刊の話が起こり、そこに載せようと原稿を酒匂から取り戻した。

完成から1年半後、「城外」は<文学生活>創刊号(S11/6)に掲載された。

     ・第3回(S11上期作品)芥川賞受賞

「城外」は好評だった。 芥川賞は、”前回(S10下期の作品)が該当なしだったので、
今回は2人が入選かもしれない” ”「城外」は有力候補” などと気になる情報が耳に
入り、小田は落ち着かない日を過ごしていたところへ受賞を知らせる電報が届いた。
昭和11年8月10日のことで、”明日文藝春秋社へ来るように”とあった。

翌11日に文藝春秋社へ行ったが、着るものがなく(質に入っていた)、着たきり雀の
久留米絣の単衣という粗末な服装で出かけた。鶴田知也の「コシャマイン記」と同時
受賞で、直木賞は海音寺潮五郎だった。引き合わされた二人は立派な服装だった。
授賞式に間に合うよう、青柳瑞穂の知人の洋服屋に背広を注文した。

選考委員会では、鶴田の方は委員全員が推挙したが、小田を強く推したのは、
佐藤春夫、瀧井孝作、菊池寛だった。他には、<雄鶏>創刊以来の小田の旧友
緒方隆士の「虹と鎖」、それに北条民雄、高木卓、矢田津世子、打木村治、
横田文子、の各作品が候補になり、選考委員の間では、例えば川端康成は
北条の「いのちの初夜」を強く推すなど意見は分かれる状況だった。

ところで、人生に ”もしもあの時・・”は禁句だが、第1期の項で ”小田がもし希望通り東京外語
英文科に合格していたら「城外」はなかった” と記した(不合格で、翌年支那語科に入学)が、
ここでは ”もし「城外」が希望通り昭和10年上期の<文藝>に載っていたら・・” と思ってしまう。
あくまでも私の勝手な想像だが、芥川賞は逸していただろう。

第1回芥川賞(昭和10年上期作品)は、石川達三の「蒼氓」が受賞、ほかに、外村繁「草筏」、
太宰治「逆行」、高見順「故旧忘れ得べき」、衣巻省三「けしかけられた男」 が候補だった。
極めて高水準の争いで、しかも1篇だけの受賞である。「城外」といえども苦しかっただろう。

また、激動する日中間の政治、軍事情勢は、国民の中国に対する関心を年々高めており、
「城外」という作品に対する認識、評価も11年の方が前年より得やすかったと考えてよかろう。
<文藝>の酒匂がこれらを見通して発表を遅らせたとは到底思えないので、
小田の人生の大事はここでも「城外」をめぐって運命の神の手に操られたかに見える。
小田が持つ淡白さ、自然体での生き方の一面だろうか。

     ・初の創作集「城外」刊行

芥川賞の効果は絶大だった。秋には竹村書房から初の創作集「城外」発行の運びと
なり、「城外」のほか「あたたかい夜」、「山暮るる」、「井上女塾」、「写真」、「黒い服」、
「塵埃」、「日本学士蔡萬秋」など全12編が収められた。小田はその序文でこれから
力強く羽ばたこうとする決意を率直に表明している。跋(あとがき)は田畑に依頼した。

田畑は、小田は内に非常な熱情を持ち、長い困苦、焦慮を乗り切って結実したのが
「城外」であると評価し、これを口火にした小説の発展を心から期待し、激励している。
ちなみに、この時期の田畑は、同人活動や”三宅島もの”などで文壇ではそれなりに
名が知られていたが、「鳥羽家の子供」が芥川賞の最終候補になったのはこの2年後
(S13秋)のことなので、むしろ無名に近い小田の方がひと足早く世に出たことになる。

都新聞(現東京新聞)に勤めていた中村地平らは、この出版記念会を開催する提案
をしたが、小田は、授賞式そのものが一種のお祭りだったのでもう一度やってもらう
気にはなれないと辞退した。仲間への遠慮だったかもしれない。小田の一面だろう。

     ・「大魯迅全集」刊行参画と上海旅行 

受賞の年(S11)の10月19日に魯迅が他界(55歳)した。改造社は「大魯迅全集」を刊行
することになり、小田も打ち合わせ会に参画した。その関係で魯迅未亡人に会いたい
と思い翌12年3月、上海へ行き、魯迅家を鹿地亘と共に訪問、親切な応対を受けた。
その年、「大魯迅全集・第7巻 - 書簡・日記」が刊行された。(鹿地と共訳)

上海に1ヶ月の滞在中、小田は中国人の対日意識が極度に悪化している事実を肌で
感じた。満州事変(S6)に発しているが、それよりも、このころの日本軍の華北地方
への進出が大きな要因なので、7月に戦争になったこと(盧溝橋事件)は、
小田は当然の帰結と思ったという。(<新潟日報(夕刊・S51.7.19)>より要約)

日中関係の悪化、戦争で国民の中国に対する関心が高まる中、小田は中国関係の
執筆にも追われ、魯迅のほか、茅盾(ぼう じゅん)の小説「大過渡期」の翻訳(S11)や
「支那人・文化・風景」刊行(S12)など多忙だった。 翌、昭和13年以降もこの状況は続き、
小田の活躍が目立つが、昭和16年に徴用を受け、太平洋戦争突入で状況は一変する。 

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

第1期の項に記したように、小田は杭州勤務時に蔵原の誘いで<葡萄園>に参加し、帰国後は
蔵原を介して井伏、田畑を知り、<雄鶏>創刊で阿佐ヶ谷界隈の文学青年との交友を広げた。
小田は酒はいける口で、阿佐ヶ谷将棋会の一員として早い時期からその交遊を深めていた。
昭和8年以降、貧窮の中だが文芸復興の機運に乗って親交はさらに広がり、深まっていく。

     ・木山捷平と秋沢三郎 

第2期に小田が田畑のほか特に親交を深めた将棋会のメンバーは木山捷平
秋沢三郎だろう。 木山の日記には昭和8年2月15日「小田嶽夫君不在」とあり、
同9年になると3月22日「小田君訪問。将棋3戦3敗」、4月11日「小田嶽夫君来る。
将棋1戦1敗」とある。昭和7年の初対面から徐々に往来が頻繁になったようだ。

小田も、このころは家賃の督促を逃れるため、朝早く家を出て秋沢や木山宅へ
行って将棋を指し、夜遅くに家へ帰ったと書いている。お互い貧窮に悩む仲、
親しさが増したようだ。 二人は戦後は良き碁敵になり、生涯の友となった。

秋沢とは昭和8〜9年頃親しくなり、秋沢の人脈(上林暁、永松定、福田清人、
伊東整ら)とも知り合った。外村繁の「鵜の物語」出版記念会(S11/2)の後の
秋沢宅での”檀一雄のパンチ”のエピソードは秋沢の項に記した通りである。

小田は後の北京旅行の際(S14)には、当時北京で仕事をしていた
秋沢の世話になり、北京で会った伊藤、福田らと旅を共にする。

     ・芥川賞推薦カード 

芥川賞選考の際には、作家たちに推薦カードが配られたが、ある晩ピノチオで
小田が上林、井伏と一緒になった席上、井伏が”何を推薦したらいいか・・?”と
上林に言うと、上林は「城外」を推薦したと答えた。小田は後になって、
上林のほか、井伏、坪田譲治、川崎長太郎の推薦があったことを知ったという。

上林と川崎は<文学生活>創刊の同人であるが、上林はまだ将棋会には参加していない。 
坪田と川崎も将棋会の会員ではないが、後に飛び入りで将棋会や二次会に出席したことがあり、
小田をはじめ、田畑、井伏、浅見ら会員の多くとの親交を深めた。小田は坪田の人柄には特に
魅かれるものがあったようで、敬意をもって接し、後年「小説 坪田譲治」(S45)を著している。

     ”将棋会発足” 小田の記憶では・・ 

「『阿佐ヶ谷会』文学アルバム」(H19/8:幻戯書房)に、小田が昭和29年に書いた
「阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ - 中央沿線文壇地図」が収められている。
その冒頭に”阿佐ヶ谷将棋会”発足について触れている部分があるので引用する。

「『阿佐ヶ谷会』のもとは『阿佐ヶ谷将棋会』であった。多分、日中戦争のはじまる少し前ごろだったと
思うが、今は故人の田畑修一郎、中山省三郎、と小田嶽夫の三人が発起で、将棋会開催の通知を
近隣の親しい作家連中に送り、それが将棋会のはじまりであった。 -中略- 今は記憶もうすれて
しまっているが、大体のメンバーは上記三人のほかに安成二郎、井伏鱒二、上林暁、外村繁、
青柳瑞穂、村上菊一郎、木山捷平、中村地平、太宰治、亀井勝一郎、古谷綱武あたりだったと思う。」

この記述によれば、昭和12年春頃に小田、田畑、中山の発起で”将棋会”が始まり、
ほとんどの常連が顔を揃えたが、小田本人が「記憶が薄れている」と書いているように
20年近い昔のことで記録性に欠けるのが残念である。 しかし、この記述は、成長期
には類が友を呼んで仲間が増え、折からの将棋ブームも手伝って組織的にならざるを
得なかったという過程を示しているといえよう。この開催について他のメンバーの記述が
見当たらないのは気になるが、あるいはこれが「第1回将棋会」だったのかも知れない。

ところで・・上林暁の「支那料理店ピノチオにて」(S14/3作)には次のような記述がある。
「ある日ピノチオを覗いてみると、多くの知った顔が揃っていた。思いだすだけで、
秋沢、外村、安成、井伏、尾崎一雄、小田、田畑、中村、石浜三男、木山、太宰、
青柳、三好達治で、阿佐ヶ谷将棋会の崩れとかだった。」(要約)というのである。
さて、これが何時のことなのか?
秋沢は昭和13年春頃に中国へ渡っているので、それ以前の開催だが、この顔触れが
参加したという記述がある会はこれ以外には見当たらない。ひょっとしたら、これが
小田らが案内したという「第1回」の出席者だったのかもしれない。日中戦争の始まる
前後は、上林の大スランプ時で、時々ピノチオを覗いていた時期に重なるのである。

     緒方隆士の友人葬 

昭和13年4月28日、緒方隆士が死去し(享年33歳)、葬儀は、中谷孝雄、小田、田畑、青柳、
中村、亀井、外村、の7人によるいわば友人葬であった.。全員が阿佐ヶ谷界隈の住人だが、
緒方と中谷以外の6人は”将棋会”の会員で、事情に関しては小田に詳しい記述がある。。
当時の文学青年たちの活動や友情、心情が窺えるので、ここに至るまでを振り返ってみたい。

      緒方の同人活動

緒方(S4:日本大学卒)は<雄鶏>創刊(S6)の頃、阿佐ヶ谷界隈に住み、文学を志して
いた。 田畑が1,000円(あるいは500円)、小田は300円、緒方は200円を拠出し、
それに蔵原がいて4人で創刊した。緒方が加わった経緯は不祥だが、お互い近くに
住み、文学青年仲間として交友があり、特に田畑と深い親交があったように見える。

<雄鶏>には間もなく青柳、中谷らが参加、<麒麟>となって外村が参加、さらに
<世紀>(S9/4)となり、緒方も<麒麟>の一員として<世紀>に参加したが、
このころから田畑とは”感情の疎隔”をきたして絶交状態になった。

小田は二人の仲たがいの気配を感じていた。二人ともこのことについては何も
言わないので、その原因はわからないが、おそらく、お互い貧窮であるが故に
焦らだっていたのではないかと小田は見ている。
田畑も小田も、そして緒方も貧窮生活だったのである。

昭和9年、保田与重郎、亀井、中谷は<日本浪曼派>創刊(S10/3)の準備を進めた。
中谷は緒方をこれに誘い、二人は田畑らの制止を振り切って<世紀>を離れた。
<日本浪曼派>にはこの後、中村、外村も参加し緒方と同人活動を共にした。

      緒方の結婚 - 病魔

このころ(S9)、緒方は結婚し吉祥寺に住んだ。この時叔父から遺産を相続したようだが、朝鮮
には姉がいるようだというほかは肉親はなく、子供が生まれて殊のほか喜び、可愛がっていた。
遺産は大した額ではなく生活の不安があったところへ、昭和10年末か11年初め頃に
肺結核に罹ってしまった。そのため妻子を夫人の福岡の実家に帰し、事実上離別した。


昭和11年の伊豆多賀での緒方と小田のいわゆる2ショット写真が「文学青春群像」
に載っている。福岡の帰りに緒方が療養のため一時滞在した宿へ小田が見舞いに
行った時の写真のようだが、緒方は元気そのものに見え、命の儚さを感じさせる。

      緒方の入院 

緒方は伊豆の粗末な宿に2ヶ月位いて帰京し、阿佐ヶ谷に下宿した。健康は大丈夫と
いうことだったが、実際には宿賃がなくなったのだった。小田は時々訪ねたが血痰は
続いていた。診察を受けると相当に重体であることがわかり、小田は友人たちと相談
して入院させたが、療養費が続かなかった。都新聞(現東京新聞)にいた中村の奔走
で施療患者としてようやく経堂病院に入院できた。昭和11年夏頃のことのようだ。

緒方の「虹と鎖」が小田の「城外」などとともに芥川賞候補になったことで
翌12年には<文芸春秋>や<新潮>から創作の依頼があり、収入の道が開けた。
それを機に小田は疎遠になったが、緒方はそれが寂しかったようだ。

翌13年4月27日、緒方からの電報で小田は病院へ駆けつけた。医師によれば
今明日ということはないが1週間か10日ぐらいとのことで帰宅した。小田からの
連絡を受けた中谷が夕方着いたが、激しい雨で帰れなくなり、病院に泊まった
ところ、翌28日未明、緒方の容態が急変し中谷に看取られて息を引き取った。

      友人葬

4月29日の朝、中谷・小田・中村は霊柩車に同乗して病院から火葬場へ向かった。
火葬場には、田畑、青柳、亀井、外村も顔を揃え、葬儀のことなどを相談した。
葬儀費用は7人らの同人で分担し、お骨は小田が朝鮮のお姉さんに送ることにした。

木山の日記(S13.4.29)には「富山君と一緒に芝の法音寺に行く。焼香。」とある。 
文学仲間など何人かの見送りは受けたようだが、緒方の淋しい無念の旅立だった。

<日本浪曼派>8月号は、外村が編集人で緒方の追悼号としたが、同誌はその号で終刊となった。
”作家精神”のことを書いた太宰治の追悼文は当時の文学青年の心に響くものがあったようだ。
中村は「葬儀の朝」を書き、田畑は後に書いた「木椅子の上で」(S15)を緒方(作品では三崎)との
友情と葛藤で締めくくり、小田は「文学青春群像」(S39)で「辻野と緒方の死」と題して偲んでいる。

(緒方の項は主にこれらの著書を参考にした。 なお、緒方の生年月日は「日本近代文学大事典」
には「明治38年・月日?」とある。死亡時満年齢は32歳かもしれない。)


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昭和12年7月7日、北京郊外で突発した盧溝橋事件は日中全面戦争へと発展し、
10月には、将棋会の青柳、中村にも召集令状が来た。小田も青柳宅での親しい
友人たちとの”別離の宴”に招かれたが、38歳にもなる青柳が召集されることに
驚き、自分は丙種合格だが「国家がこんな状態になると、個人であるこちらの
生活もいきおいあくまでも個人であるわけにいかなくなる。」と振り返っている。

将棋会は第3期(盛会期)に入るが、小田は中国関連の仕事に追われることになる。
そして昭和16年11月、井伏ら多くの文士と共に徴用を受け、戦場に送られるのである。
 

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「将棋会 盛会期 (S13〜S18)」 の頃   (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 中国関連で活躍・・・徴用! =

小田嶽夫(明33(1900).7.5 〜 昭54(1979).6.2 :享年78歳)

昭和13年(1938)、小田 38歳。 ”将棋会 第3盛会期” は小田の40歳前後にあたる。
中国の抗州領事館に勤務した時の体験を素材にした小説「城外」で芥川賞を受賞した
(S11)ことで、折からの日中関係悪化、戦争を背景に、特に中国関連の執筆が相次いだ。
文学仲間との交遊も活発に続くが、昭和16年には多くの文人が対象となった徴用を受け、
井伏、中村ら身近な作家とともに南方へ向かった。 小田はビルマ戦線に1年間従軍し、
帰国後は文筆活動に戻るが、戦局悪化と家庭の事情とで早い時期の疎開になる。

なお、小田の著作は、長男の小田三月編「小田嶽夫著作目録 七周忌にあたり」(S60)と
「小田嶽夫著作目録・補遺」(H3)に詳記されているので、年譜と合せて参考にした。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *多忙な文学活動!!

     ・「中国関連」

勉誠出版(株)の「勉誠通信 第23号(2010.7.15)」に、「問題領域としての小田嶽夫
― 「中国」という視座から」 (信州大学准教授 松本和也)という小論が掲載された。
小田の中国関連の文学活動を重視して、さらなる研究の進展が望まれるとしている。

     −翻 訳−

外務省の退職金が底をつき、生活費を得るために始めた中国文学の翻訳だったが、
小田は真剣に取り組み、内容的に充実した結果を出したことが認められたのだろう、
激しく動く中国情勢に国民の関心が高まった背景もあって翻訳依頼が相次いだ。

翻訳物の最初の刊行は、春陽堂の世界名作文庫の1冊(S7:郁達夫の小説「過去」
のほか6篇)で、続いて、郁達夫が多いが、茅盾、魯迅の作品も翻訳、魯迅の死去
(S11.10.19:55歳)に際しては複数の誌紙に追悼文を発表するところとなった。
さらに、改造社の「大魯迅全集」刊行(S12)に参画し、「魯迅伝」執筆に繋がっていく。

昭和13年以降の翻訳の刊行は、蕭軍(しょう ぐん)の小説「第三代」(S13:改造社)、
蕭軍、郁達夫、茅盾の小説集「同行者−支那現代小説三人傑作集」(S13:竹村書房)、
林語堂の「北京好日」(S15:四季書房:庄野満雄らと共訳)、「現代支那文学傑作集」
(S16:春陽堂:小田嶽夫編、佐藤春夫ほかと共訳)と続いた。

     −随筆、小説−

翻訳だけでなく、中国関連の随筆風著書(単行本)として「支那人・文化・風景」(S12:
竹村書房)、「北京飄々」(S15:竹村書房)、「揚子江文学風土記」(S16:龍吟社:武田
泰淳との共著)、「大陸手帖」(S17:竹村書店)があるが、ほかに中国や中国人作家
関連の数多くの随筆、随想、その他を諸誌紙に発表している。

中国(人)がモチーフの小説は多々あり、その代表は言うまでもなく芥川賞作品の
「城外」(S11/6)だが、ほかに注目すべき作品名を挙げると、「日本学士蔡萬秋」(S9)、
「泥河」(S12)、「ぱのらまH城市」(S12:後に改題「杭州城図会」)、「紫禁城の人」(S16)
などがある。魯迅の伝記「魯迅伝」(S16)もあるが、これは以下の項に詳記する。

     −郭沫若と郁達夫−

参考サイト  王玉珊著 「中国人日本留学の歴史問題について

中国青年の日本留学は、日清戦争直後の1896年(M29) 清朝政府が派遣した13人の
公的留学生に始まる。以降、両国政府の思惑が反映して、いわば留学ブームとなり、
自費留学生も含め、1906年頃には7〜8000人に達した。辛亥革命(1911(M44)年)で多く
の留学生が帰国(革命参加)して一時激減したが、1914(T3)頃には4〜5000名になった
(上のリンク情報による)。 これらの留学生の多くは、その後の中国近代化運動が
混沌とした複雑な動きを呈する中でそれぞれの考え方、方法、立場において活躍した。

魯迅、郭沫若、郁達夫もそうした留学生の一人だった。小田は魯迅とは会ったことが
ないが、郭沫若と郁達夫とは再来日した時に会っており、交歓の様子などを
「文学青春群像」(S39)に記している。小田が最初に郁達夫の作品を翻訳したのは、
それが好きだったからであり、特に郁達夫との交歓は嬉しく、楽しかっただろう。

小田の記述は、日本へ亡命中(S3〜)の郭沫若との初対面(S8)の様子、郁達夫とは、
それまでは手紙のやり取りだけだった小田の許へ本人から電報があり、東京駅に小田が
一人で出迎えて初めて顔を合わせた(S11/11)こと、改造社の山本実彦社長の計らいで
郁達夫来日歓迎の宴席が設けられ、郭沫若も招き、小田や佐藤春夫が同席したこと、
その席の様子を顧みると、両者はすでに日中戦争不可避を予測し、共に母国のために
身を呈する決意でいることを言外に表明していたと思われること、等々で、
郭沫若が盧溝橋事件の直後(S12/7)に秘かに日本を離れたところで終わっている。

小田三月編「小田嶽夫著作目録」によれば、昭和12〜13年頃の作品に「郭沫若と郁達夫−
「創造社」の二詩人−」(発表誌不詳)がある。「文学青春群像」では、「暴風雨前夜」の項の
「郭沫若と郁達夫」であるが、内容的には前作の再掲ないし改稿ではないだろうか。
結びで、郭沫若の戦後の文章に触れているが、この部分だけを改稿したように思える。

帰国した二人は抗日運動で活躍し、郭沫若は、戦後、中華人民共和国の政治家、文化人
として重きをなしたが、郁達夫は終戦直後にスマトラで日本の憲兵に殺害(S20/9)された
とする説が有力である。 往時の交歓と時の流れ、二人の人生、運命を思う時、
小田の胸中は複雑に疼き、郁達夫の最期にはどんなにか心が痛んだことだろう。
「文学青春群像」発表の10年後に「郁達夫伝」(S49/9-10<海>)を発表した。

     −「魯迅伝」刊行−

小田は昭和16年に「魯迅伝」(S16/3:筑摩書房)を上梓した。その「あとがき」によれば、
小田はかねがね魯迅の詳しい伝記が読みたくて、その出版を心待ちしたが、
なかなか実現しないうち、自分自身で書いてみたくなったとある。そして、この当時は、
魯迅の名前はかなり知られるようになってはいたが、伝記に関する研究資料はまだ
乏しく、小田は、結局魯迅の全著作を主な頼りにする他なかったので、それを訳し、
魯迅の歩いた道を辿って編術し、魯迅を取り巻く環境を書き添えて仕上げたのである。

現在では、魯迅研究は格段に進み、魯迅の伝記に関しては、日本における魯迅研究の
第一人者とされる竹内好(M43〜S52)が著した「魯迅」(S19)が高い評価を得ているが、
小田はそれに先立って日本における最初の本格的な魯迅伝記を書いたのである。

「小田嶽夫著作目録」には、魯迅、郁達夫研究者として知られる伊藤虎丸(S2生)の
「小田嶽夫氏と中国文学」という小論が収められており、小田の執筆当時の状況や
竹内好の「魯迅」との関係など詳述している。伊藤は、小田の「魯迅伝」はそれまでの
魯迅紹介、研究の歴史を受けて成された、おそらく世界で最初の本格的な伝記で、
竹内好の「魯迅」を呼び起こした位置にあるとし、次のように評している。

「竹内「魯迅」は小田「魯迅伝」への批判をモチーフしているとばかり思っていたが、
実は、それ以上に、むしろ、小田さんの「魯迅伝」の土台の上に(小田さんの示した
魯迅像を大筋において肯定したうえで)、はじめて竹内さんの「魯迅」があったという
面が強いと言うべきだろう・・(中略)・・むろん確かに「竹内魯迅」が、
文学研究の方法において、また魯迅理解をふかめた点において、
ほとんど決定的なまでの位置を持つことは否定できない。」


ところで、太宰治著「惜別−医学徒の頃の魯迅」(S20/9:朝日新聞社)は、
戦争末期に書いた(S19/12頃〜S20/2)が、出版は終戦の翌月になった。

太宰自身が「あとがき」に書いているが、この執筆には小田が大いに協力し、
竹内好の「魯迅」など当時の著作を参考にした。
内閣情報局と文学報国会の委嘱なので、戦争協力作品と見られがちだが、
それは読み方如何だろう。「仙台時代までの魯迅」として素直に読んで面白い。

魯迅など人物の性格には太宰流の解釈が施され、太宰の分身的言動をする場面も
多いので、正しい魯迅像なのか、歴史・時代認識は的確なのかといった強い批判が
あるが、戦時統制下における太宰の非凡、多才を認めていいのではないだろうか。

     −北京の旅−

前述のように、小田は「大魯迅全集」刊行にあたり、上海に魯迅未亡人を訪ねたが、
その後、小田の文学における中国との結びつきはますます強くなった。
一方、盧溝橋事件(S12/7)は戦争へと発展し、中国、満洲の現状に対する小田の
心痛、関心は一入で、上海訪問から2年を経た昭和14年5月に北京への旅に出た。

北京では、東亜文化協議会に勤めていた秋沢の世話になった。満洲旅行の帰途の
伊藤整、福田清人らと張家口や大同旅行に同行し、また、坪田譲治、小山東一、
秋沢との4人で魯迅の実弟周作人を訪問したりして、北京滞在は約50日に及んだ。

この時の心境を小田は次のように記している。(<新潟日報(夕刊:S51.7.19)>)

「北京の町は聞きしにまさる美しい町で、だれかが町そのものが美術品のようだと言った
ようだったが、私は北京滞在約50日の間、ずっと陶酔にも似た気持ちでこの町の美を
楽しんだ。しかし日本の占領地であって見れば、日本軍隊もいるし、日本人居留民も
殖える一方で、彼等の闖入(ちんにゅう)が北京の伝統美を徐々に破壊していることは
否定出来ず、原住中国人にはそれがどんなに辛いことであっただろう。私は北京の美、
北京の情緒をこよなく愛しながらも、この中国人の心情を思うとつらい思いであった。」 

     ・著作発表、単行本(創作集・随筆・その他)刊行

この時期の小田の文学活動は中国関連が主体といえるが、中国とは関係のない
小説、随筆などの発表も続けており、特に創作集など単行本の刊行が目立つ。
「小田嶽夫著作目録」および「同 補遺」に作品名が詳記されているが、戦後、小田
には「個人全集」の刊行がないので、手軽に読める作品が少ないのは残念である。

小田の1周忌を期に、創作集「城外 夜ざくらと雪」(S55.6.2:青英舎)が刊行された。
その「あとがき」(長男の小田三月)によれば、小田があらかじめ作品集のために
選択をしていたとのことで、ここには昭和6年から同16年までの代表作として、
次の10篇が収められている。当時の創作集にも収録があり、小田の自信作といえる。

創作集「城外 夜ざくらと雪」(S55/6) 収録作品一覧

 作品名  初出年月  初出誌  備考 (本HP作者の覚え)
 城外  S11/6  文学生活  第3回芥川賞受賞:中国関連
 黒い服  S6/11  今日の詩  「文学青春群像」にモデル女性の記述
 写真  S7/9  ヌーベル  副題「又は根室の印象」
 井上女塾  S8/2  麒麟  変った作風(ユーモア要素)
 あたたかい夜  S10/秋  帝国大学新聞  掌編:初出年月は推定
 山暮るる  S11/7  文藝首都  「文学青春群像」の”原了”を想起させる
 杭州城図会  S12/1  文藝  初出題名「ぱのらまH城市」:中国関連
 道化踊り  S14/11  文藝  “創作性”が強く感じられる作品
 曠野   S16  不詳  副題「又は飲酒の害について」
 夜ざくらと雪  S16/7  知性  S16/4の帰郷が題材
 解説  −  −  筆者は紅野敏郎
 年譜  −  −  筆者は小田三月(小田の長男)
 あとがき  −  −

この10篇以外にも、例えば「紫禁城の人」、「泥河」、「落日」、「道」、等々、
気になる作品が多々あり、これらは当時刊行の創作集に収録されている。
小田の主要作品として、戦前に刊行された創作集などの単行本を後記する。

 小田嶽夫 主要作品一覧 (昭和20年まで)

また、戦中、戦後刊行の次の3冊は、小田の作家としての姿勢、人間性を知る
うえで、特に興味深い絶好の書と考えるので各冊の目次を併せて後記する。

  「ビルマ戦陣賦」(S18/12:注)  「文学青春群像」(S39)  「回想の文士たち」(S53)

(注:「ビルマ戦陣賦」は、「南方徴用作家叢書 Cビルマ篇」(H22刊)所収。他に小田の13作品が収録されている。)

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

     ・会には ほぼ皆勤!

将棋会出席は、木山、上林とともにほぼ皆勤、トップクラスである。(「開催一覧」参照)
この将棋会盛会期は小田の最も多忙な時期に重なるので、出席するには相当の努力
が必要だっただろうが、幹事役は多いし、中国語講習会の講師もしている。
将棋会メンバーとの交遊を殊のほか大事にしていたことが分かる。

     −小田の将棋−

中村の「将棋随筆」(S13/12)には、メンバーのことがユーモラスに語られている。

・中村が小田と会った時のこと、「いったい僕たちは何を楽しみに生きているので
あろう」 という言葉に、二人が同時に叫んだのは「そりゃ将棋があるからさ」
だったという。 昭和13年頃のことで、猛烈な将棋熱の高まりがあり、小田と
外村が幹事役で阿佐ヶ谷将棋会が開かれていたと書いている。

・将棋は女性文士にも流行しており、宇野千代が特に熱中していたが、その責任の
一半は小田にあるという。宇野が未熟だった頃の将棋会で、男性で宇野に負けた
のは小田だけだった・・。以来、宇野の将棋熱に拍車がかかったのは確かで、
この話を小田にすると小田はどういうわけか顔を真っ赤にするというのである。

・中村が言うに、自分の棋力は当初は小田が好敵手だったが、芥川賞受賞の翌日
から小田は急に颯爽として、以来、自分だけが最下位を甘受するようになった。
中村に召集令状が来た時、小田は、中村が出征すると自分がその地位に転落
するというので非常な精神的打撃を受けたと、後に中村に告白したというが・・。

小田の棋力の上達過程は不詳だが、既述のように木山と並び、安成、井伏、上林に
次ぎ、中の上位というところだろう。幹事役を多く引き受けたり、宇野に負けたり・・、
中村との最下位エピソードなどは、小田の人柄をよく表しているように思う。

     −文藝懇話会−

日中戦争と国際関係の緊迫化で軍部主導の動きが加速しており、「阿佐ヶ谷将棋会」
のような名称では集りにくい時勢となっていた。昭和15年12月2日付の開催案内状は
「第1回文藝懇話会を催す」という内容になっており、幹事は、田畑、中村、小田の三名
連記だった。井伏の「荻窪風土記」によれば、この案内状は小田の筆跡という。
誰の発案か不明だが、集まりたい一心が生んだ苦肉の策だったようで、
この名称は1回だけで終わり、翌年には元に戻っている。(「開催一覧」参照)

     −中国語講師−

浅見淵の「昭和文壇側面史」(S43)に「中国語講習会」の項がある。

昭和14年2月に、発起人一同として「小田嶽夫氏を講師に、支那語の講習会を開く」
という出席勧誘の葉書が郵送された。結局、文壇人ばかり20名近くが集まり、4回位
実施したところで人が集まらなくなった。浅見は出席者として瀧井孝作、伊藤整、
荒木嶷、田辺茂一を挙げているが、浅見以外の将棋会のメンバーの名前はない。
小田がテキストを用意し、自分が読み、皆で斉唱し、個人を指名する方式だった。
会の終了後は、小田と出席者は一杯飲みながら話に花を咲かせたというが、他の
将棋会メンバーにはこれに関する記述が見当たらない。不参加のはずがないが・・。

     ・木山捷平との百番勝負

小田と木山の交友は、既述のように、木山が昭和7年に小田宅を訪問したことに始まる。
貧窮に苦しむ者同士、気が合ったのだろう、将棋、酒を介して交友が深まり、往来が増えた。
小田は、芥川賞受賞(S11)で仲間内では一歩早く貧窮を脱するが、将棋会のメンバーとの
交遊は変わらず続いた。特に木山とは、木山の絶不調時(S11〜S12)の日記に小田の名前
が最も多く現れるほど行き来し、昭和16年9月13日からは二人の将棋百番勝負が始まった。

この勝負について、木山は「文壇交友抄−阿佐ヶ谷将棋会」(S40/12<別冊文藝春秋>)で、
小田は「逃亡の季節」(S40/8<文芸>)で、それぞれ触れている。(以下、木山の項と重複)


当日の木山の日記には、小田が来訪、将棋は2戦して1勝という程度しか書いてないが、
この両書によれば、この日から星取表を作って白星黒星を記録したようだ。

しかし、その年(S16)11月には、小田が井伏などとともに徴用されたので出来なくなり、
木山によれば19戦で、小田によれば自分の12勝6敗で中断したという。
小田が帰国して昭和18年から再開したが、翌年には小田の疎開(S19/9:郷里・新潟県)
で再び中断した。最終対局は、疎開前の昭和19年6月15日で、木山によれば計78戦、
小田によれば、計74戦で紙が千切れて不明の分(14戦)を除くと、木山36勝、小田24勝
だったという。小田は、木山は自分の徴用中に腕を上げたことになると書いている。

この時(S16)、小田41歳、木山37歳。以降も親交は続いた。戦後は、二人とも将棋から
囲碁愛好者に変わり、よき碁敵として行き来するなど生涯の友としての交遊となった。

     ・田畑修一郎の死

同人誌<雄鶏>(S6創刊)以来、文学的に特に親密だった田畑が、新民話叢書執筆の
ため取材中の仙台で急死(S18/7:39歳)した。小田の衝撃は大きかっただろう。
没直後の刊行となった田畑の「文学手帖」(S18/8:随筆、文学論など所収)の「序」には
小田が追悼文を書いた。<早稲田文学>(S18/9)には「田畑君逝く」を書いた。
(小田の追悼文、新民話叢書(小田は「雪女」を執筆)のことなどは「田畑の項」に詳記)

   *徴 用!!

     ・「徴用令書」来る

昭和16年11月15日の夜、小田は井伏とともに甲府の旅館に投宿中で、二人の共通の
知人、山形のSさんと夜半まで飲んでいるところへ井伏夫人から「キウヨウアリ」の電報
が来た。翌朝、井伏が隣家の上泉(都新聞文化部長)宅に電話して夫人を呼んで貰って
聞いたところ、「キウヨウ」は「コウヨウ」の誤りで、実は徴用令書が来たとのことだった。
しかも・・、小田宅にも届いており、小田夫人から井伏夫人に甲府へ知らせて欲しいと
依頼があったとのことで、自分にも来ていることを知ったのである。(「井伏の項」関連)

その日(16日)の午後帰途につき、夕方阿佐ヶ谷駅近くで3人で軽く一杯やって別れた。
令書の指示に従い、翌17日は本郷区役所に出頭して身体検査を受けた。
この後、具体的な場所は不明だが、南方へ行くことは確かだと想像できた。
文士のほか、画家、新聞記者、映画撮影家、写真家、放送関係者、等々がいた。

この時の様子は井伏の項にも記したが、井伏と小田の記述には多少の
違いがある。本稿は小田の記述(新潟日報:S51.7.19)に従った。

     ・大阪へ集結

小田は、11月21日、阿佐ヶ谷将棋会の井伏、中村のほか、作家の高見順、寺崎浩、
豊田三郎らと共に東京駅から列車で集結地と指定された大阪へ向かった。

井伏は軍刀のことを書いているが、小田には記述がなく、問題がなかったのだろう。
後に、「ビルマ戦陣賦」などに小田の持参した軍刀(銘入り)のことがでてくる。

翌11月22日、大阪城天守閣前の広場に集結して入隊し、「班」編成が行われた。
小田は乙班(約100名:ビルマ方面)、井伏、中村は丁班(約120名:マレー方面)だった。
作家は、乙班には、高見順、豊田三郎、山本和夫、倉島竹二郎、等がいた。
丁班には、海音寺潮五郎、小栗虫太郎、寺崎浩、堺誠一郎、等がいた。

(注) この時集結したメンバーが南方派遣の第一次陸軍徴用員宣伝班員だった。
総数は約460名(内作家は30余名)で、作家の班分けは「文士徴用」の項に詳記した。
班毎の任地(行き先)は、”南方”と知らされたが、マレー、ビルマといった
具体的な地名は日本を離れるまでは知らされなかった。
また、これとは別に、職業・前歴による班が編成され、井伏ら作家は3班だった。
任地別の班をさらに少人数に分けて命令、情報の円滑な伝達を図ったのだろう。

     ・天保山港(大阪)を出航

小田が属する乙班と井伏・中村が属する丁班は、12月2日に天保山港(大阪)で輸送船
アフリカ丸に乗船し出航した。 行き先は、まだ”南方”とだけしか知らされなかった。
(出航後の船内の模様については、井伏の項に詳記した。)

小田著「ビルマ戦陣賦」(S18/12)は、この出帆の12月2日(S16)から書き始まる。
戦争真只中の厳しい制約のもとで書いた”戦記もの”で、戦意高揚に資する
体験記だが、内容には、小田なりに節度を保つべく苦慮した様子が窺える。
(「南方徴用作家叢書 Cビルマ篇 (小田嶽夫著)」 (2010/2:龍溪書舎)所収

以下、本稿は、主に本書の記述を参考にしている。

小田は、出航の翌日、多忙のため書けなかった遺書「妻に与える書」を書いた。
「二頁余り。書いてしまうとふと何かほっとして気持落ちつく。」とある。

小田の船中生活で最も目立つのは、ほとんど毎日、将棋をしていることである。
サイゴンで下船するまでの17日間で、将棋の記述のないのは3日間だけ。相手は
ほとんど井伏で、しかも負けばかりで20敗以上。勝ちは下船日の1勝だけだった。
ただし、小田が4戦4敗という12月3日の勝敗は、井伏によれば2対2だが・・。

12月8日については、朝8時の朝食時に、ラジオニュースで日米交戦を知り、全員
異常なショックを受けたと書いているが、各人の感慨については触れていない。

井伏の項に記した船内のトラブルについては、丁班発行の南航ニュースがある事情
から廃刊になり、乙班で引き継ごうとしたが実現しなかったと書いている程度である。

12月17日に俳句の運座があり、中村、寺崎、北林透馬が高點を得た。中村の句は、
「南風や星屑の下に一人在り」で、小田が不寝番で経験した感じを上手く捉えていた。
小田は、「宣戦とラジオひびいて巨船しづまる」で、3點入った。

12月18日 午後3時半 サイゴン着。夕食後上陸準備をしたが、この時初めて
上陸は乙班だけと知った。7時、丁班の井伏、中村、寺崎、などと握手をして別れた。
「再びこれらの友の顔を見る日があるかどうかと思うと涙が出そうな気持であった。」

     ・ビルマ戦線で

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

     −軍宣傳班文藝家−

小田は、ビルマ戦陣での自分を「「軍宣傳班文藝家」の七字の墨書された黄色い腕章を
腕に巻いている身であった。」と書いている。身分は奏任官待遇で、軍の階級では
佐官、尉官に相当する高官である。その任務について、小田は次のように書いている。

「私たちは単なる従軍報道家ではなく、軍宣伝班員として作戦に協力していたので
あった。 (中略) 一言でいえば私たちの主要任務は対敵宣伝(その資料の蒐集
をも含めて)及び占領地民衆の宣撫、ということにあり、国内報道ということは
第二義、第三義に属するものであった。(「ビルマ戦陣賦 跋」より)

小田が、サイゴン下船後にビルマのラングーンまで進んだ日程は次の通り。

12月18日、サイゴン(現 ベトナムのホーチミン)で下船 

12月21日、トラックで出発、プノンペン(カンボジア)到着ー約200q
       数日滞在後バンコクへ向け出発

12月29日、バンコク(タイ)到着ー約500q
       昭和17年を迎え、約2ヵ月間滞在

2月27日、ビルマのラングーンへ汽車で出発
      3月1日からは自動車(小田は軽四輪)になる
      (小田のいる宣伝班本部の本隊は戦闘司令所を追った)

3月11日、ラングーン(現 ミャンマーのヤンゴン)到着ー約700q
   
   (距離は地図上の直線距離。実際は大幅に上回る距離である。)

3月20日、マンダレー攻略作戦部隊を追って、ラングーンを出発
      翌日から行動を共にした。

ここまでの移動は、すでに、日本軍の支配下になった地域なので、橋や道路状態が
悪いために難儀はしたものの、戦闘に巻き込まれることはなかった。

日本軍のビルマ(英領)侵攻の直接的な目的は、ビルマルート(=援蒋ルート:ラングーン
−マンダレー−ラシオ−昆明:英米等が蒋介石軍に軍需物資等を運搬するルート)の
制圧だった。開戦時から作戦に着手し、まずビルマ南部を攻略、3月8日にはラングーンを
占領した。引き続きビルマ全域の攻略に移り、各所で英国軍、中国軍(当時は支那兵とか
重慶兵と呼んだ)と激戦になったが、5月中旬過ぎにはビルマ全域を支配するにいたった。


--------------------------------------------

ところで、小田がバンコクに滞在中の2月5日(S17)、東京では阿佐ヶ谷将棋会の
御嶽遠足が行われ、徴用中の井伏、小田あてに寄せ書きをした。シンガポールで
井伏はこれを受け取ったが、小田についてはこれに関する記述が見当たらない。
おそらく届かなかったのだろう。小田は戦地を移動中で、個人あての荷物が
届くほど落ち着いた状況にはなかったと考える。

東京とシンガポールとビルマ、その状態の違いに戦争の一面が表れている。
小田は、兵士の言葉として「軍隊ほど、非常に楽をしている部処と辛い目にあって
いる部処との隔たりが大きいところはない。」と「ビルマ戦陣賦」に書いているが、
後に振り返ってみると、この時の小田は後者に属していたのである。

     −敵の弾丸雨霰 ”ビルマの草”−

小田の班は、陥落(3月8日)直後の3月11日にラングーンに入り、3月20日にマンダレー
(ラングーンの北方約600q)攻略のため前進中の前線部隊を追って出発した。一行は、
将校1、下士官1、兵3、運転手2、嘱託4(小田、新聞記者、映画撮影家、写真家)の11名で
2台のトラックに分乗した。小田だけが初めての前線行で初陣ということになった。

翌日には前線司令部に追いついた。最前線は目前で、戦闘部隊は特に重慶兵の激しい
抵抗に多くの犠牲者を出しており、戦場の厳しさに小田は身の引き締まる思いがした。

4月(S17)上旬、小田は命令により最前線部隊の本部と数日間行動を共にしたが、
ある日、敵はいないはずの森に向かって進んでいる時、森の手前120m位のところで、
森の中から一斉射撃を受けた。弾丸が頭の上を雨霰のように飛び、迫撃砲弾も飛んで
きた。地面に伏して息をひそめている外なかったが、やがて後方の味方による重砲の
援護や友軍機の飛来で危機を脱した。この間小一時間か・・、生きた心地がしなかった。
この戦闘で、4名の負傷兵が後方へ運ばれたがそのうち1名はもうこと切れていた。

小田は、マンダレー攻略作戦従軍の様子を、
「ビルマの草」と題して「ビルマ戦陣賦」では第2章に書いている。

激戦の末、マンダレーは5月1日に陥落した。小田も5月5日にマンダレーに入ったが、
重慶兵の焦土戦術に町は廃墟と化しており、これを共に目にした下士官、兵士、小田ら
はあまりに荒涼とした姿に茫然とし、敵に対する新たな激しい憎しみを禁じ得なかった。
マンダレー作戦の成功によって、5月中旬過ぎにはビルマ全土を日本軍が支配するに
いたり、小田ら各部隊配属の宣伝班員は6月中旬頃に全部がラングーンへ引き揚げた。

     ・無事帰国

小田は、小田以外のビルマ班の作家がラングーンへ引き揚げるまでの消息については
触れていない。配属部隊が異なり、別行動になって直接には知り得なかったからだろう。

小田は11月9日に帰国(徴用解除)のためラングーンを発ったが、それまでの約4ヶ月半
は特別の任務はなく、”侘しい日の単調な連続”だった。読書やトランプ、将棋に加え、
9月からは、無事再会した作家仲間の高見順、豊田三郎らと「蘭群俳句会」を週1回
催すなどして過ごしていた。宣伝班の徴用員には戦場の緊迫感はなくなっていたようだ。

小田は、マンダレーで軽いデング熱に罹り、ラングーンで再び発症して今度は1か月ほど
寝込むという苦しみを味わったが、回復して予定通り帰国の途に就くことができた。

小田の記述ではどのような日程、ルートだったか判然としないが、11月末に大体期限通り
帰れることになって出発し、ラングーン川で汽船に乗る時、英軍機6機の爆撃を受けた。
岸辺では火災が起こり、川は水柱がいっぱいで、この時こそもうダメかと思ったが
不思議に汽船とその周辺には爆弾は落ちず無事だった。2回目の命拾いだった。

シンガポールでマレー班の井伏、中村に再会したが、徴用期間が終わったマレー班、
ジャワ班、ビルマ班は同じ船で帰国するため各班がシンガポールへ集まったのだった。
この時のことを、井伏は、「小田君についての点描」に次のように書いている。

「11月20日頃、ビルマに徴用されていた小田君たちがマレー半島に撤退して、
シンガポールの私たちの宿舎にやって来た。見るからに小田君たちは疲れていた。
そのとき小田君が、私を見て最初に云ったのは
「ここはビルマに較べると、竜宮のようですね」と云う言葉であった。」

船で日本に向かい、敵潜水艦の攻撃という不気味な恐怖が続いたが、小田は、
高見から借りたトルストイの「戦争と平和」を読みふけることで幾分かは救われた。

船は無事に日本に着き、12月9日(S17)、宇品(広島)に上陸した。広島で2晩、大阪で
4晩泊った。その大阪で自由帰郷の身となり、宣伝班員たちは1年間にわたる徴用から
完全に解放されたのである。(井伏は11月下旬に飛行機で帰国した。(「井伏の項」

     ・小田の昭和18年

小田は、大阪から一人で京都、奈良を巡って帰京した。昭和17年の年の瀬だった。
家族で無事の帰還を喜びあい、幸せ一杯な気持ちで新年を迎えたであろう。

そしてすぐに元の生活に戻ったが、小田は徴用体験をどのように作品化するかという
作家としての新しい課題に直面した。新年早々に<文学界>(S18/3)に
「鞭−ある帰還作家のノート」と題して、その難しさと期するところを書いている。
作品としては「ビルマ戦陣賦」がその代表例だが、そこにその苦悩の一端が窺える。

家庭では、徴用中の頃から妻にパーキンソン病の症状が顕れ、進行がみられた。
戦況は日を追って悪化し、国民生活は食糧など生活必需品の欠乏が生じており、二人
の子供(長男12歳、長女7歳)のことも考えて、小田は比較的早い時期から故郷の新潟
への疎開が必要と感じていた。そして、家族だけを昭和19年5月に疎開させた。

阿佐ヶ谷将棋会に関しては、小田の帰国後の開催は2回ある。坪田譲治の壮行会
(ピノチオ:S18.5.20)と高麗神社遠足( 別記:S18.12.23)で、小田はこの両方の会に
出席している。坪田の壮行会は田畑が呼びかけて開催したが、2ヶ月後、小田らは
その田畑の死を悼むことになろうとは思いもよらなかった。

木山との百番勝負のように個人的な往来、交遊は続いたが、翌年(S19)になると
空襲や疎開など世情騒然で組織的な開催は無理になり、会は休眠期に入った。

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小田にとって、将棋会 ”第3盛会期”は人生の中で最も印象に残る時期だったのでは
ないだろうか。その前半は芥川賞の効用で一躍世間の脚光を浴び、仕事が認められ、
超多忙の身になった。順風満帆と言っても過言ではないだろう。そして後半は一転して
徴用である。徴用員には過酷な任務だったといわれるビルマ戦線配属で従軍し、
生命の危険にさらされたのは一度だけではない。心身ともに疲弊の極の時を過ごした。

この徴用体験が、その後の小田の文学にどのように影響したのか、しなかったのか・・。
戦後の作品をみると、主題や作風に大きな変化があるように思えるが如何だろう。

将棋会は”第4休眠期”に入る。家族に続いて小田自身も9月(S19)には郷里の
高田へ疎開し、地元の仲間たちと「上越文化懇話会」を作り、「文藝冊子」を発刊、
地方文化振興の活動を行うことになる。


小田嶽夫」 の項    主な参考図書

『文学青春群像』 (小田嶽夫著 1964 南北社)
『回想の文士たち』 (小田嶽夫著 1978 冬樹社)

『新潟日報(夕刊) -人生を作る-』 (S51/6〜7:小田嶽夫記)
『城外 夜ざくらと雪 (年譜:小田三月編)』 (小田嶽夫著 1980 青英舎)

『小田嶽夫著作目録 七周忌にあたり』 (小田三月編 S60 青英舎)
『小田嶽夫著作目録 七周忌にあたり』所収の
       『小田嶽夫氏と中国文学』 (伊藤虎丸)
      『小田君についての点描』 (井伏鱒二)
     『小田嶽夫の本』 (紅野敏郎)
      『「文藝冊子」発刊の頃』 (濱谷浩)
『小田嶽夫著作目録・補遺』 (小田三月編 H3 青英舎)

『魯迅伝』 (小田嶽夫著 1966 大和書房 (1941:筑摩書房版の復刊))
『南方徴用作家叢書 Cビルマ篇』 (小田嶽夫著 2010/2 龍溪書舎)

『阿佐ヶ谷あたりで大酒飲んだ - 中央沿線文壇地図』 (小田嶽夫著 S29/1)
(『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』 (青柳いずみこ他監修 H19/8 幻戯書房)所収)

『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50 講談社)
『中村地平全集 第3巻』 (中村地平著 S46/7 皆美社)より
「葬儀の朝」(S13/8)・「将棋随筆」(S13/12) 

『日本近代文学大事典』    (S53  講談社)
『杉並文学館 -井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士-』 (杉並区立郷土博物館(平成12年))



(将棋会 第4 休眠期 (S19頃〜S23頃)  準備中)

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小田嶽夫 主要作品一覧 (昭和20年まで)

小田三月編「小田嶽夫著作目録 七周忌にあたり」(S60)から抽出した。

(備考欄の印は、創作集「城外 夜ざくらと雪」(S55/6) 収録作品)
単行本表題:発行年月(所)  収録作品  初出年月  初出誌  備考(本HP作者の覚え)
城外



S11/11

(竹村書房)
 序文(著者)   .  .  .
 城外 S11/6 文学生活  第3回芥川賞受賞作
 落日 S11/10 文学生活 .
 あたたかい夜 S10/秋 帝国大学新聞  初出年月は推定
 一茎の花 S10/10 木靴   ”原了の死”が関連
 道 S11/5 藝術科 .
 山暮るる S11/7 文藝首都   ”原了”を想起させる
 井上女塾 S8/2 麒麟  
 居留地の話 S8/5 麒麟 .
 写真 S7/9 ヌーベル   副題「又は根室の印象」
 黒い服 S6/11 今日の詩  
 塵埃 S8/10 作家 .
 日本学士蔡萬秋 S9/9 新潮 .
 跋(田畑修一郎) .

 支那人・文化・風景

S12/11 (竹村書房) 
  序    新文化の流れ    上海界隈 
   文藝・作家     付録:小説「泥河」 

  (注:小項目名は省略)
小田の目で見た

 中国の現況紹介
 杭州城図会

S13/1 (版画荘)  
 杭州城図会 S12/1 文藝  初出題名「ぱのらまH城市」
 老鸚鵡 S12/3 週刊朝日
 氷海 S6/6 雄鶏 .
城外

S13/5 (書物展望社)  
 城外 S11/6 文学生活   再録
 泥河  S12/11  支那人・文化・風景  再録
 さすらひ  S12/11 新潮 .
 夕景色  S13/1 文藝 .
 嵐山附近



S14/5

      (赤塚書店)  
       
 嵐山附近  S13 未確認  初出年は推定 
 子守  S7/9 蝋人形 .
 秋の男  本書以前には、
「著作目録」に題名なし
 
.
 渚 
 二人 
 婢女  S12/3  月刊文章 .
 Y君  本書以前には、
「著作目録」に題名なし
  
「虹」は、「短編40人集」(S15)
に収録あり
  
 巷 
 虹 
 月に陰あり  S12/1  新潮   副題「ある女の手記」
 白っぽい瞳  本書以前には、
「著作目録」に題名なし
 
.
 今日を限りの 
 あとがき  . .
 北京飄々
S15/8 (竹村書房) 
 第1章〜第15章  古い館・瑠璃瓦と天布・琴を聴く
  ・君子・儚い綴り・北海夕まぐれ・古都の匂ひ・
  八大胡同・ 君子の匕首・二等妓女・盧溝橋・
  長すぎる歴史・ 胡同の花・東洋の子・玉蘭花
小田の目で見た
 北京の現況報告
 
 泥河

S15/9

(砂子屋書房)
 道化踊り   S14/11  文藝   
 思ひ出   S14/1  新潮  .
 泥河   S12/11   支那人・文化・風景   再録  
 漂泊の魯迅   S13  未確認   初出年は推定
 窮死  S10/12  作品  .
 ますらを    本書以前には、
「著作目録」に題名なし
 .
 波の音  
 あたたかい夜

S15/10 (人文書院)

各作品に小田の
コメントがある。

       
 井上女塾  S8/2 麒麟   再録  
 あたたかい夜   S10/秋 帝国大学新聞   再録 
 城外   S11/6 文学生活  再録
 月に陰あり   S12/1 新潮   副題「ある女の手記」 再録 
 杭州城図会   S12/1 文藝   再録 
 夕景色   S13/1 文藝   再録  
 老鸚鵡   S12/3 週刊朝日   再録 
 平井智子   S9/5-9 世紀   5か月連載 

魯迅伝

S16/3 (筑摩書房)
   
 序章〜第12章
   (注:各章表題は省略)

 魯迅著作年表
  あとがき    
 復刊(S41)の大和書房版には、
 小田による「補遺」と亀井勝一郎
 の「感想」が付いている。
 
 紫禁城の人

S16/9

      (墨水書房)
        
 曠野   S16  公論   副題「又は飲酒の害について」 
 紫禁城の人   S15/10  文藝  .
 微風    本書のほかには、
「著作目録」に題名なし
 .
 故山夢記  
 愛の曲   S16/7  新潮  .
 美しい人    本書以前には、
「著作目録」に題名なし
 
.
 天にゐる女  
 躑躅の庭   S16/4  日本の風俗  .
 夜ざくらと雪   S16/7  知性   
 あとがき      

揚子江文学風土記
(武田泰淳共著)

S16/12 (龍吟社)

   
 自序(二名連署 武田泰淳が執筆)
 安徽より四川へ
 安徽省の部

 江西省の部
 湖北省の部(小田と武田が章別分担)
 湖南省の部(武田泰淳)
 四川省の部(武田泰淳)
    (注:第1章〜第15章があるが項目名は省略)
   

 小田にとっては、いわば生計の
 ための仕事で、武田に相談して
 引き受けた。
 小田は徴用されたため、
 帰国後にこの本を見た。
 武田が自序を書いたのは
 その関係があった。
 (「回想の文士たち-武田泰淳」
          (S53)に詳記あり)

大陸手帖

S17/5 (竹村書店)
  
満洲印象記、拉法駅の月、哈爾浜丸の二人、
新北京の支那人、西湖々畔抄、蘇州、
魯迅断片、など16編 (他9篇の表題略)
    

日本人の再認識 
  周作人著 :小田訳 
新戦場・廬山を望む
   -長江- :小田訳
 発行日はビルマ滞在中。
  前年中に準備したもので
  発行が遅れたのだろう。
ビルマ戦陣賦

 S18/12 (文林堂双魚房)   
 第1部・征衣新爽 (「船中日誌」など4項目)
 第2部・ビルマの草(「重慶兵」など7項目)
 第3部・蘭貢記(「ラングーン」など12項目)
 跋

        (注:小項目(20項目)名は省略) 
『南方徴用作家叢書 Cビルマ篇』
(2010/2 龍溪書舎)に収録あり
森林の池畔で

S19/3

    (金星社) 
     
 帚星  「桜の木の下で」
(S18/7:文藝)
のほかは、
 「著作目録」に題名なし
「帚星」、「秋日抄」、「火」は、
徴用が関連する短編小説で、
「南方徴用作家叢書 C
ビルマ篇」には本書から収録)

「桜の木の下で」は、「著作目録」
では「随想その他」に分類あり。
 秋日抄 
 障子ばり 
 火 
 森林の池畔で 
 桜の木の下で 
 桃花源 
雪女

S19/12

  (翼賛出版協会)
    
 先ず
  新潟県地方のこと

 お話に移り
  雪山の不思議  慈母地蔵  漁の神様
  米山さん  おさる地蔵  地蔵さんの恩がへし
  雪女  老人のゆくへ  ごろすけぢいさん
  毛塚物語  安寿姫と津志王丸の話  筒場の
   兄弟  猿の尾はなぜ短い  熊が人を助けた話
  あとがき            
 「新民話叢書」の1冊

 この叢書には、ほかに
  「槍ヶ岳の鐡くさり」(浅見淵)
  「河童の遠征」(中村地平)
  「酒折宮」(小山東一)

 などがある。

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文学青春群像
 (S39/10:南北社)

文学仲間との交友を通じた小田の若き日の”自伝”である。
杭州領事館書記官から作家へ転進、芥川賞受賞の頃までの
自身及び仲間たちの苦闘、生き様、死、に思いを馳せている。

―  目次 ―
 まえがき .
 1 .杭州西湖畔で    蔵原伸二郎との出会い
 「葡萄園」転々 
 2 .阿佐ヶ谷界隈に群れる      「雄鶏」創刊  
 川崎長太郎の見合い  
 外村、青柳、中山、木山など  
 3 .極北の世界     原了の死 
 坪田譲治の苦悶 
 辻野久憲の苦恋 
 4. プロレタリア文学退潮    最低の生活 
 田畑病む 
 憂い顔の太宰治 
 5. 青春の終わり    深夜の宴 
 「城外」執筆前後 
 芥川賞受賞式 
 6. 暴風雨前夜     郭沫若と郁達夫 
 上海行 
 辻野と緒方の死


回想の文士たち (S53/6:冬樹社)

戦前戦中を主体にした小田の文学交友録だが、
時代背景とともに小田の人柄、人生観が窺える。

― 目次 ―    (文末日付は脱稿とみてよかろう) 文末日付
 ☆随筆




























                           
 なつかしい友たち .
   太宰治 ・酒にまつわる話 S53/4
   檀一雄 ・開戦前後  S51/7
   武田泰淳 ・武田泰淳を悼む  S51/12
   蔵原伸二郎  .
    ・蔵原伸二郎のこと  S43/8
    ・蔵原伸二郎と飯能  S46/11
   木山捷平  .
    ・木山捷平の想い出  S46/7
    ・病中の木山捷平  S43/9
   中村地平 ・中村地平回想  S43/8
   亀井勝一郎 ・戦争中のこと S47/6
   伊藤整 ・ニ、三のこと  S45/9
   青柳瑞穂 ・酒と骨董の青柳瑞穂  S47/6
 先達七人 
   ・萩原朔太郎   S45/8 
   ・菊池寛  S45/8 
   ・山本実彦   S45/8 
   ・広津和郎   S45/8 
   ・宇野浩二   S45/8 
   ・川端康成   S53/4 
 さまざまな縁  
   青野季吉 ・青野さんのこと   S36/9 
   保高徳蔵 保高さんの短気とねばり   S45/1 
   金子光晴 ・取り止めもなく S51/2 
   微かな縁 ・会津八一   S44/8 
   小川未明 ・小川未明との出会い   S52/3 
   矢田七太郎 ・上海総領事 S48/10 
 ☆小説  

 
 重い記憶   .
   逃亡の季節 ― 戦中交遊譚  S40/8 
   歌わない詩人  S24 
   雲の如く  S36/4 
 あとがき  昭和53年陽春  小金井の里にて    小田嶽夫 


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ビルマ戦陣賦(S18/12:文林堂双魚房)

(「南方徴用作家叢書 Cビルマ篇 (小田嶽夫著)」所収作品一覧 (2010/2:龍溪書舎))

 所収作品  初出年月  初出誌  備考(本HP作作者の覚え)

 (単行本) 「ビルマ戦陣賦」

 第一部 征衣新爽
   船中日誌
   サイゴン・プノンペン
   バンコックの印象
   バンコックからラングーンまで
 第二部 ビルマの草
   重慶兵
   ココベンの蔭
   ビルマの草
      −スワ部落攻略戦記−
   廃墟マンダレー
   熱風
   高原の町
   ビルマのはて
 第三部 蘭貢記
   ラングーン
   ラングーン新秋
   ビルマ人について
   バーモウ長官の印象
   ビルマ・ルート
   デング熱
   ビルマ文化工作に関連して
   印度映画
   捕虜の声
   蘭群俳句会
   故国の友人へ
   故国
 跋(著者)
S18.12.10発行

文林堂双魚房

 (初版5000部) 














単行本の表紙から奥付まで、
そのままの形で収録。


「跋」によれば、
従軍中に書いたもの、
帰国後に書いたものなど、
新聞雑誌に発表したもの
の外に、約100枚を本書の
ため新たに書き下ろした。


「跋」の日付は
”昭和18年盛夏”である。
戦争の真只中、戦況は
日に日に不利に傾いていた。
出版事情の悪化で発行が
遅れたのではないだろうか。


それにしても、小田が、
この時期に、この内容で
上梓したことを評価したい。
小田の戦争と文学への
冷静な対応、姿勢が窺える。
(以下の作品についても同様)
 鞭−ある帰還作家のノート S18/3  文學界 .
 宣傳班文藝家として S18/5  新潮 .
 死に面した時の強さ S18/8  女性生活 .
 ビルマ戦線の兵士へ S19/3  文藝讀物 .
 印度人の血 S19/7  新太陽 .
 マンダレーの榮舎   S19/9  日本語 .
 祖国の山河   S20/3  征旗 .
 ラングーンの興奮   不詳
(S17〜 
 S18)
 日本文学報国会編「新生南方記」
(S19/4:北光書房)に収録の小田作品
 
 美しい協力  
 日本語学校学芸会  
 帚星 不詳
(S18〜 
 S19)
小田嶽夫著「森林の池畔で」(S19/3:金星堂)
所収5作品のうち、ビルマ従軍関連の小説3篇
 
 秋日抄 
 火 



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(将棋会 第4 休眠期 (S19頃〜S23頃)   準備中)