第三部 阿佐ヶ谷文士それぞれ (人生と文学)


 外村 繁 (とのむら しげる) 

明治35(1902).12.23 〜 昭和36(1961).7.28 (享年58歳)


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【将棋会 第1 出発期 (S3〜S8)】の頃   (“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像”


= 家業を弟に譲って文学復帰 =

外村繁については、「荻窪風土記」に「外村繁のこと」という一編があり、第一部で
外村繁のこと == 豪商(近江商人)から文士に!!」 に記した通りである。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

    復帰までを略記すると・・・

三高ー東大で同期の梶井基次郎、中谷孝雄らと親しくして文学の道を志し、
東大時代には同人誌<青空>を創刊する(T14)など積極的に活動していたが、
卒業した年(S2)の11月に父が急逝したため家業(呉服木綿問屋)を継がざるを得なくなり、
商売の道に励んだが、結局、昭和8年2月に家業を弟に譲り、文学の世界に復帰した。

同時期に住まいを阿佐ヶ谷へ移したのは、心機一転の決意の現れだろうが、
界隈には既に多くの文学青年仲間が集まっていたことが影響しているだろう。

田畑修一郎の項で記したように、復帰は<麒麟>への参加に始っているが、阿佐ヶ谷へ
移ると直ぐに井伏、青柳、小田などとの親交が深まり、将棋はできなかったが
阿佐ヶ谷将棋会の「第2期 成長期」を構成する主要メンバーの一人となるのである。

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これで井伏が「昭和8年にシナ料理屋ピノチオの離れを会場に再発足した。」
というその当時のメンバーが揃ったのではないだろうか。

古谷綱武・秋沢三郎も参加していた可能性はあるがはっきりしない。
この面々については、亀井勝一郎・浅見淵・上林暁・浜野修・村上菊一郎とともに
次の「第
2期 成長期」に記す。

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【将棋会 第2 成長期 (S8〜S13)】の頃   (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 文学復帰は順風満帆 =

外村 繁(明35(1902).12.23 〜 昭36(1961).7.28  享年58歳)

昭和8年(1933)、外村 31歳。 ”将棋会 第2期 成長期” は外村の30代前半にあたる。
外村は、第1期(出発期)に記したように、昭和8年2月(30歳)、家業を弟に譲って文学に
復帰した。住居も阿佐ヶ谷へ移し、心機一転,、文学に生きることを決断したのである。
家業は上手くいかなかったとはいえ破綻したわけではなく、経済的には恵まれていた。
復帰の第一歩は昭和7年11月、経済的援助の目的で<麒麟>に参加したことに始まる。

なお、本項は「荻窪風土記−外村繁のこと」や井伏、浅見、亀井、小田、木山らとの
関係が深く、それらの項との重複が多いことをご容赦願いたい。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *文学再出発

父の急逝(S2/11)で家業(近江商人:呉服木綿問屋「外村商店」)を継ぎ、文筆を絶って
その経営に専念、精励したが、業績は思わしくなかった。不況の最中とはいえ、
外村自身が自分はその道に適さないとの思いを強めていったのではないだろうか。
外村の下で家業に携わっていた弟は、小学校を卒業するとすぐこの仕事に就いており、
商売には通じていた。外村はこの弟に家業を託して自分は再び文筆を執ったのである。

     ・<麒麟>加入から--

外村が正式に弟に家業を譲ったのは昭和8年2月だが、その前年(S7)、外村は満30歳を
迎えるに際し人生に一大決断を下したように見受ける。最大要因は家業の不振だった
だろうが、その年3月には三高‐東大を通じて親しかった文学仲間の一人梶井基次郎の
夭折(31歳)があり、10月には三男が生まれたことが内面的に大きく影響していよう。
11月には、経済援助目的ではあったが田畑、小田、中谷らの<麒麟>の同人となり、
さらに、大正14年以来内縁関係のままだった妻とく子と子供たちを籍に入れたのである。

ちなみに、妻(とく子:M37生)、子供は 長男(T15/7生)、 二男(S3/12生)、 三男(S7/10生)、
の3人で、その後、長女(S9/10)、 四男(S12/2) が誕生した。

     ・”商店もの”が好評--

そして、昭和8年を迎えて2月に阿佐ヶ谷へ転居し、家業は弟に譲り、7月には正式に
<麒麟>の同人となって5年半ぶりに筆を執った。<麒麟>9月号に「鵜の物語」を、
<人物評論>(9月号)に「藤田専務の手帳」を発表したのである。
両作品とも家業の商店経営の経験から生まれたもので”商店もの”といわれ、
一種の社会小説として好評だった。 順調な再出発だった。

筆名:この「藤田専務の手帳」から筆名を本名の「茂」から「繁」に変えた。
出版社が「繁」と誤植したところ、それが気に入って決めたともいわれるが、
そこには心機一転、再出発の決意が込めらたことは間違いなかろう。

続いて昭和9年には「中井商店の身上」「灼傷」「歩銭」「神神しい馬鹿」を発表、
いずれも近江商人の世界を描いた”商店もの”だが、昭和10年に入ると「草筏」を
起稿した。外観上はそれまでの”商店もの”の系統に属するようだが、はるかに
内面化が進んだ作品になっていると評され、外村の代表作、出世作となった。
戦後、「筏」と「花筏」を書き、三部からなる大河小説として高く評価されている。

     ・長編「草筏」(第1回芥川賞候補)のこと--      

「草筏」は、<世紀>(S10/3)に始まり、<木靴>、<文学生活>、<早稲田文学>と続載され、
昭和13年に完結、同年11月には単行本として出版(砂子屋書房)されるに至った。

浅見淵によれば、この作品は繁栄する外村一族、近江商人の”血”といったものを、
外村自身に流れる”血”の源流的なものを探求する意味を兼ねて描いたものという。
また、中谷孝雄によれば、「草筏」の「筏」は仏教用語で衆生を此岸から彼岸へ済度
する意味が込められ、作者が意図したところも一族済度の悲願にあったという。

戦後、「草筏」の前編に相当する「筏」と後編に相当する「花筏」を発表し、三部作の
大河小説として高く評価された。「筏」は昭和31年の野間文芸賞を受賞している。


昭和10年、芥川賞が創設されたが、その第1回(S10上半期)選考において未完のまま
候補作品となった。受賞は逃したが、文壇、出版界においての地位を確立した。
昭和13年の単行本は、翌14年に池谷賞を受賞(再び芥川賞候補にもなった)した。

「草筏」執筆中の外村は、作品としてはほとんどこれに集中しており、他には<文芸春秋>
に「春秋」(S10/10)を、
<中央公論>に「血と血」(S10/12)を発表したにすぎない。
一方、文芸復興の機運の中、同人誌をめぐる活動は活発だった。 「草筏」の掲載誌が
四誌に跨るのはその影響である。 <麒麟>の同人となって阿佐ヶ谷界隈など文学仲間
との親交が広がり、 深まり、「草筏」の成功で文学復帰は順風満帆といってよかった。

     ・同人誌活動の渦中へ--       

尾崎一雄の著書に「あの日この日 (上・下)」(1975:講談社)がある。
尾崎のいわば「自伝的文壇回顧録」である。本人が 「自分の経験や直接見聞した事実に基づく
文壇野史あるいは拾遺ともいうべきもの」 と書くように、大正9年(父の死)から昭和19年までの
自分や周辺の出来事を単なる記憶ではなく記録などの裏づけを示して正確に書いている。
昭和50年の野間文芸賞受賞作品で、読み物として面白いが、貴重な文学史資料でもある。

尾崎と外村の交遊は昭和8年に始まるが、ともに活発な同人誌活動の渦中にあり、
尾崎はここにその模様を詳述しているので、本項はこの著書に拠るところ大である。

       外村と尾崎・浅見との出会い(昭和8年秋)

浅見と小田の項に記したように、昭和8年秋9月頃、当時はまだ無名の石川達三が
中心になって有力な同人誌に大合同を呼びかけ、そのための会合が開かれたが
議論百出の末このときの話はまとまらなかった。

外村もこの会合に出席した一人で、尾崎の筆致からすると、この大合同は
外村が財政の問題を執拗に取り上げたことがトドメとなって成らなかったようだ。

 この会合が外村と尾崎、浅見との初対面だった。
しかし、すでにお互いが同人誌で各自の作品を読んでいるので顔を合わせると
一見旧知の如くであったという。以降、阿佐ヶ谷界隈を舞台に親交が深まる。

そして、この会合は次いで<世紀>となって実を結ぶのである。

       <麒麟> → <世紀>

外村が文学を志したのは三高で出合った梶井基次郎、中谷孝雄の影響が強く、
三人は東大へ進み、<青空>を創刊(T14/1)して作品発表の場とした。
梶井が「檸檬」を発表(創刊号)するなど、有能な同人たちの活躍があって同人誌
として高い評価を得、外村らの卒業の年((S2/6:全28冊)まで続いた。


外村が5年余の空白を経て加入したのが<麒麟>だったのは中谷の紹介によるもので
極めて自然な流れだった。このころ<麒麟>の同人は、田畑、蔵原、小田、中谷、青柳、
緒方隆士らで、そのほとんどが阿佐ヶ谷界隈に住んでいた。外村の生涯の文学生活に
大きな影響をもたらす<麒麟>への加入と阿佐ヶ谷への転居の背景がここにあった。

小田の「文学青春群像」に、「雑誌のことで相談があるから、外村の家へ来てくれ、
という知らせ受けて、私は外村の家へ出かけた。会したものは外村、中谷、蔵原、
小田、淀野隆三他2〜3人であった。」とある。つまり、これが<世紀>創刊の会合で
外村は主要メンバーの一人だった。(小田は昭和9年になった頃としているが、
木山の日記や尾崎によれば、前年(S8/12)のことである。)

小田は続けて、「提唱者は淀野で、<麒麟>、<小説>、<青空>、の各同人の一部
から成る」 旨を書いている。(中谷がこの件で尾崎宅を訪れた時、木山が偶然
居合わせて尾崎が困惑したことは別記の通り) そして昭和9年4月に創刊された。

<麒麟>は昭和8年秋頃には廃刊になったようで、外村、田畑、小田、緒方、中谷、
ほかの同人はそのまま<世紀>に加入した(全同人名は浅見の項)。

外村は「中井商店の身上」(S9/5)など一連の”商店もの”をここに発表、 さらに
長編「草筏」の連載(S10/3-4)を開始したが、<世紀>はここで廃刊になった。
「草筏」は2回の連載で未完だったが、これが芥川賞候補になったのである。
(<世紀>最終号については異論もあるようだが尾崎が確認した昭和10年4月号と認めてよかろう)

廃刊には中谷らの<日本浪曼派>創刊が深く関わっている(田畑の項)が、
これにより<世紀>同人の多くは新たな発表の場を求めざるを得なくなった。

       <世紀> → <木靴>

<世紀>は、小説において外村、小田、丹羽文雄の活躍が目立った。特に外村には
「草筏」があった。新雑誌創刊に向かうのは自然の流れで、昭和10年10月に
<木靴>創刊号が発行された。同人はこの3人のほか、尾崎、浅見、田畑ら小説を
志す10人だった(全同人名は浅見の項)。 ”編集兼発行人”は外村である。

外村はここに「草筏」の3回目から6回目まで(S10/10,11、S11/1,2)を続載したが
ここで<木靴>は終刊となり、次に<文学生活>に引き継ぐことになる。

       <木靴> → <文学生活>

<木靴>は尾崎が確認した全5冊(S10/10〜S11/2)の発行と認めてよいが、解散事情
は不詳である。同人数の少なさから原稿の集まり具合や経費面において外村の負担
が過重で、より多くの人を糾合しての新雑誌発刊を策したと推察するが如何だろう。

間もなく、<文学生活>創刊(S11/6)となった。<木靴>と<新文芸時代>の同人が
合体し、そこに他からも多くが参加、計25名で発足、その後に総勢30名を超えた。
<木靴>以外からの同人は、上林暁、伊藤整、古谷綱武ら阿佐ヶ谷勢が多数おり、
井伏も発足後に参加するなど大きな勢力になった。 (全同人名は浅見の項

外村は創刊時の編集発行人で、ここに「草筏」を書き継ぎ(S11/8、S12/4-6)、
その年には完結する意図を示したが、同年6月号で終刊したため未完のままとなった。

なお、小田はこの創刊号に「城外」を発表し、芥川賞を受賞した。

       「草筏」完結は<早稲田文学>

<文学生活>の編集発行には、途中から実質上は浅見と砂子屋書房(山崎剛平)が
当っており、その浅見は昭和12年4月に尾崎と入れ替わりで<早稲田文学>の編集に
携わることになった。<文学生活>の廃刊がこれに関係しているかは不明だが、
「草筏」は浅見の計らいで<早稲田文学>に連載(S12/10〜S13/5:S13/2を除く)し、
昭和13年5月に完結した。起稿後3年余を経ての完結だった。

       再び芥川賞候補 - 池谷賞受賞

昭和13年11月には単行本(砂子屋書房)になり、この期の芥川賞候補になったが、
選考の前に同じ文藝春秋社の池谷賞に決定(S14/1)したため選考除外となった。

「草筏」執筆中の昭和11年2月、外村の第一創作集「鵜の物語」が出版された。
それまでに発表された”商店もの”が収められ、浅見が砂子屋書房で企画した
第一創作集叢書の第1弾だったが、所収作品の一つ「血と血」の一部が内務省の
検閲で切り取りを命じられた。尾崎は「いかに戦前とはいえ過酷に過ぎる。担当者
(尾崎の早大同期生)の点数稼ぎか、学生時分の腹いせか、といきり立った・・」
ように書いているが、2・26事件当時の厳しい国家情勢の反映ではなかったろうか。

なお、「血と血」の初出は<中央公論>(S10/12)で、それが創作集「鵜の物語」(S11/2)の中に
1編として収められたが検閲で直ちに削除となり、以降は出版されていない。
「外村繁全集 全6巻」(S37:講談社)にも所収なく、国会図書館まで行かないと読めそうもない。
筏三部作の最後、「花筏」(S33)の一部に取り入れられているという。

       <文学生活> → <日本浪曼派>

<日本浪曼派>は亀井の脱退(S12/9)で発行が止まったが、昭和13年1月に中谷の
勧めで外村が編集人となって再開した。しかし長くは続かず3冊(1,3,8月)だけで
終刊となった。最終号には太宰、木山、中村らの緒方隆士追悼文が載った。

外村の<日本浪曼派>加入(12/1)は<文学生活>発行中だが、そのいきさつや
「草筏」の掲載が<日本浪曼派>でなく<早稲田文学>だった事情は不祥である。
「草筏」は<日本浪曼派>の編集方針に沿わなかったのかもしれない。

ともあれ、外村の文学復帰は順風満帆、文壇に確かな地歩を築いたことは確かで、
この間は、丁度、阿佐ヶ谷将棋会”第2期 成長期”に合致するのである。

 終戦(S20)までの主要作品  と 「外村繁全集 全6巻」 所収作品

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 

将棋ができない将棋会員は外村と青柳の二人だが、二人とも酒に目がないことで他の
会員と結ばれ、共に独特の個性をもって将棋抜きで主要会員としての存在を示した。

     ・外村  と 井伏の 「荻窪風土記]       

荻窪風土記-外村繁のこと」では将棋(会)のことにはほとんど触れていないが、
お互いの日常の中で文士としての信頼の上に親交が深まったことが語られる。
年齢的に、また文壇での足取りや社会的存在として太宰、中村らの若手会員を
リードする立場にあるという連帯感があったと推察する。

荻窪風土記-二・二六事件の頃」に、将棋会仲間の青柳と田畑が仲違いしたことで
外村が間に立って気を揉んだことが書かれている。外村が初の創作集「鵜の物語」を
発刊した頃(S11)で、すでにこのころには仲間を思いやる立場にいたことが窺える。

「文学青年窶れ」、「阿佐ヶ谷将棋会」の項では、将棋を指さない外村が出席した時の
様子に触れている。木山の日記等に記述がある会で、”第3期 盛会期”のことである。

     ・外村  と 古谷サロン       

古谷サロン”については古谷の項に記したとおりで、<海豹>創刊(S8/3)によって
東中野の古谷宅に出入りする文学青年の数は急増したようだ。
外村の文学復帰、阿佐ヶ谷転居の時期に一致し、尾崎、浅見によれば外村の
訪問も頻繁だった。他に、太宰、木山、田畑ら阿佐ヶ谷界隈の住人も多かった。
酒が入って、文学談や同人誌計画、人生論、将棋や花札、麻雀に賑やかだった。
ここからも新しい文学、”昭和文学”といわれる作品が数多く生み出されていった。

文芸復興の機運に乗って外村の人脈は拡大し、もちろんその経済力も手伝って
同人誌活動における多くの重要な役回りを引き受けるに及んだのだろう。

     ・外村 と 「鵜の物語   

外村の初の創作集「鵜の物語」出版記念会の日のエピソードを小田と尾崎が書いている。
小田が書いた檀のパンチ事件は秋沢の項に記したので、尾崎が書くところをご紹介する。

昭和11年2月20日、出版記念と砂子屋書房の発足を記念の会、人形町の蟹料理屋で40人くらい
集まったろうか。帰途、何人かで新宿に寄って飲んだが、最後は自分1人になって選挙や政治に
ついて気炎を上げていたところ、巡査と悶着が起きて留置場に入れられた。翌朝、怒りを胸に家へ
帰った。”お土産を貰った”と気づき、玄関に盥を置いて素裸になって寒さに耐えて体中を洗った。
奇しくも、20日は志賀直哉(尾崎の師)の誕生日(M16)で、小林多喜二の命日(S8)だった。

同じ日の夜、阿佐ヶ谷の秋沢宅では檀のパンチが飛んでいたのである。
そして、2・26事件が起きる。

なお、ネット情報による「砂子屋書房史」には、出版記念会は2月22日、浅草「双葉」とある。
発起人20名連記の案内状の現物写真があるので、20日は尾崎の誤りかこじつけのようだ。
発起人は、井伏、丹羽、尾崎、小田、川端康成、淀野、瀧井孝作、田畑、太宰、檀、中谷、
古谷、浅見、三好達治等々、先輩、友人20名で、阿佐ヶ谷界隈の面々、将棋会々員と
その友人の名前が多いことが目につく。 尾崎は出席者は40名くらいというから、発起人の
ほか多数の出席があったようだ。 開催日の相違はともかく外村の順風振りが窺える。

ここに太宰の名があるが実際に出席していたか? 太宰が佐藤春夫の世話でパビナール
中毒治療のため入院した済生会病院を退院したのは2月20日頃なので微妙である。
続いて太宰の「晩年」が出版され、同年7月11日に出版記念会が開かれた。(太宰の項

     ・外村 と 「木山の日記]    

外村と木山の初対面がいつか? おそらくは昭和8年のことだろう。木山の日記に
外村の名前が見えるのは昭和10年以降だが、顔を合わせたという意味では、
その前に、二人とも古谷宅、尾崎宅に頻繁に出入りしたからその頃のはずである。

しかし、親しくなったのは昭和11年〜昭和12年頃だろう。木山は創作面、生活面とも
非常に低調な時期だが、文学関係の交友は積極的で、外村宅をも再三訪問している。
昭和12年には、日記中の「外村繁氏」の表記が「外村繁君」に代わるのである。
外村が<日本浪曼派>に加入した頃にあたり、日記(S12.3.29)に外村が初出席の
同人会で「木山は井伏のメイで中谷のオイだ」と言ったとある。外村の真意はともかく、
お互いにそのようにいえるだけ気心が知れた間柄になっていたといえよう。

ところで、ほぼ同年輩の外村と木山のここまでの人生には驚くほど共通点が多い。
親の意に反して文学を志したこと、親に逆らって結婚したこと、そのためほとんど
勘当状態になったこと、父親が早世したため家を継がざるを得なくなったこと、
転身を経験した末にようやく最後に作家を目指すに至ったことである。

しかし、このころの二人に対する印象を一言でいうと”明と暗”なのは否めない。
本人の生き方、作風に拠るものだが、根底にあるのは経済力の違いといえよう。

順風に帆を張って再出発の外村に対し苦闘の木山の心中は如何だったろう。

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「将棋会 第2期 成長期」は多くの文学青年が文芸復興の機運に乗って世に出た時に重なる。
外村がこの時期に”商店もの”によって復帰を果たせたのは先見性によるものだったのか、
偶然だったのか不祥だが、強運であったことは確かである。

”阿佐ヶ谷将棋会”は記録の残る「第3期 盛会期」に入るが、日中戦争の泥沼化で
国民生活には戦時色が強まり、遂には太平洋戦争に突入する。 疎開が始まるが、
外村、青柳、上林は阿佐ヶ谷に残って、そこで敗戦を迎えることになる。
次項等に記すが、過酷な東京生活で3人の妻たちが受けた心身の痛手は計り知れなかった。



【将棋会 第3 盛会期 (S13〜S18)】の頃   (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 招集、徴用なし:東京生活:空白の時代 =

外村 繁(明35(1902).12.23 〜 昭36(1961).7.28  享年58歳)

昭和13年(1938)、外村 36歳。 ”将棋会 第3盛会期” は外村の30代後半にあたる。
日中戦争の泥沼化から太平洋戦争へと戦争は拡大激化し、多くの文学者が招集、徴用を
受けたが、外村は免れた。疎開はせず東京で警防団に入るなど、戦時の日常生活を送った。

外村の著作については、「外村繁書誌稿」(H10:五個荘町教育委員会)が刊行された。
「書目」には単行本と所収作品、「著述年表」には各年月の発表作品、発表誌が記され、
「参考文献」には外村の作品など外村に関する論評等の記事が紹介されている。

外村が発表した全作品を網羅していると認められる労作で、昭和文学研究においても
貴重な基礎資料であり、本項においての主要参考資料である。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *執筆活動

     ・「草筏」で有卦に入る!

既述の通り、昭和10年から懸命に書き続けた「草筏」は同13年5月に<早稲田文学>で完結し、同年11月
には単行本として刊行した。これが池谷賞を受賞して、外村は作家としての地位を確固たるものとした。

「荻窪風土記-外村繁のこと」に、「そのころ外村君は仕事の上で有卦に入っていた。」 とあるが、
”そのころ”というのは昭和14年である。小説集「春秋」刊行(2月:赤塚書房)をはじめ、「風樹の懐」
(3月:<文藝>)、「白い鳥」(7月:<新潮>)、「遠雷」(7月:<文学界>)、「罪の台」(9月:<改造>)、「加代」
(11月:<月刊文章>)、「年の瀬」(12月:<若草>)などと続き、また、「文学的自伝」を<早稲田文学>に
連載(6回:後に「白い花の散る思ひ出」と改題して刊行)、随筆、評論の執筆も積極的に行っている。

     ・作風の変化

「草筏」について、浅見は、「外観はやはり本格的な客観小説にはなっているものの、”商店もの”と
較べると、遥かに内面的になって来ている。」とし、「”商店もの”の時代を、仮に外村文学の第1期と
すると、「草筏」以降は第2期ということになる。」 と書いている。(「外村繁全集 第6巻:解説」)

外村の作風は大きく変化したのである。自身の商店経営の経験を題材にした「鵜の物語」など、
いわゆる「商店もの」は”新社会派”との好評を得て自身も納得していたが、それが一段落すると
外村の関心は自身の人間性の成り立ちへと向かった。「草筏」は近江商人の姿を描いているが
主題はその血を自分が受け継いでいることにある。幼少時からの自分や周囲の動きを見つめて
長編「草筏」を著し、さらに戦後、その前編に相当する「筏」(S31)と後編に相当する「花筏」(S33)
を書いて三部作の大河小説を完成させるのである。

     ・戦争激化で作品激減

ただ、その間に外村が発表した小説は、「草筏」以外はほとんどが短編の私小説である。私生活を
題材とし、日常や懐旧の念などを作品化しているが、内容的に狭さ、浅さがあるのは否めない。
日中戦争が背景にあり、題材や主題の制約があった影響もあろう。そして太平洋戦争に入ると
制約はさらに厳しくなり、外村の発表作品は激減する。国策に沿って書き下ろした「日本合戦史話」と
当時の随筆、評論、小品などを集めた「日本の土」を刊行(S18)しただけといっても過言ではない。

戦後刊行の「外村繁全集(全6巻)」に「草筏」の後の戦中の作品があまり収録されていないのは、こう
した状況からだろう。文学復帰(S8)から終戦(S20)までの主要作品と「全集所収作品」を後記する。
なお、外村の作品はほとんどが私小説で、戦後も含めそのすべてが事実に関しているとみてよかろう。

 終戦(S20)までの主要作品  と 「外村繁全集 全6巻」 所収作品


   *順風平穏から「空白の時代」へ  

     ・最も平穏な時期

昭和13年で、外村36歳、妻とく子34歳、長男12歳、二男10歳、三男6歳、長女4歳、四男1歳の
6人家族である。この年に外村は同じ阿佐ヶ谷で、現表示では阿佐谷南3丁目の五部屋の平屋
に引っ越した。家族数に合わせて広い家に移ったのだろう。この家は、平成7年に人手に渡り、
取り壊されたが、青柳瑞穂宅(H24:現存)は目と鼻の先だった。お互い、気には掛けていたが、
家への往来はほとんどしなかったようだ。酒飲み同士のこと、自制していたのかもしれない。

浅見淵は、この時期の外村について次のように書いている。

「この時代は、外村繁の作家生活に取って、もっとも平穏で幸福な時代では無かったか。家庭の団欒の
中で、幼少年時代への郷愁と、若き日の回想に耽り、同時に、それらを作品に描いていた訳である。
”子供の通っている小学校の運動会というんで
、弁当持って見に行ったが、せつのうて泣けて
来よったヮ” その頃、彼がそんなことを口にしていたのを記憶している。」 (外村繁全集 第6巻:解説)

井伏が「荻窪風土記-外村繁のこと」に、外村が家族をことのほか大事にしていたこと、
運動会を見に行って、”天真爛漫”、心から楽しんでいたことを書いているところである。

外村は、家業を弟に譲ったが裕福な実家との関係は変わらず、その援助で終戦までは家計を気に
せず執筆に専念することができたようだ。前記のように執筆は好調、招集も徴用もなく、太平洋戦争
初期までの外村一家は、浅見の記述にあるようにまさに平穏、幸福な生活だったといえる。 が・・

     ・空白の時代

昭和17年、妻(38歳)は6人目を身籠るが、医師に、衰弱が甚だしく出産は無理と診断されて中絶した。
戦況悪化による国民生活の混乱は、リューマチと心臓弁膜の障害という既往がある妻の健康を蝕んで
いたようだ。それからの数年間について、外村は、「生活全体が空白に等しい。」 として多くを語って
いない。妻は、昭和23年2月に戦後の窮乏生活、過労から脳軟化症で倒れ、12月に44歳で他界する。

戦争激化で小説が書けなくなった外村は、三高時代の友人(浅沼喜実)が経営する”たくみ民藝店”
を引き受けたり、阿佐ヶ谷の警防団の副団長を命じられてその日その日を送っていた。
口の悪い文士仲間が、”警防団の副団長を受けたのは、酒が飲めるからでは・・”と言ったとか。

この年(S17)、長男(16歳)と二男(14歳)は中学生、三男以下は小学生、幼稚園の年齢だが、この後
長男は三高(京都:外村の母校)へ進学したこと、二男は勤労動員で胸部を病み病床に就いたこと、
下の3人の子供は滋賀県の実家へ疎開した(S19)こと、のほかには子供の様子ははっきりしない。

ちなみに、長男(晶(あきら)氏)は、昭和24年に北大理学部に入学、同30からのアメリカ留学を
経て同大学教授、さらに、東京医科歯科大学教授、同名誉教授を歴任し、人類遺伝学者として
”食品と暮らしの安全”に取り組むなど社会的にも活躍した。平成16年8月没。享年78歳。

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会  

     ・外村 と 将棋会

木山の昭和13年3月3日の日記に「阿佐ヶ谷会。アサガヤの将棋屋にて。・・」 の記述があって、
阿佐ヶ谷将棋会は、第
3盛会期に入るが、この3月3日には外村の名前は見えない。
勝負に参加しない外村や青柳の名前は、勝敗が主体の記述には現れにくいので
実際の出席状況は不詳だが、酒と雑談を目当てに積極的に出かけたことは確かである。

阿佐ヶ谷将棋会 開催一覧 (記録がある開催)」 別掲)


井伏は、「荻窪風土記-「文学青年窶れ」に、外村と青柳は勝敗記録係を受け持ったこと、終了後に
将棋はできない外村が勝負について出まかせの間違った講評をして喝采を浴びたことなど、将棋会の
柔らかい雰囲気をユーモラスに伝え、また、「同-阿佐ヶ谷将棋会」には、「外村酔っ払って独演会の
観あり」という木山の日記(S15/12)を引用し、「外村君の毒舌にはいつもユーモアがあった。」と
書いている。 酒が入って自在に振舞う外村の屈託ない姿が浮かんでいる。

その外村が書いた随筆「将棋の話」(初出不明(S18以前))が面白い。井伏を“井伏君”と記している
のも意外だが、井伏をはじめメンバーの腕前についてユーモラスに書いているので一部を引用する。

「皆の腕は非常にまずいらしく、記録係の、と言っても、ただ勝負の白丸黒丸を書くだけで
あるのだが、その僕が見ても、人前でうっかり将棋を指すなどとは言えないような人も
多かった。が、皆は「昨夜、どうもよく眠れなかったのでね」などと、一生懸命なのである。


そして、この後、井伏について、仲間内では強くて優勝が多いこと、無類な将棋好きであることを書き、
続いて、ある時、劇団関係の青年を井伏の家へ連れて行ったところ、井伏が、たまたまよほど将棋が
指したかった時のようで、話は将棋のことばかりになり、青年は井伏の強引な誘いで指し始めたが・・

「『どうもいかん』 井伏君は頭を振って、4局5局と指し続けたが指せば指すほど井伏君に
面白くなかった。そうして数局の後には全然歯もたたないようであった。『なあんだ、とても
強いのじゃないか』 とうとう井伏君はそう言って、やっと諦めたように駒を投げた。
そうして如何にも照れくさそうにしょぼしょぼと眼を瞬いた。」
(中略)
「後日、その青年に出会った時、『井伏さんとの最初の時には、何とかして目立たぬように
負けようと、随分苦心したのですが、駄目でした』と。その青年は笑っていた。
が、私たちの将棋の会は、日を追って、いよいよ盛になりそうな形勢なのである。」

と結んでいる。外村のおおらかさと、井伏の何ともいえない微苦笑顔を彷彿させる一文である。

     ・「木山の日記」の外村

メンバー同士は会への出席だけでなく日常の個人的な往来が活発だった。
木山の日記から、この時期の外村らしい姿を拾うと・・

昭和13年4月10日に、瀧井孝作の会で我孫子(志賀直哉旧邸)行きに参加している。  
夕方、上野へ着き、木山、小田、田畑、らと「麦とろ、また茶を飲み・・」に付き合っている。
外村は瀧井に傾倒しており、後に、瀧井は外村の再婚(S25/1)の仲人になっている。

昭和13年4月29日に、木山は緒方隆士の葬儀のことを書いているが、この葬儀については
小田の項に詳記したように、文学仲間7人によるいわば友人葬で、外村も7人の1人だった。
緒方とは<麒麟>、<日本浪曼派>からの友人だが親密さははっきりしない。7人に加わった
のは、中谷との関係と資力からかもしれないが、外村の人柄によるところが大だろう。
外村は、編集人として<日本浪曼派 8月号>を緒方の追悼号とし、その号をもって終刊とした。

昭和16年4月30日に、木山の「昔野」「河骨」出版記念会があった。木山の項に詳記の通り、
井伏ら文学仲間35名の出席があり、外村は小田、倉橋弥一とともに、会の司会を務めた。
二次会では、出席者が寄せ書きをしたが、外村は「凡夫凡婦 即卒伍の臣」と書いている。

昭和16年5月6日に、青柳宅で将棋会並びに美術講義を聞く会があった。「立会人 外村繁」
と日記にある。 将棋の後、青柳自慢の収蔵品の一つ「藤原時代のツボ」が披露された。
そして その翌々日(5/8)、中谷孝雄の渡満壮行会があり、その帰途のことが次のようにある。

「帰途、電車の中で学生(商大)が酒に酔ってヘドを吐く。陸軍少佐、背中をたたいて何か言う。
外村少佐に喰ってかかり口論となって車中騒然。少佐は高円寺で、外村に向かい
「なぐるから降りろ」といったが、中谷立ち行きて少佐をおろす。小生外村を阿佐ヶ谷まで送る。」


口論の内容は不明だが、軍人に対する外村の反発、反骨精神がさせたことではないだろうか。

     ・外村 と 将棋会の遠足

会の遠足については、別項「阿佐ヶ谷将棋会の遠足 (御嶽ハイキング と 高麗神社参拝)」に
詳記したが、外村は御嶽ハイキング(S17.2.5)には参加していない。理由は不詳だが、よほどの
事情があったに違いない。ひょっとしたら妻の妊娠(中絶)だったか?不明である。

高麗神社参拝(S18/12/23)には参加している。戦後、青柳が再訪した折、神官(高麗明津氏)が、
当時のサイン帖を見せてくれた。そこには外村の謹厳な筆跡で、「昭和十八年十二月記念ニ  
阿佐ヶ谷会同人」とあり、続けて参加者それぞれが署名していた。 
外村、太宰、青柳、平野(零児)、上林、小田、安成、の7名で、この順で姓名が書いてあった。

そして、この後、中村、小田、井伏らが相次いで疎開するなどで、組織的な“会”を持つことはできず、
会員同志の個人的な往来は続いたが、阿佐ヶ谷将棋会は
”第4休眠期”に入る。
外村自身も、自分にとって「空白の時代」と呼んでいる期間だが、終戦時まで阿佐ヶ谷界隈に
残っていたのは、外村・上林・青柳と三鷹の亀井、の4人だけだった。

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戦後、昭和22年末〜23年初の頃、阿佐ヶ谷将棋会は将棋抜き、酒飲み専門の「阿佐ヶ谷会」
として復活する。外村は、もちろん中心メンバーの一人として参加するが、
妻とく子は、その頃(S23/2月)に脳軟化症で倒れ、その年12月に他界する。享年44歳。
外村は、1年後に再婚するが、作家として、家庭人としての人生は新たな道を進むことになる。

これより前、青柳の妻は同年5月、上林の妻は2年前(S21/5)に他界している。
戦中戦後の混乱、窮乏生活が妻たちの心身を著しく蝕んだことは確かで、
東京の過酷な生活に起因しているといってよかろう。
外村、青柳、上林の戦後の人生は、それぞれに激烈であり、追って触れていきたい。

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「外村繁」 の項     主な参考図書

『外村繁全集 全6巻』 (所収作品は下表 S37 講談社)

『外村繁全集 第6巻(年譜)』 (S37/8 講談社)
『外村繁全集 第6巻(解説 浅見淵記)』 (S37/8 講談社)
『秋風の記』 (外村繁著 『早春日記』所収(S24/2 河出書房)

『外村繁書誌稿』 (H10 五個荘町教育委員会)

『あの日この日 (上・下)』  (尾崎一雄著 1975 講談社)
『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50/8 講談社)

『日本近代文学大事典 外村繁(中谷孝雄記)』 (S53 講談社) 

『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム - 父・外村繁の面影 外村和夫さんに聞く』 
(監修・青柳いづみこ・川本三郎 H19 幻戯書房)



(将棋会 第4 休眠期 (S19頃〜S23頃)   準備中)


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文学復帰(S8)から終戦(S20)までの主要作品

(「全集」欄は、「外村繁全集(全6巻)」の収録巻を示す。「-」は収録なし)
単行本表題:発行年月(所)  収録作品((*)は再録)  全集  備考(本HP作者の覚え)
鵜の物語

S11/2

(砂子屋書房)
 鵜の物語  1  ・S8〜S10発表の小説。
  本書に収録はないが、「藤田専務の手紙」(S8)が”商店もの”
  として好評を得た。(「全集 第1巻」所収)
 
 ・「血と血」(初出:S10/12<中央公論>)は、 検閲により削除
  された。
 中井商店の身上  1
 灼傷  1
 歩銭  1
 神神しい馬鹿  1
 血と血   -
 草筏
S13/11 (砂子屋書房) 
 
 草筏  2  長編1篇 
春 秋

 S14/2 

    (赤塚書房)
     
 春秋  -   ・S10〜S14発表の小説。   
 秋風   - 
 白い花びらの記憶   - 
 紺屋ヶ関  -
 「僕」や「たあし」達  - 
 過去   - 
 歳月   - 
 外村繁短篇傑作集

風 樹


S15/4

      (人文書院)  
       
 美代   (2)   ・亀井勝一郎が巻頭に「『美代』について」を書いている。

 ・再録の3作品以外はS14発表作品。

 ・ 「美代」は「落花」と改題、「罪の台」は「罪のうてな」と改題、
  ともに「全集 第2巻」所収。

 ・「跋」(昭和15年2月6日 著者)は、「外村繁書誌稿」所収。
 遠雷   - 
 罪の台   (2) 
 春秋(*)   - 
 風樹の懐   - 
 神神しい馬鹿(*)   1 
 白い鳥   - 
 鵜の物語(*)   1 
 跋   - 
小説集

 白い花の散る思ひ出

S16/7

(ぐろりあ・そさえて)
   
 春寒    -   ・「終局」(S9)、「墓参」(S11)の他は、S14〜S16発表作品。

 ・拾遺七題=「墓参」、「打出の小槌」、「五月の空」、「愚かな話」
         「バケツの音」、「子供音痴」、「その周囲」
    (「打出の小槌」、「子供音痴」は、「全集 第6巻」所収)

      
 ・表題作は、<早稲田文学>に6回連載した「文学的自伝」。

 ・「後記」(昭和16年7月15日 著者)は、「外村繁書誌稿」所収。
 
 落花(*「美代」の改題)   2
 四十歳の日記    2 
 拾遺七題(題名備考欄)    - 
 加代   - 
 刻苦石    - 
 K氏夫妻    - 
 終局     - 
 白い花の散る思ひ出  - 
 後記     - 

 日本合戦史話

S18/4 (陸軍画報社)
       
 ・「倶利伽羅峠の会戦」、「屋島の会戦」、「箕輪城の会戦」、「川中島の会戦」、「桶狭間の会戦」
  「姉川の会戦」、「長篠の会戦」、「山崎の会戦」、「湊川の会戦」、「四条畷の会戦」
  の10篇から成る。 全集には収録なし。
 ・「後記」(昭和18年2月11日 著者)は、「外村繁書誌稿」所収。

日本の土

S18/5 (大観堂)
   
 ・表題作ほか、このころまでの感想、随筆、評論、小品など42作を収めた。
 ・各題は省略するが、この中の、 「梶井基次郎の覚書」、「お母さん」、「将棋の話」、「趣味」、
 「へまな話」、「雨女」、「旅ごろも」、「打出の小槌」、は「全集 第6巻」所収。
 ・「あとがき」(昭和18年4月 筆者)は、「外村繁書誌稿」所収。

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「外村繁全集(全6巻)」 所収作品一覧

(備考(私のメモ)欄の「*」は、外村と妻や子との関連が特に深い作品)

 「外村繁全集 第一巻」 所収作品  (講談社:昭和37(1962)年5月発行)

収録作品(目次順) 初 出  備 考 (私のメモ)
 筏 S29/11〜 <文芸日本>   S31/3まで12回連載完結  (野間文芸賞受賞) 
 中井商店の身上 S9/5 <世紀>   ”商店もの”
 灼傷 S9/7 <世紀>   ”商店もの”
 歩銭 S9/10 <世紀>   ”商店もの”
 神神しい馬鹿 S10/7 <作品>   ”商店もの”
 藤田専務の手帳 S8/11 <人物評論>  ”商店もの”
 鵜の物語 S8/9 <麒麟>  ”商店もの” (復帰第一作 講談社版(S22)で改稿)


 「外村繁全集 第二巻」 所収作品  (講談社:昭和37(1962)年7月発行)

収録作品(目次順)    備 考 (私のメモ)
 草筏 S10/3〜 <世紀>   <早稲田文学>(S13/5)で完結  (池谷賞受賞)
 落花 S15/1 <文学界>   原題「美代」
 紅葉明り S22/3 <文芸>  .
 罪のうてな S14/9 <改造>   原題「罪の台」
 秋風 S11/4 <早稲田文学> .
 四十歳の日記 S16/7 <文学界> .
 菜の花道 S33/1 <群像> .
 枇杷の花 S21/7 <暁鐘>  (梶井基次郎:浅見・淀野)
 黄昏 S16/4 <作家>  *


 「外村繁全集 第三巻」 所収作品  (講談社:昭和37(1962)年6月発行)

収録作品(目次順) 初 出  備 考 (私のメモ)
 花筏 S32/11〜 <大世界>   S33/10まで12回連載完結(<世界仏教>と改題)
 繚乱 S23/6 <文芸>   *
 火宅 S24/5 <旗>   *
 道成寺 S23/10 <不同調>   *(瀧井孝作)
 夢幻泡影 S24/4 <文藝春秋>  *
 迷ひ地獄 S24/7 <文芸時代>  *
 春の夜の夢 S24/12 <風雪>  *
 最上川 S25/2 <文芸>  *


 「外村繁全集 第四巻」 所収作品  (講談社:昭和37(1962)年3月発行)

(「花筏」連載開始時(S32/11)に上顎腫瘍が発見され、治療を始めた。
晩年(S36)には、癌による苦痛との壮絶な闘いの中で執筆を続けた。)

収録作品(目次順) 初 出  備 考 (私のメモ)
 澪標 S35/7 <群像>   * (読売文学賞受賞) 
 黒い富士 S28/3 <群像>  .
 五十歳の日記 S27/8 <別冊文芸春秋>  .
 季節 S28/8 <新潮>  .
 故郷にて S27/3 <心>  .
 東北 S25/5 <中央公論>  * 
 秋日夢 S29/10 <別冊文芸春秋>  原題「秋の日」 
 岩のある庭の風景 S32/3 <群像> .
 鳥は故巣に S31/6 <文学界> .
 白梅の咲く庭 S34/6 <群像> .
 夢は枯野を S34/8 <新潮>  *
 恋しくば S32/8 <新潮> .
 酔夢朦朧  S35/2 <新潮> .
 落日の光景  S35/8 <新潮>  *
 日を愛しむ  S36/1 <群像>  *


 「外村繁全集 第五巻」 所収作品  (講談社:昭和37(1962)年4月発行)

収録作品(目次順) 初 出  備 考 (私のメモ)
 濡れにぞ濡れし S35/12〜 <週刊現代>   * S36/8まで34回連載(絶筆)
 青春紀行 不詳 不詳   「父の思ひ出」(S21〜S23)の「十〜十二」)に相当
 古時計と落葉 S29/2 <世潮>   .
 郷愁 S26/5 <心> .
 夜の雨 S28/8  <文学界> .
 夕映え S29/7  <新潮> .
 愛しき命 S31/10  <群像> .


 「外村繁全集 第六巻」 所収作品  (講談社:昭和37(1962)年8月発行)

収録作品(目次順) 初 出  備 考 (私のメモ)
 父の思ひ出 S21/7〜 <素直>   4回(S22/4、S22/9、S23/5)連載
 小品随筆 .
   お母さん S14/7 <文筆>  ..
   打ち出の小槌 S15/5 不詳  *
   旅ごろも S18以前 不詳 .
   子供音痴 S15/頃 不詳  *
   雨 女 S14/9 <文学者>  *
   へまな話 S18以前 不詳 .
   将棋の話 S18以前 不詳  将棋会・井伏の将棋
   趣 味 S10/12 <木靴>  園芸・演劇(檀・太宰)
  小魚を飼ふ S29/12 <風報> .
   酔眼漫語   S30/3 <ニューエイジ>  .
   連日無休  S30/12 <酒> .
   吸ひ殻問答  S34/11 <親と子>  *
   鰹節で書く  S29/11 <南風>  (上林暁)
   故郷の家  S31/12 <風報> .
   美代の在所 S32/4 <日経新聞>  .
   みちのく言葉  S32/9 <言語生活>   *
 評 論 .
   近代日本文学と浄土思想  S30/6 <現代仏教講座>  同左 第四巻  
   愛 欲   S30/1 <現代仏教講座>  同左 第一巻 
   善人と悪人  S32/4 <現代教養講座>  同左 「5」 
   我が心のおひたち  S36/3 <読売新聞>   「心のおいたち」を改題して収録 
   小説家の業について  S32/6 <新潮>  .
   苦節の受賞  S32/2 <新潮> 
   梶井基次郎の覚書  S10/8 <評論>   原題「梶井基次郎に就いて」ほか3篇
   近江商人考    S30頃 不詳  .
 書 簡  .
   アメリカの長男への手紙  (S37/8)  (本全集)   * 本全集で収録
 日 記  .
   阿佐ヶ谷日記  S35/9〜  <化学時評>   * S36/7まで43回連載(”つづく”とある) 
外村繁年譜   八匠衆一(記)    
解 説  浅見 淵(記)


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(会員模様 : 第4 休眠期 (S19頃〜S23頃)    準備中)