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“阿佐ヶ谷将棋会”の全体像 |
このころ・・時勢 : 文壇 | 昭和史 略年表 |
*華麗な一族 ---
この項は、主として文学事典類や「宇和先哲記念館」(愛媛県西予市)への問い合わせに拠った。
愛媛県出身だが出生地は外交官だった父重綱の任地ベルギーで、ロンドンで育った。
帰国(M45)後、小学校は転々とし、中学は宇和島中学、青山学院、成城学園と移り、
成城高等学校(旧制)へ進んだ(T15:18歳)。大岡昇平や富永次郎らと同級になり
文学への刺激を受け、在学中から谷川徹三を訪ねて生涯の師とした。
中央線阿佐ヶ谷駅設置に尽力したとされる愛媛県選出の代議士古谷久綱は、綱武の
伯父にあたる。また、綱武の妹文子は新劇俳優滝沢修夫人となり、弟綱正は著名な
ジャーナリスト、評論家として活躍する。
なお、古谷久綱代議士は大正8年2月に没しており、阿佐ヶ谷駅設置(T11)に尽力
したという言い伝えには疑問の余地がある。(第一部の<文学青年窶れ>に詳記)
祖父古谷綱紀は、地主で明治初期の明間村(現西予市)の戸長だった。
古谷の出自は、一般庶民というよりは愛媛県(宇和)の旧家といえよう。
戸長は、明治初期の制度で、その多くは旧庄屋・名主だった。
戸籍管理など地域の行政責任者の役割を担った。
裕福な家庭環境と、父は外務官僚で外国勤務が長かったことが、綱武の少年期
からの人格形成、さらには文学的立場、活動振りに大きく影響しているようだ。
父重綱は大正末期にはアルゼンチンなど中南米に駐在、依願退官(S3)してブラジルに
移住した。そこでバナナ栽培などに従事し、実業家として成功したので、綱武と
妹、弟2人の子供4人は中央線東中野駅の近くに(落合火葬場付近)、高校生の綱武が
設計して建てた広い家に住み、父からの仕送りで妹弟の面倒を見るようになった。
「古谷綱武の年譜」について -- 補正 私が参考にした年譜(注)には、一部に判然としない部分があるので、その部分を次の通り補正する。
(注) 「現代知性全集 第22巻 古谷綱武集」(古谷綱武著、S33/7・日本書房発行)を 底本として復刻した「日本人の知性 20 古谷綱武」(2010/12・滑w術出版会発行)の 巻末年譜(古谷自身の稿)である。これ以外には古谷の年譜は見当たらなかった。 補正の根拠は、古谷綱武著「自分自身の人生-日本人の血」(S57:大和書房)に、 次のようにあることによる。 @大正10年 : アメリカでの生活は1年あまりで帰国した。 (渡米は前年(T9)の6年生2学期のなかばだった。 この「叔父」は、宇和島市の中学の英語教師) A大正11年 : 中学入学は、同級生より年の多い1年生。 B大正13年 : 中学3年生になるとき東京の学校に転校。 (大岡昇平は、明治42年(1909)3月生で、早生まれ。 古谷が1年遅れたため青山学院では上級になった。) C大正15年 : 成城高等学校で、大岡と同クラスになった のは、古谷が中学4年生から進級したからである。 (別資料から、成城高校(旧制)の創立は大正15年で、 古谷、大岡はその第1期生。古谷は卒業間際に中退) なお、その後、上記「日本人の知性 20 古谷綱武」を刊行した「学術出版会」から情報を頂き、 古谷の著書に「人生への旅立ち」(1982・全国学校図書館協議会編)があることが分かった。 この内容は、児童向けの古谷の成城高校(旧制)時代までの自伝(回顧と反省)で、巻末には 簡単な年譜が載っている。 この著書によっても上記の補正が適当であることが確認できた。 (今回は、情報を下さった「学術出版社」担当者の責任感と良心、誠意ある対応に驚き、感謝です。) |
*<白痴群>で活動開始 ---
この項は、主として大岡昇平著『白痴群 解説』 に拠った。
古谷は成城高校で大岡昇平、富永次郎と同級になり、同じ文学的グループにいて
中原中也と親しくなった。古谷、大岡、富永らが3年生(S3)の時、中原中也が同人誌
の発刊を提案し、河上徹太郎、阿部六郎らを誘って翌4年4月に創刊号を発行した。
以降、隔月発行で遅延もあったが第6号(S5/4)まで続いた。中原対富永らとの作品
の評価をめぐる喧嘩で廃刊となったが、古谷は第5号まで毎号執筆し、河上とともに
創刊号から印刷や校正も担当するなど熱心に関わり、またこの間に小林秀雄と
知り合うなど若いながらも人脈も広げていただけに残念な結果だったかもしれない。
大岡は、「ひたむきに文学に志を持っていたのは、中原、河上、古谷だけで、あとは
半ば余技であった。」と記している。<白痴群>という誌名は中原の命名で、中原の
詩が雑誌の大半を占めた。「ほとんど中原の個人雑誌」といわれる所以である。
(しかし中原は同人費(5円:今なら20,000円相当か))を払ったことはなかった・・・。)
大岡は「古谷は多分文筆で身を立てようと思っていたろう。」とも記しているが、
妹の文子も女性だけの同人誌<火の鳥>(S3創刊)の同人だった。
(左派の<女人藝術>が華々しかったが、<火の鳥>は右派で地味な存在だった。)
後年、弟綱正も報道分野で名を成しており、揃って文才に恵まれていたようである。
<白痴群>廃刊(S5)後、古谷がどのような活動をしていたかはっきりしないが、
秋(S5:22歳)に<葡萄園>(S6/3廃刊)に加入している。
また、昭和7年には<文学研究><新創作時代>に加わっていたことが窺える。
(後述の「横光利一 (増補新版)」(S22)の跋(高田三郎記))
すでに成城高校は中退(S4)しており、東中野駅近くの自宅を本拠に評論の執筆と人脈
拡大など充電に努めていたのだろう。浅見によれば、昭和8年(古谷25才)にこの家には
古谷夫妻と女中だけだったので、この間に古谷は結婚、妹弟はこの家を出たのだろう。
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別記のように、浜口首相狙撃事件(S5/11)、満州事変(S6)、五・一五事件(S7)などが続く。
左翼への弾圧は激しさを増し、文芸分野からも多くの検挙者がでていた。
昭和8年2月20日には特高警察による拷問で小林多喜二が死亡した。盛んだった
プロレタリア文学は壊滅に向かい、文壇には文芸復興の機運が高まるのである。
*<海豹>創刊 ---
この項は、主として 木山捷平の日記(『酔いざめ日記』) に拠った。
<白痴群>からほぼ3年、昭和8年3月に<海豹>が創刊された。
同人による創刊号の打ち合わせが2月4日夜に古谷宅で開かれたことが木山の
日記に記されている。会費5円で、大鹿卓、今官一、新庄嘉章、神戸雄一、太宰治、
木山捷平ら、12名が顔を揃えている。阿佐ヶ谷界隈の面々が多いことが目につく。
この<海豹>から太宰、木山が文壇デビューしたが、その経緯や
会合の場所などから、発行の中心者は古谷(S8:25歳)だったといえる。
太宰を推薦したのは、同郷(津軽)で同年生まれ(M42)の今官一(弘前市)、
木山を推薦したのは、詩人仲間で同窓(共に東洋大中退)の神戸雄一である。
古谷は一面識もない二人の小説家志望の青年が提出した、いわば同人加入テスト用
の作品(太宰「魚服記」、木山「出石」)を読んでその才を認め、当初は想定外だった
この二人を同人とし、有望新人としてその作品を紹介したのである。
<海豹>自体は、昭和8年11月号(9号)をもって解散となった。
原因は木山の日記によれば会費未納や会員間の呼吸の乱れのようだが、
この発刊は、太宰、木山を文壇に送り出したという古谷の功績の一つとなり、
またこれにより古谷自身も実質的に文壇デビューを果たしたといっていいだろう。
*”阿佐ヶ谷将棋会”参加はいつ?
「荻窪風土記 -文学青年窶れ」に、「阿佐ヶ谷将棋会は主に文学青年窶れした者
たちの集まりだが、太宰治、中村地平、古谷綱武の三人は学生で、どういうものか
古谷はとても大人しかった。」という一節がある。古谷が早い時期からのメンバーで
あったことが窺えるが、何時頃からかはっきりしない。
学生とすれば昭和3〜4年頃となるが、この時期には井伏との縁は薄そうである。
古谷が<葡萄園>に加わった時(S5)、そこには小田がいたので知り合っただろう。
その小田は井伏とはすでに交友があり、東中野と阿佐ヶ谷界隈は近い。
仮に井伏との初対面がこのころとしても、年齢(井伏32歳、古谷22歳)、経歴など
の面から直ぐに親しく往き来するほどの付き合いが始まったとは考えにくい。
古谷は<海豹>同人会で太宰、木山に初めて会うなど、<海豹>を通じて阿佐ヶ谷界隈
の文学青年人脈との交友が盛んになったように見受けるので、井伏との親しい交友は、
つまりは“会”への本格的な参加は<海豹>発足(S8/3)の頃からではないだろうか。
*“古谷サロン” に群れる ---
この項は、主として 浅見淵著『昭和文壇側面史』 に拠った。
浅見淵は著書「昭和文壇側面史 -「作家」という雑誌- 」に、古谷(25歳)との初対面は、
尾崎一雄が「猫」を発表(S8/8:<作家>)した直後の、<作家>主催のビールパーティ
の席だったと記している。昭和8年夏頃のことで、これを機に浅見は古谷宅を親しく訪問
するようになり、そこで自分(S8:34歳)より若い世代の多くの文学青年と出会っている。
同書に -古谷サロン- という一項がある。一寸長いがそこから一部を引用する。
「古谷君は鷹揚で話好き客好きなところへ、生まれつき好奇心の強い感激家で、また、理解力も鋭敏で、
ことに才能ある文筆の士を敬愛していたから、終始だれかれが出入りしてサロンのような趣を呈していた。
揚句の果ては、古谷君に生活的余裕があったので、賑やかな酒宴となった。
今から考えると、みんなの憩いの場となっていたわけで、それによってみんな如何に力づけられたことか。」
「古谷君宅がサロン然として賑わっていた頃は、いまとは反対で、原稿はなかなか売れず、
一応の新人作家たちがみな、必然的に金もないしするので時間をもて余していた。
おのずと2、3人が群れをなし、よく退屈まぎらしにだれかの家を互いに訪問しあっていた。
そして、その一団に襲われた家では、細君が急いで裏口から質屋へ駆けつけ酒の才覚をしていた。
そういう時代だっただけに、古谷サロンがいかに賑わったか想像できよう。」
古谷の性格、立場と、当時の雰囲気が見事に伝わってくる。浅見は雑司が谷(現豊島区)
に住んでいて、東中野(落合近く)の古谷宅は遠くはなく、頻繁に往き来できたのである。
木山の日記でも、当時は特に近所同士の友人の往来が如何に多かったかがよくわかる。
”阿佐ヶ谷将棋会” が形成された背景である。
“古谷サロン”には、太宰などの<海豹>メンバーはもちろん、尾崎や檀一雄、中村地平、
小山祐士、大岡昇平、長谷川泰子(中原中也・小林秀雄と同棲)なども出入りしていた。
尾崎一雄はその著「なめくじ横丁」に、このころ(S8〜S9)、古谷宅には中谷孝雄、
外村繁、田畑修一郎、古木鉄太郎、などなど多くの人が集まったことを書いている。
木山は古谷宅訪問の日記(S8/2/11)に「オジサンなる代議士君と彼は酒をのんでいた。
実におっとりした人。金持羨ましくなる。マージャンをして12時前帰宅。」と書いている。
(古谷久綱代議士は没(T8)後なので、「オジサンなる代議士君」は木山の誤解だろう。)
ちなみに、太宰と檀は、太宰が古谷宅を訪問した際に初めて会い(S8/7下旬頃)、二人は急速に
親しくなった。このように古谷を介した出会いは他にも多々あった。“古谷サロン”の所以である。
*古谷と檀の<鷭>のこと ---
この項は、主として 尾崎一雄著 『なめくじ横丁』 に拠った。
尾崎の「なめくじ横丁」(S24/9:<群像>)には、東大(経)生の檀一雄と古谷、尾崎
との初対面(S8)の様子や、<鷭>発刊(S9)のこともユーモラスに、詳しく記されている。
尾崎はこの初対面の直後から檀が借りた家で檀と約1年間同居した。(尾崎夫婦と2歳の子が
1階の2間、檀が2階の1間)。この家は上落合にあり、古谷宅が近く、古谷宅で酔いつぶれた
尾崎を中谷や田畑がこの家へ送り届け、引き返して今度は外村を自宅へ送ったというような
交友振りが紹介されている。同時期に、この家がある狭い路地の向かい側に上野壮夫
(左翼系の詩人)が越してきたので、それぞれへの訪問客が行き交い、賑やかだったという。
この一角は人呼んで「なめくじ横丁」。尾崎は、自分や横丁に出入りした若い友人たちの文学青年窶れ時代
の一コマを、横丁名を借り、友人は実名をもって愉快に生き生きと描いた。時代は暗色だが、旧きよき時代の
名残ある青春物語といえよう。このとき、尾崎33歳、古谷25歳、檀21歳。とにかくみんな文学に熱中していた。
本著は戦後(S24)に書いた尾崎の懐旧談といえるが、最後は私小説作家としての感慨をもって結んでいる。
古谷は昭和8年秋、ある雑誌に載った檀の「この家の性格」に感心して著者に会いたくなり、
檀が来るという噂をたよりに「ワゴン」という喫茶店(西武線中井駅前)で待って初対面した。
その夜、徹夜で飲み、明け方に尾崎宅を襲い、檀を尾崎に紹介してこの小説を読ませた。
文学年表によれば「此家の性格(S8/10:<新人>)」とある。この時の初対面での話がひょんな
ことになり、尾崎一家はたちまち「なめくぢ横丁」の檀の借家に同居することになったのである。
<海豹>が行き詰った頃に重なるが、古谷は檀の才を高く評価し、行動を共に
することが多かったようである。その模様を尾崎の前著から一部引用する。
「古谷綱武、檀一雄の文学論議をきいていることで、私は、当時の新時代というものをわずかにのぞく
ことが出来たのだと思う。古谷君の家で、また、なめくじ横丁で、あるいは東中野の飲み屋で、中井駅前
の「ワゴン」で、彼らは実によく議論をした。毎日、そして終日、しゃべり、論じて倦むことがなかった。
中谷孝雄が加わることもあり、誰彼が交わることはあったが、主役はいつも古谷、檀の両君だった。」
そして、翌9年4月に古谷、檀の共同編集で季刊誌<鷭>を創刊した。
尾崎に、「古谷、檀の両君が『鷭』で示した文学への熱中は、殆んど凄壮と云って
よかった。『晩年』の著者(註:太宰治のこと)も恐らくそうだったのではあるまいか。
私はひそかに呆れていたが、・・・」と言わしめるほどの凄まじい情熱を注いだのである。
第1号(S9/4)の執筆者は43名、他に14名のアンケート回答があり、小説には
太宰治「葉」、古谷文子「若き妻」、檀一雄「退屈な危惧」があった。
第2号(S9/7:終刊)の執筆者は36名。小説には、太宰治「猿面冠者」、
古谷綱正「彷徨」、檀一雄「美わしき魂の告白」があった。
尾崎は「ぜいたくな雑誌であった。」と記すが、第2号で終刊の事情には触れていない。
昭和9年9月、檀の妹が檀と同居することになり、室戸台風の日に
尾崎一家は近くに居を移し、檀との約1年の同居生活が終わった。
*処女著作は 「横光利一」 ---
古谷が小説を書いていたかは分らないが、最終的には文芸評論活動を目指し、婦人評論、
児童文学の分野も切り拓いた。戦後もこれらの分野で活動を続け多くの著作がある。
古谷自身が「横光利一 -増補新版の序-」(S22/2:双樹社)に、「横光利一」の初版が
できたのは昭和11年で、文芸評論の道にこころざした私の処女著作である旨記している。
この初版は、昭和7年7月の<新創作時代>創刊号に掲載された「書方草紙」に、
昭和10年までの間に書いた横光利一に関する評論11編を加えた12編から成っている。
同年には続いて「批評文学」(S11/7:三笠書房)、「川端康成」(S11/11:作品社)を
まとめるなど、同人誌発行の傍ら文芸評論の分野で積極的な執筆活動を行っていた。
*若き日の古谷綱武像 ---
当時にあっては生まれ育ちが海外というのは稀なことで、帰国後の頻繁な小学校転校といい、
それらは少なからず綱武の人間形成に影響したのではないだろうか。成城高校入学、中退に、
その家庭環境が関係しているかは不詳だが、その後の人生に影響があったことは確かだろう。
ちなみに、成城高校は卒業の2週間前に「文学には学歴不要」と自らの意思で退学したという。
田畑らが同様の理由で早大を中退したのが昭和2年秋である。影響を受けたのかもしれない。
なお、弟2人は京大、東大出身で、綱正は報道関係で、末弟はブラジル実業界で活躍した。
大岡、浅見、尾崎の著作を総合すると、「高校時代から文学グループに属し、本気で
文学を目指し、人脈作りにも熱心だった。鷹揚で、話好き客好き、好奇心旺盛の
感激家で理解力に優れ、特に才能ある文筆の士を敬愛し、多くの訪問客を酒で
歓待して文学論に熱中した。」という古谷像が見える。
古谷自身も、「19歳になってから(S2)、自分は文学者として世に立つ決心をした。」 と
後に書いている。京都に哲学者谷川徹三を訪ねた年にあたり、以降は生涯の師とした
とのことなので、この面会が古谷にこの決意をさせたといえそうである。
ちなみに、谷川は、翌年(S3)、法政大学哲学科教授となって上京し、阿佐ヶ谷に住み、
後に近くで転居したが阿佐ヶ谷(現成田東)で生涯を閉じた (H1.9.27没:享年94歳)。
阿佐ヶ谷文士の一人であり、詩人の谷川俊太郎は一人息子である。
古谷も東中野から成田東に転居しており、師として頻繁な訪問があっただろう。
父の豊富な財力により生活には余裕があり、その資力が<白痴群><海豹><鷭>
といった同人誌発行などの文学活動を援けていたようだ。本人が「文芸評論の道を
目指した」と記すのは、自身で小説を書くことよりも、有能な文学の士を発掘し、育成
することに喜びを感じ、自分だからこそ出来るその役割に徹しようとしたのだろう。
毎日、終日、文学論議には倦むところがなかったが、特に酒を飲んでの古谷は
舌鋒鋭かったようである。木山の日記(S8/11/7)にもそれを思わす箇所があるが、
前出の「横光利一 (増補新版)」(S22)の跋(高田三郎記)に、<新創作時代>
創刊の頃(S7)の古谷について的確と思える一節があるので引用する。
「その時(註:創刊号編集会議で初対面)、渋い着物に角帯びをしめた古谷が、呉服屋の番頭然とした格好を
してやって来たのである。いやな感じだったがしかしノーブルなものがあり、別れると思い出されて、幾日か
して逢いたくなったのである。当時、年少の古谷は、年上の小林秀雄、河上徹太郎、三好達治等諸氏と
始終付き合っていて、文学の上で揉まれていたようであるが、ぼくたち同時代人との交遊関係は殆んどなく、
妙に田舎臭くて、押しが強く、寝ても醒めても文学々々と小説病にとりつかれているごとき文学青年との
出会いには内心、つき合いにくく、途方がつかなかったのだろうと思われる。」
その古谷が、「一度酒席に侍ると、主客が転倒して鼻息荒く饒舌になり、誰彼を掴まえてこっぴどく
人物論をやり始める毒舌癖を知って、皆は驚愕した。その毒舌たるや、肺腑を抉る苛責ない
人物評で、冷徹な眼識力に舌を巻くと同時に、その批評的才能の鋭さに、カブトを脱いでしまった。」
高田ら<新創作時代>メンバーとの初対面(S7)時、古谷(24歳)は高田が思うほど
ウブではなかった筈である。むしろそれまでの富者の人生経験から、自らを抑制して
未知の環境との調和を図っていく大人の術を心得ていたと見てよいのではないか。
井伏が「古谷はとても大人しかった。」というのも、二十代前半の古谷の処世の一面
といえよう。酒が入ると抑制が緩むのは常。若き日の古谷像であったと推察する。
*古谷綱武に関する記述 ---
・「日本近代文学大事典」から・・(S53:講談社)
“昭和10年代後半から、才能豊かな先輩友人の中にあって独自な分野を模索し、17年には、家庭
の不和もあって、「女性論」をはじめ婦人評論の分野を、また、郷里の友人久保喬の影響で、
「児童文学の理想」を書くなど、児童文学の分野をそれぞれ新しく切拓く。” (西沢正彦記)
(注: 久保喬は、本名隆一郎。太宰が「青い花」創刊に誘い同人に。後に児童文学に転向した。)
・「現代日本人物事典(20世紀WHO'S WHO)から・・(1986/11:旺文社)
“昭和11年、28歳のとき「横光利一」の評論集で文芸評論家としてデビューしたものの[食うため]
に女性評論を手がけ、著書は100冊にもおよぶが、秘書であった吉沢久子(評論家)との
結婚問題以後、表舞台に立つことを好まず [一生を老書生として暮らしていきたい] と思索の
日々の中で著述をつづけ、晩年は・・ --以下略--” (青田みのり記)
・ 十返 肇の評論(古谷が自著で十返による匿名人物評として紹介。出典未確認)
“いつのまにか文壇から脱走して、女性批評家として返り咲いた。どうせ文学じゃ、小林、河上に
かなわずと見てとったあざやかな転向ぶり、リコウな奴ではある。” ”文芸評論家から転じて、
女性批評家なんて妙チキリンな商売をはじめたのは彼をもって第一号とする。”
(古谷著「自分を生きる - 劣等感のしげきから逃げる」から)
・浅見淵の「昭和文壇側面史-古谷サロン」から・・(1996/3:講談社)
“昭和12年に日華事変が勃発すると、やがて海外からの送金が遮断され、古谷君は
急に貧乏しだした。これが動機になって、今日に到る口八丁手八丁のさかんな啓蒙的
文化活動に入ったようである。そのかん、父君のだいじにしていた菊花御紋章入りの
いろいろな宮中からの御下賜品を、次から次へと、ついに根こそぎ質屋に
運び込んでしまい、万一の父君の帰朝を兢々と恐れていた。一方、生活の
縮小を考え、この家を売りに出したが、戦争時代のせいもあって・・ --以下略--”
これらの記述には “いつのことか” がはっきりしない部分があるが、総合すると、
昭和8年頃には古谷サロンが賑わい、昭和11年には古谷自身も文芸評論家として
出発したが、その後の日中戦争と家庭の不和で古谷は苦境に陥り、家も手放した
ことが窺える。実際、古谷は、昭和10年代に東田町2丁目(現成田東)に転居し、
古谷サロンは消えたが、評論の新分野を開拓して活発な文筆活動を続けていた。
*「年譜」(古谷自身の作)から ---
「日本人の知性 20 古谷綱武」 (2010/12 学術出版会)の巻末に年譜が載っているが、
昭和11年以降は、昭和17年の欄に朝鮮旅行とあり、同19年に応召、同20年に復員した
ことに関する記述があるほかは、ほぼ各年における出版著書、発行所名だけである。
同書の「序」に、出版した著書は、「自分として何かの意味で心に残っているものだけを
あげるにとどめた」 旨を書き、昭和33年(年譜作成時)までである。
なお、「人生への旅立ち」の昭和11年以降の年譜は、これ以上に簡略である。
昭和11年〜同20年の年譜を次に抜き出す(発行所名のみ省略:数字は「月」)。
昭和11年(1936) | 2.「横光利一」 7.「批評文学」 11.「川端康成」 などを出版。 |
昭和13年(1938) | 1.「文学紀行」 11.「純情の精神」 などを出版。 |
昭和14年(1939) | 5.「作家の世界」出版。古谷綱武編「丹羽文雄選集」全7巻 の仕事に従う。 |
昭和15年(1940) | 8.「風俗と道徳」出版。 |
昭和16年(1941) | 4. 演劇映画評論集「魅力の世界」 6.「若き日の思索」 その他を出版。 |
昭和17年(1942) | 3.「女性論」 4.「女性・生活・文化」 6.「児童文学の理想」 10.児童図書「僕たち人間の ほこり」 12.「美しき日本」 児童図書「私たちの生活と文学」 その他を出版。朝鮮へ旅行。 |
昭和18年(1943) | 4.「文学の世界」 8.「作家論」 10.「才能と誠実」 その他を出版。 |
昭和19年(1944) | 秋、第2補充兵として召集を受ける。徳島連隊に入隊ただちに満洲虎林へ行く。 |
昭和20年(1945) | 高知県で終戦数日にして復員。 |
*そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---
阿佐ヶ谷将棋会は、”第3期 盛会期”に入り、木山や上林、中村の記述に古谷の名前が
載る。戦後復活の阿佐ヶ谷会にも出席しており、ずっと会員としての交遊が続いている。
将棋の腕前は、井伏、上林と同等で、会の中では上位のようだ。創元社との対抗戦では、
大関 安成、関脇 井伏、小結 古谷、前頭筆頭 上林、で、ほかに小田、木山、浜野という
チームだったとか。時期は不詳だが、上林、浜野がいるので昭和14〜15年頃だろう。
ところが、昭和16年3月の会を最後に、終戦まで、出席者に古谷の名は見当たらない。
この間の木山の日記にも見当たらない。御嶽(S17/2)や高麗神社行き(S18/12)にも
不参加で、その事情は不明だが、古谷が実生活で苦悩していた時期に重なる。
徴用による井伏、小田、中村の送別会(S16.11.20)には20名ほどが出席しているので、
古谷もその中の一人だったとは思うが、このころの古谷は、親しい仲間との将棋や
酒、雑談に気を紛らすような余裕はない悶々たる苦悩・・夫婦のこと、幼子のこと、
家計のこと、文学のこと、先々のこと・・を持って戦時を過ごしたのではないだろうか。
(Wikiによれば、長男はTBS「8時だよ!全員集合」のプロデューサー・ディレクターを務めた古谷昭綱)
= 応召・復員 - 文筆活動、再婚(吉沢久子) =
昭和18年(1943)、古谷 35歳。 ”将棋会 第4期 休眠期” は古谷の30代後半にあたる。
戦中も文筆活動を続けたが昭和19年10月末に応召した。翌年の終戦で(S20.8.15)
直ぐに復員したが、この頃以降の古谷の実人生に関する資料はほとんど見当たらない。
この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”
このころ・・ 時勢 : 文壇 昭和史 略年表
*応召・留守宅を吉沢久子に託した ---
*昭和19年10月末、古谷(36歳)は召集を受けて徳島連隊に入隊し、ただちに満洲の虎林へ渡った。*復員・文筆活動、吉沢久子と結婚 ---
吉沢久子略歴・・1918年、東京都生まれ。文化学院卒業。速記者となり、*古谷と復活「阿佐ヶ谷会」 ---
*阿佐ヶ谷将棋会は、戦後、昭和23年には将棋抜きの飲み会「阿佐ヶ谷会」として復活した。
復活経緯、参加者などは別項目に詳記したが、古谷はこの時の会には出席していない。
戦後の記録に古谷の名前が見えるのは、昭和24年3月が最初である。同年11月10日の会に
関して、木山捷平の日記に、「阿佐ヶ谷会。幹事、古谷綱武、原二郎、小田嶽夫。古谷に満座の
中で侮辱され、苦しむ。」 とある。詳細は不明だが、古谷の鋭い舌鋒は健在だったようだ。
*その後も、会には精勤というほどではないが出席を続けており、木山の随筆「阿佐ヶ谷会雑記」
(S31/1 <笑の泉>)にある会員名簿約30名の中の一人である。
阿佐ヶ谷会は、昭和47年11月に物故会員追悼の会が開催され、故人の関係者を含めて
約50名が出席した。この会が、結果として「阿佐ヶ谷会」最後の開催となったが、出席者全員の
名前ははっきりしない。古谷はこの時64歳、文筆活動活発な時期で、出席していたに違いない。
*その後の 「古谷綱武・吉沢久子夫妻」 ---
* 古谷の評論活動は衰えることなく続き、吉沢も古谷の秘書的役割に加え自身も執筆するようになった。
共に、人生論、生活評論が主体で共著もある。二人の間に子供はなく、古谷の死去(S59(1984)・
享年75歳)後も、執筆や勉強会「むれの会」継続、料理番組・CM出演など多方面で活躍した。
* 吉沢は、平成31年(2019)3月21日、古谷を看取ってから35年、生涯現役で101歳の生涯を閉じた。
参考サイト | 歴史が眠る多磨霊園 古谷綱武 | 墓地紹介:古谷綱武・久子夫妻、古谷綱正に関する記述がある |
参考サイト | 福井県坂井市立図書館 | 「文庫のご案内 ー 古谷綱武・吉沢久子文庫」 |
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「古谷綱武」 の項 主な参考図書 『大岡昇平全集 18 -「白痴群」解説- 』 (大岡昇平著 1995/1 筑摩書房) 『酔いざめ日記』 (木山捷平著 S50/8 講談社) 『昭和文壇側面史』 (浅見 淵著 1996/3 講談社) 『暢気眼鏡 まぼろしの記 -なめくじ横丁-』 (尾崎一雄著 S62/5 ほるぷ出版) 『日本近代文学大事典』 (S53 講談社) 『現代日本人物事典 (20世紀WHO"S WHO)』 (1986/11 旺文社) 『横光利一 -私の作家研究-』 (古谷綱武著 1990/1 日本図書センター) 『日本人の知性 20 古谷綱武』 (古谷綱武著 2010/12 学術出版会) (=「現代知性全集 第22巻 古谷綱武集」(S33/7・日本書房)の復刻) 『自分自身の人生 - 日本人の血』 (古谷綱武著 S57 大和書房) 『人生への旅立ち』 (古谷綱武著 1982 全国学校図書館協議会編) 『先哲リスト「宇和の人物伝 古谷重綱・古谷久綱-年譜」』(H5/2 宇和文化の里編) 『阿佐ヶ谷文士村』 (村上護著 1994/4 春陽堂書店) 『阿佐ヶ谷文士村』 (H5 杉並区立中央図書館) |