第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十一) 外村繁のこと == 豪商(近江商人)から文士に!!

  
★ 人生いろいろ ★

外村 繁(とのむら しげる)、本名は「茂」。昭和8年「人物評論」に作品を発表した際に「繁」と
誤植されたがこの字を気に入って、以降「外村繁」をペンネームとした。(『阿佐ヶ谷文士村』)

明治35年(1902)12.23〜昭和36年(1961)7.28   享年58歳

第三部 の「外村繁」参照

  近江の豪商の三男坊だが ・・・ 家業を継ぐ運命

滋賀県神崎郡南五個荘村大字金堂で、近江商人の名家 外村家の三男として生まれた。
長兄は本家の相続人となったが次兄が早世したため、茂が分家した父の相続人の立場となった。

参考サイト 外村繁邸 (東近江市HP−五個荘近江商人屋敷)

  三高-東大で宿命の出会い ・・・ 梶井・中谷、そして「とく子」

大正10年に三高(京都)に入学、同期の梶井基次郎や中谷孝雄と親交を深めた。
大正13年(外村21歳)、梶井や中谷と共に東大(2人は文学部だったが外村は母親の
説得で経済学部)に入学したが、梶井や中谷と文学談で時を過ごすことが多かった。
そしてこの年、六本木のカフェ「マスヤ」の女給「八木下とく子」(M37生)と出合った。

  親の反対で同棲生活 ・・・ ”別嬪やなあ”

大正14年1月、梶井、中谷らと同人雑誌「青空」を創刊、その後、淀野隆三、浅沼喜美ら
加わった。外村はそこに次々と小説などを発表していった。
八木下とく子との恋愛は外村家、特に母に認められないうちに大正15年7月に
長男が誕生した。当時すでに平林英子と同棲していた中谷を頼って同じ長崎村
(現豊島区長崎)に移り外村も同棲生活に入って、勘当同様の状態となった。

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本編に、「このころのことであろう」ということで外村の父親が長崎村へきてとく子と
初めて会った後、外村にそっと「別嬪やなあ」と云った・・・と紹介されている。

外村の著作「父の思ひ出」(S21)では、昭和14年秋に外村がとく子の下宿から市川の居宅へ
帰った時、父に散歩に誘われてその道すがら父が突然「別嬪かい」と言ったと記されている。
いずれにしろ、外村家としては反対だが、父親の気持は大きく子を包んでいたこと、
それが子の心にも沁み入ったことを暗示している場面である。
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  「青空」に人集まり ・・・ 作品は好評

外村は「青空」に引続き作品を発表、同人にはさらに阿部知ニ・飯島正・北川冬彦・
古沢安二郎・三好達治らが参加した。

昭和2年、「不同調」に「夜路」を寄稿。「青空」に「節分まえ」を発表し川端康成から
推奨されるなど外村は新人として認められるようになっていた。
同年3月、東大卒業。6月に「青空」は廃刊(通巻28号)した。(後に「世紀」に繋がる。)

  東大卒業 ・・・ 父の死で家業を継ぐ

本編によれば、井伏はこの頃「文芸都市」の同人になっており、同人仲間の
古沢や阿部から外村の噂を聞いていた。結局、「青空」から梶井・中谷・淀野らは
「文芸都市」に加入したが、外村・三好はそれぞれの事情を背負って加入できなかった。

外村の場合、昭和2年11月に父が急逝したため、勘当はうやむやとなって家業を継ぎ
(呉服木綿問屋)、ここから昭和8年初めまでの5年間は全く筆を手にしなかった。

三好の場合には「自活のために翻訳に忙しく、詩を書く時間がなかった。」と本編にある。

  文学に復帰 ・・・ 阿佐ヶ谷で再出発

全力を傾けて商売に励んだが、当時は不況の最中にあって業績は上がらなかった。
昭和8年2月、家業を弟に譲って本人(30歳)は文学の世界へ帰り、
この時から住まいを阿佐ヶ谷駅近く(荻窪駅寄り)に移し心機一転を図った。

文学への復帰は、旧友中谷の紹介で同人雑誌「麒麟」に参加したことに始まる。
「麒麟」には、青柳瑞穂・小田嶽夫・田畑修一郎・寺崎浩らがいて知り合ったが
阿佐ヶ谷界隈の住人が多かった。(旧友梶井はこの前年(S7)に病没していた。)

同年9月号「麒麟」に発表の「鵜の物語」と「人物評論」の「藤田専務の手帳」は一種の
社会小説で、商店経営の経験が生かされており好評を得た。順調な再出発であった。

この時ペンネームを「繁」にしたのは、出版社の誤植の字を気に入ったこともあろうが
内心に期するところがあってのことでもあろう。

  芥川賞候補 「草筏」 ・・・ 戦後の「筏」「花筏」で三部作完成

その後も続けて近江商人の世界を描いた小説を発表し、昭和10年3月からは「世紀」に
長編の「草筏」の連載を始めたが、未完のこの作品が第一回芥川賞の候補になった。
(受賞作品は、石川達三の「蒼氓」:他の候補の一つに太宰治の「逆行」があった。)

「草筏」は昭和13年に完結し、再度芥川賞(同年下半期)の候補になったが審査の前に
第5回池谷賞を受賞(昭和14年1月)し、芥川賞は中里恒子の「乗合馬車」であった。
(本編に、中山義秀の「厚物咲」とあるがこれは上半期受賞で、井伏の勘違いである。)

「草筏」完成後は、本編に<有卦に入っていた>とあるように昭和14年から私小説的
短篇を多く発表しているが、戦争激化で文筆活動は低調にならざるを得なかった。

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池谷賞(=池谷信三郎賞(いけたに しんざぶろう)

小説家・劇作家 池谷信三郎(M33〜S8)の名を記念して文芸春秋社(菊池寛)が
昭和11年に創設。創作・文芸評論・詩等において新風をもたらした新人に授賞。

 第1回(S11下)   中村光男 (評論)「二葉亭四迷論」
 保田与重郎  (評論)「日本の橋」
 第2回(S12上)  Q(津村秀剛)  映画批評
 第3回(S12下)  神西 清  翻訳の業績
 第4回(S13上)  亀井勝一郎  (評論)「人間教育」
 第5回(S13下)  外村 繁  (小説)「草 筏」

(昭和14以降は年1回となり同17年(第9回)で中止となった。)

第4回まで評論家が続き、作家は外村が初めてである。
保田は当時阿佐ヶ谷界隈(高円寺)に住み、亀井・外村は
阿佐ヶ谷将棋会のメンバーである。阿佐ヶ谷勢の活躍が窺える。

池谷賞は今や昭和の彼方に消えたが、当時は受賞が高く評価された。
(同社が前年(S10)に創設の芥川賞・直木賞は今に続いている。)

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  疎開せず警防団副団長 ・・・ 阿佐ヶ谷が終の住処

昭和19年11月から東京に本格的空襲が続いた。荻窪・阿佐ヶ谷も例外ではなかった。
この時、外村繁42歳、妻とく子40歳、と子供5人(18歳〜7歳の4男1女)がいた。

多くの人が疎開する中、文士でこの界隈に残ったのは外村繁・上林暁・青柳瑞穂の三人で、
外村と上林は荻窪署管内の警防団員(外村は副団長)になって踏みとどまった。
しかし、東京の食糧事情は極度に厳しく、妻とく子は心臓病の上に栄養失調となった。
戦後、体調が回復しないまま昭和23年12月に他界してしまった。

(上林の妻も昭和21年5月、青柳の妻も同23年4月に他界している。いずれも長期間の
貧乏生活と戦争に苛まれた不遇のどん底の時期で、あまりにも哀しい死だった。)

  とく子の死と再婚 ・・・ 夫婦とも癌に

終戦直後から文筆活動を再開、「筏三部作」の完成を目指す一方、多くの短篇を発表している。
昭和25年1月、金子ていと結婚。「最上川」(S25)という作品に再婚の経緯を記している。

大河小説「筏三部作」(「草筏」の前編に相当する「筏」(S31)と後編の「花筏」(S33))は
起稿以来23年を経て完結し、外村の代表作として高い評価を得た。
「筏」は野間文芸賞を受賞(S31)、その後も「澪標」(S35)で読売文学賞を受賞するなど
積極的に作品発表を続けたが、昭和32年末に上顎腫瘍が発見され癌と診断された。
放射線治療で回復し執筆を続けていたが、同35年には妻てい子が乳癌の手術を受けた。

  「阿佐ヶ谷日記」 ・・・ (つづく)

妻てい子は癌の夫婦と言う意味で「ガン・フー」と命名し、夫婦で癌と戦う日常となった。
「阿佐ヶ谷日記」(新潮社)という著作がある。「化学時評」に昭和35年9月から
同36年7月まで週一回連載された外村の日記風随筆がまとめられている。

同年7月28日永眠なので直前の約1年間の私生活が綴られているが、「ガン・フー」
の心の触れ合いを中心に、庭の自然の移ろいや、前妻との五人の子供達のこと、
老いた母(昭和32年に引き取って同居)のことなどが優しく、おおらかに綴られている。
妻・家族を愛し、慈しみ、自分に正直に生きた外村の人生が凝縮されているように思う。

日記の最後の日付は昭和36年7月6日で、その回分だけは末尾に(つづく)と
カッコ書きが付けられている。この原稿と共に暫く休みたいという連絡があったとのこと。

当時、「週刊現代」(講談社)には「濡れにぞ濡れし」を連載していて、
この方は「7月22日に口述をたった5枚したのが最後の章となった。」(てい夫人)という。
死を意識しながらの執筆が続いていたが、最後までその意欲は旺盛だった。
「小説家の業」(著作の題名)が「阿佐ヶ谷日記」に(つづく)と書かせたのだろう。

  親鸞に傾倒 ・・・ 小説「親鸞の生涯」は成らず

出身地の南五個荘村地方は浄土真宗の信仰が厚く、外村も幼少期からその影響下にあった。
三高時代には「出家とその弟子」(倉田百三)に感動し、「歎異抄」の世界に踏み込んでいった。

親鸞への傾倒は終生変わらず、「入門しんらん」(S34)を著し、「やがて将来に
「親鸞の生涯」に取りかかる計画があった」(てい夫人)というが実現できなかった。

なお、「草筏」の筏は仏教用語で衆生を此岸から彼岸へ済度する意味が込められており、
筏三部作で意図したところも外村一族済度の悲願を込めてのことであったとされる。
(『日本近代文学大事典』) ちなみに、瀬戸内寂聴にも同名の著作「草筏」(H6)がある。

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絶筆となった「濡れにぞ濡れし」は、没後直ちに(10月)講談社から単行本として出版
されたが、その「あとがき」を記したてい夫人も乳癌が再発して、
夫の死からわずか4ヵ月後の11月26日に後を追って旅立った。享年51歳だった。

 ★ 井伏との出会い・親交 ★

  井伏35歳・外村30歳 ・・・

本編に<私は初めて外村君の新居を訪ねるとき、阿佐ヶ谷の小田嶽夫や青柳瑞穂
と一緒に行った。>とある。外村が「麒麟」の同人になり阿佐ヶ谷に越してきたのが
昭和8年なのでこのころ同じ同人として知り合った小田と青柳が同行したのだろう。

外村が家業を弟に譲り、文学で再出発した時期で井伏35歳、外村30歳頃である。
本編に<その際、外村君は去年の暮に次男が生まれた・・・>とあるが、実際には
昭和7年10月に三男が生まれている。50年前のこと、記憶が不確かなのはやむを得ない。

  阿佐ヶ谷将棋会主要メンバー ・・・

阿佐ヶ谷将棋会が再発足したのは昭和8年で、青柳、小田はその時のメンバーと
考えてよい。外村もこの出会いによってその一員になったのだろう。

外村は昭和13年に同じ阿佐ヶ谷で近くに転居(現阿佐ヶ谷南3丁目)している。
そこが終の住処となったが青柳の家のすぐ近所だった。2人とも将棋はできなかったが
酒には目がなく、将棋会ではもっぱら裏方に回り二次会を楽しんだようである。
戦前戦後を通じて阿佐ヶ谷会主要メンバーの一人として出席回数も多い。

<荻窪風土記>に登場する人名で最も多いのは太宰治で、次いで外村、青柳である。
(『井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界』の人名索引に示された登場ページ数による。)
井伏との親交の度合いを示すといえようが、メンバー相互の親密さでもあろう。

本編に、外村は一度も井伏宅を訪問したことがないとあるが、連絡に蕎麦屋の出前を
利用したというのは商店経営者の発想か? 井伏宅にも外村宅にも電話がなかったと
いうのは意外だが、当時はまだそれだけ貧乏文士だったということか。それとも難しい
時勢の煩わしさを避けたかったのか・・。IT時代の昨今からは想像し難い時代である。
(”外村の井伏宅不訪問”は誇大表現で、訪問したことはある。(外村の「将棋の話」))

  天真爛漫 ・・・

本編に、外村の人柄を表す言葉として「子煩悩」「女房孝行」「天真爛漫」とある。
そして井伏は<あとがき>で<謂わゆる半面図のようなもの>としている。
確かに、外村の人格形成や作品内容、親鸞への傾倒などには触れていないので
<半面図>だろうが、外村の内面が滲み出ている表現であることには違いない。

第三部 の「外村繁」参照


@@@ 雑記帳 @@@

 ******* 時勢は戦争へ *******

  文筆家の姿勢

外村が阿佐ヶ谷に移った昭和8年、2月には小林多喜二が築地警察署での取調べで急死、
拷問によるといわれる。3月に日本は国際連盟を脱退して国際社会から孤立した。

国民は、軍部勢力によって進められるファシズム化の中にいた。昭和11年の2・26事件
軍部支配は決定的となり、同12年の盧溝橋事件を契機に戦争拡大への動きが強まった。
国家権力による支配、統制、抑圧の強化は国民生活に物心両面で大きな影響を及ぼした。

この時勢に乗じる人、抵抗する人と様々であったが、大部分の国民、つまり一般庶民は
この流れに身を委ね、個人の日常のささやかな幸せを守ろうと懸命に生きるしかなかった。

文筆界でも、体制的立場、抵抗的立場、左翼からの転向、と様々な立場があったが、
政治思想や権力とは距離をおいた立場で庶民の日常生活を題材とする人たちもいた。
井伏をはじめ阿佐ヶ谷将棋会メンバーにはこの傾向の人が多く、外村、上林らはさらに
「私小説」の分野を深めた。議論はあるが、時代と共にある日本特有の文学形態といえよう。

  生きている兵隊」は生きている

本編に石川達三の「生きている兵隊」(中央公論:昭和13年3月号)が紹介されている。
石川は昭和12年暮から中央公論特派員として日本軍の南京占領直後の中支に渡り、
その見聞に基づいて直ちに書いた小説であるが、雑誌は即日発売禁止となり新聞紙法
違反で禁錮4ヶ月(執行猶予3年)の判決を受けた(検事控訴で二審も一審と同判決)。

小説には戦場で戦う人間の姿がルポ的に描かれているが、殺し合い・無抵抗な捕虜、
市民、婦女子の殺害・暴行・略奪などそのリアルさは文学としても書きうる限界を
越えたと判断される時勢であった。

石川は公判等で「国民は出征兵を神の如くに考え、わが軍の占領地はたちまち楽土に
なると考えてるが戦争とはそのようなものではない。
戦争の真実を国民に知らせることが必要と信じる。」(概略)と述べたという。

日本軍による南京大虐殺事件(昭和12年12月)があったとされる当時の現場を
画いているが強姦場面はなく、民間人殺害にも相応の理由付けをしている。
石川は日本人として、国や軍・兵の立場、出版是非にまで配慮しながらペンを走らせた
ものと思う。掘り下げに不足感はあっても、まさに現在にも生きている作品といえよう。

また、火野葦平の「麦と兵隊」(改造:昭和13年8月号)が紹介されているが、この作品は
火野が昭和12年に応召、同13年に徐州作戦に報道部員として従軍してその実情を
画いた作品である。軍部の受けはよく、単行本は120万部という大ベストセラーになった。

文士も否応なく戦争と強い関わりを持たざるを得なかったのである。(<続阿佐ヶ谷将棋会>

戦争が激しくなると召集や徴用、疎開などで阿佐ヶ谷の文士たちも散り散りになったこと、
外村には召集・徴用はなく、阿佐ヶ谷に留まったことはすでに記した通りである。

なお、火野は戦後阿佐ヶ谷会メンバーになったが、石川はこの執筆時は阿佐ヶ谷界隈に
住みながらも阿佐ヶ谷会とは関わりを持たなかった。作家としての姿勢に違いがあった。

  岡田嘉子(女優)の亡命事件 → 映画”寅さん”に出演

昭和13年1月3日、岡田嘉子(女優:35歳)は、愛人杉本良吉(演出家:31歳)とともに樺太で
国境を越えソ連領内へ逃げ込んだ。昭和2年に”愛の逃避行”で騒がれたスターであり、
今回も背景・動機・ソ連での消息がはっきりせず謎の越境事件として大きな話題となったが、
2人ともスパイ容疑でソ連に逮捕され、杉本は翌14年銃殺、岡田も服役生活を送った。

大戦後に再婚。その後ソ連・日本を往復、日本で寅さん映画に出演するなど活躍した。平成4年
にモスクワで波乱に満ちた89年の生涯を閉じた。墓誌には「悔いなき命をひとすじに」とある。

 ******* そして戦後 -- 河童はどこへ? ******

戦後、疎開等で東京を離れていた文士たちが戻ってきて、戦前行きつけの小料理屋等に足を
運ぶようになった。本編には出雲橋の“はせ川”や新橋の“吉野家”のことが記されている。

戦前から相当に名の知れた面々が出入したように見受けるが、久保田万太郎の句や
三好達治と清水崑のコンビによる河童の暖簾は“お上冥利に尽きる”というところか。
暖簾はいつの作か分からないが、『井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界』に写真がある。
(“はせ川”の主人は俳人長谷川春草。昭和52年に店仕舞。−『井伏鱒二全集 別巻2』)

三好達治は前記したように外村繁らの「青空」に参加、昭和4年頃には阿佐ヶ谷界隈
に住んでいて井伏宅を不意に訪問した初対面の様子などが本編に記されている。
その後も活発に作品発表を続け詩集「測量船」(S5:30歳)で詩人としての地位を築いた。
戦後は阿佐ヶ谷会の会員である。

清水崑の名は河童と共にあるといっても過言ではない。週刊朝日に連載(S28〜S33)
した「カッパ天国」で名をあげ、清酒「黄桜」のコマーシャル(S30)のカッパの絵は
軽快な歌と共に全国的にお馴染みになった。(没後(S49)は小島功が引き継いだ。)

出雲橋の小料理屋 “はせ川” は銀座通り8丁目を東に入ったあたりだろうか。
三好の詩にある三十間堀は今の昭和通りと銀座中央通りの間を流れていたが、
戦後(S24)、戦災の瓦礫で埋め立てられ、出雲橋、木挽橋などの橋やそれに因む町名
はすべて消えた。 東銀座にある三原橋(交差点)の名が唯一堀の存在を物語るとか。
現在は、そこには大小のビルが林立している。

なお、それぞれの没年は、外村 昭和36年、久保田万太郎 同38年、三好達治 同39年、
清水崑 同49年 で、本編締めくくりの井伏の記述は記憶違いである。

そういえば「黄桜」のカッパのコマーシャルは最近見かけないが ・・・
 昭和は遠く、日本の戦争も、そして平和までもが遠くにかすむかのような平成である。

第三部 の「外村繁」参照


この編では主に次の図書を参考にした。       (H15/4UP)

・『外村繁全集 第六巻』  講談社(昭和37年)
・『阿佐ヶ谷日記』  外村 繁著(昭和36年)
・『濡れにぞ濡れし』 外村 繁著(昭和36年)
・『日本文学全集 石川達三集』 河出書房(昭和42年)
・『最新文学賞事典』   日本アソシエーツ(平成元年)
・『江戸文学地名辞典』     東京堂出版(昭和48年)



阿佐ヶ谷界隈文学地図 



(杉並中央図書館 : H15年 「阿佐ヶ谷文士村展」チラシ)

 

(十)善福寺川 = 太宰治と鮠釣り!! (十二)阿佐ヶ谷の釣具屋 = ”多師”済々

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