第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十) 善福寺川 == 太宰と鮠釣り!!

   ★ 清流で鮠(はや)を釣る ★

   田圃の中の清冽な流れ ・・・

本編に、当時(S2年)の善福寺川が田圃の中を流れる清流であった様子が活写されている。
井伏はこの川のガード(中央線)際の洗い場や少し川下の堰(環八辺)へ鮠釣りにいった。

この両所は、土地の古老矢嶋又次氏が彩色絵図に画かれており、これを合わせると、
清冽な流れと、今(H15)から80年位前の人々の川との関わりがまざまざと伝わってくる。
(この絵図の原画写真は、天沼弁天池など他の場所の絵図等と共に、
『杉並文学館ー井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士ー』に掲載されている。)

井伏宅の近くに住む広瀬さんは入沢別荘(後の荻外荘)の下手で、フナ釣りを楽しんだ。
井伏が「なぜ鮎を放流しないんだろう」と不思議に思ったくらい綺麗な川だったが、
荻窪あたりの急速な住宅地化に伴って川の汚染も進んでいった。

   最後の釣りは太宰治と ・・・

昭和5年4月か5月頃、井伏は東大へ入学したばかりの太宰治(当時は本名:津島修治)と
初めて会った。その後暫くして偶々井伏宅を訪れた太宰とこの川で釣りをしたが、
この時はどこで釣っても一匹も釣れなかった。

<川の水が魚を生かして置く力を無くしたのだろう。この川はもうお仕舞だと思った。>
と井伏はいう。これがこの川で最後の釣りだった。


JR中央線と上荻窪で交差(ガード)。ガード手前の橋は「置田橋」
(両岸は、遊歩道と鉄柵)
矢嶋又次氏描く絵図の場所である。(平成15年3月撮)

善福寺川は田圃を潤し、人々の生活用水として、釣りや子供の遊び場、教会の洗礼の場として
人々の日常と密接に関わっていたが、昭和初頭でその役割を終わったのだろう。

なお、本編に矢嶋さんの話として紹介されている荻窪の穴稲荷の洞窟は昭和47年に危険防止の
ため埋められた。力比べの石担ぎは大正時代にこの辺りで大いに流行し、井草八幡神社には
担がれた石が奉納されている。その中に「五拾五貫目 大正7年」と刻まれた石がある。
・・・なんと206kgを超える石・・・(『杉並風土記(上巻)』)


  ★ 杉並に発し杉並に終わる一級河川 ★

   コンクリート製の巨大な溝 ・・・

善福寺川は、善福寺池(杉並区善福寺)に発してほぼ南東方向に蛇行し、
西荻窪駅と
荻窪駅の間、やや荻窪駅寄りで中央線と交差(ガード)する。
(池の水源は、かっては豊富な湧水であったが、現在はポンプで汲み上げている。)

そして環八通りをくぐり(荻窪橋)、やがて善福寺川緑地、和田堀公園を流れ、
さらに環七通りをくぐり(和田堀橋)、杉並区和田で神田川(旧神田上水)に合流して終わる。
全長わずか約10.5km(東京都建設局HP)だが荒川水系に属する一級河川である。

河川改修の結果、現在は川の大部分がコンクリート製の深いU字溝となっている。
両岸は大部分が遊歩道になっているが鉄柵があり川面へ下りること、魚釣りは禁止である。
もっとも、釣る魚がいるのかが問題だが・・・鯉以外は見た目ではいそうもない。

川の水は意外に澄んでいる。悪臭も感じない。所々で水鳥が泳ぎ、2〜3ヶ所で数匹づつの
大きな鯉を見かけたが、清冽にはほど遠い典型的な都市河川(つまりは巨大排水溝)である。
鯉のいるあたりの水は澱んでいて、その動きは極めて鈍い。可哀相の思いが先に立つ。

流域に田圃は消えたが多くの公園が整備されている。そこには豊富な樹木に草花、
池や広場に散策路が広がり、野鳥や水鳥、昆虫も群れる。
流域はまさに都会のオアシスとなり、また緊急時の避難場所、火災時の延焼防止帯として
往時とは全く異なった役割を担う貴重な流れに姿を変えている。

   流域には3つの都立公園 ・・・

善福寺川の源、善福寺池は「善福寺公園」で、流域には「善福寺川緑地」(「善福寺川公園」
とか「善福寺川緑地公園」と記された地図等もある)、「和田堀公園」と、
3つの広い都立公園があり、豊な緑がある。特に春の桜は見事なものでお花見で賑わう。



善福寺川緑地 :天王橋〜尾崎橋間の桜:平成15年4月6日撮 (本項末に”善福寺川アルバム”
 

参考サイト 都立公園 庭園案内」より
善福寺公園 ・ 善福寺川緑地 ・ 和田掘公園

    神田川と妙正寺川 ・・・

善福寺川が注ぐ神田川は、井の頭池(三鷹市:都立井の頭恩賜公園:JRは吉祥寺駅)に発し、
京王井の頭線に沿ってほどなく杉並区に入り、久我山・高井戸・永福町を過ぎて北上し、和泉、
方南を経て中野区南台に入る。(善福寺川との合流点は中野区側は同区の弥生町である。)

さらに新宿区、文京区、千代田区と流れ、台東区・中央区境となって柳橋で隅田川に注ぐ。

南こうせつとかぐや姫が歌ったヒット曲「神田川」(S48)で一躍有名になった川だが、かっては
文京区関口(大滝橋)までは「神田上水」とか「井の頭川」、そこから飯田橋までは「江戸川」、
その先が「神田川」と呼ばれた。昭和40年の河川法の改正で全体を「神田川」としたのである。

昭和50年代までは大雨が降ると高田馬場やその上流域で氾濫があったと記憶するが、
改修・治水対策が進められ、現在では水害のことは聞かなくなったような気がする。
(この川も大部分がコンクリート製の溝になったのではないだろうか)

妙正寺川は、杉並区清水の妙正寺池(「妙正寺公園(区立)」)に発し、下井草を経て
中野区に入りさらに新宿区下落合で神田川に注いで終わる。
善福寺川と同様のコンクリートのU字溝の川で両岸には鉄柵が続く遊歩道がある。

妙正寺池もかっては豊な湧水が水源であったが、現在は近くに掘った井戸の
地下水をポンプで汲み上げている。

氾濫が起きた・・・平成17年9月4日夜、首都圏に降った局地的な大雨で杉並区、中野区では川が
氾濫した。1時間に100ミリを越す激しい雨で川は一気に増水し、善福寺川、妙正寺川、神田川が
溢れた。局地的に床上浸水などの被害が出た。九州には大型で強い台風14号が接近していた。

    ノーベル賞、小柴博士の散歩道 ・・・

かっては妙正寺川の水源の一つであった「井草川」(千川上水の分水)は、現在は下水道となり、
その上が「通称・井草川遊歩道」(杉並工高〜妙正寺公園)となっている。川としては存在しない。
妙正寺公園や下井草あたりの遊歩道は、2002年度ノーベル物理学賞受賞の
小柴昌俊博士の日常の散歩道だった。
杉並区ではそれを記念して平成15年度には遊歩道整備計画を具体化するという。

開通・・・平成17年5月17日、「科学と自然の散歩みち」が開通し、妙正寺公園で
小柴博士も出席して開通式が行われた。メインルート約7km、サブルート約5km。


かっての天沼弁天池(現在は“天沼弁天池公園”)の水などを集めた「桃園川」も同様で、
現在は川ではなく「桃園川緑道」(阿佐ヶ谷〜中野)として整備され、その名を留めている。

  ★ 太宰治との出会い ★

前出の<平野屋酒店>で、井伏が25歳(T12)時に発表した「幽閉(後の山椒魚)」を
青森に住む当時14歳の一中学生(津島修治=後の太宰治)が読んで
「埋もれたる無名不遇の天才を発見したと興奮した」と記した。

『阿佐ヶ谷文士村』によれば、太宰はこの時から井伏に文通を求め、会見を申し込み、
昭和3年には井伏宅を直接訪問しているが、井伏はこの時会わなかった。
太宰は、自分が主宰している同人雑誌「細胞文芸」に原稿を依頼し、ようやく
同年8月の第4号(=終刊号)に井伏の「薬局室挿話」という短篇が掲載された。

この後も直接会うことはないまま時が流れたが、昭和5年4月に太宰は東大に入学し、
東京での生活が始まり、井伏に再々面会を求め「会ってくれなければ自殺する」とまで書いた。
この時、井伏33歳、太宰22歳(当時は津島修治(本名))であった。

井伏は本編に「気になるので返事を出し、4月か5月頃作品社で会った。」旨を記している。
初対面を果たした太宰は井伏を師と仰ぎ、井伏は太宰の奔放な私生活が巻き起こす
数々の問題に煩わされながら徹底して面倒を見る間柄になったのである。


「神田川」については主に次の図書を参考にした。      (H15/3UP)

『江戸 東京 の神田川』          坂田昭次著(昭和62年)
『神田川 よみがえれ東京の源流』 東京新聞社会部編(平成6年)


(九)二・二六事件の頃 = 荻窪にも襲撃隊!! (十一)外村繁のこと = 豪商(近江商人)から文士に!!

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善福寺川アルバム


善福寺川を歩いた時の写真

水鳥が一生懸命に餌を探している姿が
印象に残りました

善福寺池から中央線のガードまで
約2kmの間です

平成15年3月16日(晴・遊歩道から撮)

コサギ(上3枚)・ カルガモ(中3枚)
 コガモのオス(右下1枚)と思います。

善福寺川のサクラです
(平成15年4月6日満開:晴れ)

都立公園「善福寺川緑地」

天王橋〜尾崎橋の間が
最も賑わいます。

下流(写真手前)は「和田堀公園」に
つながっています。


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