第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十四) 病気入院 == 昭和8年「文芸復興」!!

  ★ 入院が取り持った文士の出会い ★

     「パチンコとペニシリンはせじ」・・・お解りですか?

そうです。かって「伝染病予防法」に定められていた11種の法定伝染病の頭文字です。

パラチフス・腸チフス・コレラ・痘瘡・ペスト・日本脳炎
猩紅熱・流行性脳脊髄膜炎・発疹チフス・赤痢 ・ジフテリア

生活環境の改善、抗生物質やワクチンの開発など医薬の進歩に伴い、
平成11年に「伝染病予防法」は廃止され、代わっていわゆる「感染症法」が制定された。

この絶妙な”記憶法”はペニシリンの登場で生まれ、その登場によって消えたのである。
(世界初の抗生物質「ペニシリン」が日本で一般に使用されるようになったのは戦後である。)

猩紅熱は、現在ではペニシリンが効くので初期対応を誤らなければ恐ろしくない病気として、
どの家庭医学書を見ても軽い扱いであるが、
ペニシリンのない昭和8年当時は大事を取らざるを得なかった。
ニセ医者による誤診とばかりは言い切れなかっただろう。

     見舞客同士、病院で初対面!

井伏はその疑いで入院し、そうでないことが分かって多くの文士のお見舞いを受けた。
本編には河上徹太郎、木山捷平、嘉村磯多、太宰治の名を記している。

面会許可が下りると偶然同じ日に河上と木山の見舞いを受けたが、
井伏はその日が「昭和8年3月7日であった」と木山の日記によって確認している。
井伏自身はずっと日記を書いていなかったのである。(『釣人』(S45))

木山の日記によれば、木山は神戸雄一・古谷綱武と同行しており、
病院で河上徹太郎、中村正常に会っている。初対面であった。
また、退院前日に嘉村と太宰の見舞いを受けた。2人はやはり初対面だった。

自分の入院が取り持った縁ということで井伏の記憶に強く残ったのかもしれない。
木山の日記を読んでこの時代を振り返り、このころの太宰のこと、嘉村の死を追想している。

   ★ 阿佐ヶ谷文士の昭和8年(1933) ★

この年、国際政治では、ドイツでヒトラーが首相に就任、アメリカではルーズベルトが大統領に
就任してニューディール政策を推進、ソ連はスターリン体制のもとでアメリカの承認を得た。
日本は大陸進出・満州国設立が世界の非難を浴びて国際連盟を脱退、
国内ではファシズムの進行・言論、思想の弾圧がさらに強まり、左翼からの転向が相次いだ。

阿佐ヶ谷界隈の文士たちは、身近にいた小林多喜二横死(享年29歳)に強烈な衝撃を受けたが、
この年は自身としても“文学青年窶れ時代”の一コマとして特に印象に残る年であった人が多い。
( )内は、昭和8年誕生日の満年齢:生年月日順

      井伏鱒二(35) 病気入院。太宰治が井伏宅近くの天沼へ転居。深い関わりが始った。
      
      浅見 淵 (34) 尾崎一雄、杉本捷雄らと「小説」を創刊して文学に復帰。前途が開けた。
      
      小田嶽夫(33) 退職金が底をつき極貧生活。翻訳などで凌いで同人活動。人脈拡大。
      
      神戸雄一(31) 「海豹」創刊の同人。暮に天沼の弁天通りから阿佐ヶ谷へ引越した。
      
      上林 暁 (31) 初創作集「薔薇盗人」刊行。改造社「文芸」創刊の編集主任(S9退社)。
      
      外村 繁 (31) 家業を弟に譲って文学の道に戻り、阿佐ヶ谷へ引越して人生再出発。
      
      田畑修一郎(30)心身、生活面ともどん底。積極的な同人活動は続けたが作品は書けず。
      
      木山捷平(29) 「海豹」創刊の同人となり処女作「出石」を発表。作家としての第一歩。
      
      新庄嘉章(29) ジイド「女の学校・ロベール」の翻訳で名声を得る。「海豹」創刊の同人。
      
      亀井勝一郎(26)強引な同棲婚の1年目。転向表明で執行猶予付き懲役判決を受けた。
      
      中村地平(25) 「熱帯柳の種子」(S7)が注目され、この年東大を卒業で文学に専念。
      
      古谷綱武(25) 「海豹」創刊の同人。東中野の古谷宅で最初の同人会(発刊打合せ)。
      
      伊馬鵜平(25) S7に入ったムーランルージュで「桐の木横町」初演、大当たりとなった。
      
      太宰 治 (24) 天沼へ引越し。「海豹」創刊の同人となり「魚服記」を発表、好評を得る。
 

参考サイト 小樽市HP ー 小林多喜二 


 ----- 同人誌 「海豹」 など ----- 

< 昭和8年(1933) = 「文芸復興」の機運 >


「海豹」  昭和8年3月創刊。 メンバーは古谷・神戸・新庄・木山・太宰のほか、
今 官一・塩月 赳・大鹿 卓らで、11月(第9号)まで発行し、解散となった。
解散の事情は木山日記でもはっきりはしないが、内部の人間臭と推察できる。

木山は、8号(10月)、9号(11月)には執筆していないが、「3月号から11月号まで欠号
なくよく出した。」と書き(「新潮」S39/7・太宰治)、日記には「12月10日解散」とある。
(「太宰治全集 別巻」(1992:筑摩書房)に、1号〜9号の細目の記載がある)

結果的には、太宰と木山を文壇に登場させる役割が後世に残ったことになる。
太宰も木山も、当初は創刊メンバーには予定されていなかったのである。
運命のいたずらとでもいうべきか・・・

麒麟  この頃、「麒麟」(S7/8〜S8/9)があった。田畑修一郎・小田嶽夫らが
創刊の「雄鶏」(S6/6〜)が出版社変更のため誌名を変えたものである。
青柳瑞穂・川崎長太郎・中谷孝雄・那須辰造らが加わり、「麒麟」には
外村繁も加入した。同人の大部分は阿佐ヶ谷界隈の文士だった。

* * * * *

昭和8年は、プロレタリア文学が崩壊して「文芸復興」の機運が高まり、
文芸雑誌文学界(小林秀雄・林房雄・川端康成ら)創刊(S8/10〜S19/4)、
「文芸」(改造社)創刊(S8/11〜S19/7)と続き、この存在は
戦争下の日本の文壇・ジャーナリズムに絶大な影響を与えた。

同人誌としては、(S9:古谷・壇・太宰)、世紀(S9:青柳・外村・尾崎一雄ら)
青い花(S10:今・太宰ら)、日本浪曼派(S10:中谷・亀井・保田ら)の創刊が
あるがいずれも短命であった。詩誌では「四季」(S9:堀辰雄・三好達治ら)がある。

井伏のいう「文学青年窶れ--メダカは群れたがる--」真っ盛りの時であった。
(井伏は有力者が集まった「文学界」に加入(S13)し、文壇での地歩を築いている。)


  ★ 太宰治の昭和8年(24歳) ★ 

     天沼へ引越し!

今も、荻窪駅北口前の「オリンピック」の裏手に「まるや質店」がある。
井伏退院の翌日(昭和8年3月末頃)、井伏の奥さんと太宰がハチ合せした店である。

当時の場所からは若干移動しているとのことで、3階建ての現代様式の建物に
変っているが、壁面にはめ込まれた「山ホ」の屋号が往時を偲ばせる老舗である。
本書にある「桐の木横丁」辺で、太宰治や伊馬鵜平・徳川夢声が住んだ所である。

昭和8年2月に太宰は芝白金三光町から天沼3丁目(現在の本天沼)へ引越していた。
そして5月に天沼1丁目(桐の木横丁:現在の3丁目)へ引越した。

同郷の先輩、東京日日新聞(現毎日新聞)記者の飛島家に同居していての引越しであるが、
いずれの家も井伏宅まで徒歩で10分とかからない所で、頻繁に訪問するようになった。

     井伏は「太宰日記」を書いた!

井伏は、『十年前頃 --太宰に関する雑用事-- 』(S23)に、「自分の日記は
つけていなかったが、太宰に関する日記だけは時々書いていた」旨を記している。

つまり、昭和8年はそうした間柄が決定的になった年で、以降、井伏は太宰の行動に
気を配り、心配し、悩まされながらも面倒を見ていたのである。

     同人誌「海豹」でデビュー!

太宰は3月の「海豹」創刊号に「魚服記」を、続いて4・6・7月号に「思ひ出」を発表した。
「海豹」への参加は同郷の今官一が推薦し、加入テストの意味で提出した「魚服記」を
読んだ古谷が大いに認めて実現したもので、今以外のメンバーとは初対面だった。

実質的に太宰の文壇初登場で、その作品は関係者に注目されるところとなった。
「太宰治」の筆名もこの年1月頃に決定したと推定されている。

井伏や「海豹」の同人とその交友関係を通じて伊馬鵜平・壇一雄・外村繁・青柳瑞穂・
尾崎一雄・小田嶽夫等々、阿佐ヶ谷界隈の文士などとの交友が広がり、深まっていく。
この頃には阿佐ヶ谷将棋会にも参加していただろう。

     波乱の人生は続く! 

太宰は7〜8月頃に「海豹」を脱退し、翌9年には「鷭」、「青い鳥」を創刊するなど
積極的な執筆・発表活動を行ったが学校にはほとんど行かず、同10年には東大中退・
自殺未遂・虫垂炎手術(腹膜炎)時処方薬パビナ−ル中毒があり、以降も波乱の人生が続く。

本書「荻窪風土記」に記された人名で圧倒的に多いのは「太宰治」だが、
戦後は太宰が戦前の交友関係を避けるようになり、井伏によれば3回会っただけという。

(詳細は、第三部に 太宰治 の項
       

  ★ 木山捷平のこと ★

木山捷平(きやま しょうへい):明37(1904).3.26〜昭43(1968).8.23 享年64歳

岡山県小田郡新山村(現在の笠岡市)生まれ。小説家。初めは詩人として出発したが、
昭和8年に同人誌「海豹」創刊に参加して小説家としての道を歩き始めた。

(詳細は、第三部に 木山捷平 の項

     「木山日記」は語る!

「酔いざめ日記」(S50:講談社)に木山の昭和7年以降の日記が収められている。
(「木山捷平全集 全八巻」の巻末には、各巻収録作品に見合う時期分を分載)

実際の日記からの抜粋(尾崎一雄がみさを夫人に確認)ではあるが、
当時の文士たちの交友関係や動静、時勢の動きに触れている部分が多いので、
昭和文学研究の貴重な資料として多くの著書に引用等されている。

しかしこの日記は、むしろ木山捷平の人生そのものであり、木山の作品の背景や
木山自身の真の姿が窺えるという意味で極めて興味深く、貴重であると言ってよい。

「木山捷平の生涯」(H7:栗谷川虹著:筑摩書房)という著書がある。
題名通り、その生涯を木山日記や作品を中心に関係文献や郷里笠岡市の取材等で
描いた力作で、木山を知らなくても、その作品を読んだことがなくても面白く読める。

昭和に生きた一人の人間の生き方、宿命、運命、周囲の人々や時代の姿が
伝わってくる。もちろん、その後は木山の多くの作品を読みたくなるのだが・・・。

      「海豹」の末席?

「海豹」創刊メンバーになったのは詩人時代からの友人神戸雄一の誘いによるものだが、
神戸に「同人費が払えるか不安だったので誘いを遠慮していた・・・」と言われたという。
神戸はまた「木山に小説が書けるか?」という不安を持っていたフシも窺える。

ともかくも創刊メンバーの一人となって発表の機会を得、3月(創刊号)に「出石」を、
5月に「うけとり」、9月に「子に送る手紙」を発表。この時29歳。関係者には好評だった。

最初の同人会(S8.2.4:古谷宅)に出席した時、神戸と大鹿以外は初対面で、ここから
太宰や古谷、新庄などとの交友が始った。井伏からは昭和8年に年賀状が
来ているが、この頃から井伏をはじめ阿佐ヶ谷界隈の文士たちとの交友が始まり、
深まったと推察する。将棋は昭和6年か7年か8年か・・に井伏に習ったと書いている。
もちろん阿佐ヶ谷将棋会はこの頃からのメンバーだろう。

      昭和19年 満州へ渡る 何故 ?

住居は、昭和7年(28歳)に阿佐ヶ谷へ転居、さらに馬橋、大和町(中野区)、高円寺と移り、
昭和19年(40歳)末、満州の農地開発公社弘報嘱託として新京(長春)に単身赴任した。

この時期になぜ大陸へ? --- 書くために新たな体験が必要だったのではないかとも
いわれるが本人は語らず、はっきりしない。S19〜S21/8の日記は残っていない。

昭和20年8月、現地召集を受け、直後に敗戦となったため新京(長春)で難民生活を送り、
翌21年8月に引上げ船で佐世保に上陸、郷里(現在の笠岡市)へ帰って妻子と再会した。

ここでは井伏鱒二、小山祐士、藤原審爾、村上菊一郎ら当時近くにいたもの同士と
度々会合した。(広島県と岡山県であるが双方が県境に近く、近距離同士だった。)

      ようやく世に出る!

この後心身不調などで不遇の時が続き、単身上京、帰郷を繰り返す状態だった。
昭和27年8月には、井伏鱒二らが発起人で「木山捷平を励ます会」が新宿で開かれ、
阿佐ヶ谷会メンバーなど15名が出席した。木山は48歳になっていた。

そしてこの年12月、練馬区立野町に借金などで小さな新居を建てて東京での
妻子同居の生活を回復したが、生活の困窮は続いた。昭和31年(52歳)の「耳学問」
(直木賞候補)でようやく世の注目を引くにいたり、以降は活発な作品発表を続けた。

練馬の新居(JR吉祥寺駅の北2km弱:敷地58坪・建坪13坪余の2階屋)を木山は
「無門庵」と呼び、没年まで住んだ。同名の短篇小説(S39)に「戦後の急場しのぎに
建てたバラックで、本当は家という範疇にいれてやることはできない代物」とあり、
家には門が無かったことによる命名だが、胸中には木山独特の思いが
込められていて、妻や大工の門を作る話を強硬に退けた。

      木山の作品 「飄々」!

木山文学の特色を表す単語を論評、書評等から羅列すると・・・

      前期の作品   「剽軽(ひょうきん)」「郷愁」「悲惨な滑稽」「ペーソス」「野趣」「土の匂い」
      戦後の作品   「市井の哀歓」「ユーモラス」「滑稽の底に潜む哀感」「飄逸」「庶民精神」
                「虚実一如」「仙味」
      全体を通じて  「ペーソス」「飄々」「私小説」「私小説的」

前期の作品には詩集を含み、小説では「海豹」に発表した前記三作(S8)と
「抑制の日」(S13:第9回芥川賞候補)、「河骨」(こうほね)(S15:第11回芥川賞候補)
の短・中編小説が代表的である。

戦後の作品では、満州での体験を基にした短篇「耳学問」(S31)で”ユニークな作家”
として注目され、「大陸の細道」(S37:芸術選奨受賞)、「長春五馬路」(S43)の長編を著し、
ほかに「苦いお茶」(S37)、「茶ノ木」(S38)、「無門庵」(S39)などが世の高い評価を得た。

私見だが・・、文体は飄々として簡潔平易である。真面目に懸命に生きる庶民の意地と
哀歓を庶民の五感で捉えて、深刻がらずに、かといって醒めずに表現する手法かと思う。
平凡に、平穏に生き切ることの難しさとその価値を語りたかったのではないだろうか。

      虚実一如!

木山作品は実体験が基になっているので「私小説」といわれるのだろうが、
題材を身辺にとっていても創作によって別のものになっている作品が多いという。
栗谷川虹はそのフィクション性に注目してあえて「私小説」といっているが、
私小説の範疇にあっても「木山独特の私小説」といわれる所以である。

昭和43年、食道癌のため東京女子医大付属消化器センターで64年余の生涯を閉じた。

(詳細は、第三部に 木山捷平 の項


この編では主に次の図書を参考にした。         (H15/7UP)

・『日本近代文学年表』  小田切進編(平成5年)
『太宰治全集 第3巻 (東京八景)』(H1:筑摩書房)
『太宰治全集 別巻 (年譜)』(H4:筑摩書房)
『太宰治 (十年前頃)』 井伏鱒二著(H1:筑摩書房)

『酔いざめ日記 』 (木山捷平著 S50/8 講談社)
(「木山捷平全集」(S53〜:講談社)各巻にも分載あり)
『木山捷平全集 第8巻 (年譜)』(S54:講談社)
『玉川上水 (太宰治)(海豹の頃)(わが文壇交遊録)ほか』 
                        木山捷平著(H3:津軽書房)
『木山捷平の生涯』 栗谷川虹著 (H7:筑摩書房)


(十三)町内の植木屋=高井戸宿・火薬庫・御犬小屋!! (十五)小山清の孤独=悲運、薄幸の文士

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