第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十五) 小山清の孤独 == 悲運、薄幸の文士

小山 清(こやま きよし):明44(1911).10.4〜昭40(1965).3.6 享年53歳

その生涯は、本編に詳記されているように悲運が続き、不遇、薄幸の人生だった。
小山自身はそれを甘受していた風に見えるが、家族の方々を思うと心が痛む。

   太宰治に師事

小山は阿佐ヶ谷会のメンバーではないが、昭和15年11月に太宰治を訪ね、師事したことから
井伏や亀井勝一郎らの知遇を得るところとなった。
二人は、太宰亡き後、直接、間接に作品発表や生活の支援をしている。

本編の発表は昭和57年4月号(「新潮」)なので、書いたのは18年目の命日の頃だろう。
<あとがき>に<小山清は戦前の文学青年に属する生き方をして、
文学青年窶れをしたものの典型であったような気がする。>と偲んでいる。

東京浅草の出身であるが、昭和23年秋から吉祥寺と練馬区関町に住んだ。
阿佐ヶ谷会メンバーの亀井勝一郎宅(吉祥寺)、木山捷平宅(練馬区立野町:無門庵)
に近く、荻窪からも遠い距離ではない。

世間一般に広く知られた作家ではないが、昭和に生き、昭和を書いた文士の
一人として本書「荻窪風土記」に残したい存在だったのだろう。

   「木靴」のことは・・・?

小説は大部分がいわゆる「私小説」で、自らの生い立ち、日常生活や体験を題材としているが、
吉祥寺以降(S23:37歳)の生活に関する作品は無いに等しい。
生き甲斐とした「木靴」のこと、その同人のことも小山の作品からは何もわからない。

昭和33年(47歳)に失語症に襲われ、同37年には結婚生活10年の妻が自殺。
幼い子供2人がいた。書けなかったのだろう。
昭和40年3月6日 急性心不全で53年余の生涯を閉じた。

「つつましい庶民生活の中に、人間の魂の美しさを見いだそうとした作風」という評がある。

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井伏は「時が来たら辻さんが小山清実録を発表するだろう」と記しているが見当たらなかった。
小山清の人生を紹介する文章としては井伏の本編が最も詳しいのではないか。

なお、朝日新聞(東京朝刊)のシリーズ記事「大村彦次郎の 文士のいる風景(その5)」が
小山清を紹介しており(H18.2.3)、その一部を次に引用する。
「小山には東京下町生まれの律儀な性分と、一つことに夢中になると、それにあくまでこだわる気性が
あった。太宰の桜桃忌は最初、小山が中心になって運ばれたが、途中から小山は坂口安吾に傾倒し、
『太宰よりも安吾のほうがずっとすごいよ』 と言い出して、桜桃忌にも顔を出さなくなった。」
そしてこのことを話すため太宰夫人を訪ね、太宰に申し訳ないので出席できないと断ったというのである。

(平成20年(2008)に、田中良彦著「評伝小山清」が刊行された。
最近、小山作品の注目度が上がっているように思う。
また、ネット情報(Wiki)によれば、長男小山穂太郎氏(S30生)は、
東京芸大絵画科教授として活躍中とのこと、
何かホッとしたものを感じる。 H25/5追記)

   ★ 小山清の作品 ★

「小山清全集」(S44/4:筑摩書房)に、既刊の小説集「落穂拾い」・「小さな町」・「犬の生活」・
「日日の麺麭(パン)」の全作品やその後の作品、随筆、日記抄、書簡等が収められている。  
代表的な作品、注目された作品などについて触れてみたい。

なお、「小山清全集」は、増補新装版(H11/11:筑摩書房)が刊行され、増補、解題、年譜など充実している。


(杉並区立中央図書館蔵(S44/4版))

   小説集「落穂拾い」(S28/6:筑摩書房:全7編)

     「わが師への書」

昭和15年11月に小山が三鷹の太宰宅を初めて訪問した時に携え、太宰のもとに
置いて帰った作品で、いわば小山の「処女作」である。
この時小山29歳(独身)、太宰は31歳で前年1月に結婚した美知子夫人がいた。

この時から小山は太宰を師とし浅草から三鷹へ通う関係になったが、東京大空襲(S20/3)で
住む所を失った小山は太宰宅に同居し、太宰家疎開の間はその家の留守居をした。
太宰との関係は「風貌--太宰治のこと--」(「日日の麺麭」所収)に詳しい。

     「聖アンデルセン」(S23/1:「表現」)  太宰が読んで発表した作品。           

     「落穂拾い」(S27/4:「新潮」)  亀井勝一郎がつけた題名。

     「朴葉の下駄」(S24/11:「人間」)  井伏鱒二がつけた題名。

     ほかに「夕張の宿」「安い頭」「桜林」の3編。

   小説集「小さな町」(S29/4:筑摩書房:全10編)

小山は昭和12年(26歳)から下谷の竜泉寺町(現、台東区竜泉)で新聞配達をした。
戦後、太宰が疎開から東京三鷹の自宅へ戻った(S21/11)ので約2ヶ月同居した後
炭坑夫に応募して夕張炭鉱(北海道)で過ごした(S22/1:35歳〜S23/10:37歳)。
ここにはこの2つの町の生活をテーマとした作品が収められている。

     「小さな町」(S27/2:「文学界」)。
       昭和12年(26歳)から約5年間の新聞配達時代がテーマである。
       この作品と、上記「落穂拾い」(S27/4)などから世間に認められるようになった。

     「離合」 (S22/9:「東北文学」)  太宰がつけた題名。

     ほかに「をじさんの話」「西郷さん」「彼女」「よきサマリア人」 「道連れ」「雪の宿」
     「与五さんと太郎さん」「夕張の春」の8編

   小説集「犬の生活」(S30/6:筑摩書房:全8編)

「犬の生活」(S30/2:「新潮」)、「遁走」(S29/1:「新潮」)、「早春」「前途なほ」
「西隣塾記」「生ひ立ちの記(思ひ出・弟と母のこと・家)」「その人」「メフィスト」の8編

     「西隣塾記」には中里介山の西隣塾に入った時のことを記している。25歳の春から秋まで
     とあるので数え年なら昭和10年である。(「荻窪風土記」には同8年(23歳)とある。)
    
     「その人」には刑務所での服役生活を書いている。実体験である。少額ではあったが使い込みの罪だった。
    
     「メフィスト」は、小山が夕張に移った際、三鷹に残した原稿を太宰が添削・改題した作品。

   小説集「日日の麺麭」(S33/12:筑摩書房:全16編)

     「スペエドの兵士」(S33/8:「新潮」)、「麻雀」「ゴタ派」「啓吉」「紙幣の話」「ある靴屋の話」
     「紅いサンダル」「クラ爺や」「捨吉」「日日の麺麭」「聖家族」「旅上」「浅草」「痼疾」「栞」
     「風貌-太宰治のこと-」の16編


  「老人と鳩」(短篇小説:S37/7:「小説中央公論」)

  「老人と孤独な娘(絶筆)」(短篇小説:S40/5:「新潮」)


  随筆集「幸福論」(S30:筑摩書房:全13編)

    12編が昭和27年7月から同28年6月まで月刊誌「新潮」に連載された。
    結婚(S27/5:40歳時に18歳年下の関房子と見合結婚)直後の安定した時期の作品。

     ・アンデルセンによせて   ・「薔薇は生きてる」によせて   ・太宰治によせて
     ・詩集「朝鮮冬物語」によせて   ・動物園にて   ・夕張の友に 
     ・女主人公によせて   ・聖家族によせて   ・私について
     ・井伏鱒二によせて   ・美穂によせて   ・再び美穂によせて

     ・対象を知らぬ信仰 あとがきにかへて (S30/6:「新潮」)

  随 筆 (昭和25年〜同33年の84編と同37年の1編が収められている。)

太宰治に関わるものが多いが、その中で「井伏鱒二の生活と意見」
(S29/6:文学界)には、太宰に同行して疎開先の甲府で井伏に初めて会ったこと、
太宰の死後も時々荻窪の井伏宅を訪れたことなどが記されている。

井伏は「知人のことを書く場合は、好意を持って書かなければいけないよ。
好意が持てなかったら、何も書かないことだ。」といつもの酒場で言ったという。
井伏55歳、小山42歳の頃、真意は前半にあるが後半はいわば老婆心からか。

    「夜食」(S31/6)、「ネブタ」(S31/11)、「楢山説考を読む」(S32/1)は、「木靴」に発表。

    「朝」(S28/11:明大文芸)、「その頃のこと」(S33/4:人)は、服役生活を書いている。

    「夕すげ(由起しげ子)によせて」(S31/6)において、由起しげ子を絶賛している。

    「摂津大掾」(S30/11:ひ・い・ふ・る)は、父の義太夫の師をレコードで偲んでいる。

「荻窪風土記」にも、「小山の父は盲目の義太夫語りで越路大夫(摂津大掾)の弟子」とある。
この竹本越路大夫は二代目で、後(M36)に「摂津大掾」の称を与えられた。
井伏が学生のときに聞いたという越路大夫は三代目でこの「摂津大掾」とは別人である。
昭和41年に襲名した四代目越路大夫は「人間国宝」。昨年(H14)亡くなられた。

   ★ 太宰治の玉川上水心中 ★

昭和23年6月13日、太宰治は山崎富栄(29歳)と三鷹の玉川上水に入水心中した。
2人の遺体発見は6月19日で、太宰の満39歳の誕生日に当たっていた。
(毎年この日に、墓のある三鷹の禅林寺で太宰を偲ぶ「桜桃忌」が行われている。)

本編「小山清の孤独」の結びで井伏はこの心中に触れて
<少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるようなことはなかったろう。>
と無念の情を露にしている。
つまり、太宰の死は山崎富栄の所為であるとしている。

一方山崎の側から見ると富栄はそのような女性ではない。太宰主導であるという。
というより、太宰が井伏などの周囲にいじめられたことが大きな要因という。

直後から多くの人がこの心中について書き、2人の関係や動機を様々に憶測している。
太宰自らが招いた結末とはいえ、唐突な半端にすぎる幕引きだったということではないか。


特集編 「太宰治 :玉川上水心中死の核心(三重の要因)」 に詳記)

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敗戦で時代は一変した。耐え忍んだ強大な圧力が突然に消えたのである。
戦前に比べて無いに等しいような拘束の中で文筆家は存分に筆を揮えるようになった。

だが半面、価値観の転換・多様化が急速に進む社会と相俟って、
作品の内容、質、そして作家の社会との関わり方も以前に増して注目されるところとなり、
文学論争や勢力間の角逐、仲間同士での確執などがマスコミを賑わせた。

「荻窪風土記」の世界に関連する文士についてみても、新しい阿佐ヶ谷会の形成や
太宰治の志賀直哉などへの反発と井伏をはじめ戦前の阿佐ヶ谷会メンバーとの疎遠、
後のこと(S39)になるが木山捷平と新庄嘉章の握手(手指骨折)事件は知る人が多い。

井伏が小山に「好意が持てない人のことは何も書かないことだ」と付言(前記)したのは、
書けば理性が届かない次元に陥る恐ろしさを知っていたからだろう。

新しい時代・社会にどのように適合していくか、あるいは潔しとせず独自の道を貫くか・・・
平静に見えても内心での葛藤に苦しんだ文筆家は多いはずである。
本編の小山清の生き方にも純粋に文学を求めた作家の心の葛藤が窺える。

井伏は、戦後の小山に昭和文士の姿勢をみて筆を執り、思いは太宰の死に及んで
志半ばであったろう文士二人の運命の儚さに嘆息して筆を置いたのではないだろうか。


この編では主に次の図書を参考にした。           (H15/8UP)

『小山清全集 (全一冊)』(S44:筑摩書房)
『評伝 小山清』(田中良彦著(H20:朝文社)

『玉川上水情死行-太宰治の死に付き添った女』 梶原悌子著(H14:作品社)
『評伝太宰治 (下巻)』 相馬正一著(H7:津軽書房)
『太宰治と井伏鱒二』 相馬正一著(S47:津軽書房)



太宰治が入水したといわれる場所に、玉鹿石(ぎょっかせき)が置かれている。
(道路向かいの緑が玉川上水で、土手に二人の下駄が残されていたという。)
プレートには、「玉鹿石 青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月」
と書いてあるだけである。
太宰治の生まれ故郷特産の石を運んだもの。


(三鷹駅東端から玉川上水下流に向かう”風の散歩道”の路傍。 : H15/12撮)


(十四)病気入院=昭和8年「文芸復興」!! (十六)荻窪(三毛猫のこと)=敗戦、そして帰京!!

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