太宰治:玉川上水心中死の核心(三重の要因)
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・ 昭和23年6月7日の時点で、数日内に自殺する気持があったか? ・ 6月8日から11日までの4日間の太宰の言動は、全く不明である。 ・ 6月12日に古田晁を訪ねたが会えずに、翌13日深夜に入水した。 ・ 古田と井伏の「御坂峠での太宰長期静養計画」は実行段階だった。 ・ 遺書の一部 「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」 の意味。 ・ 遺書の一部といわれる 「井伏さんは悪人です」 の意味と “執筆メモ”。 |
1. 昭和23年6月7日(月)の時点で、数日内に自殺する気持があったか?
太宰の戦後の行動、特に金木町疎開を終わって帰京(S21/11)してからの言動は、本人や関係者の記述
などではっきりしている部分が多い。自殺直前の文学活動と私生活面の状況をまとめると次のようになる。
これらを総合すると、昭和23年6月7日の時点において、太宰は多くの大きな悩みを抱えていたが、
文学活動は活発で、数日中に自殺しなければならないほど差し迫った状況ではなかったことが判る。
文学活動・・太宰は、別記の作品一覧で判るように、戦中に続き戦後も早い時期から名作と評される数々の
小説を発表した。無頼派の旗手、人気作家、流行作家として超多忙な執筆生活を送り、その名は「斜陽」
(<新潮>:S22/7-10)によって全国に隈なく知れ渡った。(「斜陽族」は、世間一般の流行語にもなった。)
太宰治 : 作品一覧 |
3. 自殺決行の前日 = 6月12日(土)
6月12日(土)については、山内祥史著「太宰治の年譜」(2012)に、「『文芸時代』編輯記者の西大助が、
福田恆存との対談の打ち合わせに訪れた。「千草」の増田静江を通して、『廿日過ぎなら都合がいい、
席上には対談者、速記者、編輯記者の四名だけにして呉れ』 と返答したという。」 とある。
(豊田三郎「文藝時代後記」(S23.8.1))、西大助「太宰と文芸時代」(「太宰治研究3号」(S38.4.19))
「文藝時代後記」は、心中直後の発行なので信憑性が高い。訪問の時間は午前中だったろう。
この時、太宰は「千草」の仕事部屋にいて、まだ自殺の意思は固めていなかったように受け取れる。
また、この日には、太宰が古田晁を訪ねたという記述が野原の多くの著書にある。
昼過ぎ、太宰は単身で古田の寄宿先である大宮の宇治病院を訪ねた。古田は郷里(現・
塩尻市)へ行っていて留守で、病院の娘(節子さん:太宰も顔見知りの26歳の古田の姪)が応対
した。太宰は、その足で小野沢さん(「人間失格 第三の手記の後半~」を執筆した部屋の貸手)
の家に寄った。その時の様子は「含羞の人 回想の古田晁」(1982)に詳しいので次に抜粋する。
「『古田さん、いる?』 『いま、信州に行っております。あしたあたり、帰って来るはずなのですけど。』
太宰は落胆の色を見せ、うつむいてしばらくたたずんでいた。
『よろしかったら、おあがりになって、お茶でも・・・。』 太宰は視線を宙に迷わせていたが、
『いや、帰ります。また、来ますよ。古田さんに、くれぐれもよろしく。』 立ち去っていく太宰の後ろ姿が
何かさびしげだったと節子さんは回想している。その足で太宰は小野沢さんの家にも立ち寄り、
『 「グッド・バイ」が、どうもうまく書けなくてねえ。悩んでいますよ。』と言った。帰っていくうしろ姿が
へんに影がうすかったと、これは小野沢さんの回想である。」
野原は、「最も深く心を許していた親友古田晁に、それとなく最後の暇乞いに行ったのだろうか。」と
いうがどうだろう。14日の午後、古田は大宮に帰ったが、その前夜に太宰はこの世を去っていた。
この記述は、野原が太宰に会った二人から聞き取ったことだろうが、気になることが二点ある。
(ネット情報では、小野沢さんは昭和52年(1977)歿なので、ご遺族に会ったのかもしれない。)
① 当時は、一般の企業は出版社を含め土曜日は営業日だった。普通なら、先ず、東京の本郷に
ある筑摩書房を訪ねるところだが、出勤していないことが予測できたのだろうか。訪問前に
電話で確認した可能性もあるが、そのような形跡は見当たらない。いずれにしろ、太宰は、
何故、この日に急いで、わざわざ遠い大宮まで訪ねて行かなければならなかったのだろう。
② 太宰は単身で大宮へ行ったとあるが、何故、富栄と一緒ではなかったのだろう。三鷹~大宮間
の往復には相当の時間と労力を要するので、当時の太宰の日常の行動からすれば当然に
富栄を伴なうところだろう。大宮での「人間失格」執筆時には富栄はずっと付き添っていたし、
古田らは二人の関係を熟知しているので、単独訪問はむしろ不自然な感さえある。
翌日の自殺を決めていて、二人でそれとなく最後の別れをしたかったということもあろうが、
古田の在宅に望みを託し、富栄を交えず、二人だけで話したいことがあったとも考えられる。
*太宰の望みは叶わず、古田の信州滞在と翌日あたりの帰宅を知った。帰途についた時点では翌日
の自殺決行を決断しただろう。野原によれば、太宰の心中時の服装は、大宮の節子さんが記憶
していた服装と同じだった。 大宮から自宅へではなく、富栄が待つ部屋へ直帰したのである。
(注記) この6月12日の太宰の大宮行に関しては、事実を疑問視する向きもある。
相馬正一は「評伝太宰治」で、野原の記述を引用するにとどまり、
また、山内祥史の「太宰治の年譜」では、このことには全く触れていない。
評伝類の多くは、記述がないか事実不詳としており、事実でなければ
野原の創作(虚構)ということになるが、これは「事実」と認めていい。
根拠は、榎本了著「埼玉文学散歩」(S39)の記述である。太宰は、6月12日夕方、
小野沢氏を訪ねている。(「大宮文学散歩」(大宮市教委・H3/3)が引用)
榎本の記述以後に、地元の研究者らがこれを裏付けている。 (詳細後記)
*太宰の心身に著しい悪化が生じた。(根拠不明だが長篠康一郎に「太宰は病中」の記述がある。) *富栄が、「グッド・バイ」の校正刷を読んで原稿時以上に激しく反応した。 *富栄が、太宰の手帖(執筆メモ)中の富栄関連のページ(詳細後記)を目にした。 *太宰が富栄に別れ話を正面から切り出した。(・・とすれば、なぜこの時に?) *太宰と富栄が、古田・井伏が“御坂峠計画”(詳細前記)を実行に移したことを知った。 |
等々で、あくまでも推測でしかないが、ここで私は、野原の著書「回想 太宰治」(改版1992)の一節
「それにしても、恩師の井伏鱒二先生が、富栄さんとのことを知って『俺を棄てるか、女を棄てるか』
と言ったとしたら、太宰さんはなんと答えただろう。」 には深い意味があるように思えてならない。
井伏は、“御坂峠計画”に関して、「太宰治のこと」(S23/8:<文藝春秋>)(後「太宰治の死」)に、
「私はそれに賛成したが、まだその人が太宰君に云はない間に今度のやうな結果になった。」
と書き、自殺直後の記述の中で “太宰はこの計画を知らなかった” としている。
しかし、井伏の記述はともかく、「太宰はこの計画を全く知らなかった」 と言い切れるだろうか。
例えば、5月下旬の富栄の日記にある “太宰の恋人告白(5/22)” 、“古田関連の記述(5/26)”、
“意味不詳の記述(5/29・6/5)” など(別項)は、この御坂峠計画と関連するのではないだろうか。
「人間失格」執筆で大宮に滞在した太宰の健康状態や体調回復を知った古田は、帰京の頃(5/12)
には、場所などの詳細には触れないで、太宰に “転地療養” を強く勧めていたように思える。
井伏の「をんなごころ」(S24/12)には、井伏は転地療養を勧める手紙を2~3回、太宰に送ったと
ある。古田との連携のことなど手紙の内容は不明だが、時期は5月(S23)前後に違いなかろう。
この状況で、太宰がこの計画の内容と、古田がそれを実行に移したことを知ったらどうだろう。
井伏と御坂峠へ行くか、古田を裏切って富栄との関係を続けるか、どちらを選んでも、
太宰の目には、明日に始まる自分の「生きる」姿がはっきり見えたに違いない。
太宰と富栄の、また関係者らの言動や記述に感じる “なぜ?” や “気になる部分” の多くが、
こうした経緯の後、“太宰は6月8~9日頃に計画の詳細と実行を知った” と考えれば合点が行く。
古田の弔辞に見られた太宰の死に対する特別に激しい心情にも繋がっていると思うが如何だろう。
ちなみに、古田の弔辞について、野原一夫は「含羞の人 回想古田晁」(1982)に、次のように書いている。
「祭壇の前に坐った古田は、しばらく無言で頭を垂れていた。背をまるめた大きなからだが、
今にも前にくずれおれそうに見えた。弔辞をひろげ、読みはじめたが、口もとだけが
わずかに動いていた。私はすぐ近くに坐っていたのだが、声はまったく聞きとれなかった。
その目には涙があふれ、両頬を流れ落ちていた」
弔辞の一節に、「自ら選ばれた御最後故、何も申し上げません。」とある。古田の特別の心情が
込められているようにも思える。(「弔辞」は、塩尻市の「古田晃記念館」所蔵(津島家が寄贈))
推測だが、太宰は転地療養を念頭に、富栄に “別れ”や“死” を仄めかすと、富栄は “その時がきた”
と決めて “死” の準備を始めた。 しかし、太宰の心は揺れ続け、時間だけが過ぎた。決断を迫られ、
6月12日に一人で大宮の古田を訪ねた太宰は、古田が御坂峠計画を実行中であることを確認した。
御坂峠へ行くわけにはいかない。残る道はただ一つ。古田を訪ねた翌日、6月13日の深更、
富栄とともに、富栄の部屋を出た。歩いて数分程度の玉川上水の土手から入水した。
富栄の部屋はきれいに整理され、二人の写真、遺書などが置いてあった。
この日(6/13)は、古田帰京の前日だったが、これは偶然ではなく、太宰が “帰京前の死を
選んだ” のだろう。 富栄が死の準備を整えていたのに対し、太宰の場合には、遺書など
事後への配慮が十分に為されていたとは思えないのはこうした状況によるものと察せられる。
自殺の真因 : 遺書には 「小説を書くのが いやになったから死ぬのです」
太宰が、古田主導の“御坂峠計画”が実行に移ったことを知って、最早これまでと死を決断したとしても、
その根底にある動機は、家庭、女性、井伏・志賀、健康、税金といった生活面の諸問題だけだろうか?
中でも富栄との関係は重大要因だが、そこへ、さらに、“作家の心” が働いたと思わざるを得ない。
“小説が書ける、思うように筆が進む” 状態なら、他の要素にはもっと柔軟に対応できたはずである。
以下、私見だが、遺書には、「小説を書くのが いやになったから死ぬのです」 とあり、この意味をあらためて
考えてみた。 太宰の心奥には、やはり 「小説を書けなくなったから」 があったのではないだろうか。
ここまで次々と作品を発表、なおも執筆依頼は殺到、書き続けたい ・・、 が、筆は思うように運べない。
太宰が、戦後、瞬く間に人気作家となり得たのは、戦前、戦中の国家、社会体制による強力な個人抑圧と
終戦直後の価値観混迷の中で、非凡な才覚をもって的確に反応した作品が高く評価されたからだろう。
個人への強大な圧力に抗えない弱者、被抑圧者の立場、視点で書いた反抗、反俗が支持されたといえよう。
太宰は戦後逸早く無頼派(リベルタン)を標榜し、「パンドラの匣」で、反抗の対象が有っての存在であり、
空気がなければ飛ぶことの出来ない鳩に擬えた。 「斜陽」、「人間失格」など、戦後の多くの作品は、
この意味で太宰の真骨頂を発揮したが、ここにきて太宰は “真空管の中の鳩” 状態だったのではないか。
個人に対する国家、社会の圧力が弱まり、世の中が落ち着きを取り戻すと、リベルタンの影は薄くなら
ざるを得なかった。「人間失格」は、特に「第三の手記」では反抗の対象に世俗性を据えて成功したが、
この世俗性は個人の自由尊重のもとでは強力な普遍的圧力にはなり難い。
しかもこのころ、太宰は社会的には強者の立場、追われる立場だった。「如是我聞」などで志賀や
井伏ら先輩の体質、世俗性を強力で醜い圧力と力説し、「家庭の幸福は諸悪の本」とする一方で
価値基準にキリスト精神(聖書)を据えて反抗・反俗を意味付けるが、所詮は愚痴の域を出ない。
別記したように、この昭和21年~23年には著名な既成作家が活動を再開する一方で、
戦後派といわれる無名の野間宏、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生らが続々登場した。
既成の文学にとらわれない独自の作品、作風が一躍読者の注目・支持を集め、新しい
潮流になっていった。 後に、第一次戦後派と呼ばれるが、第二次戦後派と呼ばれる
三島由紀夫、大岡昇平、安部公房らもいた。
こうした文学・出版界の戦後の流れを見ると、この時期、太宰が猛批判した文壇の旧体質の
圧力は批判に値するほどのものだったか疑わしく、太宰の焦りの気持の表れとも思える。
「人間失格」、「如是我聞 三」脱稿に続いて執筆した朝日新聞連載用の「グッド・バイ」の脱稿部分について、
“筆力に衰えはなく、太宰の新境地進出云々” と高く評価する向きもあるが、普通の通俗小説のようで、
井伏の「サヨナラだけが人生だ」を引用した「作者の言葉」にある創作意図・意欲との間にはズレがあるように
思う。手練の筆致ではあるが創作の意図、主題には手詰まりが感じられる。主人公の名は「田島周二」で、
脱稿部分の別れの相手は愛人の美容師。 小説よりも楽屋裏の方に興味が湧く。 実際、5月(S23)中旬~
下旬の富栄の日記には奇妙な記述があり、太宰が真剣に取り組んだ主題なのか疑わしくもある。
(別記したが、もともと、連載に相応しい心構え、構想、準備をもって引き受けたのかという疑いもある。)
昭和23年1月から半年間、太宰は井伏との訣別をも胸に定め、全精力を傾けて「人間失格」を完成し、
「如是我聞」などで志賀、井伏ら先輩に対する批判、攻撃を徹底的にぶちまけたが、この時、太宰には
虚脱感,、困頓感のようなものがあり、「グッド・バイ」の筆は進まなかったのだろう。しかも、この時点で
引受けていた小説は他にはない。体調面もあろうが、これまでにはないことで、創作上の悩みが窺える。
死の前日、大宮で小野沢さんに 「『グッド・バイ』 がうまく書けない・・」 と洩らしたのは本音だったろう。
戦後、太宰が新たな本領を発揮するには、もう少し時間が必要だったのである。
古田が “御坂峠計画” を立て、実行に移したのは、こうした時期にあたる。
既述のように、太宰はこの計画を知らなかったとされるが、古田が場所など具体的なことには触れないで
“転地療養”の必要性を説き、強力に勧めたとすれば、太宰がそれに応じる気持になってもおかしくはない。
太宰には、転地療養は大宮に籠っての「人間失格」執筆時の体調回復の延長線上と受け止められたろう。
当時の食糧調達は難事中の難事、古田は先の見通しもないのに井伏に出発準備を促し、郷里(塩尻)
へ出発したとは考え難く、これ以前の段階で太宰から応諾の感触を得ていたと考えてよかろう。
ただ、今回は富栄同伴というわけにはいかない。富栄と別れねばならないが、太宰は真正面から別れ話を
切り出せる状況にはない。 そこで太宰は、美知子のこと、架空の恋人のことなどを話し、それとなく
その気持を示すが富栄は動じない。「離れますものか。私にもプライドがあります。」(S23.5.22)と書いた。
太宰は、「グッド・バイ-行進」を書き、さらに「死」をほのめかすが、富栄はすでに “その時” を想定して
「死」の心を決めていた。 富栄が身を引いてくれることを秘かに願ったが・・太宰は窮した。
どうする? 思案するうち、古田は井伏の協力を取り付け、食糧調達を実行に移した。
古田は、連載が始まった 「如是我聞」 の内容に危機感を強め、実行を急いだのだろう。
もし、何らかの状況で、古田が <新潮 6月号> 発売前に 「同 三」 の内容を知ったとすれば、
古田は その時点で直ちに行動しただろう。当時、筑摩書房も 「人間失格」<展望 6月号~>や
「井伏鱒二選集」 で太宰を頻繁に訪ねており、想像でしかないがそのようなこともあり得よう。
古田も井伏も、“太宰の井伏離れの心奥” と “富栄の死の覚悟” を知る由もなかった。
太宰は、井伏との訣別は心に秘めていても、ここで古田をも裏切るわけにはいかない・・
この段階で “御坂峠計画” の詳細と始動を知った太宰には絶望しかなかった。
・・さて、そこで、太宰はどのようにして計画の詳細と実行を知ったかということだが ・・
想像するしかないが、例えば、古田は、6月8日(火)、中央線で新宿駅から郷里の
塩尻駅に向かい、三鷹駅で一旦下車して太宰を訪ねた可能性も零ではなかろう。
あるいは、このころ、古田、井伏が訪問したとか、手紙で知らせたとか・・。
いずれにしろ、富栄の入水当日の日記には 「みんなしていじめ殺すのです。」 とある。
“みんな” は複数。日記の流れから見て 一人は井伏、一人は古田とも読める。
太宰が書き遺した文面 「みんないやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」 も
“みんな” である。 名前は井伏だけだが、古田も含まれるかもしれない。
生活面の苦しみに “創作の悩み” が加わった。活路を拓くべく、富栄との別れを目論んだが、
“富栄の死の覚悟” に戸惑うばかりだった。 そこへ “御坂峠計画の始動” である。
「恩人古田・井伏を捨てるか、愛人富栄を捨てるか」・・ 二者択一の決断を迫られたことになる。
究極の選択は 「書くのがいやになったから」 しかなかったと推察する。
以上、太宰治の自殺の真因は、簡潔に示せば、次の三つの要因が重なったこと(三重の要因)に行き着く。
・創作の行き詰まり ・山崎富栄の死の覚悟 ・“御坂峠計画” の始動
この中の1つでも無ければ、つまり二重までなら、太宰はそのまま “生きる道” を進んでいただろう。
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6月13日深更、太宰と富栄は富栄の部屋を出て、歩いて数分程度の玉川上水の土手から入水した。
富栄の部屋はきれいに整理され、二人の写真、遺書などが置いてあった。
相馬正一著「評伝 太宰治」によれば、そこには、太宰の、美知子宛の遺書の下書きと思われる
破り捨ての「反古」があり、毛筆で次の文言があった。(注:用紙は別々で2枚)
「永居するだけ皆をくるしめ こちらもくるしく
かんにんして被下度 子供は凡人にても お叱りなさるまじく」
「皆、子供はあまり出来ないやうですけど 陽気に育てて下さい
あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです
小説を書くのがいやになったからです
みんな いやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」
(この「反古」に関しては、長篠康一郎による「発見時は反古ではなかった」という指摘があり、
<朝日新聞>(S23.6.16)と<新潮>(H10/7)の写真、記事などを参考に、詳細を後記した。)
この文言の中で、特に「井伏さんは悪人です」については、当時から関係者らに多くの記述がある。
遺書の公開は一部(後記)なので太宰の真意ははっきりしないが、 ここで太宰の胸中を考えてみた。
戦後の太宰は、戦後の新しい時勢に便乗して保身、利得を図る風潮を“新型便乗”として嫌悪し、
自らを無頼派と称して反発した。 太宰が前年(S22)12月に京都にいる堤重久を東京に招いた際
のハガキに、「みんな 、イヤシクて いけねぇ。乞食みたいな表情をしてゐる。」 とあるが、太宰が
この風潮を「イヤシイ 」と捉えていたことを意味しよう。そして、このころの太宰は、実際に金銭問題
にも煩わされたが、それよりも何よりも、流行作家になったことで作品への注文や批判、
私生活に対する非難、誹謗、中傷など、強烈な向かい風を受け、圧力を感じていたはずである。
太宰にしてみれば、そうした圧力は文学の本質とは無関係の「イヤシサ」に発するとしか思えず、
「如是我聞」で猛反発したが、その筆致を異常と感じたであろう井伏に執筆中止を求められた。
作家として純粋に作品に情熱を燃やし、そのまま燃え尽きることは望むところであっても、
周囲は理解せず、井伏までもが太宰の意思、行動を束縛する不条理、世俗性を怒ったのだろう。
太宰が「御坂峠計画」の詳細を知ったとすれば、その思いは一層強かったはずである。
そして、「井伏さんは悪人です」 を掘り下げると、以下に示すような時の流れと
人の心の複雑な絡みがあり、太宰自身の生き方も反映されていると見ることができる。
*太宰と井伏との関係の変化
井伏が疎開先の福山から帰京(S22/7)した頃から、太宰と井伏の関係は大きく変わった。
井伏は、「太宰には戦後三回しか会っていない」 と疎遠になったことを書いている。
井伏がいうこの3回というのは、諸資料に照らすと次の3回とみてよかろう。
1回目、昭和22年7~8月頃、山崎富栄の部屋で「井伏鱒二選集」の打ち合わせ(別項参照)。
2回目、昭和23年元日の太宰の井伏宅への年始訪問。(直後に先輩批判を開始-別項参照)
3回目、4月3日(S23)、山崎富栄の部屋で井伏の知人が睡眠薬を大量服用して井伏が訪問。
(富栄の日記から、この時、井伏は「如是我聞」の執筆中止を求めたことが窺える)
なお、昭和23年2月号の 「小説新潮」 に、太宰と井伏の2ショット写真が載っている。
この撮影日は、上記三回のいずれとも考え難いので、この3回以外にも会っていることになる。
「小説新潮」(S23/2月号)の「文壇親交録」はグラビア特集で、井伏・太宰の
ページは、森の大きな木の下の茂みで二人がにこやかに談笑する姿である。
写真の下の欄に、井伏による文章があり、撮影は 北野邦雄とある。
井伏の文によれば、二人並んだ釣り堀での釣り姿か、森での散歩姿を撮る予定のところ、
太宰が仙台平の袴で来たので井伏宅(杉並区清水町)近くの森での撮影になったという。
撮影日の推定・・この写真は、山崎富栄の日記などから、昭和22年11月初旬頃の撮影と推定できる。
富栄の日記(11/21)から抜粋 = 「・・略・・ 小説新潮の女のかたもおみえになる。
井伏先生と、ご一緒に写されてある御写真を拝見する。私も欲しいわ。」
この日記や、写真の仕上がり日数、服装、釣り姿が予定にあったことなどから、撮影は遅くとも
11月初旬だろう。 とすれば、太宰は上記以外にも昭和22年中に井伏宅を訪れたことになる。
「小説新潮」に載った写真は1枚だが、この時には他にも何枚か撮っており、
出来上がった写真を女性記者が11月21日に持参、富栄もそれを見たのだろう。
参考サイト (写真) 太宰治と井伏鱒二の2ショット 日本近代文学館 → 写真検索 → 太宰治(P0002250) 同じ時に撮ったが、 「小説新潮」に載らなかった写真 ----------------------------------- 二人の表情は厳しい。2枚の写真で全く異なる二人の表情は、 この時の両者の心の内を表象するかのようだ。 |
さらに推測・・このころ、「斜陽」(S22/7-10<新潮>)は大好評、太宰は「井伏鱒二選集(一)」の後書を
執筆していた。太田静子の出産を知る(11/15)前である。太宰が井伏とのグラビア「文壇親交録」の
企画に応じたのは、井伏に対する複雑な心情はあっても、まだ落ち着きがあったということだろう。
釣りの場面でなく散歩姿になったのは、太宰の思惑、バランス感覚が働いていたように思える。
ちなみに、後に 「小説新潮-創刊200号記念号」(S36/2)は、過去のグラビア特集をしており、
この写真を 「昭和23年1月号のグラビア」 として載せている。(正しくは「2月号」)
この号に井伏は新たに説明文を書いているが、昭和23年時の内容とは異なり、“企画に従って
釣りの仕度で待っていが、太宰が羽織袴姿で来たので、急遽、森での撮影に変えた” とある。
事実は?だが、この間13年、時の流れがあって事実が明かされたのではないだろうか。
終戦直前(S20/7)に、疎開先の甲府で別れてからも、文通で師弟としての良好な関係が
続いていたが、なぜ井伏の帰京(S22/7)直後頃から変ったのか、主に二つの見方がある。
① 太宰は美知子との結婚に際し、井伏に、“家庭を大事にします”という誓約書を提出したが、
帰京後は、自宅以外に執筆のための仕事部屋を持ったこともあって家庭は疎かになった。
特に二人の女性との関係が深まり、井伏が疎開から東京へ帰った時(S22/7)には、
太田静子は太宰の子を宿し(S22/11出産)、富栄との仲は後戻りできない状態にあった。
太宰は、井伏に顔向けできず、避けざるを得なかったという見方である。
② 井伏の小説「薬屋の雛女房」(S13)と関連付けた、川崎和啓著「師弟の訣れ-太宰治の .
井伏鱒二悪人説-」(H3(1991)/12<近代文学試論>)の論考がある。
昭和22年の夏頃、太宰が企図した「井伏鱒二選集 全九巻」(当初は「全七巻」との論考も
ある)の発刊が決まり、太宰が全巻の後書を書くことになった。この関係で、太宰は過去の
井伏作品を再読し、「薬屋の雛女房」を目にした。初見だった可能性があり(たとえ再読と
しても)、その内容に驚愕、激怒し、井伏への信頼は一転して強い不信に変わった。
それが昭和22年夏頃からの井伏嫌忌となり、その暮には志賀直哉と同列の<悪人>と
みなす意識になっていた・・井伏との訣別、遺書の文言「井伏さんは悪人です」は、
この作品を読んだことに発している、という考察である。
(「薬屋の雛女房」発表は、井伏が仲介した太宰の石原美知子との見合い(S13/9)の
時期に重なり(S13/11婚約)、太宰の「姥捨」(S13/10:<新潮>)発表とも重なる。
太宰は東京を離れており、これらの状況から、読んでいなかったことも考えられる。)
なお、参考まで・・、井伏が帰京(S22/7)した年の、井伏の太宰への接し方が窺える書簡がある。
「昭和22年9月4日付」と「同12月10日付」の太宰宛の書簡で、ともに太宰の病気を
伝え聞いた時の見舞状である。儀礼的ではなく、太宰を気遣う温かい気持ちが十分に
読みとれる長い手紙だが、「斜陽」をもって一躍名を高めた太宰に対し多少の遠慮が窺え、
井伏から積極的に会おうという姿勢ではない。井伏は太宰の生活実態を詳しくは知らず、
また、自らそこに関与すべきことでもなく、むしろ距離をとる気持があったのかもしれない。
ただ、9月4日付の文中にある「節酒の勧め」と「太宰の見舞いお断り」とは “要注目” だろう。
*「或ひは僕は文治さんに手紙を出すやうなことになるかもわかりません。『貴殿御令弟儀、
聊か酒がすぎるやうなところ有之、友人のいさめを用ゐず五体を自ら苦しめ云々。』どうか
さういふ手紙を出さないでもよいやうにしたいものです。」(註:この時、文治は青森県知事)
井伏は、旧知の気安さから軽く、半ば冗談ぽく書いたつもりかもしれないが、過去の価値観、
柵からの解放を標榜する太宰としては不快というより、反感、不信感を覚えたかもしれない。
*井伏は、筑書房摩の石井から、太宰が病に臥していると聞き、見舞いに行こうとしたところ、
「見舞いを受けることは断じて御免を蒙りたい」との伝言であるとのことに、これを断念した。
以前の二人には考え難い流れで、太宰の側に何らかの事情、わだかまりが窺える。
「薬屋の雛女房」を読む前か(この可能性が大と思うが)、読後かは定かでないが、
この時点(S22/9初旬)において、二人の感覚のズレ、関係の綻びが感じられる。
付言すると・・、前記したように、井伏・太宰の「文壇親交録」写真と、富栄の日記(11/21)とから、
この段階(S22/11)では、「薬屋の雛女房」は読んでいないか、読んでいたとすれば、
井伏に対して心の中に複雑な思いを抱いてはいても、それが直ちに井伏離れに繋がるような
激烈なショックではなかったということになろう。
太宰の井伏批判が始まるのは、昭和23年に入ってからで、その根本は井伏の “世俗性”、
つまりは “家庭の幸福は諸悪の本” にあり、「薬屋の雛女房」 との関連は直接的ではない。
「人間失格」は、「HUMAN LOST」以来10年間にわたり温めていた主題で、太宰は、
そこに薬局でモルヒネを購入する出来事を書き、むしろ冷静に見つめているように思う。
昭和22年夏~秋に 「薬屋の雛女房」 を初めて読んで驚き、怒ったとしても、それは、
選集第二巻の 「後書」 や 「如是我聞 三」 で指摘した井伏の “手抜き作品” の一つ
としての位置付けで、井伏の世俗性に対する不快感だったと考えることもできるだろう。
戦後の太宰が特に嫌悪したのは戦後思想、時流に阿ねる “新型便乗” で、過去には口を
つぐんで保身、利得を図る世相・風潮だった。太宰は “いやしい” という表現にこの意味を
込め、中でも文化人と呼ばれる人たちのこうした世俗性を 「悪」 としたと解するが如何だろう。
なお、この川崎の論考に関しては、次の別項目に詳記した。(H30/6 UP)
太宰治「井伏さんは悪人です」は、井伏鱒二『薬屋の雛女房』が主因か?
*先輩批判・井伏との訣別
私見になるが・・、戦前・戦中の太宰は、津島家や社会、国家からの強烈な圧力に抗するため、
井伏といういわば防波堤の内に身を置いたが、戦後、その圧力が消えると、その防波堤は外へ
出るには疎ましい存在に変った。私生活面では井伏に合せる顔が無い状況の中で井伏の旧作を
再読すると、「薬屋の雛女房」が初見かどうかはともかく、例えば「青ヶ島大概記」(S9/3)のように
ときに安易な作品作りがあることが目に付き、また井伏の生活、生き方の世俗性も鼻に付いた。
このとき、太宰の目には、井伏もまた、戦後の新しい時勢に便乗する我が身可愛さの俗人、
世渡り上手と映ったようだ。「井伏鱒二選集 二巻~四巻」の太宰の後書にはその反映があり、
特に「同 第四巻(S23.4.27.口述)」に旅行上手の井伏と旅行下手のことを対照的に書いたのは
象徴的である。昭和10年代の太宰は、井伏を頼り、その仲間たちとともに生きてきたが、戦中
から戦後の文学的成功で知名度、作品の売れ方は井伏らを凌駕し、独立路線に転じたことで
自分の文学とその方向、生き方は根本的に井伏らとは異なることを明確に意識したのだろう。
太宰は、「十五年間」(S21/4:<文化展望>)の中で、日本の文壇を “サロン芸術” という表現で
否定したが、先輩に対する不信、批判が具体的に読みとれる最初の記述は、昭和23年1月8日
に起稿し、中旬に脱稿した「美男子と煙草」(S23/3:<日本小説>)の冒頭部分である。批判対象は
“古いもの”、“年寄りの文学者” とあり、志賀直哉による太宰批判(S23/1:<文学行動>)への
反発を思わせるが、井伏も対象の一人と読める。この冒頭部分は、本文とは直接の関連は無く、
一週間前の井伏宅年始訪問(別記参照)の状況を題材にして付け加えたようにみえる。
この年始に、井伏は結婚時の誓約書を絡めて太宰の実生活を強く窘め、また、偶々一緒になった
先輩らは志賀の発言を知ってか、口を揃えて太宰の作品や女性関係などを批判したのだろう。
直後に執筆した「如是我聞 一」の批判対象は “老大家” だが、志賀直哉であることは明らかで、
「馬鹿学者」、「馬鹿文豪」という言葉を使って先輩文学者の批判を続けることを宣言している。
「如是我聞 二」では、いわゆる “外国文学者”、“翻訳・評論” に対し辛辣な批判を繰り広げている。
担当編集者(新潮社・野平)によれば、太宰は執筆に意欲を燃やし、1年間の予定だったという。
「家庭の幸福は諸悪の本」と書いた小説「家庭の幸福」は同時期(S23/2頃)の執筆で、「如是我聞」の
先輩批判に呼応している。初出(S23/8 <中央公論>)は死後・・何か事情があったのか、一寸気になる。
(「如是我聞」については、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」 に詳記)
太宰の先輩批判がはっきり読み取れる作品を次表にした。(脱稿順 - 山内祥史の年譜による)
作品名 | 脱稿 | 初出 | 初出誌 | 種別 | 備 考 |
十五年間 | S21.1.中旬頃 | S21/4 | 文化展望 | 随筆 | 文壇のサロン体質を批判 |
美男子と煙草 | S23.1.中旬 | S23/3 | 日本小説 | 小説 | 先輩の文学論や若者への姿勢を批判 |
如是我聞 一 | S23.2.27 | S23/3 | 新潮 | 随筆 | “老大家”たちへの抗議 |
徒党について | S23.2.29頃 | S23/4 | 文藝時代 | 随筆 | 仲間作り、仲間褒め批判 |
井伏鱒二選集(二) 後書 | S23.3頃まで | S23/6 | 筑摩書房刊 | 他 | 井伏の安易な作品作りを皮肉る |
家庭の幸福 | S23.2末頃 | S23/8 | 中央公論 | 小説 | 家庭のエゴを「諸悪の本」と看破 |
如是我聞 二 | S23.4..6 | S23/5 | 新潮 | 随筆 | 外国文学者、評論家を批判 |
井伏鱒二選集(三) 後書 | S23.4.7頃 | S23/9 | 筑摩書房刊 | 他 | 井伏の小心、俗人性を揶揄 |
井伏鱒二選集(四) 後書 | S23.4.27 | S23/11 | 筑摩書房刊 | 他 | 井伏の俗物性、世俗性を皮肉る |
人間失格 第三の手記 | S23.5.10頃 | S23/7・8 | 展望 | 小説 | 作中の「堀木」は井伏に重なる。 |
如是我聞 三 | S23.5.中旬 | S23/6 | 新潮 | 随筆 | 先輩を批判・志賀直哉は名指し |
如是我聞 四 | S23.6.5 | S23/7 | 新潮 | 随筆 | 志賀直哉攻撃を激化 |
. | . | . | . | . | . |
「手帖(23)」のメモ | 太宰の “執筆メモ” - 「井伏鱒二ヤメロといふ、」に始まる井伏への批判などを書いた。 |
先輩批判は、<新潮>連載の「如是我聞」のほか、随筆「徒党について」、小説「人間失格 - 第三の手記」と
続くが、「如是我聞」は、内容的にも文章表現的にも、誰が読んでも異常と感じておかしくないほど独善的、
感情的で、富栄の日記(S23.4.3他)などから、井伏は、遅くとも「如是我聞 一」の段階の4月上旬には
太宰に執筆中止を求めたことが分かるが、太宰は聞き入れず、疎遠というより訣別に向かったのである。
太宰が自分の手帖 (鎌倉文庫作成の手帖(S23用)) に、「井伏鱒二ヤメロといふ、」 に始まるメモ
(次項に詳記)を書いたのは、富栄の日記などから、この4月上~中旬(S23)頃と推測できる。
もう、井伏の世話にならなくても独歩できる・・、というより井伏との関係を絶った方が
さらに自由に思いのままの道を歩ける・・、この時は、そんな自信、確信を持ったように見える。
井伏に「如是我聞」の執筆中止を求められた直後に執筆した「人間失格 第三の手記 」 は、このメモに
通じるところがあり(“堀木” は井伏に重なる)、さらに同時期執筆の「井伏鱒二選集(三)」、「同 (四)」
の後書を合せると、これらの作品に、井伏に対する激しい複雑な心情(訣別)を反映させたといえる。
さらに、「人間失格」脱稿に続いて5月中旬に執筆した「如是我聞 三」 は、先輩批判の標的として
志賀直哉を名指しにし、名指しではないが、川端康成を “茶坊主、卑しく痩せた俗物作家”、
師の井伏を “後輩を否定し入院させる先輩、自分の作品は手抜き、おけら” と罵った。
直ぐに続けた 「同 四」では、志賀への感情的、逆上的攻撃を一層激しくした。これは、このころに
読んだ雑誌、<社会>(S23/4・鎌倉文庫)と<文芸>(S23/6・河出書房)の座談会での志賀による
太宰の小説 「斜陽」、「犯人」 批判発言に対する反発、怒りの強さを示している。
前進あるのみ、後戻りは慮外となった。
なお、「太宰治全集」巻末の解説など、過去の主要文献の多くは、<社会>(S23/4・鎌倉文庫)
に触れていないが、「如是我聞 三」の「速記録」に関する記述は、この<社会>の発言である。
詳細は、後記の志賀直哉の発言 “三連弾”:これで太宰は「如是我聞」に走った 参照。
“守旧派(悪) 対 改革派(正)” とする対決の図式がある。太宰がそれを明確に意識したかは分から
ないが、戦後時代の新たな視点として “聖書” を価値基準に置き、古いものや過去の柵(しがらみ)を
志賀直哉に象徴させて “悪” と位置づけることで文学活動を続けようとしたのではないだろうか。
井伏離れは、井伏に顔向けできない私生活上の諸問題、井伏の作品作り、世俗性への嫌悪感に
加えて、太宰の戦後の文学活動上の立ち位置を明確にする必要があったためと思えるのである。
「如是我聞」は、いわば太宰の “独立宣言” であり、再出発の決意表明だったといえよう。
私見を加えれば・・「人間失格」でそれまでの太宰文学の “総仕上げ” を果たした太宰は、
作品の質の問題は別にして、「如是我聞」において作家としての独立・再出発の覚悟を示し、
「グッド・バイ」では乱れた私生活の清算と家庭回帰を表明したかったように思う。
この連続執筆三作品は、死ではなく “新たな生” に向かう三連作だったといえよう。
が・・、前記の通り、たちまち、前進が極めて困難な状況に立ちいたり、“死” を選ぶしかなくなった。
そこで、「井伏さんは悪人です」だが、これは「手帖(S23)」にある「井伏鱒二ヤメロといふ、」に始まる
メモ(別掲)の結論である。したがって、井伏の世俗性を衝いたこのメモがこの文言の本体といえよう。
「如是我聞」執筆を止められたこと、つまり、太宰の戦後文学への新たな挑戦を世俗の
価値基準で束縛されたことが悔しく、嫌悪感を抑え切れなかったように思える。
“御坂峠計画” の始動を知った太宰が、これが最後と無念の思いを込めたのだろう。
この文言は、美知子あての遺書(別掲)の中にもあるといわれている。そうだとすると、「井伏さんは
俗物・偽善者、世俗の価値観でしか生きられない いやしい人だ。自分は井伏のお為ごかしに乗せ
られて利用されてきた。かっての井伏の世話はうれしくなかった。」 という複雑な思いを伝えたこと
になるが、末尾に加筆(強調の手法?)した 「お前を誰よりも愛してゐました」 と合せ、太宰が最後に
美知子に伝えたかったことの真意は何だろう。太宰の心奥は “津島修治のみぞ知る” である。
メモ(別掲)の末尾 「イヤな事を言ふやうだが、」 以下は、“逆恨み” というより妄言の感さえあるが、
太宰自身が、自身の文学的欲望のために生涯にわたって井伏を利用したことを物語ってもいよう。
俗物の、さらにその上を行く俗物にして名作の数々・・、つまりは天才ということになろうか。
「井伏さんは悪人です」 なら・・、津島修治/太宰治は??
(本項 ( 6. 「井伏さんは悪人です」) は H27/2 一部追記)
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== 関連する重要参考資料 ==
この文面を、長篠は、“美知子夫人宛と思われる遺書” とし、次の通り活字にしている。
なお、太宰の遺書に関して、田中英光に次の記述がある。田中は実物を読んだとみてよかろう。 「書簡類」や「断簡零墨」にも触れているが、田中は、次項に記す太宰の手帖の“執筆メモ”をも 目にしたのかもしれない。 太宰と遺された家族への思いを込めた田中の一文である。
----------------------------------------------- *太宰の遺書については、松本侑子著「恋の蛍」(H21:第29回(H21)新田次郎文学賞 受賞作品)に次のようにあるが、清書された遺書の根拠(出典)は示していない。 「美知子あてには、まず下書きをした。 ―上の「写真A」の部分(永居するだけ~三社にウナ電)― それから清書をした。 津島美知様 (略)子供は皆、あまり出来ないようですけど 陽気に育てて やって下さい たのみます ずいぶん御世話になりました、小説を書くのがいやになったから 死ぬのです みんな いやしい欲張りばかり 井伏さんは悪人です 津島修治 美知様 お前を 誰よりも 愛していました」 ここには、公開部分にはない 「~井伏さんは悪人です」 の文言が明記されているが、 著者が事実を確認した様子はない。一方、公開された6枚目の文言は抜けている。 つまり、この「清書した遺書」は著者の「推測による遺書」で実物とは一致しない。 小説上とはいえ、一般に誤解を招く記述ではないだろうか。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ★ 「太宰の手帖(昭和23年用)」の執筆メモ ★ 平成7年(1995)に青森県近代文学館が開催した「特別展・太宰治」に際し、美知子未亡人は、 太宰が遺した「手帖」2冊(昭和22年用と昭和23年用)など多数の資料を提供、寄贈した。 同館は、平成13年8月(2001/8)に、この「手帖」を原寸大の写真版にして 「資料集 第二輯 太宰治・晩年の執筆メモ」 として公刊した。 この「手帖」は、久米正雄、川端康成らが設立した「鎌倉文庫」が作製した文筆家向けの 1年用のポケット手帳で、 主体は、見開き2ページに日曜日~土曜日の日付とメモ用空欄の 計8コマを52週間分印刷した日記形式である。 太宰はこの手帳を普通のメモ帳のように使い、日付とは関係なく、思いついたことを、適当な 空いたページにメモった。(ほとんどがなぐり書き的である)。 内容的には“執筆構想メモ”で、 昭和22年用はほとんどが「斜陽」だが、昭和23年用には 「人間失格」、「如是我聞」、「井伏鱒二選集-後書」、 「高尾ざんげ(豊島與志雄著)-解説」、「眉山」、「グッド・バイ」、ほかに、その時の胸中など多様な内容である。 ★ 特に、昭和23年用手帖には、井伏に関するメモも多数あり、自殺直前の太宰の複雑な心情を 窺うことができるが、参考までに、まず最も注目すべき驚きの部分を次に抜粋(活字化)する。 「如是我聞」、「人間失格 第三の手記」、「井伏鱒二選集 後記」を執筆の、4月中旬頃の メモと思うが、井伏批判というより逆ギレ的な悪口雑言・・坂口安吾が「不良少年とキリスト」 (S23/7<新潮>)にいう “フツカヨヒ的” ということだろうか。 冒頭の「井伏鱒二 ヤメロといふ」は、「如是我聞」執筆中止要求のことと考えてよかろう。 女性関係や大量飲酒癖などの生活ぶりも咎められ、過激反発になったのかもしれない。 この文章そのままではないが、同じ趣旨の記述が 「如是我聞 三」 にみられる。
(「如是我聞」については、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」 に詳記
( 註) 実物は、3月18日(木)から4月15日(木)のページまでの9ページに
(註) 実物は、「置く」の「く」が抹消され、「して置 ただし、完成本の「後書」にはこの文言ないしこの趣旨の文言は入っていない。 ★ そして、「11月の欄」にある次の記入にも井伏への強烈な心情がにじみ、注目に値する。 ・ 「11月11日(木)のページ」にある縦に三行だけの記入。
書いた時期は不明。前後のページとの関係は無さそうに見える。 「君たち」とは誰か?複数なのか? 「不可能な要求」とは? 「太宰の文学、生活に対する注文(批判)」や「『如是我聞』執筆中止要求」のことか・・ 「御坂峠計画実行」とするのは考え過ぎだろうか? ・ 「11月21日(日)のページ」にある縦書きの明瞭な記入。
書いた時期は、直前のページ(11/18(木))に、「人間失格」中の有名な一節、(世間が、ゆるさない) (世間というのは、君じゃないか)に関するメモがあることから、5月初旬とみてよかろう。 井伏に対する強い反発がここにもはっきり読み取れる。(「如是我聞 三」にもこの趣旨が入っている。) このほか、井伏の小説「薬屋の雛女房」との関連も思える「薬局の女 パビナール 気狂病院」 とか、 「十年前を思ひ出す、そのフクシュウ、キチガヒにされた、」、「若者の言ひぶんも、聞いてくれ!」 などの 文言が散らばり、「人間失格」、「如是我聞」の背景にある井伏、志賀らへの激しい心情が読み取れる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ところで ・・ちょっと気になる記述・・ 太宰と太田静子が会ったのは、昭和22年5月24~25日(三鷹)が最後とされている。 本HPもそのように記してきたが、上記の “メモ” の次の記述がちょっと気になる。 左のページの上部(縦書の3行を、右→左に読んで) ・・ 闇市場「縁日みたいね」 なんといふ下手くそ、 いまわかれて来た人は、 右のページの下部(縦書の2行を、右→左に読んで) ・・ 宿ニオイテキタ子、 イヅ、 子供ヅレ、 意味はよく解らないが、太田静子に関わるイメージではないだろうか。 ひょっとして、会っていた? もし、富栄がこのページを目にしたとすれば・・、衝撃の度は計り知れない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ★ 志賀直哉の発言 “三連弾” - これで太宰は 「如是我聞」 に走った ★
おける相手への評価については、生井知子著「白樺派の作家たち」(2005・和泉書院)所収の 「志賀直哉と太宰治 -「如是我聞」の解釈の為に-」(1998) が参考になる。 (「如是我聞」・「志賀発言」に関する詳細は、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」) (「志賀直哉の発言“三連弾”-これで太宰は「如是我聞」に走った」の項 H27/2UP) ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ ★ 心中前日の太宰の大宮訪問:榎本了著「埼玉文学散歩」(S39/5) ★ 著者の榎本了は埼玉県出身(1923年生)で、埼玉県立高校教諭、県高校国語科教育研究会 副会長等を歴任、文学散歩友の会・埼玉県詩話の会々員。文学散歩関連のほか著書多数。 「埼玉文学散歩」は、昭和39年(1964)5月発行(東松山文学散歩友の会)である。 太宰治に関しては、「大宮市」と「太宰治の大宮の仮住い」の項に記述があり、 「人間失格」を執筆した部屋内外の写真三枚を載せている。 内容は、「人間失格」執筆時の様子、心中前日(S23.6.12)の夕方に太宰が大宮を訪問 した時の様子などで、本書以外にはみられない小野沢氏の感想を記した箇所もあり、 明記はないが、小野沢氏と面談したものと認められる。写真3枚もその時の撮影だろう。 (本書を引用した「大宮文学散歩」(大宮市教育委員会・H3/3)は、本書の 写真中1枚を載せているが、それには、「撮影・榎本了」と明記がある。) 榎本の「埼玉文学散歩」後に独自に取材した次の資料(記事)はこれを裏付けている。 ・関田史郎著「埼玉の文学めぐり」(S47/11:富士出版印刷) ・「読売新聞・埼玉版-まちかど新風土記」(S50-S51連載:「大宮」) (「まちかど新風土記 中山道の巻」所収 (S52/2:信陽堂)) 野原は、これらの著書を読んだ後に大宮を訪問して執筆したと思えるが、 そのことはともかく、各々が別個に太宰のこの日の行動を取材している。 主要年譜、評伝類では軽く扱われている心中前日の太宰の大宮訪問だが、 最晩年の太宰の作品(「人間失格」・「如是我聞」・「グッド・バイ」など)や、 太宰の心情、心中決行を思うとき、事実として重く認識すべきだろう。 (「心中前日の太宰の大宮訪問:榎本了著「埼玉文学散歩」(S39/5)」の項 R1/8UP) ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
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