太宰治の自殺(玉川上水心中)の核心

== 5月には 快調な「生」 を得ながら、6月には 「死」 を決行した理由 ==


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太宰治は、昭和23年(1948)6月13日(日)に 三鷹の自宅に近い玉川上水で山崎富栄(以下、富栄)と
入水心中した。遺体の発見は6日後の6月19日で、この日は奇しくも太宰の39歳の誕生日だった。

太宰の命日は6月13日とされるが、毎年 この6月19日を 「桜桃忌」とか.
「生誕祭」と名付けた催しが太宰ゆかりの各地で行われる。 没後約70年、
太宰を直接知る人は僅かになったが、多くの太宰ファンが会場に集う。

(別記 「太宰治:桜桃忌 と 生誕祭」 に詳記)


太宰も富栄も遺書を書いたが、自殺の理由やこの時に決行した理由などは明らかでない。

太宰は、大宮で「人間失格」を執筆中に、妻美知子宛に次のようなハガキ(S23.5.7付)を書いた。

「ここの環境なかなかよろしく、仕事は快調、からだ具合ひ甚だよく、一日一日ふとる感じ。」

脱稿して帰京する際には、「グッド・バイ」 もここで書きたいと家主に頼んでいる。

また、執筆中、ずっと付き添い、脱稿して一緒に帰京した日の富栄の日記(S23.5.12)には、

「おふとりになって、そしてお声も御元気そうにおなりになって、うれしい。
このままの調子で夏を越し、秋を迎えて、今年も無事に過ごしていただきたいものです。」 


とあり、このとき、二人の胸中にある明日は、「死」ではなく「生きる」である。

・・が、この1ヶ月後が入水心中。そこで、本項は次のことを中心に考えた。

・ 昭和23年6月7日の時点で、数日内に自殺する気持があったか?

・ 6月8日から11日までの4日間の太宰の言動は、全く不明である。

・ 6月12日に古田晁を訪ねたが会えずに、翌13日深夜に入水した。

・ 古田と井伏の「御坂峠での太宰長期静養計画」は実行段階だった。

・ 遺書の一部 「小説を書くのがいやになったから死ぬのです」 の意味。

・ 遺書の一部といわれる 「井伏さんは悪人です」 の意味と “執筆メモ”。

昭和23年に、太宰が富栄のほか特に親しく接していた人物は、古田晁(42歳・筑摩書房社長)、
野原一夫(25歳・新潮社→角川書店)、野平健一(25歳・新潮社)、亀島貞夫(25歳・八雲書店)、
石井立(筑摩書房若手編集者)、豊島與志雄(太宰より19歳年長の作家)、増田静江(仕事部屋に
した小料理屋「千草」のおかみ)、である。太宰と富栄の入水直前の言動に関する多くの情報を
提供した人々で、野原、野平、亀島には次のような回想文などがある。

野平健一・・「如是我聞と太宰治」(1948:「太宰治全集11(随想)」所収) 
「矢来町半生記-太宰さん三島さんのこと、その他」(1992:新潮社)
野原一夫・・「回想 太宰治」(初版1980・改版1992)、「太宰治 人と文学」(1981)
「太宰治 生涯と文学」(1998)、「含羞の人 回想の古田晁」(1982)
「生くることにも心せき 小説・太宰治」(1994:ドキュメンタリー的小説)
亀島貞夫・・「太宰治との別れと死」(1976:「太宰治に出会った日」(1998)所収)

本項の主な参考書は、これらと、山崎富栄の「愛は死と共に」(長篠康一郎編:1968:日記の死後公開)、
津島美知子著「回想の太宰治」、山内祥史著「太宰治の年譜」、相馬正一著「評伝 太宰治」などである。

    1. 昭和23年6月7日(月)の時点で、数日内に自殺する気持があったか?

太宰の戦後の行動、特に金木町疎開を終わって帰京(S21/11)してからの言動は、本人や関係者の記述
などではっきりしている部分が多い。自殺直前の文学活動と私生活面の状況をまとめると次のようになる。
これらを総合すると、昭和23年6月7日の時点において、太宰は多くの大きな悩みを抱えていたが、
文学活動は活発で、数日中に自殺しなければならないほど差し迫った状況ではなかったことが判る。

文学活動・・太宰は、別記の作品一覧で判るように、戦中に続き戦後も早い時期から名作と評される数々の
小説を発表した。無頼派の旗手、人気作家、流行作家として超多忙な執筆生活を送り、その名は「斜陽」
(<新潮>:S22/7-10)によって全国に隈なく知れ渡った。(「斜陽族」は、世間一般の流行語にもなった。)

太宰治 : 作品一覧

当然ながら原稿依頼は相次ぎ、有力雑誌にほぼ毎月短編小説を発表しながら、筑摩書房創設者古田晁の
協力があって昭和23年5月10日頃に太宰長年の念願だった「人間失格」206枚を脱稿すると、続いて
朝日新聞に6月20日頃から約80回連載予定の小説「グッド・バイ」を起稿し、5月27日には10回分
(「怪力三」まで)を脱稿、6月3日頃にはさらに3回分を加え13回まで(コールド・ウォー(二))を脱稿した。
雑誌<新潮>連載中の「如是我聞」は、第4回を6月4日~5日に編集記者の野平健一に口述して完成し、
その文末には、さらに書き続ける意思を明確に示している。

ちなみに、その文末は次の通り = 「・・・。 ヤキモチ。いいとしをして、恥かしいね。
太宰などお殺せなさいますの? 売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。」

・・・ そもそも、近々中の自殺実行を決意した人間が、
この「如是我聞」の如き文章を遺そうとするだろうか・・

太宰自身が意欲的に取り組んだ八雲書店の「太宰治全集」(当初予定は全16巻)刊行は、太宰の細かい
注文の下で進行し、第1回配本(第二巻「虚構の彷徨」)は4月(S23)に行われ、第2回配本準備中だった。
同様に、太宰が主導した筑摩書房の「井伏鱒二選集」(全九巻予定)は、第二巻が6月(S23)刊行予定で
進行しており、太宰は全巻執筆する約束の「後記」を第四巻まで書き終わり、以降分も続けるはずだった。
当時の文献資料中に、太宰がこれらへの関与を放棄する意思を示したという記述は見当たらない。

私生活・・太宰は、疎開から帰ると(S21/11)、いわばマスコミの寵児となり超多忙な文学活動となったが、
同時に心安らかな平穏な日常生活を失った。このころの状況は「太宰治の項」に詳記したが、6月(S23)
の時点で、家族(妻34歳、長女・7歳、長男・3歳10カ月、次女・1歳2カ月)との関係(特に長男の成育の
遅れ)、二人の女性(太田静子(治子を出産)と山崎富栄)との関係、文学活動における志賀直哉ら
文壇有力者への反発、生き方の違いが鮮明になった井伏への心情、新たな文学・出版関係者らとの
付き合いに伴うストレス、自身の著しい健康不調(肺結核進行・度々の喀血?)、それに想定外の
多額の課税通知(S22分所得税) 等々が重なり、心身ともに疲弊の極に達していたことは確かである。

なお、太宰と太田静子、山崎富栄との関係については、次の項に詳記した。

太田静子 = 太宰治と太田静子と「斜陽」    山崎富栄 = 太宰治と山崎富栄と「人間失格」・「グッド・バイ」



さて、そこで・・これらの私生活上の問題が自殺の動機になることは十分考えられ、また、病気の進行を
自覚し、最早、死が近いと覚悟していたかもしれない。が、だからといって、
6月7日の時点で、数日内に自殺を決行する気持があったとすることには無理があろう。

むしろ、6月5日(土)~7日(月)の太宰には死に向かう姿はなく、生活継続が前提の行動であり、
富栄の日記の記述も、一週間後に死に向う気配はなく、日常生活が続く流れである。

6月5日は、野平の 「如是我聞と太宰治 」によれば、太宰は「如是我聞 第4回」を前夜からの徹夜で
野平に口述して完成し、日も中天という時刻に野平に送られて「千草」の仕事部屋から自宅へ帰った。

6月6日は、山内祥史著「太宰治の年譜」に、「朝、何時ものように『仕事部屋に行ってくるよ』といって、
気軽に家を出たまま、自宅には帰らなかった。」(妻美知子談(S23.7.4 <サンデー毎日>) とある。
(このころは、自宅へ帰らない日は度々あり、外泊自体は珍しいことではなかった。)

なお、富栄の日記には、“6月5日=末常氏と太宰さん泊る”、“6月6日=「如是我聞」口述。
朝、千草にて朝食” とあり、上記と合致しない。 (註:末常氏は朝日新聞社学芸部長で、
「グッド・バイ」連載に直接関わり、土曜日には再々太宰を訪ねていた。)

事実を推測すると、4日~5日に野平に口述筆記し、5日(土)に野平と一旦帰宅、その日のうちに
仕事部屋へ戻って末常と泊った。 翌6日には、再度野平が来て原稿を完成し、渡して帰宅した。
翌7日朝、いつものように、仕事部屋へ向かった・・・美知子談と1日ずれるが如何だろう・・・

6月7日は、八雲書店編集部の亀島貞夫と新潮社の野平健一が、全集の印税と<新潮>の稿料を太宰
に届けた。富栄の日記に、両者来訪のことと金額なども記されており、富栄の部屋で会ったのだろう。
(富栄は、「千草」の向かい側の野川家2階の借室に居住。このころは、太宰はここでも起居していた。)

野平の「如是我聞と太宰治」によれば、この日は久しぶりに誘われて三鷹の街に出かけた。出合った
女性に冗談を云ったり、ふざけたりで、「太宰は、わずかに、はしゃぎ方が多いようだった。」という。
亀島は、この時は富栄も一緒だったこと、三鷹駅で太宰に握手を求められて別れたことなどを書いて
いる。 (「太宰治との別れと死」(<S51.6.6:朝日新聞・群馬版>:「太宰治に出会った日」(H10)所収))

自殺の動機になり得る状況があったことは認められるが、特に差し迫っているわけではなく、
太宰の言動や富栄の日記から二人に数日中に心中する気持があったとは考え難いのである。

しかし、4日間の沈黙があって、6日後の13日深更、明らかに合意のうえで玉川上水に入水心中した。

    2. 自殺決行まで、謎の4日間 = 6月8日(火)~11日(金)

6月8日から11日までの4日間は、妻美知子も、友人知己、文学・出版関係者も、誰も太宰に会って
いない。電話は一般人宅には無い時代、この間の太宰の消息を伝える知人らの記述は見当たらない。

太宰も富栄も、8日以降は13日の遺書関連以外には何も書き残していないので、様子は不明だが、
6月10日に関しては、長篠康一郎著「山崎富栄の生涯」(S42)と梶原悌子著「玉川上水情死行」(H14)
に次の記述(要約)がある。

「6月10日、太宰と富栄が昼食中に富栄の古くからの知人吉沢たかが訪れ、富栄に、太宰と別れて美容
学校再建を考えるよう勧めた。富栄は、「もう少し待って頂戴。そのうち新聞に出るかもしれないから・・」
と奇妙な答えをした。太宰はこのやりとりを静かに聞いていて、吉沢が帰る時には丁寧に挨拶をした。」

著者が「吉沢たか」から聞いたことで、野川家の富栄の部屋での出来事だろう。
このことから、太宰は、この4日間は富栄の部屋にも居たと推察できる。
吉沢への富栄の返答は、富栄がこの時点で心中を考えていたことを示したものかもしれない。

また、同書によれば、この日の午後、富栄は一人で八雲書店を訪ね、近くにある山崎家の菩提寺、
親戚・知人・友人宅、以前にいたことのある美容学校ビル、など文京区辺りを回り、住職ら何人かに
挨拶したとのことで、著者は、それとなく秘かに最後の別れの挨拶をしたのではないかという。

なお長篠によれば、この日(10日)、富栄は、さらに鎌倉腰越へ赴いたという(後記参照)。
また、松本侑子は、小説「恋の蛍」(H21)に 「富栄は、6月11日にお茶の水、本郷方面へ
行った。」と書き、随筆「太宰治の愛と文学をたずねて」(H23)には、「12日」と書いている。

これらの記述も、著者が関係者から聞き取ったことと思うが、二点、気になることがある。

① 近間を回ったとはいえ長時間だったろう。この間、太宰は一人で富栄の部屋にいたのだろうか。 .
外泊が度々だったとはいえ、連続して4日間も自宅に帰らないということは少なかった。
この時、太宰にその意思があれば帰ることもできたはずだが、何故帰らなかったのだろう。
自殺、富栄との心中を考えていたのか、あるいは、ほかに帰れない事情があったのか・・。
(長篠の記述(後記=病中の太宰、鎌倉での田部あつみの供養)は気になるが、詳細未詳)

② 八雲書店を訪ねたのなら、太宰の用件のはずで、亀島貞夫がこのことに関して何も触れていない
のが気になるが、それよりも、この時、太宰は何故、自分は出かけなかったのだろう。

八雲書店と同じ本郷に豊島與志雄が住んでいる。豊島は「太宰治との一日」(S23/7<八雲>)に、
「太宰と富栄が4月25日(日)に自宅に来た。八雲書店に電話してウィスキーを届けさせ、
筑摩書房に居た臼井吉見を呼んで酒宴になった。その夜、二人はそのまま家に泊った・・」
のように書き、富栄は遺書に、「(太宰は)豊島先生を一番尊敬して愛しておられました。」 と
書いた間柄の豊島である。その豊島に太宰は、何故、会おうとしなかったのだろう。
翌々日(12日)には、一人で大宮まで古田晁を訪ねているのである。

    3. 自殺決行の前日 = 6月12日(土) 

6月12日(土)については、山内祥史著「太宰治の年譜」(2012)に、「『文芸時代』編輯記者の西大助が、
福田恆存との対談の打ち合わせに訪れた。「千草」の増田静江を通して、『廿日過ぎなら都合がいい、
席上には対談者、速記者、編輯記者の四名だけにして呉れ』と返答したという。」 とある。
(豊田三郎「文藝時代後記」(S23.8.1))、西大助「太宰と文芸時代」(「太宰治研究3号」(S38.4.19))

「文藝時代後記」は、心中直後の発行なので信憑性が高い。訪問の時間は午前中だったろう。
この時、太宰は「千草」の仕事部屋にいて、まだ自殺の意思は固めていなかったように受け取れる。

また、この日には、太宰が古田晁を訪ねたという記述が野原の多くの著書にある。
昼すぎに、太宰は単身で古田の寄宿先である大宮の宇治病院を訪ねた。この時、古田は郷里(現・
塩尻市)へ行っていて留守で、病院の娘(節子さん:太宰も顔見知りの26歳の古田の姪)が応対
した。太宰は、その足で小野沢さん(「人間失格 第三の手記の後半~」を執筆した部屋の貸手)
の家に寄った。その時の様子は「含羞の人 回想の古田晁」(1982)に詳しいので次に抜粋する。

「『古田さん、いる?』 『いま、信州に行っております。あしたあたり、帰って来るはずなのですけど。』
太宰は落胆の色を見せ、うつむいてしばらくたたずんでいた。
『よろしかったら、おあがりになって、お茶でも・・・。』 太宰は視線を宙に迷わせていたが、
『いや、帰ります。また、来ますよ。古田さんに、くれぐれもよろしく。』 立ち去っていく太宰の後ろ姿が
何かさびしげだったと節子さんは回想している。その足で太宰は小野沢さんの家にも立ち寄り、
『 「グッド・バイ」が、どうもうまく書けなくてねえ。悩んでいますよ。』と言った。帰っていくうしろ姿が
へんに影がうすかったと、これは小野沢さんの回想である。」

野原は、「最も深く心を許していた親友古田晁に、それとなく最後の暇乞いに行ったのだろうか。」と
いうがどうだろう。14日の午後、古田は大宮に帰ったが、その前夜に太宰はこの世を去っていた。

この記述は、野原が太宰に会った二人から聞き取ったことだろうが、気になることが二点ある。

① 当時は、一般の企業は出版社を含め土曜日は営業日だった。普通なら、先ず、東京の本郷に
ある筑摩書房を訪ねるところだが、出勤していないことが予測できたのだろうか。訪問前に
電話で確認した可能性もあるが、そのような形跡は見当たらない。いずれにしろ、太宰は、
何故、この日に急いで、わざわざ遠い大宮まで訪ねて行かなければならなかったのだろう。

② 太宰は単身で大宮へ行ったとあるが、何故、富栄と一緒ではなかったのだろう。三鷹~大宮間
の往復には相当の時間と労力を要するので、当時の太宰の日常の行動からすれば当然に
富栄を伴なうところだろう。大宮での「人間失格」執筆時には富栄はずっと付き添っていたし、
古田らは二人の関係を熟知しているので、単独訪問はむしろ不自然な感さえある。

翌日の自殺を決めていて、二人でそれとなく最後の別れをしたかったということもあろうが、
古田の在宅に望みを託し、富栄を交えず、二人だけで話したいことがあったとも考えられる。

太宰の望みは叶わず、古田の信州滞在と翌日あたりの帰宅を知った。帰途についた時点では翌日
の自殺決行を決断しただろう。野原によれば、太宰の心中時の服装は、大宮の節子さんが記憶
していた服装と同じだった。 大宮から自宅へではなく、富栄が待つ部屋へ直帰したのである。

    4. 古田晁による太宰の御坂峠での長期静養計画

太宰が「人間失格」を脱稿(S23.5.10頃)する頃、太宰の心身を案じた筑摩書房の古田は、太宰に御坂峠の
天下茶屋で、井伏の付き添いで長期間静養してもらうことを考えていた。(本項では“御坂峠計画”という)

太宰は、「人間失格」と同時期に「如是我聞」(随筆)を執筆、発表(<新潮>:S23/3・S23/5-7)した。
井伏は4月(S23)の段階で太宰に執筆中止を求めたが、古田も同様に作品の異常性を感じていた
かもしれない。 「原稿なんか書かないで、真に静養だけしてもらいたいのです。」 と言ったという。

(「如是我聞」については、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」 に詳記)


野原によれば、古田と太宰は、井伏が「莫逆の友」と表現した仲で、出版社々長と作家という関係を超えた
深い心の触れ合いがあり、食糧事情など極めて困難な状況を承知の上で、井伏に協力を求めたのである。

ちなみに、御坂峠は、10年前(S13)の秋、太宰が井伏の誘いで “思いを新たにする覚悟” で約2カ月間滞在し、
この間に、美知子と見合いし、結婚を切望して井伏に「誓約書」を書いた場所である。 (詳細は「太宰治」の項


「御坂峠計画」に関する、井伏と野原らの記述を、次に引用(抜粋)する。

★ 井伏鱒二・・「太宰の背景を語る」(「太宰治集 上巻」(S24.10.31:新潮社)所収の「桜桃」解説欄附記)

「・・省略・・。この作品がまだ雑誌に出る前に、「展望」発行所の筑摩書房主人、古田晃氏の言。 『いま、
このままの状態では、太宰さんの健康があぶない。お願ひですが、太宰さんを御坂峠頂上の茶店へ、
連れて行って下さいませんか。さうして、あんたは、太宰さんがそこに居つくやうに、1箇月ほど太宰さんと
いっしょに御坂峠にゐて下さい。太宰さんには、1年ほどその山の宿で、静養してもらひたいのです。
原稿なんか書かないで、真に静養だけしてもらひたいのです。私は月に三回づつ、背負へるだけ物資を
背負って太宰さんを訪ねます。なるべく早く、来週の終りごろにでも出発して下さい。私は、ちょっと
郷里に帰って、今週の終りか来週匆々に帰ってきます。それまでに、出発の都合をつけておいて下さい。
いいですか、では、お願ひしましたよ。ゲンマン。』  
ただし、古田晁が一週間ばかり郷里へ帰っていゐ間に、太宰治は「不慮の死」をとげた。
最後に私は、私の手紙に対する太宰治の、ある一つの返事の冒頭をここに抜粋する。
『○井伏さん曰く『ちかごろ、どんなことになっているのか伺います。』
○太宰、沈思黙考、暫くして顔をあげ、誠実こめて『ちかごろ、悲しきことになっております。』 」

さて・・冒頭にある「この作品」というのは、省略した前文からの流れでは「グッド・バイ」を指すが、
これは太宰の死後に「朝日新聞」、「朝日評論」に掲載されており、「展望」は関係ない。「展望」は
「人間失格」の掲載誌で、第1回は太宰生前の6月号に載った。したがって、「この作品」というのは
「人間失格」と解さないと意味が通りにくい。

古田が井伏に最初にこの計画を話したのは、「展望(6月号)」発売前(5月中だろう)のことで、
次いで、6月に入って計画の実行を井伏に知らせ、井伏にも行動を促したと推測できる。


そこで、この文の前半の部分は5月中のことで、後半の「なるべく早く」以下は、
古田が大宮へ帰った6月14日(月)から逆算すると、次のように読み替えられる。

「6月18日(金)~19日(土)頃にでも出発して下さい。私は、ちょっと郷里(塩尻)に帰って、
13日(日)前後に帰ってきます。その13日頃までに、出発の都合をつけておいて下さい。
いいですか、では、お願いしましたよ。ゲンマン。」

したがって、この「御坂峠計画」の実行を古田が井伏に促したのは、6月6日(日)頃で、
古田が郷里(塩尻)へ出発したのは6日(日)~9日(水)と推測できる。

ちなみに、古田が郷里に帰る時には、新宿駅から塩尻駅まで中央本線を
利用したはずで、荻窪駅(井伏)、三鷹駅(太宰)は、その線上にある。


なお、末尾にある太宰の返事の手紙はいつのものか、日付は不明である。

★ 野原一夫・・「含羞の人 回想の古田晁」(S57.10.25:文藝春秋):他著書にもほぼ同様の記述あり。

「古田は井伏鱒二氏をたずね、今のままだと太宰さんは駄目になってしまう。肉体的にも
駄目になってしまう、今が瀬戸際のような気がする、自分が太宰さんを説き伏せるから、
いっしょに御坂峠の茶店に行ってもらえまいか、米や肉や野菜は自分が郷里の信州から
リュックサックに背負って御坂峠にもっていく、だから、少なくとも1カ月以上いっしょに
暮らしてもらえまいか、とお願いしたそうである。
なお、このことは、古田は自分の口からはついに人に語ったことはない。
古田はその用意をするために、何日かの予定で信州に行った。東京に
帰って来る前の日に、太宰治は死んだ。昭和23年6月13日深更である。」


この二つの記述には、気になることが二点ある。

① 井伏の記述は、そのまま読めば、“井伏が説得して御坂峠へ連れて行ってくれ。古田は裏方
を務める” だが、野原の記述では、太宰を説得するのは古田本人と明記されている。

② 野原は「このことは、古田は自分の口からはついに人に語ったことはない。」と書いている。 
それなら野原は、何故、このことを書けたのだろう? 計画段階で筑摩書房内で話があって、
野原はその関係者から聞いたのか、あるいは、野原だけに古田は何かを話したのだろうか?
それとも、井伏から聞いたことなのか・・

そして何よりも、古田は、何故このことについて生涯固く口を閉ざしたのだろう?

井伏に 「惜しい人」(S49/10:「回想の古田晁」(筑摩書房)に発表) という随筆がある。
後に「古田晁」と改題し、随筆集などにも収録があるが、井伏はこの中で 「私の選集
第三巻か第四巻が出た頃、ある日、古田が訪ねてきて意外なことを云った。」
と書き、“御坂峠計画” への協力要請を詳記している。 (この項は、H27/8改訂UP)

野原の文章はこの中の一部を要約したものなので、情報源は井伏の文章だけだろう。
井伏の、太宰の死後間もない時期(S24/10)と、古田没直後の時期(S48/10)の文章で
太宰説得役が微妙に異なることに意味があるようにも思えるが・・考え過ぎだろうか。

なお、「井伏鱒二選集 第三巻」の発行日は昭和23年9月、「第四巻」は同年11月で、
太宰が執筆した同巻の「後書」の脱稿は同年4月上旬と下旬である。 したがって、
井伏の 「第三巻か第四巻が出た頃」 という記述は、筑摩書房が脱稿原稿を活字にして
井伏に提示した時期、つまりは5月~6月頃ということになるのではないだろうか。
あるいは、「第二巻が出た頃」(S23.6.20)なのかもしれないが、いずれにしろ、背景には
「人間失格」の脱稿(S23/5)、「如是我聞二・三」の発表(<新潮>・S23/5・6)がある。

ちなみに、「惜しい人」の文章は次のようにあり、さきに掲げた「太宰の背景を語る」の
前半部分に一致し、“御坂峠計画”の実行に井伏が深く関わった経緯の詳細である。


「私は、難しいことだと思った。その頃は米を買ふ苦労が大変で、米を持たなくては一泊旅行も
できなかった。『第一、米をどうするか』と訊くと、米は古田の郷里の信州から取り寄せて、
十日に一度づつ古田自身がリュックサックに背負って御坂峠に持っていく。だから米の心配は
ない。信州は馬肉の本場だから、米のほかに馬肉やジャガ芋も持って行く。食べ物の心配は
ない。その点は安心して、暫く太宰と一緒に峠の茶屋で暮してもらひたいと云った。
では、『もし太宰が承知したら、一週間ほど御坂峠で一緒に暮すことにするか』と云ふと、
一週間や二週間ではいけない、すくなくも一箇月以上は一緒に暮してもらひたいと云った。
では、一箇月と私は約束した。」 (「井伏鱒二全集 第25巻」(1998・筑摩書房)所収)

    5. 何故富栄と? 何故この日(6/13)? 「小説を書くのがいやになったから死ぬ」?  

檀一雄は、「小説 太宰治-まえがき」(S24)で、太宰の死の原因は、「彼の文芸の抽象的な完遂の為」とし、
その時期は、「健康状態、太宰への世評高潮の安堵と危険、二人の女性との問題などの均衡を考慮して裁決
した。今なら、最も憂慮していた妻子が、少なくも餓える気づかいのないことをも予想した。」 旨を書いている。
野原も、なぜ自殺したかは、檀の記述がすべて(「太宰治 人と文学 下」(S56:リブロポート))と同調している。

自殺の原因に関する檀と野原の記述は一例で、これまで多くの関係者、研究者が書いているが、多くは決行日
に関しては曖昧である。 太宰の心奥の問題でいわば永遠の謎だが、自殺の原因にかかわる重要要素だろう。

何故富栄と?・・野原、野平、その他関係者らの多くの著書によれば、富栄は常に青酸カリを隠し持ち、
日頃から太宰に、「変なことをしたら青酸カリを飲む」と云っていた。太宰はそれを恐れていたといい、
富栄にとって太宰とのことは、まさに “死ぬ気で、恋愛” (富栄の日記・S22.5.3)だったのである。

(注:この当時は、一般人の青酸カリ所持は、戦時の名残で、現在ほど特殊なことではなかった。
太宰の短編「女類」(S23/4<八雲>)には、女が薬を飲んで掘割りに投身したという箇所がある。)

富栄が両親宛に書いた遺書の一通は、前年(S22)8月29日の日付で、
富栄は、この時、太宰が死ぬ時は自分も死ぬ時と思い定めたことが窺える。

富栄は太宰を本気で愛し、尽くした。太宰の愛人として、また秘書、看護婦、家政婦、乳母
のような存在に徹して尽くした。仕事(美容師)は太宰との生活のために11月(S22)に
辞め、梶原悌子著「玉川上水情死行」によれば、美容事業再興のため懸命に働いて
蓄えた10数万円(現在に換算すると1,000万円を超える)の貯金も使い果たしたという。

富栄については別途詳記したが、太宰との初対面は昭和22年3月27日で、富栄27歳だった。
(太宰37歳) 優秀な美容技術と卓越した教養、実務能力を持ついわば才色兼備の女性である。
この当時は三鷹に住み、戦前に両親が築いた美容事業再興のため美容師として働いていた。


そして、井伏や相馬正一によれば、「千草」の女将(増田静江)は、「グッド・バイ」執筆頃の
二人について、“太宰が富栄に別れ話をし、富栄は自殺すると云っていざこざがあった” と
話したという。 (井伏「太宰治全集 上-解説:S24/10・新潮社)」 ・ 相馬「評伝太宰治 下」)

その詳細は不明だが、太宰が恋人の存在を告白した時、富栄は日記(S23.5.22)に、
「離れますものか、私にもプライドがあります。」 と書いた。
親兄弟、仕事仲間の信頼と期待を裏切り、ただひたすら太宰に尽くして1年余、太宰の
気持がどうあれ、富栄には太宰と別れて生きるという選択肢はなかったといえよう。

太宰が「死」を決断すれば、心中は必然の成り行きだった。

(詳細は 太宰治と山崎富栄と「人間失格」・「グッド・バイ」 の項)

何故この日?・・太宰は、人気作家、流行作家と持てはやされ、活躍する一方で、家庭や女性関係、
健康、税金問題、井伏や志賀直哉とのことなどで苦しんでいたことは確かで、それが自殺に繋がった
と見られている。それはその通りとして、では、なぜこの時に決行したのか、そこから私見を記したい。

つまり、太宰は、「人間失格」脱稿(S23.5.10頃)に続いて、朝日新聞連載の「グッド・バイ」を起稿し、
「如是我聞」では文壇への挑戦を続ける意思を示すなど、文学活動に強い意欲を燃やしていた。
刊行が始まった自分の全集も、内容に細かい指示を出すなど続刊にも積極的に取り組んでいた。
編集者らとの大酒や不規則な生活が、病状(肺結核)を進行させ、命を縮めることになっても、
それは承知の上でのこと、少なくとも6月7日の時点では、自ら直ちに命を絶つ意思はなかった。

それが、わずか6日後の13日には、富栄と明らかに合意のうえで心中した。直接の死因について、
「絞殺」、「青酸カリ服用」など富栄による他殺(無理心中)的な説も一部に見られるが、遺書を書いた
直後の入水で、それが苦渋の決断だったとしても、太宰自身の意思による死以外は考えられない。
何故、急に死を実行したのか? この5日間に、何らかの事態が生じたと見てよかろう。 例えば・・

*太宰の心身に著しい悪化が生じた。(根拠不明だが長篠康一郎に「太宰は病中」の記述がある。)
*富栄が、「グッド・バイ」の校正刷を読んで原稿時以上に激しく反応した。
*富栄が、太宰の手帖(執筆メモ)中の富栄関連のページ(詳細後記)を目にした。
*太宰が富栄に別れ話を正面から切り出した。(・・とすれば、なぜこの時に?)
*太宰と富栄が、古田・井伏が“御坂峠計画”(詳細前記)を実行に移したことを知った。

等々で、あくまでも推測でしかないが、ここで私は、野原の著書「回想 太宰治」(改版1992)の一節
「それにしても、恩師の井伏鱒二先生が、富栄さんとのことを知って『俺を棄てるか、女を棄てるか』
と言ったとしたら、太宰さんはなんと答えただろう。」 には深い意味があるように思えてならない。

井伏は、“御坂峠計画”に関して、「太宰治のこと」(S23/8:<文藝春秋>)(後「太宰治の死」)に、
「私はそれに賛成したが、まだその人が太宰君に云はない間に今度のやうな結果になった。」
と書き、自殺直後の記述の中で “太宰はこの計画を知らなかった” としている。

しかし、井伏の記述はともかく、「太宰はこの計画を全く知らなかった」 と言い切れるだろうか。
例えば、5月下旬の富栄の日記にある “太宰の恋人告白(5/22)” 、“古田関連の記述(5/26)”、
“意味不詳の記述(5/29・6/5)” など(別項)は、この御坂峠計画と関連するのではないだろうか。

「人間失格」執筆で大宮に滞在した太宰の健康状態や体調回復を知った古田は、帰京の頃(5/12)
には、場所などの詳細には触れないで、太宰に “転地療養” を強く勧めていたように思える。
井伏の「をんなごころ」(S24/12)には、井伏は転地療養を勧める手紙を2~3回、太宰に送ったと
ある。古田との連携のことなど手紙の内容は不明だが、時期は5月(S23)前後に違いなかろう。

この状況で、太宰がこの計画の内容と、古田がそれを実行に移したとを知ったらどうだろう。
井伏と御坂峠へ行くか、古田を裏切って富栄との関係を続けるか、どちらを選んでも、
太宰の目には、明日に始まる自分の「生きる」姿がはっきり見えたに違いない。

太宰と富栄の、また関係者らの言動や記述に感じる “なぜ?” や “気になる部分” の多くが、
こうした経緯の後、“太宰は6月8~9日頃に計画の詳細と実行を知った” と考えれば合点が行く。
古田の弔辞に見られた太宰の死に対する特別に激しい心情にも繋がっていると思うが如何だろう。


ちなみに、古田の弔辞について、野原一夫は「含羞の人 回想古田晁」(1982)に、次のように書いている。

「祭壇の前に坐った古田は、しばらく無言で頭を垂れていた。背をまるめた大きなからだが、
今にも前にくずれおれそうに見えた。弔辞をひろげ、読みはじめたが、口もとだけが
わずかに動いていた。私はすぐ近くに坐っていたのだが、声はまったく聞きとれなかった。
その目には涙があふれ、両頬を流れ落ちていた」

弔辞の一節に、「自ら選ばれた御最後故、何も申し上げません。」とある。古田の特別の心情が
込められているようにも思える。(「弔辞」は、塩尻市の「古田晃記念館」所蔵(津島家が寄贈))

推測だが、太宰は転地療養を念頭に、富栄に “別れ”や“死” を仄めかすと、富栄は “その時がきた”
と決めて “死” の準備を始めた。 しかし、太宰の心は揺れ続け、時間だけが過ぎた。決断を迫られ、
6月12日に一人で大宮の古田を訪ねた太宰は、古田が御坂峠計画を実行中であることを確認した。

御坂峠へ行くわけにはいかない。残る道はただ一つ。古田を訪ねた翌日、6月13日の深更、
富栄とともに、富栄の部屋を出た。歩いて数分程度の玉川上水の土手から入水した。
富栄の部屋はきれいに整理され、二人の写真、遺書などが置いてあった。

この日(6/13)は、古田帰京の前日だったが、これは偶然ではなく、太宰が “帰京前の死を
選んだ
” のだろう。 富栄が死の準備を整えていたのに対し、太宰の場合には、遺書など
事後への配慮が十分に為されていたとは思えないのはこうした状況によるものと察せられる。


自殺の真因 : 遺書に 「小説を書くのが いやになったから死ぬのです」

太宰が、古田主導の“御坂峠計画”が実行に移ったことを知って、最早これまでと死を決断したとしても、
その根底にある動機は、家庭、女性、井伏・志賀、健康、税金といった生活面の諸問題だけだろうか?
中でも富栄との関係は重大要因だが、そこへ、さらに、“作家の心” が働いたと思わざるを得ない。
“小説が書ける、思うように筆が進む” 状態なら、他の要素にはもっと柔軟に対応できたはずである。

以下、私見だが、遺書には、「小説を書くのが いやになったから死ぬのです」 とあり、この意味をあらためて
考えてみた。 太宰の心奥には、やはり 「小説を書けなくなったから」 があったのではないだろうか。
ここまで次々と作品を発表、なおも執筆依頼は殺到、書き続けたい ・・、 が、筆は思うように運べない。

太宰が、戦後、瞬く間に人気作家となり得たのは、戦前、戦中の国家、社会体制による強力な個人抑圧と
終戦直後の価値観混迷の中で、非凡な才覚をもって的確に反応した作品が高く評価されたからだろう。
個人への強大な圧力に抗えない弱者、被抑圧者の立場、視点で書いた反抗、反俗が支持されたといえよう。

太宰は戦後逸早く無頼派(リベルタン)を標榜し、「パンドラの匣」で、反抗の対象が有っての存在であり、
空気がなければ飛ぶことの出来ない鳩に擬えた。 「斜陽」、「人間失格」など、戦後の多くの作品は、
この意味で太宰の真骨頂を発揮したが、ここにきて太宰は “真空管の中の鳩” 状態だったのではないか。

個人に対する国家、社会の圧力が弱まり、世の中が落ち着きを取り戻すと、リベルタンの影は薄くなら
ざるを得なかった。「人間失格」は、特に「第三の手記」では反抗の対象に世俗性を据えて成功したが、
この世俗性は個人の自由尊重のもとでは強力な普遍的圧力にはなり難い。 

しかもこのころ、太宰は社会的には強者の立場、追われる立場に変っていた。「如是我聞」などで
志賀や井伏らの古い文壇体質や世俗性を、強力で醜い圧力と力説し、価値基準として
キリスト精神(聖書)を強調して反抗・反俗を意味付けるが、所詮は愚痴の域を出ない。

別記したように、この昭和21年~23年には著名な既成作家が活動を再開する一方で、
戦後派といわれる無名の野間宏、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生らが続々登場した。
既成の文学にとらわれない独自の作品、作風が一躍読者の注目・支持を集め、新しい
潮流になっていった。 後に、第一次戦後派と呼ばれるが、第二次戦後派と呼ばれる
三島由紀夫、大岡昇平、安部公房らもいた。

こうした文学・出版界の戦後の流れを見ると、この時期、太宰が猛批判した文壇の旧体質の
圧力は批判に値するほどのものだったか疑わしく、太宰の焦りの気持の表れとも思える。



「人間失格」、「如是我聞 三」脱稿に続いて執筆した朝日新聞連載用の「グッド・バイ」の脱稿部分について、
“筆力に衰えはなく、太宰の新境地進出云々” と高く評価する向きもあるが、普通の通俗小説のようで、
井伏の「サヨナラだけが人生だ」を引用した「作者の言葉」にある創作意図・意欲との間にはズレがあるように
思う。手練の筆致ではあるが創作の意図、主題には手詰まりが感じられる。主人公の名は「田島周二」で、
脱稿部分の別れの相手は愛人の美容師。 小説よりも楽屋裏の方に興味が湧く。 実際、5月(S23)中旬~
下旬の富栄の日記には奇妙な記述があり、太宰が真剣に取り組んだ主題なのか疑わしくもある。
別記したが、もともと、連載に相応しい心構え、構想、準備をもって引き受けたのかという疑いもある。)

昭和23年1月から半年間、太宰は井伏との訣別をも胸に定め、全精力を傾けて「人間失格」を完成し、
「如是我聞」などで志賀、井伏ら先輩に対する批判、攻撃を徹底的にぶちまけたが、この時、太宰には
虚脱感,、困頓感のようなものがあり、「グッド・バイ」の筆は進まなかったのだろう。しかも、この時点で
引受けていた小説は他にはない。体調面もあろうが、これまでにはないことで、創作上の悩みが窺える。
死の前日、大宮で小野沢さんに 「『グッド・バイ』 がうまく書けない・・」 と洩らしたのは本音だったろう。

戦後、太宰が新たな本領を発揮するには、もう少し時間が必要だったのである。
古田が “御坂峠計画” を立て、実行に移したのは、こうした時期にあたる。

既述のように、太宰はこの計画を知らなかったとされるが、古田が場所など具体的なことには触れないで
“転地療養”の必要性を説き、強力に勧めたとすれば、太宰がそれに応じる気持になってもおかしくはない。
太宰には、転地療養は大宮に籠っての「人間失格」執筆時の体調回復の延長線上と受け止められたろう。

当時の食糧調達は難事中の難事、古田は先の見通しもないのに井伏に出発準備を促し、郷里(塩尻)
へ出発したとは考え難く、これ以前の段階で太宰から応諾の感触を得ていたと考えてよかろう。


ただ、今回は富栄同伴というわけにはいかない。富栄と別れねばならないが、太宰は真正面から別れ話を
切り出せる状況にはない。 そこで太宰は、美知子のこと、架空の恋人のことなどを話し、それとなく
その気持を示すが富栄は動じない。「離れますものか。私にもプライドがあります。」(S23.5.22)と書いた。
太宰は、「グッド・バイ-行進」を書き、さらに「死」をほのめかすが、富栄はすでに “その時” を想定して
「死」の心を決めていた。 富栄が身を引いてくれることを秘かに願ったが・・太宰は窮した。

どうする? 思案するうち、古田は井伏の協力を取り付け、食糧調達を実行に移した。

「如是我聞 三」 <新潮・6月号> を読んで、実行は急を要すると判断したと思えてならない。
志賀直哉の名前を出して罵倒し、名指しではないが、川端康成を “茶坊主、卑しく痩せた
俗物作家”、 師の井伏を “後輩を否定し入院させる先輩・自分の作品は手抜き・おけら”
と罵るにおよんで、「同、一・ニ」 に増して古田はその異常性を強く感じたに違いない。
古田も井伏も、“太宰の井伏離れの心奥” と “富栄の死の覚悟” を知る由もなかった。

太宰は、井伏との訣別は心に秘めていても、ここで古田をも裏切るわけにはいかない・・
この段階で “御坂峠計画” の詳細と始動を知った太宰には絶望しかなかった。

・・さて、そこで、太宰はどのようにして計画の詳細と実行を知ったかということだが ・・
想像するしかないが、例えば、古田は、6月8日(火)、中央線で新宿駅から郷里の
塩尻駅に向かい、三鷹駅で一旦下車して太宰を訪ねた可能性も零ではなかろう。
あるいは、このころ、古田、井伏が訪問したとか、手紙で知らせたとか・・。

いずれにしろ、富栄の入水当日の日記には 「みんなしていじめ殺すのです。」 とある。
“みんな” は複数。日記の流れから見て 一人は井伏、一人は古田とも読める。


生活面の苦しみに “創作の悩み” が加わった。活路を拓くべく、富栄との別れを目論んだが、
“富栄の死の覚悟” に戸惑うばかりだった。 そこへ “御坂峠計画の始動” である。
「古田・井伏を棄てるか、富栄を棄てるか」 二者択一の決断を迫られたことになる。

究極の選択は 「書くのがいやになったから」 しかなかったと推察する。


以上、太宰治の自殺の真因は、簡潔に示せば、次の三つの要因が重なったこと三重要因に行き着く。

創作の行き詰まり   山崎富栄の死の覚悟   “御坂峠計画” の始動

この中の1つでも無ければ、つまり二重までなら、太宰はそのまま “生きる道” を進んでいただろう。


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    6. 「井伏さんは悪人です」の意味 

6月13日深更、太宰と富栄は富栄の部屋を出て、歩いて数分程度の玉川上水の土手から入水した。

富栄の部屋はきれいに整理され、二人の写真、遺書などが置いてあった。

相馬正一著「評伝 太宰治」によれば、そこには、太宰の、美知子宛の遺書の下書きと思われる
破り捨ての「反古」があり、毛筆で次の文言があった。

 「永居するだけ皆をくるしめ こちらもくるしく 
かんにんして被下度 子供は凡人にても お叱りなさるまじく」

「皆、子供はあまり出来ないやうですけど 陽気に育てて下さい
あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです
小説を書くのがいやになったからです
みんな いやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」 

(この「反古」に関しては、長篠康一郎による「発見時は反古ではなかった」という指摘があり、
<朝日新聞>(S23.6.16)と<新潮>(H10/7)の写真、記事などを参考に、詳細を後記した。)


この文言の中で、特に「井伏さんは悪人です」については、当時から関係者らに多くの記述がある。
遺書の公開は一部(後記)なので太宰の真意ははっきりしないが、 ここで太宰の胸中を考えてみた。

戦後の太宰は、戦後の新しい時勢に便乗して保身、利得を図る風潮を“新型便乗”として嫌悪し、
自らを無頼派と称して反発した。 太宰が前年(S22)12月に京都にいる堤重久を東京に招いた際
のハガキに、「みんな 、イヤシクて いけねぇ。乞食みたいな表情をしてゐる。」 とあるが、太宰が
この風潮を「イヤシイ 」と捉えていたことを意味しよう。そして、このころの太宰は、実際に金銭問題
にも煩わされたが、それよりも何よりも、流行作家になったことで作品への注文や批判、
私生活に対する非難、誹謗、中傷など、強烈な向かい風を受け、圧力を感じていたはずである。

太宰にしてみれば、そうした圧力は文学の本質とは無関係の「イヤシサ」に発するとしか思えず、
「如是我聞」で猛反発したが、その筆致を異常と感じたであろう井伏に執筆中止を求められた。
作家として純粋に作品に情熱を燃やし、そのまま燃え尽きることは望むところであっても、
周囲は理解せず、井伏までもが太宰の意思、行動を束縛する不条理、世俗性を怒ったのだろう。
太宰が「御坂峠計画」の詳細を知ったとすれば、その思いは一層強かったはずである。

そして、「井伏さんは悪人です」 を掘り下げると、以下に示すような時の流れと
人の心の複雑な絡みがあり、太宰自身の生き方も反映されていると見ることができる。

      *太宰と井伏との関係の変化

井伏が疎開先の福山から帰京(S22/7)した頃から、太宰と井伏の関係は大きく変わった。

井伏は、「太宰には戦後三回しか会っていない」 と疎遠になったことを書いている。
井伏がいうこの3回というのは、諸資料に照らすと次の3回とみてよかろう。

1回目、昭和22年7~8月頃、山崎富栄の部屋で「井伏鱒二選集」の打ち合わせ(別項参照)。

2回目、昭和23年元日の太宰の井伏宅への年始訪問。(直後に先輩批判を開始-別項参照

3回目、4月3日(S23)、山崎富栄の部屋で井伏の知人が睡眠薬を大量服用して井伏が訪問。
(富栄の日記から、この時、井伏は「如是我聞」の執筆中止を求めたことが窺える)

なお、昭和23年2月号の 「小説新潮」 に、太宰と井伏の2ショット写真が載っている。
この撮影日は、上記三回のいずれとも考え難いので、この3回以外にも会っていることになる。

「小説新潮」(S23/2月号)の「文壇親交録」はグラビア特集で、井伏・太宰の
ページは、森の大きな木の下の茂みで二人がにこやかに談笑する姿である。
写真の下の欄に、井伏による文章があり、撮影は 北野邦雄とある。

井伏の文によれば、二人並んだ釣り堀での釣り姿か、森での散歩姿を撮る予定のところ、
太宰が仙台平の袴で来たので井伏宅(杉並区清水町)近くの森での撮影になったという。

撮影日の推定・・この写真は、山崎富栄の日記などから、昭和22年11月初旬頃の撮影と推定できる。

富栄の日記(11/21)から抜粋 = 「・・略・・ 小説新潮の女のかたもおみえになる。
井伏先生と、ご一緒に写されてある御写真を拝見する。私も欲しいわ。」

この日記や、写真の仕上がり日数、服装、釣り姿が予定にあったことなどから、撮影は遅くとも
11月初旬だろう。 とすれば、太宰は上記以外にも昭和22年中に井伏宅を訪れたことになる。


「小説新潮」に載った写真は1枚だが、この時には他にも何枚か撮っており、
出来上がった写真を女性記者が11月21日に持参、富栄もそれを見たのだろう。


 参考サイト (写真)  太宰治と井伏鱒二の2ショット

日本近代文学館
→ 写真検索 → 太宰治(P0002250)

同じ時に撮ったが、 「小説新潮」に載らなかった写真
-----------------------------------
二人の表情は厳しい。2枚の写真で全く異なる二人の表情は、
この時の両者の心の内を表象するかのようだ。

さらに推測・・このころ、「斜陽」(S22/7-10<新潮>)は大好評、太宰は「井伏鱒二選集(一)」の後書を
執筆していた。太田静子の出産を知る(11/15)前である。太宰が井伏とのグラビア「文壇親交録」の
企画に応じたのは、井伏に対する複雑な心情はあっても、まだ落ち着きがあったということだろう。
釣りの場面でなく散歩姿になったのは、太宰の思惑、バランス感覚が働いていたように思える。


ちなみに、後に 「小説新潮-創刊200号記念号」(S36/2)は、過去のグラビア特集をしており、
この写真を 「昭和23年月号のグラビア」 として載せている。(正しくは「月号」)

この号に井伏は新たに説明文を書いているが、昭和23年時の内容とは異なり、“企画に従って
釣りの仕度で待っていが、太宰が羽織袴姿で来たので、急遽、森での撮影に変えた” とある。
事実は?だが、この間13年、時の流れがあって事実が明かされたのではないだろうか。


終戦直前(S20/7)に、疎開先の甲府で別れてからも、文通で師弟としての良好な関係が
続いていたが、なぜ井伏の帰京(S22/7)直後頃から変ったのか、主に二つの見方がある。

① 太宰は美知子との結婚に際し、井伏に、“家庭を大事にします”という誓約書を提出したが、
帰京後は、自宅以外に執筆のための仕事部屋を持ったこともあって家庭は疎かになった。
特に二人の女性との関係が深まり、井伏が疎開から東京へ帰った時(S22/7)には、
太田静子は太宰の子を宿し(S22/11出産)、富栄との仲は後戻りできない状態にあった。
太宰は、井伏に顔向けできず、避けざるを得なかったという見方である。

② 井伏の小説「薬屋の雛女房」(S13)と関連付けた、川崎和啓著「師弟の訣れ-太宰治の  .
井伏鱒二悪人説-」(H3(1991)/12<近代文学試論>)の論考がある。(別項参照

昭和22年夏頃、太宰が企図した「井伏鱒二選集 全九巻」の刊行(筑摩書房)が決まり、
太宰が全巻の「後書」を書くことになった。そのため、太宰はその秋(S22)から冬にかけて
過去の井伏作品の再読を始め、「薬屋の雛女房」(S13)を目にした。それまで、太宰は
何らかの事情でこの小説の存在を知らず、この時が初見でその内容に驚愕、激怒し、
井伏への信頼は一転して強い不信に変わり、訣別に向かったという見方である。
これが「人間失格」(S23/5脱稿)や遺書などにも反映したのではないかとしている。

参考まで・・、井伏が帰京(S22/7)した年の、井伏の太宰への接し方が窺える書簡がある。
「昭和22年9月4日付」と「同12月10日付」の太宰宛の書簡で、ともに太宰の病気を
伝え聞いた時の見舞状である。儀礼的ではなく、太宰を気遣う温かい気持ちが十分に
読みとれる長い手紙だが、「斜陽」をもって一躍名を高めた太宰に対し多少の遠慮が窺え、
井伏から積極的に会おうという姿勢ではない。井伏は太宰の生活実態を詳しくは知らず、
また、自らそこに関与すべきことでもなく、むしろ距離をとる気持が表れたのかもしれない。

ただ、9月4日付の文中にある節酒を説く次の一節は “要注目” だろう。


「或ひは僕は文治さんに手紙を出すやうなことになるかもわかりません。『貴殿御令弟儀、
聊か酒がすぎるやうなところ有之、友人のいさめを用ゐず五体を自ら苦しめ云々。』どうか
さういふ手紙を出さないでもよいやうにしたいものです。」(註:この時、文治は青森県知事)


井伏は、旧知の気安さから軽く、半ば冗談ぽく書いたつもりかもしれないが、過去の価値観、
柵からの解放を標榜する太宰としては不快というより、反感、不信感を覚えたのではないか。
両者の感覚のズレ、関係の綻びはこのようなところにも窺えるようだ。

      *先輩批判・井伏との訣別

私見になるが・・、戦前・戦中の太宰は、津島家や社会、国家からの強烈な圧力に抗するため、
井伏といういわば防波堤の内に身を置いたが、戦後、その圧力が消えると、その防波堤は外へ
出るには疎ましい存在に変った。私生活面では井伏に合せる顔が無い状況の中で井伏の旧作を
再読すると、「薬屋の雛女房」が初見かどうかはともかく、例えば「青ヶ島大概記」(S9/3)のように
ときに安易な作品作りがあることが目に付き、また井伏の生活、生き方の世俗性も鼻に付いた。

このとき、太宰の目には、井伏もまた、戦後の新しい時勢に便乗する我が身可愛さの俗人、
世渡り上手と映ったようだ。「井伏鱒二選集 二巻~四巻」の太宰の後書にはその反映があり、
特に「同 第四巻(S23.4.27.口述)」に旅行上手の井伏と旅行下手のことを対照的に書いたのは
象徴的である。昭和10年代の太宰は、井伏を頼り、その仲間たちとともに生きてきたが、戦中
から戦後の文学的成功で知名度、作品の売れ方は井伏らを凌駕し、独立路線に転じたことで
自分の文学とその方向、生き方は根本的に井伏らとは異なることを明確に意識したのだろう。

太宰は、「十五年間」(S21/4:<文化展望>)の中で、日本の文壇を “サロン芸術” という表現で
否定したが、先輩に対する不信、批判が具体的に読みとれる最初の記述は、昭和23年1月8日
に起稿し、中旬に脱稿した「美男子と煙草」(S23/3:<日本小説>)の冒頭部分である。批判対象は
“古いもの”、“年寄りの文学者” とあり、志賀直哉による太宰批判(S23/1:<文学行動>)への
反発を思わせるが、井伏も対象の一人と読める。この冒頭部分は、本文とは直接の関連は無く、
一週間前の井伏宅年始訪問(別項参照)の状況を題材にして付け加えたようにみえる。

この年始に、井伏は結婚時の誓約書を絡めて太宰の実生活を強く窘め、また、偶々一緒になった
先輩らは志賀の発言を知ってか、口を揃えて太宰の作品や女性関係などを批判したのだろう。
直後に執筆した「如是我聞 一」の批判対象は “老大家” だが、志賀直哉であることは明らかで、
「馬鹿学者」、「馬鹿文豪」という言葉を使って先輩文学者の批判を続けることを宣言している。
「如是我聞 二」では、いわゆる “外国文学者”、“翻訳・評論” に対し辛辣な批判を繰り広げている。

担当編集者(新潮社・野平)によれば、太宰は執筆に意欲を燃やし、1年間の予定だったという。

「家庭の幸福は諸悪の本」と書いた小説「家庭の幸福」は同時期(S23/2頃)の執筆で、「如是我聞」の
先輩批判に呼応している。初出(S23/8 <中央公論>)は死後・・何か事情があったのか、一寸気になる。

(「如是我聞」については、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」 に詳記)


太宰の先輩批判がはっきり読み取れる作品を次表にした。(脱稿順 - 山内祥史の年譜による)

作品名 脱稿 初出 初出誌 種別 備 考 
  十五年間 S21.1.中旬頃 S21/4 文化展望 随筆  文壇のサロン体質を批判
  美男子と煙草 S23.1.中旬 S23/3 日本小説 小説  先輩の文学論や若者への姿勢を批判
  如是我聞 一 S23.2.27 S23/3 新潮 随筆  “老大家”たちへの抗議
  徒党について S23.2.29頃 S23/4 文藝時代 随筆  仲間作り、仲間褒め批判
  井伏鱒二選集(二) 後書  S23.3頃まで S23/6 筑摩書房刊  井伏の安易な作品作りを皮肉る
  家庭の幸福 S23.2末頃  S23/8 中央公論 小説  家庭のエゴを「諸悪の本」と看破
  如是我聞 二  S23.4..6  S23/5 新潮 随筆  外国文学者、評論家を批判
  井伏鱒二選集(三) 後書  S23.4.7頃 S23/9 筑摩書房刊  井伏の小心、俗人性を揶揄
  井伏鱒二選集(四) 後書 S23.4.27 S23/11 筑摩書房刊  井伏の俗物性、世俗性を皮肉る
  人間失格 第三の手記 S23.5.10頃 S23/7・8 展望 小説  作中の「堀木」は井伏に重なる。
  如是我聞 三 S23.5.中旬 S23/6 新潮 随筆  先輩を批判・志賀直哉は名指し
  如是我聞 四  S23.6.5 S23/7 新潮 随筆  志賀直哉攻撃を激化
 .  .  . .
「文庫手帖(23)」のメモ   太宰の “執筆メモ” - 「井伏鱒二ヤメロといふ、」に始まる井伏への批判などを書いた。


先輩批判は、<新潮>連載の「如是我聞」のほか、随筆「徒党について」、小説「人間失格 - 第三の手記」と
続くが、「如是我聞」は、内容的にも文章表現的にも、誰が読んでも異常と感じておかしくないほど独善的、
感情的で、富栄の日記(S23.4.3他)などから、井伏は、遅くとも「如是我聞 一」の段階の4月上旬には
太宰に執筆中止を求めたことが分かるが、太宰は聞き入れず、疎遠というより訣別に向かったのである。

太宰が自分の手帖 「文庫手帖(S23)」 に、「井伏鱒二ヤメロといふ、」 に始まるメモ
(次項に詳記)を書いたのは、富栄の日記などから、この4月上~中旬(S23)頃と推測できる。

もう、井伏の世話にならなくても独歩できる・・、というより井伏との関係を絶った方が
さらに自由に思いのままの道を歩ける・・、この時は、そんな自信、確信を持ったように見える。

井伏に「如是我聞」の執筆中止を求められた直後に執筆した「人間失格 第三の手記 」 は、このメモに
通じるところがあり(“堀木” は井伏に重なる)、さらに同時期執筆の「井伏鱒二選集(三)」、「同 (四)」
の後書を合せると、これらの作品に、井伏に対する激しい複雑な心情(訣別)を反映させたといえる。

さらに、「人間失格」脱稿に続いて5月中旬に執筆した「如是我聞 三」 は、先輩批判の標的として
志賀直哉を名指しにし、名指しではないが、川端康成を “茶坊主、卑しく痩せた俗物作家”、
師の井伏を “後輩を否定し入院させる先輩、自分の作品は手抜き、おけら” と罵ったのである。

直ぐに続けた 「同 四」では、志賀への感情的、逆上的攻撃を一層激しくした。これは、このころに
読んだ雑誌、<社会>(S23/4・鎌倉文庫)と<文芸>(S23/6・河出書房)の座談会での志賀による
太宰の小説 「斜陽」、「犯人」 批判発言に対する反発、怒りの強さを示している。

前進あるのみ、後戻りは慮外となった。

なお、「太宰治全集」巻末の解説など、過去の主要文献の多くは、<社会>(S23/4・鎌倉文庫)
に触れていないが、「如是我聞 三」の「速記録」に関する記述は、この<社会>の発言である。
詳細は、後記の志賀直哉の発言 “三連弾”:これで太宰は「如是我聞」に走った 参照。


“守旧派(悪) 対 改革派(正)” とする対決の図式がある。太宰がそれを明確に意識したかは分から
ないが、戦後時代の新たな視点として “聖書” を価値基準に置き、古いものや過去の柵(しがらみ)
志賀直哉に象徴させて “悪” と位置づけることで文学活動を続けようとしたのではないだろうか。

井伏離れは、井伏に顔向けできない私生活上の諸問題、井伏の作品作り、世俗性への嫌悪感に
加えて、太宰の戦後の文学活動上の立ち位置を明確にする必要があったためと思えるのである。
「如是我聞」は、いわば太宰の “独立宣言” であり、再出発の決意表明だったといえよう。

私見を加えれば・・「人間失格」でそれまでの太宰文学の “総仕上げ” を果たした太宰は、
作品の質の問題は別にして、「如是我聞」において作家としての独立・再出発の覚悟を示し、
「グッド・バイ」では乱れた私生活の清算と家庭回帰を表明したかったように思う。
この連続執筆三作品は、死ではなく “新たな生” に向かう三連作だったといえよう。


が・・、前記の通り、たちまち、前進が極めて困難な状況に立ちいたり、“死” を選ぶしかなくなった。


そこで、「井伏さんは悪人です」だが、これは「文庫手帖」にある「井伏鱒二ヤメロといふ、」に始まる
メモ(別掲)の結論である。したがって、井伏の俗物性を衝いたこのメモがこの文言の本体といえよう。

この文言は、美知子あての遺書(別掲)の中にもあるといわれ、「井伏さんは俗物・偽善者、世俗の
価値観でしか生きられない いやしい人だ。自分は井伏のお為ごかしに乗せられて利用されて
きた。かっての 井伏の世話はうれしくなかった。」という複雑な思いを伝えようとしたことになるが、
これが美知子あての遺書にあるとすれば、その真意は何だろう。末尾に加筆(強調の手法?)
した 「お前を誰よりも愛してゐました」 と合せ、太宰の心奥は “津島修治のみぞ知る” である。

メモ(別掲)の末尾 「イヤな事を言ふやうだが、」 以下は、“逆恨み” というより妄言の感さえあるが、
太宰自身が、自身の文学的欲望のために生涯にわたって井伏を利用したことを物語ってもいよう。
俗物の、さらにその上を行く俗物にして名作の数々・・、つまりは天才ということになろうか。

「井伏さんは悪人です」 なら・・、津島修治/太宰治は??

                          (本項 ( 6. 「井伏さんは悪人です」) は H27/2 一部追記)
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太宰治 : 作品一覧

太宰治の人生と文学

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== 関連する重要参考資料 ==


★ えぇぇ?? とても気になる “驚きの記述” ★

太宰の心中に関する多くの資料の中には、信憑性などで気になる記述が多数みられる。
そのまま事実と認識するのは危険な内容であり、その一部を次に例示する。


 亀井勝一郎は、著書「罪と道化と」(S30/9<文学界>:「無頼派の祈り」所収)に次のように書いている。.

「直接の死因は、女性が彼の首にひもをまきつけ、無理に玉川上水にひきずりこんだのである。
遺体検査に当った刑事は、太宰の首にその痕跡のあったことをずっと後になって私に語った。
しかし一緒に死んだのだから、そのことをあらだてるにも及ぶまいという話であった。」


ここでいう「女性」は、もちろん富栄である。亀井は、早い時期から太宰は富栄に絞殺されたと公言
していたようだが(井伏鱒二著「をんなごころ」(S24/12<小説新潮>)ほか)、これは事実ではないと
断定していい。このことは、遺体発見、検視に直接関わった野原、野平らが明確に否定している。

検視に立ち会った野原は、もし検視医がその痕跡を発見したら、何か表情に出すはずだが、
その気配は全くなかったとして次のように書いている。(「回想 太宰治-口もとに浮かぶ微笑」)

「(検視は)ごく事務的に運ばれ、ごく事務的に事はすんだ。そのことは、すこし離れては
いたが、亀井さんは見て知っていたはずである。 断じて、そのような痕跡はなかった。
私はすぐ間近で、検視医と同じくらいの間近さで、太宰さんに見入っていたが、
その首筋には、絞められた痕跡など、断じてなかったのである。」


遺体を収容し、検視の場にもいた野平も、「これは嘘だ。ありもしなかったことを
事実のように伝えたその批評家の真意は計りかねるが、ともかく変な人である
ことは確かだ」と言い切っている。(「山崎富枝の日記」(「矢来町半世紀」所収)

亀井は、“刑事から聞いた”ということで確信的に公言したのだろう。他に三枝康高(文芸評論家)
にも同様の著書(「太宰治とその生涯」(S33)・「太宰治とその周辺」(S50))があるが、
大多数の関係者、研究者は絞殺を否定している。亀井らの思い込みといってよかろう。


 堤重久は、著書「太宰治との七年間-再会と訣別」(S44:筑摩書房)に次のように書いている。   .
太宰に呼ばれて昭和22年12月20日に京都から上京し10日間滞在した時の太宰の言である。

「ここだけの話だがね、この正月にね、亀井や山岸たちと井伏さんのところに、挨拶にいったんだ。
例のごとく、おれはしたたかに酔っ払っちゃってね、眠くなったもんだから隣室に引き退がって、
横になって寝ちまったんだ。どのぐらい寝てたんだか、それは分らんがね、とにかくふと眼を
さますと、襖越しに笑い声が聞こえるんだ。みんなで、寄ってたかっておれの悪口をいい合っては
笑っているんだ。おれがピエロだというんだ。いい気になっているけれど、ピエロに過ぎんと
いうんだよ。このとき、おれはね、地獄に叩きこまれたと思ったね。髪の逆立つ思いとは、
あれのことだね。思い出しただけで、総身が慄えてくるんだよ」

これに対し、堤は「非は相手方にあるように思われた。」と太宰に同情を寄せている。

さて、ここで、この太宰の言は事実だろうか? 本当に言った(聞いた)のだろうか?

まず、「この正月」というのは、昭和22年正月のことになる。しかし、この正月は、井伏はまだ
福山に疎開中(帰京はS22/7)である。疎開中に井伏は何回か上京しているが、東京滞在時の
昭和21年12月26日付の太宰あてハガキに「(太宰に)会わないで、明日午後、田舎へ帰る。
25日夜」(要約)と書いているので、井伏は昭和22年正月には東京には居なかったといえる。
しかし、何よりも、年末に、1年前のこのような年始訪問の話をすること自体が考え難いこと。

次に、山岸だが、その著「人間太宰治」(S37)に、「自分が、戦後太宰に初めて会ったのは
昭和23年2月」と書いている。不実を書く必要はなく、このころの山岸は山形県に疎開中で
簡単に上京できる状況にはなかったことを考えると、小説は事実の可能性が大である。

そして、「井伏宅で、襖越しに悪口を言われた」という出来事だが、終戦前のことは考慮外として
井伏の帰京後の昭和22年7月~12月の可能性はあるが、それなら太宰、亀井、山岸らが
同じ日に井伏宅を訪問したという記述がどこかに残るだろうが、それは見当たらず、むしろ、
太宰が感じたとされる旧知の煩わしさから、そのような訪問はなかったと見る方が妥当だろう。

昭和23年のこととすると、正月しか考えられない。太宰は元日に井伏宅を年始訪問しており、
(井伏は「ヴィヨンの妻」に明記。(S25/5「現代日本小説大系別冊第1巻-月報」・河出書房))
山岸はいなくても亀井とは一緒になった可能性があるが、同席した訪問客のことは不明である。
これに関連する記述として、太宰の年譜、美知子の回想、富栄の日記に次のようにある。

主要年譜は「太宰夫妻が訪問」だが、富栄の日記(1/1)は「長女(園子)と一緒の様子」とあり、
さらに、「昨夕5時半頃おいでになった由」(1/2)とある。太宰は夕方には帰っていたのである。
美知子は、「回想の太宰治-税金」に、“訪問をしぶっている太宰を押し出すようにしたが、帰って
から、みんなが寄ってたかって自分をいじめると云ってメソメソ泣いた” のように書いている。

太宰の家族状況を考えると夫妻で訪問したか疑問で、三人の子供を伴ったとも考え難い。
長女(6歳)と一緒とすれば、5時半頃という早い時間に三鷹に帰っていたことは
十分あり得ることで、それならこの襖越しの悪口の出来事はなかっただろう。

なお、「襖越しの悪口」だが、当時の井伏宅の間取りには、襖1枚で仕切った隣の座敷はなく、
隣室は廊下を隔てており、聞こえないと断定はできないが、構造上かなり難しいように思える。
(下図は、昭和34年まであった旧宅の新築時の間取り。 取壊し時点では、
北側に浴室、茶の間関連の増改築があったが、基本部分は変わらない。)

 

(「井伏鱒二と『荻窪風土記』の世界」(H10)より)


もちろん、井伏に生活の現状を強く窘められ、また、居合わせた年始客に作品や実生活を批判され、
貶されたことは十分考えられる。いじめられたと思い、帰ってからメソメソしたということだろうか。

玉川上水心中の有力な研究者の一人長篠康一郎は、この太宰の年始訪問に注目しているが、
“襖越しの悪口” の出来事には触れていない。事実関係に疑念を持ったからではないだろうか。

総合的にみて、堤のこの記述は信憑性に欠け、太宰の言が事実かどうか極めて疑わしい。

(堤自身も、「あとがき」に “芸術家の言説は嘘の大海” と書き、本書の虚構性を示している。
実際、本書の他の個所にも、事実との相違あるいは疑わしい記述が多々見受けられる。)


また、井伏らによるこの “襖越しの悪口” については、
猪瀬直樹著「ピカレスク」(H12)、松本侑子著「恋の蛍」(H21)にも同様の記述があるが、
同席者として、猪瀬は「亀井、外村繁」、松本は「山岸、亀井」の名前をあげている。

両書とも、“小説” の故か根拠(出典)は示されない。多くの部分で富栄の日記を
材料にしながら、ここでは富栄の記述に触れないのは気になるところである。

いずれにしろ、昭和23年元日の出来事を前年の12月に堤が聞くはずはなく、
堤は、後に耳にしたであろう風聞の類を、この時に聞いたことにしたのである。
作家が小説に書いた同席者名と襖越しの悪口は、この部分の利用といえる。



 梶原悌子は、著書「玉川上水情死行-太宰治につきそった女」(H14:作品社)の. 昭和23年   
1月1日の日記のコメントに、上記の堤重久の著書から上記②の箇所の一部や他の箇所の
太宰の言を、「この語りには多少の創作があったかもしれない。」 としたうえで引用している。

著者は、事実関係に疑問を感じながらも、一部分を切り取ってそのまま利用した感がある。
井伏や亀井、山岸との疎遠は事実としても、誤解を招きやすい引用ではないだろうか。

ちなみに、堤の上記著書から引用した「太宰の言」は、次のとおりである。
事実とか太宰の真情とは別次元の、いわば、著者の思い入れだろう。

「亀井とはね、此頃道で会っても、やあと一声かけ合って擦れ違うだけさ。
山岸とも、もうおしまいだね [・・・]」

「[・・・]どのぐらい寝てたんだか、それは分らんがね、とにかくふと眼をさますと、
襖越しに笑い声が聞こえるんだ。みんなで、寄ってたかっておれの悪口を
いい合っては笑っているんだ。おれがピエロだというんだ。いい気になって
いるけれど、ピエロに過ぎんというんだよ。[・・・]」

「それに、井伏さんはひどいよ。可愛ゆげがないから、美知子と別れろというんだ。
お前、ひどいと思わんかね。自分が世話したくせにさ。
それ以来、おれはね、井伏さんを信用しないんだ」


なお、著者は、井伏ら著名文筆家がいう “太宰を死に導いた富栄” は、実像ではない、
著者が実際に接した本当の富栄を知って欲しい、という立場で本書を書いている。


 相馬正一は、「太宰治と井伏鱒二」(S47:津軽書房-初出は数年前)に、次のように書いている。

「・・・身心ともに疲労しきっていること、などを人づてに聞き知っていた井伏は、筑摩書房の古田晁と
相談して、太宰を一時甲府へ身を避けさせ、ゆっくり静養させる計画を立てた。そこで、そのための
下見に古田が甲府を訪れていた矢先に、太宰は山崎富栄と玉川上水に身を投げたのである。」

これが事実なら、前記した井伏の「太宰の背景を語る」(S24)は事実でないことになるが、
その根拠や関連する説明はなく、その後の相馬の著書「評伝 太宰治 下巻」(H7)では、
「太宰の背景を語る」の方を引用している。この間に、野原の「含羞の人 回想の古田晁」
(S57)が発表されていることを考えると、相馬は、「太宰治と井伏鱒二」の方の記述は
事実でないことを確認したのかもしれないが、何らかの説明が欲しいところである。


 出所は不詳だが風説で、「太宰は、死の直前、ふたたび麻薬患者だった」 というのがあるという。

例えば、雑誌「文藝」(S23/6)で「志賀直哉を囲む座談会」の司会をした編集者・小説家の
杉森久英は「苦悩の旗手太宰治」(S42・文藝春秋)に、「麻薬の注射がまたはじまって
いた。注射するのは山崎富栄の役目である。」 と書いた。根拠は示していない。

また、塩澤実信著「古田晃伝説」(H15)に、次の記述がある。

「井上の眼に異様に映ったのは、太宰のまわりに使用済みのアンプルが、一面に散らばって
いることだった。泥酔と疲労困憊の身を救うために、覚醒剤を大量に射った証拠であった。」

ここでいう覚醒剤というのは、単に二日酔いを覚ますための注射薬ということで、禁止薬物の
覚醒剤とか麻薬を使ったという意味ではないが、ちょっと紛らわしい。このころの太宰は、
栄養剤に類する注射を常用したことはよく知られており、風説に繋がったのかもしれない。

野平は、著書「矢来町半生記-残る疑い(S43)」で、自信はないとしたうえだが、「晩年の彼の
身辺を見聞している人ほど、太宰が患者であった証拠にうといのも不思議な話である。」 とし、
死の直前に「如是我聞」を徹夜で口述筆記した(6/4~5)時の様子から、太宰が麻薬のとりこ
になっていた話は信じられないと、これを明確に否定している。 野平の言を信じてよかろう。


 長篠康一郎は、亀井、井伏ら文壇主流の「富栄主導による心中説」に疑問を持ち、富栄擁護の
立場から独自の調査を行い、多くの著作でこれに反論し、「井伏悪人論」を強調している。
それをまとめたのが「太宰治武蔵野心中」(S57(あとがきの日付):広論社)で、その中に
次の記述がある。今では事実の確認は難しい面もあるが、論考の一つとして貴重である。

・「美知子宛遺書の下書き」とされる反古(紙片)について =井伏をかばって誰かが破った。

「ある文献によると、これらの遺書は破って屑籠に放り込んであった、と書いてあるのを読んだこと
がある。だが、最初の発見者である野川アヤノ、増田ちとせ、黒柳家の主婦の語るところでは、
はじめから破ってあったのではなく、発見した時はそれぞれ小机の上に重ねて置いてあったという。
もし、太宰治の遺書を破った者があったとすれば、その後に富栄の部屋に入った誰か(男性)で
あることは、疑いようのない確かな事実である。多分、井伏氏をかばっての行為であろうが、
井伏氏の弟子筋にあたる人々にとっては、堪え難い事であったろう。」


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 富栄の部屋で発見された「反古」(書面)に関する事実と私見

 富栄の部屋で発見された 「反古」 とされる書面の1枚は、昭和23年6月16日付の<朝日新聞>に
「太宰氏の遺書」 という見出しで写真が載り、記事には “友人あての遺書” とある。

 

この文面を、長篠は、“美知子夫人宛と思われる遺書” とし、次の通り活字にしている。

「―簡単に解決可―信じ居候 永居するだけ 皆をくるしめ こちらもくるしく かんにんして被下度 
子供は凡人にても お叱りなさるまじく 筑摩 新潮 八雲 以上、三社にウナ電」(―は字句不明)」
 (「太宰治との愛と死のノート-巻末注記」(1995/12・学陽書房))

なお、<朝日新聞>は、前日(S23.6.15)の記事に、「夫人あての遺書には 『小説も書けなくなった、人に
知られぬところへ行ってしまいたい』 という意味のことが書いてあると夫人は語った」 と書いている。
16日にも同様記事があり、この写真の文面を美知子宛遺書と関連付けなかったのかもしれない。



 月刊誌<新潮>の平成10年(1998)7月特大号は、「特集・太宰治歿後五十年」として関連記事を
載せ、遺書や「反古」とされる書面の一部などを写真にして初公開している。

このうち 「反古」 とされる書面の一部は、上記写真の3行目~8行目に当たる 「永居するだけ
皆をくるしめ こちらもくるしく かんにんして被下度 子供は凡人にても お叱りなさるまじく」
の部分で、写真説明によれば「昭和二十三年六月十六日付朝日新聞紙上に掲載された遺書
の反古、全三枚のうちの一枚。 手紙の裏面に一部紙を当て補修した跡がある。」 である。

<朝日新聞>の書面用紙に破られた跡はなく、<新潮>の説明文と合わせると、この
書面は 「発見当初は反古ではなかった」 という長篠の指摘は正しいことが判る。


しかし、誰が、いつ、反古にした(三枚に分けた?)かは不明と言わざるを得ない。というより、
<新潮>の写真部分は、「裏面に一部紙を当てた補修の跡がある」 程度で、意図的に
反古にしたものを復元したとは考え難い。三枚のうち前後の部分の状態は不明だが、
文面内容からみて、この “反古にした” ことに深い意味があるのか疑問である。
また、「美知子宛遺書の下書き」 かも疑問で、いわゆる「書き置き」ではなかろうか。


* 
次いで、<新潮> には、もう一枚の 「反古」 の写真が載り、次のように活字にしている。

「皆、子供はあまり出来ないやうですど 陽気に育てて下さい
あなたを  きらひになったから死ぬのでは無いのです
小説を書くのが いやになったからです」

写真説明によれば 「遺書の反古三枚のうちの一枚。破損状態で見つかったものを 当時近しい
人物が新聞紙に貼り復元したと思われる。 (中略) 遺書を貼り付けた日本経済新聞の日付は
昭和二十三年六月十六日となっている。」 「遺族の意向により一部非公開」 である。

付言すると、「遺族の意向により一部非公開」 の部分に、すでに周知となっている文言
「みんな いやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」 があるはずである。


写真を見ると、破損の状態は前出の反古より激しいようだが、意識して破り捨てたと
いうほどではなさそうだ。内容的には、美知子宛の遺書の下書きか、一旦書いたが
書き直しをしたために残った,書損分かのどちらかだろう。 普通、こうした場合には、
筆者は自分の手で反古にするだろう。 太宰は小説を書きながら常に書損原稿を
反古にする行為をしていたはずで、今回もその習慣に従ったとみるのが自然だろう。

もし、これを、太宰が意識して他の書面と重ねて置いたとしたなら、
<朝日新聞> は前出写真と同時に撮り、記事などにしたはずだが、
そのような様子はない。 発見当初から反古だったとみてよかろう。

仮に、当初に発見した誰かが、何らかの意図を持って反古にしたとすれば、
復元が難しいように、もっと細かく破ったのではないだろうか。

そして、これらの書面を誰かが意図的に反古にしたのだとすれば、
それは、長篠がいう 「井伏をかばった」 からではなく、
太宰本人やその家族のことを思っての行為と思うがどうだろう。

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・昭和11年の太宰のパビナール中毒入院治療について =麻薬中毒重症患者でなかった。

「さきの麻薬中毒重症患者というのもその一つだが、これら太宰治を性格破綻者と
規定する事績について、私が二十年余に亘りその真偽を調査した結果、
事実に相違ないと認められる事件は、なんと一件も無かった。」


(重症かどうかというより、麻薬中毒が心身を蝕み、生活を乱していたという事実が重要ではないか。)

6月10日、富栄は菩提寺などを訪ね、さらに田部あつみの供養のため鎌倉腰越へ行った。

「“死”の3日前に、いまは亡き田部あつみの最後の御供養に富栄が鎌倉腰越まで赴いた・・」
「富栄は、病中の太宰治に代わって、最後の御供養に腰越へ赴いたのである。」

(富栄は、昭和21年の春から11月まで、鎌倉で美容院を共同経営(富栄の日記:S22.11.20)した。
その関係というなら分からなくもないが、“太宰の病中”、“供養”には根拠を示して欲しかった。)

・本書「太宰治武蔵野心中」は富栄の日記の大部分を載せているが、重要部分が抜けている。

本書には、“日記抄” として富栄の日記の大部分を載せているが、5月22日~26日(S23)は
抜けている。 入水心中(6/13)の直前で、太宰と富栄との関係に微妙な気配が感じられる
時期で、起稿したばかりの「グッド・バイ」との関連もあり、注目すべき重要な富栄の記述と
思うが、これを除外した著者の意図が気になるところである。

(長篠康一郎には、別に「山崎富栄の生涯ー太宰治・その死と真実」(S42・大光社)という労作がある。)



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★ 公開された妻美知子あての遺書の一部 ★


遺書九枚中の一部が、<新潮>(H10/7:「特集 太宰治歿後五十年」)に、実物写真入りで初公開された。

「津島美知様」と表書きした封筒に入っていた。 (遺族の意向で次の部分以外は非公開)


  2枚目 「子供は皆 あまり
  3枚目  出来ないやうですけど 陽気に育ててやって下さい
         たのみます 
       ずゐぶん御世話になりました 小説を書くのが いやになったから
        死ぬのです」

  6枚目  「のです いつもお前たちの事を考へ、さうしてメソメソ泣きます」

  9枚目  「津島修治 美知様 お前を誰よりも愛してゐました」



なお、太宰の遺書に関して、田中英光に次の記述がある。田中は実物を読んだとみてよかろう。

「書簡類」や「断簡零墨」にも触れているが、田中は、次項に記す文庫手帖の“執筆メモ”をも
目にしたのかもしれない。 太宰と遺された家族への思いを込めた田中の一文である。

   「ひとは、遺書などを書く心境にいる時、いちばん乱れてしまうものらしい。私は、そんな点から人間の
   末期の眼の正確さなぞ、信用しないのだが、どんなものであろうか。
    というのは、奥様の賢明に保管しておられる門外不出の太宰さんの遺書についても、その最後の
   一節を除き、あとは信用できない気がするからである。これは私の例によって出すぎた言葉かも
   知れぬが、特にお子様たちの将来なぞを思えば、この際、殊に、その前半殆どは焼かれてしまった
   ほうがよいなぞと余計なことを考える。
    又、これは、太宰さんの書簡類についても同じことが言えると思う。・・中略・・ 作品ではないのだから
   これを断簡零墨にいたるまで集めるというのは、ひどく悪趣味だし、また故人が、「随筆集」の中でいって
   いるように、その意志にさえそむくように思われる。」

   (「太宰治全集 附録第5号」(八雲書店:S23/12)収載の「鷗と鍋鶴」(「師太宰治」(津軽書房:1994)所収))

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太宰の遺書については、松本侑子著「恋の蛍」(H21:第29回(H21)新田次郎文学賞
受賞作品)に次のようにあるが、清書された遺書の根拠(出典)は示していない。

「美知子あてには、まず下書きをした。 ―上の「写真A」の部分(永居するだけ~三社にウナ電)―
それから清書をした。 津島美知様 (略)子供は皆、あまり出来ないようですけど 陽気に育てて
やって下さい  たのみます ずいぶん御世話になりました、小説を書くのがいやになったから
死ぬのです  みんな いやしい欲張りばかり 井伏さんは悪人です   津島修治  美知様
お前を 誰よりも 愛していました」


ここには、公開部分にはない 「~井伏さんは悪人です」の文言が明記されているが、
著者が実物を確認した様子はない。一方、公開された6枚目の文言は抜けている。
つまり、この「清書した遺書」は著者の「推測による遺書」で実物とは一致しない。
小説上とはいえ、一般に誤解を招く記述ではないだろうか。


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 ★ 「文庫手帖昭和23年用)」の執筆メモ ★

平成7年(1995)に青森県近代文学館が開催した「特別展・太宰治」に際し、美知子未亡人は、
太宰が遺した「文庫手帖」2冊(昭和22年用と昭和23年用)など多数の資料を提供、寄贈した。
同館は、平成13年(2001)に、この「文庫手帖」を原寸大の写真版にして
「資料集 第二輯  太宰治・晩年の執筆メモ」 として公刊した。

「文庫手帖」は、久米正雄、川端康成らが設立した「鎌倉文庫」が発行した文筆家向けの 1年用のポケット手帳で、
主体は、見開き2ページに日曜日~土曜日の日付とメモ用空欄の 計8コマを52週間分印刷した日記形式である。
太宰はこの手帳を普通のメモ帳のように使い、日付とは関係なく、思いついたことを、適当な
空いたページにメモった。(ほとんどがなぐり書き的である)。 内容的には“執筆構想メモ”で、
昭和22年用はほとんどが「斜陽」だが、昭和23年用には 「人間失格」、「如是我聞」、「井伏鱒二選集-後書」、
「高尾ざんげ(豊島與志雄著)-解説」、「眉山」、「グッド・バイ」、ほかに、その時の胸中など多様な内容である。


★ 特に、昭和23年用手帖には、井伏に関するメモも多数あり、自殺直前の太宰の複雑な心情を
窺うことができるが、参考までに、まず最も注目すべき驚きの部分を次に抜粋(活字化)する。

「如是我聞」、「人間失格 第三の手記」、「井伏鱒二選集 後記」を執筆の、4月中旬頃の
メモと思うが、井伏批判というより逆ギレ的な悪口雑言・・坂口安吾が「不良少年とキリスト」
(S23/7<新潮>)にいう “フツカヨヒ的” ということだろうか。

冒頭の「井伏鱒二 ヤメロといふ」は、「如是我聞」執筆中止要求のことと考えてよかろう。
女性関係や大量飲酒癖などの生活ぶりも咎められ、過激反発になったのかもしれない。
この文章そのままではないが、同じ趣旨の記述が 「如是我聞 三」 にみられる。

(「如是我聞」については、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」 に詳記

 井伏鱒二 ヤメロ といふ、足をひっぱるといふ、
  「家庭の幸福」
  ひとのうしろで、どさくさまぎれにポイントをかせいでゐる、卑怯、なぜ、やめろといふのか、
 「愛?」 私はそいつにだまされて来たのだ、人間は人間を愛する事は出来ぬ、利用するだけ、
 思へば、井伏さんといふ人は、人におんぶされてばかり生きて来た、孤独のやうでゐて、このひとほど、
 「仲間」がゐないと 生きてをれないひとはない、
 井伏の悪口を①ふひとは無い、バケモノだ、阿呆みたいな 顔をして、作品をごまかし(手を抜いて)
 誰にも憎まれず、人の陰口はついても、めんと向かっては、何も②はず、
 わせだをのろひながらもわさだをほめ、愛校心、ケッペキもくそもありやしない 最も、 いやしい
 政治家である。ちゃんとしろ。(すぐ人に向③④⑤グチを言ふ。⑥やしいと思っ たら、
 黙って、つらい仕事をはじめよ、)
 私はお前を捨てる。お前たちは、強い。(他のくだらぬものをほめたり)どだい私の文学が
 わからぬ、わがままものみたいに見えるだけだろう、 聖書は屁のやうなものだといふ、
 実生活の駈引きだけで生きてゐる。 イヤシイ。
 私は、お前たちに負けるかもしれぬ。しかし、私は、ひとりだ。「仲間」を作らない。
 お前は、「仲間」を作る。太宰は気違ひになったか、などといふ仲間を、
 ヤキモチ焼き、悪人、
 イヤな事を言ふやうだが、あなたは、私に、世話したやうにおっしゃってゐるやうだけど、
 正確に話しませう、 かって、私は、あなたに気に入られるやうに行動したが、少しもうれしくなかった。

( 註) 実物は、3月18日(木)から4月15日(木)のページまでの9ページに
細かい改行で約100行にわたって縦書きしてある。改行個所や行間の
加筆文字は文意などから適宜判断して上記とした。○は判読不能箇所
だが、「①=言、②=言、③④⑤=かって、⑥=く」ではないだろうか。

なお、⑥について、資料集の解説においては、 「い」 と特定しているが、
メモ実物からは 「い」 と判読するのは困難である。


(昭和23年3月14日(日)の週の見開きページ)


★ 次に、メモ用の白紙ページにある記入(2ページに縦書き8行)である。その直前のページ
には「井伏鱒二選集 二・後書」に関するメモがあり、それに続けて書いたように見えるので、
12月~3月頃、つまり、井伏が「如是我聞」執筆中止を求めた時より前の時期の記入だろう。
とすれば、上のメモは、井伏に執筆中止を求められた衝撃の強さを示しているといえよう。

 私の創作の苦しさを知り、私を敢然と支持して下さった唯一の先輩だったといふことを
 私事ながら附記して置
           させていただく

(註) 実物は、「置く」の「く」が抹消され、「して置」の字の左横に「させていただく」とある。
ただし、完成本の「後書」にはこの文言ないしこの趣旨の文言は入っていない。



★ そして、「11月の欄」にある次の記入にも井伏への強烈な心情がにじみ、注目に値する。

 「11月11日(木)のページ」にある縦に三行だけの記入。

 君たちは不可能を
    要求してゐる、
  戦争と同じ、

書いた時期は不明。前後のページとの関係は無さそうに見える。
「君たち」とは誰か?複数なのか?  「不可能な要求」とは?
「太宰の文学、生活に対する注文(批判)」や「『如是我聞』執筆中止要求」のことか・・
「御坂峠計画実行」とするのは考え過ぎだろうか?


 「11月21日(日)のページ」にある縦書きの明瞭な記入。

 「自分のために」書いてゐるのではないのだ、
 どうして それを言ふのですか?
 太宰が心配といって、 
  ダメにするは、あなたなのです、
 「お前はもう、皆に理解されてるのだから いいぢゃないか」
             バカヤロー そんな気では ないのです、

書いた時期は、直前のページ(11/18(木))に、「人間失格」中の有名な一節、(世間が、ゆるさない)
(世間というのは、君じゃないか)に関するメモがあることから、5月初旬とみてよかろう。
井伏に対する強い反発がここにもはっきり読み取れる。(「如是我聞 三」にもこの趣旨が入っている。)

このほか、井伏の小説「薬屋の雛女房」との関連も思える「薬局の女 パビナール 気狂病院」 とか、
「十年前を思ひ出す、そのフクシュウ、キチガヒにされた、」、「若者の言ひぶんも、聞いてくれ!」 などの
文言が散らばり、「人間失格」、「如是我聞」の背景にある井伏、志賀らへの激しい心情が読み取れる。

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★ 異質な記述 = 「富栄に関するページ」

記述の中に 「三月十一日」 があるので、この日(S23)に書いたものだろう。 各文言は短く、
断片的で、文字には著しい濃淡があり、文言間の意味には関連がなかったりで、全てが富栄
のこと、同日中の記入とは断定できないが、富栄の姿があることは確かで注目に値しよう。

この日(S23.3.11)は、「人間失格」執筆のため熱海の「起雲閣」(別館)に入って5日目、この間に、
太宰は太田静子に会おうとしたり(富栄が動揺して会わなかった)、富栄の言動を注意したりで、
二人の間に生じた気まずい空気が書かせたことかもしれないが、他の “メモ” とは異質である。
文学とは無縁の品性のない文言が目立ち、人物像としてはマイナスイメージの表現ばかりである。

「文庫手帖」 (S23:1/11(日)~17(土)のページ)
(「資料集」の写真は鮮明で判読しやすい))
左のページで 特に注目





(中間部に)

オソレイリマメ。 (自殺
とつさ的に  したい)

      ワカレタラ 
           死ヌ






右のページで 特に注目

右頁の左端に、中間部から上方に
向けて 「三月十一日」 とある。



(中間の少し下に)

勝手ニ注文スル、
          ヤメロ!

コンナ立派ナ女トモ、ワカレネバ
ナラヌカ、 スギタルモノ、
オツユ
       カンゴフ

       男ノ好物ヲナラベル、
        カニガスキデセウ?
       何百円デモ買フ


ところで ・・ちょっと気になる記述・・

太宰と太田静子が会ったのは、昭和22年5月24~25日(三鷹)が最後とされている。
本HPもそのように記してきたが、上記の “メモ” の次の記述がちょっと気になる。

左のページの上部(縦書の3行を、右→左に読んで) ・・
闇市場「縁日みたいね」  なんといふ下手くそ、 いまわかれて来た人は、

右のページの下部(縦書の2行を、右→左に読んで) ・・
 宿ニオイテキタ子、  イヅ、 子供ヅレ、 

意味はよく解らないが、太田静子に関わるイメージではないだろうか。
ひょっとして、会っていた?


もし、富栄がこのページを目にしたとすれば・・、衝撃の度は計り知れない。

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 (この資料の詳細について)

    標 題
      「資料集 第二輯 太宰治・晩年の執筆メモ」 (青森県近代文学館編集:平成13年8月発行)
    内 容
     ・「昭和22年版 文庫手帖」と「昭和23年版 文庫手帖」 の太宰のメモなど計158ページ分の原寸大写真
     ・「『太宰治・晩年の執筆メモ』の問題点」(東京大学助教授 安藤宏著)
    頒 布 (@1,200円)
      申込・問合せ = 青森県近代文学館(tel017-739-2575 ・ fax017-739-8353 ・メールも可)

      (本資料集は、
一時在庫切れだったが、増刷して頒布を再開した:青森県近代文学館確認・H27.6.15)

           =東京都内では、都立中央図書館、杉並区立図書館、文京区立図書館が所蔵=

   なお、安藤宏東京大学助教授(当時)は、この「文庫手帖」について、「東奥日報 平成13年10月12日~16日
   (14日を除く) 夕刊」 に、「明かされた太宰メモ」(県近代文学館資料集から)と題して紹介、解説している。
   東奥日報社(tel017-739-1500)に申し込むと、郵送される。4回分(コピー代@100円×4=400円)+郵送料


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★ 志賀直哉の発言 “三連弾” - これで太宰は 「如是我聞」 に走った ★

とぼけているね / 落ちはわかっている /  「斜陽」 閉口したな <文学行動>(復刊Ⅱ・S23/1発行・同人雑誌)は、
「志賀直哉、広津和郎両氏と現代文学を語る」
と題する座談会。他に文学行動同人が出席。

<社会>(S23/4月号・鎌倉文庫発行)は、
「文藝鼎談」と題する座談会で、
志賀直哉、広津和郎、川端康成、が出席。

<文芸>(S23/6月号・河出書房発行)は、
「作家の態度(一)」と題する座談会で、
  志賀直哉、佐々木基一、中村眞一郎、が出席。 

*<文学行動> における志賀の発言・・

  「(太宰治は) 年の若い人には好いだろうが僕は嫌いだ。とぼけて居るね。あのポーズが好きになれない。」


   (注) 座談会 S22.9.30 場所 世田谷常在寺 : S22.12.15印刷 ・S23.1.1発行=復刊Ⅱ号 ・発行者 小林達夫 ・
        発売所 十字屋書店 : 座談会には、同人の内藤健一郎、吉岡達夫、小林達夫が参加、司会進行している。

     この時、志賀直哉は64歳、日本ペンクラブ会長(第3代・S22/2~S23/5)、太宰治は38歳。 生涯面識なし。


*<社会> における志賀の発言・・


  「二、三日前に太宰君の「犯人」とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思っ たね。始めからわかって
   いるんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし ・・。」

  (「斜陽について) 「何んだか大衆小説の蕪雑さが非常にあるな。」

   (注) 座談会 S23/1~2頃 場所 熱海緑風閣 : 司会は “記者” : 発行所 鎌倉文庫 ・S23.4.1発行= 第3巻 第4号。


*<文芸> における志賀の発言・・


  「それから太宰君の「斜陽」なんていふのも読んだけど、閉口したな。」

  「閉口したっていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ。田舎から来た女中が自分の方に
   御の字をつけるやうな言葉を使ふが、所々にそれがある。それから貴婦人が庭で小便をするのなんぞも厭だった。
   作者がその事に興味を持つ事が厭なのかも知れない。」

  「あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぼけたやうな。あの人より若い人には、それほど気にならないかも
   知れないけど、こっちは年上だからね、もう少し真面目にやったらよかろうといふ気がするね。あのポーズは
   何か弱さといふか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね。

  「それがうまく行けばいいけどね、山出しの女中の敬語みたいなものが随所に出てくるから、たまらないよ。」

  「どうも評判のいい人の悪口をいふ事になって困るんだけど、僕にはどうもいい点が見付からないね。」

  (「犯人」について) 「あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを
   作者が知らないと思って、一生懸命書いている。」

  「太宰君のポーズは、弱い所から来ているね。」

  「まともにゆくよか、ちょっと横へ身を避けてゐないと、不安だといふような・・。」

  「だから、当人とすればそのことにも言ひ訳があるかも知れないjけどね、しかし読まされるはうは、愉快でないからね。」

   (注) 座談会 S23.3.15 場所 志賀直哉邸(熱海) : 司会は“編集部”となっているが、本誌編集人の杉森久英 である。
      発行所 河出書房 ・S23.5.20印刷納本 ・S23.6.1発行=第5巻 第6号 : 紙幅の都合で「作家の態度(二)」は次号掲載。

 
なお、太宰(1909生)と志賀直哉(1883生)とは生涯面識がなかったが、二人の作品や発言に
おける相手への評価については、生井知子著「白樺派の作家たち」(2005・和泉書院)所収の
「志賀直哉と太宰治 -「如是我聞」の解釈の為に-」(1998) が参考になる。


(「如是我聞」・「志賀発言」に関する詳細は、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」

                              (「志賀直哉の発言“三連弾”-これで太宰は「如是我聞」に走った」の項 H27/2UP)
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玉川上水:太宰入水の場所

太宰と富栄が入水したといわれる場所に、玉鹿石(ぎょっかせき)が置かれている。
(道路向かいの緑が玉川上水で、土手に二人の下駄が残されていたという。)
プレートには、「玉鹿石 青森県北津軽郡金木町産 1996年(平成8年)6月」
と書いてあるだけである。
太宰治の生まれ故郷特産の石を運んだもの。



(三鷹駅から玉川上水下流(吉祥寺方向)に向かう”風の散歩道”の右側路傍 :H15/12撮) 
三鷹駅東端から400m弱(むらさき橋の手前)。さらに200m余で山本有三記念館。 


参考サイト 三鷹市のサイト 三鷹市 太宰ゆかりの場所


                      (「太宰治の自殺(玉川上水心中)の核心」  (H25/12UP 更新H29/2)
太宰治 : 作品一覧

太宰治の人生と文学

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