太宰治 と 太田静子 と 「斜陽」
太宰治の小説「斜陽」は太田静子の日記が基になっていることは周知の通りである。
本項では、滋賀県の医師で資産家の太田家に生まれ、上京して結婚、出産するが子供は生後
直ぐに死亡し離婚、太宰に出会い、太宰の子を産み、育てた太田静子の波乱の人生を辿る。
本項では、主に次の著書を参考にしたが、各著書には事実関係の細部において
相違点もある。その部分については、私の推測、判断により適宜一方を採った。
なお、終戦前の静子ら太田家の状況については、はっきりしない部分が多いが、
この部分は、静子と親子二人、長年生活を共にした治子の著書を基本にした。
・太田静子著 「斜陽日記」(朝日文庫:H24/6・朝日新聞出版) *巻末に、太田治子著「母の糸巻」所収。 *「斜陽日記」の初出は、S23/9・石狩書房。 ・太田静子著 「あはれわが歌」(S25/11・ジープ社) (私は未読だが、各書の中で触れられている。) ・野原一夫著 「回想 太宰治」 (S55/5・新潮社) ・相馬正一著 「評伝 太宰治 下巻」 (H7/2・津軽書房) ・太田治子著 「母の万年筆」(朝日文庫:S62/10・朝日新聞出版) (初出は、S59/9・朝日新聞社) ・太田治子著 「心映えの記」(中公文庫(改版):H7/8・中央公論新社) (初出は、S60/2・中央公論社) ・太田治子著 「明るい方へ」((朝日文庫:H24/6・:朝日新聞出版) (初出は、H21/9・朝日新聞出版)) ・山崎富栄著 「雨の玉川心中」(S52/6・真善美研究所) |
*太田静子登場〜
・太宰との出合い・・
太田静子− 大正2年(1913)8月18日、滋賀県愛知川(えちがわ)町(現・愛荘町)において、開業医(太田医院)
で資産家の太田家に生まれた。太田家は、十数代医師を家業とし、大分中津藩の御殿医も務めたが、
主君との間に事情が生じて御殿医をやめ、静子の祖父の代に近江に引越したという由緒ある家柄である。
愛知川高等女学校を卒業して東京の実践女子専門学校家政科に進学し、学校の寮に入ったが、中途退学
して、滋賀県の実家に帰った。兄の馨(かおる)の影響で京都に本部がある「新短歌」の会員になり、六條篤を
師として作歌に励み、21歳時に口語歌集の「衣裳の冬」(S9(1934)・芸術教育社)を刊行した。
六條篤(1907〜1944)は、奈良の多武峯寺に由緒をもつ名家の出身で、歌人、詩人、モダニズムの画家で、
林武、三岸好太郎らと親交があった。静子より6歳年長で妻子があったが、静子は恋心を抱いたようだ。
静子の片思いの状態で終わったが、この交際が、後の静子の結婚生活の失敗に繋がったのかもしれない。
この時代の学制で、実践女子専門学校家政科入学は17歳(S6)、退学は18歳だろう。
参考図書の中には、中退理由に関して、「親に内緒で家政科から国文科に転科した
(転科を図った)が、これが知れて叱責された。国文科への転科は、通(下の弟)の
勧めによるもので、中退後、帰郷せず通と東京での生活を続けた。」 の記述もある。
太田一家、東京へ− 昭和13年5月に父(守)が死去した。医師になっていた兄の馨は太田医院を継いだが
病気になり、母(きさ)は太田医院を閉じて一家で東京へ移り、東急電鉄の大岡山駅近くに住んだ。
(東京転居の理由は、“兄の馨が東京へ出て行ったため” という記述もあり、はっきりしない。)
静子は、昭和14年3月、25歳の時に、武(上の弟)の勤務先(東芝)の同僚の熱心な求婚を受けて
結婚した。大森に住み、翌15年11月に長女が生れたが生後1ヵ月足らずで肺炎で亡くなった。
結局、昭和16年3月に協議離婚し、母の居る大岡山の実家で暮らした。
静子は夫を愛することができず、それが原因で子供を早く死なせたと悔やむことになった。
参考図書の中には、静子の結婚当時について、「静子は、Mという二科系の画家と見合いし、
惹かれて交際したが、家族の反対で結婚できなかった。たまたま、武の同僚との縁談があり、
家族の強い希望に負けて昭和13年12月に結婚した。」 という記述もある。
(太田一家の東京転居や静子の結婚の事情に不詳部分も多いが、以上が大凡の経過である。)
生れた子供を早く死なせてしまったのは、夫を愛することができなかった自分の責任という罪の意識をもった
静子は、その告白を作品にしたいと思うようになった。この時、短期間だったが新橋にある文学塾に通った。
太宰と初対面−そんな折に手にした太宰の短編集「虚構の彷徨」(S12)中の「道化の華」の冒頭部分の一節、
「僕はこの手もて、園をみずにしずめた。」などに静子の心は震えた。太宰という作家に会いたくなり、罪の意識
の告白を日記風にノートに書き、“小説を書きたいのでご指導願いたい” 旨の手紙を添えて太宰に送った。
太宰が10年ぶりの生家(金木町)訪問から帰京した頃(昭和16年8月下旬〜9月上旬)のようだ。
太宰から、“遊びに来るように” との返信があり、9月(S16)、静子(28歳)は若い友人2人と太宰宅を訪問した。
当時、太宰は、「あなたは体がお弱いようですから、小説を書くことは止した方がいいでしょう。むしろ、こんな
日記風のものをこれからも続けてごらんなさい。気が向いたらときどき遊びにおいでなさい」と言っていたという。
これが、二人の、そして二人の家族、身近な人々の人生を大きく動かすことになる初対面だった。
・戦争−疎開・・
太宰と静子の初対面後の11月(S16)、作家らに徴用令書がきた。太宰は検査で肺浸潤と診断され免除と
なったが、太宰の、いわばお目付役の井伏はこの11月に徴用員としてマレー半島へ向かい、以後1年間、
東京を留守にした(別項)。 12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃するなど、太平洋戦争に突入した。
この12月15日、太宰は電報で静子を誘い、新宿で初めての“逢いびき”をした。今でいうデートである。
その後、静子は母の目を、太宰は妻の目を気にしながらも、頻繁に文通し、電報でも連絡を取りあって
二人だけで何回か会ったようだが、頻度など交際状況は詳しくは分からない。
東京転居時(S13)の太田家は、東急電鉄線の大岡山駅近くに住んだが、その後(いつ?)、
洗足池の傍(南千束)に引越し(現・大田区)、静子と母の二人暮らしになった。
(このころ、静子の兄(馨)は千葉で医師をしており、二人の弟(武と通)は出征していた。)
静子の著書「あはれわが歌」に、このころ、静子は、太宰の意向で堤重久と会ったことが書いてあるという。
堤重久の「太宰治との七年間」にも、「『斜陽』の女性」という項があり、太宰に、静子との交際を勧められ、
新宿で二人で会ったとある。 この堤の記述では、時期は “夏” で、太宰は浴衣を着て胸をはだけており、
「千代女」発行の後、“生後3ヶ月目位の園子”などとあるので、昭和16年の遅くとも9月中旬頃のこととなる。
つまり、太宰と静子の初対面の直後のことになるが、この交際は双方が望まず、この一回だけで終った。
太宰の意図が何だったのか不明だが、結果的には太宰と静子との距離を縮めることに繋がったといえる。
このデートの細部については、静子と堤の記述、治子や野原、相馬の記述にも相違がある。
例えば、時期は全く不明・・、堤は”昭和16年夏”だが、野原は”昭和18年春先” である。
二人の初対面の段取りや場所、会った後の太宰への報告時期、場面、報告内容も一致しない。
文学書の文学書たる所以だろうが、いずれにしろ、太宰が仕組んだことは確かで、昭和16年夏
〜18年春頃に、太宰が美知子の目を意識して思いついたちょっとした細工だったように思える。
これが、もし、昭和16年のこととすると、井伏の長期東京不在は予想できない時期、18年春
とすると井伏の帰国(H17/11)のすぐ後のことになる。井伏の目も関係しているかもしれない。
なお、堤は、昭和17年4月〜9月は兵役に服している。この期間でないことだけは確かである。
相馬の「評伝 太宰治」に示された、この間の太宰の手紙や言葉などを見ると、太宰の方から積極的に
甘い言葉で静子を誘っている。例えば、静子の別れを告げる手紙に、「いつも、あなたのことを思ってゐま
した。一度、お逢ひして、ゆっくりお話を聴きませう」と返し、「僕は、もう君を離さないよ。・・・僕は今日まで、
結婚の時にたてた誓いを一所懸命まもって来た。だけど、もうどうしていいか分からなくなった」 とある。
太宰の本気度は不明だが、こうした繋がりを通じて、静子の太宰への想いは深まるばかりだった。
昭和18年11月、静子は、叔父(母の実弟・大和田悌二:日本曹達且ミ長)の世話で、母と、
神奈川県足柄下郡下曾我村の「大雄山荘」(叔父の友人・加来金升が所有の別荘)に疎開した。
母は、引越直後から体調を崩し、小田原の病院に入院、退院は正月を越して昭和19年2月だった。
その間の1月9日、太宰は小田原を訪ねた。太宰の「佳日」映画化の打ち合わせが熱海であり、その
帰途だった。その夜は大雄山荘に泊ったが、十畳間に屏風を間に挟んで別々に寝て朝を迎えたという。
「大雄山荘」は、火災で焼失し現存しないが、現住居表示では「小田原市曽我谷津」にあった。
静子は“支那風のお寺のような感じの家”と書いているが、十畳間、六畳間、支那間、三畳間が
付いた玄関と風呂場、食堂、お勝手、屋根裏のスペイン風の寝室、という豪勢な造りだった。
JR線国府津駅から御殿場線で一つ目の「下曾我駅」下車、徒歩10分程度。曽我兄弟の菩提寺
「城前寺」の傍にあり、さらに奥へ徒歩10分位の所に作家尾崎一雄の生家「宗我神社」がある。
「曽我梅林」も近い。 (「大雄山荘」は、平成21年(2009)暮に不審火で全焼した。)
その年(S19)の5月、太宰は「津軽」の取材旅行中、蟹田町から手紙とともに次の二首の古歌を送った。
「ものおもへば澤の螢もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」 (和泉式部集)
「五月雨の木の晩闇の下草に螢火はつか忍びつつ燃ゆ」 (読み人しらず)
下曾我に疎開後、毎年この古歌が送られてきて、読むと静子の心は乱れたという。翌20年は、太宰は
4月に甲府に疎開しており、その知らせとともに送ったかもしれないが、関連の記述はなく不詳である。
村上芳雄は、甲府空襲(S20.7.7)直前の酒の席で、井伏が「でも君は、ぼくに一札入れている・・・」と言うと、
太宰が言葉を荒立てて反発していたとことが印象深いと書いているが(「太宰治と甲府」(<国文学>S38/4))、
あるいは、この時、太宰の心には太田静子のことがあったのかもしれない。(「太宰治-疎開」の項)
疎開して2年、静子と母との山荘での苦しい戦時下生活が続き、終戦の年(S20)の12月、母は他界した。
この間、戦況悪化、国民生活混乱の中で太宰と会う機会はなかった。文通についても、二首の古歌に
関する記述しか見当たらないので、心に思いはあっても、それほど多い頻度ではなかっただろう。
静子は、日常生活に追われる中で「斜陽日記」を綴った。太宰を想う気持を思わせる箇所もあり、母の死と
悲しさ、一人になった寂しさを太宰に知って欲しかっただろう。それを金木町に疎開中の太宰に書き送った。
太宰は、次のように書いた手紙で返事をした。(昭和21年1月11日付)
「拝復 いつも思ってゐます。ナンテ、へんだけど、でも、いつも
思ってゐました。 正直に言はうと思ひます。
おかあさんが無くなったさうで、お苦しい事と存じます。
・・ 中 略 ・・
一ばんいいひととして、ひっそり命がけで生きてゐて下さい。
コヒシイ」
そして、その年(S21)の5月、単行本「津軽」と「お伽草子」が送られてきた。前と同じ古歌二首が添えてあった。
その初秋、静子は、自分のこれからの生活について三つの選択肢を手紙に書いて太宰にアドバイスを求めた。
太宰からの返事(S21/9頃)は、“静観したらどうか、11月には帰京するつもり、山荘を訪ねるのでゆっくり計画
しましょう“ というもので静子を失望させた。静子は、生活費が不安になる状況で、叔父の勧めの縁談への
返事も急がねばならず、追いつめられており、続けて手紙を書き、太宰を慕う心情を伝えた。
10月末頃まで、何回かの手紙の交換があったが、太宰の返事は “いつも静子のことを思っている、私は
あなた次第(赤ちゃんのことも)、暮らしのことは心配しなくていい、近々帰京するので会いたい” ということで、
太宰にすがりたい静子としては、迷い、不安が募るものだった。太宰は “11月中旬に帰京する。
その時には知らせるので、金木へは手紙を出さないように” と返信して一連の文通は一段落した。
結局、静子は、叔父(大和田)には縁談を断り、太宰からの連絡を待った。太宰から離れられなかったのである
・帰京 - 三鷹で再会・・
太宰は11月14日(S21)に帰京したが、人気作家として超多忙な毎日で静子への連絡をしていなかった。
待ちわびた静子は、12月になって太宰に問いかけの便りをした。太宰から早速の返事があり、“1月6日
過ぎに三鷹の仕事部屋へ寄って下さい” ということで、三鷹駅から仕事部屋(二階建の洋風のドアの家
(尾沢家))までの地図が添えてあった。静子は、太宰の返事に従って電報で1月6日に上京すると知らせた。
昭和22年1月6日朝、静子は太宰の仕事部屋を訪ねた。この日一日の様子は、各書に詳しい。
結論だけを記すと、太宰は、静子を吉祥寺の小料理屋「コスモス」に案内したが、三年ぶりの再会というのに、
そこで太宰が口にしたのは、「静子の日記が欲しい」 だけだった。“今度書く小説のためにどうしても必要だ、
小説が出来たら1万円あげる” だった。 静子は、「下曾我に来て下さったらお見せします。」 と答えた。
コスモスを出て、玉川上水のほとりで太宰は立ち止り、二重廻しの中に静子を抱きすくめ、激しく接吻した。
その夜は、二人で桜井浜江の家に行き、日本間に3人で寝た。
太宰は、生家に疎開中から、戦後の農地改革による津島家の没落をチェーホフの「桜の園」に重ねていた。
帰京直後(11/20)、新潮社で、”日本の『桜の園』を書く。没落階級の悲劇、題名は『斜陽』” と語ったという。
津島家をモデルに構想を練っていたようで、執筆にあたっては、静子が先の手紙で知らせた、静子が書いて
いるという「母の思い出の日記」(ノートに書いた、いわゆる「斜陽日記」)をどうしても読みたかったのである。
*「斜陽日記」 と 小説「斜陽」〜
・下曾我「大雄山荘」の5日間・・
太宰は、「斜陽」の起稿は2月(S22)として、執筆のための旅館の手配を西伊豆の三津浜
(現・沼津市)に疎開中の田中英光に依頼した。田中の家の前の ”安田屋旅館“ だった。
太宰は、2月21日(S22)、「斜陽」執筆のため西伊豆の三津浜へ向かい、途中、連絡してあった静子と小田原で
落ち合い、下曾我の大雄山荘に寄った。その夜、静子と結ばれ、二人だけの親密な時間を過ごした後の25日、
太宰は、三津浜へ行くため静子とともに山荘を出発したが国府津から引き返し、下曾我で病気静養中の尾崎一雄
(大雄山荘から徒歩10分位の宗我神社が実家)を訪ねた。尾崎の著書「続あの日この日」(S57)によれば、
太宰は、自分は静子の弟の友人で、お姉さんにここへ案内してもらったと言い、静子には他人行儀だったという。
近いとはいえ、何故、引き返してまで訪問したのか・・、太宰には後日のための何らかの思惑があったのだろうか。
翌26日朝、太宰は、静子から借りた日記(大学ノート4冊など)をリュックサックに入れ、下曾我を発った。
・「斜陽」執筆と「斜陽日記」・・
2月26日(S22)、田中英光が手配した安田屋旅館に入り、新館二階、海に面した富士が見える十畳の角部屋
「松の弐番」に落ち着いて「斜陽」を起稿した。(現在の部屋名は「月見草」で、宿泊出来る・・同旅館のHPより)
3月6日に、「一」、「二」の80枚を脱稿、<新潮>編集部の野平健一が訪れ、翌7日、旅館を発ち、田中英光も
加わって伊豆長岡で遊び、帰途についた。その途中、太宰と野平は下曾我の大雄山荘に寄ったが静子は
留守だった。山荘の向かいの家の主婦に、国府津館に泊っていると静子に伝言するよう頼んで引き返した。
・・この時、静子は、太宰に会いたくて三津浜へ向かっていた。途中、伊豆長岡から旅館に電話をすると、
田中英光が出て、太宰はすでに出立したと不機嫌に言って電話を切ったという。すれ違いだったのである・・
7日は、太宰と野平は国府津に泊り、翌8日夜帰宅した。静子は御殿場線に乗れず、東京へ来て、弟の通の
家に泊り、8日に山荘に帰った。太宰の伝言を聞いてすれ違いを知り、太宰からは、“山荘に寄ったが、留守
なので国府津に泊った。また、ゆっくり逢いたい” と書いた手紙(S22.3.11付)を受取って再会を心待ちした。
太宰は、帰京後、三鷹の仕事部屋で書き継ぎ、6月下旬(S22)に最終の「八」まで全262枚を完成した。
<新潮>7月号〜10月号に2章ずつ掲載、新潮社は12月に単行本で刊行し、大ベストセラーになった。
この「斜陽」は、もともとは、生家の津島家没落の悲劇をチェーホフの「桜の園」に擬して書くつもりだった。
しかし、完成した「斜陽」は、起稿直前に借りた静子の日記が素材、というより原型になっている感があり、
構想の基本、題名は変らずとも、もともとの「斜陽」とは違った「斜陽」になったはずである。
静子の「斜陽日記」 : 「母の糸巻」(太田治子:2012/6・朝日新聞出版「斜陽日記」巻末)に次の記述がある。
「斜陽日記」は、あまりにも「斜陽」と重なる場面が多いだけに、これは太宰の死後母がねつ造したのではないか
と書かれたことがあった。母は、そのことをずっとかなしがっていた。「斜陽日記」はもともと、「相模曽我日記」として
母が書き綴っていたものである。当然その新しいタイトルは、発売元の石狩書房(註:S23/9刊)が付けたのだろう。
「あなたはからだがよわそうだから、小説は向かない、日記を書きなさい」
まだ出会ってまもない昭和17(1942)年ごろに太宰からそういわれた母は、ぽつぽつと日記を書き続けていて、
昭和22年2月に下曾我を訪れた太宰にそれを渡した時は、小説のような構成になっていたのだった。
太宰には、「女生徒」、「正義と微笑」、「パンドラの匣」など、他人の日記類を素材にした作品があるが、
これらの作品は、文体はもとより主題や物語は、素材を離れた太宰の独創で成立している。しかし、
「斜陽」の場合には、後半は太宰の創作をもって太宰の小説として完成しているが、その過程である前半は、
静子の日記をそのまま取り込んだ部分が目立ち、その意味で日記は素材というより原型といってよかろう。
・静子の妊娠・・
静子が、3月11日付太宰の手紙を受取って4〜5日して、思いがけなく太宰が一人で下曾我の山荘を訪れた。
その夜、静子は “妊娠した” と告げた。
太宰は、少し間をおいて、「心配しなくてもいい。静子はいいことをした。」 と喜びを見せたというが・・
半信半疑、戸惑いの末のその場しのぎにも思える。
義弟(石原明)によれば、“昭和22年の春、湯河原での結婚式に一緒に出席した帰りに、太宰は、小田原で突然
友人を訪ねると言って途中下車した” とのこと(「明るい陰に」(<新潮>・H10/7))。「太宰治の年譜」(山内祥史)
には、「3月15、16の両日、湯河原に行った。」とあり、両書を合せると、この日は、3月16日である。
間もなく、静子は太宰から、“昨日帰宅したら、妻美知子が手紙のことなど全部を知っていた。お産も近いので、
手紙も電報も、しばらく、よこさないほうがいい” という内容の手紙を受け取った。3月下旬(S22)のことだろう。
・3月30日に美知子は、次女「里子」(作家 津島佑子・H28没)を出産、太宰は3人の子の父になった。
・この3日前の3月27日に、太宰は奥名(山崎)富栄(27歳)と知り合い、5月初旬には深い仲になった。
二人の関係については別項に詳記したが、翌23年6月13日、玉川上水心中という結末を迎える。
別項・山崎富栄とのこと 太宰治と山崎富栄と「人間失格」・「グッド・バイ」 |
・出産までの半年間・・
ー太宰の状況ー
流行作家として文学活動はますます盛んで、秘書的役割もこなす山崎富栄との愛人関係は深まる一方だった。
そこに、井伏鱒二の帰京(S22/7)で、”結婚の誓約書”が絡んで太宰の胸中は複雑に揺れただろう。
家庭には、6歳、3歳、0歳の子供がいて、美知子の日常、家事の苦労はどんなだったろう。3歳の長男には
成長の遅れが見られた。小説「桜桃」(S23/5)に描かれた家庭状況は、このころのほぼ事実といわれる。
太宰は、毎朝、仕事部屋へ出かけ、夕方から馴染みの店で編集者らと深酒になるのが習慣だった。自宅へ
帰る方が多かったが、7月頃からは富栄の部屋で泊ることも増えた。体調不良を訴えることも多くなった。
静子に対しては、三鷹駅で別れてから太宰の方からは何も連絡せず、「斜陽」が完成しても日記(ノート)は
返さなかった。「小説が出来たら一万円あげる」という約束はどうなったか・・関連資料(記述)は乏しいが、
最近発行の太田治子著「明るい方へ」(H21(2009))に、静子の日記の記述として次のように(概略)あった。
太宰は、要請を受けて払っていたのである。
「下曾我へ帰った母(注:静子)は、ここで産みたい、太宰が来るのを待とうと思った。が、太宰から連絡はなかった。
7月30日に、<新潮>7月号を買って「斜陽」第1回を読み、自分の日記が役に立っているとよろこび、太宰に手紙を
書く勇気が出て、約束の1万円もお願いできると元気が出た。 -- 直ぐに電報が送られてきた。
コンゲツチュウニ 一マンオクル アンシンセヨ 」
(前出の太田治子著「母の糸巻」にも、「斜陽」第1回を読み、太宰に手紙を書いた記述があるが、こちらは、
7月13日のこととある。誤植なのか事情があるのか不明だが、1万円の送金があったことは確かだろう。)
この1万円を現在価値に換算するのは、当時、急激なインフレが進行しており難しいが、
公務員の初任給(基本給)が2,300円(S23/1)からすると、極く大雑把で100万円位だろう。
太宰が悩んだ所得税の問題は、前年(S22)所得21万円、税額11万7千余円と
通知されているが、税率からみて高額所得であり、1万円は大金だったといってよかろう。
ちなみに、「斜陽」初版(新潮社:S22/12)の定価は70円だったが、翌年の改装版(S23/7)は120円だった。
また、「人間失格」の単行本(筑摩書房:S23/7)は、「グッド・バイ」も収載し、定価は130円だった。
「朝日新聞購読料」は20円(S22)→44円75銭(S23)、「中央公論」は25円(S23)。 単行本は高価だった!
しかし、太宰は、下曾我訪問はもちろん手紙などによる連絡、静子からの手紙への返信は一切しなかった。
多忙や体調不良と妻や山崎富栄への露見を恐れて動けなかったという見方があり、それもあると思うが、
太宰の真意は、むしろ、1万円の約束を果たすことで静子が黙って身を引くことを願っていたのではないか。
太宰の特性の一面 ・・自己本位、他人依存、甘え、身勝手・・ が透けていて、
自身が唾棄したはずの新型便乗に通じる自己本位、世俗まみれの、いやしい対応の感さえもある。
― 静子出産までの半年間の太宰の動きの概略 ・・ 超多忙、心身の疲労は必然の進行である ―
*「斜陽」を書き継ぎ、6月下旬(S22)に仕事部屋(藤田利三郎宅)で最終の「八」まで全262枚を完成。 *短編小説(「フォスフォレッセンス」、「朝」、「おさん」、「女神」、「饗応夫人」、「犯人」)、随想など執筆。 *旧作の短編集の刊行。(「姥捨」、「冬の花火」、「ろまん燈籠」、「ヴィヨンの妻」、など) *「パンドラの匣」を大映で映画化(S22/7)。「春の枯葉」を吉本隆明演出で東京工大で上演(S22・秋)。 *井伏の帰京(S22/7)で、「井伏鱒二選集 全九巻」の刊行を計画し、全巻の”後書”執筆を決定。 *八雲書店から「太宰治全集」刊行の申し入れ(S22/10)があり、全16巻刊行が決定、準備に入った。 *「千草」の前の野川家にある山崎富栄の部屋を仕事部屋としても使い(S22/7〜)、泊る回数も増えた。 *体調不良で自宅に籠りきりの時期(S22/8下旬〜9中旬)があるなど、肺結核の進行が疑われた。 *伊馬春部の友人小野英一の招待で、太宰は富栄を伴い、伊馬とともに熱海へ1泊旅行(9/24)。 |
ー静子の状況ー
治子によれば、三鷹で何も相談できずに下曾我に戻った静子は、しばらくぼんやり過ごしていた。6月10日に
なるとお腹の子が初めて動き、産衣の用意など準備が必要になった。下曾我で産みたいが、このまま山荘に
いられるのか、費用は大丈夫かなど、不安は募った。山荘のことなどで世話になってきた叔父に相談の手紙
を出したが、縁談を断って太宰の子を産むことなど、当然ながら叔父だけでなく縁者の対応は冷たかった。
着物を米に換える生活だったが、そんな折、既述のように、<新潮>7月号を手にして太宰に手紙を出した。
7月ないし8月中には1万円を手にしたはずである。
相馬によれば、田中英光は、静子の電話を安田屋旅館で受けたことが縁で、静子と文通していた。
静子が、太宰に実名で手紙を出せない苦しみを伝えると、田中はその仲介を引き受けたり(S22.9.17付
静子宛手紙)、「まさか、太宰さん、あなたに『藤十郎の恋』だったとは思えません」 とか 「あの人は
ハムレットではありません。 いまは、本当の狂人です。」 と書き(S22.10.26付静子宛手紙)、丈夫な
赤ちゃんを産むようにと慰め、励ましていた。田中の助力の甲斐なく、手紙などでの返信はなかったという。
・「太田治子」誕生・・
昭和22年11月12日、静子は、下曾我の大雄山荘で女の子を出産した。(現・作家 太田治子)
3日後の11月15日、弟の通は、三鷹の山崎富栄の部屋に現れた。富栄も太宰も在室だった。富栄の日記には、
「太宰さん、直接でかえってよかったよ、とほっとしたご御様子。」 とある。美知子に知れなくて安堵したのである。
用件は、生れた子の命名と認知の願いだった。
太宰は承諾し、その場で毛筆で和紙に次の「證」を認めた。
(実物写真は、「新潮日本文学アルバム 19 太宰治」(新潮社)など多くの出版物に載っている。)
・静子の生活費送金・・
下曾我で乳呑み児と二人、戦後の混乱の中で子育てをする静子は、無収入で不安ばかりの苦しい生活だった。
富栄の日記、昭和23年1月10日に、「太田静子さんのお使者がみえてお手紙を、お手渡しする。」 とある。
野原の静子からの聞き書きによれば、年が明けると母乳がでなくなって、容易には牛乳も手に入らない当時、
太宰に頼ろうと思い、送金依頼の手紙を書いたという。 折り返し、弟の武宛に、“太宰治代理”の名で、
“太宰の健康がすぐれないので人にお金の調達をさせている。少し待ってくれるように” という手紙がきた。
富栄は日記(1/16)にそれと思しき文面を書いている。静子は“姉上様”と書かれ、弟宛手紙の下書きだろう。
“武宛”とのこと、武が使者だったのか関連は不詳だが、1ヶ月後の富栄の日記(2/18)に1万円送金とある。
その後も、富栄の日記によれば、静子からの請求に応じて、金額不明(4/16)、1万円(5/26)、を送金し、
“太宰治代理”の名の手紙で、太宰の体調が必ずしも十分ではないことを知らせている(3/28)、(4/16)。
目を引くのは、5月26日で、「伊豆の方御病気 一万円電ガワにて送る 子供もだんだん大きくなるのに・・
ゆきづまったら死ね!」 と書き、“太宰の子を産んでみせる” と続く。太宰との間の不穏な気配が窺える。
太宰は11万円余の納税に悩む中、静子を優先して送金したが、連絡は富栄が代行し、自身は何も
していない。太宰には、金銭問題に加えて、大きな精神的負担、将来への不安があっただろう。
・太宰は静子・治子に会わなかった・・
1月10日(S23)の富栄の日記に、太宰は静子の送金依頼の手紙を読んで、「(静子は)自惚れすぎるよ。斜陽の
和子が自分だと思ってるんだなあ。面倒くさくなっちゃったよ」 と言ったようにある。二人の会話で、富栄の言に
合せた感もあり、そのまま太宰の真意とはいえないが、そのような感情が全くなかったとも言い切れないだろう。
野原は、新年(S23)に入った頃、太宰に、美知子や富栄に知れないように、適当な場所を設定して口裏を合わ
せるから、静子・治子と会うようにと勧めたが、太宰は富栄への露見を恐れたようでこの話には乗らなかった。
静子は、2月に送金を受けた際、太宰の体調が心配で太宰に会いたくなり、その旨を電報で太宰に知らせ
たが(2/21)、太宰治代理として、“奥様の妹様が危篤状態でとり込んでおり、来月にして欲しいという返事が
あっただけで(妹は2月29日死去:3月3日葬儀)、その後は連絡がなく、上京できなかった。
3月7日から、太宰は「人間失格」執筆のため、短い帰京はあるが3月末まで、下曾我が近い熱海の起雲閣に
籠った。筑摩書房の古田の手配によるもので、古田には、太宰に静子・治子を会わせたいという心遣いがあり、
太宰にも会う気持はあったようだが、結局、同行した富栄の気持を慮ってか静子には連絡しないまま帰京した。
静子は5月になって治子の写真を何枚か太宰に送った。5月9日の富栄の日記に、「ハボタン集の第二回目。
母子共健在は何より。22を認める。」(注:“ハボタン”は、静子が治子に付けた呼び名)とある。「人間失格」
執筆のため大宮にいる太宰の許へ回送され、bナ静子の頻繁な便りが窺えるが、太宰自身は返信していない。
富栄が静子の出産を知ってからは、太宰は富栄を強く意識し、送金請求には応じても、連絡役は富栄に委ね、
自身では静子宛の手紙などは書かなかった。積極的に静子・治子に会おうとせず、むしろ避けたように見える。
野原は、「富栄さんをはばかったからだけではなかったろう。静子さんに再会し、治子ちゃんを腕に抱けば、
愛情の糸にがんじがらめになってもがき苦しまねばならない、それも怖かったのではなかろうか。」という。
(太宰の手帳(S23)に気になるメモがある。ひょっとして一度だけ熱海で会った? 詳細は別項目(文庫手帳))
太宰の心奥は憶測するしかないが、私見で、太宰は、もう、静子・治子とは、とにかく関わりたくなかった・・
送金請求はその決定的要因ではなかったか。愛情云々以前のところで太宰は逃げたかったように見える。
富栄の日記や弟子たちの記述にある太宰の静子への “据え膳” “子早い”といった表現は、本音だろう。
「斜陽」で「恋と道徳革命の完成」を謳いあげても、ここが出発点となる現実の厳しさに覚悟はなかった。
外面(おもて)には微笑、心には自己本位、他人依存、甘え、に悩みわずらう人生の一面とも思える。
* 静子の最終章 「斜陽 九」 〜
昭和23年になると太宰の人生は急展開する。 1月1日の井伏宅への年始訪問が
発端で、6月13日の富栄との玉川上水心中までが、太宰の人生の最終章だった。
一方、太宰亡き後の静子は、“恋と道徳革命の完成”に向かって第二回戦、第三回戦
を戦い抜き、身をもって「斜陽 九」、つまり、「斜陽−最終章」を仕上げたのである。
(注: 小説「斜陽」は、「八」 まで)
太宰と山崎富栄は、昭和23年6月13日(日)の深夜、三鷹の玉川上水で入水心中した。
(別項 「太宰治の項」 および 「太宰治:玉川上水心中死の核心(三重の要因)」 に詳記)
山崎富栄の手紙−静子は、差出人「山崎富栄」の6月13日付手紙を受取った。手にしたのは「修治さんが
なくなられてから3日ほどして」(太田静子著「『斜陽』の子を抱きて」(S23/8<婦人公論>)とある。
差出人の名前には全く心当たりがなかったが、そこには、「わたしは太宰さんが好きなので、ご一緒に
死にます。」 「あとのことは、お友達のかたが、下曾我へおいでになることと存じます。」とあった。
太宰失踪の新聞第1報は、15日の朝日新聞の小さな記事だけとのこと(松本佑子著「恋の蛍」)、
静子はこの記事を目にしたかどうか・・。翌16日には各紙が大きく “太宰の情死” を報じた。
静子は、そこに載った山崎富栄の写真を見て、1年前に三鷹の「千草」で会った女性であり、
「太宰治代理」の女性であると気付いたという。同じ日に富栄の手紙を受取ったのかもしれない。
後日、野原が静子に、富栄にどんな気持ちを持ったかと聞いたところ、「有難うございました、と頭をさげたい
気持でした。」 「あの方について行って下さったんですもの。わたしには、できません。・・・」 と答えたという。
何年かを経てからのインタビューである。同様の記述が、太田治子の「明るい方へ」の中にもあるが、
手紙を読み、太宰の心中死を知った当初は、ショックで言葉にならなかっただろう。
津島家の対応−太宰の遺産相続問題が生じた。「斜陽」の印税も絡み、津島家は、井伏鱒二らと相談し、
その結果、井伏と、太宰の古い親しい友人だった伊馬春部、今官一の三人が大雄山荘に静子を訪ねた。
この時の様子は、井伏が「下曾我のご隠居」(S58/6・<新潮>)に、太田治子は「母の糸巻き」に書いている。
両記述には不一致の部分があり、必ずしも明確ではないが、静子は示された条件で書類に署名押印した。
治子の「母の糸巻き」(2012/6・朝日新聞出版「斜陽日記」巻末)には、次のようにある。
「(静子の日記の) 8月1日の欄には、『一時の汽車で、井伏氏、今氏、伊馬氏。お金受領(内金 三万円)、
泣く、誓約書かく』と あった。(中略) 三万円は『斜陽』の改装版の印税の十万円のうちの一部なのだった。
誓約書通り、母は十万円を受領したことでそれから一銭もお金をいただかなかった。 (中略) その日の
誓約書の写しには、『太宰治ノ名誉及ビ作品ニ関スル言動(ヲ傷ツケルヤウナ言動) (新聞・雑誌ニ談話
及ビ手記発表)ヲ一切ツツシムコト』 とあった。」
井伏の「下曾我のご隠居」によれば、他の条件として、”太宰が借りた静子の日記(ノート)は、
静子に返還する。”(このノートは、富栄の部屋の遺影の前に置いてあり、伊馬が預かっていた)、
”太宰の静子宛の書簡類は逆に井伏らに渡す。” があり、お互いにこれを実行したという。
相馬の「評伝 太宰治」には、「静子はすでに津島家側で用意しておいた娘の遺産相続放棄の書類に
署名捺印したうえで半金の十万円を受け取り、太宰から貰った大事な書簡を井伏らに渡した。」 (中略)
(津島家から遺産相続放棄の代償に受け取った金は、子供の養育費として貯金しておいたという。)」
とある。 (この記述の前半部の根拠は記載がない。( )内は、静子からの聞き書きとある。)
金額面は判然としないが、こうして、津島家は、静子(この時35歳)との関係を完全に絶った。
この時以降、津島家は静子親子とは一切関わりを持たず、静子もそれを求めなかった。
・静子、その後・・
「斜陽日記」刊行−このことがあった直後、石狩書房から日記を出版させて欲しいという強い申し入れがあり、
静子はこれに応じた。太宰の「斜陽」のいわば種本であり、昭和23年9月に「斜陽日記」と題して刊行された。
これ以降、大学ノート4冊にまとめられた静子の日記は、「斜陽日記」と呼ばれるようになったが、太宰の
「斜陽」と重なる部分が多いことから、一部に静子が捏造したとの見方があり、静子は悲しんでいたという。
惜しいことに、このノートを静子は刊行直後に焼却したとのことだが、現在では、この捏造論議はない。
相馬の「評伝 太宰治」の静子からの聞き書きによる記述では、この刊行は津島家との約束に反するが、
親類縁者から義絶の状態で途方に暮れていたので、当面の生活費を得るために応じたという。
津島家から受取った大金は養育費として貯金しておき、生活費は自力で得るという決意からだろうが、
当時進行中の猛烈なインフレは、貯金は大金でも頼りにできなかった現実がある。
静子は、自身の文筆で収入を得ようと本気で考え、実行した。太田静子の著書をネット検索すると、
「小説太宰治」(S23/11:ハマ書房)があり、雑誌「素直 復刊1号」(S24/5)には、川端康成、田中英光、
田宮寅彦、瀧井孝作、井伏鱒二らの名前の中に、「太田静子」 とある。作品名は出ていないが、
治子の「明るい方へ」に載っている「園子のマり」(丹羽文雄には不評だったが、尾崎一雄は高く評価)、
あるいは、「お婆さんと牛の尻尾の話」かもしれない。そして、「あはれわが歌」(S25/11・ジープ社)がある。
これは、檀一雄が静子の生活を心配し、助力して刊行したもので、太宰との日々を生々しく書いたようだ。
現在では、いずれも簡単には読めない。東京都内では、国会図書館以外の図書館には所蔵がない。
私は現在のところ、いずれも未読である。そのうち読みたいと思うが、この中で「小説太宰治」の著者は
治子によれば、母の太田静子ではない・・つまり、名前を騙られたという。別の意味で興味が湧くが・・
(古書で「小説太宰治」を検索すると、「太田静子」著は、檀一雄著の10倍以上の値がついている。)
尾崎一雄の支援はあったが−治子によれば、尾崎一雄夫妻は下曾我での縁というだけで何かと静子を
援けてくれたという。一雄は、静子が書いた作品を文芸誌に推薦し、高い評価をしたが、文筆で生活できる
ような状況にはならなかった。急激なインフレが進む中、静子の貯金は底をつき、生活の苦労が始まった。
太田治子のエッセイ、「母の万年筆」、「心映えの記」、「明るい方へ」 などに
綴られた母の思い出からは、親子二人の人生の真実の姿が伝わってくる。
随筆にありがちな事実関係の歪曲、脚色はなく、素直に読める好著と思う。
下曾我で大病−しばらくすると、大雄山荘には新しい住人が入り、静子親子は山荘の片隅にある小さな
お堂(持仏堂)に移り、つつましく暮らしていたが、昭和26年春、静子は、東京の逓信病院で子宮がん
の手術を受けることになり、母と太宰との思い出が刻まれた7年数カ月の下曾我生活を終わった。
退院(S26)の後、約3年間は、静養のため葉山(神奈川県)に住む弟の通の家に親子で“居候”した。
昭和29年2月、40歳の時にそこを出て、今度は、東芝に勤める武の川崎の家に“居候”した。
この4月(S29)、治子は小学校に入学したが、入学後3ヶ月で恵比寿(東京)のバラックの二階、雨漏り
する部屋に引っ越した。職安通いしたが仕事はなく、半年後、身の上を隠して叔父の会社(日本曹達梶j
の関連会社の倉庫会社に就職し、目黒にあるアパートの二階、日当たりのいい4.5畳一間に引越した。
仕事は、短期間だったが作業場で作業員をした後に、調理場の炊事婦となった。
治子は、給食費が払えず、学校で肩身の狭い思いをしたという。
この目黒のアパートには、52歳の夏(S40:治子17歳)までの約11年間住んだ。
静子親子が東京へ戻ったその年(S29)に、3年間居候するなど頼りにしてきた弟の通が病没した。
炊事婦11年、寮母8年−静子は親子で生きるため懸命に働いた。治子こそが静子の魂、人生の証との
思いだったのだろう。昭和40年9月、倉庫会社を退職し、杉並区にある女子大生(叔父の会社の社員の
子供)の寮の住み込み寮母になった。この転職には治子の大学進学希望が関係しているようだが事情は
不詳である。この寮は、間もなく叔父の会社の独身社員寮に変わったが、静子はそのまま寮母を続け、
8年後、寮は廃止になり、同時に静子も60歳の定年を迎えて退職した。その後は職業には就いていない。
治子の成長−この間、治子は母静子の愛を一身に受けて順調に成長した。小学生の頃は貧乏に惨めな
思いをすることもあったというが、静子の仕事柄、食費は少なくて済み、持ちこたえることができたようだ。
日本経済の復興、成長の中で、静子は低賃金とはいえ定職があり、生活は安定してきたようにみえる。
治子は、都立高校を失敗して私立の女子高へ、さらに明治学院大学文学部英文科(S41)へ進学した。
女性の大学進学はまだ極端に少ない時代である。経済的な裏付けがなければできなかっただろう。
高校2年の時に、編集者に勧められるままに書いた「手記(17歳のノート)」(S40・新潮社)を出版した。
いわば「生い立ちの記」で、“太宰治の遺児” “斜陽の子” という話題性があり、高収入に繋がった。
これにより大学進学が可能になったのかもしれない。大学生活はお金で困ることはなかったようだが、
その後の発表作品に評価は得られず、文学を断念すべきか、悩み、迷いもあったようだ。
大学卒業後は、寮母の仕事を手伝っていたが、寮の廃止と同時に静子は定年退職し、治子は静子の
叔父(大和田)の事務所に勤め、次いでNHK教育テレビ番組「日曜美術館」のレギュラーアシスタントを
3年間務めるなどの仕事をした。定職には就かず、文筆家として身を立てるべく書き続けた。
叔父・大和田悌二(静子の母の実弟)の援助−静子が大和田の意に従わずに太宰との交際を続け、
しかも子供を産んだことで、義絶同然の冷たい対応だったという印象があるが、実際には相当な
配慮をしていたのではないだろうか。直接的な金銭援助はなくても、大雄山荘に長く住めたこと、
逓信病院入院や、日本曹達滑ヨ連会社への就職、治子の進学などは、大和田の存在なくしては考え
難いことである。病後の静子が弟の通や武の家に居候した際にも配慮が及んでいたとも考えられる。
静子の母(きさ)は、見舞いに来た大和田に、両手を合せて静子のことを頼んだのである。
大和田が承知して帰ると、きさは安心したのか、3時間ほどして静かに息を引き取った(S20.12.6)。
「斜陽日記」の最後の部分だが、大和田には、事情はどうあれ違えられない約束だったに違いない。
太宰の「斜陽」にでる “和田の叔父” は、あくまでも小説上の人物で “大和田の叔父” ではない。
大和田悌二(旧姓・上ノ畑 M21〜S62)は、逓信次官(S14)の後、経営難に陥った日本曹達鰍フ
立て直しのため社長に就任(S16)、戦後、財閥指定を受け、一旦退任(S21)したが、復帰した。
(S26会長・S27社長〜S40退任)。総理をはじめ政官財界トップと太いパイプを持つ有力者だった。
「斜陽日記」に、「12日(注:S20.8.12)の夕方、加来氏がいらっしゃって、『無条件降伏』に
決ったことを教えて下さった。」 という一節がある。
国家の最高機密である。日記の日付に誤りがなければ、12日の段階で印刷会社の
社長加来金升(ネット情報では、上ノ畑家の遠縁)が知っていたことになる。
大和田からの情報だろう。大和田が国家の中枢にいた人物であることがわかる。
・・別問題だが、“権力組織と情報”の関係には昔も今も深い闇の部分があるような・・
参考サイト | 桜桃忌によせて 『斜陽日記』の太田静子と「和田の叔父さま」のモデル・大和田悌二 |
定年退職で自適−寮の廃止と定年(S48:60歳)とが同時になって退職した静子は、治子と渋谷のマンションに
落ち着いた。 ここは、叔父の関係者の事務所用の空き部屋で、しばらくは賃料は不要だった。
成城のアパートに転居(S56)するまで約8年住んだ。この間、静子は職には就かず、いわば悠々自適だった。
26歳になる治子(S48:静子退職時)と二人で住む生活が続き、生計は治子に依るところが増えたが、
経済的に豊かとはいえないまでも不自由はしなかったようだ。
治子によれば、静子は再び筆を手にした。幼少時からの、いわば自分史を小説にしようと考え、また、
昔の著書「あはれわが歌」(S25)の内容に悔やんでいる部分があり、その書き直しを考えていたという。
しかし、それは思うようにいかず、ただ事実をメモにして治子にのこしたいという気持ちに変わったようだ。
治子の結婚のことが静子の唯一の気懸かりであり、もちろん、治子本人の大きな悩みだった。母娘の胸に
ずっとつかえてはいたが、二人の生活はそのまま続き、いつしか治子は30歳を超えた。治子が、母静子の
老後を案じたこともあるが、NHK出演や雑誌へのエッセイ連載など、仕事に夢中だったこともあるだろう。
静子は、転倒骨折などで年齢相応の体調変化はあったが、成城に住んで(S56/7)からも、読書や執筆、
治子の仕事にアドバイスなど、元気な日々だった。 が、昭和57年(69歳)夏、肝臓に異常が発見された。
・恋と道徳革命の完成・・
昭和大学病院で精密検査の結果、肝臓癌と判明し、11月(S57)に手術をしたが、術後の経過はよくなかった。
昭和57年11月24日、治子と弟の武に見送られて来世へと旅立った。69年余の生涯だった
静子は、太宰との出会いから、“恋と道徳革命の完成” に敢然と挑んで41年余、決して降りなかった。
そして、見事に成し遂げ、ここに、「斜陽−最終章 九」 が完成した。
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・太田治子さんは、現在、作家として活躍されていますが、本文では敬称を省略しました。 ・太田治子さんの著書は、主要参考資料として引用などさせていただきました。 失礼がないよう気を付けたつもりですが、不行届きがあればお詫びします。 |
(「太宰治と太田治子と『斜陽』」 の項 : H26/5 UP)
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