太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”

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太宰治が<新潮>に連載(S22/7-10)した「斜陽」は好評で、12月に単行本を刊行、たちまちベストセラーになった。
「斜陽族」の言葉が生まれ、現在でいえば 「流行語大賞」 当確というところ、太宰治の名は全国に知られた。

私生活面では、同年11月12日に太田静子が出産、同15日に太宰は認知して “治子” と命名し、
静子には生活費を送金するところとなった。太宰と太田静子との深い関係を知らなかった新たな
愛人山崎富栄の動揺は激しく、蜜月関係にあった二人の間には、微妙な雰囲気が生じてくる。

こうした背景の中で、昭和23年に入ると太宰は突如として激しい先輩批判を展開することになる。

参考サイト  青空文庫(無料)  太宰治著 「如是我聞 一 〜 四」 


   * 「如是我聞」(絶筆)は、太宰の “独立宣言” だった!!

昭和23年(1948 )に入ると、太宰は長年胸に溜めていた先輩・文壇に対する不信、嫌悪感を顕にし、
作品で批判を開始した。中でも、随筆「如是我聞」は、激しい筆致、というより先輩らを罵詈雑言の類で
批判・攻撃するという特異な作品で、太宰の品位・人格が疑われ、心の病さえ思わせるが、
反面、太宰の思惑、したたかな計算が潜んだ、いわば “独立宣言” だったとも見えるのである。

「如是我聞」の担当者、掲載誌<新潮>の編集者 野平健一(以下、野平)によれば、太宰は執筆に強い意欲を
燃やし、1年間の連載予定だっ たというが、第4回を脱稿した1週間後に自殺(心中)したため絶筆となった。

本項では、太宰がこの特異な作品を執筆した経緯、経過や執筆意図など、その成り立ちを探った。

(作品の執筆時期など年譜関係は、主に山内祥史著「太宰治の年譜」(2012/12・大修館書店)を参照した。)

   * 「如是我聞 一」 :<新潮・3月号>掲載

     ー起稿の頃ー

      ・志賀直哉の発言 =<文学行動>(S23/1)

昭和22年9月30日、同人雑誌<文学行動>は、志賀直哉、広津和郎を囲む 「現代文学を語る」 と題する
座談会を実施し、復刊U号(S23/1)に掲載した。席上、志賀は 「太宰治はどうです?」 と問われ、
「年の若い人には好いだろうが僕は嫌いだ。とぼけて居るね。あのポーズが好きになれない。」
と答えた。これが、志賀直哉による太宰作品批判発言 “三連弾” の第1弾だった。

(この時、志賀は 64歳、太宰は 38歳。 生涯、面識なし。)

(座談会の詳細は、後記 =志賀直哉の発言 “三連弾” = 参照)

      ・井伏宅年始訪問(S23/1) 

太宰は、昭和23年元日に井伏鱒二宅を年始訪問した。妻美知子の「回想の太宰治」(S56)によれば、
太宰は帰宅すると、「みんなが寄ってたかって自分をいじめる、と言ってメソメソ泣いた。」 という。
この時、井伏宅で何があったか不明だが、井伏に生活状況を窘められ、また、偶然一緒になった
何人かの先輩の客に、「斜陽」などこのころの作品や女性関係を貶されたことは十分考えられる。

(井伏宅年始訪問の詳細は、別項 「太宰治の人生と文学−井伏宅年始訪問」 参照)

      ・「美男子と煙草」執筆(S23/1) 

太宰は、この1月に 「美男子と煙草」 (S23/3<日本小説>)を執筆した。前年末(12/22)に取材した上野の
浮浪者が題材である。妻美知子によれば、本体部分は同行した氏家記者の口述筆記だが、冒頭部分は
先輩らへの批判であり、本体とは直接の関係はない。自分も浮浪者と変わらないという発想なら繋がるが、
冒頭の主題は “古いもの” との戦い宣言であり、口述した本体とは別に執筆して両者を合せた感がある。
1月8日に起稿、中旬に脱稿とされるが、冒頭部分は井伏宅での出来事が題材と思える。

同時期の作品、小説「家庭の幸福」(S23/2脱稿−S23/8<中央公論>)、随筆「徒党について」(S23/2脱稿
−S23/4<文芸時代>)は、「美男子と煙草」の冒頭部分の先輩批判と軌を一にする。

他に、1月頃に「小説の面白さ」・「眉山」、2月に、「女類」・「渡り鳥」・「桜桃」を脱稿。(別項作品一覧参照)

      ・金銭問題(静子への送金、税金など)(S23/2) 

愛人山崎富栄(以下、富栄)との費用は、富栄が負担していたが、年末(S22)にはその貯金が底をつき、
美容師の仕事も辞めていた(S22/11)ので、太宰はその費用を賄わねばならない状況だったはずである。

1月10日、太田静子から生活費送金の依頼があった。前年からの約束だったが、その時、太宰には余裕が
なく、猶予を願って2月18日に1万円を送った。現在でいえば、極く大雑把だが100万円くらいに相当する。
この後も、4月、5月と依頼に応じて送金しており、経済的にも精神的にも太宰の負担は大きかっただろう。

さらに、2月25日付で、前年(S22)分の所得税11万7千余円の課税通知が届いた。現在でいえば、
極く大雑把だが1,000万円を超える額で、太宰に蓄えはなく、支払に窮した。もともと、納税のことは
念頭になかったようで、太宰自身はこの問題を解決出来ないまま6月13日に富栄と心中してしまった。

金銭問題は、自身の濫費癖に加え二人の女性関係があり、太宰の肩に重くのしかかった現実だった。

(金銭問題、女性関係の詳細は、 別項「太宰治の人生と作品 − 私生活面の苦しみ」 参照)

     ー執 筆ー 

      ・起稿−脱稿(S23/2)

「如是我聞 一」を起稿した正確な日は不詳だが、<新潮>の担当者 野平による口述筆記が行われ、
2月27日に脱稿したとされる。 富栄の日記(2/27)に、「ぐっと起き上がっては又、口述して」 の
文言があり、この時だろう。<新潮>「3月号」に掲載された。

      ・「如是我聞 一」の概略 (注:部分的な抜粋だが、必ずしも原文と同一ではない)

・自分は、この十年間、腹が立っても、抑えに抑えていたことを、これから毎月、この雑誌(新潮)に、
どんなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ、そのような、自分の
意思によらぬ「時期」がいよいよ来たようなので、様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も
思い設け、こんなことは大袈裟とか、或いは気障とか言われ、あの者たちに、顰蹙せられるのは
承知の上で、つまり、自分の抗議を書いてみるつもりなのである。(この部分は原文と同一)

・一群の「老大家」がいる。その老大家が目指すものは、自分の家庭生活の安楽だけである。家庭の
エゴイズムである。或る「老大家」の小説を読んでみ たが軽薄も極まっている。それを
馬鹿者は「立派」と言い、「潔癖」と言い、ひどい者は、「貴族的」なぞと言ってあがめている。

・或る「老大家」は、私の作品をとぼけていていやだと言っているそうだが、その「老大家」の作品は、
何だ。正直を誇っているのか。何を誇っているのか。・・(略)・・。まるで無神経な人だと思った。

・先輩らは、弱さの美しさ、優しさということを知らない。後輩の苦しさについて考えたことがあるのか。
自分ひとりが偉く て、あれはダメ、これはダメ、何もかも気に入らぬと権威を振りかざすだけだ。

・今月は、ただ八ツ当りみたいな文章になったが、これは、自分の心意気を示し、この次からの
馬鹿学者、馬鹿文豪に、いちいち妙なことを申上げるその前奏曲と思っていた だく。

参考サイト  青空文庫(無料)  太宰治著 「如是我聞 一 〜 四」 

      ・重要ポイント 

太宰は、「或る『老大家』は、私の作品をとぼけていていやだと言っているそうだが、」 と書き、その
「老大家」を貶している。太宰は<文学行動>座談会での志賀の発言を知って反発したのである。

「老大家」としているが、それが志賀直哉であることは誰の目にも明白で、当時の文壇の大御所的存在で
ある志賀に公然と歯をむいたのである。名指しでないことは冷静というよりむしろ嫌みの書き方である。
「馬鹿学者」、「馬鹿文豪」という言葉を使って次号からの先輩批判継続を宣言している。

太宰が<文学行動>の志賀発言を知った時期は判然としない。座談会は昭和22年9月30日、印刷
納本は12月15日で、早い時期にこの発言を知り、年始に太宰を貶した先輩がいたかもしれないし、
太宰も知っていたかもしれないが、「美男子と煙草」(1月中旬脱稿)など、作品からは不詳である。

この直後、2月に「徒党について」、「家庭の幸福」 を相次いで脱稿、これらは「如是我聞 一」と一体を
成す内容なので、遅くとも1月中旬過ぎには志賀発言を捉えて執筆に踏み切ったと考えてよかろう。

志賀への個人攻撃もあるが、全体的には対個人というより、旧態依然の文壇人、時勢に阿る文化人、
新型便乗による保身、利得、世俗性の醜さ、などに反発・挑戦する気概を先ず示したということだろう。

       *志賀発言(第1弾)の微妙な側面

志賀は、太宰の死の直後に <文藝>(H23/10)に発表した 「太宰治の死」 で、この
第1弾発言時には“太宰の戦中・戦後の作品は何も読んでいなかった”と明かした。

現代文学を語る座談会であり、太宰本人はもとより読者は、「斜陽」 など戦後の作品
についての感想、評価であると受け止めたに違いない微妙な発言だったのである。

戦後の文学・出版界は、既成作家の復活、戦後派世代の台頭などで活況を呈し、
詳細別記)、出版社による座談会などが頻繁に開催された。志賀は昭和21年夏の
谷崎潤一郎との対談で、当時活躍中の織田作之助を 「きたならしい」 と批判した。

ここから、志賀と、無頼派といわれる織田、太宰、坂口との批判応酬があり、この第1弾に至った。
この発言には、戦後の新しい文学に対する志賀の危機感、自身の権威維持など、複雑な心情が
入り交じった微妙な経緯、側面が含まれると思うので、これらの詳細を本稿の末尾に別記した。


   * 「如是我聞 二」 :<新潮・5月号>掲載 

     ー起稿の頃ー 

      ・熱海で「人間失格」を起稿(S23/3)

太宰は、「如是我聞 一」を脱稿すると、3月7日に「人間失格」執筆のため、筑摩書房古田社長の計らいで
富栄を伴って熱海の起雲閣(別館)に入った。ここで、「人間失格 第二の手記」までを執筆・脱稿し、
3月31日に帰京した。 この間、 「如是我聞 二」 の執筆はなく、<新潮・4月号>には載らなかった。

(詳細は、別項「太宰治の人生と作品 − 「人間失格」執筆」 参照)

      ・井伏来訪−執筆中止を求める(S23/4) 

帰京すると、4月1日付で「税金審査請求書」を提出するなど税金対策に追われることになるが、文学活動
の面では、4月2日に、太宰の仕事部屋(富栄の部屋)を訪ねた客の一人が、そこで深夜に大量の睡眠薬
を服用するという出来事があり、その客が井伏の知人だったことから、3日に井伏がその部屋を訪れた。

この時、井伏は「如是我聞」の執筆を止めるよう強く求めたとされるが、太宰は聞き入れず、睡眠薬騒動が
収まると、4月6日に口述を再開した。そして、手帖に「井伏鱒二ヤメロといふ」に始まる長いメモを書いた。

      ・「井伏鱒二ヤメロといふ」(手帖に「執筆メモ」) 

太宰の手帖(鎌倉文庫作製(S23))にあるメモに「井伏鱒二ヤメロといふ」に始まる一文がある。執筆メモ
とされ、この前後は、「如是我聞 二」、「井伏鱒二選集(三)後記」と「如是我聞 三」に関するメモなので、
この文は4月初旬〜中旬に記入したものと推定できる。4月14日の富栄の日記に井伏のことが書いて
あり、この日の可能性があるが、太宰の人生に関わる驚くべき、かつ、注目すべき重要な記述である。
この2ヶ月後に 「井伏さんは悪人です」 の文言(遺書の一部とされる)を遺して心中死した。

     ー執 筆ー 

      ・起稿−脱稿(S23/4)

4月6日、太宰は、野平を呼んで「如是我聞 二」を口述した。今回は、いわゆる “外国文学者” が
批判の対象で、エッセイや翻訳、評論に対し、“君たちは所詮は語学の教師に過ぎない” と罵倒する。

      ・「如是我聞 二」の概略 (注:部分的な抜粋だが、必ずしも原文と同一ではない)

・L君、君は外国文学者のくせに、バイブルをまるでいい加減に読んでいるらしいのにひやりとした。
君たちが書いているこの頃のエッセイほど、みじめな貧しいものはないとも思っている。

・君たちは、ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んでボオドレエルの
紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の
名訳を誇って売るという矛盾もさることながら、どだい、君たちには「詩」がまるでわかっていない。

・ある外国文学者が私の「ヴィヨンの妻」という小説を、「フランソワ・ヴィヨンとは、こういうお方ではない
ように聞いていますが」云々 と評した。可笑しく馬鹿らしい。空想力の貧弱。少しは恥かしく思え。

・もう一人の外国文学者が私の「父」を評して、「面白く読めたが、翌朝にな ったら何も残らぬ」という。
このひとの求めているものは宿酔である。貪婪、 淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人。

・文学において最も大事なものは、「心づくし」である。作者の「心づ くし」が読者に通じたとき、文学の
永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれし さとか、そういったようなものが始めて成立する。

参考サイト  青空文庫(無料)  太宰治著 「如是我聞 一 〜 四」 

      ・重要ポイント 

今回は、いわゆる外国文学者(翻訳・評論・随筆)が批判の対象で、太宰作品を批判した二人の具体例を
示している。名前は出ないが、一人は渡辺一夫(注)、もう一人は中野好夫(注)であることは明白だった。
冒頭にある “L君” は特定の人物ではなさそうだが、二人の文学者は名指しよりも不快だったろう。
太宰は、自分の手帖の「執筆メモ」には二人の名前を明記したが、作品には書かなかった。

(注)渡辺一夫=この時47歳・仏文学者・東大教授  (注)中野好夫=この時45歳・英文学者・東大教授

中野好夫は、太宰の死の直後に、玉川上水心中を激しく非難している。

太宰は、「如是我聞」 連載を決めた時から、この2回目の内容はほぼ固めていたように思う。
初回は、文筆界の体質を「老大家」に象徴させて総論的に書き、2回目は対象を「学者」に絞り、
3回目は志賀・井伏を念頭に「先輩作家」の体質を標的にする構想だったように思える。


太宰が「人間失格」を大宮で執筆の頃(S23/5)、太宰の心身の不調を心配した古田(筑摩書房)は、
太宰に長期静養してもらうことを考えていた。古田は、この「如是我聞 一」を読み、さらに「同 ニ」を
読んだことで、特にその必要を強く感じた可能性がある。(詳細は、別項目の “御坂峠計画” 参照)



   * 「如是我聞 三」 :<新潮・6月号>掲載

     ー起稿の頃ー 

      ・大宮で「人間失格」脱稿(S23.5.10頃) 

熱海から三鷹に帰り、「人間失格 第三の手記」を書き始め、4月29日には、今度も筑摩書房古田社長が
用意した大宮の仕事部屋に富栄を伴って入った。最高の環境で執筆に専念して、5月10日頃仕上げた。

この間に、「太宰治全集」の第1回配本(八雲書店)、「井伏鱒二選集(三)後記」の口述(4/7)、「同 (四)
後記」の口述(4/27)があり、太田静子への送金があり、妻美知子を介したが税務署との折衝もあった。
超多忙の日々だったが、体調は大宮での生活が幸いしてか驚くほど回復して5月12日に三鷹へ戻った。

      ・志賀直哉の発言 =<社会>(S23/4・鎌倉文庫) 

鎌倉文庫発行の<社会・4月号>は、志賀直哉、広津和郎、川端康成による「文藝鼎談」を掲載した。
戦後の文学作品の感想を求められた志賀は、太宰の「犯人」(S23/1)について、「実につまらない。
はじめから落ちはわかっている。」
、「斜陽」については、「大衆小説の蕪雑さがある。」
批判した。川端は、「斜陽」に対する志賀の発言に同調的に話を進めた。

(座談会の詳細は、後記 =志賀直哉の発言 “三連弾” = 参照)

     ー執 筆ー 

      ・起稿−脱稿(S23/5)

「人間失格」を仕上げた直後の5月12日〜14日の間に、野平を呼んで「如是我聞 三」の口述をした。
先輩の現状安住、保身、後輩いじめを徹底して批判し、志賀直哉は名指しで、「所詮は成り金」とした。
一方で、「個人攻撃ではなくて、反キリスト的なものへの戦い」とし、最後に、志賀の<社会・4月号>の
座談会発言への反論、批判の一節を加えた。名指しではないが、川端康成、井伏をも非難している。

      ・「如是我聞 三」の概略 (注:部分的な抜粋だが、必ずしも原文と同一ではない)

・先輩というものがある。「永遠に」 私たちより偉いもののようだ。彼らは世の中の信頼に便乗し、あれは
駄目だと言い、その気ならば、私たちを気狂病院にさえ入れ ることが出来るのである。

・若いものの言い分も聞いてくれ! こんな拙文をしたためているが、本気なのである。命がけで事を行う
のは罪なりや。手を抜いてごまかして、安楽な家庭生活を目ざしている仕事をするのは、善なりや。

・私が諸先輩に対して、最も不満に思う点は、苦悩というものについて全くチンプンカンプンなことである。
何処に「暗夜」があるのだろうか。 志賀直哉という作家はアマチュアである。所詮は、成金に過ぎない。

 ・おけらというものがある。その人を尊敬し、かばい、その人の悪口を言う者をののしり殴ることによって、
自身の世の中に於ける地位を危うく保とうと汗を流して懸命になっている一群のもののである。
最も下劣である。芸術に於ては、親分も子分も、また友人さえ、無いもののように私には思われる。

・私がこの如是我聞を発表しているのは、何も「個人」を攻撃するためではなく、反キリスト的なものへの
戦いなのである。私の苦悩の殆ど全部は、あのイエスという人の、「己れを愛するがごとく、
汝の隣人を愛せ」 という難題一つにかかっているのである 。

・雑誌の座談会の「速記録」(注1)を見て、志賀が、私の「犯人」について「落ちはわかって いるし・・」 と
発言しているのを知った。所謂 「落ち」 を、ひた隠しに隠して、にゅっと出る、それを、並々ならぬ
才能と見做す先輩はあわれむべき哉、芸術は試合でな いのである。奉仕である。

・ その老人に茶坊主の如く阿諛追従して、まったく左様でゴゼエマス 、大衆小説みたいですね、と
言っている卑しく痩やせた俗物作家(注2)、これは論外。  

(注1)最後の節に、「速記録を見て」とあるが、この志賀発言は<社会・4月号>(鎌倉文庫)のものである。
同誌は、すでに4〜5月には販売されているので、「速記録」ではなく “書き写し” だったのではないか。

(注2)最後の部分、卑しくせた俗物作家” というのは、川端康成のことと判る。
(広津和郎も発言しているが、太宰の怒りの矛先は明らかに川端である。)

<文芸>(S23/6)の座談会で志賀と対話した佐々木基一は、後年、「お茶坊主」 と罵られたのは
自分であると書いたが、これは「速記録」を「<文芸>の速記録」と思ったことによる誤解である。
(「太宰治全集10」(筑摩書房・1990/12・月報10ー「権威への挑戦『如是我聞』」)

また、杉森久英も、著書「苦悩の旗手太宰治」(S47)に、「如是我聞 三」に書かれた「速記録」は
自分(杉森)が企画し司会した<文芸>の座談会のものと書いているが、明らかな誤解である。

「太宰治全集」巻末の解説など、多くの主要文献は <社会>(S23/4) には触れていないが、
この「速記録」に関する太宰の記述は<社会>の志賀発言が対象であることは確かである。

(座談会の詳細は、後記 =志賀直哉の発言 “三連弾” = 参照)

参考サイト  青空文庫(無料)  太宰治著 「如是我聞 一 〜 四」 

      ・重要ポイント

内容は、「若いものの言い分も聞いてくれ!」 を基本にした先輩作家への強烈な批判・抗議で、
志賀、川端、井伏、の姿が見えるが、標的として初めて 「志賀直哉」 という個人名を明記した。
志賀の再度の座談会発言がそうさせたのだろう。志賀以外の個人名は出ない。

井伏については、自分の手帖に 「井伏鱒二ヤメロといふ」 に始まる長文の執筆メモがあり、
「お前を捨てる」 とまで書いたが、作品では、さすがに名指しすることはできなかったのだろう。
しかし、“強制入院”、“手を抜く仕事”、“おけら” は井伏と読めるなど、むしろ陰湿だろう。

つまり、この「三」では、志賀・川端・井伏の三先輩を悪人の代表と位置付けて痛罵したが、ここで
もう一点、注目すべきは、「反キリスト的なものへの戦いなのである。」 と明示したことである。

これにより、「如是我聞 三」は太宰の主張の核を成す部分になったといえよう。志賀らに先輩作家の
体質、作家像を象徴させ、自分の立ち位置を明らかにして自分の思いのたけをぶつけた感がある。

もし、何らかの状況で、筑摩書房の古田が 6月初旬頃までにこの太宰の記述を知れば、
古田は その時点で直ちに行動しただろう。当時、筑摩書房も 「人間失格」<展望>や
「井伏鱒二選集」 で太宰を頻繁に訪ねており、その可能性は零とは言い切れなかろう。
実際、古田は6月初旬に “御坂峠計画” を実行に移しているが・・

この <新潮> 6月号には、
「如是我聞 三」 とともに
次の太宰追悼文が載っている。

「太宰治の思ひ出」  亀井勝一郎
「如是我聞と太宰治」  野平健一
「太宰治の死」  石坂洋次郎

表紙の赤字は
如是我聞(遺稿) 太宰治 
 
(表紙:杉本健吉) 
奥付に、
「昭和23年5月28日印刷納本
 昭和23年6月1日 発行」
とあるが、この当時は紙不足
のため、印刷納本の日付が
実際とは大きく異なることが
普通にあったようだ。

発売日は太宰の遺体発見
(6月19日)以後である。
 


   * 「如是我聞 四」 :<新潮・7月号>掲載

     ー起稿の頃ー 

      ・志賀直哉の発言 =<文芸>(S23/6)

河出書房発行の<文芸・6月号>は、3月実施の「座談会 −志賀直哉を囲んで−」を掲載した。若い
佐々木基一、中村眞一郎が志賀に聞く形で、太宰に関しては主に志賀と佐々木が対話し、志賀は、
「ポーズ」、「斜陽」、「犯人」批判を繰り返し、佐々木が同調して進行した。(司会は杉森久英)

(座談会の詳細は、後記 =志賀直哉の発言 “三連弾” = 参照)

      ・「グッド・バイ」執筆(S23/5〜) 

「如是我聞 三」を脱稿(5月中旬)すると、朝日新聞に6月20日頃から約80回連載予定の小説「グッド・バイ」
を起稿し、6月3日頃までに13回分を脱稿したが、その後の執筆はなく絶筆となった。
この時点で太宰が引き受けていた原稿は、他には「井伏鱒二選集 後書(五〜)」が確認できるだけである。

なお、この「グッド・バイ」は、3月初旬、「人間失格」執筆のため熱海に出発(3/7)する
直前に唐突に引受けた感があり、太宰に相応の構想があったのか疑問でもある。

     ー執 筆ー 

      ・起稿−脱稿(S23/6)

6月4日の夜、「如是我聞 四」を<新潮>の野平に口述した。仕事部屋でほとんど徹夜で脱稿し、翌5日、
野平は、日も中天という時刻に太宰を自宅へ送った。 6月7日に原稿料を届け、その日の夜、
八雲書店の亀島貞夫とともに太宰に誘われて三鷹で飲んだが、それが太宰との最後になったという。

      ・「如是我聞 四」の概略

「如是我聞 三」で、<社会・4月号>の志賀発言に反発、批判したが、“まだ言い足りない” と、
次のように書き、専ら志賀直哉に対する個人攻撃を展開している。(原文抜粋)

・どだい、この作家などは、思索が粗雑だし、教養はなし、ただ乱暴なだけで、そうして己れひとり得意で
たまらず、文壇の片隅にいて一部の物好きのひとから愛されるくらいが関の山であるのに、いつの間
にやら、ひさしを借りて、図々しくも母屋に乗り込み、何やら巨匠のような構えをつくって来たのだから
失笑せざるを得ない。今月は、この男のことについて、手加減もせずに、暴露してみるつもりである。

これに続いて、志賀の作品や生活姿勢、容姿までを徹底的にこき下ろし、
<文芸・6月号>に載った発言に噛み付き、次を加えて結んでいる。(原文抜粋)


・君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである。
 日蔭者の苦悶。 弱さ。 聖書。 生活の恐怖。 敗者の祈り。
 君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさえしているようだ。そんな芸術家があるだろうか。
知っているものは世知だけで思想もなにもチンプンカンプン。いた口がふさがらぬとはこのことである。

ただ、ひとの物腰だけで、ひとを判断しようとしている。下品とはそのことである。君の文学には、
どだい、何の伝統もない。チェホフ? 冗談はやめてくれ。何にも読んでやしないじゃないか。
本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。隠者の装いをしていながら、周囲
がつねにやかでなかったならば、さいわいである。その文学は、伝統を打ち破ったとも思われず、
つまり、子供の読物を、いい年をして大えばりで書いて、調子に乗って来たひとのようにさえ思われる。
しかし、アンデルセンの「あひるの子」ほどの「天才の作品」も、一つもないようだ。そうして、
ただ、えばるのである。腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。

 貴族がどうのこうのと言っていたが、(貴族というと、いやにみなイキリ立つのが不可解)或る新聞の
座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」 とおっしゃっていた。
それで、いいじゃないか。おまえたち成金のの知るところでない。ヤキモチ。いいとしをして、
恥かしいね。太宰などお殺せ(注)なさいますの? 売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。

(注)「お殺せ」は、志賀の作品 「兎」(S21/9) にある父娘の会話の中で、娘が父に「(兎を)
飼って了へばお父様屹度お殺せになれない。」 と言う。この「お殺せ」を捩って揶揄したもの。

なお、太宰が文中に引用、批判した志賀作品の一節 「東京駅の屋根のなくなった歩廊に
立っていると、風はなかったが、冷え冷えとし、着て来た一重外套で丁度よかった。」 は、
「灰色の月」(S21/1・<世界>)の冒頭である。 作品としては一般に概ね高評価である。

参考サイト  青空文庫(無料)  太宰治著 「如是我聞 一 〜 四」 

      ・重要ポイント 

<社会・4月号>に続き、<文芸・6月号>座談会にも志賀の太宰作品への批判発言が載った。3回続き、
しかも今回は、太宰を見下した、しつこささえ感じられる発言で、佐々木は太鼓持的役割である。
太宰は反発、怒りをこの「如是我聞 四」に爆発させた感がある。志賀への罵詈雑言といってよかろう。

5月中旬の口述から今回までの期間はかなり短く、<文芸・6月号>を5〜6月初旬に読んで、急遽、
当初の構想を変えたのだろう。文章には、前回までに増して感情的、独善的な乱暴さがある。

結びは、「売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。」 。少なくともこの時点で、太宰には “死”
の意識はなかったといえよう。 しかし、脱稿から1週間後、6月13日に心中死で絶筆となった。

(心中死につての詳細は、別項目「太宰治:玉川上水心中の核心(三重の要因)」 参照)


   *「如是我聞」 まとめ (私見)

     ー 太宰の主張 ー 

      ・自己抑制しない

太宰は、「如是我聞」執筆の決意を、「一」の冒頭で、「自分は、この十年間、抑えに抑えていたことを
書かねばならない・・そのような、自分の意思によらぬ「時期」がいよいよ来た」 と示している。

「この十年間」というのは、昭和13年からで、文学的には “太宰の中期” とされる時期に当り、
実生活では、井伏の紹介で美知子と見合いし、井伏に誓約書を提出して結婚した頃からである。

つまり、太宰が言いたいのは、この十年間、自分は意思の力によって自己を抑制し、環境適応に努めて
文学的に成功し、実生活では、井伏や阿佐ヶ谷将棋会を通じた文学仲間との親交、長兄文治との関係
修復があり、戦災は別にして順調にきたが、作家としてそこに安住するわけにいかないということだろう。

もともと、“太宰の前期” とされる時期(昭和13年以前)は、太宰は奔放に書き行動したが、その結果、
作品はそれなりに認められたものの、実生活は、再三の自殺未遂、パビナール(麻薬)中毒、いわゆる
強制入院、妻初代の不倫、デカダン生活、と続く破綻状態にあり、このままでは、文学で身を立てるなど
社会的に到底受け入れられないと自覚して得た十年だったはずだが、太宰の心の底には満たされない
何かが蓄積していたのだろう・・。戦後の新しい時勢、民主化を迎えて、太宰は、意思の力で自分を
抑制することはせず、周囲に遠慮なく思いのままに書き、振る舞うと宣言したといえよう。

逆に見れば、この十年間は、文学で成功するために世を欺く仮の姿で過ごしたが、
いよいよ本来の自分の姿に戻るという宣言だろう。

      ・ “古いもの” と訣別 = “独立宣言” 

そのうえで、太宰はもう一つの宣言をした。過去の様々な縁故が切れることは覚悟の上というのである。
その最大の決断が井伏との訣別である。「如是我聞」 の文面には直接は表れないが、
自分の手帳に記した 「井伏鱒二ヤメロといふ」 に始まる長文のメモに太宰の心情を顕にした。
そこに 「私はお前を捨てる」 と書き、井伏は志賀と並ぶ “古きもの=悪人” と位置付けたことが判る。

その最後の一節 「かって、私は、あなたに気に入られるやうに行動したが、少しもうれしくなかった。」
は、「井伏への師事は処世の術、我慢を重ねてきた・・井伏を欺いてきた。」 と井伏を愚弄している。

戦前、戦中、太宰は井伏を中心にした阿佐ヶ谷将棋会の常連として仲間たちと親交を重ねたが、戦後は
その仲間たちとの交遊はなく、昭和23年正月に復活した飲み会の 「阿佐ヶ谷会」 に出席しなかった。
多くの会員がこの会について、小説や随筆などで触れているが、太宰は何も書いていない。また、会の
仲間に贈った寄せ書き(色紙)には、参加者がその時の目的に相応しい文言を認める中、太宰は、
いつも「川沿いの・・」の一首だった。交遊は処世の術で、どうでもいいことだった表れとも受け取れる。

(詳細は、別項「太宰治の人生と作品 − そこで阿佐ヶ谷将棋会(第3期)」、

別項「井伏鱒二と阿佐ヶ谷会とその時代 − 戦後第1回阿佐ヶ谷会」 参照)


国家、社会、津島家からの強烈な圧力に抗うため、太宰は井伏といういわば防波堤を利用したが、
戦後、その圧力が消えると、その防波堤は外へ出るには疎ましい存在に変ったということである。

「如是我聞」は、志賀直哉に対する個人攻撃的側面が注目されるが、太宰の主張(批判・抗議)の
主眼は、“古いもの” を棄て、新たな自分の文学の道を進む決意で、いわば “独立宣言” だろう。

      ・「聖書」が価値基準 

この宣言的内容とは別に、特に注目すべきは、「反キリスト的なものへの戦いである」、「私の苦悩の
殆ど全部は、“己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ” という難題にある。」 と書いたことだろう。

太宰は戦後逸早く無頼派(リベルタン)を標榜し、「パンドラの匣」(S20〜21)の中で、“それは、
反抗の対象が有ってこその存在である” とし、空気がなければ飛ぶことの出来ない鳩に擬えた。

戦後、個人に対する国家、社会の圧力が弱まり、民主化政策とともに自由・平等が尊重され、
国民の価値観が多様化するにつれ、いわゆる生活規範は強力な普遍的圧力にはなり難くなった。

志賀や井伏ら “古いもの” の体質や世俗性を強力な圧力(悪)、と力説するにしても、太宰自身が
自分の価値基準を鮮明に打ち出さなければならなかった。そこで、「聖書」を “錦の御旗” として、
反キリスト的なものは醜い世俗性(悪)と捉え、反抗・反俗の対象にしたと考えられないだろうか。

     ー 執筆の意図 ー 

      ・ “文学的立ち位置” の周知即効性(パフォーマンス)

前記のように、「如是我聞」は太宰の独立宣言と読むと、何故この時に、このような文章で発表したのか、
凡そ一流の文筆家の筆とは思えない、感情的で品位のない乱暴な文章を有力誌に発表したのだろう。

「如是我聞 一」の脱稿は2月27日(S23)とされるが、この時点では、いよいよ「人間失格」に取りかかろうと
していた。「如是我聞」と「井伏鱒二選集−後書」以外の原稿は断り、自身の人生を題材にした畢生の大作
とすべく全精力を傾けた。「HUMAN LOST」(S12)以来温めていた題材で、師事して長年親密関係にあった
井伏への抗議、批判も込めている。(作中の“堀木”は井伏に重なる)。「如是我聞」に通じるところである。

太宰は、戦後という新時代を迎えて、そこに相応しい文学を確立すべく、自分のその文学的立ち位置を
鮮明にしようとした。「美男子と煙草」に始まるこの年(S23)の執筆はこの構想によるもので、「人間失格」
は “過去の総仕上げ” と考えたのだろう。その過程において、自分の立ち位置を読者らにより直接的、
効果的に訴える必要を思っていたところ、志賀直哉の座談会発言を知り、これを利用したように思える。

志賀の発言は続けて3回、大人気無い感もあるが、太宰にすればかえって幸便だったかもしれない。
太宰は文中に、「拙文」とか「愚挙」の文言を書き、冷静な計算を窺わせる。「如是我聞 四」はそうした
流れで書いたとしか思えない。“戦後文学の旗手は太宰” を宣言するパフォーマンスだったのだろう。

これに、健康問題が関連したかもしれない。「如是我聞 三」に、先輩の信頼を得るにはもう20年も
我慢が必要だが、そのような忍耐力はない・・というようなことを書いた。太宰の実際の健康状態は
判然としないが、肺結核が進行して長くは生きられないとの思いがあったことは確かだろう。
出来るだけ早く、意思で抑制しない自分の率直な思いをぶちまけたかったということもあったろう。

別記したように、昭和21年〜23年ころには著名な既成作家が活動を再開する一方で、
戦後派といわれる無名の野間宏、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生らが続々登場した。
既成の文学にとらわれない独自の作品、作風が一躍読者の注目・支持を集め、新たな
潮流になっていった。 後に、第一次戦後派と呼ばれるが、第二次戦後派と呼ばれる
三島由紀夫、大岡昇平、安部公房らもいた。

こうした文学・出版界の新たな動きを見ると、太宰が猛批判した文壇の旧体質の圧力が
この時期、それほどに強力だったか疑問であり、太宰の焦りの気持の表れとも思える。

      ・金銭問題対策 

しかし、いかに自分の立ち位置を訴えたかったとしても、志賀をはじめ先輩たちに喧嘩を売るような
罵詈雑言、特異な文章にした意図は何だろうか。読者向けの即効的なパフォーマンスと考えたの
かもしれないが、もう一つ重要な要素として、原稿料、印税を稼ぎたかったと考えられないだろうか。

この先輩批判が正鵠を射ていても、この文章では文学的な影響力としてはほとんど無力であることを
太宰は承知していたはずで、そのうえで強行したのは経済的理由以外に考え難いのである。
話題性で、<新潮>(新潮社)や「人間失格」掲載の<展望>(筑摩書房)、丁度刊行が始まった(S23/4)
「太宰治全集」(八雲書店)など、著書の売上高を伸ばし、自身の収入増を図ったと思うが如何だろう。

理由は、太宰は前記のような金銭問題に直面しており、金が必要だった。稼ぎ続ける必要があった。
なりふりかまわず収入増を図る必要に迫られた末に計算した “拙文”、“愚挙” だったように思える。

ちなみに、「グッド・バイ」は、3月初旬に、朝日新聞学芸部長の末常卓郎と会って引受けたとされる。
熱海で「人間失格」執筆に集中する直前に唐突に決まった感があるが、課税通知(2/25付)との関連
があるのではないか。 富栄の日記によれば、5月14日に原稿料などの執筆条件を話し合ったが、
時を同じくして、志賀と、名は出ないが井伏への強烈な批判 「如是我聞 三」 を野平に口述している。

なお、「美男子と煙草」の脱稿は1月中旬で、太田静子から送金依頼(1/10)があって
苦慮した時、 「如是我聞 一」の口述(2/27)は 、課税通知(2/25付)の直後に当たる。

    ー 最後に ー 

      ・「如是我聞」の著者は・・

以上のように、「如是我聞」と「手帖(S23)のメモ」(後掲)に見る太宰治は、自分の文学的成功のために、
終戦前は、仮の姿で井伏に師事、文学活動に励み、その甲斐あって人気作家としての地歩を築いたが、
今回は、その井伏を、志賀と同じ “古いもの=悪人” として批判し、その世俗性、俗人性を嫌悪しながら、
自身は自身の世俗色濃厚な実生活維持のために金が必要となり、そのために執筆した姿になろう。

「如是我聞」は、太宰が標榜する、“読者を喜ばせる文学” “読者への心づくし” とは全く異質の文章、
特異な作品であり、作家太宰治の筆になるとは到底思えない、まさに “拙文”、“愚挙” といえよう。
随筆「如是我聞」 に作家 「太宰治」 の姿はなく、見えるのは、人間 「津島修治」 ではないか・・。

      ・発表すべきでなかった!!

太宰は、「渡り鳥」(S23)に、「おもてには快楽(けらく)をよそい、心には悩みわずらう(ダンテ)」を引用した。
誰しも思い当るところで、心の闇を日記や手帳、ノートなどに書き留めることがあるが、それはあくまでも
自分だけのもので他人の目に触れることは慮外である。手帖に書いた 「執筆メモ」 も 「如是我聞」
の文章も本質的にはそうした性質のものではないだろうか。それをそのまま表に出しては、
冒頭に 「個人攻撃ではない」 と書いても、太宰を批判した先輩らを口汚く罵っていることは事実で、
当の先輩はこれを受け入れるはずもなく、また、大方の読者は、著者の品位・人格を疑い、
さらには、心の病、麻薬中毒再発かとさえ思い、作家 「太宰治」 の名を傷つけただけだったろう。

太宰を理解し共感する専門家らがいなかったわけではないが、罵詈雑言では人は動かない。
結局は文学的に何ももたらさなかった。なお、生前中に著書売上増があったかは定かでない。

古田(筑摩書房社長)と井伏は 「如是我聞 一・二」 を読み、転地療養(御坂峠計画)の実行を
急いだとも考えられ、この 「御坂峠計画」 の始動が太宰の心中決行の要因の一つと考えると、
「如是我聞」はこれに繋がる。

(「御坂峠計画」など自殺の詳細は、別項目「太宰治:玉川上水心中の核心(三重の要因)」 参照)

「如是我聞」は、作家 「太宰治」 の名を傷つけ、死を早めることに繋がっただけで、
有意な結果は何もなかった。 もともと、発表すべき作品ではなかったと考える。

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(参考) 生井知子著 「白樺派の作家たち」(2005・和泉書院) 所収
「志賀直哉と太宰治 −「如是我聞」の解釈の為に−」(1998)


(「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」の項 H27/3 UP)
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志賀直哉の発言 “三連弾”


とぼけているね / 落ちはわかっている / 「斜陽」 閉口したな
<文学行動>(復刊U・S23.1.1発行・同人雑誌)は、
「志賀直哉、広津和郎両氏と現代文学を語る」
と題する座談会。他に文学行動同人が出席。

<社会>(S23.4.1・鎌倉文庫発行・4月号)は、
「文藝鼎談」と題する座談会で、
志賀直哉、広津和郎、川端康成、が出席。

<文芸>(S23.6.1・河出書房発行・6月号)は、
「作家の態度(一)」と題する座談会で、
  志賀直哉、佐々木基一、中村眞一郎、が出席。 


       雑誌
「文学行動」  (復刊U号:昭和23年1月1日発行-S22.12.15印刷)  =P1〜P12=

      標 題  「座談会 志賀直哉 広津和郎 両氏を囲んで 現代文学を語る」

      出席者  志賀直哉 ・広津和郎 ・文学行動同人(内藤健一郎、吉岡達夫、小林達夫)

      場 所  世田谷常在寺

      実施日  昭和22年9月30日   (注: この時、 志賀 64歳、 広津 55歳、 (太宰 38歳))

  
 太宰治に関する発言

        ・・前略・・

    吉岡
 太宰治はどうです。

    志賀 年の若い人には好いだろうが僕は嫌いだ。とぼけて居るね。あのポーズが好きになれない。

        ・・以下省略・・

          〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

          雑誌 「社會」  (昭和23年4月号:第三巻 第四号)  =P21〜P35=

        標 題  「文藝鼎談」

        出席者  志賀直哉 ・広津和郎 ・川端康成  (司会は記者)

        場 所  熱海緑風閣

        実施日  昭和23年1〜2月頃(記載はないが、発言内容などから推定)

        (注: この時、 志賀 65歳、 広津 56歳、 川端 48歳、 (太宰 38歳))

   太宰治に関する発言

    記者 終戦後の文学作品をご覧になって何かお感じになったことをひとつ皮切りに。

        ・・省略・・

    志賀 二、三日前に太宰君の「犯人」とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思っ たね。始めから
       わかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし ・・。

    広津 太宰君と田村君と、坂口君、ちょうど三つ同じ月に出た小説を読んだが、それは皆わ かっているのだ。
       そしてその間に目標もみなわかっている。それに向かって無理押しの 駈足を三人がしている感じでね。
       その競争はせっかちで・・。

    川端 「斜陽」を読みましたけれど、別に新しいとか、これまでの人には書けない、という ような感じは
       ありませんね。ただ連想の飛躍みたいなところは独特で面白いけれど・・

    広津 新しい旧いを・・。  

    志賀 何んだか大衆小説の蕪雑さが非常にあるな。

    川端 それはこれから出ようとする若い人たちはもっとそうだと思いますね。懸賞小説をだいぶ読みました
       けれども、だいたい通俗的ですね。それで作家らしいスタイルというものがありませんし、デッサンが
       非常に出来ていない。

    志賀 デッサンが出来ていない。

    川端 大事なところと何んでもないところとの区別がないし、非常に無駄が多い。ところどころにその人たちの
       ぶつかった経験でね、いいところがありますけれど・・。

    広津 梅崎君なんていうのはデッサンが・・。

    川端 非常にしっかりしているらしいですね。

        ・・省略・・

    広津 「斜陽」というのはいいの?

    川端 まあいいと言われているのですね。ところどころいいと思いますけれど、全体として必然性が感じにくいと
       思いますね。

        ・・以下省略・・

            〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

       雑誌
「文藝」  (昭和23年6月号:第五巻 第六号−S23.5.20.印刷納本)  =P52〜P63=

       標 題  座談会 作家の態度(一) ― 志賀直哉氏をかこんで ―

       出席者  志賀直哉 ・佐々木基一 ・中村眞一郎  (司会は編集部)

       場 所  志賀直哉邸(熱海の伊豆山)

       実施日  昭和23年3月15日

     (注: この時、志賀 65歳、 佐々木 33歳、 中村 30歳、(太宰 38歳) : 編集部、杉森久英 36歳)

  
 太宰治に関する発言

       ・・前略・・

    佐々木 この頃、どんなものをお読みになりましたか。中村君のものなんかは・・。

    志賀 ・・省略・・それから太宰君の「斜陽」なんていふのも読んだけど、閉口したな。

    佐々木 はあ、さうですか。

    志賀  閉口したっていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ。田舎から来た女中が
       自分の方に御の字をつけるやうな言葉を使ふが、所々にそれがある。それから貴婦人が庭で小便をするの
       なんぞも厭だった。作者がその事に興味を持つ事が厭なのかも知れない。

    佐々木 あれは最後になってガタ落ちになりましたね。

    志賀  あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぼけたやうな。あの人より若い人には、それほど気に
       ならないかも知れないけど、こっちは年上だからね、もう少し真面目にやったらよかろうといふ気がするね。
       あのポーズは何か弱さといふか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね。

    佐々木 若い連中には、ああいふポーズが喜ばれるらしいです。

    志賀 横光君なんかでも、僕はあのポーズで読めないんだ。あのポーズそのものがいけないのか、ポーズで
       誤魔化してるのがいけないのか、どっちだか知らないけど・・。とにかくああいふことはやっぱりやらない
       はうがいいと思ふんだけどね。芥川君だって、あれほどぢゃないけど、やっぱりさういふことが禍ひしてる
       だろうね。ポーズといふものも、僕の「矢島柳堂」、あれはあれで材料から来るポーズで、ああいふのは
       仕方がない。

    佐々木 「斜陽」なんていふのは、、決して貴族の婦人を書いたからああいふふうになったといふのぢゃなしに、
        何か自分の抱いたイメージを貴族の婦人に托して書いたといふものですね。

    志賀 それがうまく行けばいいけどね、山出しの女中の敬語みたいなものが随所に出てくるから、たまらないよ。

    佐々木 今の二十代の青年なんか、戦争中から太宰の影響下に育った人といふのが、ずゐぶん多い
        やうですが・・。

    志賀 どうも評判のいい人の悪口をいふ事になって困るんだけど、僕にはどうもいい点が見付からないね。

    編集部 「中央公論」新年号の「犯人」は?・・

    佐々木 あれは愚作だったな。

    志賀 あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを作者が
       知らないと思って、 一生懸命書いている。

        ・・省略・・

    佐々木 しかし、よっぽど強い人でないと、さういふふうに出来ない所があるんですね。太宰なんかでも、
        どこか芯の弱いやうな所があって・・。

    志賀 太宰君のポーズは、弱い所から来ているね。

    佐々木 ええ。

    志賀 まともにゆくよか、ちょっと横へ身を避けてゐないと、不安だといふやうな・・。

    佐々木 ええ。それと非常に見栄坊のところが・・。

    志賀 だから、当人とすればそのことにも言ひ訳があるかも知れないjけどね、しかし読まされるはうは、
       愉快でないからね。

    佐々木 わざとやってるのではないんでせうきっと。いはばああいふ逆説的なスタイルやポーズを取ることに
        よってしか、レアリティを出すことが出来ない、つまり正攻法で押して行けるだけの自我の実体が稀薄に
        なってゐるといふ時代的宿命を負った作家のやうな気がします。然しあれで、太宰はだんだんもともな
        行き方を取るやうになりつつあるやうにも思われます。

    志賀 さうかね。

    中村 つまり、まともからもやれる、わきからもやれる、しかし自分はわきを選んだ、さういふことでは
       ないんでせう。

    志賀 それは実生活でもさういふひとがあるね。だけども、どうもそいつはあんまり珍重すべきことではないな。

    佐々木 ええ。

        ・・以下省略・・



= 「井伏鱒二ヤメロといふ」 に始まるメモ =

(「メモ」に関する詳細は、別項目「太宰治:玉川上水心中の核心(三重の要因) - 手帖」 参照)

 井伏鱒二 ヤメロ といふ、足をひっぱるといふ、
  「家庭の幸福」
  ひとのうしろで、どさくさまぎれにポイントをかせいでゐる、卑怯、なぜ、やめろといふのか、
 「愛?」 私はそいつにだまされて来たのだ、人間は人間を愛する事は出来ぬ、利用するだけ、
 思へば、井伏さんといふ人は、人におんぶされてばかり生きて来た、孤独のやうでゐて、このひとほど、
 「仲間」がゐないと 生きてをれないひとはない、
 井伏の悪口を@ふひとは無い、バケモノだ、阿呆みたいな 顔をして、作品をごまかし(手を抜いて)
 誰にも憎まれず、人の陰口はついても、めんと向かっては、何もAはず、
 わせだをのろひながらもわさだをほめ、愛校心、ケッペキもくそもありやしない 最も、 いやしい
 政治家である。ちゃんとしろ。(すぐ人に向BCDグチを言ふ。Eやしいと思っ たら、
 黙って、つらい仕事をはじめよ、)
 私はお前を捨てる。お前たちは、強い。(他のくだらぬものをほめたり)どだい私の文学が
 わからぬ、わがままものみたいに見えるだけだろう、 聖書は屁のやうなものだといふ、
 実生活の駈引きだけで生きてゐる。 イヤシイ。
 私は、お前たちに負けるかもしれぬ。しかし、私は、ひとりだ。「仲間」を作らない。
 お前は、「仲間」を作る。太宰は気違ひになったか、などといふ仲間を、
 ヤキモチ焼き、悪人、
 イヤな事を言ふやうだが、あなたは、私に、世話したやうにおっしゃってゐるやうだけど、
 正確に話しませう、 かって、私は、あなたに気に入られるやうに行動したが、少しもうれしくなかった。

( 註) 実物は、3月18日(木)から4月15日(木)のページまでの9ページに
細かい改行で約100行にわたって縦書きしてある。改行個所や行間の
加筆文字は文意などから適宜判断して上記とした。○は判読不能箇所
だが、「@=言、A=言、BCD=かって、E=く」ではないだろうか。

なお、Eについて、安藤宏東大助教授(当時)は資料の解説で 「い」 と
特定しているが、メモ実物からも 「い」 と判読するのは困難である。


(昭和23年3月14日(日)の週の見開きページ)



 = 志賀発言(第1弾)の微妙な側面 =

志賀は、太宰の作品を読んでいなかった!!

志賀は、太宰の死の直後の<文藝>(H23/10)に 「太宰治の死」 を発表し、その冒頭部分に、
この座談会(S22.9.30実施)での発言に関して次のように書いている。少し長いが引用する。

「太宰君の小説は八年ほど前に一つ読んだが、今は題も内容も忘れて了った。読後の
印象はよくなかった。作家のとぼけたポーズが厭だった。それも圖迂々々しさから来る
人を喰ったものだと一種の面白みを感じられる場合もあるが、弱さの意識から、その
弱さを隠そうとするポーズなので、若い人として好ましい傾向ではないと思った。
その後、もう一つ「伊太利亞館」
(*)といふのを読んだ。(中略)
それから私は最近まで、太宰君のものは一つも読まなかった。そして、去年の秋、
「文学行動」の座談会で太宰君の小説をどう思うかと訊ねられ、とぼけたやうな
ポーズが嫌いだと答えたのであるが、太宰君はそれを読んで、不快に感じたらしく、
「新潮」の何月号かに、「ある老大家」といふ間接的な云ひ方で、私に反感を示したと
いふ事だ。私はそれを見落とし、今もその内容は知らない。(後略)」

(*) 文中 「伊太利亞館」 とあるのは、正しくは 「みみずく通信」(S16)で、
これを批判しているが、「ポーズ云々」 発言には直接の関係はない。

つまり、「年の若い人には好いだろうが僕は嫌いだ。とぼけて居るね。あのポーズが
好きになれない。」
という太宰批判の第1弾は、8年前頃(昭和14年頃に当る)に読んだ
太宰の作品、しかも、題名も内容も覚えていない一作品に対する印象だったのである。

座談会は、テーマの「現代文学」に関して戦後の作品・作家を俎上に、志賀は、網野菊子、
中村地平の作品を推し、坂口安吾、織田作之助を「全然嫌い」、林房雄を一種の水平運動
と批判、宮本百合子、平林たい子への感想を述べ、丹羽文雄、田村泰次郎作品に
関心を示したところで、司会が 「太宰治はどうです。」 と問いかけて出た発言である。

太宰は、戦中・戦後、途切れることなく発表を続けて名を上げ、このとき.<新潮>連載中の
「斜陽」 も好評だった。この志賀の発言を聞き、あるいは読めば、太宰本人はもとより、
文学専門家も一般読者も、太宰の最近の作への感想と受け止めるだろうが、実際には、
それらは何も読んでいなかったということである。大きな誤解を生んだ可能性がある。

このような場合、普通は、最近は読んでいないとか、昔の作品のことと断り、あるいは
内容の断片を示すなどするが、志賀はそうしなかった。志賀は、すでにこの時、
太宰に悪感情を抱いており、座談会という機会を得てそのまま口にしたのだろう。


ここに至るまで、太宰には次のような志賀に関する注目すべき記述や発言があった。

@ 「もの思う葦−感謝の文学」(S10)の記述に 「芸術の腕まえにおいて、あるレヴェルにまで
漕ぎついたら、もう決して上がりもせず、また格別、落ちもしないようだ。疑うものは、
志賀直哉、佐藤春夫、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。」 とある。

A 「懶惰の歌留多」(S14)に、「立派な男が、女房に言いつけられて、風呂敷持って、いそいそ
町へねぎ買いに出かけるとは、これは、あまりにひどすぎる。怠け者にちがいない。こんな
生活はいかん。 (中略) 眉ふとく、鬚の剃り跡青き立派な男じゃないか。」 とあり、
志賀の短編 「雪の日」(T9)との関連が浮かぶ記述で、志賀を揶揄するかの如くである。

B 「津軽−本編 二 蟹田」(S19)では、 “神様” が定評になっている志賀について、名前は
出さないものの、「うまいなあ、とは思ったが、格別、趣味の高尚は感じなかった。」 から
始まり、「エゲツナイ」、「書かれてある世界もケチな小市民の意味も無く気取った一喜
一憂」、「古くさい」、「ミミッチイ」、「ユウモアは笑えない」、「貴族的とはとんでもない」
などの文言を使って貶している。(随筆は、「同 三 外ヶ浜」で隙がない文章と高評価)

C 座談会「現代小説を語る」(S22/4<文學季刊>)では、冒頭で、志賀文学は正統、オーソ
ドックスという司会者(平野謙)に強く反発し、太宰は 「そんなことを僕は感じたくない。
寧ろ、あの人は邪道と思っている。」、「正大関じゃなくて張出しですよ。」 と発言し、
出席した坂口安吾は 「前頭だね」 と応じ、織田作之助も同調するような進行だった。

志賀がこれらを全く知らなかったとは考え難い。@はともかく、Aは、ひょっとして、
8年前頃に志賀が読んだという作品ではないだろうか。「題名も内容も忘れた、
とぼけている、ポーズが好きになれない」 という曖昧な表現に合致するように思う。

BとCは、発表当時からそれなりに注目されており、志賀本人は読まないにしても、
内容を相当程度以上に耳にしていた可能性が大である。

志賀はこの後の<文藝>での座談会発言(本項の“第3弾”)について、「太宰君が私に反感を
持っている事を知っていたから、自然、多少は悪意を持った言葉になった。」 と書いている。
このことは、そのままこの “第1弾”(S22/9)の発言にも当てはまると考えておかしくない。

このころの文学・出版界は、既成作家の復活、戦後派世代の台頭などで活況を呈していた。
詳細別記) 志賀は座談会出席のためそれなりの準備はしただろうが、太宰の作品は
読まなかったという。太宰に対する悪意が作品抜きの感情発言になったのだろう。

この時期、戦後の文学を語るのに、太宰の戦中・戦後作品を無視する感覚は大家ならでは
かもしれないが、この座談会時(S22.9.30)は、まだ文壇でも世間的にも織田の存在感、
印象が強く残っており、特に織田は 「可能性の文学」(S21/12)などで志賀の権威に強く
反発したこともあって、志賀は太宰よりも織田に照準を合わせたと考えられないだろうか。

ちなみに、この座談会で、志賀は、織田について 「「夜光蟲」と云うのを読んでみたが
ひどいものだ。ちっとも骨を折っていないでスラスラやって居る。」 と酷評した。
それも、織田に好意的な司会者発言を遮っての発言である。一般に、死後間もない
人物への批判には相当の配慮をするものだが、志賀は貶すだけで、初めから
そのつもりで出席したのだろう。(織田は、S22.1.10、肺結核で死去。享年33歳)

ところが、太宰は、この時連載中の 「斜陽」 で一躍脚光を浴びた。座談会掲載誌
<文学行動>(S23/1)発売の頃、「斜陽」単行本(S22/12)も発売され好評だった。
志賀の発言は、太宰の最近作への批判と受け止められた可能性が大である。
志賀にとってはあるいは想定外の、太宰にとっては運命的な流れだった感がある。

志賀が、太宰の作品を読むなどして戦後文学に対して真摯な文学論的主張、発言を
していれば、その内容は自ずと異なり、読んだ人々の反応や太宰の反発など、
以後の展開は実際とは全く別のものになったはずである。そうならなかったのは、
志賀の発言に、“先輩大家に刃向かう猪口才な若輩者め” といった感情と、自らの
権威誇示、維持の意図とが入り交じった微妙な側面があったことによるものだろう。


ところで・・ 太宰の「如是我聞」 と織田の「可能性の文学」 と志賀の「太宰治の死」

太宰は、「如是我聞」 執筆に当たり、座談会における志賀の織田批判と織田の
評論 「可能性の文学」 を意識したに違いなく、これらには深い繋がりある。

織田は、「夫婦善哉」(S15)で広く認められ、戦中から戦後死去する昭和22年1月まで、
数多くの小説、評論を発表した。最後の年(S21)は、いわば “売れっ子” で、前年に続き
「世相」(4月)など、また新聞連載 「夜光蟲」(5-8月)、「土曜夫人」(8-12月)など、
さらには評論 「可能性の文学」(S21/12)など、次々に発表した。

志賀は、この夏(S21)に谷崎潤一郎と対談し、司会者が若い作家に望むことという意味で
「最近盛んに書いている織田氏なんかどうですか。」 と問いかけたところ、「織田作之助か、
嫌だな僕は。きたならしい。」 と答えた。(<朝日評論−文藝放談−>(S21/9)掲載)

“若い作家に望むこと” に関する記述はこれだけである。志賀は 「太宰治の死」 の中で、
織田の 「世相」 を読んでの発言で、編集者は発言削除を検討したことを明かしている。


編輯後記によれば発売は10月頃だったようで、織田はこれを読んで11月25日の坂口、
太宰との座談会に臨んだ。座談会の冒頭で、「志賀は正統(オーソドックス)」 という一般
の常識に太宰、坂口が猛反発した。織田も同調的に発言し、同時に<改造>(S21/12)に
「可能性の文学」 を発表、志賀文学と自身の創作姿勢について詳しく論じた。

織田は、志賀の文才、文業を高く評価し認めたうえで、次のように書いた。

「しかし、志賀直哉の小説が日本の小説のオルソドックスとなり、主流になったことに、
罪はあると、断言して憚らない。心境小説的私小説はあくまで傍流の小説であり、
小説という大河の支流に過ぎない。 (中略) 例えば志賀直哉の小説は、小説の
要素としての完成を示したかもしれないが、小説の可能性は展開しなかった。」


そして、次のように結論づけている。

「不安と混乱と複雑の渦中にある人間を無理に単純化するための既成のモラルや
ヒューマニズムの額縁は、かえって人間冒涜であり、この日常性の額縁をたたき
こわすための虚構性や偶然性のロマネスクを、低俗なりとする一刀参拝式私小説の
芸術館は、もはや文壇の片隅へ、古き偶像と共に追放さるべきものではなかろうか。」

私流に解釈すれば、志賀を代表とする正統派の小説は、人間を日常生活規範や慣習の
枠内に置き、男女の性(肉体)はタブー視するが、生命の根源である性を主題に虚構性、
偶然性を積み上げることこそが小説の本来の姿であり面白さである、ということになろう。

これに対し、志賀は、太宰に対する第1弾発言の座談会(S22.9.30:<文学行動>
(S23/1))で、亡き織田(S22.1.10歿)の 「夜光蟲」 をも辛辣に批判したのである。

この直後から、太宰は 「如是我聞」 連載などで志賀批判を行ない、
志賀は太宰に対し、第2弾、第3弾の発言で応じた。

昭和21年夏の志賀による 「織田はきたならしい」 発言に始まるこの激しい応酬は、
,終戦直後の新しい活発な文学活動の流れに危機感、不快感を抱いた志賀が、
座談会などで発言し、織田・太宰が強く反応、反発したが二人の死をもって終った。


志賀が発表した 「太宰治の死」(S23/9)は、自身の発言を弁解しているが、編集者
に促されて発言とか、中野好夫著 「志賀直哉と太宰治」(S23/8)では困るので書く
ということで、志半ばで斃れた若い作家を思う気持はなく、尊大さを感じさせる。

志賀は“神様”。もうすこし大人の対応をして欲しかったと思うが如何だろう。

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(志賀と、織田・太宰との応酬を一表にまとめれば、概略、次の通り)

発言日 掲載誌 発行月 記述の概略、その他 
S21.夏  朝日評論 S21/9  志賀(谷崎と対談):「織田はきたならしい」と発言。
- 改造 S21/12  織田 「可能性の文学」著 :「志賀は正統」を否定、持論展開。
 S21.11.25の座談会終了直後に発言を文章化して詳細に論じたもの。 
(S22.1.10)  -  -  織田死去(肺結核):太宰は「織田君の死」(S22.1.13・東京新聞)発表。
S21.11.25  文學季刊 S22/4  座談会(坂口、太宰、織田):3人共に「志賀は正統」を否定。
S22.9.30  文学行動 S23/1  志賀(広津ほかと座談会):坂口、織田を「全然嫌い」と言い、
 織田の「夜光虫」を酷評。
 太宰について、「とぼけて居るね。ポーズが好きになれない」と批判
S23.2脱稿 新潮 S23/3  太宰「如是我聞(1)」:名指しではないが、発言に反発して志賀批判。
S23/1-2頃 社会 S23/4  志賀(広津、川端と座談会):太宰の「犯人」「斜陽」を酷評。
S23.4脱稿 (新潮) (S23/5)  (太宰「如是我聞(2)」:志賀には触れていない)
S23.3.15  文藝 S23/6  志賀(志賀を囲む座談会):再び、「ポーズ」「斜陽」「犯人」を批判。  
(S23.6.13)  -  -  太宰:玉川上水心中。
S23.5脱稿 新潮 S23/6  太宰「如是我聞(3)」:「社会」の酷評に反発、志賀を名指しで猛批判。
 ・本誌の発売は、太宰の遺体発見(S23.6.19)の後:太宰追悼文掲載。
S23.6脱稿 新潮 S23/7  太宰「如是我聞(4)」:「文藝」の批判に反発、志賀猛批判を継続。
- 文藝 S23/10  志賀:「太宰治の死」を発表。



朝日新聞社
S21/9月號
(志賀発言:S21/夏)
・10月頃発売の模様
 実業之日本社
第3號(輯)S22/4発行
(太宰、坂口、織田
の発言:S21.11.25)
改造社
(織田著 「可能性
の文学」 掲載
:S21/12月号)
(同人誌)文学行動
第2號・S23/1発行
発行者 小林達夫
(志賀発言:S22.9.30)

                           (「志賀発言(第1弾)の微妙な側面」:H31./2UP)



太宰治の人生と作品

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