太宰治: 桜桃忌 (始まり〜現在)


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「文学忌」の中でも、太宰治の「桜桃忌」は広く知られていますが、その6月19日は太宰の誕生日でもあり、
近年は、生地である金木町(五所川原市)をはじめ、太宰所縁の地では「生誕祭」としての催しが盛んです。
本項は、「桜桃忌」、「生誕祭」の成り立ちや推移、現在をまとめました。

==本項のポイント==

毎年 6月19日 は「桜桃忌」

命日か? ・・命日ではない・・

  ・昭和23年(1948613日深夜、太宰治は山崎富栄と玉川上水(三鷹)に入水心中。

  ・619:約1q下流で二人の遺体発見 = 太宰の39歳誕生日

*命日は・・

・太宰(津島修治)の戸籍簿の記載は「昭和23614日午前零時死亡」。

・普通にはこの日が命日で、妻美知子著「回想の太宰治」 には「14日に死亡」と
     記した個所があるが、禅林寺の過去帳には「命日613日」とある(*)など、
     一般には入水した「613日」が死亡日(=命日)と定着している。

    (*)「広報みたか-市長コラム」(2013.6.2)。津島家墓石の刻字も「613日没」。

 *「桜桃忌」の始まりと現在              

  ・葬儀の後、友人たちは毎年619日に太宰を偲ぶ会を行うことを決め、
   翌年から催した。

・名称は太宰と親しい同郷の先輩作家今官一の提案による。
   死の直前の名作「桜桃」に因む。

  ・長年、禅林寺での桜桃忌の催しが続いたが、現在は特別の催しはない。
   (お参りは自由)
 

 *墓所が 黄檗宗 禅林寺(三鷹)の理由

  ・津島家の意向で妻美知子が捜し、禅林寺に要請し住職が受け入れた。

  ・太宰の短編「花吹雪」の記述を酌んだとされ、森鴎外の墓所の前に位置する。

             ==詳しくは、以下を参照ください==

    ・「桜桃忌」 (三鷹・禅林寺)

    - 「桜桃忌」の推移 -

太宰の死の翌年(S24)から、毎年6月19日*1に三鷹の禅林寺で太宰を偲ぶ会「桜桃忌」が行われてきた。

太宰の門弟の一人 桂英澄に「桜桃忌の三十三年」(S56・未来工房)の著書がある。
本項は、この書に沿って桜桃忌の成り立ちや推移の概略を辿った。

葬儀の後、友人知己の間で毎年一度太宰を偲ぶ会をもとうという相談が持ち上がり、6月19日と決めた。
太宰の遺体が発見された日だが、この日は奇しくも39歳の誕生日に当たることに因んだものである。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷、津軽の作家今官一*2によってつけられた。「メロス忌」などいくつかの名が
上ったが、「桜桃」は死の直前の名作であることに加え、鮮紅色の宝石のような北国を代表するこの果物は、
鮮烈な太宰の生涯と、珠玉のような短編作家というイメージに最もふさわしいと圧倒的支持を得て決まった。

*1) 太宰の命日は ・・ 文献、資料、ネット情報の多くに、太宰の命日は 「6月19日」 とある。

しかし、「命日」とは 「亡くなった日にあたる毎月または毎年のその日」 なので、
それからすれば 「19日」 は命日ではない。

津島修治の戸籍簿には 「昭和23年6月14日午前零時死亡」 とあり、
妻美知子の欄は 「6月14日夫修治死亡」 である。(「太宰治全集別巻」
(筑摩書房:1992/4))。普通にはこの日が命日で、美知子夫人の
「回想の太宰治」 には 「14日に死亡」 と書いた個所がある。

ところが、一般には、入水の日とされる 「6月13日」 が死亡日として定着している。
禅林寺の過去帳の命日は 「6月13日」 (「広報みたか-市長コラム」(2013.6.2))で、
太宰治の墓石と並んで立つ津島家の墓石にも「6月13日没」と刻まれている。
“日” にこだわるのは野暮ということか。

*2) 今 官一 ・・ 弘前市出身で、太宰と同年生れ(M42/12)。 太宰を同人誌<海豹>(S8)創刊
の同人に推薦し、太宰は「魚服記」を発表。 これが好評で太宰の文壇デビューとなった。
太宰との親交は続き、太宰の死後、井伏、伊馬とともに下曾我に太田静子を訪ね、相続問題の
解決に当たった。(早稲田大学露文科中退。昭和31年に「壁の花」で直木賞を受賞。S58没。)


禅林寺で催されるのは、もちろん墓があるからで、初めの頃、一度だけ新宿になったことがあるが、
それ以外はすべて禅林寺が会場である。禅林寺の物心両面での協力がそれを支えていた。

(太宰の墓が禅林寺(黄檗宗)に決まった経緯は、別記項目「太宰治(人生と作品)ー墓所」を参照)

運営は、初回(S24.6.19)から亀井勝一郎が中心になり、実務面を小山清ら門弟たちが担当した。
太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招いて、何がなくても桜桃をつまみながら酒を酌み交わし、
太宰を偲ぶという趣旨の会で、5〜6回ごろになると人数、顔触れも30〜40人とほぼ固定してきた。

このころの常連は、佐藤春夫、井伏鱒二、亀井勝一郎、伊馬春部、檀一雄、外村繁、今官一、
木山捷平、山岸外史、青柳瑞穂、小田獄夫、小山祐司、浅見淵、村上菊一郎、阿部合成、
北芳四郎などの先輩や友人、小山清、菊田義孝、堤重久、戸石泰一、別所直樹、野原一夫、
野平健一、小野才八郎、大高正博、宮城竜一郎、桂英澄、などの後輩や弟子たちだった。


午後3時から参会者が墓前に集まり、住職の読経に続いて各自が酒や桜桃を供えてお参りしたが、
その際、「太宰治」 という墓石の文字の窪みに桜桃を嵌めこんだり、墓石に酒を注いだりした。
そのあと、一同は庫裏の座敷に移って太宰の思い出を語り合うという、いわば “墓前祭” と
“偲ぶ会” の二本立てが内容だったが、こうした形は、この数年の経過の中で定着していった。

ところが、昭和32〜33年頃から、様子が大きく変わった。大勢の太宰ファンや学生たちが集まり、
“墓前祭”に続く“偲ぶ会”は会場(70人以上入れる座敷)に収まらないほどになった。「走れメロス」
が教科書に載ったことや「太宰治全集」が筑摩書房から刊行されたことなどの影響が考えられた。

時は流れ、常連は高齢化などで減っていくが、若者たちの参会は続き、昭和53年は、没後30年に
ちなむ「太宰治展」(日本近代文学館)が開かれるなどで熱度が高く、600人超の参会者があった。
「回想の太宰治」(津島美知子著・S53)、「回想 太宰治」(野原一夫著・S55)などの刊行も好評で
昭和55年も、500〜600人の若者が集まり、この時は、野原が三鷹の思い出を約30分間話した。

会の司会は昭和38年までは亀井が続けたが、このころの主催は筑摩書房(一度だけ審美社)に
変っていた。しかし会の性質上、出版社主催には何かと問題もあり、筑摩書房は太宰の門弟に引き
継ぎを要請し、昭和40年から桂英澄、別所直樹、菊田義孝らが世話人会を組織して運営を始めた。

昭和42年には、三鷹の水路の一部埋め立てや道路整備などで界隈はすっかり様変わりした。
禅林寺は集会所を建て替え、規模・設備を一新したが、桜桃忌は使用料免除という特別扱いにした。
桜桃忌をめぐる環境は大きく変るが、世話人会と禅林寺の支えで発足時の趣旨に沿って続けられた。

しかし、かつて桜桃忌に集った太宰ゆかりの人々の高齢化が進み、多くが故人になったこともあって、
長年運営を担ってきた世話人会は、三鷹市HPによれば平成4年(1992)に解散した。

    - 「桜桃忌」の現在 -

その後も、「桜桃忌」は、太宰ゆかりの人々が太宰の生前の姿を話すなどして、偲ぶ会としての催しが
続いたが、平成27年(2015)5月に禅林寺に問い合わせたところ、概略、次の回答だった。

「当日(H27.6.19)は、午後2時から太宰の墓前で住職が読経をするが、他の催しの計画はない。
3年前までは、太宰の門弟小野才八郎氏が太宰作品の朗読や思い出話をしたが、高齢のため
できなくなった。催しはなくなったが、お参りされる方は、自由に来て、思い思いにしてください。
三鷹には、太宰ゆかりの場所が多々あり、太宰の足跡を訪ねて歩くコースもあります。
ボランティアガイドの方々がいるので、お参りの際にはこうした散策も楽しめます。」

そこで、「太宰治文学サロン」(三鷹市芸術文化振興財団)に聞いたところ、禅林寺の説明通りで、
その小野才八郎氏も昨年(H26)故人になられたとのことで、今後の催しについては不詳のようだ。
ボランティアガイドについては、「桜桃忌」の日は、例年禅林寺の門前にガイドが待機しているので
利用して欲しいとのこと(無料)。 詳しくは、事前に電話などで確認しておく方がいいだろう。

ちなみに、平成26年の桜桃忌には、200人ほどが禅林寺を訪れたとのことだが、世話役が
いて企画・運営をする会ではないので、「偲ぶ会」としての内容は以前とは異なってきている。
このときの様子は、次のサイトが詳しい。

参考サイト   H26 「桜桃忌」 (禅林寺)の様子  太宰治 生誕105周年 桜桃忌

平成27年(2015)の模様は、読売新聞(6/20)が 「桜桃忌 太宰ファン今も」の題で、
東京新聞(6/20)が 「降りしきる雨の中 太宰しのび桜桃忌」の題で報じた(ネット)。



平成28年(2016)について「太宰治文学サロン」に電話で問い合わせたところ、
「禅林寺では昨年(H27)同様に住職が14時から墓前で読経するだけ」 とのこと、
ボランティアガイドの方は例年通り実施するので利用して下さいとのことだった。



三鷹 禅林寺 「桜桃忌」

平成28年(2016).6.19(日)

 


関係者によれば、今年は日曜日なので
参拝者はいつもの年よりも多いという。

終日曇り空で、午後は雨粒がポツリとあったが
降るにはいたらず、数百人規模だったようだ。

墓前には花や酒、桜桃が所狭しと置かれ、
「太宰治」 の凹みにもサクランボの粒が・・


午後2時 僧侶が墓前で数分間読経した。


例年のように、門前には太宰所縁の場所を
無料で案内するボランティアガイドが待機、
希望者が集まっていた。



三鷹駅前の三鷹市美術ギャラリは、今年は
「太宰治資料展 U」を開催(6/11〜7/3)。




なお、この後は、禅林寺では、僧侶による墓前での読経など
桜桃忌としての特別な催しは行なっていない。
令和元年(2019)は、特別な催しはなかった。

催しはなくても、墓を訪れるファンは多いので、現在も、ボランティアガイドが
門前に待機し、希望者には太宰ゆかりの場所の案内を続けている。

参考サイト    禅林寺:アクセスなどご案内 ・・・・ 禅林寺 (公式ホームページ)
太宰関連資料展示・ガイド ・・・・ 「太宰治文学サロン  (三鷹)


令和5年(2023):コロナで中止していたボランティアガイドが再開された。
ガイドさんによると、今年はコロナ前に戻って大勢の方が訪れているという。
「太宰治文学サロン」に寄ったところ、資料などを求める人で超満員状態だった。、

数年前までは、午後2時から僧侶の読経があったので大勢の人が集っていたが、
現在は催しは何もなく、参拝者は順次流れるので今年の墓前は10人くらいだった。


令和6年(2024):前日の大雨が上がり、梅雨の晴れ間の暑い日になった。
午後の墓前の様子は前年とほとんど変わらなかったが、
若い外国人の女性が居られて、ちょっと驚いた。

イベントがないのはやはり寂しい。
せめて午後2時の読経だけでも復活願えないだろうか・・

 
(令和6年(2024).6.19撮)
 
(令和5年(2023)6.19撮)
--ほぼ向かい合わせの大宰治と森林太郎の墓(鴎外忌は7月9日)--

(付記) 鴎外の墓が三鷹の禅林寺にあるのは、もとは墨田区向島の弘福寺(黄檗宗)に
あったが、関東大震災で被災して改葬した(S2)ことによる。戦後(S28)、分骨が行われ、
鴎外の出身地、島根県の津和野にある永明寺(ようめいじ・曹洞宗)にも墓が建てられた。
(森鴎外(本名・森林太郎):1862.2.17-1922(T11).7.9))

 
   「生誕祭」 (金木町)・・令和2年から「太宰治顕彰事業」を実施

太宰の生地  青森県五所川原市は、平成27年6月19日、同市金木町の
芦野公園で 「太宰治生誕祭 −文学碑建立50周年−」 を実施した。

金木町の「生誕祭」の成り立ちや「桜桃忌」との関連について
五所川原市に問い合わせたところ、概略は次の通りだった。

金木町では、太宰の死の2ヶ月後(S23/8)に町の有志により「太宰治を語る会」が催され、以後毎年続いた。
「桜桃忌」と しては、昭和43年6月19日(1968・没後20年)にはじめて金木町で開催され、
一時期は、弘前市、青森市、金木町と持ち回りになったが、昭和50年(1975)から金木町に 定着した。

「桜桃忌」として30年続いたが、平成10年(1998・没後50年)6月19日を区切りに、翌年(平成11年)か らは、
偲ぶ会としての「桜桃忌」ではなく、誕生日を祝い、太宰治を顕彰する日としての「生誕祭」とすることになった。
これにはご遺族の意向もあったが、金木町では、この後は 「生誕祭」 が続いている。

年が経ち、太宰治を直接知る人の多くが故人になり、美知子夫人も平成9年に他界した。
6月19日を 「太宰治を偲ぶ日(桜桃忌)」 として続けるよりも、生誕地としては、むしろ、

太宰の作品、文学的業績を後世に伝える日として 「生誕祭」 とする方が相応しいだろう。

平成27年(2015)は 「生誕106年」 だった。 この模様は、河北新報や
北海道新聞、産経ニュースなどが報じ、ファンら300人以上が集まったという。


令和元年(2019)、五所川原市は 6月19日(水)に 金木芦野公園で

「太宰治生誕110年記念祭 -銅像建立10周年-」 を開催した。

 
==令和2年(2020)以降の生誕祭について==

五所川原市HPに、次の通り「中止」が報じられている。

毎年、6月19日に開催しておりました太宰治生誕祭は、昨年の110年記念を区切りに式典形式
の生誕祭は実施せず、今年度から主に次代を担う子供たち(地元小・中・高校生)を対象と
した太宰治顕彰事業(太宰治生誕111年記念「文化講演・朗読会」)を計画しておりました。
しかし、このたびの新型コロナウィルスの感染拡大の影響により、中止となりましたので
お知らせします。

(問い合わせ先:社会教育課文化係 (電話 0173-35-2111 :内線2934)
................................................................................................................................

令和3年は、6月19日に「太宰講座・朗読会」が実施された。

令和4年(2022)も、顕彰事業を実施予定だが、日程等詳細は未定。
決定次第(4月以降の見込)、市のHPに発表とのこと。(R4.2.25確認)

太宰文学末永く 生誕113年イベント
([陸奥新報(2022.6.19)サイトから抜粋)

五所川原市金木地区出身の小説家・太宰治(本名津島修治)の生誕113年を記念した
イベントが生誕前日の18日、同市や弘前市で行われた。青少年による読書感想文の発表や
演劇の上演など、多彩な催しで本県が生んだ文豪の作品と、その人となりに理解を深めた。
 
同地区の芦野公園太宰治銅像前で行われた「太宰文学講座・朗読会」(同市教委主催)は、
地元の児童生徒や文学関係者、太宰ファンら約100人が参加。催しは2019年の
生誕110年記念祭を節目に、それまでの生誕祭から太宰治顕彰事業に代わり、次世代を
担う子どもたちが太宰文学に触れ、郷土を愛する心の醸成につながることを目的に開催。
今年は19日が五所川原市長選の投票日に当たることなどから前日の開催となった。

令和5年(2023)はネット情報によれば、19日に、斜陽館では市教委が
顕彰事業「太宰文学講座・朗読会」を開催した。(「陸奥新報」
(2023.6.20))また、芦野公園にある太宰治文学碑にも県内外から
多くのファンが訪れ、花やさくらんぼをささげるなどした。

    「山梨桜桃忌」 (御坂峠)

ネット情報によると、太宰の人生に深い関わりがある御坂峠(山梨県)では毎年 「山梨桜桃忌」 が開催され、
昨年(H26)は、「第37回 山梨桜桃忌」(H26.6.15(日)開催)だったとのこと、長く続いていることが分る。

情報を総合すると、「山梨桜桃忌の会」主催、例年、6月19日の直前の日曜日、御坂峠の「天下茶屋」が
会場で、“富士には月見草がよく似合ふ” と刻まれた太宰治文学碑(S28建立)で献花の後、茶屋に移り
専門家による作品朗読や講演が行われている。参加者は30名ほどのようだが、充実ぶりが窺われる。

平成30年(2018)は、6月10日(日)に同所で開催された。

令和3年(2021)は、新型コロナウィルス流行のため前年に続き、6月19日に関係者だけが集まった。
例年のような朗読や講演はなく、文学碑に献花、献杯して太宰を偲んだ。(R3.6.20山梨日日新聞)

令和4年(2022)も、新型コロナウィルスの影響から、関係者だけで6月18日(土)に開催されたが、
今回は、大正大学表現文化学科(外川智恵教授)の学生が参加し、「富嶽百景」を朗読した。

令和5年(2023)、17日(土)に4年ぶりで一般公開の山梨桜桃忌が開かれた。県内外から約30名が
参加し、文学碑に献花するなど大宰を偲んだ。天下茶屋では、大正大学表現文化学科 外川智恵
教授の学生が参加し、未完の長編「火の鳥」を朗読した。同大学では太宰作品の朗読データの
アーカイブ化に取り組んでいる。(「山梨日日新聞」(2023.6.18)より))

    「沼津太宰治生誕祭」 (安田屋旅館)

ネット情報によると、太宰が「斜陽」を執筆した三津浜(現・沼津市)の安田屋旅館では平成2年(1990)から、
6月19日前後に「沼津桜桃忌」を営んでいたが、平成24(2012)から、太宰の生誕地・青森県五所川原市に
倣い、生誕祭として太宰を偲んでいるとのこと。平成27年は「第4回 沼津太宰治生誕祭」が営まれ、県内外の
68人のファンが集まり、旅館の庭にある文学碑に太宰の作品「桜桃」にちなんでサクランボを供えたという。

令和元年(2019)は、6月16日(日)に 同旅館で記念行事が行なわれる。

令和3年(2021)は、6月20日(日)に同旅館で「第10回沼津太宰治生誕祭」が行われた。

令和4年(2022)、6月19日(日)に同旅館で「第11回沼津太宰治生誕祭」が行われた。

令和5年(2023)、6月18日(日)に同旅館で「第12回沼津太宰治生誕祭」が行われた。
=問い合わせ先 :同旅館(Tel. 055-943-2121)=

    船橋で太宰治生誕祭 (市民文化ホール前広場)

ネット情報によると、平成26年6月19日、市民団体「ディスカバー船橋実行委員会」主催による太宰治の
生誕祭が市民文化ホール前広場で行われた。同委員会によれば、「船橋は太宰文学発祥の地。だが、
知る人が少なく、空白期となっている。後世に伝えていきたい」 とのこと、今年(H27)も実施されるようだ。

ちなみに、太宰は、昭和10年7月に船橋市に移住し、妻初代とともに1年余を暮らした。芥川賞をめぐる
川端康成、佐藤春夫とのトラブル、太宰初の創作集「晩年」の出版、パビナール中毒の進行と生活混乱、
パビナール中毒治療のための入院2回(芝の済生会病院と東京武蔵野病院)という波乱の時期だった。
この東京武蔵野病院入院でパビナール中毒は完治し、退院時(S11/11)に再び杉並区へ移住した。

 太宰が船橋の借家に植えた夾竹桃は、昭和57年、旧居の敷地整備に伴い文化ホール前広場に移植され、
毎年夏、美しい花を咲かせているという。

平成27年(2015)は、「ディスカバー船橋実行委員会」が主催し、6月19日に文学碑のある
船橋市民文化ホール前で行われ、千葉日報ウェブ「ちばとぴ」がこれを報じた。

コロナ禍の現在、生誕祭の実施は不詳だが「ディスカバー船橋実行委員会」のHPは更新されており
(直近は2021.4.8)、それによれば「太宰治文学散歩」などボランティアガイド活動が続いている。

(本項 「太宰治: 桜桃忌(始まり〜現在)」  H27/4UP:適時更新)
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  太宰治(人生と作品)

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