太宰治の死 :愛人と別れるか、恩人を裏切るか ―究極の選択

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太宰治は、昭和23年(1948)6月13日(日)、三鷹の自宅に近い玉川上水で山崎富栄(以下、富栄)と
入水心中した。遺体の発見は6日後の6月19日で、この日は奇しくも太宰の39歳の誕生日だった。

この心中の要因については、私見を別項 「玉川上水心中の核心(三重の要因)」 に
詳記したが、本項はその核心である 「三重の要因」 を整理し、簡潔に記した。

詳細=別記 「太宰治:玉川上水心中死の核心(三重の要因)」


★ はじめに  --- 直前まで、自殺の意思はなかった ---

   ・昭和23(1948)年5月12日 体調回復して帰京(「人間失格」脱稿)

太宰は、大宮で「人間失格」を執筆中に、妻美知子宛に次のようなハガキ(S23.5.7付)を書いた。

「ここの環境なかなかよろしく、仕事は快調、からだ具合ひ甚だよく、一日一日ふとる感じ。」

帰京の時には、翌月(6月)から朝日新聞に連載の「グッド・バイ」 もここで書きたいと家主に頼んだ。(家主・小野沢談)

また、執筆中ずっと付き添い、一緒に帰京した日の富栄の日記(S23.5.12)は次の通りである。

「おふとりになって、そしてお声も御元気そうにおなりになって、うれしい。
このままの調子で夏を越し、秋を迎えて、今年も無事に過ごしていただきたいものです。」 


このとき、二人の胸中に 「死」 はなく、あるのは日常の生活 「生」 だけである。

   ・5月中旬~6月初旬 「グッド・バイ」 「如是我聞」執筆など 文学活動活発

朝日新聞に6月20日頃から約80回連載予定の小説 「グッド・バイ」 を起稿し、5月27日には10回分
(「怪力三」まで)を脱稿、6月3日頃にはさらに3回分を加え13回まで(コールド・ウォー(二))を脱稿した。

太宰の積極的意志で雑誌<新潮>に1年間の予定で連載を始めた 「如是我聞」 は、人間失格を脱稿
して帰京すると直ちに 「三」 を書き(5月15日頃脱稿)、さらに 「四」 を6月5日頃に脱稿した。

文壇に対する激しい批判で、特に志賀直哉の発言に対する反発から志賀を名指しで罵っている。
「四」においては志賀批判を繰り返し、その文末で、さらに書き続ける意思を明確に示している。

ちなみに、その文末は次の通り = 「・・・。 ヤキモチ。いいとしをして、恥かしいね。
太宰などお殺せなさいますの? 売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり。」

・・・ そもそも、近々中の自殺実行を決意した人間が、
この「如是我聞」の如き文章を遺そうとするだろうか・・

詳細は、 別記 「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言三連弾」

さらに、太宰自身が意欲的に取り組んだ八雲書店の「太宰治全集」刊行は、太宰の細かい
注文の下で進行し、第1回配本は4月(S23)に行われ、第2回配本の準備を進めていた。

同様に、太宰が主導した筑摩書房の「井伏鱒二選集」は、第二巻が6月(S23)刊行予定で
進行し、太宰は全巻執筆する約束の「後記」を第四巻まで書き終わっていた。以降分に
ついて、太宰は書きしぶりはあるようだが、関与を放棄する明確な意思は示していない。

    ・6月7日(月) 編集者が稿料など持参、三鷹の街で酒席

6月7日は、八雲書店編集部の亀島貞夫と新潮社の野平健一が、全集の印税と<新潮>の稿料を太宰
に届けた。富栄の日記に、両者来訪のことと金額なども記されており、富栄の部屋で会ったのだろう。
(富栄は、「千草」(小料理屋で、太宰は2階を仕事部屋としても使っていた)の向かい側にある
野川家の2階の借室に居住。このころは、太宰はここでも起居していた。)

野平によれば、この日は久しぶりに誘われて三鷹の街に出かけた。出合った女性に冗談を云ったり、
ふざけたりで、「太宰は、わずかに、はしゃぎ方が多いようだった。」という。
亀島によれば、この時は富栄も一緒で、三鷹駅で太宰に握手を求められて別れたという。

    ・私生活は疲弊の極にあったが・・

太宰は、疎開から帰ると(S21/11)、いわばマスコミの寵児となり超多忙な文学活動となったが、
同時に心安らかな平穏な日常生活を失った。別項「太宰治(人生と作品)」に詳記したが、
6月(S23)の時点で、家族(妻34歳、長女・7歳、長男・3歳10カ月、次女・1歳2カ月)との関係
(特に長男の成育の遅れ)、二人の女性(太田静子(治子を出産)と山崎富栄)との関係、
文学活動における志賀直哉ら文壇有力者への反発、生き方の違いが鮮明になった井伏への
心情、新たな文学・出版関係者らとの付き合いに伴うストレス、自身の著しい健康不調
(肺結核進行、喀血?)、それに想定外の多額の課税通知(S22分所得税) 等々が重なり、
上記の6月7日の時点において、心身ともに疲弊の極に達していたことは確かである。

(詳細別記)  太田静子 = 太宰治と太田静子と「斜陽」 : 山崎富栄 = 太宰治と山崎富栄と「人間失格」・「グッド・バイ


が、さて、そこで・・これらの私生活上の問題が自殺の動機になることは十分考えられ、また、
病気の進行で命は短いと覚悟していたかもしれないが、これらは特に差し迫っているわけでなく、
太宰の言動や富栄の日記から二人に数日中に心中する気持があったとは考え難いのである。 

しかし、わずか6日後の13日には、富栄と明らかに合意のうえで心中した。直接の死因について、
「絞殺」、「青酸カリ服用」など富栄による他殺(無理心中)的な説も一部に見られるが、遺書を書いた
直後の入水で、それが苦渋の決断だったとしても、太宰自身の意思による死でしかないだろう。

では、何故、「死」 を急いだのか?

・・ 太宰は、想定外の急展開で生じた 「三重の要因」 に窮した ・・

★ 三重の要因  --- 想定外の急展開 ---

  [要因 Ⅰ]  創作の行き詰まり

遺書には、「小説を書くのが いやになったから死ぬのです」 とあり、この意味は重い。
太宰の心奥には、やはり 「小説を書けなくなったから」 があったと察せられる。

流行作家として次々と作品を発表し、執筆依頼は殺到、書き続けたい ・・、 が、筆は思うように運べない。

太宰が、戦後、瞬く間に人気作家となり得たのは、戦前、戦中の国家、社会体制による強力な個人抑圧と
終戦直後の価値観混迷の中で、非凡な才覚をもって的確に反応した作品が高く評価されたからだろう。
個人への強大な圧力に抗えない弱者、被抑圧者の立場、視点で書いた反抗、反俗が支持されたといえよう。

太宰は戦後逸早く無頼派(リベルタン)を標榜し、「パンドラの匣」で、反抗の対象が有っての存在であり、
空気がなければ飛ぶことの出来ない鳩に擬えた。 「斜陽」、「人間失格」など、戦後の多くの作品は、
この意味で太宰の真骨頂を発揮したが、ここにきて太宰は “真空管の中の鳩” 状態だったのではないか。

個人に対する国家、社会の圧力が弱まり、世の中が落ち着きを取り戻すと、リベルタンの影は薄くなら
ざるを得なかった。「人間失格」は、特に「第三の手記」では反抗の対象に世俗性を据えて成功したが、
この世俗性は個人の自由尊重のもとでは強力な普遍的圧力にはなり難い。 

しかもこのころ、太宰は社会的には強者の立場、追われる立場に変っていた。「如是我聞」などで
志賀や井伏らの古い文壇体質や世俗性を、強力で醜い圧力と力説し、価値基準として
キリスト精神(聖書)を強調して反抗・反俗を意味付けるが、所詮は愚痴の域を出ない。

この昭和21年~23年には著名な既成作家が活動を再開する一方で、戦後派と
いわれる無名の野間宏、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生らが続々登場した。

既成の文学にとらわれない独自の作品、作風が一躍読者の注目・支持を集め、
新しい潮流になっていった。 後に、第一次戦後派と呼ばれるが、
第二次戦後派と呼ばれる三島由紀夫、大岡昇平、安部公房らもいた。


こうした文学・出版界の戦後の流れを見ると、この時期、太宰が猛批判した文壇の旧体質の
圧力は批判に値するほどのものだったか疑わしく、太宰の焦りの気持も感じられる。


「人間失格」、「如是我聞 三」脱稿に続いて執筆した朝日新聞連載用の「グッド・バイ」の脱稿部分に
ついて、“筆力に衰えはなく、太宰の新境地進出云々” と高く評価する向きもあるが、普通の通俗
小説のようで、井伏の「サヨナラだけが人生だ」を引用した「作者の言葉」にある創作意図・意欲との
間にはズレがあるように思う。手練の筆致ではあるが創作の意図、主題には手詰まりが感じられる。

主人公の名は津島修治をもじった「田島周二」で、脱稿部分の別れの相手は愛人の美容師である。
小説よりも楽屋裏の方に興味が湧く。実際、5月(S23)中旬~下旬の富栄の日記には
奇妙な記述が現れ、太宰が真剣に取り組んだ主題なのか疑わしくもある。別途詳記したが、
もともと、連載に相応しい心構え、構想、準備をもって引き受けたのかも疑わしい面がある。

昭和23年1月から半年間、太宰は井伏との訣別をも胸に定め、全精力を傾けて「人間失格」を完成、
「如是我聞」などでは志賀、井伏ら先輩に対する批判、攻撃を徹底的にぶちまけたが、この時、
太宰には強い虚脱感,、困頓感のようなものがあったのではないだろうか。この時点で引受けていた
小説は他にはない。体調面もあろうが、これまでにはないことで、創作上の悩みが窺える。
死の前日、大宮で小野沢さんに 「『グッド・バイ』 がうまく書けない」 と洩らしたのは本音だったろう。


太宰は、「人間失格」でそれまでの太宰文学を総括し、「如是我聞」「グッド・バイ」で、戦後の
新たな時代における文学的独立と家庭回帰を表明したが、意図した展開にはならなかった。

太宰にはもう少し時間が必要だったのだが・・焦りが生じたか?

  [要因 Ⅱ] 山崎富栄の死の決意

    ・二人の関係とその変化

富栄については別途詳記したが、太宰との初対面は昭和22年3月27日で、富栄27歳だった。
(太宰37歳) 優秀な美容技術と卓越した教養、実務能力を持ついわば才色兼備の女性である。
この当時は三鷹に住み、戦前に両親が築いた美容事業再興のため美容師として働いていた。

(詳細は、別記 「太宰治と山崎富栄と「人間失格」・「グッド・バイ」


富栄は太宰を本気で愛し、尽くした。太宰に接していた編集者らによれば、富栄は日頃から
「変なことをしたら青酸カリを飲む」と云い、太宰はそれを恐れていたという。
富栄にとって太宰とのことは、まさに “死ぬ気で、恋愛” (富栄の日記・S22.5.3)だった。

(注:この当時は、一般人の青酸カリ所持は、戦時の名残で、現在ほど特殊なことではなかった。
太宰の短編「女類」(S23/4<八雲>)には、女が薬を飲んで掘割りに投身したという箇所がある。)

富栄が両親宛に書いた遺書の一通は、死の前年(S22)8月29日の日付で、
富栄は、この時、太宰が死ぬ時は自分も死ぬ時と思い定めたことが窺える。

太宰の愛人として、また秘書、看護婦、家政婦、乳母のような存在に徹して尽くし、
太宰との生活のため、美容師の仕事を11月(S22)に辞めた。梶原悌子著「玉川上水
情死行」によれば、美容事業再興のために懸命に働いて10数万円(現在に
換算すると1,000万円超)を蓄えたというが、これは年末(S22/12)頃には消えていた。

この時期の太宰の作品は、富栄の “内助の功” の賜であり、「人間失格」は筑摩書房の
古田社長の特別な配慮とともに、富栄の支えがあって完成したといっても過言ではない。

太宰には離すことのできない大切な存在だったが、帰京する(S23.5.12)と間もなく、
富栄の日記に奇妙な変化が現れる。 太宰の心に変化が生じたことの反映にみえる。

    ・別れ話と富栄の死の決意

井伏や相馬正一によれば、太宰の仕事場「千草」の女将(増田静江)は、「グッド・バイ」執筆の頃の
二人について、“太宰が富栄に別れ話をし、富栄は自殺すると云っていざこざがあった” と話した。
(井伏「太宰治全集 上-解説:S24/10・新潮社)」 ・ 相馬「評伝太宰治 下」)

その詳細は不明だが、富栄の日記には、太宰が「妻美知子が二人の関係に気付いた」、「自分には
女子大生の恋人がいる」(架空話)、「古田が言ったよ、伊豆へときたまいってやれって」などと話した
こと、死をほのめかすような会話があったことなどが記され、それまでの関係に大きな綻びが窺える。

富栄は、「離れますものか、私にもプライドがあります。」(S23.5.22)と書き、
親兄弟、仕事仲間の信頼と期待を裏切り、ただひたすら太宰に尽くして1年余、太宰の
気持がどうあれ、富栄には太宰と別れて生きるという選択肢はない決意を示している。

(詳細は、別記 「太宰治と山崎富栄と「人間失格」・「グッド・バイ」

この時期は、次に記すように、古田が太宰に転地静養を勧めた時期に符合する。

太宰は、自分が富栄との関係を絶てば、富栄は自ら命を絶つことを確信した。

  [要因 Ⅲ] “御坂峠計画” の始動

    ・古田晁による太宰の長期静養計画

太宰が「人間失格」を脱稿(S23.5.10頃)する頃、太宰の心身を案じた筑摩書房の古田晁社長は、
太宰に御坂峠(山梨県)の天下茶屋で、井伏が付き添って長期間静養してもらうことを考えていた。
(本項では、これを “御坂峠計画” という)

太宰は、「人間失格」と同時期に「如是我聞」(随筆)を執筆、発表(<新潮>:S23/3・S23/5-7)した。
井伏は4月(S23)の段階で太宰に執筆中止を求めたが、古田も同様に作品の異常性を感じていた
はずである。 「原稿なんか書かないで、真に静養だけしてもらいたいのです。」 と言ったという。

(「如是我聞」については、 別項 「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」 に詳記)


古田と太宰は、井伏が「莫逆の友」と表現した仲で、出版社々長と作家という関係を超えた深い
心の触れ合いがあり、古田は井伏とともに太宰の人生における恩人といっても過言ではない。
その古田は、食糧事情など極めて困難な状況を承知の上で井伏に協力を求めたのである。

古田は、「人間失格」執筆のための仕事部屋を大宮に用意し、太宰はそこで執筆、脱稿したが、
その間に、近くにある古田の寄宿先である宇治病院(古田の義兄が経営)に通院した。
古田は太宰の健康状態を熟知し、何よりも長期静養が必要との思いを強めたはずである。

古田は、大宮で、太宰に転地による長期静養の必要を説いていたのではないだろうか。
ただ、この段階では、まだ場所や井伏のことなど詳細な内容には触れなかっただろう。

このころ(S23/5頃)の太宰は、「井伏さんは悪人」の思いを強くし、訣別を心に秘めていた。
(詳細は、 別記 「太宰の手帖(昭和23年用)の執筆メモ」
古田がこの計画の詳細を話したとすれば、太宰の反応は拒否だったはずである。


ちなみに、御坂峠は、10年前(S13)の秋、太宰が井伏の誘いでで約2カ月間滞在し、
この間に、美知子と見合いし、結婚を切望して井伏に「誓約書」を書いた場所である。


太宰は、大宮滞在で体調回復を実感しており、この長期静養の勧めに応じようとしたが、
今度は富栄同伴というわけにはいかないので、富栄にそれとなく別れを仄めかしたところ、
富栄の心は一気に “死” に向い、それが前記の富栄の日記の変化に現れたと推測する。

    ・ “御坂峠計画” に関する井伏鱒二の記述

“御坂峠計画” に関する、井伏鱒二の記述があるので 引用(抜粋)する。

井伏鱒二「太宰の背景を語る」(「太宰治集 上巻」(S24.10.31:新潮社)所収の「桜桃」解説欄附記)

「・・省略・・。この作品がまだ雑誌に出る前に、「展望」発行所の筑摩書房主人、古田晃氏の言。 『いま、
このままの状態では、太宰さんの健康があぶない。お願ひですが、太宰さんを御坂峠頂上の茶店へ、
連れて行って下さいませんか。さうして、あんたは、太宰さんがそこに居つくやうに、1箇月ほど太宰さんと
いっしょに御坂峠にゐて下さい。太宰さんには、1年ほどその山の宿で、静養してもらひたいのです。
原稿なんか書かないで、真に静養だけしてもらひたいのです。私は月に三回づつ、背負へるだけ物資を
背負って太宰さんを訪ねます。なるべく早く、来週の終りごろにでも出発して下さい。私は、ちょっと
郷里に帰って、今週の終りか来週匆々に帰ってきます。それまでに、出発の都合をつけておいて下さい。
いいですか、では、お願ひしましたよ。ゲンマン。』  
ただし、古田晁が一週間ばかり郷里へ帰っていゐ間に、太宰治は「不慮の死」をとげた。
最後に私は、私の手紙に対する太宰治の、ある一つの返事の冒頭をここに抜粋する。
『○井伏さん曰く『ちかごろ、どんなことになっているのか伺います。』
○太宰、沈思黙考、暫くして顔をあげ、誠実こめて『ちかごろ、悲しきことになっております。』 」

さて・・冒頭にある 「この作品」 というのは、省略した前文の流れから「グッド・バイ」を指し、
これは太宰の死後、「朝日新聞」(第1回・S23.6.21)、「朝日評論」(1~13回・S23/7)に
掲載されており、「雑誌に出る前」 というのは、「グッド・バイ」執筆中の頃ということになる。

「グッド・バイ」 の起稿は、「人間失格」 を脱稿して帰京(5月12日)した直後なので、
この計画を古田が井伏に最初に話したのは5月中旬~下旬で、次いで、6月に入って
計画の実行を井伏に知らせ、井伏にも行動を促したと推測できる。

(末尾にある太宰の返事の手紙はいつのものか、日付は不明である。)

そこで、この文の前半の部分は5月中のことで、後半の「なるべく早く」以下は、
古田が大宮へ帰った6月14日(月)から逆算すると、次のように読み替えられる。

「6月18日(金)~19日(土)頃にでも出発して下さい。私は、ちょっと郷里(塩尻)に帰って、
13日(日)前後に帰ってきます。その13日頃までに、出発の都合をつけておいて下さい。
いいですか、では、お願いしましたよ。ゲンマン。」

したがって、この “御坂峠計画” の実行を古田が井伏に促したのは、6月6日(日)頃で、
古田が郷里(塩尻)へ出発したのは6日(日)~9日(水)と推測できる。


“御坂峠計画” の計画から始動までは、大凡はこのようなことだったろう。

    ・ “御坂峠計画” を巡る古田の行動と太宰の行動

古田は、腹案を実行に移した。6月初旬、まず、井伏に計画の詳細を示し、了解を取り付けると
前記したように6月6日~9日に郷里での食料調達という行動に移ったのである。

この当時の食糧調達は難事中の難事、古田は先の見通しもないのに井伏に出発準備を促し、
遠い郷里(現長野県塩尻市)まで食料調達のために出発したとは考え難く、
これ以前の段階で太宰から応諾の感触を得ていたと考えてよかろう。

古田は、連載が始まった 「如是我聞」 の内容に危機感を強め、実行を急いだのだろう。

もし、何らかの状況で、古田が <新潮 6月号> 発売前に 「同 三」 の内容を知ったとすれば、
古田は その時点で直ちに行動しただろう。当時、筑摩書房も 「人間失格」<展望 6月号~>や
「井伏鱒二選集」 で太宰を頻繁に訪ねており、想像でしかないがそのようなこともあり得よう。


古田も井伏も、“太宰の井伏離れの心奥” と “富栄の死の覚悟” を知る由もなかった。


一方の太宰の側の状況、行動はどうだったろうか・・。

井伏は、“御坂峠計画” に関して、「太宰治のこと」(S23/8:<文藝春秋>)(後「太宰治の死」)に、
「私はそれに賛成したが、まだその人が太宰君に云はない間に今度のやうな結果になった。」
と書き、自殺直後の記述の中で “太宰はこの計画を知らなかった” としている。

しかし、 「太宰はこの計画を全く知らなかった」 と言い切れるだろうか。
例えば、5月下旬の富栄の日記にある “太宰の恋人告白(5/22)” 、“古田関連の記述(5/26)”、
“意味不詳の記述(5/29・6/5)” などは、この “御坂峠計画” と関連するのではないだろうか。

井伏の「をんなごころ」(S24/12)には、井伏は転地療養を勧める手紙を2~3回、太宰に送ったと
ある。古田との連携のことなど手紙の内容は不明だが、時期は5月(S23)前後だろう。

“御坂峠計画” に関する古田と太宰の行動を推測混じりだが並べてみる。

 時期(S23) 古 田   太 宰
4月下旬  「人間失格」執筆の仕事部屋を大宮に用意した   「人間失格」執筆中、古田の義兄経営の病院で受療
5月初旬  太宰の心身を案じ、太宰に転地静養を勧めた 体調を回復し、快調な執筆の日が続いた 
5月中旬  詳細は伝えず、とにかく転地静養をと強く勧めた 体調回復を実感しており、推測だが、応諾の意を表した 
5月中旬~
 6月初旬
  
「如是我聞」連載に、危機感を強めただろう 富栄同伴は無理と承知し、富栄との別れを図った 
腹案をまとめて井伏に示し、協力を求めた  富栄の「別れるなら死ぬ」という決意に太宰は窮した 
6月初旬  井伏に実行を告げ、準備を促して塩尻へ出発した  推測だが、この時、計画の詳細と古田の実行を知った 
6月12日  塩尻で、御坂峠用の食料調達を行なった 大宮に古田を訪ね、塩尻から翌日頃に帰ると知った 
6月   14日、大宮へ帰り、太宰の心中を知った  13日深更、富栄と入水心中した


太宰は、この “御坂峠計画” の詳細と、古田がそれを実行に移したことを知れば、その段階で
井伏と御坂峠へ行くか富栄との関係を続けるかを選ばなければならなくなる。どちらを
選んでも、太宰の目には、明日に始まる自分の「生きる」姿がはっきり見えたに違いない。

6月初旬の段階で “御坂峠計画” の詳細と始動を知った太宰には絶望しかなかった。

★ 悲しき最終章  --- 究極の選択 ---

前記の通り、太宰は転地静養を念頭に、富栄に “別れ” や “死” を仄めかすと、富栄は “その時がきた”
と決めて “死” の準備を始めた。 しかし、太宰の心は揺れ続け、時間だけが過ぎた。決断を迫られて
6月12日に一人で大宮の古田を訪ねたが、古田は塩尻に行っていて翌13日頃に帰ることを確認した。

(注記) この6月12日の太宰の大宮行に関しては、事実を疑問視する向きもある。
相馬正一は「評伝太宰治」で、野原の記述を引用するにとどまり、
また、山内祥史の「太宰治の年譜」では、このことには全く触れていない。

評伝類の多くは、記述がないか事実不詳としており、事実でなければ
野原の創作(虚構)ということになるが、これは「事実」と認めていい。

根拠は、榎本了著「埼玉文学散歩」(S39)の記述である。太宰は、6月12日夕方、
小野沢氏を訪ねている。(「大宮文学散歩」(大宮市教委・H3/3)が引用)
榎本の記述以後に、地元の研究者らがこれを裏付けている。 (詳細別記)


御坂峠へ行くわけにはいかない。残る道はただ一つ。古田を訪ねた翌日、6月13日の深更、
富栄とともに、富栄の部屋を出た。歩いて数分程度の玉川上水の土手から入水した。
富栄の部屋はきれいに整理され、二人の写真、遺書などが置いてあった。

この日(S23.6.13)は、古田帰宅の前日だったが、これは偶然ではなく、太宰が “帰宅前の死を
選んだ
” のだろう。 富栄が死の準備を整えていたのに対し、太宰の場合には、遺書など
事後への配慮が十分に為されていたとは思えないのはこうした状況によるものと察せられる。


・・さて、そこで、太宰はどのようにして計画の詳細と実行を知ったかということだが ・・

想像するしかないが、例えば、古田は、6月8日(火)、中央線で新宿駅から郷里の
塩尻駅に向かい、三鷹駅で一旦下車して太宰を訪ねた可能性も零ではなかろう。
あるいは、このころ、古田、井伏が訪問したとか、手紙で知らせたとか・・。

6月8日から11日までの4日間は、妻美知子も、友人知己、文学・出版関係者も、誰も太宰に
会っていない。電話は一般人宅には無い時代、この間の太宰の消息を伝える知人らの記述は
見当たらない。 太宰も富栄も、8日以降は13日の遺書関連以外には何も書き残していない。

いわば、謎の空白期間だが、長篠康一郎著「山崎富栄の生涯」(S42)と梶原悌子著
「玉川上水情死行」(H14)によれば、8日以降、太宰は富栄の部屋に起居しており、
富栄には近々に自殺することを窺わせる言動があったという具体的記述がある。

“御坂峠計画” の始動を知ったことへの反応だったと推測できよう。


富栄の入水当日の日記には 「みんなしていじめ殺すのです。」 とある。
“みんな” は複数。日記の流れから見て 一人は井伏、一人は古田とも読める。

太宰が書き遺した文面 「みんないやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」 も
“みんな” である。 名前は井伏だけだが、古田もその一人だったかもしれない。

★ おわりに  --- 「二重の要因」 なら 死の選択はなかった ---

生活面の苦しみに “創作の悩み” が加わった。活路を拓くべく、富栄との別れを目論んだが、
“富栄の死の覚悟” に戸惑うばかりだった。 そこに “御坂峠計画の始動” である。
「古田・井伏を捨てるか、富栄を捨てるか」 ・・二者択一の決断を迫られたことになる。

究極の選択は 「書くのがいやになったから」 しかなかったと推察する。


太宰治の自殺の真因は、簡潔に示せば、この三つの要因が重なったこと三重の要因に行き着く。

創作の行き詰まり   山崎富栄の死の決意   “御坂峠計画” の始動

この中の一つでも無ければ、つまり二重までなら、太宰はそのまま “生きる道” を進んでいただろう。


本項の詳細=別記 「太宰治:玉川上水心中死の核心(三重の要因)」

                       (「太宰治の死:究極の選択」の項  H30/5UP)
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太宰治(人生と作品)

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