太宰治「井伏さんは悪人です」は、井伏鱒二『薬屋の雛女房』が主因か?

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井伏鱒二には、太宰治のパビナール(麻薬鎮痛薬)中毒を題材にした短編小説「薬屋の雛女房」
(S13/10:<婦人公論>)がある。太宰のパビナール購入と精神科病院入院時の状況を
揶揄したような場面があり、退院までを書いている。

<婦人公論> の “ユーモア読物特集” の一篇として掲載され、特に注目されることもなかったが、
川崎和啓は、「師弟の訣れ-太宰治の井伏鱒二悪人説-」(1991/12:<近代文学試論>
参考サイト)において、戦後、太宰が師 井伏との訣別を決意し、玉川上水心中に際して
「井伏さんは悪人です」 と書き遺したのは、この作品が主因であると論じた。

(井伏と太宰の師弟関係については、別記 「太宰治の荻窪時代」 参照)

(*)参考サイト (広島大学) 川崎和啓著「師弟の訣れ-太宰治の井伏鱒二悪人説-」

この川崎説は、その後、猪瀬直樹、加藤典洋らが触れており、一般に広まっている。

・猪瀬直樹 「ピカレスク 太宰治伝」(2000/11 小学館) (川崎説をそのまま取り込み)
・加藤典洋 「太宰と井伏-ふたつの戦後」(2007/4 講談社) (川崎説を紹介、自論展開)

川崎説の概略昭和22年夏、太宰が企図した 「井伏鱒二選集」 の発刊が決まり、
太宰が全巻の「後書」を書くことになった。この関係で太宰は過去の井伏作品を再読し、
「薬屋の雛女房」 を目にした。 初見だった可能性があり、その内容に驚愕、激怒し、
井伏への信頼は強い不信に変わった。

(「薬屋の雛女房」は 初出後、小説集「禁札」(S14/3)に収録された。この時期は、
太宰は、井伏の誘いで御坂峠にこもり、美知子と結婚して甲府に住み、東京との
関係が希薄になっていたことから、これらを読んでいなかった可能性は十分ある。)


昭和22年夏には、太宰は井伏を避けてはいなかったが、その年の暮には、井伏を
志賀直哉と同列の悪人とみなす意識になっていた。井伏との訣別、遺書の文言
「井伏さんは悪人です」 は、この夏~秋に、この作品を読んだことに発している。


この作品にあるものは、ただ、薬品中毒者の<異常さ>と、それを<世間>の好奇な
眼差しに売り渡す軽薄な意図だけであり、太宰は強い衝撃と怒りを覚えたはずである。

井伏は、おもてに装っている太宰の「快楽(けらく)」を楽しむことはあっても、
その底に秘められていた「苦悩」をともに苦しむことは決してなかった。

「如是我聞」 の言葉を借りて言えば、「薬屋の雛女房」 のような作品を書くことの
“犯罪の悪質さ” ぐらいは、井伏も認識していてよかったのである。



そこで私見だが・・、この作品の主題は、太宰の中毒ではなく、中毒者の術中にはまった
薬屋の若い女房の心痛と中毒者の若妻(太宰が離縁した初代の姿が浮かぶ)の苦悩、
そしてこの若い女性二人の触れ合いであり、そこに著者の温かい眼差しが読み取れる。

(この作品での麻薬中毒者に関する記述について、人権上の問題として
捉えるなら、それは本項の論点とは別の次元での論議になろう。)

太宰がどのように読んだかは判らないが、仮に初見だったとしても、ここから直ちに
訣別に向かい、井伏を悪人呼ばわりするような内容だろうか? もちろん快くは
思わなかっただろうが、10年も前の作品であり、それほど単純ではないだろう。

井伏鱒二選集発刊で、太宰がこの時期にこの作品を読んだことは確かとしても、
それによって強烈な衝撃を受けたことを窺わせるような言動、記述は、太宰本人や
山崎富栄、また、当時親しく接していた編集者ら何人かの知人にも見当たらない。

昭和22年夏から暮にかけて井伏を避ける太宰の意識が強くなったという見方についても、
二人の疎遠はこの年初から見られることで、太宰と太田静子、山崎富栄との関係が進み、
「斜陽」執筆・刊行・大ヒット、太田治子誕生(S22/11)と流れた影響とも考えられる。
太宰が 「薬屋の雛女房」 を読んだことによる意識の変化とは言い切れない状況がある。

ちなみに 参考①・・、井伏が帰京(S22/7)した後の井伏と太宰の接し方が窺える書簡がある。

「昭和22年9月4日付」と「同12月10日付」の太宰宛の書簡で、ともに太宰の病気を
伝え聞いた時の見舞状である。儀礼的ではなく、太宰を気遣う温かい気持ちが十分に
読みとれる長い手紙だが、「斜陽」をもって一躍名を高めた太宰に対し多少の遠慮が窺え、
井伏から積極的に会おうという姿勢ではない。井伏は太宰の生活実態を詳しくは知らず、
また、自らそこに関与すべきことでもなく、むしろ距離をとる気持があったのかもしれない。

ただ、9月4日付の文中にある「節酒の勧め」と「太宰の見舞いお断り」とは “要注目” だろう。

「或ひは僕は文治さんに手紙を出すやうなことになるかもわかりません。『貴殿御令弟儀、
聊か酒がすぎるやうなところ有之、友人のいさめを用ゐず五体を自ら苦しめ云々。』どうか
さういふ手紙を出さないでもよいやうにしたいものです。」(註:この時、文治は青森県知事)

井伏は、旧知の気安さから軽く、半ば冗談ぽく書いたつもりかもしれないが、過去の価値観、
柵からの解放を標榜する太宰としては不快というより、反感、不信感を覚えたかもしれない。

井伏は、筑書房摩の石井から、太宰が病に臥していると聞き、見舞いに行こうとしたところ、
「見舞いを受けることは断じて御免を蒙りたい」との伝言であるとのことに、これを断念した。
以前の二人には考え難い流れで、太宰の側に何らかの事情、わだかまりが窺える。

「薬屋の雛女房」を読む前か(この可能性が大と思うが)、読後かは定かでないが、
この時点(S22/9初旬)での、二人の感覚のズレ、関係の綻びが感じられる。

参考②・・、この年(S22)の11月21日付の山崎富栄の日記に、次の記述(抜粋)がある。

「小説新潮の女のかたもおみえになる。
井伏先生と、ご一緒に写されてある御写真を拝見する。私も欲しいわ。」

この 写真は、「小説新潮」(S23/2月号)の「文壇親交録」のグラビア特集に載り、
井伏・太宰の二人が森の大きな木の下の茂みで にこやかに談笑する姿である。

写真の下の欄に、井伏による文章があり、撮影は北野邦雄とある。写真の仕上がり
日数、服装、釣り姿が予定にあったことなどから、撮影は秋で、11月初旬だろう。

「小説新潮」に載った写真は1枚だけだが、この時には他にも何枚か撮っており、
出来上がった写真を女性記者が11月21日に持参、富栄もそれを見たのだろう。

さて、この記述で、富栄は何の屈託もなく太宰・井伏の2ショット写真を欲しがっており、
太宰も「文壇親交録」の企画に応じ、雑誌の写真では井伏との親密さを醸している。
(写真の詳細については別項 「太宰治の人生と作品ー井伏の帰京」 参照)

つまり、この11月(S22)の段階では、「薬屋の雛女房」は読んでいないか、読んで
いたとすれば、心の中に複雑な思いを抱いてはいても、それが直ちに井伏離れに
繋がるような激烈なショックではなかったということになろう。


太宰の井伏批判が始まるのは、昭和23年に入ってからで、その根本は井伏の “世俗性”、
つまりは “家庭の幸福は諸悪の本” にあり、「薬屋の雛女房」 との関連は直接的ではない。

「人間失格」は、「HUMAN LOST」以来10年間にわたり温めていた主題で、太宰は、
そこに薬局でモルヒネを購入する出来事を書き、むしろ冷静に見つめているように思う。

昭和22年夏~秋に 「薬屋の雛女房」 を初めて読んで驚き、怒ったとしても、それは、
選集第二巻の 「後書」 や 「如是我聞 三」 で指摘した井伏の “手抜き作品” の一つ
としての位置付けで、井伏の世俗性に対する不快感だったと考えることもできるだろう。

戦後の太宰が特に嫌悪したのは戦後思想、時流に阿ねる “新型便乗” で、過去には口を
つぐんで保身、利得を図る世相・風潮だった。太宰は “いやしい” という表現にこの意味を
込め、中でも文化人と呼ばれる人たちのこうした世俗性を 「悪」 としたと解するが如何だろう。

「井伏さんは悪人です」 と書き遺して心中を実行した太宰の心奥に関しては、
「玉川上水心中の核心(三重の要因)」に詳記したが、「太宰の手帳のメモ」が
公開され(2001/8)ており、「人間失格」、「如是我聞」、「グッド・バイ」 という
死の直前の三連作に、この 「手帳のメモ」 を合わせて思いたい。

                    (本項は、別項「太宰治の人生と作品」中の記述と重複する・・H30/6UP)
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