太宰治の荻窪時代 = 波乱の「文士時代」 (井伏鱒二の支え)

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別記 「井伏鱒二と太宰治:師弟25年の軌跡」

  *「荻窪時代」 の期間 (S8/2 (23歳) ~ S13/12(29歳))

太宰治の荻窪時代は、本項では、昭和8年2月から昭和13年12月まで(約5年10ヵ月)とした。
この間の昭和10年7月から昭和11年10月まで(約1年4ヵ月)は、転地療養で千葉県の船橋町
(現・船橋市)に住んだので居住地からすると「船橋時代」だが、活動は井伏鱒二、伊馬鵜平、
檀一雄ら従前と同じ荻窪界隈の人脈と共にあり、この時期は「荻窪時代・中期」とした。

詳細は別記したが、この昭和8年(1933)は、2月に小林多喜二が築地警察署で死亡
(拷問死)する事件があり、日本中を震撼させた。全盛を誇ったプロレタリア文学は壊滅に
向い、芸術派が勢いづいていわゆる “文芸復興の機運” が高まった。

太宰だけでなく、多くの荻窪・阿佐ヶ谷界隈の文士らが主に同人活動を通じてデビュー
あるいは新たな方向へ踏み出すなど文学生活の転機になっている。(詳細別記

この年、国際政治では、ドイツでヒトラーが首相に就任、アメリカではルーズベルトが大統領に
就任してニューディール政策を推進、ソ連はスターリン体制のもとでアメリカの承認を得た。
日本は、武力による大陸進出、満州国設立(S7)が世界中の非難を浴びて国際連盟を脱退
(S8/3)、ファシズムが進行し、言論、思想の弾圧は強化され、左翼からの転向が相次いだ。

“文芸復興の機運” はこの流れの中で衰え、盧溝橋事件(S12/7)をきっかけに
時勢は大戦の時代に入り、日本人の生活の全てが戦時一色に染まっていく。
太宰の荻窪時代は、デビューから強烈な戦時統制を受けるにいたる過程にあった。


  *「荻窪時代」 の概括 (詳細は、別記 「太宰治(人生と作品)」 参照)

     (1) 前期 (天沼居住・飛島家と同居 :S8/2~S10/6)・・「井伏鱒二」宅の近く

太宰の荻窪時代は、昭和8年2月、飛島定城一家と共に、杉並区天沼3丁目(現・本天沼2丁目)に
引っ越したことから始まる。荻窪駅から遠くて不便だったため飛島一家と共に、5月に駅に直近の
天沼1丁目(現・3丁目)の借家に引越した。井伏鱒二宅までは徒歩15分程度だったが、
この引越しで10分程度に縮まり、頻繁に訪問して師弟としての関係、親交を深めた。

天沼に越したのは井伏宅に近いことが最大の理由と察するが、この井伏との関係は、
これ以降の太宰の人生に計り知れない重大な影響をもたらすことになる。
(太宰の荻窪における転居と居所は、下記 「旧居跡マップ」 参照)


・ 名乗ったばかりの「太宰治」名で同人誌「海豹」創刊に参加、「魚服記」など発表作は好評だった。
折からの “文芸復興の機運”(別記) に乗り文壇デビューは順調で、執筆と同人活動に情熱を
燃やした。「葉」、「ロマネスク」、「逆行」(第1回芥川賞候補)など、初の短編集「晩年」(S11)
所収の作品の多くはこの時期の執筆、発表で、文士一筋に猛進の幕開けだった。

・ この家(荻窪駅前)の直ぐ傍に伊馬鵜平(後の春部)が住んでおり、文士同士として親交を深めた。
二人の親交は終生続き、太宰は玉川上水心中(S23/6)の際に、事後の一事を伊馬に託している。
太宰の執筆、同人活動は活発で、檀一雄、山岸外史など多くの文士・同人が頻繁に出入りした。

しかし、実生活面では、長兄文治との約束である東大卒業はできず、鎌倉山中での自殺
(縊首)未遂
(S10/3)があったり、直後の虫垂炎手術では麻薬性鎮痛薬“パビナール”の
使用
が過大になるなど、このあたりから太宰の人生の歯車はとんでもない回転を始める。

“文士” は一般的には作家など文筆を業とする人を指すが、本稿では、“文学青年”、“文士”、
“作家”、を次のように区分し、“文士”は、専業作家として名を上げる一歩手前の位置付けとした。


“文学青年” は、「文学を愛好し、作家を志す青年」だが本気度は未熟で、多くは親がかりの生活。
“文士” は、専業作家としての立身を決意し、貧乏でも定職に就かず、執筆・発表に将来を賭す。
“作家” は、いわゆる専業(プロ)作家で、小説発表など文筆主体の活動で一家の生計が賄える。


・ 約3ヵ月にわたる虫垂炎、腹膜炎の入院治療は終わったが、肺疾患の治療のため、退院と同時に
千葉県船橋町(現・船橋市)で療養することになり、昭和10年7月1日、夫婦二人で引っ越した。


     (2) 中期 (船橋居住・夫婦二人 :S10/7~S11/10)・・井伏らによる「強制入院」

・ 生活費の多くは、まだ兄文治からの仕送りに頼っていた。一般的には夫婦が普通に生活できる
金額だったが、退院後もパビナール使用を続けており、その費用は徐々に家計を圧迫した。

・ 執筆、同人活動は引き続き活発だった。芥川賞創設に敏感に対応し、第1回時は最終候補に
残ったが受賞を逸し、選考委員の川端康成の評に猛抗議をした。(S10/10・芥川賞事件)。

・ 太宰は芥川賞にこだわり、選考委員の一人佐藤春夫に授賞懇請の手紙を続けて2通(S11/1・2)
送った。佐藤は太宰にパビナール中毒の治療を忠告し済生会芝病院を紹介、太宰は入院
(S11/2)したが、受療態度は不真面目で見舞いにきた檀と外出して飲酒するなど十分な受療
をしないまま約10日間で退院した。中毒は完治せず、この後、さらに進行した様子が窺える。

・ 作品集「晩年」は、浅見淵、山崎剛平(砂子屋書房)の理解が得られ、ようやく出版が実現した。
出版記念会(H11/7)は上野で行われ、佐藤、井伏ら37名が出席したが、浅見は 「お通夜の
よう」と表現するほど変調な会だった。パビナール中毒進行の影響と見られている。

・ この頃、太宰はパビナール入手のための借金が膨らんでいた。知人友人、出版関係者らからは
借り尽くしてしまい金策に窮したのである。妻初代は太宰に秘すよう言われていたが、隠しきれ
なくなり、窮状を中畑慶吉や北芳四郎に内々で訴えており、兄文治の耳にも届いたようだ。

・ 太宰は8月(S11)に、療養のため水上の谷川温泉に単身逗留した。湯治場的生活で約3週間
だったが、この間に第3回芥川賞の発表があり、またも落選を知った。執筆中の「創世記」に
「山上通信」を付し、「芥川賞楽屋噺」として佐藤春夫に抗議した。(S11/10・芥川賞事件

・ 身近な関係者は、パビナール使用をこれ以上放置するわけにいかないと判断し、東京板橋区に
ある精神科「東京武蔵野病院」に入院させる手筈を整え、太宰への説得を井伏に要請した。
結局、井伏が太宰に受診を懇願する形になり、太宰もこれを拒むわけにいかず入院が実現
(S11.10.13)した。一般に「井伏による精神科病院への強制入院」といわれるところである。

(1ヵ月後、パビナール中毒は完治退院するが、船橋には戻らず再び荻窪界隈に居住する。)


     (3) 後期 (天沼居住 -御坂峠、甲府 :S11/11~S13/12)・・井伏主導で「再婚-再起」

・ 1ヵ月の入院でパビナール中毒は完治し昭和11年11月12日に退院、あらかじめ用意された部屋に
入った。この部屋は、井伏によれば「照山荘アパート」、長尾良によれば「盛山館」で、正確な名称
場所などは不明だが、両記述の内容によれば、杉並区荻窪4丁目(現・上荻2丁目)辺りである。
ここには3日間居ただけで天沼の「碧雲荘」(現・天沼3丁目)に引っ越した。

退院に際し、兄文治が上京し、井伏も参加して以後の対策が話し合われ、今後3年間、
月額90円を送金することなどを認めた「約束書」が交わされた。この90円は、井伏宅に
30円づつ3回に分けて送金され、それが太宰に渡された。井伏経由の送金は数年間
続いた後、太宰へ直接送金となり、太宰が疎開を終わって帰京する時まで続いた。

・ 太宰は直ちに「HUMAN LOST」を執筆した。精神科病院強制入院に対する太宰の痛烈な抗議である。
予定は<新潮>1月号掲載で、11月24日頃には脱稿とされるが、実際の掲載は4月号になった。
太宰はこの時から後の名作「人間失格」(S23)の構想を心に温めていた。

・ 昭和12年3月、碧雲荘を訪れた小館善四郎は、手洗で太宰と二人になったとき、初代との過ちを
告白した。同月、太宰夫妻は水上の谷川温泉で心中未遂、別々に帰京、離別(S12/6決着)した。
太宰は碧雲荘に独居の後、「鎌瀧」方(S12/6)に移り、いわゆるデカダン生活が始まった。

・ 太宰は、小館の告白後の数ヶ月間はさすがに筆を執れず、悶々たる胸中を紛らすような生活だが、
9月(S12)には随筆「檀君の近業について」を発表、随筆を主体に執筆を再開し、「燈籠」(S12/10)
など何篇かの小説も手がけた。本格的な創作、発表活動はさらに一年後の「満願」(S13/9)からに
なるが、この間、生活面、文学活動面とも、従来の姿勢では世に受け入れられない、文学的
成功は覚束ないとの思いで苦悶しながら、原稿用紙を前に新たな文学の道を模索していた。

この時期については、発表作が少ないこともあって、ともするとデカダン生活の方の
印象が強いが、決してそれだけではなかったことが後記の年譜からも読み取れる。

時勢は大戦に向かう流れで、檀は応召で福岡に帰り兵役(S12/8~S14/12))に
就いた。当局の検閲は厳しさを増し、太宰の小説「サタンの愛」(<新潮>(S13/1)
予定)は掲載差し止めを受けた。太宰の心にはこうした重圧ものしかかっていた。

檀一雄の除隊年月は、通説(S15/12)は誤りで、「昭和14年12月」が正しい。・・別記「浅見淵」


・ 「鎌瀧」方での生活(S12/6~S13/9)については、長尾良著「太宰治その人と」(S40:林書店)および
「太宰治」(S42:宮川書房) --両書の内容は同一-- に詳しい。

長尾は、昭和13年7月から太宰が天下茶屋へ発つ9月までの2か月間、頻繁に
鎌瀧を訪ねて太宰らと親密に交遊した。本書の「Ⅰ.鎌瀧での二ケ月」の章には、
「荻窪行き」、「将棋に憑かれた人達」、「オジサンと井伏鱒二氏」、「奇遇の家」、
などの項目があり、そこから次のような状況が読み取れる。
太宰の鎌滝時代最後の2ヶ月間だが、それ以前も同様な状態と察せられる。

・鎌瀧の常連は、長尾、塩月赳、緑川貢で、いずれも近くに住み、毎日のように
将棋やツー・テン・ジャック(トランプゲーム)に熱中した。ほかに山岸外史や
高橋幸雄が来た。酒を飲み、「文学」や「愛」、「キリスト」論、などを談じた。
・時折、オジサン(注:北芳四郎)や井伏が鎌滝に来て太宰の様子を窺った。
井伏は太宰に説教し、太宰は神妙に聞いていた。
・北や井伏の来訪を察すると、常連は窓から屋根に出て隠れることもあった。
・長尾の引越し先の「盛山館」は、太宰が前に居た所と分かった。(詳細後記

(長尾良(ながお はじめ・T4~S47)は、この時東大生で、
後に太宰と親しかった檀一雄の異父妹(忍)と結婚した。)

・ こうした状況を見た東京の北芳四郎と青森の中畑慶吉(共に、兄文治の意を受けたいわば太宰の
世話役)は、太宰を立ち直らせる方策は再婚しかないと考え、井伏に相談し、対応を依頼した。

このころ、太宰が再婚をどのように考えていたか不詳だが、昭和12年暮頃には、現状打開の
必要を感じていたようだ。尾崎一雄宛書簡(S12.12.21付)に「来年からは、少しづつ身のまはり
整とんして行くつもりでございます。このままでは、行路病者になるばかりです。」 と書いた。

発表、同人活動は低調だったが、文学仲間との交遊は積極的だった。気を紛らすためでも
あったろうが、特に井伏を中心とする阿佐ヶ谷将棋会には初回(記録上のS13.3.3)以降も
熱心に出席し、文学仲間、人脈の拡大があった。作家として身を立てる執念でもあったろう。

井伏らは太宰に再婚を勧め、太宰が素直に応じたのは、実生活の改善がなければ、
文学に生きる自分の将来はない・・、自分は破滅寸前にあると自覚したからだろう。

井伏の誘いに、太宰は「思いをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。」
(「富嶽百景」(S14/2-3)) とあるように、鎌滝を出て御坂峠の天下茶屋へ向かった(S13.9.13)。

・ 甲府で、井伏の紹介による石原美知子との見合いが実現(S13.9.18)し、太宰は結婚を強く願い、
井伏に結婚の「誓約書」(S13.10.24付)を提出して成婚にいたった。
昭和14年1月8日、荻窪の井伏宅に太宰・美知子ら計9人が集まって結婚式が行われた。

結婚式終了後、太宰・美知子新夫妻は直ちに甲府へ戻り太宰の荻窪時代は終わった。

詳細は、別記 「太宰治(人生と作品)」

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太宰治の荻窪時代を概括したが、最大のポイントは井伏鱒二との関係である。
転居先を荻窪(杉並区天沼)にしたのは、井伏宅に近いからだったと推察する。

太宰23歳、井伏(34歳)を師として作家になることを決意して荻窪に移ると、それまでの
いわば「文学青年」から「文士」に変身して執筆・同人活動一筋に猛進した。

「太宰治」の筆名をもって同人誌「海豹」でデビューし、“文芸復興の機運” に乗って
文学的には順調なスタートだった。井伏はこのスタートに直接の関わりはないが、
ここに始まる太宰の人生の波乱・激動を示す主要キーワード(「自殺未遂(S10/3)」、
「パビナール中毒-強制入院(S11/10)」、「デカダン生活」、「破滅寸前-御坂峠(天下
茶屋)へ旅立ち」、「見合い-再婚」、等々)のキーマンは井伏なのである。

東京武蔵野病院退院(S11/11)の際、上京した兄文治は太宰を帰郷させようとしたが、
これを説得し、相談をまとめ、太宰に東京での文学活動を続けさせたのは井伏だった。
(この経緯は、井伏鱒二著「太宰治と文治さん」(S49)に詳しい。「別記抜粋」参照)

井伏は、何故 これほどまでに煩わしい太宰の人生に深い関わりを持ち続けたのか?
太宰の生家、兄文治の側にも都合があったという背景が考えられなくもないが、
仮にそうだったとしても、井伏が太宰の文学的才能を認めたからとしか察しようがない。
井伏の関わりがなければ、作家「太宰治」は存在しなかったといっても過言ではなかろう。

ちなみに、文治は、後に次のよう語ったとある。(月刊「噂」(S48/6))

「井伏さんといえば、一部の方たちは私が若い頃から井伏さんのお書きになるものを
愛読していたので、”弟修治をよろしく頼みます”という手紙を出して指導をお願いした
のではなかろうか、と考えていらっしゃるようですが、そのような事実は無かったと
記憶しております。やはり、修治が一番先に、井伏さんのご人格、文筆力といった
ものに引かれ、ついで中畑君、北(芳四郎)君が「頼みます」と強引に修治を
お願いしたというのが順序です。」


(月刊「噂」(S48/6)は、「特集 ”保護者”が語る太宰治」 を載せている。)
・中畑慶吉 「女と水で死ぬ運命を背負って」
・津島文治「肉親が楽しめなかった弟の小説」
(いつ、どこで、誰に語ったかは記載なし。)



また、 井伏節代夫人は、後に次のように語っている。
(井伏鱒二著「太宰治」(2018/7:中公文庫:巻末インタビュー(1998・齋藤慎爾)より)

「井伏は太宰さんを本当にかわいがっていました。「もうあんな天才は出ない」と、その
死をくやしがってもいました。(中略) 太宰さんの葬儀のとき、自分の子供が死んでも
泣かなかった井伏が、声を上げて泣いたことを河盛好藏さんがお書きになっています。
(中略) 私にとって井伏を思うことは、太宰さんを思うことでもあります。」


太宰の荻窪時代は、井伏頼みに始まり、井伏頼みで終わった。

関連項目=別記 「太宰治:荻窪時代の危機―自殺未遂・麻薬中毒・デカダン生活」参照


甲府・三鷹と続くその後の時代に作家として成功し、戦後は超流行作家となるが・・、
昭和23年6月13日、「井伏さんは悪人です」 と書き遺して山崎富栄と入水心中した。

関連項目=別記 「太宰治 :玉川上水心中死の核心(三重の要因)」参照


なお、太宰文学は、一般に作品傾向から 「前期(~S13) ・中期(~S20) ・後期(S21~)」
の三期に分けられる。この各期を “実生活” という観点から見ると、次のように整理できる。
また、各期とも女性の存在、影響が際立っている。


つまり、この区分は、文学・作品傾向というだけでなく、太宰の人生の節目を示し、
荻窪時代は、いわば井伏門下の「文士」の時代で、ここで「前期」を卒業した。

(前期・・田部シメ子・小山初代(妻) : 中期・・美知子(妻) : 後期・・美知子(妻)・太田静子・山崎富栄)

「前期」(~S13)は、“生家と井伏と社会に甘えた奔放生活” ・・・ 破滅を認識、再起を決意。
「中期」(~S20)は、“生家と井伏と社会の規制に服した生活” ・・・ 平穏な処世、家庭生活。
「後期」(S21~)は、“生家と井伏と社会から分立した独善生活” ・・・ 糸が切れた凧の状態。



<以下に、太宰の荻窪時代を「略年譜」の形式でまとめ、「旧居跡マップ」を付す>

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== 太宰治 :荻窪時代の 「略年譜」 (主な活動・出来事の一覧) ==

関連項目=別記 「井伏鱒二と太宰治:師弟25年の軌跡」参照

(昭和8年(1933)2月 23歳 ~ 昭和13年(1938)12月 29歳)


 *荻窪時代の直前 = 「文学青年」の時代 (左翼シンパ - 完全離脱 : 筆名「太宰治」決定)

天沼の直前

S7(1932)
/9
(23歳)

S8/2
 
 
 津島修治夫婦は 芝区白金三光町(現・港区)の大鳥圭介旧邸の一部を借りた。同郷の飛島定城(東京日日新聞記者)一家が
 同居した。 銀行の担保になっていた屋敷だが、管理人が銀行に無断で貸したことが発覚して立ち退き、天沼に転居した。
 この間に左翼運動を離れ、「思ひ出」・「魚服記」を執筆するなど多くの習作を書き、文学に専念するようになった。

 津島修治は、昭和8年1月9日に青森検事局に出頭、左翼運動との絶縁を誓約、以降、左翼活動から完全に離脱した。
 この1月に、「魚服記」をもって「海豹」創刊の同人に入り、「海豹通信・4」(S8.2.15付発行)に自己紹介の短文「田舎者」を
 発表した。 この頃から筆名「太宰治」を名乗っており、この「海豹通信」が「太宰治」の名が載った最初の印刷物である。




 
*荻窪時代 = 「文士」の時代

 (1) 荻窪の前期 = 「太宰治」名でデビュー - 文士活動一筋

 居住地 脱稿  初出  作品名 (区分:紙誌名) ・出来事 備 考 
 天沼3丁目
(借家)

S8/2
(23歳)

 S8/5
 
S8/2   ・飛島定城一家と天沼3丁目(現・本天沼2丁目)へ転居-井伏宅へ徒歩約15分
S8/2 S8.2.15   田舎者 (随筆:海豹通信 4)   「太宰治」名での文章が初めて載った印刷物(謄写版刷)
S8/1頃 S8.2.19   列車*(小説:東奥日報)   「太宰治」名が初めて活字になった(懸賞応募-入選)  
S8/1頃 S8/3   魚服記* (小説:海豹・創刊号)    同人誌「海豹」創刊号に発表 - 好評・文壇デビュー作 
S8/3  S8/3   魚服記に就て (随筆:海豹通信・7)    
S7秋頃 S8/4   思ひ出一章)*(小説:海豹・2号)   井伏に「甲上の出来」と讃辞を貰った(S7/9)  
 天沼1丁目
(借家)


S8(1933)
/5
(23歳)



 S10(1935)
/6

(26歳)









           
S8/5   ・飛島家と荻窪駅北口前(天沼1丁目:現・3丁目)へ転居ー荻窪駅へ徒歩3分、井伏宅へ徒歩約10分 
S8/5  S8/6   思ひ出二章)*(小説:海豹・4号)   初稿はS7秋頃脱稿  
S8/5  S8/7   思ひ出三章)*(小説:海豹・5号)    「思ひ出」完結
S8/7~   檀一雄を知り親交 ・「海豹」を脱退 ・文士仲間急増、活動活発化(執筆・同人らとの往来、交遊)
S9/2  S9/4   洋之助の気焔(小説:文藝春秋)   「井伏鱒二」名で発表(初稿はS6-S7頃脱稿・井伏が加筆)
S8/11  S9/4   断崖の錯覚(小説:文化公論)   「黒木舜平」の筆名で発表した探偵小説
S8/12  S9/4   *(小説:鷭)  古谷綱武、太宰、檀一雄らで季刊同人誌「鷭」創刊
S9/5  S9/7   猿面冠者*(小説:鷭)   初稿はS9/1脱稿:「鷭」はこの第2号で廃刊
S9/7-8   ・静岡県三島市に滞在して「ロマネスク」執筆・前年頃からの文芸復興の機運に乗り、活発活動続く 
S9/9~   ・今官一、檀らと同人誌「青い花」を企画、山岸外史を知り親交 ・中村地平と仲違い
S9/6頃 S9/10   彼は昔の彼ならず*(小説:世紀)   「世紀」は、<麒麟><小説><青空>合同で創刊(S9/4)
S9/9頃 S9/10   飾らぬ生水晶(書評;帝国大学新聞)   中島健蔵著「懐疑と象徴」書評=井伏名で発表(代作)
S9/8  S9/12   ロマネスク*(小説:青い花)   太宰・檀・山岸らで同人誌「青い花」創刊(1号で廃刊)
S9/10頃 S10/2   逆行*(小説:文藝)   第1回芥川賞候補 (受賞は石川達三「蒼氓」)
S10/3  ・東京帝大落第決定: ・中村地平の縁で都新聞社の入社試験を受けたが不採用
S10/3  ・鎌倉八幡宮の裏山で 自殺(縊首)未遂 (3回目・腰越海岸心中(S5/12)に次ぐ)
S10/3  ・兄文治は太宰を連れ戻すつもりで上京、井伏らのとりなしで東京に1年間居られることになった
S10/4  ・虫垂炎-腹膜炎で入院・手術:麻薬性鎮痛薬パビナール(注射)使用
S10/5  ・経堂病院(院長は兄文治の友人)へ転院、パビナール継続
S8秋頃  S10/5   道化の華*(小説:日本浪曼派)   太宰ら「青い花」同人7名は「日本浪曼派」に合流
S9/1頃  S10/7   玩具*(小説:作品)   「作品」は、横光利一、堀辰雄、小林秀雄・三好達治・
 永井龍男、井伏らが参加して創刊(S5/5)した有力同人誌
S10/1頃  S10/7   雀こ*(小説:作品) 
S10/7  ・経堂病院を退院、肺結核療養を主目的に太宰夫婦は千葉県東葛飾郡船橋町(現・船橋市)へ転居

  

 (2) 荻窪の中期 (船橋時代) = パビナール中毒 - 芥川賞事件(川端・佐藤) - 強制入院

                
千葉県

東葛飾郡

船橋町
(借家)
           
(現・船橋市)


S10(1935)
/7
(26歳)



 S11(1936)
/10

(27歳)





















                
S10/7~   ・夫婦二人の船橋生活始まる ・パビナール注射常用(中毒が徐々に進行)
S10/7-11  S10/8-12   もの思ふ葦(1~4)随筆:日本浪曼派   この後も、「もの思ふ葦」と題する随想を諸紙誌に発表
S10/6  S10/8   今月の便り(随筆:文藝)   
S10/8  第1回芥川賞発表(受賞は石川達三「蒼氓」 (太宰の「逆行」は他の三作家の作品と共に次席))
S10/8  ・山岸に伴われ芥川賞選考委員の一人佐藤春夫を訪問、以降師事した
S10/1頃  S10/9   猿ヶ島*(小説:文學界)   初稿はS8頃に脱稿 
S10/9   ・湯河原の翠明館に2泊旅行(太宰・檀・山岸・小館善四郎
S10/9   ・授業料滞納で東京帝大除籍(中途退学)
S10/8  S10/10   川端康成へ(随筆:文藝通信)   川端の芥川賞評に激昂して猛抗議(芥川賞事件)
S10/1頃  S10/10   盗賊*(小説:帝国大学新聞)   初稿はS8秋頃に脱稿:「逆行」の一章を成し「晩年」所収
S10/8頃  S10/10   ダス・ゲマイネ(小説:文藝春秋)   芥川賞候補になったことで原稿依頼があり執筆
S10/11   ・檀一雄が短編集「晩年」刊行を推進 (浅見淵、山崎剛平(砂子屋書房)を説得)
S10/10頃  S10/12   地球図*(小説:新潮)   初稿はS8頃に脱稿
S10/12   ・甥の津島逸朗(23歳医学生)と湯河原、箱根を3泊の旅(随筆「碧眼托鉢」の旅)
S10/10  S11/1   めくら草紙*(小説:新潮)   
S10/11  S11/1   人物について(随筆:東奥日報))   
S10/12  S11/1   碧眼托鉢(一)(随筆:日本浪漫派) 
S11/1   ・佐藤春夫宛に芥川賞懇願の手紙(1/28付)を送付(この手紙の存在はH27/9に確認された)
S11/1  S11/2   碧眼托鉢(二)(随筆:日本浪漫派)   
S11/2   ・1月に続き、再度、佐藤春夫宛に芥川賞懇願の手紙(2/5付)を送付
S11/2   ・佐藤の忠告でパビナール中毒治療のため済生会芝病院に入院 -不真面目な態度、10日で退院
S11/2   ・退院(治療中途での退院と見られている)直後に、2・26事件発生
S11/2  S11/3   碧眼托鉢(三)(随筆:日本浪漫派)   済生会芝病院に入院直前に脱稿
S11/3   ・芥川賞(S10下半期対象)は該当なしと決定 ・この頃は、船橋の薬局でパビナールを購入していた
S10/8  S11/4   陰火*(小説:文藝雑誌)   初稿はS8脱稿 ・掲載誌は「太宰治を語る」特輯号
S11/3  S11/5   雌に就いて(小説:若草))   
S11/4  S11/5   古典竜頭蛇尾(随筆:文藝懇話会)   掲載誌は「川端康成編輯号」
S11/5  S11/6   悶悶日記(随筆:文藝)   
S11/5  S11/6   晩年(小説集:砂子屋書房)   初の小説集(「魚服記」など、上記 *印 15篇を所収)
S11/5  S11/7   虚構の春(小説:文學界)   無断で私信を利用し、関係者から叱責や抗議を受けた
S11/7   ・「晩年」出版記念会開催(上野精養軒) 浅見淵は「お通夜のよう」と表現したほど変調の雰囲気
S11/7  S11/7   走ラヌ名馬(随筆:東工大蔵前新聞)   
S11/8   ・水上の谷川温泉に約3週間滞在、芥川賞落選を知った・執筆中の「創生記」に「山上通信」を付加
S11/8  S11/10   創世記(小説:東陽)   芥川賞落選で佐藤春夫に抗議(芥川賞事件
S11/5  S11/10   狂言の神(小説:東陽) 
S11/4  S11/10   喝采(小説:若草)   中村地平が題材
 S11/10   ・井伏の懇願で、精神科「東京武蔵野病院」に入院・いわゆる「強制入院」:船橋の借家を引き上げ
 S11/9 S11/11   先生三人(随筆:文藝通信)  

 (3)  荻窪の後期 = 妻の不貞 - デカダン生活 - 破滅寸前 - 再婚・再出発

 碧雲荘
(賄付き
アパート)


S11(1936)
/11
(27歳)
 ~
S12(1937)
/6
 (約7ヶ月間)
      
S11/11   ・12日、「東京武蔵野病院」を退院:荻窪4丁目(現・上荻2丁目)辺りの部屋に入った
S11/11   ・3日間居て、15日に天沼1丁目(現・天沼3丁目)の「碧雲荘」に入居した・井伏宅へ徒歩約10分
S11/11   ・下旬から約1ヵ月、熱海温泉に滞在、執筆 - 檀が訪れ酒色の日々 - 支払不能で檀人質事件
S11/12  S12/1   二十世紀旗手 (小説:改造)   初稿はS11/9脱稿・ 熱海で改稿
S12/1  S12/1   音に就いて (随筆:早稲田大學新聞)   
S12/1  S12/3   あさましきもの (小説:若草)   初稿はS11頃脱稿:
S12/3   ・小館善四郎が初代との過ちを告白:太宰夫婦は水上で心中未遂-初代と離別:碧雲荘に独居
S11/11  S12/4   HUMAN LOST (小説:新潮)   退院後、入院を題材に直ぐに執筆:1月号予定だった
S12/5  ・太宰のデカダン生活が始まる:檀らと青春五月党・井伏らと三宅島旅行 
S12/6  ・4日 第1次近衛内閣成立 :近衛文麿は荻窪の入沢邸を譲り受け(S12/12)居住、“荻外荘”と命名
 - S12/6   虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ(新潮社)  「道化の華・狂言の神・虚構の春、ダス・ゲマイネ」所収
鎌 瀧
(下宿屋)


S12(1937)
/6
(28歳)

S13(1938)
/9


(約1年  
  3ヶ月間)






                
S12/6  ・21日「鎌滝」方へ転居 (井伏宅へ徒歩数分) :檀、緑川貢、塩月赳らが頻繁に出入り
S12/7  ・7日 盧溝橋事件:第二次世界大戦の時勢へ :檀は応召で7/28に福岡へ帰り、入営(~S14/12)
S12/8 S12/9  檀君の近業について(随筆:日本浪蔓派)  
S12/8 S12/10  燈籠 (小説:若草)
S12/10 S12/12  思案の敗北(随筆:文藝)  
S12/11 -  サタンの愛 (小説: -)  「新潮」新年号掲載予定のところ、検閲で不可
S12/12 S12/12  創作余談 (随筆:日本學藝新聞)  発表時は「こわい顔して/創作余談」
S12/10~ S12/12 -  悖徳の歌留多」(小説)と「貴族風」(小説)を脱稿したようだが(太宰の創作年表)、
 発表はなく、後になった。(「懶惰の歌留多」(S14/4))、 「古典風」(S15/6)と改題)
 なお、「サタンの愛」は、後に「秋風記」(S14/5)と改題・改稿して発表した。
 
S13/1 S13/2   「晩年」に就いて (随筆:文筆)  発表時は「他人に語る」
S13/1 S13/3   一日の苦労 (随筆:新潮)  
 S13/3   ・3日 記録に残る最初の「阿佐ヶ谷将棋会」に出席:終戦前は、会員として積極参加、人脈拡大 
S13/4 S13/5  多頭蛇哲学 (随筆:あらくれ)  
S13/5 S13/7  答案落第 (随筆:月間文章)  
S13/6 S13/8  緒方氏を殺した者 (随筆:日本浪蔓派)  長尾良が頻繁に出入り
S13/7 S13/8  一歩前進二歩退却 (随筆:文章)  
S13/7   ・井伏から見合写真(石原美知子)を受け取る
S13/7 S13/9  満願 (小説:文筆)  小説の発表は、「燈籠」以来1年ぶり
S13/8 S13/10  姥捨 (小説:新潮)   水上心中(初代との離別)が題材
御坂峠の
天下茶屋
(茶屋兼
 宿屋)

S13(1938)
/9
(29歳)

S13/11

(約2ヶ月間)
S13/9   ・13日 井伏の誘いで「鎌瀧」から御坂峠(山梨県)「天下茶屋」(1階・茶屋、2階・宿)へ移り滞在
S13/9   ・18日 石原美知子と見合い-結婚を願う:井伏は帰京
S13/9 S13/10  富士に就いて (随筆:國民新聞)  
S13/10   ・井伏に、結婚の「誓約書」(10/24付)を送付
S13/10 S13/10  校長三代 (随筆:帝国大学新聞)  発表時は「校長三代/弘前=校長検事局へ行く」
S13/10 S13/11  女人創造 (随筆:日本文學)  9月末か10月初めか頃脱稿
S13/11   ・6日 石原美知子との婚約成る(井伏が立ち会いで酒入れ)
S13/11   ・16日 御坂峠「天下茶屋」から甲府の下宿屋「寿館」に移り止宿
  ・御坂峠の「天下茶屋」で執筆完成予定の長編小説「火の鳥」は未完で終わり、後日(S14/5)、未完のまま発表した。 
甲 府
S13/11~
S13/11 S13/12  九月十月十一月 (随筆:國民新聞)  
S14/1   ・8日 井伏宅にて結婚式 - 式後直ちに甲府に戻った

 *甲府・三鷹時代 = 「作家」の時代 (太宰文学は 「中期(戦中) ~ 後期(戦後)」)    

 甲 府
S13/11~
  S14/8
S14/1   ・8日 井伏宅にての結婚式後、直ちに甲府市御崎町の借家に入居
S13/12 S14/2  I can speak (小説:若草)  小説の発表は「姥捨」以来4ヶ月ぶり
 続いて、「富岳百景」(S14/2・3)、「黄金風景」(S14/3)、「女生徒」(S14/4)など次々発表。(“太宰の中期”に入る)  
 三 鷹 S14/9~  ・1日 三鷹(下連雀)へ転居:甲府・青森への疎開はあるが、ここで生涯を閉じた (S23.6.13没) 

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== 太宰治 : 旧居跡(杉並区)マップ ==



(注) 「大東京区分図35区内 杉並区詳細図」(昭和10年)を使用。
  青梅街道は旧道筋で、天沼陸橋はなく、荻窪駅北口前の
道筋、道幅などの状況は現在とは大きく異なる。

「荻外荘」は、近衛文麿が入沢達吉邸を譲り受けて(S12/12)命名した。
同年6月に第1次近衛内閣が成立しており、国際政治の舞台にもなった。
     ・・太宰治 ①~⑤:居住期間など・・

   昭和5年に上京、共産党シンパ活動を行った
   関係で住居を転々としたが 昭和7年夏に転向、
   9月に芝区白金に一旦落ち着いた。 そして・・
        (住居表示は昭和10年当時)
  S8/2~S8/5 :天沼3丁目

   ・芝区白金から飛島定城家と共に転入。
   ・駅が遠過ぎるので飛島家と共に転居


  S8/5~S10/6 :天沼1丁目(飛島家と同居)
   ・盲腸炎でS10.4.4入院-転院-退院。
    同時(7月1日)に現・船橋市へ転出。

  S11/11 :荻窪4丁目辺りのアパート(下宿?)
   ・パビナール中毒で入院し、退院時に転入。
   ・3日間で転出。(*1)

  S11/11~S12/6 :天沼1丁目 「碧雲荘」
   ・妻(初代)と離別して転出。(*2)
   ・建物は解体(H28/3)。→由布院温泉に移築。

  S12/6~S13/9 :天沼1丁目
   ・“鎌滝” 方に単身下宿。
   ・山梨県の御坂峠・天下茶屋に転出。
   ・見合い、結婚で甲府市に居住。
   ・三鷹に転居(S14/9)、心中死(S23/6)。

        ・・同じ時期、近くに居住・・

 *井伏鱒二: 昭和2年に転入し没年(H5)まで
          (清水町)・・師弟として濃密な関係。
 *伊馬鵜平: 天沼(S7~S14)・・太宰は最期まで
          親密交遊。伊馬春部に色紙を遺した。
 *神戸雄一: 天沼(S6~S8)・・<海豹>創刊者の
          一人。太宰・木山を文壇に送り出す。
 *上林 暁: 天沼に転入(S11)し没年(S55)まで
         ・・「阿佐ヶ谷将棋会」仲間として親交。
 *徳川夢声: 昭和2年に転入し没年(S46)まで
          (天沼)・・太宰との交遊程度は不詳。

(*1) 太宰と初代が退院直後に3日間だけ入居したアパート(下宿屋?)の所在地、
名称については確認を要する部分があるので 次に整理する。 (R6/1更新)

先ず、所在地だが、年譜類では「天沼」となっているが、正しくは
「荻窪」(現・上荻)である。


根拠は井伏の「太宰治のこと」(S28)に「荻窪の白山神社の裏手、
光明院裏の下宿」とあることで、井伏宅までは徒歩で10分は
かからない距離である。長尾良の著作(後出)ともほぼ一致する。

ちなみに、“天沼”は青梅街道の北側で、
白山神社、光明院は南側にあり ”荻窪”(現上荻)である。

次いで、アパート(下宿屋?)の名称だが、主要年譜類は、井伏が
「十年前頃」(S23)に書いた「照山荘アパート」とするが、他に
長尾良の
「太宰治その人と-奇遇の家-」(S40)には「盛山館」の名が
あり、近藤富枝は「水上心中 太宰治と小山初代」」(H16)に「盛山荘」
と書いており、判然としない。

先般(2023/10)、すぎなみ文化協会文学講座で地域文学研究家 トモタ佳氏
「井伏鱒二と長尾良の著作で検証する「照山荘論争」」と題する講演があった。

トモタ佳氏は、これまでの情報を基に長尾良が「太宰治その人と」等に記した「盛山館」
の家主夫婦の親族縁者や近隣住民に聞き取り調査を行っており、
太宰がその場所に住んでいたことの確証を得るなど、詳細な興味深い内容だった。

その上で、井伏鱒二「十年前頃」の元になった実際の日記の記述や、近藤富枝
「水上心中」の記述等から総合的に判断して「名称は盛山館ではなく「盛山荘」
の可能性が高い」 という結論だった。

わずか3日間の居住なので 手紙など客観的資料は見当たらず、
90年も前のこと、確かなことは分からないが、これらの情報を
合わせると、私には「盛山荘」のように思える。

なお、この入居建物に関する詳細については、別記項目の
「太宰治の年譜:補足・修正など」 に記したので参照ください。

参考サイト 東京紅團-太宰治の荻窪を歩く 鎌滝編


(*2) “碧雲荘”(現・天沼3丁目)は、昭和初期の建築で、1階は大家住居用、
2階は下宿人住居用の建物である。下宿人居室は5室で、各室のドアには
鍵がついており、当時流行しはじめた 「アパート」 の影響を受けている。

2階には共用便所、それに洗面のスペースがありそこで簡単な炊事はできた
ようだが、浴室はなかった。太宰はこの2階5室中の1室(東南角の8畳間:
建物は真東向きで、正面玄関に向って左端角の部屋) を使用した。
(参考資料 : 松本祐介著「碧雲荘の魅力」 (杉並郷土史会会報(H28.5.25)))

なお、太宰は、初代用に8畳間の西隣の6畳間も借りていたという有力情報がある。
また、この当時の下宿屋は賄い付きが普通で、“碧雲荘” には、いくつかのお膳とその
収納箱が残っており、下宿人たちはこのお膳で出された食事をしていたことが窺える。

ところで、太宰の小説「富嶽百景」に次の一節がある。

「小用に立って、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が小さく見えた。」

アパートというのは “碧雲荘” だが、その便所の窓から実際に富士山が見えただろうか?
前掲の 「碧雲荘の魅力」 によれば、便所の窓は高窓で、そこから見えるのは真西の方角で
ある。富士山は西南方向なので小用に立って窓の外を見たとき富士が視界に入るかどうか
微妙なところと思う。 小説にある 「富士が見えた、さかなやが呟きをのこした」 の部分は、
私には、太宰の創作で、作家のワザ、作品の妙味と思えてならないが如何だろう。

“碧雲荘” は、荻窪の地を離れ大分県由布市に移築され、「ゆふいん文学の森」
としてオープン、新しい役割を得た(H29.4.16)


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太宰の転居(荻窪-甲府-三鷹)と関わりの深い主な事柄

期 間 住 居 地 (現住居表示) 主な関連事項(「作品名」は執筆時)  備 考
S7/9~S8/2 港区白金 飛島同居 旧芝区白金三光町 : 筆名=太宰治 大鳥圭介の旧邸離れ
S8/2~S8/5 杉並区本天沼2丁目 飛島同居 <海豹>創刊に参加・文壇デビュー 荻窪駅へ徒歩で15分余り
S8/5~S10/6 杉並区天沼3丁目 飛島同居 <青い花> : 鎌倉縊死未遂 : 盲腸手術 荻窪駅北口前の青梅街道の裏側
S10/7~S11/10 船橋市宮本1丁目 『晩年』 : 芥川賞事件 : 中毒 : 入院 退院時に移住、10月の入院で転出
S11/11 杉並区上荻 照山荘アパート 退院直後の3日間 (下宿名「盛山館」?) 光明院近辺だが正確には不詳
S11/11~S12/6 杉並区天沼3丁目 碧雲荘 「HUMAN LOST」 : 小館告白・水上心中
現ウェルファーム杉並:旧税務署
S12/6~S13/9 杉並区天沼3丁目 鎌瀧方 初代と離別後独居 :「満願」 「姥捨」 杉並公会堂の北方約100m
S13/9~S13/11 山梨県の御坂峠・天下茶屋 石原美知子と見合い : 「火の鳥」 井伏が誘い、太宰一人長期滞在
S13/11~S14/1 甲府市朝日5丁目 下宿「寿館」 旧竪町*:「I can speak」「富岳百景」
美知子と婚約成り結婚まで滞在
S14/1~S14/9 甲府市朝日5丁目 旧御崎町 : S14/1結婚 : 「女生徒」
新婚生活。「僑居跡」の碑あり
S14/9~S23/6 東京都三鷹市下連雀2丁目 S20甲府、青森に疎開 : 玉川上水心中
戦後は、近くに仕事部屋を借りた

*旧竪町は、一般に「西竪町」とされるが、行政上の町名は「竪町」(たつまち)である。(甲府市役所確認)。

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(本項の参考資料=山内祥史著「太宰治の年譜」(2012・大修館書店):相馬正一著「評伝太宰治(上・下)」(1995・津軽書房):ほか)

本サイト内の次の別項目も参照ください。

別記 「太宰治(人生と作品)」

別記 「井伏鱒二と太宰治:師弟25年の軌跡」

別記 「太宰治:荻窪時代の危機―自殺未遂・麻薬中毒・デカダン生活」

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>>> 「太宰治の荻窪時代」 あ と が き <<<

太宰治の旧居、小館善四郎から驚愕の告白を受けた「碧雲荘」は、杉並区が取り壊しを
決定したが、由布院温泉(大分県)の旅館「おやど 二本の葦束
(あしたば)」が引き取った。
熊本地震(H28/4)の影響で遅れたが、この4月(H29)に移築完成の運びとなったとのこと、
本項はこれを機会に、太宰の荻窪時代を整理、「略年譜」にまとめてUPした。

この過程で、往時の太宰と井伏との関係、井伏の「荻窪風土記」の記述のことなどに
新たな思いが至り、そのことを本HPの「まえがき」に記した。
本項との関わりが深いことなので、その「まえがき」をそのまま次に転載させていただく。

=「荻窪風土記」は “鎮魂の書” と見つけた=

「荻窪風土記」を再読するうち・・、この書は井伏による旧友らへの
“鎮魂の書” ではないかとの思いに至った。

単行本にする際、「風土記」と題したことで紛らわしくなったように思うが、
その本質はあくまでも登場人物に対する井伏の想いであり、その多くは
かつて阿佐ヶ谷(将棋)会などに集った文学仲間や地元の飲み仲間である。

井伏83歳の執筆で、この時すでに大半の仲間は鬼籍に入っていた。
井伏よりも若い仲間たちが、一人、また一人と旅立っていたのである。

往時に思いを馳せるとき、井伏の胸に浮かんだのは
こうした仲間たちの若い笑顔だろう。

「あの日をありがとう 安らかに休んでおくれ・・」 の思いが
胸にこみ上げたのではないだろうか。

郷愁・感傷に流れることなく、文学者の矜持をもって筆を進めて “鎮魂の書”
「豊多摩郡井荻村 17篇」
(=荻窪風土記)が仕上がったと思えてならない。


=太宰治は、荻窪で、井伏の支えで “文士活動” に猛進した=

「荻窪風土記」に登場する人物名は400名に上るが、その中で最も多く載る
名前(ページ数)は断然に「太宰治」で、井伏と太宰の親交の深さが窺える。

井伏と太宰は師弟関係にあったと知る人は多いが、太宰は井伏が住む荻窪に移り
住み、作家として身を立てるため “文士活動” に猛進したことを知る人は少ない。

杉並区が取り壊しを決めた太宰の旧居「碧雲荘」(井伏宅へ徒歩10分)は、
大分県由布院温泉に移築され、この4月(H29)には完成の運びと聞くが、
この機会に、「太宰治の荻窪時代」の概略を整理し略年譜の形にまとめた。

「太宰治の荻窪時代 = 波乱の「文士時代」(井伏鱒二の支え)」

既述の「太宰治の人生と文学」から、昭和8年~昭和13年を抜き出して
整理したのだが、井伏の支えがなければ、後の作家「太宰治」とその
作品は存在し得なかっただろう関係だったことが鮮明に見て取れる。
昭和文学史における重要な事実としてここに記録し、記憶に残したい。

H29(
2017).03.20 (春分の日)