太宰治:荻窪時代の危機―自殺未遂・麻薬中毒・デカダン生活
― 文治(長兄)は、太宰を青森へ連れ戻そうとした ―
以降、太宰は左翼との関係を一切断ち文学修行に専念、昭和8年2月に、師事した井伏の
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--- は じ め に ---
津島修治(筆名 太宰治:M42(1909)生)は、小説家になろうと思った。
中学、高校生の頃から文学に興味を持ち、芥川龍之介に憧れ、
当時はほとんど無名の井伏鱒二の作品に感動し、
自らも作品を書き、自らが主催する同人誌などに発表していた。
生家(津島家)は、青森県で五指に入る資産家で、小遣い銭は十分だった.。
中学入学直前(T12/3:13才)に貴族院議員の父源右衛門が急逝したため、
長兄文治(25才)が早稲田大学政経学部を卒業と同時に家督を相続した。
以降、太宰はその奔放な行動で、親の立場となった文治を悩ますことになる。
文治は井伏との初対面で「舎弟の無軌道ぶりには困ります」と嘆いたという。
太宰は昭和5年(1930)に東京帝大(文学部)に入学、波乱の東京生活が始まった。
ここから昭和7年(1932)までの約2年半、プロレタリア文学系小説を発表、共産党の
非合法活動に協力、交際のあった青森の芸妓紅子(本名 小山初代)を東京に呼び寄せ、
さらには銀座のカフェのホステスとの心中未遂(女性は死亡)事件など、津島家と文治の
体面、立場を大きく損なう行動が続き、文治は悩み、怒り、事態の収拾、解決に当った。
その結果、小山初代との結婚を認めるが、戸籍は分家除籍する(財産分与はなく、
いわば勘当に当たるとされる)、生活費の仕送りは大学卒業まで、素行良好などを
条件に月額120円とする(夫婦二人なら60円/月で普通に暮らせる時代)、とした。
心中未遂事件(S5)で太宰は起訴猶予となったが、文治の力によるとみる向きもある。
左翼活動に関しては、太宰は文治の意向に逆らい続けたが、昭和7年夏、仕送りの
中止を通告されて活動を離脱した。この時、仕送り額は90円/月に減額された。
太宰治の人生と作品 |
太宰治の荻窪時代 |
(1)盲腸手術で始まった「パビナール(麻薬)中毒」
自殺(縊死)未遂があった翌4月、太宰は強い腹痛に襲われて阿佐ヶ谷の篠原病院に入院した。
盲腸炎で手術をしたが腹膜炎を併発、激痛のため鎮痛薬パビナールが投与(注射)された。
太宰は痛みを訴え、使用をせがんだため投与量は増えていった。パビナールは麻薬性鎮痛薬で
依存性があり、太宰はいつしかパビナールを手放せなくなっていた。
5月(S10)、予後のため文治の友人が院長の経堂病院(世田谷)に転入院、6月末退院となったが、
肺結核にも罹っていたため7月からは転地療養の意味で千葉県船橋町(現・船橋市)に転居した。
文治の意を受けた北芳四郎(津島家と懇意な東京の洋服仕立屋。太宰の世話役。)
が探した家に妻初代と住んだが、太宰は、完全にパビナール中毒になっており、
近所の薬店からパビナールを購入して常用した。
太宰は初代にも命じ、訪問客には中毒を気付かれないよう巧妙に振舞ったという。
このころから薬代のために友人知人らから多額の借金を重ねた。
パビナールは太宰の心身を確実に蝕んでいった。副作用には興奮、錯乱、せん妄などの症状が
あり、禁断症状には不安、興奮、怒りっぽく、苦悶のため薬を求める哀訴、嘆願があるという。
昭和10年に創設された芥川賞の審査をめぐる川端康成への抗議、佐藤春夫への連続2度の
授賞懇願の手紙や抗議(いわゆる芥川賞事件)、また、太宰初の創作集「晩年」の出版記念会
の異常な雰囲気など、太宰の言動にはこの麻薬中毒の影響が見られたといわれている。
肉体的にも精神的にも、そして経済的にも徐々に危機は増していた。
太宰の心身状態もさることながら、薬代が嵩んで生活が困難になり、初代は北芳四郎に助けを
求めたのだろう。北は文治に連絡し、病院の手配などしたうえで、初代、北らは井伏に状況を
報告し、太宰に入院を説得するよう頼んだ。井伏は船橋に太宰を訪ねて 医師の診察を
受けるよう “懇願” するように説得し、太宰は抗しきれずにこれを承諾した。
昭和11年10月13日に東京武蔵野病院(現板橋区小茂根)の精神科に入院した。
後に、太宰が「強制入院」という入院である。鍵のかかる閉鎖病棟の6畳の鉄格子付硝子窓の
個室で1か月、禁断症状に襲われる苦しい治療だったが完治して11月12日退院となった。
監禁状態となった太宰は身近な人々や社会の自分への無理解を悲しみ憤った。人格を否定
された屈辱感と敗北感で傷つき人間不信に陥った。退院直後に入院生活を「HUMAN LOST」
と題して日記風に綴り、自らに人間失格の烙印を押した。(後の「人間失格」の原型といわれる)
放置すれば太宰の肉体も精神も、また作家生命も社会的存在としても破滅が目に見えており、
治療を最優先したのは当然だったろう。井伏らの入院させる努力がなければ、あるいはここで
太宰の作家生命は完全に絶たれたかもしれない。もちろん名作「人間失格」は存在しない。
(パビナール中毒の詳細については、別記項目「太宰治の人生と作品」を参照ください。)
(2)パビナール(麻薬)中毒は完治、退院~文治は「食用羊のお守りを」と・・
1か月間の入院治療で中毒は完治し、退院日(11月12日)を控えて文治が上京した。
この時の状況については、井伏鱒二の随想「十年前頃」(S23:<群像>)および
「太宰治と文治さん」(S49:後記参照))があるが、細部には多少の相違がある。
山内祥史著「太宰治の年譜」は、経緯や文治と大宰との約束などをまとめている。
それらによれば、11月9日、文治、北、中畑、初代、文治の友人の沢田医師、井伏、が
退院後の太宰の処遇を相談した。文治は「退院したら津軽で食用羊のお守りをさせる」
と言ったというが、それぞれが意見を述べ、井伏は「東京で小説を書かせるべきだ。
今後とも仕送りを続けてもらいたい。」と願い、この日には結論は出なかった。
翌々11日午後、文治、北、中畑、初代、井伏が再度会合し、井伏の願いが採用された。
文治は病院を訪問、大宰と面談、井伏も立ち会って「仕送りは月額90円、3年間とし、
それ以外は一切援助なし。」を基本とする「修治氏更生に関する約束書」(S11.11.11付)
を交わした。翌12日、パビナール中毒は完治して退院した。
以降の数年間、月90円は、井伏宅に30円づつ3回に分けて送金され、それが太宰に渡った。
作家への道 第2の危機は救われた。
・・が、太宰が入院中に、妻初代に思いもよらない行動があり、
退院から4か月後の昭和12年3月、第3の危機に見舞われる。
--- 第3の危機 :妻の過ちー 水上心中未遂 ・・ デカダン生活ー 石原美知子の決断 ---
(1)思いもよらない告白 - 「水上心中未遂」
東京武蔵野病院を退院と同時に太宰は荻窪に戻り、井伏宅に近い碧雲荘に落ち着いた。
第1回芥川賞候補になったとはいえ、作家として自立するにはまだ遠かった。
すでに東大は授業料未納で除籍(S10/9)されており、文学修行一途の日常だった。
「HUMAN LOST」、「二十世紀旗手」などを執筆、一人前の作家を目指して懸命だった。
そして迎えた昭和12年3月上旬、太宰が弟のように接していた遠戚の画学生小館善四郎が
訪ねてきた。小館は、帝国美術学校の卒業作品を郷里青森で仕上げて上京し、友人と共に
碧雲荘を訪ねてきたのだった。酒宴となり、酔いが回った頃、たまたま小館と太宰は便所で
一緒になり、そこで小館は、太宰が入院中に初代と性的関係を持ったことを告白した。
思いもよらない告白に驚愕した太宰だが、その場はそのままとし、小館が帰ると初代に
問い質した。初代は当初は否定したが、問い詰められると事実を認めた。
太宰と初代は、3月20日頃に水上村の谷川温泉へ行き、谷川岳の山麓で催眠薬カルモチン
を服用して心中を図るが未遂に終わった。二人の胸中、真意は不詳だが、
これにより別々に帰京し、太宰は碧雲荘に戻り、初代は井伏宅を頼った。
この時点で、6年1か月(S6/2~)におよぶ二人の結婚(入籍なし)生活は事実上終了した。
(水上心中の詳細については、別記項目「太宰治の人生と作品」を参照ください。)
(2)離婚(離別) - 独居、デカダン生活
帰京後、東京在住の初代の叔父吉沢祐(祐五郎)が間に入って離婚(離別)の手順を進めた。
6月(S12)に入って最終決着し、太宰は6月21日に、井伏宅には徒歩数分の下宿屋“鎌瀧”
の4.5畳一間に移った。太宰28歳、初代25歳のことだった。
井伏はこの“鎌瀧”での生活を評して 「太宰君の生涯の中で最もデカダンスな生活」 だった
と語った。(相馬正一著「評伝 太宰治」)。パビナールを手にすることはなかったが、
日常生活は大きく乱れ、連日文学青年など若い取り巻きたちが訪れて酒を飲む姿が
目撃された。後に名が知られるようになった檀、山岸、緑川、塩月らが訪問し、
また、若手では、桜岡孝治、長尾良(後に、檀一雄の妹(忍)と結婚)らがいた。
この生活振りは、長尾良著「太宰治その人と」(S40:林書店)などに詳しい。それによれば、
・鎌瀧の常連は、長尾、塩月赳、緑川貢で、いずれも近くに住み、毎日のように
将棋やツー・テン・ジャック(トランプゲーム)に熱中した。ほかに山岸外史や
高橋幸雄が来た。酒を飲み、「文学」や「愛」、「キリスト」論、などを談じた。
・時折、オジサン(注:北芳四郎)や井伏が鎌滝に来て太宰の様子を窺った。
井伏は太宰に説教し、太宰は神妙に聞いていた。
・北や井伏の来訪を察すると、常連は窓から屋根に出て隠れることもあった。
文治や、文治に太宰の世話人的役割を委ねられた北芳四郎と青森の中畑慶吉は
井伏を頼り、井伏も何かと目配りをしていたが、その全員が 「太宰が立ち直るには
再婚が必要」 との考えで一致し、北らはその対応を井伏に依頼した。
*太宰の再婚に向け動き出す・・このころ、太宰が再婚のことをどのように考えていたか
不詳だが、昭和12年暮頃には、現状打開の必要を感じていたようだ。
尾崎一雄宛書簡(S12.12.21付)に「来年からは、少しづつ身のまはり整とんして行く
つもりでございます。このままでは、行路病者になるばかりです。」と書き、
楢崎勤にも同日付で同様内容の書簡を送っている。
実生活の改善がなければ、文学に生きる自分の将来はないという認識が窺える。
井伏、北らは太宰に再婚を勧め、太宰もそれに応じていた。嫁探しは難航だったが、
昭和13年初夏、井伏の許に甲府の知人から1枚の見合写真が届き、太宰に渡した。
太宰も井伏もこのことには触れないまま1ヶ月ほどが経ち、井伏は甲府に近い御坂峠に
ある天下茶屋に行き、その一室に滞在して執筆したが、太宰にも、天下茶屋に来て
下宿をしたらどうかと手紙で誘った。見合写真の結着と、“鎌瀧離れ” が狙いだろう。
この時、太宰はこの縁談の結果には悲観的だったようだが、同時に、文学一筋で
身を立てるためには、“鎌瀧” を離れる、つまりは鎌瀧方に至った過去の自分から
脱却するしか道はないとはっきり自覚し、東京を離れる決意を固めたようだ。
そして9月13日、太宰は “鎌瀧” を引き払って井伏が居る天下茶屋を訪れた。
*太宰の中期の傑作といわれる作品の一つに「富嶽百景」(S14/2-3)があるが、ここに、
「昭和13年の初秋、思いをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。」
とある。この作品は、太宰が“鎌瀧”を出て御坂峠の天下茶屋に行き、そこに滞在した
約2ヶ月の体験を小説化したもので、虚構を交えており、全てが事実とは限らないが、
「思いを新たにする覚悟」 は、太宰の率直な気持だったと認めてよかろう。
*太宰は、小館の告白後の数ヶ月間はさすがに筆を執れず、悶々たる胸中を紛らすかの
ような生活だが、9月(S12)には随筆「檀君の近業について」を発表、随筆を主体に
執筆を再開し、「燈籠」(S12/10)など何篇かの小説も手がけた。
本格的な発表活動はさらに一年後の「満願」(S13/9)からになり、発表作が少ない
こともあって、ともするとデカダン生活の方の印象が強いが、決してそれだけ
ではなく、原稿用紙を前にさらに作家への道を模索していたことも確かである。
時勢は大戦に向かう流れで、親密だった檀一雄は応召(S12/8)で出身地
福岡で兵役に就いた。当局の検閲は厳しさを増し、太宰の小説「サタンの愛」
(<新潮>(S13/1)予定)は掲載差し止めを受けた。
太宰の心にはこうした重圧ものしかかっていた。
見合写真の主は石原美知子だった。太宰が天下茶屋へ来たことで、写真を井伏に
送った知人(斎藤夫人)は、9月18日(S13)、石原家での見合いを設定した。井伏
にすれば結論を出さなければならない時が来ており、太宰にしても同様で、先方が
太宰の過去を調べた上で会うということなので、ダメで元々の気持で臨んだようだ。
この見合いの結果だが・・、太宰は美知子との結婚を熱望した。
井伏と北に成婚に向けた取り運びを依頼した。太宰の気持ちは、
この後、井伏に提出した結婚の「誓約書」に切々と記されている。
(見合い、再婚の詳細については、別記項目「太宰治の人生と作品」を参照ください。)
*石原美知子は結婚を承諾した・・太宰に対する美知子、石原家の印象は良好だった。
美知子は太宰の作品を読み、過去の生活状況を知り、そのうえで決断したのである。
結婚が決まり、翌年(S14)1月8日、井伏宅に関係者9名が集まり、結婚式が行われた。
その当日の夜、太宰と美知子は甲府の新居(借家)へ帰り、新生活をスタートさせた。
思いもよらない衝撃を受けて独居、デカダン生活に入ったが、そのままでは作家に
なるどころか人生の破滅に至ると自覚し、立ち直るべく気持ちを新たにしたところで、
石原美知子を妻に迎えることができtた。作家への道は繋がったのである。
作家への道 第3の危機は救われた。
そしてすぐに、「富嶽百景」(S14/2-3))、「黄金風景」(S14/3)、「女生徒」(S14/4)
などを発表、「黄金風景」は国民新聞の「短編コンクール」に入賞するなど、多くの作品が
高い評価を受け、荻窪時代、文士修行の段階を抜けて、作家の道を歩むことになる。
--- 戦後は、流行作家になったが・・ ---
中高生の頃から小説家になろうとの思いで、文学青年、文士修行の長い時を
過ごしたが、その過程は平坦ではなかった。本項に記した三度の重大危機は、
次の区分上の「前期」にあたり、飛島定城、井伏鱒二、石原美知子らの存在と
長兄文治の対応に救われて成長し、作家としての「中期」に繋がったのである。
太宰治の文学は、一般に「前期」(~S13)、「中期」(~20)、「後期」(~S23)
の3期に区分されるが、各期を “生活” という観点から見ると、次のように整理できる。
「前期」は、“生家と井伏と社会に甘えた奔放生活” ・・・ 破滅を認識、再起を決意。
「中期」は、“生家と井伏と社会の規制に服した生活” ・・・ 平穏な処世、家庭生活。
「後期」は、“生家と井伏と社会から分立した独善生活” ・・・ 糸が切れた凧の状態。
各期に女性の存在、影響が際立っており、文学上というだけでなく太宰の人生の節目を示すことがわかる。
(前期=田部シメ子・小山初代(妻) :中期=美知子(妻) :後期=美知子(妻)・太田静子・山崎富栄)
太宰は井伏を師として25年、特にこの「前期」は、上記に限らず、日常生活の随所で
井伏の支え、配慮を受けた。安定の「中期」においては、甲府から荻窪に近い三鷹に
転居し(S14/9)、井伏を中心にした阿佐ヶ谷将棋会の常連として文学仲間との
親交を深め、交友関係を広げるなど、作家としての地歩を築き、戦中においても
活発な執筆、発表活動を続けた数少ない作家の一人となった。
ところが、「後期」は、疎開から帰ると太宰の私生活は乱れ、井伏を避けるようになる。
「斜陽」がベストセラーになるなど一躍流行作家になり、無頼派として持てはやされるが、
昭和23年(1948)6月13日、愛人と玉川上水に入水心中し、39年の生涯を閉じる。
「井伏さんは悪人です」と書き遺していた。
(「玉川上水心中」、「井伏との師弟関係」ついては、次の別記項目を参照ください。)
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井伏・檀・中村と津島文治との面会および仕送り減額(90円→50円)は事実か?
(本項は、別記項目「太宰治の年譜:追加、補足など」 からの転載です。)
Ⅰ.鎌倉山中での自殺(縊死)未遂と文学継続に関する記述
昭和10年(1935)3月15日、太宰は桜木町駅(横浜)で小館善四郎と別れて単独行動となり、
消息不明になった。その直前に自殺をほのめかす言動があり、翌16日には、飛島定城は
長兄文治に電報で知らせ,井伏鱒二は杉並警察署に捜索願を出すなど、荻窪駅前の自宅
(飛島定城一家と同居)は大騒動になった。
3月17日付「読売新聞」は、「新進作家死の失踪?」の見出しで報じ、同日の「国民新聞」も報じた。
そして、3月18日夜遅く、太宰は首に赤く太い蚯蚓ばれをつけて、自宅に帰った。
太宰は鎌倉の山中で自殺(縊死)を図ったが、紐が切れて未遂に終わり、帰宅したのだった。
太宰はこの顛末を題材に小説「狂言の神」を発表(S11/10)し、多くの関係者にもこの出来事に
関する記述があるが、虚実混在で、事実関係には上記を含め明確ではない部分が多い。
中でも、太宰はこの出来事の後も東京に留まって文学活動を続けているが、
その経緯に関する主要年譜、評伝の次の記述には事実関係に疑問がある。
(1) 山内祥史著「太宰治の年譜」・・「そののち、井伏鱒二、檀一雄、中村地平の三人が、神田
淡路町の関根屋に長兄 文治を訪ね、もう一か年の送金を依頼した。」
(2) 相馬正一著「評伝太宰治(上巻)」・・「このとき太宰から頼まれて、井伏鱒二・檀一雄・中村
地平の三人が(神田淡路町の関根屋へ)同行したという。友人たちの助言もあって、
相談の結果、向こう一年間、月額五十円の仕送りを取りつけた。」
両著とも、「井伏ら3人が神田の関根屋に文治を訪ね、もう1年間の仕送りを依頼した」 と
あり、相馬は、さらに、「この時、月90円の仕送りは月50円に減額された」 としている。
しかし、この記述については典拠(根拠)が明示されていない。
そこで、当時、この経緯に深く関わった人物の記述を集め、総合的に判断したところ、
「このとき(S10/3)、井伏らは神田の関根屋を訪問しておらず、
仕送りの減額もなかった。」 と推察するに至った。
そして、「この時、太宰の危機を救った人物は飛島定城」 と察せられた。
以下に、当事者の記述(表)と、そこからの推察を記す。
(表) この出来事に深く関わった人物の記述(関連部分の抜粋:発表順) ①中村地平著 小説「失踪」(S10(1935)/9) 「失踪」は、この出来事が題材の小説(人物は仮名)だが、井伏らと文治との面会に関する 記述はない。 ただ、「太宰の兄が太宰(飛島)宅に来ていた」とあるが、文治か否かは明記なく、中村は 会っていない。 なお、中村は「『喝采』前後」(「太宰治全集第2巻 月報」(S30))では、この出来事に全く 触れていない。 ② 太宰治著 「川端康成へ」(S10(1935)/10) 「友人たちの骨折りのおかげで私は兄貴から、これから二三年のあいだ、月々、五十円の お金をもらえることになった。」 ③太宰治著 小説「喝采」(S11(1936)/10) 「そのような死にそこないの友人のために、井伏鱒二氏、檀一雄氏、それに地平も加えて 三人、私の実兄を神田淡路町の宿屋に訪れ、もう一箇年、お金くださいと、たのんで呉れた。 その日(中略)、地平は、用事のために一足おくれて、(中略)井伏さんたちのあとを追って 荻窪の駅へ、私も駅まで見送っていって、」 ④太宰治著 小説「東京八景」」(S16(1941)/1) (鎌倉での縊死失敗(S10/3)直後、盲腸を手術(S10/4)し、船橋へ転地(S10/7)した頃の ととして) 「私は、その頃、毎月九十円の生活費を実家から貰っていた。」 「ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋を そっと撫でた。他の人も皆、よかった、よかったと言って、私を、いたわってくれた。人生の 優しさに私は呆然とした。 長兄も、田舎から駆けつけて来ていた。私は、長兄に厳しく罵倒されたけれども、その兄が 懐かしくて、慕わしくて、ならなかった。」 ⑤飛島定城著 「太宰治と私」(S23.6.28付福島民報—月曜特集—) 「郷里から親類やら兄貴なども来て騒いでいるところへ(中略)けろりとして帰ってきたのだ」 ⑥井伏鱒二著 「十年前頃—太宰治に関する雑用事—」(S23(1948)/11:「群像」(講談社)) 太宰、東京武蔵野病院退院間近の「S11(1936).11.8」のこととして、 「津島文治氏、病院に太宰を訪ね会談す。太宰、久しぶりに文治氏に会ひたるなり。(附記 ―たぶん七年ぶりの対面であったろう。)」 「S11(1936).11.9」のこととして、 「電話をかけ、せきね屋に文治氏を訪ねる。(附記―このときが初対面であった。)文治氏は 温厚寛度なる大人なり。かねがね愚弟の無軌道ぶりには持てあましたりと云ふ。」 ⑦檀一雄著 「小説 太宰治」(S24(1949)/1:六興出版社) この出来事の顛末を詳記しているが、檀が文治と会ったという記述はない。 ⑧井伏鱒二著 「太宰治集上-解説」(S24(1949)/10:新潮社) (「ダス・ゲマイネ」(S10/10発表)の解説の中で) 「私が太宰君の長兄と初対面のとき、先ず最初に聞かされたのは「舎弟の無軌道振りには、 かねがね手を焼いてをりました」といふ、咏嘆に近い言葉であった。そのとき、中村地平と 檀一雄が私のそばにゐて彼等は口をそろへ、畏友津島修治の書く小説は、素晴らしい ものだといふやうなことを口にした。この場合、それは何だか焼け石に水としか思はれない 讃辞のやうであった。長兄としては、太宰君が不甲斐ない愚弟に見えてゐたかもしれぬ。」 「太宰君が江古田の病院で中毒を消してから後は、津島家から出たお金を中畑さんから 私のところに取り次いで、それを太宰君に手渡すことになった。これは文治氏の思ひつき によるもので、私は太宰君のため、いま暫く送金をつづけて下さいと願った手前もあって、 その役目を引き受けた。」 ⑨ 飛島定城著 「作家以前の太宰治」(「太宰治全集附録 第10号)」(八雲書店:S24/10)) 「日時は忘れたが太宰は「自殺する旨」の書置を残して突然行方をくらました。奥さんは 泣いた。私たちは茫然とした。何処をどう探せば良いか皆目見当がつかなかった。ともかく 太宰グループに急を告げて集まって貰った。 井伏鱒二氏、伊馬春部氏、壇一雄氏なども顔を見せた。友人十数人が何班かに分かれて 捜査に出かけた。 そして僕はさしあたり本部詰めと言った格構で居残り郷里の兄文治氏に打電した。一日 暮れ、二日経ち、三日を迎えて消息は依然分からなかった。警視庁にも捜索願ひを出した。 (中略) その夜兄文治氏も駈けつけて来た。文治氏の代理格で太宰の監督役たる北氏、 親類の小館兄弟、それに友人など十余名が一室に集まった。 何処にも手がかりはなかった。消息は皆目知れず一同暗然とした。声をあげるものもない。 お通夜そのまゝの冷たい重苦しい沈黙がつづいた。 夜十時ごろ突然表手の格子戸が開いた。今晩とも何とも言はず黒い影がさっと現はれたか と思ふと、なみ居る一同には目もくれずさっと二階に駈け上がった男がある。見ると 「あつ太宰だ」 瞬間、一同は何をなすべきかを知らなかった。誰やらの発議でともかくも僕だけがまづ太宰 に会ふことになった。 二階に上がって見ると、これまた意外太宰はまるで何もなかったように平然としてゐた。 僕は問ふべき言葉に迷った。しばらく経って書置きの一件から大騒ぎをした顛末を物語ると、 こんどは彼ははげしく泣き出した。そして鎌倉八幡宮の裏山に上り、靴紐を枝にかけて 縊死をはかったが、紐が切れたので死にきれず、今帰ったといふのである。彼の頸には 赤く太い蚯蚓ばれの跡が痛々しく残ってゐた。だが自殺原因は何一つつかめなかった。」 ⑩飛島定城著 「荻窪時代」(「太宰治全集 1 月報1」(筑摩書房:S30/10)) 「自殺するという簡単な書置きを残して行方をくらましたのだ。しかしともかく、井伏鱒二氏や 檀一雄氏ら友人グループに急を告げ捜査して貰うと共に、郷里の兄津島文治氏に打電した。 大騒ぎになったが、当の太宰は三、四日過ぎた夜の十時頃、ケロリとした顔をして帰って 来た。兄の文治氏を始め親類、友人ら十数名が一室に集まってお通夜のように暗然として いるのに眼をくれず、太宰は二階にトントンと上がって行った。 とにかく私が太宰の模様をみることになり、二階に上がったが、(中略)。鎌倉八幡宮の裏山 に上り、縊死をはかったが、紐が切れて死ねなかった由で、頸には赤く太い蚯蚓ばれが あった。」 ⑪井伏鱒二著 「太宰治と文治さん」(S48(1973)/11:日経新聞) 「私が文治さんと初めて会談したのは、太宰君が江古田の武蔵野病院を退院する前日で あった。場所は神田の淡路町の関根屋といふ旅館の一室で、津軽五所川原の中畑慶吉氏、 東京品川の北芳史郎氏が立会人として文治さんの左右にゐた。(中略)そのとき文治さんは 「舎弟の無軌道振りには困ります」と云って相当くたぶれたやうな様子であった。」 「文治さんは、太宰君が退院したら津軽で食用羊の牧場のお守をさせると云ひ、津島家の 番頭役であった北さんと中畑さんは、太宰君を湘南地方の内科専門の病院に移して静養 させるべきだと云った。会談は緊張裡に行はれた。文治さんは舎弟に健康な生活をさせる ためには,津軽に引籠もらせて田園に親しむやうにさせなくてはいけないと云った。私は 太宰君には東京で小説を書かせるやうにさせるべきだと云って、今後とも文治さんからの 仕送りをつづけてもらふやうに頼んだ。結局、会談は有耶無耶に終った。」 「その翌日、(中略)文治さんはふと気を変へたやうに座り直し、太宰君に東京で小説を書い ても差支へないと手短に云ひ、『それでは毎月七十円づつ送る』と云った。太宰君は言下 に『九十円』と云った。文治さんは『では、九十円。しかし一度に送ると,一度に遣ってしまふ から、月三回に分けて送る。それも直接は送らぬ。 中畑から井伏さんに送らせて、井伏さんからお前に渡してもらふ形式にする』と云った。」 (⑪は、井伏が 「清廉一徹―津島文治を偲ぶ」(津島文治先生回想編集委員会:S49.5.6 発行)に発表した「回想記」(S48.9.15記)を紹介したもので、それとほぼ同じ内容である。) ⑫飛島定城著 「けんか飛一代―飛島定城の回想」(民報コース:H6/7)) 「何年たっても卒業できない。できるわけがない。学校へ行っていないのだから。(中略) そこで大騒ぎになった。兄の津島文治は怒る。来年春に卒業すれば、どこかへ就職させよう ということで知っている所に頼んでいたらしい。(中略)その時、兄の文治さんがこんなことを 言った。 『とても駄目だから家に連れて帰る。弟に鶏や卵の仕事をやらせる』 そこで私は『いや、この男と長く一緒に付き合って分かっているが、鶏や卵の世話をやら せたところで、さっぱりうまくいかんだろう。ここは一つ、弟は死んだものとあきらめて、文学 を続けさせてもらいたい。どうせ死んだ者、他人と思ってあてにしないことだ。あなたが家に 連れて帰ったところで、いざこざが起こるとあなたも困るでしょう。金で済むなら安いもんだ。 兄弟の縁を切るしかない。嫌いなものをいくらやらせようと思っても駄目だ。好きなことを 続けさせてはどうか』と頼みこんだ。結局、兄の文治さんも折れて、月に80円か90円、 太宰に送金した。」 ----------------------------------------------------- (参考) 評伝、伝記、年譜などの記述 ⑬山内祥史著 「太宰治の年譜」(2012/12:大修館書店) (3月20日頃~4月4日の間に)「井伏鱒二・檀一雄・中村地平の三人が、神田淡路町の 関根屋に長兄文治を訪ね、もう一か年の送金を依頼した。」 ⑭相馬正一著 「評伝 太宰治・第二部」(1983/7:筑摩書房)、「同・上巻」(1995/2:津軽 書房)・・後者は、前者の改訂版だが、この出来事に関する記述内容は同一である。 「飛島からの急報に接して郷里から駆けつけたのは、長兄文治ではなく次兄英治であった。 (長兄はこのあと、次兄の報告を受けてから上京することになる。)しかし、多少の記憶 違いはあるとしても、この事件に関する飛島の記事は檀一雄の記憶ともほぼ符合しており、 縊死を図るまでの情況に問題がないわけではないが、自殺を決意して鎌倉の山腹を彷徨 した事実だけは否定できないと思う。」 「このときの一件で上京してきた長兄文治は、今後の身の振り方について相談するために、 定宿にしている神田淡路町の関根屋旅館に太宰を呼んだ。長兄は太宰をひとまず郷里 に連れ戻すつもりで上京したのである。このとき太宰から頼まれて、井伏鱒二・檀一雄・ 中村地平の三人が同行したという。友人たちの助言もあって相談の結果、向こう一年間、 月額五十円の仕送りを取りつけた。とは言うものの、当初月額百二十円で出発した 仕送りも、昭和七年の青森警察署出頭を機に九十円に減額され、今また五十円に押さえ られたのである。当時送金を担当していた次兄英治の話では、表向きは五十円でも、 それとは別に母の内密の依頼を受けて、不定期ではあったが妻の初代宛に幾らかずつ 送っていたという。」 (他の参考図書) ・野原一夫著「小説太宰治」(1994/10:新潮社)、同著「太宰治生涯と文学」(1998/5: 筑摩書房) 同著「人間檀一雄」(1992/9:筑摩書房) ・森永国男著「太宰と地平」(S60/7:鉱脈社) ・吉沢祐著「太宰治と初代」(S31/2(「太宰治研究」(S32/12:筑摩書房)所収)) |
Ⅱ.文学継続に至った経緯に関する記述の整理
1..井伏鱒二の記述
井伏は⑥と⑪に、文治との初対面、初会談は「昭和11年11月」と明記している。これは、
太宰がパビナール中毒を治療して東京武蔵野病院を退院する直前で、退院後の太宰の
処遇を相談するため、井伏が関根屋に文治を訪ねたのである。北と中畑も同席だった。
ところが、⑧では「文治との初対面は昭和10年3月」のことと読め、檀一雄と中村地平が
同席したと記している。しかし、場所は記していない。
そこで、この⑧の場所だが、太宰(飛島)の自宅で、太宰を案じて集まった井伏や
友人たちと青森から駆けつけた文治が顔を合わせた時のことと考えられよう。
ちなみに、飛島の⑨、⑩に、「文治ら十余名が一室に集まっていた」とあり、
太宰の④に、「文治が駆けつけていた。」とある。(これらが事実かは後記)
井伏と文治の初対面は、形の上ではこの時(S10/3)となるが、井伏はこの対面を、
相互に認知し合ったという意味での実質的な対面とは認識しておらず、
混乱の中、居合わせた者同士の単なるあいさつと心得ていたと考えてよかろう。
檀と中村の発言の扱いなどは、少なくとも仕送り継続を依頼する場とは思えない。
なお、相馬の⑭によれば、直ちに駆けつけたのは文治ではなく次兄の英治だという。
典拠は明らかでないが、これが事実なら太宰(飛島)宅に居たのは文治ではなかった
可能性があり、混乱の中で、井伏らは英治を文治と誤認していたかもしれない。
そうであれば、井伏は、遅くとも翌年11月にはそのことに気付いたはずたが、
⑧では特にこだわる必要もなく当時のままの認識を記したと察せられる。
なお、中村の①、飛島の⑤では、太宰(飛島)宅に居たのは単に「兄」である。
井伏の記述には漠然とした部分が多いが、「津島文治先生回想編集委員会」に寄稿する
にあたって事実を確認、整理し、⑪にある「回想記」を執筆したのではないだろうか。
相馬の⑭では太宰同行、山内の⑬では同行有無に触れず、太宰の③では同行なし、という
混乱を併せ考えると、山内、相馬の記述にある「井伏、檀、中村の関根屋訪問と
文治との面会」は実際にはなかったと推測できよう。
2..檀一雄、中村地平の記述
井伏と共に関根屋に文治を訪ね、仕送りの継続を願ったとされる檀一雄と中村地平には
このときの出来事を詳しく記した作品①、⑦があるが、文治に会ったという記述はない。
関根屋での文治との面会が事実であれば、作品中でこのことに触れてもおかしくはなく、
また、他の作品や言動などで触れてもいいはずだが、確認の範囲でだが、それはない。
これらのことは、二人が関根屋へは行っていないことを示すのではないだろうか。
つまり、二人は太宰の文学継続を願うために文治と面談をしてはいないことになる。
3.飛島定城の記述
飛島定城は、太宰と同郷、5年年長の東大の先輩で、この時期は太宰と同居(1階に
飛島一家、2階に太宰夫妻)していた。東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者だったが、
この同居は懇意にしていた文治の意に沿うもので、太宰の面倒を見ていた面がある。
太宰消息不明の直後から素早く親身な対応を行っており、それが⑤、⑨、⑩、⑫の
記述になっているが、特に注目したいのは、⑫「けんか飛一代」の回想である。
「文治は、太宰を連れ帰り、鶏と卵の世話をさせるつもりで上京したが、飛島が東京で
文学を続けさせることを進言し、文治はこれを了承して月80円か90円を送金した。」
というのである。このやり取りは、文章の流れから昭和10年3月のことと察せられる。
4.太宰治本人の記述
②に「友人たちの骨折りで、これから2~3年間は、月50円の仕送りを受けることになった。」
③に「井伏、檀、中村が神田の関根屋に文治を訪ね、もう1年間の仕送りを頼んでくれた。」
④に、船橋時代(S10/7~)のこととして、「月90円の仕送りを受けていた。」とあり、さらに、
「縊死に失敗して家に帰ると、文治が来ていて、罵倒されたが懐かしく慕わしかった。」
とある。ただ、これらは太宰の作意に基づく記述であり、事実としては参考程度に止まる。
Ⅲ.仕送り減額に関する記述の整理
この出来事の後、仕送り額は「月50円になった」とあるのは、太宰の②と相馬の⑭である。
太宰の②は「川端康成へ」で、意図的に金額を小さくしたとも考えられる文章である。
相馬の⑭は、「文治は太宰を関根屋に呼び、太宰は井伏、檀、中村に同行を頼んで
文治と面会し、仕送りは、向こう1年間、月50円に減額して行われることになった。」
とある。この根拠は次兄英治からの聞き取りのようでもあるが、はっきりしない。
しかし、上記「Ⅱ」のように、井伏ら3人の関根屋訪問は事実ではないと推測できるので、
そうであれば、この面会で50円に減額が決まったということはないことになる。
一方、太宰の④には「船橋時代は月90円の仕送り」とあり、「90円」が続いたと読める。
飛島の⑫には、飛島が文治に、太宰の文学継続を進言し「80円か90円送金」とある。
また、佐藤春夫は「芥川賞―憤怒こそ愛の極点(太宰治)」(S11/11)に、
太宰の現状について、「・・月々小百円の仕送りを受けて・・」と書いている。
これに関連し、井伏の⑪には、太宰の東京武蔵野病院退院の前日(S11.11.11)、文治は
太宰に「今後の仕送り額は月70円と提示し、太宰の願いで90円に決まった」とある。
このとき、文治の側から仕送り額の引き上げを提示したり、太宰がさらにその大幅な
引き上げを要求することは考え難く、実際は、文治は90円を70円に引き下げる提示
を行い、太宰が現状維持を願って即座に90円に決まったと見る方が現実的だろう。
つまり、昭和10年3月には「月50円への引き下げはなかった」と察せられる。
Ⅳ.結論(推察)
(1) 山内の「年譜」、相馬の「評伝」では「昭和10年3月、井伏鱒二、檀一雄、中村地平は、
関根屋に文治を訪ねた。」とあり、これが、いわば通説といえるが、根拠となり得る
記述は太宰の小説「喝采」だけではないだろうか。この小説は、「失踪」を発表した
中村地平を強く意識した作品であり、中村ら3人の行動は、太宰の作意が働いた、
あくまでも小説上のことであって、これをもって事実の根拠とするのは無理である。
さらに、「喝采」では太宰は同行していないが、相馬は「同行したという。」と
記している。相馬の「評伝」は(山内の「年譜」も)、井伏の⑪後の発表だが、
⑪や「喝采」の記述を否定する根拠ははっきりせず、上記「Ⅱ」で見たように
「井伏ら3人による関根屋訪問と文治への仕送り依頼はなかった」 と推察できる。
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*付記・・太宰の帰宅時については、他にもまちまちな記述があり、次に整理する。
・太宰が帰宅した日・時間・その様子は、当事者、研究者などに様々な記述があって、
さながら「藪の中」状態である。確かな資料類がないためで、私見で推測すると次の
ようになる。深い詮索はあまり意味がなさそうなので、推測の根拠は省略する。
「帰宅は3月18日」(一説に17日や19日以降がある)、「時間は午後10時頃」
(一説に12時前後)、「太宰は飄然と入ってきた」 「部屋には大勢の人が居た」
「首に赤い蚯蚓ばれがついていた」 というところだろう。
当夜、部屋に居たとされる人物は、初代、飛島夫妻、井伏、檀、中村、伊馬(鵜平)、
吉沢(祐)で、他にも挙がる名があるが、当事者の記述がまちまちで明確ではない。
・太宰が帰宅したとき、そこに兄は居たか? もし居たとすれば、文治か? 英治か?
飛島の⑤には「兄」とあり、太宰の④、飛島の⑨、⑩には「文治が居た」とある。
相馬の⑭では文治ではなく英治と確言する。
飛島から知らせを受けた兄が直ちに上京した(16日か17日)ことは確かだろう。
相馬は⑭で、それは英治で、文治は英治の報告を受けてから上京したというが、
相馬の取材に基づく記述とすれば、これは実際に十分あり得るだろう。
ただ、⑤,④,⑨,⑩以外の記述からは、太宰帰宅時に兄が居たとは読み取れない。
事実は不詳としか言えないが、仮にどちらかが居て顔を合わせたとしても、
ゆっくり言葉を交わせた状況ではなく、詮索はあまり意味がないかもしれない。
私は、⑤,⑨、⑩は飛島の思い違い(意図的?)で、太宰の④の「文治の罵倒」は
小説上のこと、実際には、この帰宅時に文治は居なかったと推測する。
文治による「罵倒」があったとすれば翌日以降のことになる。(後記「Ⅴ.」)
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(2) この出来事の後も、太宰は、結果として東京に留まり作家としての道を歩んでいる。
当時の月50円は、楽ではないが生活はできる水準のようだが とはいえ、従来の
月90円を一気に50円に引き下げるのは乱暴過ぎるだろう。当時の太宰の家賃
負担分は月20円である。家賃を除く生活費は70円が30円になるのであり、
この突然の大幅減額はもともと考え難いのではないだろうか。
(亀井勝一郎は、結婚時(S7)の仕送りは月60円で、それで普通に生活できたという。)
「仕送り額は、上記 Ⅲ.で見たように、50円への減額はなかった」 と推察できる。
従来通り「月額90円」の仕送りと察するが、相馬は⑭の根拠に関しては、誰が言ったか
は示さず「~という。」と記し、相馬自身が事実を確認できなかったようにも受け取れる。
Ⅴ.「太宰は東京で文学継続」・「仕送り90円」となった経緯
このとき(S10/3)、文治は上京して定宿の関根屋に何日間か滞在したが、
飛島の⑫、相馬の⑭によれば、文治は太宰を青森へ連れ戻すつもりでいた。
結果は、太宰は従来通り東京に居て作家になる道を進んでいるが、
文治と太宰は、以後のことを相談するために直接会ったのだろうか?
太宰の④には「文治に罵倒された」とあり、相馬の⑭には「文治は太宰を関根屋に
呼びだした」とある。3月下旬に関根屋で会った可能性はあるが事実は不詳である。
まして、太宰単独か、同伴者が居たかなどは不明だが、重要なのは飛島の⑫である。
これによれば、文治は怒って「とても駄目だから家に連れて帰る。弟に鶏や卵の
仕事をさせる」と言い、飛島が「文学を続けさせてもらいたい」、「金で済むなら
安いもんだ」、「好きなことを続けさせてはどうか」・・などなどと頼みこんで、
結局、文治が折れて「月に80円か90円送金」になったというのである。
この飛島の⑫と、太宰の④や相馬の⑭とが結びつくかは不明だが、文治と飛島との
間でこのようなやり取りがあったことは十分に考えられる。これを証明するような
資料類は見当たらないが、否定する資料もなく、この時、文治に対して
このように進言、助言ができる人物は井伏か飛島の他には見当たらない。
太宰の②,③の記述にある「友人」は飛島を指すと見ていいのではないだろうか。
太宰の人生の重大な岐路において、飛島のこの文治への進言がなければ、
そして文治の理解がなければ、太宰治は津島修治に戻っていたかもしれない。
「飛島定城は太宰治の文学修行の危機を救った人物」 と推察できる。
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*付記・・この直後の4月(S10)、太宰は盲腸手術、腹膜炎で入院、この時に治療で
使用した麻薬性鎮痛薬「パビナール」を手放すことができなくなり、中毒になった。
東京武蔵野病院に入院してパビナール中毒を完治、退院(S11/11)したが、
井伏の⑪にあるように、この時も文治は太宰を連れ帰るつもりで上京した。
井伏らの意見を容れて、太宰の東京での文学継続を了承し、仕送りは月90円と
するが、月3回、30円づつを井伏宛てに送金し、井伏から渡すことになった。
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