太宰治の年譜(年表):追記・補足など(芥川賞懇願の手紙・死の前日の大宮訪問・・)
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太宰治の年譜・年表は多くの刊行物、ネットに載るが、現在一般化
している年譜類の多くは、次に掲げる山内祥史作に拠るようだ。
・筑摩書房刊『太宰治全集 13 巻末年譜(山内祥史)』(H11(1999))
・大修館書店刊『太宰治の年譜』(山内祥史著」(H24(2012)
特に、後者の単行本『太宰治の年譜』(大修館書店)は詳細で、
典拠の明示も多く、現在において最も一般的な著作といえよう。
本項はこの年譜を辿って出来事の追加、補足、修正などを行なった。
出来事の時 | 記述(出来事)の概要 | 追加・補足・修正など |
S10 (1935). 3.20頃 |
そののち、井伏鱒二、檀一雄、 中村地平の三人が、神田 淡路町の関根屋に長兄文治 を訪ね、もう一か年の送金を 依頼した。 |
(補足) さらに、相馬正一著「評伝太宰治(上巻)」には、「この時、 長兄文治は、太宰が東京で文学活動を続けることを承知 したが、仕送り額は90円を50円に減額した。」とある。 しかし、この井伏らの文治との面会と、仕送り減額の典拠(根拠)は 判然とせず、したがって、実際の出来事かどうか不詳といえよう。 太宰の作家人生の重大岐路、関連資料を精査したところ、文治に 太宰の文学継続を進言した人物は、飛島定城と察せられた。 *詳細を下記(註1)する。(R3/10追記UP) |
S11 (1936). 1.28付 |
(記載なし) |
(追加) 佐藤春夫宛書簡で芥川賞を懇願した。 ・この書簡は、H27(2015)/9に発見されたもので、これ以前の年譜類には 載っていない。 ・長さ4メートル余りの巻紙に筆書きで、内容は第1回芥川賞を逸した無念 の情と第2回の受賞懇願である。芥川賞への執念を顕わにしており、この 直後(2/5付)にも受賞哀願の書簡を佐藤に送っている。 (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S11 (1936). 10.7付消印 |
(記載なし) |
(追加) 佐藤春夫宛にいわば”詫び状”を送付した。 ・この書簡は、R4(2022/10)に発見されたもので、これ以前の年譜類には 載っていない。 ・原稿用紙の裏面にペン字でぎっしり書いているが、下書きのような乱れた 状態の書状である。 (芥川賞の受賞ならず、「創生記」(S11/10)に佐藤批判を書いたが、 そのいわば詫び状である。直後の10/13、東京武蔵野病院に入院) (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S11 (1936). 11.12 |
東京武蔵野病院を退院して、 杉並区天沼の白山神社裏手 の光明院裏の照山荘アパート に入居 した。 |
(修正・補足) ・退院して入ったアパートの所在地は“天沼”ではなく “荻窪”(現・上荻)である。 (井伏は「太宰治のこと」(S28)に「荻窪の白山神社の裏手、光明院裏 の下宿」と書いている。ちなみに、“天沼”は青梅街道の北側で、 白山神社、光明院は南側にあり ”荻窪”(現上荻)である。) ・アパートの名称は、主要年譜類は井伏鱒二が「十年前頃」 (S23)に書いた「照山荘アパート」とするが、他に 「盛山館」、「盛山荘」とする次の二つの作品があり、 判然としない。 ①長尾良は「太宰治その人と-奇遇の家-」(S40)に、長尾が荻窪 (現・上荻)の「盛山館」に入居すると太宰が遊びに来て、ここには 自分も居たことがあると言ったなど、当時の詳細を書いている。 ②近藤富枝は、「水上心中 太宰治と小山初代」」(H16)に「北芳四郎 が用意した盛山荘」と書いている。(根拠の記載はない) ・入居の3日後(11/15)、井伏宅にさらに近い天沼の碧雲荘に転居した。 *詳細を下記(註2)する。(R5/12追記UP) |
S11 (1936). 11.29 |
小館善四郎宛に「HUMAN LOST」の一節 を記した葉書 を投函。 |
(修正) 「「傷心。」、川沿ひの/路をのぼれば/赤き橋、またゆき ゆけば/人の家かな。」は、葉書にはあるが「HUMAN LOST」にはない。 |
S12 (1937). 7.30 |
檀一雄応召、昭和15年12月 1日まで3年4ヶ月の軍隊生活。 |
(修正) 檀一雄の除隊は昭和14年12月で、軍隊生活は 2年4ヶ月である。 ・一般には、檀一雄の全集等に載る年譜(自作)で「昭和15年除隊」だが、 これは事実ではない。根拠は、昭和14年12月の日付の檀の書簡など。 (詳細は別記項目「浅見淵」参照) |
S14 (1939). 9.20 |
日比谷公園松本楼で「青森県 出身者在京芸術家座談会」が 開催され出席。 (「月刊東奥」主催) |
(補足) 太宰は座談会での自分の言動を「善蔵を思う」(S15/4)に 「大失態」と書き、作品の柱の一本にしている。 同席した今官一、棟方志功や妻美知子の著作から、太宰の この言動はほぼ事実と認められる。 (今著「碧落の碑」、棟方著「板道楽」、美知子著「回想の太宰治」) なお、「太宰治全作品研究事典」(H7:勉誠社)には、「今官一、棟方志功 などの証言によって、当日の太宰が大失態したことが虚構であることが はっきりしている。(神谷忠孝)」とあるが、どんな証言かは説明がない。 当事者の著書の記述を否定するからには、根拠を明示すべきだろう。 |
S15 (1940). 12.1 |
檀一雄が久留米の兵営で除隊、 渡満。 |
(修正) (前記) 檀一雄の除隊は1年前のことで、その12月 (S14)下旬に渡満した。 ・ちなみに、太宰は葉書(S15.6.21付)で、渡満する浅見淵に、満州で檀に 逢ったらよろしくお伝えくださいと依頼している。 (詳細は別記項目「浅見淵」参照) |
S17 (1942). 2.5 |
阿佐ヶ谷会で奥多摩(御嶽)に 遊んだ。 蕎麦処玉川屋で、従軍中の 小田嶽夫、井伏鱒二に寄せ書き をした。 |
(補足) 参加者6名は、徴用で従軍中の井伏鱒二、小田嶽夫に 寄せ書きをしたが、寄書きの内容は不明である。 ・御嶽の玉川屋(蕎麦屋)には6名の寄せ書き(色紙2枚)が現存するが、 同内容のものが戦地に送られたという資料は見当たらない。 (太宰はこの色紙には 「川沿ひの路をのぼれば/赤き橋またゆきゆけば/ 人の家かな」 と記した。) ・参加した上林暁、木山捷平には、井伏、小田だけでなく、中村地平にも 送ったという記述がある。 ・戦地への寄書きは、シンガポールの井伏の許には届いており、 井伏の青柳瑞穂宛礼状が残っている。 (詳細は別記項目「阿佐ヶ谷会の遠足」参照) |
S19 (1944). 4.14 |
中村地平の帰郷送別会。 |
(修正) 出席は、中村、井伏鱒二、上林暁、木山捷平と太宰で、 二次会は小田嶽夫が馴染みの店に行った。 この時、小田は疎開準備のため帰郷中で欠席だったが、 太宰も顔見知りになった店なので入れた(酒類は闇営業)。 ・太宰は、この様子を4/20付葉書で小田に知らせた。 律儀な太宰、戦時下の世相の一端が窺える。 |
S19 (1944). 11.15付 |
小山書店が「津軽」の初版を 発行。 |
(補足) 初版「津軽」の本文に載る「津軽図」と「挿絵4点」は、 太宰の自筆である。 ・根拠:妻美知子の「津軽・惜別-後記」(S29/10:創芸社)など 小山書店は太宰の死後(S23/10.)改版し「津軽図」と 「挿絵3点」が載る「津軽」を再出版したが、 図絵は初版とは異なる。 現在、全集・文庫本・文学館発行の図録などに「津軽」の挿絵が載り、 「太宰の自筆」との説明文もあるが、大部分は初版の挿絵とは異なる。 (参考文献) 小澤純著「太宰治『津軽』挿絵分類表 -太宰治 単行本にたどる検閲の影 :拾遺-」 (「文藝と批評」(20022/5:文藝と批評の会)所収) (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S21 (1946). 11.25 |
織田作之助、坂口安吾、太宰治 の三人が実業之日本社、 次いで改造社主催の二つの 座談会に出席。 改造社主催の座談会終了後、 三人は銀座のバー“ルパン”で 懇談、そこへ写真家の林忠彦 が来て写真撮影。 |
(補足) 実業之日本社の座談会で三人は志賀直哉を酷評し、 「文学季刊」(S22/4)に載った。 志賀と太宰らとの批判の応酬に関連する。 林忠彦の目的は織田撮影だったが、酔った太宰に強要され 仕方なく、最後に残したなけなしの予備用1枚を使った。 林は、その男が誰だか知らず、太宰と教えられて撮ったが、 現在では、これが太宰の最もポピュラーな写真の一枚となり 林の名を高めている。 (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S21 (1946). 12.14 |
会合に三島由紀夫も出席、 太宰と対面。 |
(補足) 両者の対面は、この時の1回だけである。 会合の日の根拠は、三島の「会計日記」にある 「12/14(土) 高原君のところにて酒の会。太宰、亀井両氏みえらる。」 この会合で、三島は太宰に向って「僕は太宰さんの文学は きらいなんです。」と言った。 三島の太宰文学批判を端的に表すことで知られるが、 この時の会話の雰囲気は、三島と野原一夫、矢代静一ら 会合出席者の記述に相違があり、判然としない。 ・三島由紀夫著「私の遍歴時代」(S38:東京新聞) ・野原一夫著「回想 太宰治」(S55::新潮社) ・矢代静一著「含羞の人」(S61/5::河出書房新社)ほか (会合日を、三島は「斜陽」の後の秋(S22)頃とし「斜陽」に触れて批判、 野原は1月26日(S22)とするなど、両者の記憶は不確かで詳細は不明 だが、後に三島が名を成してこの言葉だけが一人歩きの感がある。) (詳細は次の別記項目参照 「太宰治と三島由紀夫の対面・会話の実際と三島の”太宰嫌い”」 |
S22 (1947). 元旦 |
亀井勝一郎と山岸外史などと 井伏鱒二宅を年始訪問。 |
(修正) この年(S22)の正月、井伏は郷里の福山に疎開中で、 年始に上京した資料はない。 山岸は山形県に疎開中で上京はない。 太宰らの井伏宅年始訪問は誤認。 ・年譜は堤重久著「太宰治との七年間」(S44)が根拠と察するが、この書の 「再会と訣別」の項には混乱があり、この記述は根拠にならない。 (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S22 (1947). 11月初旬 |
(記載なし) | (追加) 「小説新潮」(S23/2)掲載写真の撮影のため 井伏宅を訪問。裏の雑木林で二人並んで撮影。 富栄の日記(S22.11.21)から撮影日を推察。 (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S23 (1948). 元旦 |
美知子とともに井伏鱒二宅に 年始の挨拶に行った。帰って から茶の間で泣いたという。 |
(修正) 太宰がこの元旦に井伏宅を訪問したという資料は多いが、 美知子同行は確認できない。 美知子著「回想の太宰治」では同行していないと読める。 山崎富栄の日記(1/1)には「お嬢様とご一緒の様子」とある。 ・この日の同行者、井伏宅での出来事については多くの記述があるが、 事実は判然としない。 ・太宰が井伏らの陰口を聞いたという堤の著書の内容が広まっているが、 この記述は信憑性に欠ける。 ・ただ、太宰は帰宅後に「みんなが自分をいじめるといって泣いた」(美知子 の前著)のであり、この直後に激しい先輩批判が始まるなど、文学活動、 人生に大きな影響を及ぼした訪問だった。 居合わせた先輩らに貶されたことは十分考えられ、激しい先輩批判、 半年後の心中死に繋がる一日だったといえよう。 (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S23 (1948). 1月上旬 |
喀血 |
(補足) 典拠は山崎富栄の日記(1/10、1/16)と察するが、 この記述は太宰の言であり、太田静子への送金遅延の 言訳でもある。根拠としては薄弱だろう。 ・昭和22年以降の太宰の体調不良に関しては、富栄以外の太宰を身近かに 知る人物の記述は少なく、受診歴、病名は不詳で、結核による症状だったか 疑問もある。年譜の記述には根拠など再確認の余地があろう。 ただ、富栄の日記(S23.1.31)に野川家同居人一同として太宰の結核に 関する申し入れの記述があり、何らかの症状があったことは認められる。 (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S23 (1948). 4.3~中旬 |
(記載なし) |
(追加) 井伏鱒二の知人が富栄の部屋で睡眠薬を大量に服用 する出来事があり、井伏が訪問して太宰に会った。 この時ないしこの頃、井伏は太宰に「如是我聞」の執筆 中止を求めたと推察できる。 ・根拠:山崎富栄の日記(4/3、4/14)など 太宰は、手帖に「井伏鱒二ヤメロといふ、」に始まる長文 のメモを書いた。 ・太宰は、日頃からポケット手帳を執筆メモに使用していた。特にこの年 (S23用)は井伏、志賀らに対する心情などが吐露されている。 最晩年の太宰を知るうえで貴重な資料である。 (詳細は別記項目「玉川上水心中死の核心」参照) |
S23 (1948). 5.12 |
「『グッド・バイ』も、ぜひ ここで書きたいので、部屋を 空けておいてください」と言い 残して帰京。 |
(補足) 部屋の貸主、小野沢清澄に言い残した言葉の典拠は 次の通り。 ・榎本了著「埼玉文学散歩」(S39) (本書の存在はあまり知られていないが、心中死の1ヶ月前、大宮での「人間 失格」執筆時の太宰、富栄の様子を知ることができる重要文献である。) (詳細は別記項目「太宰治(人生と作品)」参照) |
S23 (1948). 5.12~5.14 |
「如是我聞(三)」を脱稿。 |
(補足) 本文の最後に、「この時、雑誌の座談会の速記録を 読んだ。」 として、志賀直哉ら出席者を痛罵している。 この雑誌は「社会」(S23/4:鎌倉文庫)である。 「文芸」(S23/6)とする文献・資料が多いが、 これは誤りである。 (詳細は別記項目「「如是我聞」と志賀直哉発言」参照) |
S23 (1948). 6.12 |
(記載なし) |
(追加) 太宰は宇治病院に寄宿の古田晁(筑摩書房社長)に 会うため、単身で大宮へ行った。 古田は帰郷中で会えず、夕方、「人間失格」執筆で世話に なった小野沢清澄に会った。 このとき、太宰は「「グッド・バイ」がちょっとも書けない でね・・」 と寂しそうにもらしてそのまま立ち去った。 典拠 ・榎本了著「埼玉文学散歩」(S39) ・「まちかど新風土記」(中山道の巻) (S52/2:読売新聞社浦和支局) ・「大宮文学散歩」 (H3:大宮市教育委員会) ・この出来事を載せている評伝、年譜類は少ないが、典拠はしっかり しており、心中死前日の重要な事実と認められる。 (詳細は別記項目「玉川上水心中死の核心」参照) |
(註1) 井伏・檀・中村と津島文治との面会および仕送り減額(90円→50円)は事実か?
Ⅰ.鎌倉山中での自殺(縊死)未遂と文学継続に関する記述
昭和10年(1935)3月15日、太宰は桜木町駅(横浜)で小館善四郎と別れて単独行動となり、
消息不明になった。その直前に自殺をほのめかす言動があり、翌16日には、飛島定城は
長兄文治に電報で知らせ、井伏鱒二は杉並警察署に捜索願を出すなど、荻窪駅前の自宅
(飛島定城一家と同居。2階に太宰夫妻)は大騒動になった。
3月17日付「読売新聞」は、「新進作家死の失踪?」の見出しで報じ、同日の「国民新聞」も報じた。
そして、3月18日夜遅く、太宰は首に赤く太い蚯蚓ばれをつけて、自宅に帰った。
太宰は鎌倉の山中で自殺(縊死)を図ったが、紐が切れたかして未遂に終わり、帰宅したのだった。
太宰はこの顛末を題材に小説「狂言の神」を発表(S11/10)し、多くの関係者にもこの出来事に
関する記述があるが、虚実混在で、事実関係は上記を含め明確ではない部分が多い。
中でも、太宰はこの出来事の後も東京に留まって文学活動を続けているが、
その経緯に関する主要年譜、評伝の次の記述には事実関係に疑問がある。
(1) 山内祥史著「太宰治の年譜」・・「そののち、井伏鱒二、檀一雄、中村地平の三人が、神田
淡路町の関根屋に長兄 文治を訪ね、もう一か年の送金を依頼した。」
(2) 相馬正一著「評伝太宰治(上巻)」・・「このとき太宰から頼まれて、井伏鱒二・檀一雄・
中村地平の三人が(神田淡路町の関根屋へ)同行したという。友人たちの助言も
あって、相談の結果、向こう一年間、月額五十円の仕送りを取りつけた。」
両著とも、「井伏ら3人が神田の関根屋に文治を訪ね、もう1年間の仕送りを依頼した」 と
あり、相馬は、さらに、「この時、月90円の仕送りは月50円に減額された」 としている。
しかし、この記述については典拠(根拠)が明示されていない。
そこで、当時、この経緯に深く関わった人物の記述を集め、総合的に判断したところ、
「このとき(S10/3)、井伏らは神田の関根屋を訪問しておらず、
仕送りの減額もなかった。」 と推察するに至った。
そして、「この時、太宰の危機を救った人物は飛島定城」 と察せられた。
以下に、当事者の記述(表)と、そこからの推察を記す。
(表) この出来事に深く関わった人物の記述(関連部分の抜粋:発表順) ①中村地平著 小説「失踪」(S10(1935)/9) 「失踪」は、この出来事が題材の小説(人物は仮名)だが、井伏らと文治との面会に関する 記述はない。 ただ、「太宰の兄が太宰(飛島)宅に来ていた」とあるが、文治か否かは明記なく、中村は 会っていない。 なお、中村は「『喝采』前後」(「太宰治全集第2巻 月報」(S30))では、この出来事には全く 触れていない。 ② 太宰治著 「川端康成へ」(S10(1935)/10) 「友人たちの骨折りのおかげで私は兄貴から、これから二三年のあいだ、月々、五十円の お金をもらえることになった。」 ③太宰治著 小説「喝采」(S11(1936)/10) 「そのような死にそこないの友人のために、井伏鱒二氏、檀一雄氏、それに地平も加えて 三人、私の実兄を神田淡路町の宿屋に訪れ、もう一箇年、お金くださいと、たのんで呉れた。 その日(中略)、地平は、用事のために一足おくれて、(中略)井伏さんたちのあとを追って 荻窪の駅へ、私も駅まで見送っていって、」 ④太宰治著 小説「東京八景」」(S16(1941)/1) (鎌倉での縊死失敗(S10/3)直後、盲腸を手術(S10/4)し、船橋へ転地(S10/7)した頃の ととして) 「私は、その頃、毎月九十円の生活費を実家から貰っていた。」 「ふらふら帰宅すると、見知らぬ不思議な世界が開かれていた。Hは、玄関で私の背筋を そっと撫でた。他の人も皆、よかった、よかったと言って、私を、いたわってくれた。人生の 優しさに私は呆然とした。 長兄も、田舎から駆けつけて来ていた。私は、長兄に厳しく罵倒されたけれども、その兄が 懐かしくて、慕わしくて、ならなかった。」 ⑤飛島定城著 「太宰治と私」(S23.6.28付福島民報—月曜特集—) 「郷里から親類やら兄貴なども来て騒いでいるところへ(中略)けろりとして帰ってきたのだ」 ⑥井伏鱒二著 「十年前頃—太宰治に関する雑用事—」(S23(1948)/11:「群像」(講談社)) 太宰、東京武蔵野病院退院間近の「S11(1936).11.8」のこととして、 「津島文治氏、病院に太宰を訪ね会談す。太宰、久しぶりに文治氏に会ひたるなり。(附記 ―たぶん七年ぶりの対面であったろう。)」 「S11(1936).11.9」のこととして、 「電話をかけ、せきね屋に文治氏を訪ねる。(附記―このときが初対面であった。)文治氏は 温厚寛度なる大人なり。かねがね愚弟の無軌道ぶりには持てあましたりと云ふ。」 ⑦檀一雄著 「小説 太宰治」(S24(1949)/1:六興出版社) この出来事の顛末を詳記しているが、檀が文治と会ったという記述はない。 ⑧井伏鱒二著 「太宰治集上-解説」(S24(1949)/10:新潮社) (「ダス・ゲマイネ」(S10/10発表)の解説の中で) 「私が太宰君の長兄と初対面のとき、先ず最初に聞かされたのは「舎弟の無軌道振りには、 かねがね手を焼いてをりました」といふ、咏嘆に近い言葉であった。そのとき、中村地平と 檀一雄が私のそばにゐて彼等は口をそろへ、畏友津島修治の書く小説は、素晴らしい ものだといふやうなことを口にした。この場合、それは何だか焼け石に水としか思はれない 讃辞のやうであった。長兄としては、太宰君が不甲斐ない愚弟に見えてゐたかもしれぬ。」 「太宰君が江古田の病院で中毒を消してから後は、津島家から出たお金を中畑さんから 私のところに取り次いで、それを太宰君に手渡すことになった。これは文治氏の思ひつき によるもので、私は太宰君のため、いま暫く送金をつづけて下さいと願った手前もあって、 その役目を引き受けた。」 ⑨ 飛島定城著 「作家以前の太宰治」(「太宰治全集附録 第10号)」(八雲書店:S24/10)) 「日時は忘れたが太宰は「自殺する旨」の書置を残して突然行方をくらました。奥さんは 泣いた。私たちは茫然とした。何処をどう探せば良いか皆目見当がつかなかった。ともかく 太宰グループに急を告げて集まって貰った。 井伏鱒二氏、伊馬春部氏、壇一雄氏なども顔を見せた。友人十数人が何班かに分かれて 捜査に出かけた。 そして僕はさしあたり本部詰めと言った格構で居残り郷里の兄文治氏に打電した。一日 暮れ、二日経ち、三日を迎えて消息は依然分からなかった。警視庁にも捜索願ひを出した。 (中略) その夜兄文治氏も駈けつけて来た。文治氏の代理格で太宰の監督役たる北氏、 親類の小館兄弟、それに友人など十余名が一室に集まった。 何処にも手がかりはなかった。消息は皆目知れず一同暗然とした。声をあげるものもない。 お通夜そのまゝの冷たい重苦しい沈黙がつづいた。 夜十時ごろ突然表手の格子戸が開いた。今晩とも何とも言はず黒い影がさっと現はれたか と思ふと、なみ居る一同には目もくれずさっと二階に駈け上がった男がある。見ると 「あつ太宰だ」 瞬間、一同は何をなすべきかを知らなかった。誰やらの発議でともかくも僕だけがまづ太宰 に会ふことになった。 二階に上がって見ると、これまた意外太宰はまるで何もなかったように平然としてゐた。 僕は問ふべき言葉に迷った。しばらく経って書置きの一件から大騒ぎをした顛末を物語ると、 こんどは彼ははげしく泣き出した。そして鎌倉八幡宮の裏山に上り、靴紐を枝にかけて 縊死をはかったが、紐が切れたので死にきれず、今帰ったといふのである。彼の頸には 赤く太い蚯蚓ばれの跡が痛々しく残ってゐた。だが自殺原因は何一つつかめなかった。」 ⑩飛島定城著 「荻窪時代」(「太宰治全集 1 月報1」(筑摩書房:S30/10)) 「自殺するという簡単な書置きを残して行方をくらましたのだ。しかしともかく、井伏鱒二氏や 檀一雄氏ら友人グループに急を告げ捜査して貰うと共に、郷里の兄津島文治氏に打電した。 大騒ぎになったが、当の太宰は三、四日過ぎた夜の十時頃、ケロリとした顔をして帰って 来た。兄の文治氏を始め親類、友人ら十数名が一室に集まってお通夜のように暗然として いるのに眼をくれず、太宰は二階にトントンと上がって行った。 とにかく私が太宰の模様をみることになり、二階に上がったが、(中略)。鎌倉八幡宮の裏山 に上り、縊死をはかったが、紐が切れて死ねなかった由で、頸には赤く太い蚯蚓ばれが あった。」 ⑪井伏鱒二著 「太宰治と文治さん」(S48(1973)/11:日経新聞) 「私が文治さんと初めて会談したのは、太宰君が江古田の武蔵野病院を退院する前日で あった。場所は神田の淡路町の関根屋といふ旅館の一室で、津軽五所川原の中畑慶吉氏、 東京品川の北芳史郎氏が立会人として文治さんの左右にゐた。(中略)そのとき文治さんは 「舎弟の無軌道振りには困ります」と云って相当くたぶれたやうな様子であった。」 「文治さんは、太宰君が退院したら津軽で食用羊の牧場のお守をさせると云ひ、津島家の 番頭役であった北さんと中畑さんは、太宰君を湘南地方の内科専門の病院に移して静養 させるべきだと云った。会談は緊張裡に行はれた。文治さんは舎弟に健康な生活をさせる ためには,津軽に引籠もらせて田園に親しむやうにさせなくてはいけないと云った。私は 太宰君には東京で小説を書かせるやうにさせるべきだと云って、今後とも文治さんからの 仕送りをつづけてもらふやうに頼んだ。結局、会談は有耶無耶に終った。」 「その翌日、(中略)文治さんはふと気を変へたやうに座り直し、太宰君に東京で小説を書い ても差支へないと手短に云ひ、『それでは毎月七十円づつ送る』と云った。太宰君は言下 に『九十円』と云った。文治さんは『では、九十円。しかし一度に送ると,一度に遣ってしまふ から、月三回に分けて送る。それも直接は送らぬ。 中畑から井伏さんに送らせて、井伏さんからお前に渡してもらふ形式にする』と云った。」 (⑪は、井伏が 「清廉一徹―津島文治を偲ぶ」(津島文治先生回想編集委員会:S49.5.6 発行)に発表した「回想記」(S48.9.15記)を紹介したもので、それとほぼ同じ内容である。) ⑫飛島定城著 「けんか飛一代―飛島定城の回想」(民報コース:H6/7)) 「何年たっても卒業できない。できるわけがない。学校へ行っていないのだから。(中略) そこで大騒ぎになった。兄の津島文治は怒る。来年春に卒業すれば、どこかへ就職させよう ということで知っている所に頼んでいたらしい。(中略)その時、兄の文治さんがこんなことを 言った。 『とても駄目だから家に連れて帰る。弟に鶏や卵の仕事をやらせる』 そこで私は『いや、この男と長く一緒に付き合って分かっているが、鶏や卵の世話をやら せたところで、さっぱりうまくいかんだろう。ここは一つ、弟は死んだものとあきらめて、文学 を続けさせてもらいたい。どうせ死んだ者、他人と思ってあてにしないことだ。あなたが家に 連れて帰ったところで、いざこざが起こるとあなたも困るでしょう。金で済むなら安いもんだ。 兄弟の縁を切るしかない。嫌いなものをいくらやらせようと思っても駄目だ。好きなことを 続けさせてはどうか』と頼みこんだ。結局、兄の文治さんも折れて、月に80円か90円、 太宰に送金した。」 ----------------------------------------------------- (参考) 評伝、伝記、年譜などの記述 ⑬山内祥史著 「太宰治の年譜」(2012/12:大修館書店) (3月20日頃~4月4日の間に)「井伏鱒二・檀一雄・中村地平の三人が、神田淡路町の 関根屋に長兄文治を訪ね、もう一か年の送金を依頼した。」 ⑭相馬正一著 「評伝 太宰治・第二部」(1983/7:筑摩書房)、「同・上巻」(1995/2:津軽 書房)・・後者は、前者の改訂版だが、この出来事に関する記述内容は同一である。 「飛島からの急報に接して郷里から駆けつけたのは、長兄文治ではなく次兄英治であった。 (長兄はこのあと、次兄の報告を受けてから上京することになる。)しかし、多少の記憶 違いはあるとしても、この事件に関する飛島の記事は檀一雄の記憶ともほぼ符合しており、 縊死を図るまでの情況に問題がないわけではないが、自殺を決意して鎌倉の山腹を彷徨 した事実だけは否定できないと思う。」 「このときの一件で上京してきた長兄文治は、今後の身の振り方について相談するために、 定宿にしている神田淡路町の関根屋旅館に太宰を呼んだ。長兄は太宰をひとまず郷里 に連れ戻すつもりで上京したのである。このとき太宰から頼まれて、井伏鱒二・檀一雄・ 中村地平の三人が同行したという。友人たちの助言もあって相談の結果、向こう一年間、 月額五十円の仕送りを取りつけた。とは言うものの、当初月額百二十円で出発した 仕送りも、昭和七年の青森警察署出頭を機に九十円に減額され、今また五十円に押さえ られたのである。当時送金を担当していた次兄英治の話では、表向きは五十円でも、 それとは別に母の内密の依頼を受けて、不定期ではあったが妻の初代宛に幾らかずつ 送っていたという。」 (他の参考図書) ・野原一夫著「小説太宰治」(1994/10:新潮社)、同著「太宰治生涯と文学」(1998/5: 筑摩書房) 同著「人間檀一雄」(1992/9:筑摩書房) ・森永国男著「太宰と地平」(S60/7:鉱脈社) ・吉沢祐著「太宰治と初代」(S31/2(「太宰治研究」(S32/12:筑摩書房)所収)) |
Ⅱ.文学継続に至った経緯に関する記述の整理
1..井伏鱒二の記述
井伏は⑥と⑪に、文治との初対面、初会談は「昭和11年11月」と明記している。これは、
太宰がパビナール中毒を治療して東京武蔵野病院を退院する直前で、退院後の太宰の
処遇を相談するため、井伏が関根屋に文治を訪ねたのである。北と中畑も同席だった。
ところが、⑧では「文治との初対面は昭和10年3月」のことと読め、檀一雄と中村地平が
同席したと記している。しかし、場所は記していない。
そこで、この⑧の場所だが、太宰(飛島)の自宅で、太宰を案じて集まった井伏や
友人たちと青森から駆けつけた文治が顔を合わせた時のことと考えられよう。
ちなみに、飛島の⑨、⑩に、「文治ら十余名が一室に集まっていた」とあり、
太宰の④に、「文治が駆けつけていた。」とある。(これらが事実かは後記)
井伏と文治の初対面は、形の上ではこの時(S10/3)となるが、井伏はこの対面を、
相互に認知し合ったという意味での実質的な対面とは認識しておらず、
混乱の中、居合わせた者同士の単なるあいさつと心得ていたと考えてよかろう。
檀と中村の発言の扱いなどは、少なくとも仕送り継続を依頼する場とは思えない。
なお、相馬の⑭によれば、直ちに駆けつけたのは文治ではなく次兄の英治だという。
典拠は明らかでないが、これが事実なら太宰(飛島)宅に居たのは文治ではなかった
可能性があり、混乱の中で、井伏らは英治を文治と誤認していたかもしれない。
そうであれば、井伏は、遅くとも翌年11月にはそのことに気付いたはずたが、
⑧では特にこだわる必要もなく当時のままの認識を記したと察せられる。
なお、中村の①、飛島の⑤では、太宰(飛島)宅に居たのは単に「兄」である。
井伏の記述には漠然とした部分が多いが、「津島文治先生回想編集委員会」に寄稿する
にあたって事実を確認、整理し、⑪にある「回想記」を執筆したのではないだろうか。
相馬の⑭では太宰同行、山内の⑬では同行有無に触れず、太宰の③では同行なし、という
混乱を併せ考えると、山内、相馬の記述にある「井伏、檀、中村の関根屋訪問と
文治との面会」は実際にはなかったと推測できよう。
2..檀一雄、中村地平の記述
井伏と共に関根屋に文治を訪ね、仕送りの継続を願ったとされる檀一雄と中村地平には
このときの出来事を詳しく記した作品①、⑦があるが、文治に会ったという記述はない。
関根屋での文治との面会が事実であれば、作品中でこのことに触れてもおかしくはなく、
また、他の作品や言動などで触れてもいいはずだが、確認の範囲でだが、それはない。
これらのことは、二人が関根屋へは行っていないことを示すのではないだろうか。
つまり、二人は太宰の文学継続を願うために文治と面談をしてはいないことになる。
3.飛島定城の記述
飛島定城は、太宰と同郷、5年年長の東大の先輩で、この時期は太宰と同居(1階に
飛島一家、2階に太宰夫妻)していた。東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者だったが、
この同居は懇意にしていた文治の意に沿うもので、太宰の面倒を見ていた面がある。
太宰消息不明の直後から素早く親身な対応を行っており、それが⑤、⑨、⑩、⑫の
記述になっているが、特に注目したいのは、⑫「けんか飛一代」の回想である。
「文治は、太宰を連れ帰り、鶏と卵の世話をさせるつもりで上京したが、飛島が東京で
文学を続けさせることを進言し、文治はこれを了承して月80円か90円を送金した。」
というのである。このやり取りは、文章の流れから昭和10年3月のことと察せられる。
4.太宰治本人の記述
②に「友人たちの骨折りで、これから2~3年間は、月50円の仕送りを受けることになった。」
③に「井伏、檀、中村が神田の関根屋に文治を訪ね、もう1年間の仕送りを頼んでくれた。」
④に、船橋時代(S10/7~)のこととして、「月90円の仕送りを受けていた。」とあり、
さらに「縊死に失敗して家に帰ると、文治が来ていて、罵倒されたが懐かしく慕わしかった。」
とある。 ただ、これらは太宰の作意に基づく記述であり、事実としては参考程度に止まる。
Ⅲ.仕送り減額に関する記述の整理
この出来事の後、仕送り額は「月50円になった」とあるのは、太宰の②と相馬の⑭である。
太宰の②は「川端康成へ」で、意図的に金額を小さくしたとも考えられる文章である。
相馬の⑭は、「文治は太宰を関根屋に呼び、太宰は井伏、檀、中村に同行を頼んで
文治と面会し、仕送りは、向こう1年間、月50円に減額して行われることになった。」
とある。この根拠は次兄英治からの聞き取りのようでもあるが、はっきりしない。
しかし、上記「Ⅱ」のように、井伏ら3人の関根屋訪問は事実ではないと推測できるので、
そうであれば、この面会で50円に減額が決まったということはないことになる。
一方、太宰の④には「船橋時代は月90円の仕送り」とあり、「90円」が続いたと読める。
飛島の⑫には、飛島が文治に、太宰の文学継続を進言し「80円か90円送金」とある。
また、佐藤春夫は「芥川賞―憤怒こそ愛の極点(太宰治)」(S11/11)に、
太宰の現状について、「・・月々小百円の仕送りを受けて・・」と書いている。
これに関連し、井伏の⑪には、太宰の東京武蔵野病院退院の前日(S11.11.11)、文治は
太宰に「今後の仕送り額は月70円と提示し、太宰の願いで90円に決まった」とある。
このとき、文治の側から仕送り額の引き上げを提示したり、太宰がさらにその大幅な
引き上げを要求することは考え難く、実際は、文治は90円を70円に引き下げる提示
を行い、太宰が現状維持を願って即座に90円に決まったと見る方が現実的だろう。
つまり、昭和10年3月には「月50円への引き下げはなかった」と察せられる。
Ⅳ.結論(推察)
(1) 山内の「年譜」、相馬の「評伝」では「昭和10年3月、井伏鱒二、檀一雄、中村地平は、
関根屋に文治を訪ねた。」とあり、これが、いわば通説といえるが、根拠となり得る
記述は太宰の小説「喝采」だけではないだろうか。この小説は、「失踪」を発表した
中村地平を強く意識した作品であり、中村ら3人の行動は、太宰の作意が働いた、
あくまでも小説上のことであって、これをもって事実の根拠とするのは無理である。
さらに、「喝采」では太宰は同行していないが、相馬は「同行したという。」と
記している。相馬の「評伝」は(山内の「年譜」も)、井伏の⑪後の発表だが、
⑪や「喝采」の記述を否定する根拠ははっきりせず、上記「Ⅱ」で見たように
「井伏ら3人による関根屋訪問と文治への仕送り依頼はなかった」 と推察できる。
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*付記・・太宰の帰宅時については、他にもまちまちな記述があり、次に整理する。
・太宰が帰宅した日・時間・その様子は、当事者、研究者などに様々な記述があって、
さながら「藪の中」状態である。確かな資料類がないためで、私見で推測すると次の
ようになる。深い詮索はあまり意味がなさそうなので、推測の根拠は省略する。
「帰宅は3月18日」(一説に17日や19日以降がある)、「時間は午後10時頃」
(一説に12時前後)、「太宰は飄然と入ってきた」 「部屋には大勢の人が居た」
「首に赤い蚯蚓ばれがついていた」 というところだろう。
当夜、部屋に居たとされる人物は、初代、飛島夫妻、井伏、檀、中村、伊馬(鵜平)、
吉沢(祐)で、他にも挙がる名があるが、当事者の記述がまちまちで明確ではない。
・太宰が帰宅したとき、そこに兄は居たか? もし居たとすれば、文治か? 英治か?
飛島の⑤には「兄」とあり、太宰の④、飛島の⑨、⑩には「文治が居た」とある。
相馬の⑭では文治ではなく英治が居た可能性があるが、はっきりしない。
飛島から知らせを受けた兄が直ちに上京した(16日か17日)ことは確かだろう。
相馬は⑭で、それは英治で、文治は英治の報告を受けてから上京したというが、
相馬の取材に基づく記述とすれば、これは実際に十分あり得るだろう。
ただ、⑤,④,⑨,⑩以外の記述からは、太宰帰宅時に兄が居たとは読み取れない。
事実は不詳としか言えないが、仮にどちらかが居て顔を合わせたとしても、
ゆっくり言葉を交わせた状況ではなく、詮索はあまり意味がないかもしれない。
私は、⑤,⑨、⑩は飛島の思い違い(意図的?)で、太宰の④の「文治の罵倒」は
小説上のこと、実際には、この帰宅時に文治は居なかったと推測する。
文治による「罵倒」があったとすれば翌日以降のことになる。(後記「Ⅴ.」)
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(2) この出来事の後も、太宰は、結果として東京に留まり作家としての道を歩んでいる。
当時の月50円は、楽ではないが生活はできる水準のようだが とはいえ、従来の
月90円を一気に50円に引き下げるのは乱暴過ぎるだろう。当時の太宰の家賃
負担分は月20円である。家賃を除く生活費は70円が30円になるのであり、
この突然の大幅減額はもともと考え難いのではないだろうか。
(亀井勝一郎は、結婚時(S7)の仕送りは月60円で、それで普通に生活できたという。)
「仕送り額は、上記 Ⅲ.で見たように、50円への減額はなかった」 と推察できる。
従来通り「月額90円」の仕送りと察するが、相馬は⑭の根拠に関しては、誰が言ったか
は示さず「~という。」と記し、相馬自身が事実を確認できなかったようにも受け取れる。
Ⅴ.「太宰は東京で文学継続」・「仕送り90円」となった経緯
このとき(S10/3)、文治は上京して定宿の関根屋に何日間か滞在したが、
飛島の⑫、相馬の⑭によれば、文治は太宰を青森へ連れ戻すつもりでいた。
結果は、太宰は従来通り東京に居て作家になる道を進んでいるが、
文治と太宰は、以後のことを相談するために直接会ったのだろうか?
太宰の④には「文治に罵倒された」とあり、相馬の⑭には「文治は太宰を関根屋に
呼びだした」とある。3月下旬に関根屋で会った可能性はあるが事実は不詳である。
まして、太宰単独か、同伴者が居たかなどは不明だが、重要なのは飛島の⑫である。
これによれば、文治は怒って「とても駄目だから家に連れて帰る。弟に鶏や卵の
仕事をさせる」と言い、飛島が「文学を続けさせてもらいたい」、「金で済むなら
安いもんだ」、「好きなことを続けさせてはどうか」・・などなどと頼みこんで、
結局、文治が折れて「月に80円か90円送金」になったというのである。
この飛島の⑫と、太宰の④や相馬の⑭とが結びつくかは不明だが、文治と飛島との
間でこのようなやり取りがあったことは十分に考えられる。これを証明するような
資料類は見当たらないが、否定する資料もなく、この時、文治に対して
このように進言、助言ができる人物は井伏か飛島の他には見当たらない。
太宰の②,③の記述にある「友人」は飛島を指すと見ていいのではないだろうか。
太宰の人生の重大な岐路において、飛島のこの文治への進言がなければ、
そして文治の理解がなければ、太宰治は津島修治に戻っていたかもしれない。
「飛島定城は太宰治の文学修行の一大危機を救った人物」 と推察できる。
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*付記・・この直後の4月(S10)、太宰は盲腸手術、腹膜炎で入院、この時に治療で
使用した麻薬性鎮痛薬「パビナール」を手放すことができなくなり、中毒になった。
東京武蔵野病院に入院してパビナール中毒を完治、退院(S11/11)したが、
井伏の⑪にあるように、この時も文治は太宰を連れ帰るつもりで上京した。
井伏らの意見を容れて、太宰の東京での文学継続を了承し、仕送りは月90円と
するが、月3回、30円づつを井伏宛てに送金し、井伏から渡すことになった。
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(本項「太宰治の年譜:追加、補足など(芥川賞懇願の手紙、・・)」 R3(2021)/1 UP)
(註1)の項は、R3(2021)/10 UP)