太宰治 : 芥川賞懇願の手紙など、年譜情報の追加・補足

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太宰治の年譜は多くの刊行物、ネット上に載るが、現在一般化
している年譜類の多くは、次に掲げる山内祥史作に拠るようだ。

・筑摩書房刊『太宰治全集 13 巻末年譜(山内祥史)』(H11(1999))
・大修館書店刊『太宰治の年譜』(山内祥史著」(H24(2012)

特に、後者の単行本『太宰治の年譜』(大修館書店)は詳細で、
典拠の明示も多く、現在において最も一般的な著作といえよう。
本項はこの年譜を辿って出来事の追加、補足、修正などを行なった。


 出来事の時 記述(出来事)の概要  追加・補足・修正など 
S11(1936)1.28付   (記載なし)   (追加) 

 佐藤春夫宛書簡で芥川賞を懇願した。

 ・この書簡は、H27(2015)/9に発見されたもので、これ以前の年譜類には載っていない。
 ・長さ4メートル余りの巻紙に筆書きで、内容は第1回芥川賞を逸した無念の情と第2回の受賞懇願である。
芥川賞への執念を顕わにしており、この直後(2/5付)にも、受賞哀願の書簡を佐藤に送っている。

 (詳細は別項目「太宰治の人生と作品」参照)
S11(1936)11.12   東京武蔵野病院を退院して、杉並区天沼の白山神社裏手の光明院裏の照山荘アパートに入居した。

 (修正)

 退院して入った借部屋の所在地は
 “天沼”ではなく“荻窪”である。
 名称には二説ある。

 ・主要年譜にある所在地、名称は井伏鱒二の随筆が根拠と察するが、長尾良に、名称は”盛山館”、場所は”荻窪”などとする詳しい記述がある。
   
 なお、“天沼”は青梅街道の北側、白山神社、光明院は南側で”荻窪(現上荻)”である。(井伏は“天沼”とは書いていない)
 
 ・太宰はここが気に入らず、3日後(11/15)には井伏宅に近い天沼の碧雲荘に転居した。

 (詳細は別項目「太宰治の人生と作品」参照)
 S11(1936)11.29  小館善四郎宛に「HUMAN LOST」の一節を記した葉書を投函。  (修正)

 「「傷心。」、川沿ひの/路をのぼれ ば/赤き橋、またゆきゆけば/人の家かな。」は、葉書にはあるが「HUMAN LOST」にはない。
 
 S12(1937)7.30   檀一雄応召、昭和15年12月1日まで
3年4ヶ月の軍隊生活。
 (修正)

 檀一雄の除隊は昭和14年12月で、
 軍隊生活は2年4ヶ月である。

 ・一般に、檀一雄の全集等に載る年譜(自作)により「昭和15年除隊」とされるが、これは事実ではない。
根拠は、昭和14年12月の日付の檀の手紙、葉書など。

 (詳細は別項目「浅見淵」参照)
S15(1940)12.1   檀一雄が久留米の兵営で除隊、渡満。  (修正)

 前記の通り、檀一雄の除隊は1年前のことでその12月(S14)下旬に渡満した。

 ・ちなみに、太宰は、葉書(S15.6.21付)で、渡満する浅見淵に、満州で檀に逢ったらよろしくお伝えくださいと依頼している。

 (詳細は別項目「浅見淵」参照)
S17(1942)2.5    阿佐ヶ谷会で奥多摩(御嶽)に遊んだ。
蕎麦処玉川屋で、従軍中の小田嶽夫、井伏鱒二に寄せ書きをした。
 (補足)

 参加者6名は、徴用で従軍中の井伏鱒二、小田嶽夫に寄せ書きをしたが、寄書きの内容は不明である。

 ・御嶽の玉川屋(蕎麦屋)には6名の寄せ書き(色紙2枚)が現存するが、同内容のものが戦地に送られたという資料は見当たらない。
 (太宰はこの色紙には「川沿ひの路をのぼれば/赤き橋またゆきゆけば/人の家かな」と記している。)

 ・参加した上林暁、木山捷平には、井伏、小田だけでなく、中村地平にも送ったという記述がある。

 ・戦地への寄書きは、シンガポールの井伏の許には届いており、井伏の青柳瑞穂宛礼状が残っている。
  
 (詳細は別項目「阿佐ヶ谷会の遠足」参照)
S19(1944)4.14    中村地平の帰郷送別会。  (修正)

 出席は、中村、井伏鱒二、上林暁、木山捷平と太宰で、二次会は小田嶽夫が馴染みの店に行った。
 この時、小田は疎開準備のため帰郷中で欠席だったが、太宰も顔見知りになっていた店なので入れた(酒類は闇営業)。
 
 ・太宰は、この様子を4/20付葉書で小田に知らせた。律儀な太宰、戦時下の世相を物語るエピソードである。

S19(1944)11.15付  小山書店が「津軽」の初版を発行。   (補足)
 
 初版「津軽」の本文に載る「津軽図」と
「挿絵4点」は、太宰の自筆である。

 ・根拠:妻美知子の「津軽・惜別-後記」
             (S29/10:創芸社)など


 小山書店は太宰の死後(S23/10.)、改版して「津軽図」と「挿絵3点」が載る「津軽」を再出版したが、この図絵は初版とは異なる。

 また、全集、文庫本、文学館発行の図録などに「津軽」の図絵が載り、中に「太宰自筆」との表示がある図絵もあるが、その大部分は初版の図絵とは異なる。

 (詳細は別項目「太宰治の人生と作品」参照)
  S21(1946)11.25   織田作之助、坂口安吾、太宰治の三人が実業之日本社、次いで改造社主催の二つの座談会に出席。
 
 改造社主催の座談会終了後、三人は銀座のバー“ルパン”で懇談、そこへ、写真家の林忠彦が来て写真撮影。
 (補足)

 実業之日本社の座談会で三人は志賀直哉を酷評、これが「文学季刊」(S22/4)に載った。
 志賀と太宰らとの批判の応酬に関連する。

 林の目的は織田撮影だったが、太宰の要求で仕方なく最後の1枚で太宰を撮った。
 現在では、これが太宰の最もポピュラーな写真の一枚となり、林の名を高めている。

 (詳細は別項目「太宰治の人生と文学」参照)
 S21(1946)12.14  会合に三島由紀夫も出席、太宰と対面。  (補足)

 両者の対面は、この時の1回だけである。

 会合の日の根拠は、三島の「会計日記」の記述 「12/14(土) 高原君のところにて酒の会。太宰、亀井両氏みえらる。」である。
 
 この会合で、三島は太宰に向って「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです。」と言った。
 
 三島の太宰文学批判を端的に表すことで知られるが、この時の会話の雰囲気は、三島と野原一夫(会合出席者の一人)の記述に相違があり、判然としない。

  ・三島由紀夫著「私の遍歴時代」(S38:東京新聞)
  ・野原一夫著「回想 太宰治」(S55::新潮社)


 (三島は会合日を「斜陽」の後の秋(S22)頃とし、「斜陽」に触れて批判し、野原は1月26日(S22)とするなど、両者の記憶は不確かで詳細は不明だが、後に三島が名を成して、この言葉だけが一人歩きの感がある。)
  
 (詳細は別項目「太宰治の人生と文学」参照)
S22(1947)元旦   亀井勝一郎と山岸外史などと井伏鱒二宅を年始訪問。  (修正)

 この年(S22)の正月、井伏は郷里の福山に疎開中で、年始に上京した資料はない。
 山岸は山形県に疎開中で上京はない。
 太宰らの井伏宅年始訪問は誤認である。

 ・年譜は堤重久著「太宰治との七年間」(S44)が根拠と察するが、この書の「再会と訣別」の項には混乱があり、この記述は根拠にならない。

 (詳細は別項目「太宰治の人生と作品」参照)
 S23(1948)元旦  美知子とともに井伏鱒二宅に年始の挨拶に行った。帰ってから茶の間で泣いたという。  (修正) 

 太宰がこの元旦に井伏宅を訪問したという資料は多いが、美知子同行は確認できない。
 美知子著「回想の太宰治」からは同行していないと読める。
 山崎富栄の日記(1/1)には、「お嬢様とご一緒の様子」とある。

 ・この日の同行者、井伏宅での出来事については関係者らによる多くの記述があるが、事実は判然としない。

 ・“太宰が井伏らの陰口を聞いた”という前記の堤の著書の内容が広まっているが、その記述は信憑性に欠ける。

 ・ただ、太宰は帰宅後に、「みんなが自分をいじめるといって泣いた」(美知子の前著)のであり、この直後に激しい先輩批判が始まるなど、文学活動、人生に大きな影響を及ぼした訪問だったと察せられる。
 居合わせた先輩らに貶されたことは十分考えられ、半年後の心中死に繋がる一日だったと位置付けられる。

 (詳細は別項目「太宰治の人生と作品」参照)
S23(1948)1月上旬  喀血   (補足)

 典拠は山崎富栄の日記(1/10、1/16)と察するがこの記述は太宰の言であり、太田静子への送金遅延の言訳でもある。
 根拠としては薄弱だろう。

 ・昭和22年以降の太宰の体調不良に関しては、富栄以外の太宰を身近かに知る人物の記述は少なく、受診歴、病名は不詳で、結核による症状だったか疑問もある。
 年譜の記述には根拠など再確認の余地があろう。


 ただ、富栄の日記(S23.1.31)に野川家同居人一同として太宰の結核に関する申し入れの記述があり、何らかの症状があったことは認められる。

 (詳細は別項目「太宰治の人生と作品」参照)
S23(1948).4.3~中旬    (記載なし)   (追加)

 井伏鱒二の知人が富栄の部屋で睡眠薬を大量に服用する出来事があり、井伏が訪問して太宰に会った。
 この時ないしこの頃、井伏は太宰に「如是我聞」執筆を止めるよう忠告したと推察できる。

 ・根拠:山崎富栄の日記(4/3、4/14)など

 太宰は、手帖に「井伏鱒二ヤメロといふ、」に始まる長文のメモを書いた。

 ・太宰は、日頃からポケット手帳を執筆メモに使用していた。特にこの年(S23用)は、井伏、志賀らに対する心情などが吐露されている。
 最晩年の太宰を知るうえで貴重な資料である。

 (詳細は別項目「玉川上水心中の核心」参照)
 S23(1948)5.12   「『グッド・バイ』も、ぜひここで書きたいので、部屋を空けておいてください」と言い残して、帰京。  (補足)

 部屋の貸主、小野沢清澄に言い残した言葉の典拠は、次の通り。

 ・榎本了著「埼玉文学散歩」(S39)
  
 (本書の存在はあまり知られていないが、心中死の1ヶ月前、大宮での「人間失格」執筆時の太宰、富栄の様子を知ることができる貴重な文献である。)

 (詳細は別項目「太宰治の人生と作品」参照)
 
 S23(1948)5.12-14   「如是我聞(三)」を脱稿。   (補足)

 本文の最後に、「この時、雑誌の座談会の速記録を読んだ。」として、志賀直哉ら出席者を痛罵している。
 
 ・この雑誌は「社会」(S23/4:鎌倉文庫)である。

「文芸」(S23/6)とする文献類が多いが誤解である。
   
(詳細は別項目「「如是我聞」と志賀直哉発言」参照)
 S23(1948)6.12   (記載なし)  (追加)

 太宰は宇治病院に寄宿の古田晁(筑摩書房社長)に会うため、単身で大宮へ行った。
 古田は帰郷中で会えず、夕方、「人間失格」執筆で世話になった小野沢清澄に会った。

 このとき、太宰は「「グッド・バイ」がちょっとも書けないでね・・」と寂しそうにもらしてそのまま立ち去った。
 
  典拠・榎本了著「埼玉文学散歩」(S39)
    ・「まちかど新風土記」(中山道の巻)
        (S52/2:読売新聞社浦和支局)

   ・「大宮文学散歩」
          (H3:大宮市教育委員会)


 ・この出来事を載せている評伝、年譜類は少ないが、
 典拠はしっかりしており、心中死前日の重要な事実
 と認められる。

 (詳細は別項目「玉川上水心中の核心」参照)

                (本項「太宰治の年譜:芥川賞懇願の手紙など、情報の追加、補足」 R3(2021)/1 UP)
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