太宰治と三島由紀夫の対面・会話の実際と三島の”太宰嫌い”昭和21年(1946)12月14日夜、太宰治と三島由紀夫はある会合で同席し、生涯一度の
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1.太宰と三島、生涯一度の対面の会合 出席者の回想記を総合すると、次のようになる。 (各人の回想は、三島の突然の衝撃的な死を受けて、薄れた記憶を懸命に辿ったもので 曖昧さや不一致の部分があるが、それについては諸資料に照らし総合的に判断した。) (1)会合(飲み会)の計画と出席者 ①出席者 昭和21年(1946)の暮、東京府立五中(現・都立小石川高校)出身の若い文学仲間が 酒を飲む会をやろう、そこに太宰治と亀井勝一郎に来てもらおう、という話になった。 府立五中には「開拓」という校内誌(年1回)があり文学好きな生徒が投稿していたが、 昭和19年3月卒業の投稿者たちは戦後も交友を続け、その仲間が計画した。 出席者は、出席者の回想を整理すると次の通りで、推進役は出英利と相沢諒、 太宰、亀井、三島が出席した経緯は、おおよそ次のように察せられる。
・会合時在籍欄の「現・」は新制度の大学名(旧制度の予科は廃止された)。 ・越次俱子著書によれば、もう1名、五中出身の早稲田大学生(19)が出席、 また、高原の回想にある川路明の不在、原田柳喜の年齢も同書による。 ②太宰の出席 敗戦による混乱のさ中だったが、出版界は雑誌の復刊、創刊、ベテラン・中堅作家の 復活、新人の台頭(第一次戦後派と称される)などで活況を呈し、太宰は無頼派作家 として人気作家のひとりになっていた。(三島は、後に第二次戦後派と称される。) このとき太宰は37歳、疎開先の金木町から帰京すると(S21/11)その月に 織田作之助、坂口安吾との座談会に出席するなど活発な文学活動を続けており、 今回の会はその翌月のことだった。 (11月の座談会での志賀直哉批判や銀座のバー・ルパンでの写真がよく知られる。) ・出席者中、出、高原、中村、矢代は太宰に強い関心を持つ、いわばファンだが 著名な作家に直接会って話をしたいという気持は他の全員にも共通だった。 ・太宰の出席は、野原一夫によれば、出が当時新潮社の編集者として太宰に 親しく接していた野原に仲介を依頼し、野原が出と同行して太宰を訪ねた ところ、太宰は出席を簡単に承知し、亀井との同席も歓迎したという。 出英利は高名な哲学者、出隆の子息で、野原は英利の兄(哲史:満州で戦死))とは旧制 浦和高校、東大同期の親友だったことから既知の間柄にあり、五中後輩という関係もあった。 出は、この後、太宰と懇意の林聖子(「メリークリスマス」のモデル:後にバー「風紋」経営)と 同棲したが、昭和27年1月8日未明、酩酊して中央線西荻窪の踏切で事故死した。 この踏切では前年(S26)3月に作家の原民喜が自殺しており、出も自殺との見方がある。 ③亀井の出席 ・亀井の出席は、中村稔によれば、相沢が詩の雑誌「若い人」〈仲村久慈主宰)に属し 亀井に心酔していたことから亀井に面識を得ていて依頼したのではないかという。、 亀井は戦中は日本文学報国会の評論随筆部会幹事を勤めたが、このころの研究テーマは 著書「信仰について」(S17)、「大和古寺風物誌」(S18)、「親鸞」(S19)、などが示すように 仏教だった。 戦後もこの姿勢は続き、評論家として高い評価を受け、講演は好評で相沢のように傾倒する 若者も多かっただろう。 太宰とは住居が近く、個人的に親密で二人が揃って出席したのは自然な流れだろう。 三島が大宰批判を繰り返したことを知る立場だったが、これに触れた文章などは見当たらない。 三島の自決(S45)前に食道がんで他界(S41/11:59歳)している。 ④三島の出席 ・三島由紀夫(本名・平岡公威(きみたけ))を誘ったのは矢代静一である。 矢代によれば、三島との交際は昭和21年秋頃からで、この会合の直前からである。 矢代は出に誘われた時に三島も入れてくれと頼み、出がこれを了承したという。 三島を誘うと、三島はちょっと躊躇したが、結局同行することになった。 三島はこのとき21歳、東京帝国大学法学部の学生だった。 19歳で初の小説集「花ざかりの森」を刊行(S19:七丈書院)、「煙草」が川端康成に 認められて「人間」(S21/6)に載り、「岬にての物語」(S21/11:「群像」)を発表 したが、まだ無名の学生作家という存在だった。 ちなみに、三島は対面の翌年11月(S22)に東大を卒業、大蔵省に入ったが 作家専業を目指して退官(S23/9)し、「仮面の告白」(S24/4)を執筆した。 「潮騒」(S29)、「金閣寺」(S31)などで作家として名声を得たが、独自の 国体論、国防思想を持ち、昭和45年(1970)11月、自衛隊市ヶ谷駐屯地に 乗り込み、自決した(45歳)。 来年(2025)1月14日、生誕100年を迎える。 (2)会合(飲み会)の開催 ①開催日時の判明 昭和21年12月14日(土)夜の開催だった。 ・この日付の特定は、平成17年(2005)に発見された三島の「会計日記」による。 それまで、この日にちは出席者の著作などでは判然とせず、昭和21年暮とか、 昭和22年1月と書かれ、三島自身も昭和22年秋頃とするなど混乱していた。 ・この「会計日記」は、他人の目に触れることは想定せず、昭和21年5月11日から 翌22年11月13日までの金銭出納とともに行動記録がメモ的に書かれており、 12月14日(S21)に次の通りある。 「〇12/14(土) 帰途カマクラ文庫へ寄り / 木村氏に原稿みてもらふために渡す / 午後四時中野で待合せ。 / 高原君のところにて酒の会、 / 太宰、亀井両氏みえらる。/ 夜十二時帰宅」 (「/」は改行) ・これにより初めて開催日(=二人の生涯一度の対面の日)が判明、特定された。 ②開催の会場(場所) ・三島の日記にある通り、会合の場所は「高原君のところ」である。 ・高原紀一は、中央線中野駅からバスで20分ほどの練馬区豊玉中(当時は板橋区)に ある清水一男所有の家の一室に下宿していた。 出もここに下宿しており、会場として好都合だったのだろう。 ・練馬区は昭和22年(1947)8月に板橋区から分離独立しているので、当時、 豊玉地域は板橋区だった。西武池袋線桜台駅と同新宿線沼袋駅に近い。 高原によれば、この家は文字通り畑の中にポツンとある二階建ての一軒家だった。 ・越次俱子によれば、後に、この家には第一次戦後派と称される作家梅崎春生が住んだ。 ・中野駅からのバスはそれほど頻繁にあるわけでなく、太宰、亀井、野原、三島、 矢代、出、原田らは同じバスになった。 矢代によれば、出と原田は一升瓶を大事そうに抱えていたという。 (高原は、三島は遅れて来たと書いているが記憶違いだろう。) ③酒、食料の調達 ・敗戦後の混乱のさ中、物資の不足、中でも食料事情は最悪の状況だった。 ましてや酒の入手は難しく、20歳前後の若者が飲み会を計画できるような状況 ではなかったが開催できたのは相沢諒がいたことによるとされる。 ・中村によれば「相沢の父君は本庄の郊外の酒造家の出身」で、酒があれば 食用油等に変えられる、つまり酒も食料も入手しやすかっただろうという。 高原は、蓮根だのさつま芋だのを料理の知識がない私が揚げたが、油の温度が 低すぎ、ペチャっとした何とも奇妙な野菜揚げを山のように皿に盛ったと書いている。 出席者は一様に酒も食べ物も十分に用意されていたというが、高原は「今どきの 若い人には想像もつかないような食糧難の時代だったから、私は平然としていたが、 これも思えば荒っぽいモテナシだったに違いない。」と回想しているのが面白い。 (相沢諒は駒澤大学に進んだが、重い結核に罹り、不治と知って服毒自殺した。) (3) 会合(飲み会)の進行、雰囲気 ・三島の「私の遍歴時代 8」によれば、場所は二階の12畳ほどの座敷で、同書は 次のように続く。少し長いが引用する。(高原は8畳間と書いている。) 「上座には太宰氏と亀井勝一郎氏が並んですわり、青年たちは、そのまわりから部屋の 四周に居流れていた。私は友人の紹介で挨拶をし、すぐ太宰氏の前の席へ請ぜられ 盃をもらった。場内の空気は、私には、何かきわめて甘い雰囲気、信じあった司祭と 信徒のような、氏の一言一言にみんなが感動し、ひそひそとその感動をわかち合い、 またすぐ次の啓示を待つという雰囲気のように感じられた。これには私の悪い先入主も あったろうけれど、ひどく甘ったれた空気が漂っていたことは確かだと思う。」 ・三島以外の若者たちは、後年、三島が衝撃的な死を遂げたことでこの会合の 記憶を辿ることになったが、四半世紀前の飲み会のこと、普段は思い起こすことも なかったようで、中村も矢代も高原も野原も記憶は薄れている。 中村、矢代によれば、五中出身の若い仲間たちはこの会は専ら酒を飲む会で、 太宰も亀井もそのために来たことは十分に承知しており、有名な太宰、亀井と 一緒になって、ただ飲んで話ができればそれで満足といった思いだったという。 野原と出席依頼のため太宰を訪ねた出を除く若者全員が太宰とは初対面である。 ・三島について、矢代は、太宰や自分たちが酔っ払い、乱れる中「当時酒の飲め なかった三島だけがいらいらしていたことはたしか」と書いている。 中村は「三島氏ひとりがはなはだ場違いであった印象がふかい」、「その席で、 太宰氏と三島氏との間で、たいへんシラけるような会話があった。」と書いている。 ・三島自身も「(和服で出席したのは)十分太宰氏を意識してのことであり、大袈裟に いえば懐ろに匕首をのんで出かけるテロリスト的心境であった。」と書いている。 この会合が飲み会であることを三島が知らされていたかは明記がないが、全く知ら なかったということはないだろう。 ・矢代は当時の三島を「処世的知恵はなく、ひたすら一途、純情」と表すほどで、 若気に満ちていた。矢代と原田以外は全員初対面という酒の席で、酔った太宰に 正面から物申す形になって太宰を戸惑わせ周囲の顰蹙を買う場面があったと 察せられる。 2. 三島の「私の遍歴時代」(S38):記述への疑問 (1)三島の不可解な記述 ①会合の日と三島の出席経緯・・事実ではない ・三島は「私の遍歴時代」で太宰の「斜陽」における華族の言葉遣いなどを批判し、 会合への出席経緯について、「斜陽」発表でますます高まった太宰人気に反発し、 依怙地になって大宰嫌いを標榜したところ、連載が終った秋ごろに、友人たちが 太宰に会わせることに興味を持ち、矢代に誘われて一緒に行った、と書いている。 *しかし、三島のこの記述は明らかに事実でない。 本人の記述にもある通り「斜陽」の連載は昭和22年7月~10月だが、会合は その前年(S21)の12月である。 ②途中で辞去した・・事実ではない ・三島は「気まずくなって、そのまま怱々に辞去した」と書いている。 *しかし、実際には三島は会の途中で退席しておらず、最後まで居た。 中村は「三島氏がその会がおひらきになるまで、一座につらなっていたことは 間違いない。」とし、帰途、渋谷駅まで三島と同行したことを明記している。 高原は「その夜、三島さんは先に帰った。」と書いているが、これは、会の終了後に 太宰らと一緒ではなく中村と一緒に別行動したということだろう。(太宰、高原らは 西武新宿線の沼袋駅に向かったが、中村、三島は同池袋線の桜台駅のようだ。) ③「森鴎外に関する問答」・・重要な事実の欠落 ・出席者の多くが、三島は太宰に森鴎外について質問したこと、これに太宰はまとも には答えなかったことを記憶している。 ・矢代によれば、三島は森鴎外についての自分の考え方を披瀝したが、太宰はひらり ひらりと身をかわしていた。当時の三島の鴎外についての崇敬ぶりはすさまじく、 私もつられて鴎外を学んだという。 ・高原によれば、太宰の韜晦を込めた答えをまともに受けた三島は改まった表情で 森鴎外論を展開し始めたが太宰はこれを相手にせず、一座には妙に白々しい 空気が流れたという。 ・野原によれば、この直後か、しばらく時間がたってからかに太宰に向かって「僕は 太宰さんの文学はきらいなんです」と言ったという。 *しかし、三島は、このことについて全く触れていない。 これに関して高原の記述が気になるので次に引用する。 「どうしてもわからないのは、白々しくなったのが”森鴎外論”が発端だったことを三島さんは きれいに忘れて、「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」という三島さんの発言を発火点に すえていることである。」 (2)三島の「太宰さんの文学はきらい」発言を巡って ①三島本人による「三島の発言と太宰の対応」 三島の「私の遍歴時代-8」から引用する。 「私は来る道々、どうしてもそれだけは口に出して言おうと心に決めていた一言を、 いつ言ってしまおうかと隙を窺っていた。それを言わなければ、自分がここへ来た 意味もなく、自分の文学上の生き方も、これを限りに見失われるにちがいない。 しかし恥ずかしいことに、それを私は、かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの 口調で、言ったように思う。すなわち、私は自分のすぐ目の前にいる実物の 太宰氏へこう言った。「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。 しかしたちまち体を崩すと半ば亀井氏のほうへ向いて、誰へ言うともなく、「そんな ことを言ったって、こうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり 好きなんだ」 ―これで、私の太宰氏に関する記憶は急に途切れる。気まずくなって、そのまま 怱々に辞去したせいもあるが、(以下略)」 ②他の出席者による「三島の発言と太宰の対応」 ・高原紀一は「三島由紀夫の知られざる秘密―太宰治との一夜―」(S46(1971)) に「そういう言葉のやりとりがあったかもしれない。」と書くだけで記憶にはない。 ・中村稔の「三島由紀夫氏の思い出」(S51(1976))から引用する。 「たしかに三島氏が太宰氏に、自分はあなたの文学を認めない、といった趣旨のことをいった ことは間違いない。太宰氏は文学論議よりも酒にしか興味がないような態度だったから、 三島氏のそうした発言じたいが、やはり場違いであった。それでもさすがに太宰氏がむっと したように、お前はなんだ、といったことをいい、まわりから誰かが、この人は三島由紀夫さん という「人間」に「煙草」を発表している小説家だと、とりなすように説明した。 すると、太宰氏が、「そんな小説家は知らねえ」と言い、ますます座が白けたのであった。 ・野原一夫の「回想 太宰治-練馬の一夜」(S55(1980))から引用する。 「ぼくは、太宰さんの文学は嫌いなんです。」 まっすぐ太宰さんの顔を見て、にこりともせずに言った。 一瞬、座が静かになった。 「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」 吐き捨てるように言って、太宰さんは顔をそむけた。 そのあとのことは記憶が薄れる。そうだよ、きらいならこなけりゃいいんだ、と英利君か 高原君がどなったような気もするが、白々しい空気が流れたのはわずかの時間で、 太宰さんは素早くほかの話題を提供し、みんなを笑わせ、座はまたもとのにぎやかさに 戻ったように思う。」 (中略) 「私の記憶と、かなり違うようである。三島氏は、「かなり不得要領な、ニヤニヤしながらの 口調で」その一言を言ったそうだが、私には、そうは思えなかった。私はそのときの三島氏 の顔付きを鮮明に憶えているのだが、三島氏は眉ひとつ動かさず、能面のように無表情 だった。かなり緊張していたのではなかろうか。その口調は、はっきりしていたが、声の 抑揚がなく、棒読みのような感じだったと思う。。 そのあとの太宰さんの返答も、私の記憶と三島氏の記憶とではちがうのだが、あるいは、 「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか。」そう言ったあとで、三島氏が記憶していたような ことを、太宰さんは言ったかもしれない。もし言ったとすれば、その場の空気を白けさせない ために、太宰さんは無理をしたのである。」 ・矢代静一の「旗手たちの青春」(S60(1985))から引用する。 「正直言って私は、三島の「太宰さんの文学は嫌いなんです」という一言を聞き洩らしている。 従って、そのあとの太宰の釈明も耳にしていない。多分、誰かと雑談していたのであろう。 しかし、たとえ聞いていたにしても、「自分の文学上の生き方もこれを限りに見失われる」 ほどの切羽つまったものとは受取らなかったろう。この二人の対話はドラマで言うなら、 甲の論理と乙の論理がぶつかりあって進行する思想劇ではなくて、むしろ三十七歳の 上戸と二十一歳の下戸のトンチンカンな会話でくり拡げられたフランス風の心理喜劇 なのであった。」 3. 三島の”大宰嫌い”発信を辿る 三島はこの会合で太宰と対面した後、「私の遍歴時代」(S38)までの17年間、 ”太宰嫌い”を執拗に発信している。 確認した範囲だが「太宰嫌い」に関する記述、発言を次に辿る。 ・S23(1948)/9 「婦人文庫」(鎌倉文庫)に「情死についてーやゝ矯激な議論ー」発表 太宰の心中死(S23/6)があって、直後に鎌倉文庫が情死を特集した中の一篇だが、 三島は「あの小説家の死については私は書くべき何ものも持ちません。」と冒頭に 書いて、情死を肯定的に捉えた持論を展開している。 本論は以前からの持論であり、冒頭にある太宰の心中死を突き放したような記述は、 太宰の場合については別の見解があるという示唆だろう。 (三島:S24(1949)/7 「仮面の告白」(河出書房)を刊行) ・S25(1950).2.4 「夕刊 朝日新聞」( ”太宰は大きらい” 廿五歳の流行作家 三島由紀夫) 「人物天気図」欄の写真入りインタビュー記事から抜粋。 「問「だれを尊敬しますか? 答「やっぱりゲーテ。古典的な均整の取れた理想、 ギリシャに通じますね。」 「日本では?」 「川端康成先生」ききもせぬのに親切に、 そしてハゲしい調子で「太宰治大きらい。あれは滅亡的センチメンタリズムよ」 (三島:S29(1954)/6 「潮騒」(新潮社)を刊行・・新潮社文学賞受賞) (三島:S30(1955)/9 ボディビルの練習開始) ・S30(1955)/11 「小説家の休暇」(講談社)刊行 日記形式の随筆で「六月三十日(木)」の項で太宰の容貌、人間性、文学などすべてを 猛烈に嫌悪し冷静な筆致で否定している。 三島の太宰観、人生観、文学観を端的に示しているが、その中で次の部分を抜粋する。 「私とて、作家にとっては、弱点だけが最大の強味みとなることぐらい知っている。しかし 弱点をそのまま強味へもってゆこうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。」 「太宰のもっていた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や 規則的な生活で治される筈だった。」 「強さは弱さよりも佳く、鞏固な意志は優柔不断よりも佳く、独立不羈は甘えよりも佳く、 征服者は道化よりも佳い。」 「私の感じるのは、強大な世俗的徳目に対してすぐ受難の表情をうかべてみせた この男の狡猾さである。」 (三島:S31(1956)/1-10 「金閣寺」を「新潮」に連載・・読売文学賞受賞) ・S31(1956)/2 「出版だより№1」(奥野健男著「太宰治論」に挟み込みの推薦文:近代生活社) 奥野健男著「太宰治論」刊行に際し、近代生活社はこの本の推薦文を載せたチラシを 「出版だより№1」として本に挟み込んだ。(全集に付属の「月報」のような印刷物) B5判1枚に両面印刷で、推薦文は伊藤整、亀井勝一郎、小山清、荒正人、三島由紀夫 の順で載っている。 次に三島の文の一節を抜粋する。 「私はたった一度、太宰氏に会ったことがある。学生時代、文学青年の友人に誘はれて 太宰氏が大ぜいの青年に囲まれて、何かひろい陰惨な部屋で酒を呑んでいるところへ 私は入って行った。私は太宰氏の正面に坐つてゐた。そして開口一番「僕は太宰さん の小説がきらひなんです」 と言つた。氏ははつきり顔色を変へて 「何ッ」 と言つた。それからしばらくして、思ひ返したやうに、うつむいて、横を向いたまま、 「なあに、あんなことを言つたつて、好きだから来るんだ。好きでなくて、こんなところへ 来るもんか」と言つてゐた。 亡き太宰氏よ。日本人といふものが、皆が皆、女のやうに、「あなたなんかきらひ」と 云つて愛情を表現するとは決つてゐないのである。それが証拠に、あれから十年後、 あなたの容貌にまでケチをつけてゐる男が、ここにちゃんと生きてゐるのである。」 (ここでは「学生時代」と明記しているが、7年後の「私の遍歴時代」では「「斜陽」の 連載がおわったころといえば、秋ではなかったかと思われる。」とし(三島は11月 (S22)に東大を卒業、12月に大蔵省に入省)、また「小説がきらい」を 「文学はきらい」にしている。 同じ題材だが時期は曖昧になり、全体的な意味合いも変化している。 執筆目的が異なるとはいえ、三島の意図に留意すべき余地はあるだろう。) (三島:S36/1 「憂国」を「小説中央公論」に発表) ・S38(1963)/1-5 「私の遍歴時代」(「東京新聞」20回連載) (前記引用部分のほか) 太宰の「虚構の彷徨・ダスゲマイネ」(S12)について、 「それらの自己戯画化は、生来私のもっともきらいなものであったし、作品の裏にちらつく 文壇意識や笈を負って上京した少年の田舎くさい野心のごときものは私にとって最も やりきれないものであった。 もちろん私は氏の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた 作家もめずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがっていた 部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。」 ・S39(1964).5.29 NHKラジオ番組インタビュー「国語研究 作家訪問 三島由紀夫」 放送の中の高校生のインタビューを有元伸子(広島大学教授)が「三島由紀夫と太宰治」 (「太宰治研究20」(H24/5:和泉書院)所収)で文字起こししている。 ここで三島は、高校生に太宰批判をしていることを問われ、次のように答えている。 「自分は太宰と似たところもあると思う。似てるやつというのは癪にさわるでしょう。 自分は太宰に対してそのようなものがあると思う。だから、危険に感じるのは、 もし自分が太宰が好きで太宰に溺れれば、あんなふうになりはしないかとという 恐怖感がある。だから自分は違うんだという立場を堅持しなければ危ないと思った。」 ・S42(1967)/11 「坂口安吾全集-推薦文」(冬樹社) 「何たる悪い世相だ。太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、 石が浮かんで、木の葉が沈むやうなものだ。 (中略) 太宰が甘口の酒とすれば、坂口はジンだ。ウォトカだ。純粋なアルコホル分は こちらのはうにあるのである。」 ・S43(1968).1.9 「週刊プレイボーイ」誌…大藪春彦・三島由紀夫の対談「武器の快楽」 三島が「太宰なんかなんだ、あんなもの」と大宰に触れて、次の会話になった。 大藪「ちょっと一言だけ。太宰治は、戦争中はやはりいい仕事をしたんですよ。 ああいうところは認めてくださいよ。」 三島「だめ、認めない。誰が何といっても認めない。ぼくが大宰がきらいなのは、青年の 欠点を甘やかすということがきらいなのよ。」 大藪「「斜陽」なんかは吐き気がするけど、「かちかち山」なんか、ぼく、いいみたいなきが するんだ。」 三島「作品としてはいいよ。もっといえば、太宰は才能のある、立派な作家ですよ。だけど、 大宰という存在そのものは唾棄すべきもんですよ。」 大藪 ……(不満そうに沈黙)。 ・S43(1968).6.16 一橋大学におけるティーチ・イン(テーマ 「国家革新の原理」) 肉体を鍛えるなど文学者としての行動意図についての学生の質問に、自分の文学を 護るためで、日本の文学の最も優雅な、最もなよやかなものはこうしないと護れないと 思う。武装ですから、私のは。というように答え、太宰については次のように答えた。 「私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど、おそらくどこか 自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反撥するし、 だからこそ逆の方に行くのでしょうね。おそらくそうかもしれません。」 ・S45(1970).10.7 村松剛との会話(村松剛著 「三島由紀夫の世界」(H2/9)) 自衛隊市谷駐屯地で自決の前月、村松剛との会食での会話。 三島「おれはねえ、村松君、このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、 嘔気がするんだよ。」 村松「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか。」 三島「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ。」 村松「太宰の苦悩なんか、機械体操でもすればなおるはずではなかったの?」 この僕の質問には、彼は答えなかった。 (三島:S45.11.25 自衛隊市谷駐屯地に乗り込み、自決) 4.三島の”太宰嫌い”の胸中は・・(私見) (1)”太宰嫌い”はいつから? ・矢代の「含羞の人」(S61(1986))に、矢代が三島を会合に誘った時、三島は躊躇 して、「でも‥僕、あまり太宰さんの本、読んでないの。真面目に読んでないし・・」と 言ったとある。 三島は直前(S21/12上旬)までは太宰に特別の意識はなかったことが分かる。 ・出席を決めて太宰の作品を読み直し、会合の初対面で本人に「太宰さんの文学は きらい」(あるいは「太宰さんの小説がきらい」か?)と言ったことになろう。 ・この日は酔った太宰に適当にあしらわれたことてプライドを傷つけられ、屈辱を 味わった。しかし、”太宰嫌い”を公言するのは、しばらく経ってからである。 ・会合の翌年、昭和22年10月8日付「川端康成宛書簡」の一節に次のようにある。 「太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的 完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまってをります。完成の一歩手前で 崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学は けっして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完ぺきであらねば なりません。「斜陽」からこんな無意味な感想を抱いたりいたしました。」 「斜陽」は「新潮」の「7月号~10月号」の4回連載で、9月号(S22)までを 読んでの感想だが、後に批判した華族の言葉遣いや行動に疑問を持ったなら、 ここにそれを書くか、「斜陽」には触れないか、のどちらかだろうがいずれでもなく、 感銘を受けた、芸術的完成を予見、としており、この段階ではむしろ肯定的に 捉えているのである。 (「斜陽」における華族の言葉遣いや行動については、志賀直哉が太宰の死の直前の 座談会で批判(「文藝」:S23/6)しており、三島は「私の遍歴時代」(S38)で批判した。) また、太宰の心中直後の評論「情死について」(S23/9)は、情死を肯定する 持論である。太宰の心中はあえて切り離しており、三島の複雑な心情が窺えるが 冷静な対応といえる。 ・冷静な太宰観を示してきた三島が、”太宰嫌い”を感情顕わに公言するように なったのは「仮面の告白」(S24/7)で名が知られるようになってからで朝日新聞 (夕刊:S25/2)のインタビュー記事が最初だろう。 (2)なぜ、”太宰嫌い”? ・朝日新聞インタビュー(S25)で”太宰嫌い”の理由を「滅亡的センチメンタリズム」 とし、次いで「小説家の休暇」(S30)で太宰の容貌から行動、性格まで人間性を全 否定し、太宰の特性を自己欺瞞、治りたがらない病人、狡猾などとして嫌っている。 そして「私の遍歴時代」(S38)で、「これほど私に生理的反発を感じさせた作家も めずらしいのは、あるいは愛憎の法則によって、氏は私のもっとも隠したがって いた部分を故意に露出する型の作家であったためかもしれない。」とし、嫌悪する 理由に触れている。 ・太宰は、自分が持つ心身の虚弱性、劣等感、そこからくる人間社会での生き難さを そのまま小説の主題にした。それは若者の多くに共通する悩みでもあり、共感が 得られやすいが、三島は、それは自ら克服すべき対象と捉え、葛藤の中でその 努力、行動をしなければならないとし、大藪との対談では「青年の欠点を甘やかす ことがきらい」とも言っている。 ボディビルなどで肉体改造、強化に努めたのはその実践だろう。 このことは、この後の学生との対話で、自分の根底に太宰に似たところがあるから こそ反撥し、逆の方に行く。太宰とは違うという立場を堅持するために”太宰嫌い” を標榜したと明解に述べている。 ただ、自決の1か月前の村松との会話で三島が認めた「太宰と同じ」は、「家庭の幸福は悪」 は同じでも、その「悪」の認識には違いがあるはずだが、この時三島はすでに決起、自決を 決めており、この会話を続けるのは無意味として村松の問いに答えなかったのだろう。 (3)なぜ、事実ではない記述? ①「私の遍歴時代」(S38)の会合日、出席経緯、途中退席は事実でない。 三島の「太宰さんの文学はきらい」という発言と太宰の返答、動きについても、 他の出席者の記述は曖昧で一様でなく、特に太宰の「好きだから来ている」と いう発言は事実かどうか疑わしい。事実は不詳というべきだろう。 森鴎外に関するやりとりは重要な事実と捉えるべきだが、これに全く触れていない のも妙で、これらを総合すると、この会合の太宰に関する部分は事実に沿うという のではなく、三島の意図に合わせた小説的作品の感が強い。 矢代は、後に「往事渺々」(H8/7)に「ひょっとしたら、この三島の文章は、 彼の創作なのではなかろうか。あとからつけた理屈ではないのか?」と書いて いることに注目すべきである。 この意味で、三島の発言を聞いたという詳細な描写がある野原の記述の信憑性も 気になるところである。 ②では、なぜ「私の遍歴時代」に このような書き方をしたのか・・ このころ、三島は日本を代表する作家のひとりとして名を成し、文学以外の幅広い 分野で活躍していた。三島にとって太宰はもはや過去の人であり、意識になくても おかしくない存在と思えるが、なぜ二項目にもわたって、しかも創作を疑わせる ような記述までして大宰を貶めたのか理解に苦しむところだ.が、次のように 考えられないだろうか。 ・太宰は没後15年になるが、その人気は衰えず、桜桃忌で三鷹の禅林寺を訪れる 若者は増えるばかりだった。太宰作品が教科書に載る影響もあったとされるが、 昭和50年代の桜桃忌には数百人が集ったという。 ・一方、三島は、小説では「憂国」(S36)からになるが、右翼的言動が目立つように なった。神格天皇を戴く国体論を唱え、日本古来の美しい伝統を護るべきと訴え、 そのためには日本国、国家・国民は強靭でなければならないと説き、行動は 先鋭化していった。 こうした三島にとって、太宰の生き方、死に方はどうしても受け容れられず、当初は 太宰との文学の方向の違いを鮮明にするための”太宰嫌い”標榜だったものが、 ここにきて活動家の三島として太宰人気の風潮に危機感を募らせ、見過ごすことが できなくなって、太宰の作品、人格のすべてを徹底否定せざるを得なくなった。 ・この頃になると、三島の右傾化には批判も強かった。三島の政治的、社会的存在感、 影響力が増していただけに周囲との摩擦も多く生じていた。 大宰批判に劇的要素を加えることでより効果的に持論を訴え、世論の支持を得よう という意図が働いており、つまり、見方によっては太宰人気を利用した虚構だったとも いえるのではないだろうか。 ・「小説家の休暇」(S30)、「出版だより№1」(S31)の後、7年余の間における三島 の変化が「私の遍歴時代」の記述に表れ、さらに「坂口安吾全集」の推薦文(S42) ではあえて太宰を比較対象にして低く評価し、大藪との対談(S43)では、 大宰の「カチカチ山」について「作品はいいよ。」、「だけど、大宰という存在その ものは唾棄すべきもんですよ。」という過激な発言になった流れが窺える。 ・こう考えてくると、太宰を醜い卑屈な弱者と印象付けたこと、ことさらに「斜陽」批判 を挿入したこと、森鴎外に関して全く触れていないこと、は納得できるのである。 5.最後に・・ ・太宰は三島との対面の1年半後に心中死(S23/6)しており、三島のことは何も書いて いない。この間は家庭のこと、愛人(太田静子、山崎富栄)とのこと、執筆(「斜陽」、 「人間失格」、「如是我聞」など多数)で三島のことは全く意識になかったはずで、 おそらく三島由紀夫という作家の存在すら知らないままだったのではないだろうか。 ・三島は、いわば太宰の影を三島流に描き続けた末に…、ということになろうか。 先日の朝日新聞(2024.4.8付東京・朝刊)に、横尾忠則(美術家))が三島との 思い出を書いており、横尾が待ち合わせに遅刻すると、三島は「芸術は無礼で 構わないが、日常生活はそれでは困る」と説教したという。 「私の遍歴時代」などにおける”太宰嫌い”の発信はこうした芸術観によるのだろうが、 この執拗なまでの発信にはあまり美しくはない計算が働いていると感じるが如何だろう。 |
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