第三部 阿佐ヶ谷文士それぞれ (人生と文学)

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浅見 淵 (あさみ ふかし)

明治32(1899).6.24 〜 昭和48(1973).3.28  (享年73歳)


昭和8年〜13年 (阿佐ヶ谷将棋会 成長期) の頃まで


= 早稲田文学・砂子屋書房に活路 =

井伏は、浅見の阿佐ヶ谷将棋会参加は昭和15年頃としているが(「荻窪風土記 -文学青年窶れ-」)、
すでに昭和13年6月の開催記録にはその名前があるのでもう少し早い時期からのメンバーである。

本項は主に浅見の著書『昭和文壇側面史』(以下、自著と記す)と、巻末年譜(西野浩子・保昌正夫)を
参考にし、小説から、評論、編集・出版企画、早稲田の教職にと、幅広く活躍した浅見の足跡を辿る。

なお、浅見は杉並地域に居住したことはない。従って杉並区立図書館等の発行する冊子などには
阿佐ヶ谷文士として浅見の名前は載っていないが、戦前における”阿佐ヶ谷将棋会”の、
続いて戦後の”阿佐ヶ谷会”の主力メンバーであったことは確かである。


 “阿佐ヶ谷将棋会”の全体像

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *投稿 - 早稲田へ - 同人誌

浅見淵の出生地は神戸市生田区(現中央区)中山手通で、9人兄弟姉妹の次男である。
父は土木技師のため勤務地が頻繁に変わった。小学校入学(M39)は岡山県三石町だが
韓国釜山、東京などを転校の後、神戸に戻って卒業、神戸第二中学校に入学(T3)した。

中学3年生(T5)の頃からは、<文章世界>次いで<文章倶楽部>に”浅見夕煙”の名で
詩、短歌、短文などを投稿した。

大正8年(1919:19歳) 早稲田大学高等予科に入学。夏、母死去。
1年留年したが、早稲田大学文学部国文科に進んだ。
高等予科では、中河与一、黒島伝治、横光利一、富ノ沢麟太郎らが同級にいた。

関東大震災(T12/9/1)は、夏休みで帰省中に大阪で知った。

早大在学中の大正13年に同人誌<内部>を発刊。 
この年25歳、大石みさ於と結婚。

次いで翌年、逸見広、井葉野篤三らが創刊(T14/2)した<朝>に加わり、「山」(T14/9)、
「不眠の話」(T14/12:後に「傷痕」と解題)を発表した。「山」は下村千秋の推賞、激励を
受けるなど好評で、浅見の処女作、デビュー作といえるが、「不眠の話」以降は
私小説に転じ、主に自身とその身辺を題材にした短編小説を書き続けた。

大正15年、早大を卒業。卒業前後の3〜4ヶ月は新宿御苑の横手にあった出版社”聚芳閣”
に勤めた。そこには井伏が勤務しており秘書のような仕事をしていて同僚となった。
「自分が辞めると間もなく潰れたが、割りにいい本を出していた。」などを自著に書いている。

この年10月(T15)、<新潮・新人号>に林房雄、船橋聖一、尾崎一雄らとならんで短編小説
「アルバム」を発表、翌11月には、尾崎らの<主潮>と<朝>が合体した<文藝城>を創刊し、
小説「小鳥と釣」(S2/5)などを発表した。この年、弟を通じて梶井基次郎とも面識を持った。
このころから浅見は尾崎とともに早稲田系同人誌のまとめ役的存在となったようだ。

昭和3年1月には<文藝城>を主体に早稲田系の同人誌を糾合して<新正統派>を創刊、
一方で船橋、崎山猷逸らと”新人クラブ”を結成、2月にはそのメンバーが主体となって
<文藝都市>を創刊した。ここには井伏、小田、梶井も参加、一方浅見、尾崎ら<新正統派>、
つまり早稲田派は秋頃に脱退した(浅見は”追放”という:別記)ことは自著に詳しい。

このように、浅見の20代までの文学活動は早稲田の同人誌を本拠に、主に短編の私小説
を発表する一方、<文藝都市>に「作家の批評と所謂文芸批評家の批評」(S3/11)を載せる
など評論にも意欲を示し、昭和3年には<中央公論><創作月刊>にも評論を書いている。

=年譜の空白=   しかしこの後、昭和8年までの活動状況ははっきりしない。
「昭和文壇側面史」の巻末年譜によれば・・・・・

・この年(S3)「左翼文学全盛と生活難とが基因して意気揚がらず、神戸に帰郷する」(自筆年譜)
・昭和4年 (30歳) 川端康成を訪ね、その訪問記を書く(<新正統派>)。
・昭和5年  (31歳)   再度帰郷中、父死去。
・昭和8年 (34歳) 2月尾崎一雄、丹羽文雄らと<小説>を発刊。・・・と続く。

また、 「浅見淵著作集第3巻(解題)」には、自筆年譜の一節が「折柄、左翼文学全盛となり、
同8年、尾崎、丹羽たちと<小説>を創刊するまで、殆んど筆を絶つ」 と紹介されている。

文筆活動と生計との両立が困難で、人生に迷い苦闘した時期であったことが窺える。

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<早稲田文学>第3次復刊 と 浅見・尾崎

浅見の著書に「史伝 早稲田文学」がある。<早稲田文学>に連載中に逝ったので最後の仕事となったが、
<早稲田文学(第二次)>廃刊と復刊(第三次)を、浅見は現場に立ち会った者として詳述している。

極めて大雑把であるが要約すると、「<早稲田文学(第二次)>(主宰本間久雄)の末期を、尾崎一雄は
『文学創作雑誌ではなく文学研究雑誌』 と評しているが全く同感で、創作を志す文学青年の多くは愛想を
尽かして離れてしまった。この状況下、大正15年には<早稲田文学(第二次)>を廃刊して、当時
文学部の教職にあった谷崎精二(後に教授、文学部長:潤一郎の弟))の手で復刊する方向が決まった。
そこで ”早稲田系同人誌をまとめておくように” という谷崎の意向が伝えられて浅見、尾崎らは
動いたのである。前記の<文藝城>、<新正統派>の創刊はこの流れに沿うものであった。
<早稲田文学(第二次)>は昭和2年12月号をもって廃刊となったが、復刊は昭和恐慌やプロレタリア
文学隆盛の影響などで延び延びとなり、6年余を経てようやく昭和9年6月に実現したのである。」

大正末期から昭和初期の同人誌全盛の時代にあって、早稲田系同人誌の創刊、統廃合の多さが
目立つのはこのことも要因の一つであったろうし、井伏が<三田文学>(T15に第二次が復刊した)
からデビュー(S3:「鯉」)した背景でもあろうが、浅見と尾崎の親交もここから始まったのである。
ただ、復刊までの時期は、浅見も尾崎も、各々生活上の苦闘は並大抵ではなかった。

参考サイト 早稲田の文学、作家など早稲田文学のすべてを紹介 早稲田と文学

   *挫折 - 帰郷 - 再上京

浅見は<小説>の創刊号(S8/2)に短編小説「コップ酒」を発表、文学活動を再開した。
前記著作集の(解題)によれば、浅見は「コップ酒」について「 3、4年怠けてて、・・・生活の
岐路に立っていろいろ迷い、揚句の果てに、再び糞度胸を据えて小説を書いて行くことに
決心してから、最初に書いたのが『コップ酒』です。」 と<鷭>(S9/7)に記しているという。

続いて、<小説>(S8/9)に「邂逅」を、<浪漫古典>(S9/4)に「目醒時計」を発表したが、
いずれも私小説で、物語の全てが事実であるとは言えないまでも、実際の出来事が
素材になっている。ここに至る浅見の実生活と人生への思いが語られているようである。

中でも「邂逅」の導入部に書かれた帰郷と再上京は浅見の実生活に重なるようである。
”東京での売文生活に疲れ果てた主人公は、父の勧めにしたがって所帯道具を全て処分
して妻と共に帰郷すると、父は病床にあり、間もなく死去するという予期しない事態となり、
故郷では生活の目途が立たず、再上京で苦しい売文生活に戻ることを余儀なくされた。”
という設定で物語が始まる。

浅見は東京での文学生活に行き詰まり、昭和5年に妻ともども神戸へ帰ったが、父の死のため
早々に東京へ戻らざるを得ず、雑司が谷(現豊島区)界隈に住んで貧窮生活を送った。
自著に、雑司が谷では(S9頃)、「ぼくは息を殺すようにして、僅かな収入でひっそり暮らして
いた。その収入というのは同盟通信の文芸時評と、少女雑誌の翻案小説とであった。」
とある。早稲田で同級だった桜井弘の世話によるものだったという。苦しかったに違いない。

   *出会い - 復活 - 順風・発展 

     ・尾崎一雄と杉本捷雄

昭和8年の<小説>発刊以降の浅見の文学活動には目覚しいものがある。
卒業の年(T15)から尾崎一雄とは公私とも格別に親交を深めた。両者の小説にはお互いが
モデルとして度々登場するのでその親しさが分るが、この<小説>以降は後輩の丹羽も
加わって活発な同人活動を行う。小田嶽夫によれば「人間的な感じは正反対であった。」
というが、「柔の浅見」・「剛の尾崎」といった相棒で、生涯を通じての親しい間柄となる。

浅見が主体的に関わって注目された同人誌は、<文藝城>(T15)、<新正統派>(S3)、
<文藝都市>(S3)、そして<小説>(S8)、<世紀>(S9)、<木靴>(S10)、<文学生活>(S11)、
と続く。 <早稲田文学>(S9:第3次復刊)を加えてもよかろう。
これらの全てに尾崎は同人として浅見と行動を共にしている。

浅見は<小説>の発刊で前途が開けたといえようが、その費用の大部分は大阪の大地主で
資力のあった杉本捷雄(東洋大学出身)が引き受けた。当時、浅見は杉本と急に懇意に
なったというが、この出会いは浅見の人生における最大の幸運であったかもしれない。
浅見、尾崎、丹羽、杉本は、この後も共に<世紀>、<木靴>、<文学生活>の同人として活動し、
杉本は後に三好達治が推賞したという短編集「牛蒡種」(S11:砂子屋書房)を残している。

ちなみに、杉本は東洋大在学中には<白山文学>復刊に尽力し、「母心誕生」(T14/11発表)は川端康成に
注目された。戦後は古窯研究に打ち込み、関係著書が多い。兵庫県陶芸館副館長を務めた。(S45没:65歳)

     ・古谷綱武と阿佐ヶ谷界隈

この時期、浅見は尾崎と共に古谷綱武を知って(S8夏頃)阿佐ヶ谷界隈に近づいている。
早稲田の予科へ入って以降、早稲田界隈に住み早稲田人脈を中心に活動してきた浅見が
古谷と頻繁に行き来するようになり、太宰ら<海豹>同人や中村地平など「古谷サロン」に
集まる、若手の早稲田以外のほとんど無名の文学青年たちとの交友が一挙に広がった。

木山捷平の昭和8年10月17日の日記の「古谷を訪う。尾崎一雄あり。共に酒をのむ。
よっぱらって浅見淵の家に自動車で行く。」という部分からも読み取れる。
浅見が雑司が谷でパン会社の元寄宿舎の一室を借りて貧窮生活を送っていた時である。

同じ頃(9月頃)、まだ無名の石川達三が中心になって有力な同人誌に大合同を呼びかけ、
小田によれば、<麒麟>・<海豹>・<小説>・<新早稲田文学>が一つになることになったが、
肝心の書房主が突然に脳溢血で倒れて頓挫してしまったという。
この話は木山の日記(S8/9/24)にもあり、浅見の自著にも、頓挫の理由は小田とは多少
異なったニュアンスだが同様の一文があり、このことに浅見が関わっていたことが判る。

<麒麟>・<海豹>の同人はその多くが阿佐ヶ谷界隈の住人であり、
阿佐ヶ谷将棋会の会員も多く、浅見との縁が急速に深まっていっただろう。

     ・<小説>→<世紀>→<木靴>→ <文学生活>

この合同話の頓挫は、<麒麟>・<小説>・<青空>のメンバーによる<世紀>創刊に繋がった。
昭和9年4月の創刊である。浅見(35歳)の交友の広がりが分るよう同人を一覧にした。

<世紀> (S9/4〜S10/4)
<青空>
三高−東大
浅沼喜実・飯島正・北川冬彦・丸山薫・三好達治淀野隆三
(外村繁、中谷孝雄 = 2人はこの時<麒麟>の同人だった)
<小説>
早稲田
浅見淵・丹羽文雄・尾崎一雄・(※)杉本捷雄(東洋大)
<麒麟> 青柳瑞穂(慶応)・緒方隆士(日大)・小田嶽夫(東京外語)・
川崎長太郎(小田原中)・蔵原伸二郎(慶応)・古木鉄太郎(川内中−改造社)・
田畑修一郎(早稲田)・外村繁(東大)・中谷孝雄(東大)・
(※)岡村政司(未確認)・(※)寺崎浩(早稲田)
. 竹内道之助(三笠書房主人)・永瀬平一(竹内の友人)
(※)は創刊号の後に同人に加わった。 同人の名前は「1周年記念号(S10/4)」による。
(小田嶽夫「文学青春群像」より)。
色付の名前は、当時阿佐ヶ谷界隈に住んでいた。

<海豹>がなぜここに加わらなかったのか気になるが、木山の日記(S8/12/17)に次のようにある。
尾崎宅を突然訪問した時、尾崎は困惑の様子だったので帰ろうとしたところへ中谷が来たのである。
「中谷曰く、雑誌を出すのだと。顔ぶれは麒麟9名、小説3名、青空何名かの由。海豹がつぶれた晩に
決まったので、もう1日海豹のつぶれるのが早ければ変わったものになっていたかもしれないと。」

<世紀>の創刊から終刊の過程は尾崎が「あの日この日」(1975:講談社)に正確に記しているが、
それによれば、<海豹>からの加入は「議に上っていなかった」ので尾崎は実際、困ったのである。

<海豹>が解散したのは、木山の日記によれば12月10日である。<海豹>を外した理由になるのかどうか・・・。
<世紀>の提唱者は、浅見、小田によれば<青空>の淀野である。同人の人選には常に人間臭さが付きまとう
ので、今回も裏にそれなりの事情があったのではないだろうか。岡村・寺崎の場合には、創刊時に、小田が
”この2人の加入を認めなければ自分も辞退する”と言ったところ、同人にはしないが執筆メンバーには
加えることになり、小田は妥協したとのことで、同人の発足、運営は容易ではないことを窺わせる。

<世紀>は、この後、別記のように中谷、緒方が同人の強い反対を押し切って<日本浪曼派>
の創刊(S10/3)に参加、淀野も加わったので解散し、小説家志望の10名で<木靴>を創刊
(S10/10〜S11/2)、さらに<新文芸時代>と合同して<文学生活>(S11/6)となったのである。

<文学生活>は約1年続く(S12/6まで)が、後半の実質的編集人は浅見(37歳)で、発行所は
砂子屋書房に変わり、大きなグループとなった。浅見の手腕が発揮されたとみてよかろう。
同人の名前は先に”秋沢三郎の項”で記したが整理して再掲する。

<文学生活> (S11/6〜S12/6:全11冊))
<木靴> 浅見尾崎小田・川崎・古木・杉本・田畑外村中島直人丹羽
<世紀> 青柳・蔵原(<葡萄園>にもいた)
<新文芸時代> <風車> 秋沢三郎上林暁永松定・森本忠
<文藝レビュー> 伊藤整衣巻省三・那須辰造・福田清人
他の同人から <葡萄園> 佐々木英夫・十和田操・古谷綱武(<海豹>なども)・   
(そのほか) 井上幸次郎・小山東一・
創刊後の加入 井伏・瀬沼茂樹・庄野誠一・寺崎中山義秀・岡村・坂口安吾・青柳優
色付字は、早稲田出身(中退)者。(佐々木・小山・岡村の出身校は未確認)
・尾崎一雄の著には、創刊後の加入に、瀬沼と寺崎の名はなく木村庄三郎がいる。
下線は、当時、阿佐ヶ谷界隈に居住。(蔵原は転居後)  共に、多いことが目に付く。

     砂子屋書房と<早稲田文学>

これら文学青年たちの同人活動はいわゆる文芸復興の機運の高まりに合致し、浅見は
さらに早稲田で同級だった山崎剛平の砂子屋書房の創業(S10)に参画して雑誌や
小説集の編集、出版企画に当たった。外村繁「鵜の物語」や太宰治「晩年」など第1創作集
叢書の出版(S11)を手がけ、自らも初の評論集「現代作家研究」(S11/9)を出版している。

昭和12年5月には<早稲田文学>の編集を尾崎から引き継いで(尾崎は砂子屋書房の編集へ)
2年間担当するなど、小説から評論、編集、出版企画などの分野へ活動の比重を移すが、
この背景には同人活動を通じた若い文学青年たちとの交友の広がりと深まりがあり、
浅見生来の”人間好き”からくる暖かい目が作者とその作品に注がれていったといえよう。

昭和11年発行の「文藝年鑑」の「文筆家総覧」に初めて名前が載った。この年、37歳である。
住所は下谷区谷中坂町(現台東区)とある。雑司ヶ谷の貧窮生活から抜け出たようだ。
ちなみに、尾崎は昭和12年に「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞してようやく貧窮を脱した。

参考サイト 砂子屋書房 ・ 山崎剛平のこと 砂子屋書房史 (稀覯本の世界)

     ・初の評論集「現代作家研究」(S11/9)のこと

対象とした作家は、既に大家として著名な漱石、泡鳴、龍之介らをはじめ、浅見が敬愛する
志賀直哉、徳田秋声、正宗白鳥、瀧井孝作といった先輩、さらには、それまでの同人活動を
通じて親しくなった尾崎士郎、中谷孝雄、尾崎一雄、丹羽文雄、三好達治、田畑修一郎、
古谷綱武、外村繁らで、大部分は昭和7年〜11年の評論である。

浅見自身は「後記」に、題は、「寧ろ『現代作家鑑賞』と名付くべきでは無かったかと思って
いる。この一冊に収めたものは凡て結果に於いては、対象にした作家に対する僕自身の
理解力を示しているに過ぎぬからだ。」と書いているが、浅見の研究者保昌正夫は、
「この時期にあって「現代」の作家、作品をこのように評価、鑑賞して一冊とした書はまったく
といっていいほどに無かったのである。「研究」と銘打ったとこともいわゆる研究の領域が
ここまで及んでいなかったことから、敢えてしたところとみられなくもない。」と評している。

いずれにしろ、浅見はこれにより文芸評論家として大きな一歩を踏み出したのであり、
「後記」に多数いると書いた”本書に収むべきで収められなかった親近の作家”は、
この後刊行の「現代作家論」(S13)、「現代作家30人論」(S15)に載せている。

     ・初の小説集「目醒時計」(S12/2)刊行

自序に、「昭和12年1月に、外村の紹介による赤塚書房の強い勧めがあって短編小説集
出版の運びになった」 「作品を整理してみると、どれもがエスキースじみたものばかりで
悄気ざるを得なかった」 「瀧井孝作氏の云う、表現の力つよさを獲得したい。」などとある。

保昌正夫は、たしかにエスキースじみたところを多分に持っている、としたうえで、
「しかしその筆致はなかなかあざやかであり、筆者の素顔、人柄が
浮き出ているような面もあって快い。」とし、瀧井孝作について、「瀧井孝作が
この前後から浅見淵の、いわば手本になったのである。」 と評している。

ちなみに、収録作品は、「傷痕」(T14/11)、「山」(T14/7)、「アルバム」(T15/5)、
「漆絵の扇」(T15/7)、「白屏風」(S11/9改稿)、「コップ酒」(S8/1)、「邂逅」(S8/8)、
「小品三つ:秋日和・暑い日・醍醐」(S11/5)、「告別式」(S9/10)、「赭い夕日」(S10/6)、
「目覚時計」(S9/1) で、いずれも浅見自身の生活、身辺を題材にした私小説である。

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会

<世紀>発刊中の頃(S10)には、浅見は田畑、古谷、外村とは格別に親しくなっていた。

田畑とは<街><新正統派>(S3)の関係で旧知だが、古谷とは「古谷サロン」(S8)から、
外村とは同人誌大合同話(S8)から懇意になり、浅見は初の評論集「現代作家研究」
(S11/9)に、漱石、泡鳴といった大家や、横光、川端ら、そして尾崎、丹羽、梶井などと
並んでこの3人の項を収めたのである。3人の仕事を評価し将来への期待を込めている。
つまり、”阿佐ヶ谷将棋会 第2期”の半ばには会員であったといってよいだろう。

井伏との関係では、知り合ったのは大正13年頃というから、浅見25歳、井伏26歳頃で、
その後、出版社”聚芳閣”勤務(T15)、<文藝都市>同人(S3)と両者の接点は続くが、
親交が深まったのは浅見が阿佐ヶ谷界隈に頻繁に足を運んだであろう昭和8年頃から
と推察する。何時から将棋を指したかは判らないが、酒を介しての界隈での交友で
井伏、青柳、小田、木山、太宰、中村らとの親密度が増していたことは確かだろう。

浅見の自著の中に「三宅島の旅」の項がある。昭和12年春のことであるが、
浅見ら当時の面々の交友の一端が窺えるエピソードなのでご紹介する。

三宅島の旅    田畑が昭和10年に浅見の紹介で世話になった三宅島の豪家 浅沼悦太郎から
浅見宛に昭和12年春に ”昔の友人を大勢連れて遊びに来てくれ” と招きがあった。浅沼は浅見の早大
2年後輩で<新正統派>同人の優秀な人材だったが嫡男のため島へ帰らざるを得なかったのである。
”井伏と尾崎一雄は必ず来て欲しい” とあった。浅沼は井伏とは面識がないが、愛読者だった。

そこで浅見は井伏と尾崎に相談したところ、井伏は承知したが、尾崎は「船酔いがひどいので無理」
と断った。 まだ ”小さな船で絶海の孤島へ行く” 感覚の当時、外村をはじめ多くの人に断られたが
井伏が誘った方で、太宰、秋沢、永松、塩月糾(太宰の同期生)が応じ、偶然に川崎も同行となった。
多士済々、浅見は「呉越同舟の旅」としているが、浅沼の心からのもてなしで一同藹藹たる空気だった。


この旅行は、昭和12年5月中旬とある。当時、船便は1週間に1度だったので、おそらく1週間滞在の
長閑な日々であったろう。しかしこの約1ヶ月後(7月7日)には北京郊外で盧溝橋事件が突発し、
それは日中戦争へ、太平洋戦争へと繋がって日本は長い暗色の日々が続くのである。

浅見が将棋会によく出席していたことは昭和13年以降にある開催記録から知れる。
自著の中に「阿佐ヶ谷会の縁起」の項があるのをはじめ、会に関係する随筆などを
他にも書いている。戦前、戦後を通じて主力会員の一人であった。

しかし阿佐ヶ谷界隈には住まなかった。昭和11年に雑司が谷(目白界隈)から谷中坂町
(上野界隈)へ越したのは、砂子屋書房に近いからで、ようやく貧窮生活を脱したのだろう。
そして、昭和12年に早大に近い淀橋区諏訪町(現新宿区)に転居、ここは以前に尾崎も
住んだ馴染みの場所で、浅見は<早稲田文学>の編集を担当している間居住し、後任に
引き継いだ昭和14年春には千葉県御宿町に再度転居し、戦後の昭和25年まで住んだ。

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昭和13年〜18年 (阿佐ヶ谷将棋会 盛会期) の頃


= 文業広角化 ・ 伯楽の目=

昭和13年(1938)、浅見 39歳。 ”将棋会 第3盛会期” は浅見の40代前半にあたる。
昭和11年に砂子屋書房で「第1創作集叢書」を企画し、外村の「鵜の物語」や太宰の「晩年」
などを手がけ、自身の初の評論集「現代作家研究」には田畑、古谷、外村を載せたが、
このころから、浅見の活動の比重は評論、随筆、編集、出版企画の分野に移っていく。

   *転居 ・・小説・評論・随筆・編集・出版企画・・

     ・千葉県の御宿に転居

浅見は<早稲田文学>の編集を担当したほぼ2年間は、早大に近い淀橋区諏訪町
(現新宿区)に住んだが、後任に引き継いだ昭和14年5月に千葉県御宿町に転居した。
現在でも、新宿〜御宿は特急で2時間はかかる。 なぜ遠い御宿だったのか・・・?

本人は、「東京にいると若い連中が1升瓶を抱えて押しかけてくるようになったので生命の危険
を感じて遠くへ引越したくなった。以前に房総を訪れた時に御宿の自然が気に入ったので、
そこに1年くらい住むつもりだったが、戦火の拡大で東京に帰れなくなった。」 と書いている。
以降、戦後、昭和25年に八王子市に移るまでの11年余、御宿町に落ち着いていた。

小田によれば、「八畳の座敷には一間幅の廻り縁もあり、東京では到底住めない雅致の
ある家であった。そこで彼は大して仕事もせず(彼は小説を書く気持をまだ持ち続けて
いたが、実際には評論類ばかり書いていた)、悠々と暮らしていた。(中略) 彼は相変
わらず悠々とした態度で、東京への通勤にもいつもぞろりとした和服姿で通していた。」
(「浅見淵著作集 第1巻月報)。 浅見が春陽堂に通勤した頃(S15〜S16)のことで、
日米情勢は相当に険悪化していた時勢だが・・、浅見の大人風の雰囲気である。

     ・第二、第三評論集刊行

浅見は「現代作家研究」(S11)に続いて、昭和13年に2冊目の評論集「現代作家論」を刊行
(赤塚書房)した。徳田、瀧井、川端など前作で論じた作家を含め新たに稿を起し、将棋会の
関係では、「佐藤春夫と太宰治(芥川賞関連)」 と 「中村地平氏について」が載っている。

さらに、前二作などからの再録が多いが、3冊目の評論集「現代作家30人論」
(S15/10:竹村書房)を刊行した。

巻頭は井伏で、将棋会では外村、上林、田畑、太宰、*中村、の名があり、ほかに、
丹羽文雄、*逸見広、十和田操、*徳田秋声、*尾崎士郎、長見義三、
*和田伝、*川端康成、川崎長太郎、*梶井基次郎、*横光利一、*瀧井孝作、
坪田譲治、*中谷孝雄、中野重治、*仲町貞子、*内田百閨A宇野浩二、
*正宗白鳥、佐々三男、*志賀直哉、*火野葦平、(*は再録)を論じている。

徳田、正宗、志賀といった大先輩とともに、阿佐ヶ谷関連の若い名前も目立ち、その多くが
後年、名を成していることが分かる。 人と作品を熟知した上で評論するという浅見の姿勢と
目の確かさが認められるが、小田、木山の項がないのは何か一寸寂しいような・・・。

この三冊の評論集だけでなく、日頃の浅見の評論、時評は、自らも激しく動いた同人活動
で親交を深めた幅広い文学仲間の存在によって成り立っているといっても過言ではなく、
評論対象の若い作家にとってはそれだけに励みにもなっただろう。 砂子屋書房での
”第1創作集”企画や<早稲田文学>編集、そして活発な文芸時評、評論活動を通して、
浅見はこのころから多くの作家を世に送り出していたといえよう。

「現代作家30人論」を刊行した昭和15年夏に浅見は満洲旅行をするが、帰ると直ぐに請われて
春陽堂の嘱託になり出版企画にあたった。1年ほどだったが、網野菊の短編集「汽車の中で」、
谷崎精二訳「ポオ小説全集」、「葉山嘉樹随筆集」、「井伏鱒二随筆集(3巻)」、などを出版した。
この時のことを、浅見は「昭和文壇側面史-ある出版屋の話」に裏話風に書いている。

     ・随筆集、小説集の刊行

浅見の最初の随筆集は、昭和13年12月の「市井集」(砂子屋書房)である。計41篇が収められて
いるが、数篇を除き、昭和8年以降の作である。自分が住んだ町・・神戸、早稲田、目白界隈など
のこと、文学仲間のこと、旅のことや回想、文藝評論などもあり、自身の生活に密着した幅広い
内容で、全体的にゆったりした雰囲気で、安穏な時代背景を感じさせる。もちろん、出版直近の
作では戦争が題材になっているが、それほど緊迫感はない・・まだそうした世情だったのだろう。

この後、浅見は、御宿(千葉県)へ引っ越して(S14/5)その関連の随筆を書き、翌年(S15)夏
には満洲を旅行し、その関連の随筆類を多数発表した。それらの文章は、文学評論などを
合わせて二冊目の随筆集「文学と大陸」と題して刊行された。(S17/4:図書研究社)

さらに、昭和17年1月にも満洲、中国旅行をして、その関連の随筆類を多数発表し、文学
評論などを合わせ、三冊目の随筆集「蒙古の雲雀」と題して刊行した。(S18/5:赤塚書房)

このほかにも「満洲文化記」(S18/10)が国民画報社(新京東長春大街)から刊行されたが、
内容は前二作とほとんど重複とのことである。


ここまで、浅見の評論、随筆類は、一篇一篇は短いが、全体の量としては精力的である。
この時期の浅見が評論家として高く評価され、確固とした地歩を築いた証だろう。

小説は、二冊目の小説集「無国籍の女」(S14/4:赤塚書房))と三冊目「手風琴」(S17/9:
小学館)があり、戦後刊行の小説集「青い頭」(S21/5:日本出版社)にも、戦中までの著作
が載っている。また、新民話叢書で「槍ヶ岳の鉄くさり」(S19/12:翼賛出版協会)があるが、
評論、随筆の分野に比重が移った感は否めない。時勢が強く影響したといえよう。

「無国籍の女」(S14/4)の収録作品 = 「書記室」(S10/11)、「三人」(S3/5)、「むしられた
三色旗」(S4/12)、「瓜哇の唄」(S8)、「チンバ犬」(S14/3)、「無国籍の女」(S2/7)

「手風琴」(S17/9)の収録作品 = 「三等船室」(S16/5)、「小さな手帖」(S14/9)、
「手風琴」(S16/1)、「朝鮮旅館」(S16/11)、「伊豆日記」(S14/4)、
「赭い夕日」(再録)、「駄犬記」(S14/11)、「書記室」(再録)、「あとがき」

「青い頭」(S21/5)の収録作品 = 再録8篇(「山」、「赭い夕日」、 「漆絵の扇」、「白屏風」、
「目覚時計」、「小さな手帖」、「駄犬記」、「手風琴」) と 「外房」(S14/11)、
「寒い日」(S17/11)、「北京にて」(S18/4)、「老作家」(S18/12)、「青い頭」(S19/5)、「後記」


浅見は、「市井集-戦争文学(S12/9)」に、川端康成の言葉 「お粗末な戦争文学などを
一夜作りして、恥を千載に残す勿れ」に共感し、「仮に我々が戦争文学を描くとすれば、
銃後に在る我々は後者(注:戦場経験が無い)の風俗小説しか描けぬわけだが、
その場合、つとめて誇張、亢奮、ないしは感傷を避けねばならぬと思う。」 と書き、
この姿勢を通したことが認められる。 戦後は、直ちに文学第一線での活動が始まる。

     ・満洲、中国の旅

この時期は、満洲事変(S6)、満洲国建国(S8)から日中戦争(S12)へと動き、
日本は軍事力で大陸における支配地域を広げ、日本から多くの民間人も移住し、
往来は活況を呈した。 小田の項に記したが、昭和14年に北京に住む秋沢は、
小田や満洲旅行帰途の伊藤整、福田清人らの世話をしたのはそうした一例である。

(本項では、歴史的経緯に拠り、「満洲」(現、中国東北部)・「渡満」を用いている)

浅見には、前記のとおり、昭和15年と17年の満洲旅行に関して多くの記述がある。
昭和15年夏、浅見は満鉄観光課の日向伸夫の招聘があって初めて海を渡ったが、当時の
満州では文化活動全般が活発化しており、同人誌の発行も増えていた。浅見は、そのうちの
「作文」同人の作品集を日本で刊行することに尽力し、その答礼の意味があったようである。
昭和15年秋から発表した紀行文的随筆などは「文学と大陸」(S17/4)に収録されている。

また、戦後刊行の「昭和文壇側面史−満洲で逢った人びと」には、この時の経緯や、
満洲で会った檀一雄、逸見猶吉、古丁(満洲の作家)、のことなどを書いている。

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ところで、「檀一雄の年譜 −昭和15年−」に関して

浅見の「満洲で逢った人びと」の項には、新京(現長春)で檀一雄の歓待を受けたとある。
ところが、檀の年譜を見ると、檀は昭和15年12月に召集解除になり、その12月に
満洲へ発っており、檀関係の主要刊行物はこれで一致している。 浅見が会ったという
昭和15年の夏は、まだ日本国内(久留米)で兵役に服していたことになるが・・

実際は 「昭和14年12月 召集解除-渡満」 

事実確認のため、檀自身の著作や書簡、ハガキ、檀に関連する文献資料を調べた
ところ、事実は、「昭和15年12月」ではなく、その1年前の 「昭和14年12月に
召集解除-渡満」 であることが判明した。すでに山梨県立文学館刊行(2000/9)の
図録「太宰治と檀一雄」で、次のように明らかになっていた。


檀が尾崎一雄宛に書いた書簡と封筒の写真が山梨県立文学館刊行(2000/9)の
図録「太宰治と檀一雄」に掲載されている。この書簡の末尾には「12月22日」と
日付が明記され、文面には「12月1日無事除隊」、「明後日満洲へ出発」とある。

解説文に、「檀の除隊はこれまで1940(昭和15)年12月1日とされているが、実際は
1939(昭和14)年の12月1日。従軍の期間は約2年4カ月である。」と明記している。

図録巻末の年譜においても、昭和14年の項に「12月1日召集解除」と
「年末 中国東北部の新京に赴く」 と明記している。

書簡本体からは「年」を特定できないが、本図録が「昭和14年」と断定したのは、
封筒(切手)の消印の日付が「14」(つまり昭和14年)と判読できたからである。
(このことは、山梨県立文学館に問い合わせて確認した。 

また、書簡、封筒の実物は神奈川近代文学館所蔵であると教えられたので、
神奈川近代文学館にて消印日付は「14.12.22」と確認した。(H24.6.15))

そこで、召集令状が来たのは昭和12年7月であることは周知の事実なので、
従軍期間は約2年4カ月で、満洲への出発予定日は昭和14年12月24日となる。

「新潮日本文学アルバム 檀一雄」(1986:新潮社)に、檀が釜山から福岡の
両親宛に出したハガキの写真がある。 「只今釜山に安着」 とあり、
切手の消印は “山釜 14.12.26” である。尾崎一雄宛書簡と合せると、
釜山到着日は昭和14年12月24日〜26日の間であることは確かである



 除隊の「月日」は客観的には未詳だが、尾崎宛書簡の記述に従って昭和14年12月1日とし、
12月24日〜26日の間に福岡を発って釜山に到着、釜山出発日は不明だが、
昭和15年の夏には満洲の新京に居たのである。

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昭和17年2月の浅見の満洲・中国旅行の経緯は不詳だが、出発時は坪田譲治と一緒で、
大連に着いた日のことは「寒い日」(S17/11:<若草>)に、浅見が北京で甥に会った
ことは「北京にて」(S18/4:二見書房・「十年」所収)という短編小説に書いている。
いずれも「青い頭」(S21)に収録し、評論などは「蒙古の雲雀」(S18/5)に収録している。

     ・田畑修一郎を支援

浅見は田畑より4歳年長だが、共に早稲田で文学を志したので、早ければ田畑が早稲田
高等学院に入学(T11)した頃からの顔見知りだろう。 浅見は早稲田大学を卒業(T15)
すると尾崎一雄らと早稲田系の同人誌を糾合して<新正統派>を創刊(S3)し、ここに
田畑(S2:大学中退)も参加したので、これ以降は親しい関係になったはずである。

このころは空前の同人雑誌ブームで、浅見も田畑もこの渦中で積極的に活動し、二人とも
大きなスランプを経験する。浅見は前記したように昭和8年には立ち直るが、田畑の苦悩は
長引き、立ち直りの契機は長期の三宅島滞在(S10)だった。この三宅島行きを紹介したのは
浅見だった。 帰京後、田畑はいわゆる“三宅島もの”を発表し、これが好評で復活するが、
浅見、尾崎らは田畑の文学活動を強く支援したのである。 浅見はこのころには田畑の才能
を高く評価しており、「現代作家研究」(S11)や「現代作家30人論」(S15)に載せている。

昭和16年2月、田畑は体調不良などで長編小説の執筆が進まずに苦しんだが、その時、
浅見は自然環境に恵まれた御宿での執筆を誘った。田畑はこの誘いに甘え、御宿に約1ヵ月
滞在し浅見宅で夕食をご馳走になるなど、何かと浅見夫妻の世話になりながら執筆を進め、
長編小説「医師高間房一氏」(378枚)を書き下ろした。
これが、4月(S16)には、砂子屋書房から発刊となり、好評だった。(田畑修一郎の項に詳記)

浅見は、戦後、梅崎春夫、石原慎太郎、三浦哲郎、五木寛之などを発掘し、
名伯楽の名を得たが、その確かな目でこのころの田畑を見ていたのだろう。

   *文学仲間交遊の世話役・・ 

個性派揃いの文学青年たちだが孤立は不安だったろう。日中戦争の長期化で、出征、戦死
の報が続く時勢である。同人たちは文学に限らず強い結びつきをもって不安な現実、将来に
対応したかったに違いない。阿佐ヶ谷将棋会が盛んになった背景であり、情報受発信の場、
さらには、心の拠所を求めて文学以外のさまざまな会に集まったようだ。

浅見は、執筆や同人活動、<早稲田文学>編集、出版企画などの傍ら、仲間の親睦を
図って飲食会だけでなく、”清福を楽しもう” とピクニックや当時ブームになっていた
将棋の会などの世話役を積極的に行っていた。浅見の人間味、人望の一端が窺える。

     ・颯爽会のこと

「昭和文壇側面史−我孫子の旧志賀邸」によれば、昭和10年に福田清人の「脱出」出版記念会
の代わりに奥多摩へピクニックに行ったが、それが好評でピクニックの会を作ろうということに
なり、浅見は、その道に詳しい早大出版部の鎌原正巳にリーダーを頼んで会を作った。
昭和12年のことで、会の名前は、以前から浅見らが作っていた将棋の会の名前「指そう会」を
もじって「颯爽会」とし、小仏峠、滝山城址、平林寺などへ出かけたという。
参加者は<文学生活>のメンバー、福田、伊藤整、古谷綱武らだった。

昭和14年3月の将棋会では上林暁が優勝し賞品の将棋盤を獲得した。(上林の項に写真など)
盤の裏には「第三回颯爽会将棋会」とあり、参加者10名がサインしているが、浅見に言わせると
「この時は上林暁にまんまと賞品の足付きの将棋盤をせしめられ、その上に将棋盤の裏に
参会者の署名を一々需められた。」(「昭和文壇側面史−阿佐ヶ谷会の縁起」)となる。
上林は、早稲田文学社の主催で、浅見から賞品を授与されたと書いている。

     ・瀧井孝作を囲む会

瀧井孝作は、浅見より5年年長である。大正末期から志賀直哉に親炙し、特に強い師弟関係に
あった。俳句から出発したが、私小説作家となり、昭和2年には代表作となる「無限抱擁」を
発表、昭和10年には、創設された芥川賞の選考委員の一人になった。この年、瀧井は41歳、
以降、昭和56年までの47年間、選考委員を務めている。(昭和59年没:享年90歳)

瀧井は小学校の後は進学はなく、直ぐに丁稚奉公し、10代半ばから俳句で河東碧梧桐に師事、
句誌編集や紙誌の記者をして芥川龍之介や志賀直哉を知ったという異色の経歴である。

この瀧井を敬愛する人々で颯爽会とは別に”瀧井さんを囲む会”が出来ていてピクニックを
しており、昭和10年には吉野梅林(現在は”青梅の吉野梅郷”として有名)に行き、昭和13年
4月10日には我孫子の旧志賀邸を訪問した。瀧井が「無限抱擁」を執筆した家も近くにあるが、
この時のことは、木山の「酔いざめ日記」にも詳しく、一行の写真も載っており、瀧井、浅見を
はじめ、木山、尾崎一雄、古谷、外村、古木、小田、田畑らの顔が揃っている。

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会・・

この ”将棋会 盛会期(S13〜S18頃)”、上林、木山、小田の出席率には及ばないが、浅見も
遠方からよく出席している。 戦後、阿佐ヶ谷会に関連して多くの随筆などを書いているが、
「昭和文壇側面史−阿佐ヶ谷会の縁起」には、”勝負は風の吹き回し” ”清福を楽しむ”
 ”竹村書房派と早稲田派” ”全員それぞれの棋風” の項があり、この当時の会員個人の
力量、会の雰囲気や他流試合の様子などを軽妙に映しながら、重い時代背景を伝えている。

ほかに、主なものでは「昭和文壇側面史−新宿のハモニカ横丁」の”たのしい阿佐ヶ谷会”
や「続・昭和文壇側面史−阿佐ヶ谷会と眼福」、それに、「阿佐ヶ谷会の解散」(S47/12:
<東京新聞>:「浅見淵著作集 第3巻」所収)があり、浅見が将棋会時代から戦後の
阿佐ヶ谷会まで、主要会員として深く関わっていたことが分かる。

しかし、将棋会の遠足(御嶽行(玉川屋)と高麗神社参拝)には参加していない。
御嶽行不参加(S17/2)は、自身2回目の満洲旅行の関係ではないだろうか。将棋会の
組織的開催の最後となった高麗神社参拝(S18/12)は、当初の予定日が雨で順延と
なった影響があるかもしれない。いずれも浅見にすれば不本意な不参加だっただろう。

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浅見にとって、この”将棋会 第3盛会期 ”は、小説家というより文芸評論家として
確固たる地歩を築いた時だったといえよう。当初の活動の基盤は<早稲田文学>の
復刊・編集を通じて培った早稲田人脈だったが、柔軟な姿勢、良識的判断力と
人物、文学を観る確かな目が人脈の幅を広げ、多くの信頼が得られた結果だろう。

戦争激化で阿佐ヶ谷将棋会は会員の疎開などのため組織的な会合はなくなり、
休眠期に入るが、浅見は海軍報道班員としてフィリピンのマニラへ赴任している。
昭和19年6月から半年間の従軍で、同年12月9日に羽田へ無事帰国した。

翌年(S20)8月15日に終戦となるが、浅見は早々に文学活動を始める。
阿佐ヶ谷将棋会は「阿佐ヶ谷会」として復活し、その主要メンバーとなる。

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「浅見 淵」 の項     主な参考図書

『昭和文壇側面史』  (浅見 淵著:写真掲載 S43/2  講談社)
『昭和文壇側面史-回想の文学』(浅見 淵著 1996/3  講談社)
(初出は<週刊読書人> 連載(S41/1〜S42/3)。 講談社の
S43版には、興味深い写真が多数載っているが、1996版には無い)


『浅見淵著作集 1〜3 』  (浅見 淵著 S49 河出書房新社)
(第2巻は、「昭和文壇側面史」所収だが、写真は無い。
「続昭和文壇側面史」を加え、この二編と解題から成る)
『浅見淵著作集 1〜3 -解題-』 (保昌正夫記 S49 河出書房新社)
『史伝 早稲田文学』  (浅見 淵著 S49 新潮社)

『日本近代文学大事典』      (S53  講談社)
 『文学青春群像』    (小田嶽夫著 1964 南北社)
『酔いざめ日記』   (木山捷平著  S50/8  講談社)
『昭和文学盛衰史』  (高見 順著 1987  文芸春秋)
『あの日この日 下』  (尾崎一雄著 1975  講談社)

 『太宰治と檀一雄』  (2000/9 山梨県立文学館編集発行)