「井伏さんは悪人です」 :太宰治の遺書と手帳のメモ

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太宰治の遺書には、「井伏さんは悪人です」 という文言があるといわれている。

この文言の意味をめぐり、太宰の真意や井伏との関係などについて、当時から関係者や研究者、作家らに
多くの著作があるが、その多くは、太宰の「手帖(執筆メモ)」の存在が明かされる前の発表なので、
太宰の内面の探究という意味では興味深いが、的確かという面からは今一つの感を免れない。

そのため現在においても、この文言だけが独り歩きしている感があり、本稿では、
次の二点について、事実関係と「手帖(執筆メモ)」に関する情報を整理する。

1. 「井伏さんは悪人です」 は、太宰の「遺書」か?

2. 「井伏さんは悪人です」 と 手帖の「執筆メモ」


(詳細は、別記 「太宰治 :玉川上水心中死の核心(三重の要因)」の項 参照。)



   1. 「井伏さんは悪人です」 は、太宰の「遺書」か?
 

昭和23年(1948)6月13日深更、太宰と愛人の山崎富栄は富栄の部屋を出て、歩いて数分程度の三鷹の
玉川上水の土手から入水した。 富栄の部屋はきれいに整理され、二人の写真、遺書などが置いてあった。

部屋には、クシャクシャにした「反古」もあり、その中には次の文面の書面もあった。

 「皆、子供はあまり出来ないやうですけど 陽気に育てて下さい
あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです
小説を書くのがいやになったからです
みんな いやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」 

この文面自体は当時の多くの文献に載っており、周知のところだが、「反古」 に関しては
長篠康一郎による 「発見時は反古ではなかった」 という指摘があり、この点については、
<朝日新聞>(S23.6.16)と<新潮>(H10/7)の写真、記事などを参考に、詳細を別記した。)

     * この書面は何?

文面内容は妻美知子宛と読める。実際の美知子宛遺書(次項)の中に、この文面に似た箇所があり、
一般に、この書面は美知子宛遺書の下書きと見られている。 あるいは、一旦書いたが気に入らずに
書き直したので書き損じ分として残ったのかもしれないが、いずれにしろ太宰自身が書いたことは
確かで、それが遺されていたという意味で「遺書」には違いない。

普通なら、人目に付かないように焼却などするところだが、時間がなかったのか、そこまで気を使わな
かったのか、逆に、あえて他人の目に触れるようにと意識して残したのか、その事情は不明である。

この 「井伏さんは悪人です」 と、山崎富栄が書き遺した心中当日の日記(S23.6.13)の中の一節
「みんなしていじめ殺すのです。いつも泣いていました。」 とを結んで、
「太宰の自殺の原因は、井伏ら先輩たちによる “いじめ” 」 とするような論考もある。
(文壇で主流の “心中は富栄が主導” を疑問視した “富栄擁護” の立場での考察である。)

なお、この文面のうち、「皆、子供は 〜 小説を書くのがいやになったからです」 の部分は
雑誌<新潮>(H10/7:特集・太宰治歿後五十年)に、実物写真入りで公開されたが、
「みんな いやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」 は含まれていない。
「遺族の意向で非公開」 の部分があり、この文言はそれに該当するはずである。


(注) ネット上に、「皆、子供は〜井伏さんは悪人です。」 の全文の写真がある。
用紙には、破れや折り目がないので、これが実物の写真であれば、
「発見当時は反古でなかった」 という長篠の指摘は正しいことになるが、
反古(実物)の写真と比べると、似てはいるが相違もあるようなので、
書き写し(模写)ではないだろうか。 (出典、所在など未詳)
                            ((注)は、H29/11 追記)

     * 妻美知子あての遺書

太宰が書いた妻美知子あての遺書九枚中の一部も、同じ<新潮>誌に実物写真入りで初公開された。

一般に、「井伏さんは悪人です」 は妻美知子宛遺書にも書いてあるといわれるが、公開部分にはない。
「遺族の意向で非公開」 の部分にあるのかもしれないが、明らかにはなっていない。


  2枚目 「子供は皆 あまり
  3枚目  出来ないやうですけど 陽気に育ててやって下さい
         たのみます 
       ずゐぶん御世話になりました 小説を書くのが いやになったから
        死ぬのです」

  6枚目  「のです いつもお前たちの事を考へ、さうしてメソメソ泣きます」

  9枚目  「津島修治 美知様 お前を誰よりも愛してゐました」


   2. 「井伏さんは悪人です」 と 「手帖の執筆メモ」 

平成7年(1995)に青森県近代文学館が開催した「特別展・太宰治」に際し、美知子未亡人は、
太宰が遺した「手帖」2冊(昭和22年用と昭和23年用)など多数の資料を提供、寄贈した。
同館は、平成13年(2001)に、この「手帖」を原寸大の写真版にして
「資料集 第二輯  太宰治・晩年の執筆メモ」 として公刊した。

手帖の記述は主に“執筆メモ”だが、昭和23年用手帖には井伏に関するメモも多数あり、自殺直前の
太宰の複雑な心情を窺うことができる。中で、最も注目すべき驚きの部分を次に抜粋(活字化)する。
井伏批判というより逆ギレ的な悪口雑言で、この記述の結論は 「井伏は、イヤシイ人 悪人」 である。
したがって、「井伏さんは悪人です」 の本体は、井伏の世俗性をついたこのメモであるといえる。

この文言が妻美知子宛の遺書にあるとすれば、「井伏さんは俗物・偽善者、世俗の価値観でしか生き
られない いやしい人だ。自分は井伏のお為ごかしに乗せられて利用されてきた。かっての井伏の
世話はうれしくなかった。」という複雑な思いを伝えようとしたことになるが、末尾に加筆(強調の手法?)
した 「お前を誰よりも愛してゐました」 の文言と合せ、太宰の真意は何なのだろう。

冒頭の「井伏鱒二 ヤメロといふ」は、「如是我聞」執筆中止要求のことと考えてよかろう。
女性関係や大量飲酒癖などの生活ぶりも咎められ、過激反発になったのかもしれない。
書いたのは、昭和23年4月中旬頃で、連載中の「如是我聞」の執筆メモと目され、
この文章そのままではないが、同趣旨の記述が 「如是我聞 三」 にみられる。

(「如是我聞」については、「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」 に詳記

 井伏鱒二 ヤメロ といふ、足をひっぱるといふ、
  「家庭の幸福」
  ひとのうしろで、どさくさまぎれにポイントをかせいでゐる、卑怯、なぜ、やめろといふのか、
 「愛?」 私はそいつにだまされて来たのだ、人間は人間を愛する事は出来ぬ、利用するだけ、
 思へば、井伏さんといふ人は、人におんぶされてばかり生きて来た、孤独のやうでゐて、このひとほど、
 「仲間」がゐないと 生きてをれないひとはない、
 井伏の悪口を@ふひとは無い、バケモノだ、阿呆みたいな 顔をして、作品をごまかし(手を抜いて)
 誰にも憎まれず、人の陰口はついても、めんと向かっては、何もAはず、
 わせだをのろひながらもわさだをほめ、愛校心、ケッペキもくそもありやしない 最も、 いやしい
 政治家である。ちゃんとしろ。(すぐ人に向BCDグチを言ふ。Eやしいと思っ たら、
 黙って、つらい仕事をはじめよ、)
 私はお前を捨てる。お前たちは、強い。(他のくだらぬものをほめたり)どだい私の文学が
 わからぬ、わがままものみたいに見えるだけだろう、 聖書は屁のやうなものだといふ、
 実生活の駈引きだけで生きてゐる。 イヤシイ。
 私は、お前たちに負けるかもしれぬ。しかし、私は、ひとりだ。「仲間」を作らない。
 お前は、「仲間」を作る。太宰は気違ひになったか、などといふ仲間を、
 ヤキモチ焼き、悪人、
 イヤな事を言ふやうだが、あなたは、私に、世話したやうにおっしゃってゐるやうだけど、
 正確に話しませう、 かって、私は、あなたに気に入られるやうに行動したが、少しもうれしくなかった。

( 註) @〜Eは判読不能箇所 : @=言、A=言、BCD=かって、E=く  ではないだろうか。

井伏と太宰は、昭和初期から師弟としての親交を深めたが、戦後、特に昭和22年になるとその関係は
大きく変化し、井伏が疎開先(現広島県福山市)から帰京(S22/7)しても、ほとんど会うことはなかった。
井伏は、「太宰が “旧知の煩わしさ” から、井伏ら終戦前の仲間たちを避けている」 と感じたという。

戦争と敗戦という激動の時の流れと急激な価値観の変化・混乱があり、それに対応する人々の心が
複雑に絡みあったということだろうが、このメモは、図らずも太宰自身の生き方を物語ったともいえよう。
太宰自身が、自身の文学的欲望のために生涯にわたって井伏を利用した・・。


詳細は、別記「太宰治 :玉川上水心中死の核心(三重の要因)」の項 参照

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