「井伏さんは悪人です」 :太宰治の遺書と手帳のメモ
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昭和23年(1948)6月13日深更、太宰と愛人の山崎富栄は富栄の部屋を出て、歩いて数分程度の三鷹の
玉川上水の土手から入水した。 富栄の部屋はきれいに整理され、二人の写真、遺書などが置いてあった。
部屋には、クシャクシャにした「反古」もあり、その中には次の文面の書面もあった。
「皆、子供はあまり出来ないやうですけど 陽気に育てて下さい
あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです
小説を書くのがいやになったからです
みんな いやしい慾張りばかり 井伏さんは悪人です」
この文面自体は当時の多くの文献に載っており、周知のところだが、「反古」 に関しては
長篠康一郎による 「発見時は反古ではなかった」 という指摘があり、この点については、
<朝日新聞>(S23.6.16)と<新潮>(H10/7)の写真、記事などを参考に、詳細を別記した。)
* 妻美知子あての遺書
太宰が書いた妻美知子あての遺書九枚中の一部も、同じ<新潮>誌に実物写真入りで初公開された。
一般に、「井伏さんは悪人です」 は妻美知子宛遺書にも書いてあるといわれるが、公開部分にはない。
「遺族の意向で非公開」 の部分にあるのかもしれないが、明らかにはなっていない。
2枚目 「子供は皆 あまり 3枚目 出来ないやうですけど 陽気に育ててやって下さい たのみます ずゐぶん御世話になりました 小説を書くのが いやになったから 死ぬのです」 6枚目 「のです いつもお前たちの事を考へ、さうしてメソメソ泣きます」 9枚目 「津島修治 美知様 お前を誰よりも愛してゐました」 |
2. 「井伏さんは悪人です」 と 「手帖の執筆メモ」
平成7年(1995)に青森県近代文学館が開催した「特別展・太宰治」に際し、美知子未亡人は、
太宰が遺した「手帖」2冊(昭和22年用と昭和23年用)など多数の資料を提供、寄贈した。
同館は、平成13年(2001)に、この「手帖」を原寸大の写真版にして
「資料集 第二輯 太宰治・晩年の執筆メモ」 として公刊した。
井伏鱒二 ヤメロ といふ、足をひっぱるといふ、 「家庭の幸福」 ひとのうしろで、どさくさまぎれにポイントをかせいでゐる、卑怯、なぜ、やめろといふのか、 「愛?」 私はそいつにだまされて来たのだ、人間は人間を愛する事は出来ぬ、利用するだけ、 思へば、井伏さんといふ人は、人におんぶされてばかり生きて来た、孤独のやうでゐて、このひとほど、 「仲間」がゐないと 生きてをれないひとはない、 井伏の悪口を@ふひとは無い、バケモノだ、阿呆みたいな 顔をして、作品をごまかし(手を抜いて) 誰にも憎まれず、人の陰口はついても、めんと向かっては、何もAはず、 わせだをのろひながらもわさだをほめ、愛校心、ケッペキもくそもありやしない 最も、 いやしい 政治家である。ちゃんとしろ。(すぐ人に向BCDグチを言ふ。Eやしいと思っ たら、 黙って、つらい仕事をはじめよ、) 私はお前を捨てる。お前たちは、強い。(他のくだらぬものをほめたり)どだい私の文学が わからぬ、わがままものみたいに見えるだけだろう、 聖書は屁のやうなものだといふ、 実生活の駈引きだけで生きてゐる。 イヤシイ。 私は、お前たちに負けるかもしれぬ。しかし、私は、ひとりだ。「仲間」を作らない。 お前は、「仲間」を作る。太宰は気違ひになったか、などといふ仲間を、 ヤキモチ焼き、悪人、 イヤな事を言ふやうだが、あなたは、私に、世話したやうにおっしゃってゐるやうだけど、 正確に話しませう、 かって、私は、あなたに気に入られるやうに行動したが、少しもうれしくなかった。 |
( 註) @〜Eは判読不能箇所 : @=言、A=言、BCD=かって、E=く ではないだろうか。
井伏と太宰は、昭和初期から師弟としての親交を深めたが、戦後、特に昭和22年になるとその関係は
大きく変化し、井伏が疎開先(現広島県福山市)から帰京(S22/7)しても、ほとんど会うことはなかった。
井伏は、「太宰が “旧知の煩わしさ” から、井伏ら終戦前の仲間たちを避けている」 と感じたという。
戦争と敗戦という激動の時の流れと急激な価値観の変化・混乱があり、それに対応する人々の心が
複雑に絡みあったということだろうが、このメモは、図らずも太宰自身の生き方を物語ったともいえよう。
太宰自身が、自身の文学的欲望のために生涯にわたって井伏を利用した・・。
(詳細は、別記「太宰治 :玉川上水心中死の核心(三重の要因)」の項 参照)
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