井伏鱒二と太宰治:師弟25年の軌跡

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井伏鱒二=本名・井伏満寿二:M31(1898).2.15生:広島県安那郡加茂村粟根(現、福山市)
                :H5(1993).7.10没(享年95歳):墓所 「持法寺」(東京・北青山)

太宰治=本名・津島修治:M42(1909).6.19生:青森県北津軽郡金木村 (現、五所川原市)

            :S23(1948).6.14没(享年38歳):墓所 「禅林寺」(東京・三鷹市)
         (没日:6/14は戸籍上、6/13は禅林寺過去帳、6/19は桜桃忌)

井伏鱒二と太宰治は師弟の関係にあった。
井伏がいなければ、作家「太宰治」も名作『人間失格』も
生まれなかったと言って過言ではない。

本項は、靑森の中学生 津島修治が井伏鱒二の小説を読んで興奮した時から
「井伏さんは悪人です」 と書き遺して愛人と心中死するにいたった25年間、
二人の親交と別れを辿った。

なお、主な参考文献(典拠)は本項の末尾に記した。
また、詳細については 「太宰治(人生と作品)」 など
本文中に記した関連の別項目も参照してください。

Ⅰ.太宰の人生の節目と井伏の関わり

太宰文学は、作品傾向から 「前期(~S13)」、「中期(~S20)」、 「後期(S21~)」 の三期に分けられる。
これを “実生活”の面から見ると、期毎に異なる女性との関わりが強く、この区分は文学というだけでなく、
太宰の人生の節目をも示す。そして、太宰の意識の中には、常に井伏が存在する。

(前期・・田部シメ子、小山初代(妻)、 中期・・美知子(妻)、 後期・・美知子(妻)、太田静子、山崎富栄)

・「前期」(~S13は、“生家と井伏と社会に甘えた奔放生活” ・・・ 破滅を認識、再起を決意。

 ・「中期」(~S20は、“生家と井伏と社会の規制に服した生活” ・・・ 平穏な処世、家庭生活。

・「後期」(S21~)は、“生家と井伏と社会から分立した独善生活” ・・・ 糸が切れた凧の状態。

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それにしても、井伏は、何故 これほどまでに太宰の人生に深い関わりを持ち続けたのか?
太宰の生家、兄文治の側にも都合があったという背景が考えられなくもないが、
仮にそうだったとしても、井伏が太宰の文学的才能を認めたからとしか察しようがない。

ちなみに、津島文治は、後に次のように語ったとある。(月刊「噂」(S48/6))

「井伏さんといえば、一部の方たちは私が若い頃から井伏さんのお書きになるものを
愛読していたので、”弟修治をよろしく頼みます”という手紙を出して指導をお願いした
のではなかろうか、と考えていらっしゃるようですが、そのような事実は無かったと
記憶しております。やはり、修治が一番先に、井伏さんのご人格、文筆力といった
ものに引かれ、ついで中畑君、北(芳四郎)君が「頼みます」と強引に修治を
お願いしたというのが順序です。」


(月刊「噂」(S48/6)は、「特集 ”保護者”が語る太宰治」 を載せている。)
・中畑慶吉 「女と水で死ぬ運命を背負って」
・津島文治「肉親が楽しめなかった弟の小説」
(いつ、どこで、誰に語ったのかは記載なし)


また、井伏節代(夫人)は、後に次のように語っている。(井伏鱒二著「太宰治」
(2018/7:中公文庫:巻末インタビュー(1998・齋藤慎爾)より)

「井伏は太宰さんを本当にかわいがっていました。「もうあんな天才は出ない」と、その
死をくやしがってもいました。(中略) 太宰さんの葬儀のとき、自分の子供が死んでも
泣かなかった井伏が、声を上げて泣いたことを河盛好藏さんがお書きになっています。
(中略) 私にとって井伏を思うことは、太宰さんを思うことでもあります。」

井伏の関わりがなければ、作家「太宰治」は存在しなかったといっても過言ではないのである。

  1.「前期」の師弟 =太宰、文学青年・文士の時代(井伏の支え)=

(太字は、関連が特に強い事柄)

年月

太宰
満年齢

太宰:井伏に繋がる主な出来事

井伏の太宰との関わり) 備 考

T12
1923

S2
(1927)



14


18才

T12/3父(貴族院議員)死

T12/3高等小学校1年を終了

/4靑森中学(旧制)入学

・文学志向-同人誌発行など。

詳細下記(参照①



T12夏太宰は「幽閉」(後の
「山椒魚」)を読み興奮
した。


・以来、井伏の存在を意識し、
井伏作品を捜して愛読。


・津島家は県有数の資産家

・長兄文治(25)家督相続
(早稲田大・井伏は同学年)

T14/10文治、金木町長
 S2からは県会議員)

S2
1927

 S4

 (1929)

18才


20才


S2/4弘前高等学校入学

・文学活動は左翼傾向顕著

S2/9芸妓小山初代を知る

S4/12最初の自殺(睡眠薬)未遂

詳細下記参照②

S3/5同人誌「細胞文芸」創刊
(太宰が主導、仲間を集めた)

・上京の折、寄稿依頼で井伏宅
を訪問。(不在で不面)


井伏は応じ、短編「薬局室
挿話」を送付、掲載(S3/9


S2/7芥川竜之介自殺
(太宰はショックを受けた)

・文治は、地元の有力者
として活躍。


-治安維持法改正(S3/6)
左翼弾圧強まる-

S5
1930
 
S8
(1933)


21才



24才


S5/4東京帝国大学文学部入学

・左翼的作品を同人誌に発表
共産党シンパ活動(住居を転々)


S5/11
鎌倉海岸心中:女性死亡

/12小山初代(19)と仮祝言

 S6/2
初代と同居(結婚・入籍無)

 
S6ほとんど登校せず、左翼支援
警察の取り調べ、留置など。

S7/7文治の強烈な指示で警察
に出頭、左翼離脱-文学専念


/12靑森検事局に左翼絶縁を
誓約、以降、完全離脱。


S8/2ペンネーム「太宰治」公表。
〃同人誌「海豹」創刊に参加、
「魚服記」発表、文壇デビュー

詳細下記(参照③

S5/5井伏と初対面-師事
(手紙「会ってくれないと自殺」)

・井伏に原稿を郵送、時折訪問

・井伏は原稿を読んで返す
ことを繰り返す。


プロレタリア文学全盛期-

・太宰は井伏に左傾を誘い、井伏
は拒否、左翼になるなと助言。


・左傾が流行ったが、井伏は
頑なに拒否し、”大酒飲み”を
選んだという
。(小田嶽夫)


S7/9
「思い出」に甲上の評価

(太宰はS8「海豹」に発表)

・井伏は、「太宰」は「ダザイ」と

訛らずに聞こえると感心。


・文治に内密の行動
(左翼活動:アジト、
資金、
初代との交際)



S5/9初代、太宰の手引きで東京へ出奔

/11文治-太宰会談 結婚許可、分家除籍、
仕送り120円(S6/1覚書)



S7/6
覚書違反-文治激怒
 仕送り停止通告。

/7文治は太宰に靑森警察への自首を指示。
仕送りは90円で継続。


-大正末~同人誌時代-

S8
1933

S10
(1935)




24



26才

S8/2芝区白金三光町から
杉並区天沼(荻窪)に転居

同人活動を活発に行ない、
文学仲間拡大。
・・古谷綱武、
檀一雄、木山捷平 中村地平、
山岸外史、伊馬鵜平ら・・


S10/3”都新聞社“入社試験失敗
/3 鎌倉の山中で自殺未遂

詳細下記参照④

井伏宅
(淸水)に近く、訪問頻繁
将棋、酒、など親密化。

井伏周辺人物との交遊開始

 (「阿佐ヶ谷将棋会」の初期)

S9/3太宰が「青ヶ島大概記」助力
S9/4太宰が「洋之助の気焔」代作

S10/3井伏、檀一雄、中村地平が
文治に面会:太宰の東京での
文学継続を要請
参照④

飛島定城一家同居
(芝白金から同居を継続)


-S8/2小林多喜二拷問死-

プロレタリア文学壊滅
“文芸復興” の機運-
日本、国際連盟脱退-

S10/3 文治、太宰を連れ
戻すつもりで上京。
仕送り50円に減額、継続。
参照④

S10
1935

S11
(1936)



26才



27才


S10/4盲腸炎手術-入院-転入院
麻薬性鎮痛薬パビナール中毒
 
S10/7退院と同時に船橋へ転地

/81回芥川賞で「逆行」は
次席-川端康成に強烈抗議騒動

/8佐藤春夫を紹介され師事

/9東大授業料未納で除籍

S11/12佐藤春夫に芥川賞を
懇願する長文の手紙2

/2済生会芝病院入院-退院

/6初の創作集「晩年」刊行

/10東京武蔵野病院に入院
/11完治退院、“碧雲荘”入居

/12檀一雄、熱海人質事件

詳細下記参照⑤



S11/7「晩年」出版記念会に出席
(会の雰囲気は異常・・
麻薬中毒の症状が疑われた)


S11/10井伏は入院説得を頼まれ、船橋を訪問、尿院に同行。

保証人は井伏。船橋を退去。
初代は井伏宅などに滞在。

/11 文治・井伏・太宰が面談
月3回(@30円)の仕送りは、
井伏経由
で太宰に渡すと合意


“碧雲荘”は井伏宅へ徒歩10
(井伏の妻と初代とで探した)



  /12井伏が太宰の借金金策

北芳四郎(東京での太宰
のお守り役。洋服仕立屋)
が手配して転入院や船橋
での転地療養を実行。


地元の中畑慶吉(呉服商)
もお守り役として、北と連携。
(いづれも津島家出入商人
で、文治が依頼した。)


S11/2 226事件-


太宰の「晩年」刊行に檀、
浅見淵が奔走、実現。


パビナール中毒進行
窮状を初代が訴え、
文治が知り、対応を指示。

/11文治上京。仕送り
90円(30×3回)

S12
1937

S13
(1938



28才



29才


S12/3初代の過ちが発覚-心中
未遂-離縁(初代は帰郷


/6 太宰は下宿屋”鎌瀧”に独居
いわゆるデカダン生活。

(檀一雄ら多くの文学青年と交友
したが、このままでは文学で
生きられないとの思いに至った)

S13/9井伏の誘いで鎌瀧を退去、
御坂峠の天下茶屋に逗留。


/9 石原美知子(甲府市)と
見合い。太宰は結婚を切望し
井伏に手記(誓約書)を提出。
婚約に至った。


/11御坂峠から甲府市の石原家近くの下宿に止宿。

詳細下記参照⑥

S12/3水上温泉心中未遂で初代は
帰郷までの約1ヶ月、井伏宅などに
滞在。井伏宅に“琴”を残した。



井伏は月3回の仕送りの中継を
継続。時折”鎌瀧”を訪れるなど、
いわばお目付役だった。

S13夏 井伏は北らに太宰の再婚
を頼まれ、知人からもたらされた
見合写真を太宰渡した。


S13/9自分が滞在中の御坂峠
(山梨県)へ来るよう誘った。


/9井伏の仲介で見合い実現
/11井伏は請われて仲人役を
引き受け
た。
(結納、結婚資金援助など)


S12/3太宰の心中未遂


S12/7 日中戦争突入-



文治は、引き続き北や中畑
を通じて太宰情報を入手、
対応に苦慮。

北らは太宰再起には再婚
が必要と井伏を頼った。



文治は、この縁談に反対は
しないが援助もせずの姿勢。

北、中畑
が文治、太宰、
井伏の間に入って
円満に進めた。


  2
.「中期」の師弟 =太宰、プロ作家に=


S14
1939

/1~/8



30才

S14/1 8井伏宅にて結婚式
当日甲府の新居に帰り新生活。


・以降、執筆に専念。


「富岳百景」「黄金風景」「女生徒」
など発表・・好評作品が多い。

詳細下記参照⑦

S14/1井伏夫妻が仲人
(紹介者の斎藤夫人と新婦側
から美知子の姉夫婦が出席)

「富岳百景」
には井伏が登場。

月3回の仕送り中継継続。


結婚式には、太宰側から
北と中畑の二人が出席。

津島家としては表だっては
何もせず。


井伏経由の月90円
30×3)の仕送りは
そのまま継続。


S14
1939
/9



S20
(1945)



30



36才





S14/9三鷹に転居(終の棲家)
安定、平穏な家庭生活の中・・
執筆に打ち込む。


・原稿依頼増加、名が上がる。


井伏ら文学仲間との交遊活発
 “阿佐ヶ谷将棋会”の常連。

井伏らと将棋、酒、旅・・


S16/9太田静子が来訪、初対面。
S16/11徴用、肺疾患で不合格

S19/5「津軽」執筆-津軽を旅

S20/4甲府(妻実家)へ疎開。
〃/7甲府空襲で全焼、
金木へ再疎開
S20/8金木で終戦を迎えた


詳細下記参照⑧


阿佐ヶ谷将棋会”は盛会期。
中心者は井伏。太宰は積極的に
出席、会員との“酒”を楽しんだ。


S15 四万、伊豆など温泉旅行。

伊豆で深夜の洪水、九死に一生。


S16/11
徴用で井伏はシンガ
ポールへ。日米開戦を洋上で
知る。(1年後帰京)


S19春 「津軽」に関しアドバイス

S19井伏は甲府市郊外へ疎開。
甲府で太宰との交遊が続く。
4月、初代の死を太宰に話す。

7月、井伏も福山へ再疎開。
S20/8福山で終戦を迎えた。



文治とは義絶状態続くが、
北、中畑が間に入り
気配りをした。


S16/8母衰弱。北、中畑の
計らいで太宰は文治に
内密で帰郷、母に再会。


S17/10母重態、太宰は
妻子を伴い帰郷。
義絶は自然解消。
(母は12月に逝去。
太宰は単身帰郷)



S20/7文治は太宰一家
4人)の疎開を受入れた。
S20/8終戦。


  3.「後期」の師弟 =太宰、“糸が切れた凧”=


S21
1946



S23
(1948)
/6




37才



38





S21/10疎開終了:三鷹に帰る

S22/3山崎富栄を知る



・太田静子、山崎富栄との関係は
後戻り不能の状態に。

・井伏ら旧知とは疎遠になる。

・「井伏鱒二選集」刊行を企画
(筑摩書房・古田晁社長)

・「斜陽」(S22)で超流行作家に。

S22/11太田治子誕生(認知)
(山崎富栄との仲は微妙に変化)

S23/1井伏宅年始訪問の直後から
先輩批判開始-「如是我聞」など。
井伏との訣別を決意(手帖メモ)


S23/6山崎富栄と心中死。

「井伏さんは悪人」と書き遺す。

詳細下記参照⑨

S21/11太宰は、井伏の上京予定を知らされ、「首を長くして待った」
(ハガキ)が、会っていない様子。


S22/7疎開終了:荻窪に帰る

・井伏によれば、疎開中は頻繁に
文通したが上京後は返信がなく、
太宰は「旧知の煩わしさ」を感じた
のか、会ったのは3回という。


S22/8頃「選集」の打合わせ。
S23元旦、太宰が年始訪問
(この日を契機に先輩批判)
③〃/4 井伏が太宰を訪問。
「如是我聞」中止を求めた。)


S23/2雑誌に2人の親交写真

S23/5-6古田晁に、太宰の転地
静養
に協力を求められ応諾。

その準備中に太宰は心中死

・太田静子との精算に当る。

・S28御坂峠に太宰の碑建立。


仕送りは帰京時に太宰が
申し出て廃止。


S21/4文治、衆議院議員
S22/4文治、青森県知事

(太宰、井伏との関係継続)

S23 生家は売却、旅館
「斜陽館」となり(S25)、
現在は、五所川原市施設
「太宰治記念館」
(国重要文化財)


・太宰の墓所について、
文治は津島家の菩提寺
(浄土真宗)ではなく、

東京で探すよう指示。


美知子が三鷹の禅林寺
(黄檗宗)に決めた。

この禅林寺を会場に、
長年、井伏らが集まって
“桜桃忌”が行なわれた。


Ⅱ.参照①~⑨ 井伏鱒二が関わるエピソードなど(文中の太字は、関わりが強い事柄)

  1.「前期」の師弟 =太宰、文学青年・文士の時代=


参照 ①

T12S2

 *14才~18才(旧制靑森中学)・・文学に興味を持ち、「校友会誌」や創刊した同人誌に作品を発表。

 ・太宰は、中学に入学した大正12年(14才)の夏休みに、井伏の「幽閉」(「世紀」創刊号(T12/7))を読み、
  
「埋もれたる無名の天才を発見した」と興奮した。それ以来、井伏の存在を意識し、雑誌などから井伏の
 
 作品を捜して読み、快哉を叫んだ。後に刊行の井伏の短編集「夜ふけと梅の花」(S5)を絶賛している。


参照 ②

S2~S5

 

 *18才~21才(旧制弘前高校)・・活発な左翼的文学活動。花柳界に出入りし芸妓紅子(小山初代)を識る。
 
 ・太宰色の強い同人誌「細胞文芸」を創刊S3/5)。小説を発表する一方、東京の作家らに寄稿を要請。
  井伏のほか林房雄、今東光、船橋聖一などが小説、随筆で応じたが、吉屋信子は「拒否」と返事。

 ・井伏には、手紙による依頼を断られたので、太宰は再依頼のため上京の折に荻窪の井伏宅を訪問、

  井伏は不在で会えなかったが、来意を知った井伏は、短編小説「薬局室挿話」を寄稿した。
 

  太宰は井伏の「薬局室挿話」を第4号(最終号・S3/8)に載せ、井伏に原稿料5円の為替を送付した。


参照 ③

S5S7

 *21才~24才(東京帝国大学文学部仏文科)・・左翼的同人誌に作品発表。共産党非合法活動を支援。 

 ・東大入学(S5/4)で上京、直ぐに手紙で井伏に面会を求めた。井伏が返事を出しそびれていると、
  「会ってくれないと自殺する」という手紙を書き、5月に神田須田町の作品社で初めて会った


  太宰は自作の原稿を持参し、今読んでくれと頼んだ。内容は、当時井伏らが書いたナンセンス物に似せて
  おり、井伏は困惑して、古典を読もう、漢詩やプーシキン、チェーホフを読もう、というように云った。


 ・同時期、中村地平(東大同学年)も井伏に師事、この頃ないし翌年(S8)には井伏宅で太宰と顔を合せた。
 
 
・暫くして、太宰は井伏に左翼作家になるよう勧めた。井伏は断り、逆に左翼作家にならないよう勧めた。

  小田嶽夫によれば、井伏は「左傾するか大酒飲むか、どちらかしかない」と云って大酒を選んだという。


   (井伏の関わりはほとんどないが、昭和5年秋、太宰の身の上には重大変化があった。
    ・9月、弘前高校時代に馴染みになった靑森の芸妓小山初代を東京へ呼び寄せた。
    ・11月上旬、長兄文治が上京し、分家除籍を条件に結婚を承諾し、東大卒業まで月120円の仕送りを約した。
            文治は初代を落籍のため連れ帰った。
    ・11月28日、太宰は鎌倉の海岸で、銀座のカフェーの女給(田部シメ子)と心中を計り、女性だけが死亡した。
            太宰は自殺幇助罪容疑で取り調べを受けたが起訴猶予となった。
    ・12月、碇ヶ関温泉(青森県)で、小山初代と仮祝言を行なった。
    ・翌年2月(S6)、初代が上京し結婚生活(入籍なし・・今でいう事実婚)に入った。


 ・このころ、太宰は、共産党の非合法活動を支援(アジト、資金)しており、警察から逃れるため頻繁に転居

  しながらも原稿を書き、それを時折井伏に郵送し、34編溜まった頃、井伏宅を訪れるようになった。


 
・太宰の生活を知った文治は、仕送り停止などで転向を迫り、太宰は靑森警察署に出頭(S7/7)して左翼絶縁
  を誓約した。以降、左翼とは一切の関係を絶ち、文学活動に専念した。仕送り額は120円が90円に減額された。


 ・静岡県静浦村(現・沼津市)に滞在(S7/8)して「思い出」を起稿、帰京して借家で書き続け、「第2章」までを
  井伏に届け、井伏から「甲上の出来」と讃辞を得た。
  (借家は芝区白金三光町の大鳥圭介の旧邸で同郷の飛島定城(東京日日新聞記者)一家と同居)


 
・ペンネームを「太宰治」と決めて(S8/1頃)直ぐに井伏に報告した。井伏は、「津島」は本人が言うと「チシマ」
  と聞こえるが、「太宰」は津軽弁でも「ダザイ」であり、よく考えたものだと感心した。

 
 
・「太宰治」名で同人誌「海豹」の創刊に参加、「魚服記」を発表し(S8/2)、同人仲間などの間で大好評を博し、
  いわば文壇デビューを果たした。

  井伏は太宰に、「いい気になっちゃいけないよ、何かの間違いかもわからない」と云った。


参照 ④

S8S10
 

 
*24才~26才(東京帝国大学文学部仏文科)・・
左翼絶縁、井伏宅に近い荻窪に転居。文学専念。

  
・昭和82月、太宰は、家主側の事情で芝白金の借家を退去することになり、杉並区天沼3丁目(現・本天沼)の
   借家に飛島一家と転居した。井伏宅には徒歩約10、荻窪駅は徒歩約20分の距離だった。


  
・しかし、駅が遠くて不便なため、5月には荻窪駅北口前(天沼1丁目、現・3丁目)の借家に飛島一家と
   再転居した。駅まで徒歩23分、井伏宅には徒歩約10である。

  ・以降、太宰の井伏宅訪問は頻繁になり、将棋や酒を通じて親密度が深まった。

  
・「海豹」には、続いて「思い出」を発表、古谷綱武、木山捷平など同人との親交を深める。

  
・太宰は「海豹」、「鷭」、「青い花」、「日本浪曼派」など活発な同人活動で執筆、発表を続け、文学仲間が増え、
   交友を深める。井伏は、中堅作家としての地歩を築きつつあり、太宰の同人活動にはほとんど関与して
いないが、
   太宰の交友は井伏周辺の人物が多い。行動の拠点が荻窪、阿佐ヶ谷界隈だったからだろう。


  
・井伏が中心にいる阿佐ヶ谷将棋会はいわば成長期に入り、安成二郎、青柳瑞穂、田畑修一郎、小田嶽夫、
   
外村繁、木山捷平、中村地平らが常連で、太宰もこのメンバーの一員として将棋や酒を楽しんでいた。

  
・井伏の作品に「洋之助の気焔」(S9/4:文藝春秋)がある。この小説は太宰による代作で、井伏は一行アキ
   の後の最後の部分だけを太宰と相談して書いた。(この事実は井伏自身が公表(S28/12:文芸)した。)

   
井伏が多忙に紛れて太宰に頼んだもので、太宰は保管してあった未発表作品を提供したようだ。
   
同時期の「青ヶ島大概記」(S9/3:中央公論)井伏の執筆を太宰が手伝っている。

   
さらに、井伏の書評「飾らぬ生水晶-中島健蔵氏著『懐疑と象徴』」(S9/10:帝国大学新聞)も、中島健蔵に
   よれば太宰による代作で、井伏の多忙ぶりと太宰との関係の深まりが窺える。


  
・太宰はほとんど通学せず、卒業できる状況になかったが、卒業試験の面接を受けることができた。
   その場で、辰野隆教授から「面接に立ち会っている教授3人の名前を言えたら卒業できるかも・・」と

   
云われたが、太宰は仏文科の3人の教授の名前を1人も答えられず、卒業不可だったという。

   文治との約束は「卒業」で、できなければ仕送りは止まり、文筆一本では生活できない。困った太宰の行動は、
    都新聞社の入社試験受験だったが不採用で、行方不明、自殺(未遂・3回目)だった。(S10/3)


   「太宰失踪」は新聞にも載り、井伏や友人らが飛島家に集まり、井伏は警察に捜索願を提出、新聞には

   
太宰への呼びかけ記事を載せ、友人は心当たりを捜索するなど大騒動となったが、鎌倉の山中で自殺
   (縊死)に失敗した太宰はひょっこり帰宅した。首にはひどいミミズ腫れがあったという。

   
太宰を連れ帰るつもりで文治が駆けつけたが、井伏らの取りなしで東京で文学を続けることが許された。
   
仕送り額は月50円に減額されたが(夫婦二人は月60円で普通に暮らせる時代)、作家への道は繋がった。

            ----------------------------------------------------

   
ところでこの井伏らと文治との面会(S10/3)については、相馬正一著「評伝太宰治 上巻」、山内祥史著
   「太宰治の年譜」ほか多くに「井伏らが神田の関根屋に文治を訪ねて仕送り継続を願った」旨載っている。

   また、当事者では、井伏鱒二著「太宰治集上-解説」(S24:新潮社)、同著「太宰治と文治さん」(S48:
   日経新聞)、太宰治著「喝采」(S11)などに面会関連の記述がある。

   しかし、評伝類の典拠(根拠)は明確でなく、当事者の記述も次の状況で事実関係は判然としない。

   同席したとされる中村地平の小説「失踪」(S11)や、檀一雄の「小説 太宰治」(S24)には、この自殺未遂に
   ついて詳記があるが、文治との面会に触れた記述はなく、井伏は「太宰治と文治さん」には、文治と初めて
   会談したのは昭和11年11月
と書いており、これが事実なら昭和10年の会談は無かったことになる。

   また、仕送りの大幅減額(90円→50円)関連では、太宰治の「川端康成へ」(S10)、相馬正一著「評伝
   太宰治 上巻」(1995)に記述があるが、太宰治著「東京八景」(S16)には、船橋に移った頃(S10/7~)は
   「毎月90円の仕送りを受けていた」とある。
   井伏の「太宰治と文治さん」や飛島定城の「けんか飛一代」の記述などを合せると、50円に減額の根拠は
   薄弱である。

   太宰の人生の重大な岐路だったこの時、文学を続けられるに至った背景に井伏らと文治の面会があったのか、
   仕送りの減額があったのか、事実は不詳とせざるを得ないが、私見ではこの面会、減額はなかったと推察する。

   (詳細は別記項目「太宰治の年譜(年表)の追記・補足など」参照)


参照 ⑤

S10S11
 
 
 *26才~27才(東京帝国大学を授業料未納で除籍退学(S10/9))・・
入院→船橋へ転地→入院→荻窪

  ・自殺未遂騒動(S10/3)直後の4月、太宰は盲腸炎で入院・手術をした。術後に腹膜炎で激しい痛みを

   
訴えたため麻薬性鎮痛薬パビナールが投与され、太宰の訴えにより投与量が増えて中毒化していった。


  ・太宰側には、術後静養のための転院と転地療養が必要との判断があり、7月(S10)には飛島家と別れ、

   
夫婦二人で船橋(千葉県)の借家に転居した。文治の意向があり、北芳四郎が手配したと見られる。


  
・執筆の場は船橋となったが、同人活動や短編集刊行の準備など文学上の人間関係は従前と変わらず、

   井伏をはじめとする文学仲間との往来が続き、徐々に名を上げた。


  ・芥川賞を巡る川端康成や佐藤春夫とのトラブルや初の短編集「晩年」出版(S11/6)と異常な雰囲気の

   出版記念会(S11/9)などはパビナール中毒の進行が影響していると見られている。


   実際、パビナール購入のための友人知人らからの借金は限界に達した。初代はこれを隠しきれなくなり、
   
文治の知るところとなった。北芳四郎が手配して入院治療させることにしたが、それを太宰に承知させ
   
なければならない・・。説得の役目を井伏に依頼した。


  
・井伏は、船橋の太宰宅を訪れ、“一生に一度のお願い”と受診を懇願するように説得した。太宰は承知せざるを
   得ず井伏らとともに迎えの車で、精神科の東京武蔵野病院に向った。初診、即入院となった。

  
  
 入院保証人は井伏、病室は鉄格子窓の個室で監禁状態、面会不可。禁断症状に苦しむ治療だった。


  
・入院1ヶ月(S11/10.1311.12)でパビナール中毒は完治、退院となった。


  
 退院に際し、文治が上京し、井伏らを交え太宰と面談し、後のことを相談した。文治は太宰を津軽に帰す考え
   だったが、結局、井伏の願いを聞いて文学を続けることを認め、太宰と「約束書」を交わした。


  
・その項目の一つに「仕送りは月90円」がある。

   
この90円は、月3回、30円ずつを井伏に送金し、井伏から太宰に渡すことになり、これが昭和17年ないし18
   まで続いた。その後は直接送金となって、太宰が疎開を終り上京する時(S21/10)まで続いた。


   退院すると、初代と井伏の妻とで探した碧雲荘に落ち着いた。井伏宅、荻窪駅とも徒歩約10である。

  
  ・執筆のため井伏の紹介で熱海に逗留(S11/12)、そこを訪れた檀一雄と酒食で散財し、支払に窮した太宰は
   金策のため檀を熱海の宿に残して一人上京した。・・が金策はできず、井伏宅で井伏と将棋をしているところへ
   檀が付け馬とともに現れた。驚いた井伏が金策に走り、佐藤春夫に借りるなどして解決した。


   いわゆる“熱海人質事件”で、檀によれば、太宰の「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」という声が
   檀の耳にいつまでも残った。これが後の名作「走れメロス」(S15/5)の心情の発端だろうという。


参照 ⑥

S12
S13

 
 
 *28才~29才(波乱の文士生活)・・
妻の過ちで離縁、独居、デカダン生活、再婚。

  
・太宰の入院中に、初代は太宰の若い友人(遠戚の画学生)と関係し、これを太宰が知るところとなった。
   太宰は初代と水上温泉の谷川岳で心中(睡眠薬服用)を図るが失敗し(S12/3)、二人は別々に帰京した。

   太宰は碧雲荘に戻り、井伏・北あてに「記」S12.3.24付)を提出、初代とは絶縁の意思を明確に示した。

   初代は井伏の家に帰り、離縁が確定、帰郷するまでの約4ヶ月間を井伏や叔父(吉沢祐)の家で過ごした。
   初代は、帰郷(S12/7)に際して持っていた琴を井伏家に残した。(この「琴」は、現在、ふくやま文学館所蔵)

  ・太宰は、井伏宅まで徒歩数分の下宿屋“鎌瀧”の一室に独居(S12.6.21)、井伏がいう「生涯中最も
   デカダンスな生活」になった。

   太宰の生活を心配した北らは、再婚をさせるべきとして井伏を頼り、その方向に動き始めた。


  ・太宰も、このままでは文学で身を立てられないとの思いから、再婚の勧め、井伏の誘いを受けて「思いを

   
新たにする覚悟」で“鎌瀧”を退去し(S13.9.13)、原稿用紙を鞄に入れて御坂峠(山梨県)に向った。


  ・御坂峠の天下茶屋で執筆しながら、井伏夫妻と三つ峠に登ったり、地元文学青年の訪問を受けたりした。


  ・井伏の知人(斎藤せい)からの縁談は見合い実施となり、太宰は井伏、斎藤せいと甲府の石原家を訪ねた。

   
太宰は結婚を切望し、井伏宛に、二度と破婚はしない旨の「手記(誓約書)」S13.10.24付)を提出した。

   
井伏が仲人役を務めて石原美知子(27才)との婚約が成った。

-参照:本サイト内、関連別記項目-

「太宰治(人生と作品)」

「太宰治:荻窪時代の危機―自殺未遂・麻薬中毒・デカダン生活」

「太宰治の荻窪時代=波乱の文士時代」(井伏鱒二の支え)

  2.「中期」の師弟 =太宰、プロ作家に=


参照 ⑦

S14/18



  

 *30才(石原美知子(27才)と結婚、妻の実家に近い御崎町に居住)・・執筆専念、文士からプロ作家に。

  
・昭和1418日、井伏宅で結婚式が行なわれた。

   
井伏夫妻が媒酌人で、太宰・美知子のほか、紹介者の斎藤せい(斎藤文二郎の妻)、山田貞一・宇多子

   (美知子の姉夫婦)、中畑慶吉、北芳四郎の九名だった。


   太宰夫婦は、当日の夜遅く、甲府に帰り、妻の実家とは徒歩約10分の御崎町の借家に落ち着いた。


  
・文治はこの結婚に一切関わらない姿勢で、津島家側として出席したのは中畑慶吉と北芳四郎だった。

   
中畑は太宰に挙式用の黒羽二重の紋服、袴、着物などを贈った。文治の差し金だろう。

   
90円(30×3)の仕送りは従来通りで井伏経由で継続される。


  
・この時期には「富岳百景」、「黄金風景」、「女生徒」、「葉桜と魔笛」などを発表、高評価を得た小説が多い。

   
発表の量、質に太宰の本気度が窺える。


  
・直近の実体験を題材にした「富岳百景」は、作家として再出発する太宰の決意表明の意味を持ち、
   作中に井伏も重要人物として登場する。


  
・太宰夫婦は、当初は甲府市に住んだが、同年9月には、井伏の住む荻窪に近い三鷹に転居した。


参照 ⑧

S14
~S20

 

 *30才~36才(平穏な家庭生活、文治との関係修復、戦災疎開)・・戦争激化も、執筆に交遊に積極活動。
  
  ・甲府の夏は暑すぎるという理由で、昭和14年(19399月に三鷹へ引っ越した。井伏をはじめ多くの文学

   
仲間が住む荻窪、阿佐ヶ谷に近く、暑さは口実で文学生活のための転居だったのではないだろうか。


   
平穏な家庭生活、執筆専念で、作家としての評価は上がり原稿依頼は順調に増加した。

  ・井伏を中心とした“阿佐ヶ谷将棋会”は盛会期に入り、十数名の常連文士が定例的に集まり、将棋と二次会
   酒を楽しんだ。太宰は常連中の最若手の一人で、積極的に参加してメンバーとの親交を深めていた。
   
   
日常的な井伏宅訪問だけでなく、その仲間たちとの旅行やハイキングなどの交遊も楽しんだ。

   
四万温泉(入浴写真)、伊豆温泉旅行(大洪水)、御嶽(奥多摩)行き(玉川屋での寄書き)など、
   多くの
エピソードがあるが、これらの会合の背景には戦争による不安な社会情勢があり、組織を持たない
   
文筆家同士の情報交換、支え合いの場でもあった。現在なら、いわば若手起業家のゴルフコンペとか・・。


  
・日米開戦(S161941.12.8)の前月に文人徴用があり、多くの作家も戦地に送られた。太宰は肺疾患の

   
ため不合格となり徴用を免れたが、将棋会の仲間では、井伏、中村地平はシンガポールへ、小田嶽夫は

   
ビルマ(現・ミャンマー)へ赴き、戦地で1年間を過ごし、それぞれが昭和17年末に帰国した。


   昭和17年元日、太宰は井伏の留守宅を毎年の習慣で年始訪問、御嶽行きでは仲間と寄書きを任地

   
送るなどしており、井伏が帰国すると直ぐに以前の交遊が復活したが、井伏不在の間に、太宰には
   太田静子との
交際や文治との関係修復など、後の人生に大きな影響を及ぼす出来事があった。

  ・新風土記叢書の第7編「津軽」の執筆依頼を受けた太宰は、おでん屋で飲みながら井伏とこの話をした。

   
同席していた木山捷平は、後に「津軽」(S19/11)を読んで、この時の井伏のさりげない一言が作品に反映

   
されていることに驚き、師弟の意思疎通の機微に触れたと述懐している。

  ・戦況悪化に伴い、井伏は甲府郊外にある知人の家に疎開し(S19/4)、太宰は甲府の妻の実家に疎開した

   
S20/4)が、二人は甲府駅近くの旅館「梅が枝」で頻繁に会うなど親密な関係が続いた。

   平穏な疎開生活だったが、状況は一変する。
   井伏は、疎開先の家が軍に収用されるため、郷里(広島県福山)へ再疎開することになり、甲府駅で乗車券を
   購入した日(S20.7.6)の深夜から7日にかけ、甲府はB29約130機による空襲を受け、甲府市は大半が焼けた。
   井伏は
7月8日に日下部駅を発って福山に向った。
   
太宰の妻の実家は焼失し、太宰も7月28日に甲府駅を発って郷里(金木町)へ向った。
   
   
師弟は西と北にほぼ2,000㎞の距離で隔てられ、それぞれの郷里で敗戦(S201945.8.15)を迎えるが、

   
このころから井伏に対する太宰の心情には微妙なわだかまりが窺え、3年後の訣別へと向うことになる。

-参照:本サイト内関連別項目-

「太宰治(人生と作品)」

「激動の昭和:文士は“阿佐ヶ谷将棋会”に群れた」

  3.「後期」の師弟 =太宰、“糸の切れた凧”=


参照 ⑨

S21S23

  

 *37才~39才(疎開から帰京、超流行作家に、愛人二人)・・「井伏さんは悪人」、山崎富栄と心中死。

  ・井伏によれば、疎開中は頻繁に文通があったが、太宰の帰京(S21/9)後には、ほとんどなくなったという。

   
太宰が二人の愛人(太田静子・山崎富栄)にのめり込んだ昭和22年に入ってからのことだろう。

   井伏は昭和21年11月下旬に上京予定で、三鷹に寄って会いたい(S21.11.26ハガキ)と太宰に知らせた。
   太宰は、「実にまったく首を長くして毎日毎日御待ちしてゐました。」(S21.12.21ハガキ)と井伏に書き送って
   いるので会っていないことが分かるが、この時の太宰の心情が表われている。
   
   しかし、井伏の疎開終了での帰京時(S22/7)には会っていない。太宰の心境の変化を認めてよかろう。


   
ただ、太宰は「井伏鱒二選集」刊行を企図しており、筑摩書房の古田晁社長、井伏との打ち合わせを8月頃に
   三鷹の山崎富栄の部屋で行なった。太宰はこの企画を井伏に知らせずに進めており、井伏への恩返しの
意図が
   あったと見られている。全9巻の「後書」を太宰が引き受けた。(心中死で1~4巻で終了、以降は上林暁が執筆)


  
・井伏は、戦後になって太宰に会ったのは、3回だけという。

   
太宰は、以前の将棋会の仲間たちとも疎遠になり、飲み会として復活した(S23/2)「阿佐ヶ谷会」に参加して

   
いない。井伏は、太宰が昔の仲間に「旧知の煩わしさ」を感じていた」と察している。

  ・井伏が太宰に会ったのは、選集刊行の打ち合わせ時のほか、昭和23年元日の太宰の井伏宅年始訪問と

   
同年4月、三鷹の山崎富栄の部屋で井伏の知人が睡眠薬を大量服用したため、井伏がそこを訪問した、

   
この3回だが、他に、「小説新潮」のグラビア写真撮影時(S22秋頃)でも顔は合せている。


   昭和23年元日の井伏宅訪問で、太宰は居合わせた先輩客らから批判を浴びたようで、この直後から作品で

   強烈な先輩批判が始まる。「美男子と煙草」、「家庭の幸福」、「如是我聞」などである。

   
志賀直哉を名指しで罵倒し、名指しではないが、井伏や川端康成らも標的であることが窺える。


   また、富栄の日記や太宰の手帖の執筆メモから、同年4月の訪問時、井伏は、太宰に「如是我聞」の発表を

   
止めるよう求めたと察せられる。


  ・太宰はポケット手帖を執筆用メモに使用していたが、この手帖(S23用)には当時の太宰の複雑な心情が

   
乱雑に記されている。特に、井伏が三鷹を訪問した4月頃に書いたと察せられる「井伏鱒二 ヤメロといふ」

   に始まる長文のメモには、井伏に対し、「私はお前を捨てる」、「ヤキモチヤキ、悪人」などとあり、

   
訣別の決意を示す驚愕の一文になっている。

  ・昭和23年(1948)6月13日深夜、太宰は愛人山崎富栄と玉川上水で入水心中した。
   「井伏さんは悪人です」と書き遺していた。


Ⅲ.太宰は 「井伏さんは悪人です」 と書き遺した!

太宰は、25年間にわたる親密な師弟関係を、「井伏さんは悪人です」 と書き遺して締めくくった。
この文言は何を意味するか・・、当時から様々な見解が示されているが、本ホームページでは
別記の「太宰治:玉川上水心中の核心(三重の要因)」中の次の項に詳記したので参照ください。

6.「「井伏さんは悪人です」の意味


太宰治特集として次に掲げた別記項目も関連が深いので合せて参照ください。、


「太宰治(人生と作品)」


「太宰治:荻窪時代の危機―自殺未遂・麻薬中毒・デカダン生活」

太宰治の荻窪時代 = 波乱の「文士時代」 (井伏鱒二の支え)


「井伏さんは悪人です:太宰治の遺書と手帖のメモ」

「太宰治:玉川上水心中死の核心(三重の要因)」


「太宰治と太田静子と「斜陽」」

「太宰治と山崎富栄と「人間失格」「グッド・バイ」」


「太宰治の「如是我聞」と志賀直哉の発言“三連弾”」

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・・・ 太宰治 : 杉並区の旧居マップ ・・・

・・太宰治の居住場所 ①~⑤など・・


(注) 「大東京区分図35区内 杉並区詳細図」(昭和10年)を使用。
  青梅街道は旧道筋で、天沼陸橋はなく、荻窪駅北口前の
道筋、道幅などの状況は現在とは大きく異なる。

「荻外荘」は、近衛文麿が入沢達吉邸を譲り受けて(S12/12)命名した。
同年6月に第1次近衛内閣が成立しており、国際政治の舞台にもなった。
  
  昭和5年に上京、共産党シンパ活動を行った
  関係で住居を転々としたが 昭和7年夏に転向、
  9月に芝区白金に一旦落ち着いた。 そして・・

 
S8/2~S8/5 :現・本天沼2丁目
   ・芝区白金から飛島定城家と共に転入。
   ・駅が遠過ぎるので飛島家と共に②へ転居


  S8/5~S10/6 :現・天沼3丁目(飛島家と同居)
   ・盲腸炎でS10.4.4入院-転院-退院。
    同時(7月1日)に現・船橋市へ転出。

  S11/11 :現・上荻辺りのアパート(下宿?)
   ・パビナール中毒で入院完治、退院時に転入。
   ・3日間で④へ転出。

 
S11/11~S12/6 :現・天沼3丁目 「碧雲荘」
   ・妻(初代)と離別、単身で⑤へ転出。
   ・建物は解体(H28/3)。→由布院温泉に移築。

 
S12/6~S13/9 :現・天沼3丁目(下宿屋『鎌瀧」)
   ・山梨県の御坂峠・天下茶屋に転出。
   ・見合い、結婚で甲府市に居住。
   ・三鷹に転居(S14/9)、心中死(S23/6)。


       ・・同じ時期、近くに居住・・
 
井伏鱒二: 昭和2年に転入し没年(H5)まで
     (清水町)・・師弟として濃密な関係。
 *伊馬鵜平: 天沼(S7~S14)・・太宰は最期まで
     親密交遊。伊馬春部に色紙を遺した。
 *神戸雄一: 天沼(S6~S8)・・<海豹>創刊者の
     一人。太宰・木山を文壇に送り出す。
 *上林 暁: 天沼に転入(S11)し没年(S55)まで
     ・・「阿佐ヶ谷将棋会」仲間として親交。
 *徳川夢声: 昭和2年に転入し没年(S46)まで
     (天沼)・・太宰との交遊程度は不詳。

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本項の主な参考図書

・井伏鱒二著『荻窪風土記』(1982:新潮社)、
・同著『太宰治』(1989:筑摩書房)・・「目次」など下記

・太宰治著『富岳百景』(1939:文体)
・同著『東京八景』(1941:文学界)
・同著『十五年間』(1946:文化展望)
・同著『井伏鱒二選集-後記』(1948:筑摩書房


・相馬正一著『評伝 太宰治(上・下』(1995:津軽書房)
・山内祥史著『太宰治の年譜』(2012:大修館書店


詳細は、別項目 「太宰治(人生と作品)」 を参照ください。

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井伏鱒二著「太宰治」 (1989:筑摩書房)・・「目次」

Ⅰ 「太宰治の死」、 「亡友-鎌瀧のころ-」
   「十年前頃-太宰治に関する雑用事-」、
    「点滴」、 「をんなごころ」、 「太宰治のこと」、
「太宰と料亭「おもだか屋」」、
「琴の記」、 「太宰治と文治さん」

Ⅱ 「あの頃の太宰君」、 「「ダス・ゲマイネ」のころ」
「御坂峠にゐたこ頃のこと」、 
「「懶惰の歌留多」について」」
「余談」、 「戦争初期の頃」、 「甲府にゐた頃」、
「報告的雑記」、 「太宰君の仕事部屋」、
「御坂峠の碑」、 「蟹田の碑」

Ⅲ 「「あとがき」(「富岳百景・走れメロス」)」
「「解説(太宰治集上)」」

あとがき(小沼丹)
出所一覧

なお、「中公文庫」の井伏鱒二著「太宰治」(2018:中公論新社)は、
この筑摩書房版を底本とし、「太宰さんのこと(インタビュー)」を
加えている。井伏鱒二夫人の節代さんへのインタビュー記事である。


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太宰治(人生と作品)

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「師弟25年:井伏鱒二と太宰治」の項 2021/5UP