太宰治:聖書などからの引用・翻案作品

==太宰治は 読書家・努力家 だった!!==

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太宰治 : 作品一覧

太宰治には、聖書、内外の古典、他者の日記などを素材にした‘翻案小説’が多い。
また、それら他者が著した詩文の一節を自作に引用するなど巧みに利用しており、
太宰には膨大な読書量があったことが窺える。

本項ではこれらを整理した。

太宰作品は、天賦の才によるだけでなく、戦前・戦中・戦後と激しく揺れ動いた
昭和前期、多くの作家らが沈黙する中、旺盛な創作意欲を持ち続け、
不断の努力を積み重ねたことによってこそ成り立っていることが分かる。

なお、太宰の「聖書」からの引用に関しては、次に詳細な解説、論考がある。
・鈴木範久・田中良彦編著 『対照・太宰治と聖書』 (2014/6:聖公会出版)
・奥村七海著「資料 太宰治全作品聖書引用一覧」・・ネット閲覧(R6.1.30)
(紀要論文:フェリス女学院大学・日文大学院紀要26号(2022.9.27))

   Ⅰ. 聖書・古典などを素材にした小説(翻案小説)

小説 : 初出年月 引用句(節)など  付 記 

 『地球図』

1935(S10)/12

(短編集『晩年』
 (1936/6)所収)


新井白石著
 『西洋紀聞』

(『南蛮紀聞選』
(1925/2:洛東書院))


 ・研究者渡部芳紀は、詳細な比較検討の結果、
  「太宰がつけ加えたものは極めて少なく、
   あったとしても些末なことがらである。文章
   および筋立ての点では、太宰の創造は
   ほとんどなかったといってよい」という。
   (『太宰治全作品研究事典』(H7:勉誠社)より抜粋)


 『女の決闘』

1940(S15)/1-6

 

ヘルベルト・
オイレンベルク作
(森鴎外訳)
 
『女の決闘』(1911)

 
 
 ・『鴎外全集 第16巻』(国民図書会社・1924)
  に依拠した。

 ・原作者(生存中~1949没)ならびに森鴎外
  (1922没)との著作権関係は・・? (注1)


 『駈込み訴え』

1940(S15)/2


『新約聖書』 から

「ユダの裏切り」


 ・『新約聖書』の中の四つの福音書などに
  記述がある「ユダの裏切り」に関し、
  その動機、複雑に揺れるユダの胸中と
  行動を小説にした。        (注2) 

 
『走れメロス』 

1940(S15)/5


太宰は作品末尾に、

 (古伝説と、シルレルの
詩から。) と明記。


 ・シルレル(ドイツの詩人シラー)の詩
  『人質 譚詩』(1798)に拠る。(『新編
  シラー詩抄』所収:S12/7:小栗孝則訳)

  “古伝説” は、その題材になった古代
  ギリシャ・ローマの伝承を指す。(注3)

 ・檀一雄は、“熱海人質事件”(S11/12)が
  太宰の執筆動機という。(詳細別記) 


『清貧譚』

1941(S16)/1


蒲松齢作 『聊斎志異』
(1766刊)中の一篇

「黄英]

 

 ・聊斎は著者(1640~1715)の書斎名。1679年頃
  成立した怪異短編小説集(16巻 445篇)。

 ・そのほとんどは民間での見聞から成る。
  本書から、もう一篇『竹青』を著した。


『新ハムレット』 

1941(S16)/7


ウィリアム・
シェイクスピア作

『ハムレット』

 

 ・イギリスの劇作家 シェイクスピア原作の
  オマージュ作品。(太宰の初の長編)

 ・原作は1600~1601作の説が有力。

 

『右大臣実朝』

1943(S18)/9

 
『吾妻鏡』(鎌倉時代)

『鶴岡』(源実朝号)
(S17:鶴岡八幡宮)


 ・津島美知子著『回想の太宰治』によれば、
  『吾妻鏡』は龍粛の『訳注吾妻鏡 第1巻
  ~第4巻』(S14-16:岩波文庫)を利用した。

 ・『鶴岡』は実朝生誕750年記念で発行された。


『新釈諸国噺』 

1944(S19)/1

1945(S20)/1


井原西鶴の作品 12篇

原典は「目次」として
作品の冒頭に明示
 

 ・津島美知子著『回想の太宰治』に、利用したのは
  『日本古典文学全集ー西鶴全集全11巻』 とある。

  なお、サイトには、次の論考がある。  (注4)
 ・「太宰治 『新釈諸国噺』出典考」 (広島大学)
 ・「西鶴と太宰治『新釈諸国噺』」(日本女子大学)


 『竹青』

1945(S20/4

 
蒲松齢作 『聊斎志異』
(1766刊)中の一篇

「竹靑」


 ・聊斎は著者(1640~1715)の書斎名。1679年頃
  成立した怪異短編小説集(16巻 445篇)。

 ・そのほとんどは民間での見聞から成る。
  本書から、もう一篇『清貧譚』を著した。


 『お伽草子』

1945(S20)/10


 日本の昔話

『瘤取り』、『浦島太郎』
『カチカチ山』、『舌切雀』


 ・敗戦間近に、空襲下の三鷹で執筆し、疎開先の
  甲府で完成(S20/6)、戦後、直ちに『惜別』
  (S20/9)に続き刊行(S20/10)した。

 ・太宰の非凡な才、作品の幅の広さを物語る。
 

 (注1)・原典はドイツの作家  Herbert Eulenberg (1876-1949)著 『Ein Frauenzweikampf』
     ・翻訳原本 H. Eulenberg: Sonderbare Geschichten. 2. Aufl. Leipzig, Ernst Rowohlt Verlag. 1911
      (サイト:「昭和十年代の太宰治 1940(昭和15年)「女の決闘」(工事中)1998/11」 による。)

     ・太宰は鴎外の翻訳を鴎外全集に依拠したが多少の修正を行なっている。
      この時、鴎外は没後18年、原作者は64歳で健在だった。

      (作品成立に関しては、『太宰治全集 3』(筑摩書房:1989/10ー「解題」(山内祥史))に詳しい。)

      このころは、いわゆるプラーゲ旋風(詳細別記)で日本も著作権問題に取り組んでいた。
      太宰は執筆にあたり何らかの対応をしたかもしれないが、作品の最後の部分「第六」の中で
      原作者に申し開きをしている・・ 無断利用だったかもしれない。
      いずれにしろ、著作権に対する認識がまだ大甘の時代でこそ世に出た作品ではないか。


 (注2)・ユダについては、四つの福音書(マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ)などに記されるが各内容は異なり、
      裏切りの動機などユダ像は明確ではない。太宰は、偉大なキリストに対するユダの迷い、行為は
      太宰の胸中に通じるものがあり、小説にして表現したのではないかという見方がある。。


 (注3)サイト「『走れメロス』とディオニュシオス伝説」(五之治昌比呂著:京大学術情報リポジトリ)によれば、

     ・古代ギリシャ・ローマのディオニュシオス伝説には複数のバージョンがあり、シラーは1798年にその
      一つを題材に『Die Bürgschaft』(人質)を執筆した。(シラー:Johann Christoph Friedrich von Schiller)

      小栗孝則はこれを訳し、『人質 譚詩』の題で『新編シラー詩抄』(1937)に収録した。(譚詩=Ballade)
      太宰はこの訳に拠って『走れメロス』を書いたもので、古伝説自体は読んでいないと推察できる。

     ・主人公 “メロス”と友人“セリヌンティウス” という名前は、この小栗孝則訳の主人公名と巻末の注解
      をそのまま使用した。シラーはこの後に題名を『Damon unt Pythias』、名前の「Möros」を「Damon」
      と書き換えた。西欧ではこの「Damon(デーモン)」、「 Pythias(ピシアス)」の名前が一般的という。

      ちなみに、鈴木三重吉は、この題材で太宰より20年早く『赤い鳥』に童話『デイモンとピシアス』(1920)
      を発表している。
      なお、古伝説では「Pythias」ではなく「Phinthias」で、古典語では「ダモンとピンティアス」の読みになる。

         (このサイトは、「『西洋古典論集』(1999), 16:39-59」所収。
          鈴木三重吉の童話『デイモンとピシアス』は青空文庫で読める。)

     ・新潮文庫版の『走れメロス』解説(奥野健男)には、「ギリシアのダーモンとフィジアスという古伝説に
      よったシラーの『担保』という詩から題材をとっている。」 とある。翻訳の違いである。

      (作品成立に関しては、『太宰治全集 3』(筑摩書房:1989/10ー「解題」(山内祥史))に詳しい。)


 (注4)・「太宰治『新釈諸国話』出典考察」によれば、太宰が西鶴作品を素材にしたものは他にもある。
       例えば、『男女同権』は、『萬の文反古』巻二ノ三「京にも思ふやう成事なし」、
            『不審庵』は、『西鶴諸国はなし』巻五ノ一「灯挑に朝顔」 の翻案であろう、という。

   
  Ⅱ. 他者の日記を素材にした小説

小説 : 初出年月 素材となった日記  付 記 

『女生徒』 

1939(S14)/4


「有明 淑」が提供した日記


 ・有明淑(しづ)が女学校(現在の女子高校)卒業直後
  (19才)の約3か月間(S13)の日記を提供した。
  これを、少女の一日の心の動きにして小説化した。
                            (注1)

 
『盲人独笑』 

1940(S15)/6


葛原𦱳編
『葛原勾当日記』

(1915/11:博文館)

 
 
 ・素材は江戸時代の盲目の筝曲家、葛原勾当の日記。
  編者は、勾当の孫、葛原𦱳(しげる)
 
 ・「はしがき」で勾当を紹介、本文を挟んで「あとがき」
  を書き、これは“自分の姿”としている。

                           
 
『正義と微笑』 

1942(S17)/8


「堤 康久」が提供した日記 


 ・素材は、太宰門下の堤重久の実弟である堤康久が
  15才頃から書いた日記だが、マルクスをキリストに
  置き換えるなど太宰流にデフォルメしている。

 ・康久は、戦前は前進座、戦後は東宝の俳優。
  重久は、『太宰治との7年間』などを刊行。
                             (注2)


 『斜陽』

1947(S22)/7-10
<新潮>に連載


「太田静子」に懇請して
借りた日記 


 ・ 素材となった日記は『斜陽日記』と題して太宰の
  死の直後に出版された。(S23:石狩書房)

 ・太宰と太田静子との関係など、詳細は別項の
  「太宰治と太田静子と斜陽」を参照ください。

 
 『パンドラの匣』

1945(S20)/10-1
新聞連載
<河北新報>

一部は、
<東奥日報>にも


「木村庄助」の遺志により
遺族が提供した日記


 ・太宰に私淑した木村庄助は、肺結核で闘病中に死去
  (昭和18:22才)した。長い療養生活を記した日記を、
  太宰は療養所だけを舞台にして小説にした。

 ・深刻な内容の日記だが、明るくデフォルメしている。

 ・当初(S19)『雲雀の声』として印刷中に、空襲で焼失
  した。戦後、その校正刷りを元に執筆したが、終戦
  を跨いでおり、大幅に手を加えたと察せられる。

 

 (注1)・この作品で北村透谷文学賞副賞(S15/12)を受賞した。
      ・ 靑森県近代文学館は、この日記を『資料集第一輯 有明淑の日記』として刊行、頒布している。


 (注2)・この作品の成立過程については、すでに専門家による詳細な研究がある。
      堤重久による関連著作を含め、先ずは、次の記述が参考になる。
      『太宰治全集 5』(筑摩書房:1990/2):巻末の「解題」(山内祥史)。


   Ⅲ. 太宰の独創だが、聖書・古典などと関連が深い小説

小説 : 初出年月 関連深い古典など  付 記 

『魚服記』 

1933(S8)/3

(短編集『晩年』
 (1936/6)所収)


上田秋成作
『雨月物語 巻二』 (1776)
の中の「夢応の鯉魚」

伝説『甲賀三郎』(注2)


 ・「夢応の鯉魚」の原典は中国明代の説話。(注1)
 ・東北の民間説話『大蛇に身を変えた話』も利用。
 ・<海豹>創刊号に発表、文壇デビュー(詳細別記)

 ・論考 「魚服記の素材 (青木京子著)  (注2)


 『老ハイデルベルヒ』

1940(S15)/3

 

マイヤー・ヘルスター作

『アルト・ハイデルベルク』
(『Alt-Heidelbelg』)
(初演:1901)

  

 ・原作は、5幕の戯曲。日本での初演は1912(T1)で
  主演は松井須磨子だった。宝塚では、1931(S6)に、
  「ユングハイデルベルヒ」の題で上演。(Wikiによる)

 ・いわば ”青春への郷愁、哀歌”というテーマに関連して
  太宰が付した作品名だろう。
  『乞食学生』でも「合唱の歌」を引用(下表参照)。

 
 『惜別』

1945(S20)/9

 
魯迅著『藤野先生』(1926)

小田嶽夫著『魯迅伝』(1941)

竹内好著『魯迅』(1944)

  
   
 ・第二次大戦の末期、日本文学報国会の委嘱により
  執筆したが、出版は終戦直後になった。

 ・魯迅の仙台時代(医学生)を書き、魯迅著『藤野先生』
  の一部を引用して小説を締めている。
  (別途「太宰治著『惜別』:執筆経緯と評価の疑問」
   項に詳記)

 
 『父』

1947(S22)/4


『旧約聖書』

冒頭の「創世記」 


 ・「創世記」の「第22章7」(文語訳)の前半部分を
  エピグラフに使用。(下表参照)

 ・本文においても、第22章全般(要旨)を引用。
  さらに佐倉宗五郎の逸話に触れ、
  太宰としての“父の義”を物語る。


 『おさん』

1947(S22)/10


近松門左衛門作

浄瑠璃本
『心中天網島』(1720) 


 ・ 太宰は、義太夫を通じて高校時代には内容を
  熟知していた。(『津軽』に記述がある。)

 ・題名は、『心中天網島』の主人公“紙屋治兵衛”
  の妻“おさん”の名を採っている。

 ・太宰の“女性独白体”16作品の一つ。(注3)


 (注1)・ 『雨月物語 巻二-夢応の鯉魚』の原典は、明代中国説話『古今説海-魚服記』と白話小説『醒世
      恒言-薛録事魚服證仙』。(サイト:『雨月物語』「夢応の鯉魚」における鯉魚の放生について)

     ・太宰は、自著『魚服記に就て』で、これらが『魚服記』という題名の所以と書いている。

     ・東北地方の民間説話『大蛇に身を変えた話』を取り入れた。(相馬正一著『評伝太宰治』)

     ・物語は「夢応の鯉魚」とは全く異なり。太宰の思いを独創的に表現したといえる。


 (注2)・サイトに 『「魚服記」の素材-「甲賀三郎」をめぐって-』(青木京子)がある。    

      『魚服記』の題材に関する諸説を掘り下げ、「甲賀三郎伝説」に行き着き、太宰の手の内を解き明か
      した感がある。『魚服記』中の‘八郎が大蛇になった挿話’についても考察している。
      主人公”スワ”の名前は「甲賀三郎伝説」にある“諏訪”(長野県)に由来するとの推測もある。

      この原本は「佛教大学大学院紀要 第29号(2001/3))」所収。 
      太宰の才に触れ、『魚服記』の味わいが一層深まる優れた論考と言えよう。


 (注3)・太宰得意の“女性独白体”小説は、次の16作である。人気作品が多い。(発表順)

       「燈籠」、「女生徒」、「葉桜と魔笛」、「皮膚と心」、「誰も知らぬ」、「きりぎりす」、
       「千代女」、「恥」、「十二月八日」、「待つ」、「雪の夜の話」、「貨幣」、
       「ヴィヨンの妻」、「斜陽」、「おさん」、「饗応夫人」。


   Ⅳ. 印象的な引用がある小説とその出典            

「聖書」からの引用に関しては、本項の冒頭に記した 『対照・太宰治と聖書』 に詳記がある。

例えば、太宰の引用に 「汝等おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せ」 があるが、本書によれば、
この文言は、1941年から全部で11回あり(内7回は戦後)、マタイ伝19章19節および22章39節
にある 「己のごとく汝の隣を愛すべし」 を太宰流の表現で用いている。

また、「聖書」(和訳)の文言そのまま、あるいはそれに近い形での引用ではなく、
その主旨を取り込んだ表現も多い。 (聖書との関連に気付きにくい場合もある。)

聖書に関して、さらに詳細、高精度な情報が必要な場合には、本書を参照ください。

小説 : 初出年月 引用句(節)など  出 典 ・ 備 考 

『葉』
1934(S9)/4

(短編集『晩年』
 (1936/6)所収)



 (エピグラフ)

  「撰ばれてあることの
   恍惚と不安と
   二つわれにあり
           ヴェルレエヌ」


 ・フランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの
  詩集「Sagesse」(1881)が原典

  堀口大學訳 「智慧」の
  「巻二の八」の一節を抜粋。

  (「智慧」は訳者によって「叡智」など)


  『猿面冠者』
1934(S9)/7

(短編集『晩年』
 (1936/6)所収)


 
 (冒頭部に“露西亜の詩人の言葉”として)
  「そもさん何者。されば~略~
     とでもいったところじゃないかよ」
  これに続いて、ドストエフスキー作品など
  から短い一言の引用がある。 (注1)

  中間部にオネーギン宛の ”タチアナの
  恋文”(略)を引用。

 
 
 ・露西亜の詩人、プーシキン作の韻文小説
  『エヴゲーニイ・オネーギン』からの引用。
 
 ・ドストエフスキーの『白痴』、メリメの
  『カルメン』、ボードレールの『芸術家の
  コンフィテオール』、ポーの『大鴉』
                  (注1)


 『道化の華』

1935(S10)/5

(短編集『晩年』
 (1936/6)所収)



 (本文冒頭の一行)
  
  「ここを過ぎて悲しみの市(まち)


 ・イタリアの詩人ダンテ・アリギエリの
  長編叙事詩「La Divina Commedia」
  (1321)が原典(和訳題名『神曲』)

  「Inferno(地獄編) 第3歌」より 
                 (注2)


 『創生記』

1936(S11)/10

 
 
 (エピグラフ)
 
  「 ―― 愛ハ惜シミナク奪ウ。」

 (本文中に)

  「カノ偽善者ノゴトク悲シキ面容ヲスナ」
  
 
 ・エピグラフは、有島武郎の評論『惜しみ
  なく愛は奪ふ』から一般化した語句。
 
 ・『新約聖書』(文語訳)
   
   「マタイ伝福音書-6章16節」より。
               (注3)


 『狂言の神』

1936(S11)/10

 
 (エピグラフ)

  「なんじら断食するとき、
  かの偽善者のごとく悲しき
  面容をすな。(マタイ六章十六)」


 ・『新約聖書』(文語訳) 
   「マタイ伝福音書-6章16節」
                 
 ・『虚構の春』(「下旬」の項)でも引用。
                 (注3)

 
 『二十世紀旗手』

1937(S12)/1

 
 (エピグラフ)

    「―(生れて、すみません。)」

  なお、本文中には『聖書』(マタイ伝、
  マルコ伝)が関連する文章がある。)


 ・ この文言は、山岸外史の従兄弟の
  寺内寿太郎作の一行詩。
  山岸が太宰に話したところ、
  太宰は無断で使用したという。

  (山岸外史著『人間太宰治』による)

 
『HUMAN LOST』

1937(S12)/4


 ・本文中の「四日」(11/4)の項に
  『新約聖書』(文語訳) 
  「マタイ伝福音書
     -5章25~26節」 全文。

 ・小説の末尾に、
    「同 5章44~48節」全文。


 (共に、引用文は記載を省略。
  他にも『聖書』が関連する文章がある。)

 本文中の「二十六日」(S11/10)の項では
 聖書に触れ、聖書は日本文学史を二分
 する影響をもたらした。自分はマタイ伝
 を読み続け、読了に3年かかったとある。
                 (注4)

  
 
『黄金風景』

1939(S14)/3

 
 (エピグラフ)

    「海の岸辺に緑なす樫の木、
     その樫の木に黄金の細き鎖の
     むすばれて ―プウシキン―」

  
 
 ・プーシキン作の物語詩
  『ルスランとリュドミラ』の献詩から引用。
  
  和訳は、『プウシキン全集第5巻』(1937:
  改造社・外村史郎訳)とは異なる。
  太宰流にアレンジしたのだろうか。

『懶惰の歌留多』

1939(S14)/4


 「、生くることにも心せき、
       感ずることも急がるる。」
 
 「、われ山にむかいて眼を挙ぐ。」
       
 「、下民しいたげ易く、、
       上天あざむき難し。」


 ・「」=プーシキン作の韻文小説
       『エヴゲーニイ・オネーギン』

 ・「」=『新約聖書』の「詩篇 121:1」

 ・「」=後蜀の君主孟昶の「戒諭辞」
                 
                 (注5)


『秋風記』 

1939(S14)/5

 
 (エピグラフ)
  
 「立ちつくし、
  ものを思へば、
  ものみなの物語めき、 生田長江」


 ・生田長江の”ひらがな”だけの三行詩
  「たちつくし」から前半二行を使用したが、
  漢字交じりにしてある。   
                 (注6)


『八十八夜』

1939(S14)/8

 
 (エピグラフ)

  「諦めよ、わが心、
    獣の眠りを眠れかし。(C・B)」


 ・ (C・B)は、Charles Baudelaire
 (フランスの詩人:シャルル・ボードレール)

  詩集『Les Fleurs du mal』(1857)から
  「Le goût du néant」の一節

  村上菊一郎の和訳(初出:1936)による
  『悪の華』-「虚無の味わい」 の一節

 
『善蔵を思う』

1940(S15)/4

 
  「人間到るところ青山。」


 ・江戸時代末期の僧、釋月性の詩
  『將東遊題壁』から「人間到処有青山」
  (人間 到る処 青山有り)。 (注7)

 ・他に「竹青」(S20/4)でも引用。

 
『乞食学生』

1940(S15)/7-12

  
 (エピグラフ)

  「大貧に、大正義、望むべからず
        ーーフランソワ・ヴィヨン」

 (本文には、ヴィヨンをさらに3カ所と
  「ファウスト」、「アルト・ハイデル
   ベルヒ」からの引用がある。)

 
 ・ヴィヨンの詩句の出典は、佐藤輝夫訳
  『大遺言書』(1940:弘文堂書房)だが、
  太宰が手を入れた箇所がある。

 ・ゲーテの『ファウスト 第一部:夜』の一節、
 ・マイヤー・ヘルスターの『アルト・ハイデル
  ベルク』から「歌」を引用。  (注8)

  
『風の便り』

1941(S16)/11


 (本文(25日付)に)
  『箴言』として、次の引用がある。
  「エホバを畏るるは知識の本なり」

 (本文(7/3付)に)
  「汝ら、見られん ~略~心せよ」
  「なんじら祈るとき、~略~ことを好む」

 (本文(8/16付)に)
  『出エジプト記』16章3としてその主要
  部分を引用。((文語訳:引用文省略)


 ・『旧約聖書』の一書「箴言」第1章7節
  (文語訳)の前半を引用。後半は「愚なる
   者は智慧と訓誨とを軽んず」。

 ・7/3付の引用は、「新約聖書』の「マタイ伝
  福音書』(文語訳)6章1節と5節。

 ・8/16付には、「口重く舌重き」があるが、
  これも『旧約聖書』中の「出エジプト記」
  (文語訳)の4章10節にある文言。

  
『誰』

1941(S16)/12


 (冒頭の一節)

  「イエス其の弟子を~略~神の子なり
  (マルコ八章二七)」
  
 (本文中に)
  「エペソ2・2」、「同6・12」
  「黙示9・11、20・1以下」とある。

 
 ・冒頭は『新約聖書』の『マルコ伝福音書』
  (文語訳)8章の27~29節全文を引用。

 ・『新約聖書』の『エペソ人への書(手紙)』
  と『ヨハネの黙示録』の章・節を示めす。

   
『新郎』

1942(S17)/1

 
 冒頭に
  「一日一日を、(中略) 思い煩わん。」
  
 本文中に
  「明日の事を思うな、とあの人も言って
   おられます。」とある。

  
 ・『新約聖書』の「マタイ伝福音書」
  (文語訳)6章34節に次の通りある。
 
  「この故に明日のことを思ひ煩ふな、
   明日は明日みづから思ひ煩はん。
   一日の苦勞は一日にて足れり。」


  『律子と貞子』

1942(S17)/2
 
 本文中に
 
 「・・略・・。マリアは善きかたを選びたり。
  ・・略・・。」 (ルカ伝十章三八以下。)

 ・『新約聖書』の「ルカ伝福音書」
   「文語訳:10章38節~42節」を
   そのまま引用。


『正義と微笑』 

1942(S17)/8


  本文中に、聖書(多くはマタイ伝)ほか
  から多数の引用がある。  (注8)


 ・題材は、太宰門下の堤重久の実弟である
  堤康久が15才頃から書いた日記。
                 (注9)


『黄村先生言行録』 

1943(S18)/1


  本文中に、
  
  「そもそも南方の強か、北方の強か。」
  (「中庸 第十章」)

 
 ・「中庸-第十章」に次のようにある。
 
 子曰く、「南方の強か、北方の強か、抑而
 (そもそも なんじ)の強か」

『不審庵』 

1943(S18)/10

 

  本文中に、

  「かの千利休の遺訓と称せられる「茶の
  湯とはただ湯を沸かし、茶をたてて、
  飲むばかりなるものと知るべし」」ほか
 
 ・執筆に際して創元社版「茶道全集」ほか
  膨大な文献を披見、引用している。
 
  『太宰治全集第六巻』(1990:筑摩書房)の
  解題(山内祥史)に詳述がある。
 

『花吹雪』 

1944(S19)/8

 

  本文中に、

  森鴎外著「懇親会」と日記(M42.2.2)
  から抜粋。

  宮本武蔵「独行道」(19か条) (注9)


 ・「独行道」の原本(現存)は「21か条」で、
  引用は「19か条」。太宰は19か条が載る
  宮本武蔵遺蹟顕彰会編「宮本武蔵」(M42)
  に拠ったと察せられる。原本の4番目と
  20番目が削除されているほか、多少異なる
  個所があるが、太宰はこれらを特に意識
  せずに利用したと察せられる。(注10)

『津軽』 

1944(S19)/11
 

 (エピグラフ)

 「津軽の雪
  こな雪 つぶ雪 わた雪 みず雪
  かた雪 ざらめ雪 こおり雪
            (東奥年鑑より)」

  本文には、津軽の風土、歴史関連の
  文献、資料類の引用が多数ある。


 ・列記された“津軽の雪”は、新沼謙治の
  ヒット曲「津軽恋女」の歌詞にも使用
  されている。(配列は一部異なる。)

 ・例えば、『日本百科大辞典』、『東遊記』
  『青森県通史』、『和漢三才図会」や
  専門家による論考などで、関連文献は
  膨大。「太宰治全集6(1990/4)-解題」
  (山内祥史)に詳記がある。

 『苦悩の年鑑』

1946(S21)/3

  


  本文中に
  「汝等おのれを愛するが如く、
            汝の隣人を愛せ」


 ・『新約聖書』 

  「マタイ伝福音書-22章39節」 

  (随筆『如是我聞』にも使用)


『トカトントン』 

1947(S22)/1
 
 

  「マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂
  をころし得ぬ者どもを懼るな、身と
  霊魂とをゲヘナにて滅し得る者を
  おそれよ」」


 ・『新約聖書』(文語訳) 

   「マタイ伝福音書-10章28節」 


 『父』

1947(S22)/4


 (エピグラフ)
 
  「イサク、父アブラハムに語りて
   父よ、と曰(い)う。
   彼、答えて、
   子よ、われ此(ここ)にあり、
   といいければ、
        ー創世記二十二ノ七」」


 ・『旧約聖書』冒頭の書「創世記」の文語訳
  「第22章7」の前半部を使用。後半に、
  「イサク即ち言ふ火と柴薪有り然ど燔祭
  の羔は何處にあるや」 とある。

 ・本文においても、第22章全般(要旨)
  を引用し、さらに佐倉宗五郎の逸話にも
  触れ、太宰としての“父の義”を語る。


 『渡り鳥』

1948(S23)/4


 (エピグラフ)

 「おもてには快楽(けらく)をよそい、
        心には悩みわずらう。
        ーダンテ・アレギエリ」


 ・ダンテ(1265~1321)の詩が原典
  上田敏訳「あはれ今」の最終行。
  (初出 <家庭文藝>(M40/1))

    (「青空文庫」で読める。)


 『桜桃』

1948(S23)/5

 
 (エピグラフ)

  「われ、山にむかいて、目を挙ぐ。
        ー詩篇、第百二十一。」

 (本文中)   「涙の谷」


 ・ 『新約聖書』の「詩篇 121:1」の前半
  の部分で、この後半部分に、「わが
  扶助はいづこよりきたるや」と続く。

  「121:2」に、「わがたすけは天地を
  つくりたまえるヱホバよりきたる。」

 ・「涙の谷」は、「詩篇 84:6」に、
  「かれらは涙の谷をすぐれども、
  其處をおほくの泉あるところと
  なす」とある。 (いずれも文語訳)


 『人間失格』

1948(S23)/6-8

 
  
 本文中に引用の詩2編
  
 ・ギイ・シャルル・クロオ作
  「世間のある人々には・・」の一節
    (引用された詩句は記載省略)

 ・オマアル・カイヤム作
  四行詩集『ルパイヤット』から11篇
    (引用された詩句は記載省略)

   

 ・クロオの詩: 上田敏訳『牧羊神』所収
  (初出:T9(1920):金尾文淵堂)

  ・カイヤムの四行詩: 堀井梁歩訳 
  『ルバイヤット 異本留盃耶土』所収
  (初出:S22(1947):南北書園)

  (両書は太宰の最後の机辺に遺された)


(随筆)
 
『如是我聞』

1948(S23)/3、5-7

 
  
 (三)

  「己を愛するがごとく、
            汝の隣人を愛せ」


 ・『新約聖書』 

    「マタイ伝福音書-22章39節」

    (『苦悩の年鑑』にも使用)

 

  (注1)
・冒頭部分の『オネーギン』は、中山省三郎訳によるもので(S7/5)、それに太宰が手を加えた。
        中間部の”恋文”の和訳は、米川正夫訳『オネーギン』(S2:岩波文庫)による。
        (サイト「太宰治『猿面冠者』における語りの戦略」(久保明恵著:『百舌鳥国文.19』(2008/3))

       ・「あなた、後悔しないように」・・ドストエフスキーの小説『白痴』より。
       ・「だまって~(略)~逃げ去るのだ」・・プロスペル・メリメの小説『カルメン』より。
       ・「放してくれ!』・・「ボードレールの詩『芸術家の告白祈祷』より。
       ・「Nevermore」・・エドガー・アラン・ポーの詩『大鴉』より。


  (注2)・ダンテ・アリギエリ(1265~1321)。『神曲』は1304年頃から執筆、死の直前に完成した。
       この文言はロダン作のブロンズ像「地獄の門」の銘文としても有名で多くの翻訳があるが、
       太宰の引用文「ここを過ぎて悲しみの市(まち)」に完全に一致する訳文は見当たらない。

       これに関し、サイトに「『道化の華』の一つの引用・・ダンテの『神曲』」(渡邊浩史:佛教大学)の
       論考があり、森鴎外説が有力だが、上田敏訳(『上田敏全集第1巻』(S4/9:改造社)所収)では
       ないかと結論している。
       ちなみに、森鴎外訳は、「こゝすぎて うれへの市に」、
       上田敏訳は「こゝすぎて かなしみの都(まち)へ」である。

       なお、作中に「ここを過ぎて空濛(くうもう)の淵(ふち)」もある。鴎外には「こゝすぎて 嘆の淵に」
       という訳文があるが、これは内容からみて、引用ではなく形に合わせた太宰の創作といえよう。


  (注3)・『新約聖書』 「マタイ伝福音書-6章16節」(文語訳)は次の通り。

        「なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、
        その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。」

        『創生記』、『狂言の神』の他、『虚構の春』でも「かの偽善者のごとく」と「かの」を入れて引用。

        なお、『正義と微笑』では、16節~18節の全文を引用し、“微笑もて正義を為せ!” としている。


  (注4)
・太宰は、入院中、バイブルばかり読んでいた。(退院直後(S11.11.26付)の鰭崎潤あて書簡)
       朝日新聞(2018.12.14東京朝刊)によれば、同じく入院していた斎藤達也(医師)から「新訳聖書
       略註 全」(1934:黒崎幸吉編)を借りていた。これには、太宰の書き込みがあり、斎藤氏の遺族が、
       神奈川近代文学館に寄贈した。書き込みは、次の二つである。

       ・「かりそめの/人のなさけの/身にしみて/まなこ/うるむも/老いの/はじめや 治」(墨書)
        (この短歌は「HUMAN LOST」の「八日」(S11.11.8)の項に書いている。)

       ・「聖書送ってよこす奥さんがあれば僕もも少し笑顔の似合ふ顔に成れるのだけれど 太宰治」
        (この文言は、黒インクのペン書き)


  (注5)・「」=プーシキン作の韻文小説『エヴゲーニイ・オネーギン』の冒頭の一句。
          ロシアの作家アレクサンドラ・プーシキンの作(執筆は1825~1832)で、太宰が引用したのは
          米川正夫訳『エヴゲーニイ・オネーギン』(T10:叢文閣・S2:岩波文庫)である。

          昭和8年(1933)ころ、井伏鱒二に勧められてプーシキンを読んだ太宰は、この一句が気に
          入って、それを久保喬、檀一雄ら友人に吐露したが、自身の境遇、心境にオネーギンを
          重ねての思いだろう。

          戦後も「文学の嚝野に」(S22/11:<小説新潮>)で、「プーシキンに傾倒している」旨を強調、
          続いて執筆した「犯人」(S23/1)のエピグラフには「―プウシキン(吹雪)」として、連作
          「ベールキン物語」中の「吹雪」の一節を引用している。
          この訳文は、神西清(初出:S11・改造社「プウシキン全集第3巻」)である。

      ・「」=『新約聖書』の「詩篇 121:1」
          『桜桃』のエピグラフに使用。(『桜桃』欄参照)

      ・「」=中国の後蜀の君主孟昶(もうちょう)の「戒諭辞」。
          福島県二本松市のHPに、「旧二本松藩戒石銘碑」として詳しい紹介があり、一部を抜粋する。

           爾俸爾禄 (爾(なんじ)の俸(ほう)、爾(なんじ)の禄(ろく)は)
           民膏民脂 (民(たみ)の膏(こう)、民(たみ)の脂(し)なり)
           下民易虐 (下民(かみん)は虐(しいた)げ易(やす)きも)
           上天難欺 (上天(じょうてん)は欺(あざむ)き難(がた)し)
             寛廷己巳之年春三月  (1749年:江戸中期)
         
        「お前(武士)の俸給は、民があぶらして働いたたまものより得ているのである。お前は民に感謝し、
        いたわらねばならない。この気持を忘れて弱い民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ。」

        昭和10年(1935)に国史跡に指定されたとある。
         ・・太宰がこの文言を識ったのはこの時ではないだろうか。

        なお、富山県の県庁前にもこの「戒石碑」が建てられ(S42)、「公務員の給料は,国民の
        血税である。その国民は虐げやすく、また天を欺くことはできない。」の意味は、職員の,
        県民奉仕の精神に徹する心構えを表しているという。(富山県のHPより)

       ・本文の冒頭部分にある「隅の親石」は『新約聖書』の「マタイ伝 第21章42節」に、
        また、「豚に真珠」は「同 第7章6節」に拠っている。


  (注6) ・生田長江作の原型は、”ひらがな”ばかりの三行詩。
        題名は、「たちつくし」。

        「たちつくし ものをおもへば
         ものみなの ものがたりめき
         わがかたに つきかたぶきぬ」 

        (『登張竹風/生田長江』(2006:新学社)ほか所収。初出は未詳)


  (注7) 
・釈月性「将東遊題壁」
        
         男児立志出郷関  男児志を立て郷関を出づ
         学若無成不復還  学もし成る無くんばまた還らず 
         埋骨豈期墳墓地  骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
         人間到處有青山  人間到る処青山あり

         ) 読み方は「じんかん」が多数派だが、「にんげん」もある。
               私見だが、詩を通して読み下す場合には「じんかん」だが、
               最後の一行だけを諺的に使う場合には「にんげん」でもよかろう。



  (注8)
すでに『ファウスト』には多くの和訳があり、どれに拠ったかは未詳だが、森鴎外訳(青空文庫)に
        次の一節がある。ワグネルとの会話でのファウストの言葉。
        「いや。成功しようと云うには、正直に遣らなくてはいかん。(中略)
        何か真面目に言おうと思う事があるのなら、なんの詞なんぞを飾るに及ぶものか。(後略)」
        太宰はこの前後の箇所を合せ、ファウストの言葉の真髄を短く表現したのだろう。

       ・『アルト・ハイデルベルヒ』の歌は、番匠谷英一訳『アルト ハイデルベルク』(岩波書店:1935)の引用。
        丸山匠訳(岩波文庫)によれば、歌は、オイゲン・ヘーフリング作(1825)と言われ、その一部である。

         ・作品成立に関しては、『太宰治全集 3』(筑摩書房:1989/10ー「解題」(山内祥史))に詳しい。
             ヴィヨンの詩句については,佐藤輝夫訳と太宰の引用文の対比も載っている。

            ・サイト「太宰治の「乞食学生」と外国文学」(九頭見和夫)の論評は興味深い。
             何故「アルト・ハイデルベルク」(Alt-Heidelbelg)を「アルト・ハイデルベルヒ」にしたかにも言及している。

             (原本は、『福島大学教育学部論集 第71号』(2001/12)所載.。)


  (注9)『正義と微笑』の題材は太宰門下の堤重久の実弟である堤康久の日記である。
        堤重久によれば、この日記には聖書ではなくマルクスにつての記述があるが、作品では聖書に
        置き換えられているなど、日記と作品を読んだ印象は全く異なるという。
        いわば、太宰流にデフォルメされており、聖書などから多数の引用がある。

        作品の成立過程、聖書との関連などは、すでに専門家による詳細な研究がある。
        堤重久による関連著作も含め、先ずは、次の記述が参考になる。
        『太宰治全集 5』(筑摩書房:1990/2):巻末の「解題」(山内祥史)。


  (注10) ・宮本武蔵「独行道」について

        現在では、「独行道」は全21か条から成ると知られている。(熊本県立美術館HP参照)
        原本は熊本県立美術館が所蔵しており、同館に照会(R3/12)したところ、これは、「武蔵による真筆
        (奥書には異説がある)で、全21か条から成り、熊本県指定文化財(H15/9~)とのことである。
                     
        ところが、太宰が「花吹雪」に引用したのは19か条で、2か条足りない。
        これは、太宰が意識して削除したわけではなく、次の事情によるものと察せられる。
                     
        ① 明治期まで、宮本武蔵は、講談、芝居などに登場する、いわば俗説レベルの剣術使いだったが、
          明治末期に、武蔵の実像を史実に基づいて明らかにするため”宮本武蔵遺蹟顕彰会”が組織され、
          史料、文献類の収拾を基に、明治42年4月に武蔵の生涯を記した「宮本武蔵」を編纂、刊行した。
                     
        ② この書は「第一章 総論」で、「独行道」を「この人嘗て獨行道と稱し、自戒の文十九條を自署して
          云く、」として(一)~(十九)を連記している。
                     
        ③ 本書末尾の「附録」に「渉獵せし書目の重なるもの左のごとし」とし、主要参照資料を示し、
          その中に、「二天記 寫本」(舊名武公傳)がある。
          (鎌田茂雄著「五輪書」によれば、「二天記」の「独行道」は全19か条である。)

        ④ 昭和10年~昭和14年、吉川英治は朝日新聞に小説「宮本武蔵」を連載し、これが大評判となり、
          宮本武蔵への国民の関心が高まり、その伝記、人物像関連の基本資料としてこの顕彰会編纂
          「宮本武蔵」と「二天記」が広く知られ、用いられたと察する。

        ⑤ この状況は太宰が「花吹雪」を執筆した当時(S18)も変わらず、太宰は特段の意識をすることなく
          顕彰会編纂「宮本武蔵」にある「19か条」が引用されたと考えてよかろう。
          なお、執筆時には、岡田恒輔「宮本武蔵の五輪書と剣道の精神」(文部省思想局:S12/3)が刊行されて
          おり、これには顕彰会編纂の19か条が載っている。直接的にはここからの引用かもしれない。

          次に、「原本21か条」と「太宰が引用の19か条」との現代語訳(フリガナ省略)を示す。

「原本(武蔵真筆)の21か条」

鎌田茂雄著「五輪書」より

「太宰治引用の19か条」

宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂
「宮本武蔵」(復刻版)より
(19か条は改行なく連記されている)
    
    独 行 道

 一、世々の道をそむく事なし。
 一、身にたのしみをたくまず。
 一、よろづに依怙の心なし。
 一、身をあさく思、世をふかく思ふ。
 一、一生の間よくしん(欲心)思はず。
 一、我事において後悔をせす。
 一、善悪に他をねたむ心なし。
 一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。
 一、自他共にうらみかこつ心なし。
 一、れんほ(恋慕)の道思ひよるこゝろなし。
 一、物毎にすき(数奇)このむ事なし。
 一、私宅においてのぞむ心なし。
 一、身ひとつに美食をこのまず。
 一、末々代物なる古き道具所持せず。
 一、わか身にいたり物いみする事なし。
 一、兵具は各(格)別、よ(余)の道具たしなまず。
 一、道においては、死をいとはず思ふ。
 一、老身に財宝所領もちゆる心なし。
 一、仏神は貴し、仏神をたのまず。
 一、身を捨ても名利は捨てず。
 一、常に兵法の道をはなれず。

  正保弐年
   五月十二日 新免武藏
            玄信(在判)

(なお、右二十一箇条のうち
、『二天記』および宮本
 武蔵遺蹟顕彰会本では、「身をあさく思、世を深く
 思ふ」「身を捨ても名利はすてず」の二条を削除して
 十九箇条としている。)

   ------------------------------------
    (注:正保弐年は1645年、5/12は武蔵の没年月日)

 (出典)
   鎌田茂雄著「五輪書」(宮本武蔵著/全訳注)
   1986.5.10 第1刷発行
   1996.9.19 第21刷発行
   発行 講談社(講談社学術文庫)


 この人はかって「独行道」と称し、自戒の言葉
 十九条を自署して言っている。

  
世々の道にくことなし(一)
  依怙の心なし(二)
  身に楽をたくまず(三)
  一生の間欲心なし(四)
  我事に於て後悔せず(五)
  善悪につき他をまず(六)
  何の道にも別を悲まず(七)
  自他ともにみかこつ心なし(八)
  恋慕の思なし(九)
  物事に数奇好みなし(十)
  居宅に望なし(十一)
  身一つに美食を好まず(十二)
  旧き道具を所持せず(十三)
  我身にとり物を忌むことなし(十四)
  兵具は格別、余の道具たしなまず(十五)
  道にあたって死を厭わず(十六)
  老後財宝所領に心なし(十七)
  神仏を尊み神仏を頼まず(十八)
  心常に兵法の道を離れず(十九)

   -----------------------------------
 (出典)
   宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂
   「宮本武蔵」(復刻) 現代語訳
   平成15年3月6日 発行
   発行 熊本日日新聞社

 (出典の原本)
   宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂「宮本武蔵」
   明治42年4月27日発行
   大正7年5月25日3版発行
   発行 金港堂書籍(株)

  ・原本の原典は、主に江戸中期の「二天記」
  (旧名「武公伝」)で豊田景英が成した。
   
   (大倉隆二著「宮本武蔵」(2015)によれば、
    「豊田景英、安永5年(1776)著」である。)


   
  
  (付記)

   ① 欠落した2か条は、
    一、身をあさく思、世をふかく思ふ。(原本21か条中の4番目)
    一、身を捨ても名利は捨てず。(同、20番目)
     だが、内容から見て意図的に削除されたものと考えてよかろう。
     いつ、だれが、どのような考えで削除し19か条に改変したのか、気になるところである。

   ② 顕彰会編纂「宮本武蔵」は、「二天記」の全19か条を載せているが、口絵写真には
     「武蔵自筆獨行道(野田氏蔵)」として全21か条の「独行道」を載せている。
     この相違については、何らかの説明が欲しかった。

   ③ 「独行道」原本は武蔵の真筆とされ、熊本県指定文化財になっているが、奥書は真筆で
     なく、奥書の日付などは事実とは判断できないとの大倉隆二著「宮本武蔵」の論考がある。

   ④ 吉川英治の小説「宮本武蔵」は、戦後においても人気は衰えず、徳川夢声のラジオ朗読、
     映画化、TVドラマ化などで国民に親しまれたが、元はあくまでも小説で、登場する人物は
     武蔵を含め作家の創作、虚像である。史実との誤解もあり吉川英治は困惑したという。

   ⑤ 武蔵の実像は判然とせず、重要文化財「枯木鳴鵙図」なども真筆か否か、疑問を呈する
     論考もある。武蔵の謎の多い人生を物語るもので、それが魅力の一つなのかもしれない。

  (「付記」の参考文献)
   ・井上智重/大倉隆二著「お伽衆 宮本武蔵」(2003:草思社) 
   ・大倉隆二著「宮本武蔵」(2015:日本歴史学会編集・吉川弘文館発行)
                                     (「独行道」に関しては、R3/12追記UP)
      


・・太宰の読書、最後に机辺に遺された本・・

津島美知子著『回想の太宰治』(S53:人文書院)の「Ⅱ書斎」に、太宰の読書の様子、
自分では本を所有しなかったこと、最後に机辺に遺された本などについて記述がある。
そこから窺える太宰の本との関わりは・・

<読書> 太宰は読書家だったとの定評があるが、妻美知子は、太宰の端座読書の姿をあまり見たことがなく、
いつ読むのか、本気で疑問に思っていた。速読術を身につけていたのか・・よく分らないという。

ちなみに、長兄文治は、太宰疎開中(S20)のこととして、後に次のように語ったとある。

「若い頃は、めったに人前で本を読まなかった修治が、食事の前などに、一心不乱に、
それもすごい勢いで読書をしておりましたな。必ず読んでおりました。私たちが本を
読むときの、そう、三倍くらいの早さじゃないでしょうか。」(月刊「噂」(S48/6))


太宰は読書家というだけでなく、読書に対する特殊な能力を持っていたように思える。

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余話ですが・・ 文治は次のように語ったともある。(月刊「噂」)

「私自身は、修治の小説はほとんど読んでいません。読んだのは『津軽』と『右大臣実朝』
くらいです。いくら何でも『右大臣実朝』には家のことや私のことが出てこないだろうと
思って読んだのですが、やっぱり出てきたので閉口した記憶があります。」

(月刊「噂」(S48/6)は、「特集 ”保護者”が語る太宰治」として、
・「女と水で死ぬ運命を背負って」 (中畑慶吉)
・「肉親が楽しめなかった弟の小説」(津島文治)
を載せている・・いつ、どこで、誰に語ったのかは記載なし。)

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<蔵書>
 太宰は本を所有しない主義で、知友の蔵書を利用した。特に近くに住む亀井勝一郎の恩恵を蒙った。
蒐集ということは所有欲の塊のようなものと言い、書棚を持たず、購入した本は要らなくなると
すぐに若い人に進呈したので、書斎の本は始終入れ替わっていたという。

<聖書> 太宰とキリスト教との関わりを考えるときに重要な聖書だが、三鷹に来たとき(注:S14)は持って
いなかった。執筆上必要になると借りるか買うかして、二度ほど入れ替わったという。

<最後の机辺に遺された本> 『回想の太宰治』には次の5点が記されているが、この5年後に発行された
『新潮日本文学アルバム19 太宰 治』(1983:新潮社)に関連する写真があるので(参考)として引用する。

    『ルバイヤット』 堀井梁歩訳、 昭和22年5月、 南北書園発行。 寄贈本。

    『レエルモントフ』 奥沢文朗、西谷能雄訳、 昭和14年9月、 白水社発行。

    『佐千夫歌集合評』 斎藤茂吉、土屋文明編、 昭和19年7月、 開成館発行。

    『クレーヴの奥方』 生島遼一訳、 昭和22年1月、 世界文学社発行。 寄贈本

    『上田敏詩集』 昭和10年12月 第一書房発行。

   
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(参考)  『新潮日本文学アルバム 19 太宰 治』(1983:新潮社) P64上段写真



(キャプション)
 最後の机辺に遺された太宰の愛読書。
 右より 「聊斎志異』(田中貢太郎訳) 、「鴎外全集」、 「上田敏詩集」

「ルバイヤット」(堀井梁歩訳)、 「末摘花」(復刻版)、 「クレーヴの奥方(生島遼一訳)、
佐千夫歌集合評』(斎藤茂吉、土屋文明編)、 「レエルモントフ」(奥沢文朗、西谷能雄訳)


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・『文学アルバム』は8点で、『回想の太宰治』より3点多い。加わったのは、
「聊斎志異』(田中貢太郎訳) 、「鴎外全集」、「末摘花」(復刻版)、である。

・このうち、上表にある翻案・引用に関係する本は半数の4点であり、太宰が
蔵書に拘らなかった姿勢が窺える。

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太宰治 : 作品一覧


「太宰治:聖書などからの翻案・引用作品」 の項 R2(2020)/6 UP
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