第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十六) 荻窪(三毛猫のこと) == 敗戦、そして帰京!!

  ★ 乃木大将の写真を焼却 ★

<明日は五郎作宅では息子の法事  長男戦死 次男戦死 三男戦死・・・・・> 
本編にある<魚拓 -農家素描- >と題する詩の冒頭部分である。
「戦後1年くらいの頃、隣村での所見を書いた」とある。

昭和20年8月15日、井伏は「疎開中の郷里(福山)で敗戦を迎えた。
そこには豪州軍が進駐し、軍や右翼関係の書物、書類等の焼却が指示された。
井伏は徳富蘇峰の「日本時代史」等を焼却したが、近所では乃木大将の写真も燃した。」

    荻窪では・・・

荻窪八幡神社の北参道(青梅街道)を入るとすぐ左側に高さ3mほどの石碑がある。
「彰忠碑 希典書」と彫られており乃木大将の筆である。
碑の背面には、日露戦役(M37〜38)の戦死者名などが記され、「明治41年」とある。

向かって左手前に小石碑があり、「先年 桃井第一小学校庭に建てられた本碑は
大東亜戦争の直後 故あって地中に埋められていたが 今回有志者によって此の地を相し
再建して以って永くその遺芳を偲ばんとするものである。  昭和参拾壱年六月」
と記されている。

この説明の通り、敗戦時には書物類に限らず全国でこのようなことが行われたことが窺える。



(桃井第一小学校庭に建てられたという石碑:H15年9月撮)

『新天沼杉五物がたり』によれば、「桃井第一小学校の前身は明治8年開校の公立桃園学校
(現在の中野区立桃園第一小学校)第二番分校で、上井草村の薬王院に設置された。

桃園学校第一番分校は同年に馬橋村の清見寺に開校(現在の杉並第一小学校)した。
このとき、杉並区域ではほかに郊西学校(五日市街道沿いの地区)、
高泉学校(甲州街道沿いの地区)が開校した。」

(桃井第一小学校は現在も薬王院の奥側にある。(青梅街道、荻窪八幡神社の
右向かい側、荻窪警察署と荻窪郵便局との間を入る) また郊西学校と高泉学校は
その後統合などがあり、現在の高井戸小学校になっている。)

  ★ 荻窪駅北口前 ★

年譜によると井伏(49歳)は昭和22年7月に疎開を終わって妻子と共に荻窪の自宅へ戻った。
駅前の商店を見て井伏の五つになる男の子が「マンデー屋が仰山あるけエ」と驚いたという。

疎開先には店といえば「前土居屋」という雑貨屋が一軒しかなく、子供はそれを
「マンデーヤ」と発音して店屋という意味と思っていたと井伏はユーモラスに表現している。

当時は、荻窪駅北口を出ると目の前には市場が建ち並んでいた。
戦争末期に強制疎開で空地になっていた場所にはいわゆるヤミ市ができていたのである。
井伏は「休業しているような店」と書いているが、それでも密集した商店の様子は
田舎から出てきたばかりの小さな子供の目を驚かすのに十分だったろう。

     火事で・・・

昭和26年4月、荻窪駅北口前の市場の一部、4棟(36世帯)が火災で焼失した。焼跡は
駅前広場計画地域だったので直ちに建築禁止の措置がとられ、小さな広場らしいものができた。

その後、駅や駅周辺の再開発が進み、現在の北口には狭いながらもバスターミナルと
タクシー乗り場が整備されていて、当時とは一変している(H15)。
駅から北口へ出た印象を一言でいうと、当時は”商店”で、今は”バス”だろう。

(再開発計画はさらに進み、駅北口の北側の階段を上がると右手にあった昔ながらの焼き鳥屋、
果物店、ラーメン店はなくなり、バスターミナルが拡張され、整備工事が進行中である。(H22/11))

 
(北口エスカレーターを上がった所で前方を写した:H15年9月撮)

・前方の街路樹は「トウカエデ」(青梅街道沿い)
・「Olympic」の前が都電の起終点だった。裏手が「桐の木横丁」
(Olympicのビルは取り壊され、平成20年に新ビルが完成。
Olympicはなくなり、パチンコ、ゲーム店などが入っている)

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『新天沼杉五物がたり』の中の「荻窪物語」には、中央線、荻窪駅、駅周辺の再開発、
商店街、バス路線、道路など荻窪辺りの戦後の発展の様子が詳しく記されている。


  ★ 四面道の街路樹 ★

本編に「四面道を起点に駅前の方に向けて街路樹の台湾楓が並んでいる。」とある。
現在は木に「トウカエデ」のプレートがついている。当時(S22)の木が「フウ」であればその後に
「トウカエデ」に植え替えたことになるが、葉や漢字名が似ているので井伏の錯覚かもしれない。
「菜っ葉か何か植えたらしい」根元の地面の部分には、今はツツジが植えられている。

(前方が四面道)  (葉は対生)

(手前が四面道北側起点の「トウカエデ」(奥はイチョウ):日大(二高)通りから写した:H15年9月)
---この木は、青梅街道の他の木より小振りで若いように見える。井伏が記した木と同一かどうかは判らない。---

この木から荻窪駅北口前を経て天沼陸橋までが「トウカエデ」で、青梅街道のその両方向は
杉並区内は「イチョウ」、中野〜新宿はプラタナス(すずかけ)、練馬区関町辺りはケヤキである。

四面道で青梅街道から環八通りに入ると、井荻駅方向は「トウカエデ」が約500m続く。
井荻駅辺りは西武新宿線を挟んで「ナンキンハゼ」(東京の街路樹としては少数派)である。
高井戸方向は「モミジバフウ」が約500m、その先には「トウカエデ」「エンジュ」などがある。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 蛇足ですが 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

東京都が、『TOKYO-街路樹マップ2003』を発行している。(都庁で1,110円で購入できる)
都の道路が街路樹の種類によって色分けされていて、木の名前が判るようになっている。
裏面には関連する解説やデータが記されており、ツリーウォッチングには好適である。
それによれば・・・・・

** 「トウカエデ」 **

名前のように唐・中国が原産で高さは20mくらいになる雌雄異株の落葉高木。
多摩方面などでは美しい紅葉が見られるが、都心部ではあまり美しく紅葉しない。
樹勢が強く、土質を選ばず、やせ地でも生育する丈夫な木。
新梢首垂病・ウドンコ病にかかりやすいのが欠点。

カエデ科の仲間は葉が対生(枝の同じ位置から左右に葉が出る)であるという特徴があり、
葉が似ているフウとはこの点でも区別できる。(フウ(マンサク科)の葉は互生)

** 都内23区の街路樹本数 == 30万本  (H14) **

街路樹本数ベスト10 (単位 千本 :百本単位四捨五入))

合計順位 樹種名 区部 多摩部他 合計
1 イチョウ 40 24 64
2 ハナミズキ 23 25 48
3 プラタナス類 37 3 40
4 サクラ類 24 14 38
5 トウカエデ 16 21 36
6 ケヤキ 12 16 29
7 クスノキ 14 6 20
8 マテバシイ 12 4 17
9 エンジュ類 10 6 16
10 ヤマモモ 10 2 13
全計 - 296 172 469

(杉並区内の街路樹は、「トウカエデ」が一番多いように見える)

  ★ 三毛猫 VS マムシ ★

本編の主題は、疎開から戻ると直ぐに井伏宅で飼うことになった迷い猫の三毛猫である。
蝮と戦ったり、雄猫を惹きつけたり、年老いた様子などが細かく綴られている。
「名前は付けなかった」というが、その描写から可愛がっていた井伏の気持が伝わってくる。

「猫」と「蝮」のことを百科辞典(平凡社)で調べてみた。

   イエネコの生態・・・

「ネコは単独生活者で、一定の縄張りを占有する。飼主の家とその庭であることが多い。
その周りにはハンティングエリアがあり、獲物を捕らえるための狩場と通路、集合所からなる。
そこは他のネコとの共有地で、集合所は相互のコミュニケーションに使われる。

半野生の生活を送っているものでは、小型のネズミや小鳥、トカゲ、カエルなどを食べる。
狩には10万Hzの超音波が聞ける鋭敏な耳が役立っている。
(ちなみに、ネズミは7万Hz、イヌは6万Hz、人間は2万Hzが上限である。)

繁殖期は不定だが、発情は1〜3月と5〜6月に多い。雄はハンティングエリアを離れて出かけ、
他の雄に出会うと戦い、勝利者が雌に求愛するが雌は最も強い雄を選ぶとは限らない。
妊娠期間は63〜65日で、1腹4〜6匹を産む。

性的な成熟は雌雄とも1歳弱位、年に2〜3回出産することができる。繁殖力は9歳頃までである。
寿命は普通12年前後であるが、24年も生きた例がある。」 

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井伏宅の三毛猫は、推定昭和21年生まれ、同22年に初出産、同32年(11歳)で帝王切開、
同35年死亡(14歳)である。戦後の食糧不足時代に生まれ育っている。
ネコにとっても最悪であったろうが、それにしては長命な幸せな生涯であったといえる。

なお、三毛猫はほとんどすべてが雌である。昔から船乗りに航海の守り神として
珍重された雄の三毛猫は、極く稀にいるだけで染色体異常が伴っているので生殖能力はない。

   蝮(マムシ)・・・

「ニホンマムシは、全長40〜60cm、最大75cmほどで毒蛇としては小型。
頭部は長三角形で大型のうろこに覆われる。頸部がくびれ、胴はむしろ太短く尾も短い。
体背面には暗褐色の銭形模様が並び、体色には変異が多い。
平地から山地にすみ、夜行性だが雨天や曇天の昼間でも行動する。

動作はのろいが、人が接近すると逃げずに身構え、体調の1/3ほどをのばしてとびかかる。
毒は、患部に出血と壊死を起こす出血毒が主成分で、ほかに神経毒、心臓毒など諸成分が
含まれる。毒性はハブより強いが、平均注入毒量が少ないため、人間の致命率は極めて低い。
しかし咬傷を受けた場合、応急処置の後、血清治療を受けることが望ましい。」

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荻窪にいたマムシはニホンマムシである。琉球列島を除く日本全土、朝鮮、シベリア、
中国などから中央アジアを経てヨーロッパ東部まで分布する。

「マムシの毒は出血毒で、神経毒の気配すらない。咬まれてもひどくしみるような痛みと、
咬傷個所が腫れ上がるだけのこと」という専門家もいるようだが、子供や抵抗力の弱い
高齢者などには危険大である。身近な所にもいるので誰もが用心するに越したことはない。

それにしても昭和22年(1947)に、荻窪にマムシがいたとは驚きである。
井伏の見間違いとは思えないので、荻窪で目撃された最後のマムシかも・・・?

ネコとマムシの対決は井伏の介入によってネコが勝利したが、1対1ではどちらが強い?

井伏はネコが咬まれると思ったようだが・・・ネコは古代エジプトの頃に倉庫の農作物を
荒らす野鼠やヘビを駆除するために家畜化された。さらに神格化され、太陽を象徴するネコが
闇を象徴するヘビを刀で切る絵が残されている。マムシが勝つとは限らない・・・

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荻窪に帰って1年後に太宰治の玉川上水心中(S23/6)があったが、井伏は東京での積極的な
執筆活動を再開、「貸間あり」(S23)、「本日休診」(S24)、「遥拝隊長」(S25)・・・などを発表する。

昭和40年には原爆の惨禍を描いた「姪の結婚」を「新潮」に連載し(途中で「黒い雨」と改題)、
翌41年9月に完結した。この41年11月、文化勲章と野間文芸賞を受賞した。井伏68歳であった。


この編では主に次の図書を参考にした。     (H15/10UP)

・『TOKYO-街路樹マップ2003』(東京都建設局公園緑地部)
・『平凡社 大百科辞典』   (S60 平凡社)
・『ネコの毛並み』 野澤 謙著 (H8 裳華房)
・『ねこ』 木村喜久弥著 (S41 法政大学出版局)
・『猛毒動物の百科』 今泉忠明著 (H6 データハウス)


(十五)小山清の孤独=悲運、 薄幸の文士 (十七)荻窪(七賢人の会)=滄桑の変!!

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