第一部 井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界

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(十七) 荻窪(七賢人の会) == 滄桑の変!!

  ★ 荻窪病院 ★

本編に「昭和32年12月31日、盲腸で荻窪病院に入院した。
大晦日の夜、手術台で全身麻酔施術の時に観泉寺の除夜の鐘が鳴り始め、
二つまで数えられたが三つ目の鐘の音の前で意識がなくなった・・・」とある。

荻窪病院は杉並区今川3丁目にあり、前身は中島飛行機製作所付属病院で、
以来70余年の歴史を持ち、この地域に親しまれている総合病院である。
井伏宅からは車なら数分の距離にある。

病院の東北角にある交差点(中央大学杉並高校の前)が観泉寺参道入口で
「曹洞禅宗 宝珠山観泉寺」と彫った標石があり、直ぐ奥に山門が見える。

山門を入ると右側に鐘楼があり、除夜の鐘は此処から付近一帯に鳴り渡る。
当時の建物の手術室なら聞こえたのだろうが、全面改築された現在のビル内では・・・?

 現在の荻窪病院(平成15年11月撮)

なお、安永4年(1775)作の観泉寺の梵鐘は戦争のため昭和17年に供出されたが、
戦後は直ぐに仮の鐘を用意して入相(いりあい)の鐘(毎日夕方:現在は17時)と除夜の鐘を鳴らし続け、
昭和49年(1974)に現在の鐘を鋳造した。従って、今の鐘の音は井伏が荻窪病院で聞いた音とは異なる。

  ★ 杉並区 “今川” の観泉寺 ★

   領主今川家の菩提寺 ・・・

1万坪にちかい観泉寺の広い山内は重厚な本堂を中心に手入れが行き届いており、
清楚な庭や竹林に杉林、多くの自然の古木や大木、苔生す墓石に古刹の静寂の気が漂う。
本堂の手前にある枝垂桜は見事なもので、春には訪れる人が多い。
(この枝垂桜は、現在は、以前ほど壮観な姿ではないようだ。相当の老木のように見受ける。)

所在地は今川2丁目(S39/6から)である。昭和37年の住居表示法に基づいて決められた
もので、昭和7年の杉並区発足に伴って新たにできた町名 “今川町” から採っている。
江戸時代の領主今川家の菩提寺、観泉寺があることに因んで付けられた町名である。

   今川義元の子孫累代の墓 ・・・

永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたことはよく知られている。
その後、義元の長男氏真は徳川家康に仕え、氏真の孫直房(範英)は幕府高家衆となった。

正保2年(1645)、井草村は今川家の領地となり、上井草と下井草に分けられたが、
領主直房は下井草にあった“観音寺”(慶長2年(1597):中野成願寺六世が開山)を
今川家の菩提所とし、その後 “観泉寺” と改称して上井草(現表示・今川)の現在地に移した。

そして、慶安2年(1649)には将軍家光により寺領10石余が認められて御朱印寺という権威を
持った。観音寺からの改称、移転の時期は当時の文書が焼失しているため判然としないが、
朱印状には観泉寺の名があることなどから、慶安2年以前であることは間違いないとされる。

寛文2年(1662)に直房(今川家13代)の祖父氏真(うじざね:12代)の墓を葬地の市ヶ谷田町
の万昌院(現在は中野区)から当寺へ改葬して勧請開基とし、以降今川家の菩提寺となった.

山内の墓地の一角に、今川家23代までの当主など20基の墓があり東京都指定旧跡に
なっているが、今川家は明治20年に亡くなった範叙(のりのぶ:23代)の代で途絶えた。
(ちなみに、20基は、宝筐印塔5基、板碑形2基、無縫塔12基、ほか1基である。)

『杉並歴史探訪』によれば、「直房以下の歴代の葬地は市ヶ谷の長延寺(現在は杉並区和田)
なので、観泉寺は歴代当主に没後入道の位を授け、無縫塔を建てて供養したのだろう。」という。

*無縫塔=卵型の塔でもともとは僧侶の墓。後には、僧以外にも没後入道の位を授けて建てた。

参考サイト 観泉寺 今川家の墓など写真多数

なお、寛政2年(1790)、下井草の観音寺より観音堂が観泉寺に移され、観音寺は
なくなったが、現在も下井草には「観音屋敷」という地名が残っているという。

また、今川家は観泉寺を領地支配のための役宅としても使用したので領民との関わりは
深かった。天保7年(1836)の百姓直訴騒動では観泉寺の庭で取調べが行われたという。
(今川領は高い家格のため年貢が厳しく、領民が苦しんだことは別項に既述の通りである。)

秋色の木立に囲まれた鐘楼(H15/11撮)             本堂前の枝垂桜(H20/4撮)

            
(鐘楼と山門は平成になって大きな修改築が行われたので、以前とは様子が違っている。

   薬王院 ・・・

明治8年に中野桃園学校第二分校(桃井第一小学校の前身)が置かれた薬王院は、
観泉寺の南500m余、青梅街道に面して荻窪警察署と荻窪郵便局の間にある。

観泉寺の境外仏堂で、本尊は薬師如来像といわれるが秘仏のため目にすることはできない。
元禄年間(1688〜1703)に創設され、間もなく今川氏の祈祷所となり、さらに1747年頃には
観泉寺の末寺となっており、明治期に合併して境外仏堂(薬師堂)となったもの。

一説には、もと寺分(現・杉並区善福寺1丁目)にあった古寺、玉光山薬王院万福寺で
元禄年間に現在地に移され今川家の祈祷所になったといわれる。(『杉並風土記 上巻』)

  ★ ”天沼八幡通り”の新本画塾 ★

井伏は「病気が全快して天沼八幡通りの新本画塾に6年間通った・・・」とある。

昭和33年からのことで、本編に画材のカレイが跳ねて床に飛び出した様子が記されているが、
この時に描いたのは井伏の初めての油絵 “さかな” で、画塾の“かるきす油彩画展”(S33/10)に
出品された。この絵と展覧会ポスターの写真が『井伏鱒二と「荻窪風土記」の世界』に載っている。

また、このことは、「展覧会−生まれてはじめて油絵を描いて」(産経新聞:S33.11.3)にもあり、
“カルキス” という名はギリシャの鳥の名前(ホメロスの作品)に由来するそうだと書いている。
(「イリアス カルキス」でサイト検索したところ、神が “カルキス” と呼ぶ鳥の一節があった。)

先日、天沼八幡通り近辺を歩いていたら、「カルキス」という名前の大きなマンションが
あるのに気付いた。 新本画塾に因んだ命名だろうと何か妙に嬉しい発見だった。

新本燦根(にいもと きらね)画伯の名は本の装丁や挿絵担当として見かける。 例えば井伏作品では
「阿佐ヶ谷の釣師−釣場・釣師」(S34:小説新潮)、「中込君の釣」(S38:小説中央公論)などである。

  ★ おでん屋・魚屋・お菓子屋・銭湯の主人などで七賢人 ★

そして「絵も釣も上手になれないので諦めることにして、町内の古い知りあいと懇親会を
つくることにした。」と本題に入る。<自分にとって大事なことは、
人に迷惑のかからないようにしながら、楽な気持で年をとって行くことである。>と ・・・。

「昭和37年夏、おでん屋 “おかめ”の主人“末さん” の呼びかけで七賢人の会が発足した。
酒飲みばかり7人の会で、井伏(64歳)と末さんの他は、“魚金”、“宝莱屋”、“武蔵野湯”の
各主人、それに吉田接骨医と千葉へ引越した鉄道省出身の松ッちゃんである。
いずれも戦前からの荻窪の酒飲み仲間で、七愚人とするか・・・」という会とある。

ところが「愉快な集まりだったが、1年余りたつと末さんが亡くなった。
そしてモントリオールオリンピックから帰った宝莱屋の主人が、また暫くすると魚金の主人が
亡くなった。」とある。このオリンピックは昭和51年なので、同53年頃のことのようだ。

<・・・ばたばた倒れて行くといった感じである。そのくせ私には、覚悟というようなものはまだ
何も出来ていない。>と井伏は80歳を越えた心境を記している。(本編発表は84歳:S57)

会発足から40年余、井伏没して10年余、武蔵野湯は同じ場所にある5階建てビルの
2階でラドン入浴とサウナの「杉並ラドンスパ」となり(1階は家電量販店のラオックス)(*)
宝莱屋は光明院近くに本店を構え、駅前の西友内にも出店があるが、
それ以外には往時の会を偲ぶことができるものは見当たらない。

現在、朝日新聞(朝刊:東京)の東京西部欄に「中央線の詩(うた)」が連載されており、
H17/4/26掲載の「風土記」(6)に、「七賢人の会」と武蔵野湯のことが記されている。
当時の武蔵野湯のご主人は、昨年2月(H16)に94歳で他界されたという。
(これまで、このページには“武蔵野湯は「武蔵館」というオフィスビルに変わった”
と記していたが今般訂正した(H17/4/27記))。


(*)本項を初UP後12年、「杉並ラドンスパ」、「ラオックス」はすでに閉店しており、
現在は、1階は生鮮市場「アキダイ」、2階は進学塾「早稲田アカデミー」で、
ビル名は「上荻ホワイトビル」である。(H27/7追記))

  ★ 滄桑の変 ・・・ 牛コロシ(カマツカ)の木 ★

井伏は、荻窪駅の乗降客数と元井荻村の人口の推移を数字で示してこの地の激変を確認し、
<滄桑の変という言葉を使いたい>とある。

滄桑の変”=桑田変じて滄海となるような変化。世の変遷の激しいことにいう。(『広辞苑』)

そして、<「杉並町誌」という本に深山にしか育たない樹木が荻窪の道端にあったことを
書いてある。><牛コロシの木が生えていた以上、このあたりの木立は深山の面影のある
幽邃な森の残欠であったと思っていいだろう。>と「荻窪風土記」17編を締めくくっている。

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@@@ 雑記帳 @@@

  [中島飛行機製作所]

   ”ゼロ戦” ・・・

大正14年、現在の杉並区桃井3丁目(荻窪八幡神社前)に同社の東京工場が建設された。
当時の井荻村内田秀五郎村長は、公害を憂慮し、防止するために
煤煙・音・有害ガス・井戸水についての4条件を付して建設を認めたのである。

”ゼロ戦”といえば三菱重工(名古屋)が有名だが、エンジンはこの工場が開発したものである。
戦争末期には米軍機の爆撃を受けたが、爆弾は周辺に落ちて工場は無傷だった。

   ”プリンス”から”日産自動車” ・・・

戦後は航空機の製造が禁止され、社名を富士産業(株)から富士精密(株)とし、小型発動機や
ミシンなどを製造していたが、昭和26年には自動車産業に進出して
昭和36年にプリンス自動車工業(株)と改称した。
皇太子の御料車に採用され、”プリンス”ブランドは一躍脚光を浴びた。

   ”防災公園とマンションの街” ・・・

昭和41年、日産自動車(株)に合併し同社荻窪事業所となったが、その後、自動車から
航空宇宙事業(ロケット)部門に変り、さらには事業所の移転閉鎖で平成13年に約27,000坪の
跡地は都市基盤整備公団に売却された。土地の汚染状況調査が終わり、近々には杉並区の
防災公園(約12,000坪:現在(H15)は桃井原っぱ広場)と約940戸のマンションの街に変る。


2年前はクレーンだけだったが・・。手前は桃井原っぱ広場
(H17.11.12撮)


平成23年4月、広場は「桃井原っぱ公園」(約12,000坪)となって開園した。

この公園は、防災倉庫1棟、防火樹林帯、非常用防災トイレ70穴、耐震100トン地下貯水槽2基、水路1箇所、
ヘリコプター緊急離発着場
を備え、平常時は地域の人々の憩いの場として、災害時は周辺の消防署、
警察署、病院等と連携した避難拠点として大きな効果が期待されている。



ここにも “滄桑の変” の典型を見ることができる。


内田秀五郎(うちだ ひでごろう)町長 と 井荻町の区画整理事業

大正期にあってすでに工場の公害問題を提起した当時の内田秀五郎村長は、
明治40年に30歳の若さで井荻村村長に就任し、さらに井荻町となってからは町長として
卓越した先見性、指導力をもって井荻町の区画整理や水道事業等々に取り組んだ。

後に都議会議員、終戦直後には都議会議長を歴任し、善福寺公園に銅像がある。
また、井草八幡神社の一角には大型の石碑「井荻町区画整理記念碑」があるが、
その存在や業績はもう世間一般からは忘れられているようである。


善福寺公園の銅像 : H17.11.12撮


杉並区の地図をよく見ると、旧井荻町一帯(杉並区の北西部)の道路は他に比べて
整然と区画されていることが分かる。内田村(町)長のもとで幾多の難問に
対応しながら10年余、昭和10年に竣工した井荻町の区画整理事業の結果である。

隣接する天沼(旧杉並町)に細い道、迷路状の道が多く見られるのとは対照的である。

井伏の住む清水は区画整理の地域内にあり、進捗状況をつぶさに見ていた。
天沼も、弁天通り(教会通り)や桐の木横丁、八幡神社などがあり井伏にとっては
日常極めて馴染み深いところなので、その違いには複雑な思いがあっただろう。


なお、旧大宮前一帯(杉並区の南西部)の道路が短冊形に整然と区画されているのは
寛文年間(1661〜1672)に江戸幕府が行った開墾事業によるものとのこと。
(『杉並歴史探訪』が「武蔵野歴史地理」(高橋源一郎著)を引用している。)

(井荻町の区画整理と内田秀五郎について、高見澤邦郎(工学博士)は
「井荻町土地区画整理の研究」(2006/7:南風舎)を著し、詳述している。)

  [牛コロシ(カマツカ)の木の話]

“カマツカ”(別名 ウシコロシ) = “鎌柄”で本編にあるように材質が丈夫で折れにくく、
鎌の柄などに用いられ、牛の鼻環にされるところからついた名である。

バラ科の落葉低木。高さ2〜5m前後。日本全土の低山地にみられる。
4、5月、径1センチ弱の白色の5弁花を多数開く。

本編にカマツカの木について「杉並町誌」の記事が紹介されているが、大正14年編纂の
『井荻村誌』に次の記事(原文のまま)があり、本編の内容と若干違っている。

「七、御車止めの木   大字上井草村原寺部の境なる地蔵堂下善福川流れに
架せられたる橋あり、橋の袂東北寄りに一株の手殺しの木(俗称)明治34年頃まで存したりしを
明治5年4月15日、昭憲皇太后陛下小金井行啓の際御車の馬なにものにや驚きけん、驚奔して
御車此の橋畔に至り辛うじて止まる。実にこの木ありしにより、御難を免れ給ひしと、
今は橋等架け替せらるに及んで、いつとなしに取除かれ、其の影を見るに能はず。」

(この橋は現在の女子大通りの「原寺分橋」。“手殺しの木”は”牛殺しの木”の誤植だろう。)

なお、 「杉並町誌」を杉並区の図書館で調べたが、この記事のことは確認できなかった。
また、“カマツカ”の木のことを何冊かの百科辞典、植物図鑑などで調べたが、
”悪臭”のことに触れられているものは見当たらなかった。

事実の詳細はともかく、明治期にこの地に“カマツカ”の木があったこと、
その木は山地に自生し、街中では見かけない木であることは確かだろう。

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激動の昭和にあって、荻窪は農村から住宅・商業地へと急激に変貌した。
樹木の緑・土の香り・水の流れは、住宅に、アスファルトに、車の流れにとその姿を変えた。

昭和2年に荻窪に移り住んで半世紀余、その様を目の当たりにした著者・井伏鱒二は、
街の様子、時の流れ、そこに生きた人々、その時を生きた人々に思いを馳せて筆を運び、
“カマツカ”の木が姿を消したことに“滄桑の変”を象徴させて「荻窪風土記」を締めくくった。


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=「荻窪風土記」は “鎮魂の書” と見つけた=
(H29(2017).3.20 追記
)

「荻窪風土記」を再読するうち・・、この書は井伏による旧友らへの
“鎮魂の書” ではないかとの思いに至った。

単行本にする際、「風土記」と題したことで紛らわしくなったように思うが、
その本質はあくまでも登場人物に対する井伏の想いであり、その多くは
かつて阿佐ヶ谷(将棋)会などに集った文学仲間や地元の飲み仲間である。

井伏83歳の執筆で、この時すでに大半の仲間は鬼籍の人になっている。
井伏よりも若い仲間たちが、一人、また一人と旅立っていたのである。

往時に思いを馳せるとき、井伏の胸に浮かんだのは
こうした仲間たちの若い笑顔だろう。

「あの日をありがとう 安らかに休んでおくれ・・」 の思いが
胸にこみ上げたのではないだろうか。

郷愁・感傷に流れることなく、文学者の矜持をもって筆を進めて “鎮魂の書”
「豊多摩郡井荻村 17篇」
(=荻窪風土記)が仕上がったと思えてならない。


この編では主に次の図書を参考にした。        (H15/11UP)

・『今川氏と観泉寺』   (S49 観泉寺史編纂刊行委員会)
・『杉並風土記 上巻』 森 泰樹著 (S52 杉並郷土史会)
・『杉並歴史探訪』    森 泰樹著 (S49 杉並郷土史会)
・『杉並区史探訪』  森 泰樹著 (S49 杉並郷土史会)
・『文化財シリーズ23 杉並の寺院』 (S54 杉並区教育委員会)

・『東京市役所認評 大東京全図 西部方面』(S7 報知新聞社)
・『杉並区住居表示新旧対照表』(S61 杉並区役所区民部区民課)

・『井荻村誌』(大正14年編纂:図書館所蔵の複写本:原本不詳)
  『日本大百科全書 5 』 (H7 小学館)



(十六)荻窪(三毛猫のこと)=敗戦、そして帰京!!


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