第三部 阿佐ヶ谷文士それぞれ (人生と文学)

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安成二郎 : 年齢・将棋の技量とも別格

やすなり じろう) : 明治19(1886).9.19 〜 昭和49(1974).4.30  享年87歳


安成二郎は会員最年長で、中村によれば”年齢的にも技倆的にも別格の存在”だったという。
戸籍上は”M21年生”だが、本人は”M19.9.19生”と明記している。井伏より12歳年長である。

兄(安成貞雄:文筆家)の影響を受け、大正初期から雑誌社や新聞社の記者・編集者
を勤めながら、土岐善麿の「生活と芸術」などに生活派の短歌を発表している。
歌集や小説集などのほか、晩年には、厚誼を受けた大先輩や友人、後輩の逸話、
交友関係など、往時に記した90余編の人物記を集めた『花万朶』(S47)を刊行した。

安成は大正15年に阿佐ヶ谷に新居を建てて移ったので、界隈では井伏よりも少しだけ先輩と
いうことになる。昭和5年暮には阿佐ヶ谷駅前で偶然会ってバアに誘われて飲んだことや、
将棋をしているが自分の方が強いこと、などを書いている(「人生の二次会の井伏鱒二君」
(S6/2))ので、”将棋会第1期”の早い時期から親交があったことは確かである。


 “阿佐ヶ谷将棋会”の全体像 と その背景 昭和史 略年表 

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安成二郎著作(人物記)集 『花万朶』(はなばんだ:S47)

収められた90余編には、大正初期から昭和40年代にわたり、著者がジャーナリスト・作家・歌人として接した
多くの文人の素顔、交遊振りが記されていて興味深く、楽しく読める。 露伴、秋声、藤村、雪嶺、如是閑、という
5人の大家については独立した項目が設けられており、例えば、露伴と菊池寛という腕達者同士の
将棋対局を企画したが菊池寛に断られて実現しなかった(S9)という裏話の紹介がある。 

井伏のほか、上林、太宰の項もあり、阿佐ヶ谷(将棋)会のことに触れている部分もある。
井伏は、「人生にも二次会があるといいですね。」と言ったという。 「しかし私の見るところによれば、
井伏君などは、生まれながらにして人生の二次会に出席している人であろう。」と結んでいる。(S6:上記)
巻末には、簡略ではあるが本人が書いた”著者略伝”を載せている。

荒畑寒村が本書の序文に、著者の本領は歌人であるとして、次の二首(歌集「貧乏と恋と」(T5)所収)
・豊葦原瑞穂の国に生まれきて/米が食えぬとは/ウソのよな話
・言魂の幸わう国に生まれきて/ものが言えぬとは/ウソのよな話

を掲げて、”ユーモラスで、しかも時代に対する皮肉で痛烈な風刺批評を含み、後世に伝えらるべき
名歌である” と評し、作歌ばかりでなく散文にも優れ、名文家であると紹介している。

( 二首目の”言魂”(ことだま)は、原典は”言霊”である。)

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安成が阿佐ヶ谷に新居を構えたのは40歳の時(T15)だが、ここで、安成の生い立ちなどを
振り返る。安成の文学と人生の原点は、兄貞雄の存在とその人脈が基盤になっている。

伊多波英夫著 『安成貞雄を祖先とす − ドキュメント・安成家の兄妹』(H17) がある。
著者は秋田県大館市の方で、郷土の、そして母校の大館中学の大先輩安成貞雄の生き方に
関心を持ち、以来40年にわたる資料収集を経て本書を刊行した。その過程で貞雄の弟妹4人に
ついて看過できなくなりその章が設けられたが、特に貞雄と二郎に関しては豊富な資料に基づく
極めて詳細、緻密な内容である。 本項は、主に本書の記述、巻末の4兄妹の略年譜に拠った。

  父は元長州藩士

父(安成正治)は長州藩(山口県)の藩士で2歳年下の乃木希典(日露戦争時の陸軍大将)と
親交があった。明治維新で上京(M8)し機械工となり、次いで秋田県にある官営阿仁銅山に
赴任(M15)した。そこで地元の大工の長女(きみ)と結婚し、長男貞雄(M18)が生まれた。
その後、勤務地の関係で何回か転居するが、次男二郎(M19)、三男三郎(M21)、
長女くら(M27)、四男四郎(M33)の4男1女をもうけた。いずれも秋田県生まれである。

  秋田県立大館中学校

貞雄、二郎は、阿仁合尋常高等小学校、向能代尋常小学校、淳城尋常高等小学校、に
通い、秋田県立大館中学校、(旧県立第二中学校、現大館鳳鳴高等学校)に進学した。
貞雄は卒業して早稲田大学英文科(予科)へ進学(M37)するが、二郎は中学3年時に
中退(M35)し父の当時の勤務先古河精錬所に日給25銭で勤めた。中退の理由について
本人は”神経を病み学校がいやになった”とか”貧しい父が気の毒になり”と書いている。

貞雄も二郎も、この中学時代から俳句を始めている。地元の句誌<俳星>に投句、貞雄は
校内に俳句の会「星秋会」を結成し、二郎も加わった。学業成績は兄弟とも優秀だった。
三郎も進学(M35)し優等生だった記録があるが家族全員で上京のため中退(M38)した。

  父の死で家族上京

父は明治37年、怪我が原因の病で57歳で没した。二郎は翌年(M38)春、一人上京し早大
在学中の貞雄の下宿に同居した。 同年秋には一家が上京し、母子6人での生活となった。

この頃(M38〜39)の貞雄は、思想関係団体である早稲田社会学会に加入し社会主義の
洗礼を受け、白柳秀湖、宮田脩、暢兄弟らと<火鞭>創刊に参加、また同級生の土岐善麿、
若山牧水らと回覧雑誌<北斗>を始めた。荒畑寒村との出会いがあり親交を深めていた。

二郎は貞雄の友人、知人と接して社会主義思想に親しみ、平民社に行ったり、ビラをまいたり
したが、間もなく宮田暢の世話で内田魯庵のもとで筆耕の仕事に就いた。その後、出版社、
新聞社、雑誌社などに勤め、自らも短歌、俳句、随筆、小説などを発表するようになるが、
貞雄や友人らの援けが背景にあり、二郎の文筆人生の原点がここにあるといってよかろう。

なお、貞雄は大正13年に脳出血で急逝した(享年39歳)。 今は知る人も少ないが当時は
超個性的ジャーナリストとして異彩を放っていたようだ。『日本文学大事典(紅野敏郎)』には
「酒、貧乏、浪吟(ヨタリング)の生活を送る。一種の無頼漢で、髯の男としても著名。」とある。
「文壇与太話」(T5)の著書があり、没後、弟妹で編んだ「遺稿集」(T13)がある。

  歌集「貧乏と恋と」刊行

二郎の処女出版は大正3年の警句集「女と悪魔」で、内田魯庵、宮田脩、徳田秋声、大杉栄
の序文と貞雄の跋文がある。二郎にとっては大恩ある先輩といってよい名前が並んでいる。
この年には「ナポレオン警句集」も出版したが、二郎の代表作といわれる歌集「貧乏と恋と」は
大正5年の出版である。 貧乏が主題の生活派的な歌110首など271首が収められている。

この歌集には著名な22名の文人による序文、跋文が載って話題になった。内田魯庵、
宮田脩、大杉栄、薄田泣菫、与謝野晶子、堺利彦、等々である。ここから安成兄弟の、
歌人というよりはジャーナリストとしての特殊な幅広の才覚が読み取れるように思う。

なお、前記した最も有名な歌「豊葦原瑞穂の国に生まれきて/米が食えぬとは/ウソのよな話」
の初出は、大杉栄と荒畑寒村が創刊(T1/10)し、貞雄も関わった<近代思想>(T2/9)である。
生まれ故郷の阿仁には、この歌の碑が建てられ荒畑寒村による撰文が彫られている(S45)。

  雑誌社、新聞社、勤務 ・ 著作活動

二郎は明治45年(26歳)に結婚し、長男(T2〜S48)、長女(T3〜T7)、二女(T4〜H5)、
二男(T6〜H2)が生まれた。妻帯しなかった兄貞雄は自由奔放、気ままに生きることが
できたといえるが、二郎には家族のため不本意な仕事にも耐えるという意味の歌がある。

結婚当時は<楽天パック>の楽天社で編集に従事したが、間もなく廃刊で売文生活となり、
家計は苦しかったようで、貧乏の辛さを多く歌っている。「実業の世界」社に入社(T3)し、
(この時は貞雄、三郎の3兄弟が在職)三宅雪嶺担当記者や同社出版誌の編集長に
就くなど、大正8年初めの頃までここで活躍した。この間に、先の「貧乏と恋と」を
同社から刊行したほか、同社の出版誌に歌、評論、随筆、短編小説を発表するなど
自らの執筆も活発だった。歌文集「恋の絵巻」も刊行した(T8/4:日本評論社)。

正確な退職時期、理由は不祥だが、その後、東京毎日新聞の記者(T8/7)、読売新聞入社
(T8/7〜?)婦人部長などで活躍、大阪毎日新聞嘱託(T15?〜S4)となり、新聞、雑誌への
投稿も続けながら、ファブルの翻訳「家畜の歴史」、短編小説集「子を打つ」(T14)を刊行した。

このころには経済的には安定したといえようが、家庭的には思わぬ不幸に襲われた。
長女が4歳を前に病没、さらに長男は高熱を発して脳に障害が残ったのである。
長男はこの当時開校した日大二中(阿佐ヶ谷に接する天沼)に縁あって入学した。
二郎の阿佐ヶ谷への転居(T15)はこのことが関係していたのかもしれない。

  安成二郎の”貧乏”

二郎は自分の貧乏を題材にした生活派の歌人として名を知られたが、安成家あるいは二郎自身
が二郎の歌ほどに極貧生活だったとは考え難い。また、上京して貞雄の影響で社会主義思想に
馴染み、社会主義活動者との親交を深めたが、自身がそこにのめり込んだ風はない。

推測による私見だが、秋田の生活は鉱山という場所柄から貧しいというイメージになるが、
父存命中の収入は少なくはなかったはずで、 貧乏ではなかったから子供たちが中学へ
進学できたと考えてよかろう。当時は成績優秀だけでは進学は無理だったはずである。
(荒畑寒村は「父の死にあって中退」と書いた(歌碑)が実際はその前年に中退している。)

父が職を失い東京生活を余儀なくされた一時期(M17頃)と、没(M37)後は収入が無くて苦し
かっただろうが、それなりの蓄えがあったはずだし、周囲の援助も皆無ではなかっただろう。
家族上京後、くらは成女女学校を卒業(M44)、四郎は暁星中学に入学(T2)している。
極貧生活ではとても考えられないことだろう。

二郎の歌には生活派的作風が多く、また名歌との評を得ているのでこれが目立つが、
例えば第一歌集「貧乏と恋と」所収歌の半数以上は青春の哀歓を歌っているもので、
生活派というイメージだけが一人歩きしている感がある。木山捷平の場合もそうだが、
自分が生み出した”貧乏”という看板に後々悩むことがあったのではないだろうか。

安成が阿佐ヶ谷に新居を建てると、早速に戯れ歌が現れたと、伊多波が紹介している。
”貧乏の / 歌に名高き / 安成が / 家を建てるとは / 嘘のよな話”

大正デモクラシーを背景に社会主義活動が活発化する中にあって、二郎は社会主義思想に
馴染み、権力に追従することなく多くの社会主義者との親交を保ったが、運動自体には
距離をおき、あくまでもジャーナリストの目で時勢を見つめて昭和を迎えたと推察する。


(註)安成の経歴は、伊多波英夫著「安成貞雄を祖先とす」を参考にしたが不祥のことが多い。
・ 読売新聞の退社時期は不明、大阪毎日新聞jに入った時期(T13年)は、
同書の略年譜によるが、本文の記述には”T15かも・・”とある。
・ 居所については本人が「花万朶」に「大正15年に阿佐ヶ谷に移った」と書き、
昭和2年の新築祝いの写真などが残っているのでこれは確かである。
杉並区立中央図書館発行の「阿佐ヶ谷文士村」には「S2〜S11 阿佐ヶ谷」、
「S20〜S49 天沼3丁目」とあるが、上林によれば戦争中は牛込の方にいたと
いうことで、”将棋会”への参加状況などをみると、この間も阿佐ヶ谷界隈
とは頻繁に行き来していたと考えてよかろう。

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  そこで・・阿佐ヶ谷将棋会と安成二郎

昭和初頭、安成は、大阪毎日新聞学芸部の記者として勤務(嘱託:東京在勤)した。
過去に、歌人として、文人、編集者として、また将棋好きとして培った幅広い多彩な
人脈を活かした仕事だったようだが、安成の持ち味とされた生活派あるいは社会派
といったイメージは薄れていったように見受ける。

昭和4年、上司との関係に嫌気がさしたようで、8月半ばに退職し、
昭和6年に平凡社に入社するまでの約2年間、悠々の日々を送った。
井伏との親交がより深まったのは、丁度このころからのようである。

    安成と将棋

安成が将棋を覚え腕を上げた過程はハッキリしないが、無類の将棋好きで、それなりに
強かったことは確かである。将棋が関係する随筆、随想は多数あり、短編小説「失業した神様」
(S5/1)、「きりぎりす」(S5/2)の主人公は将棋に没頭して貧血で倒れて頭に怪我をするが、
自分自身をモデルに書いていることは確かである。

「花万朶」の最初の項は「幸田露伴博士」で、大正6年の訪問時から露伴没までの交際の様子が
執筆時順に収められている。将棋の相手をしたこと、木村義雄(後の名人)を紹介したことなどが
題材になっている。露伴が将棋好きで強かったことは有名だが、”専門家に近い四段”とされ、
木村とは角落ちで対局したという。安成は露伴に飛角落ちの対局で”二段”ということのようだ。
戦後、文壇将棋会で優勝して”三段”になったが、昨今のレベルとの比較は難しいだろう。

    ”将棋会 第1期(S4頃〜S8頃)” ・・安成と井伏

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

安成は”将棋会”の最も早い時期からの会員だが、きっかけは井伏との出会いだろう。
安成が遺した「阿佐ヶ谷帖」(訪問者が色紙に名前、詩歌、画、短文など適宜記入)に
井伏も記帳しているが(S5.1.19)、色紙1枚にツエッペリン号とマント姿の自画像を描き、
讃を添えて年月日、署名という内容からしてこの時が初対面とは思えない。
むしろ、井伏が荻窪へ転居して(S2)早々に知り合ったと考えておかしくない。
井伏はまだ「鯉」<三田文学>で文壇デビュー(S3)する前の無名の29歳、荻窪転居を機に
界隈の先輩、文筆界では既に名のある存在の安成(41歳)を表敬訪問していたと考えたい。
将棋好きの二人のこと、その時から当然に将棋を指したはずである。

井伏は「”将棋会”の発足は昭和4年頃、阿佐ヶ谷の会所で・・」というだけでメンバーには
触れていないが、安成はその一人だったのではないだろうか。他には田畑、小田で、
飲む方には青柳、蔵原も加わっただろうか。”安成を囲む会”のような雰囲気かもしれない。

    ”将棋会 第2期(S8頃〜S13頃)” ・・高麗神社・体制順応

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

安成は大阪毎日新聞を辞め(S4/8)、浪々の身とはいえ悠々の文人生活の後に平凡社に
入り(S6)、大百科事典の編集に携わった。在職期間中かは不明だが、昭和8年に安成は
”高麗神社”の修築造営に奔走している。10年後の昭和18年12月に”阿佐ヶ谷将棋会”
としての最後の会が高麗神社参拝という形で開催できたのはこの関係からである。

参考サイト 高麗神社 (ホームページ)

安成と高麗神社のこと = 安成自身が「高麗神社」(S14.12.15)に詳しく書いている。
それによれば、「たまたま考古学の本を読んでいて、内鮮融和のためにこの高麗神社を
顕彰し、東京にいる半島の人々が、このお宮を心の故郷として精神的な慰安を得られる
ようにしたいと思った。」 とのことで、早速参詣に行った。昭和8年夏頃のことのようだ。

ここで、「高麗びとを/神とし祀る/武蔵野の/高貴(うず)の宮居は/古りにけるかも」と詠み、
想念を具体化する活動を開始した。先ず、相識の某大臣に相談したところ、”政府としては
動けないが応援はする” ということで、翌9年には貴族院議員丸山鶴吉を理事長とする
奉賛会が誕生した。寄付を募り、神社用地の拡張、社殿造営と進め、日中戦争の影響で
難航を余儀なくされたりしたが、昭和14年には社殿の新築が成ったのである。
(伊多波英夫によれば「昭和14年に落慶式の運びとなった。」とある。)

安成は「花万朶」に「人生の二次会の井伏鱒二君」(S6)と「将棋をしながら井伏鱒二君と
語る」(S11)を収めている。特に前者は、若き日の井伏の姿を内面まで捉えて
軽妙に表現した傑作と思うが、それはともかく、安成は、昭和初期から、まだ無名に
近い井伏の文学を認め、将棋を通じての親交を続けていたことがわかる。
しかし、木山の日記に安成の名が見えるのは、昭和13年3月3日の会(将棋会開催の
最初の記録)からで、上林が初めて安成に会ったのも、後記のようにその頃である。
つまり、第1期、第2期(昭和13年頃まで)の頃は、井伏、青柳、小田、田畑ら以外は、
安成とは面識がなかったか、あっても浅い関係でしかなかったと考えてよかろう。 
中村が「安成は別格」と書いたのもこの辺の事情によるものだろう。

”将棋会第2期 成長期(S8頃〜S13頃)”の国内情勢は、ファシズムが浸透し、プロレタリア
文学は壊滅に追い込まれた。貧乏を歌い生活派を標榜した安成の心は複雑だったろう。

安成が携わった平凡社の大百科事典は昭和9年には完成した。安成がいつまで在職
したか不明だが、この第2期の頃は、歌人・文人として、また無類の将棋好きとして、
文人たちとの交遊や一人旅など、気ままな時間を多くとっている。

例えば、田中貢太郎の「博浪沙」に参加(S9)、井伏、尾崎一雄らに交じって寄稿したり、
奈良に志賀直哉を訪ねて将棋を指したり(S11)、文芸家協会(会長菊池寛)の大会に
出席(S11)、久米正雄主催の文壇人俳句大会に出席(S12)など、活発に行動している。

昭和10年、安成は田中の紹介で高知を訪ね、そのことが高知新聞に載った。改造社を辞め、窮地に
陥って高知に滞郷中の上林は、その記事を心に留めたが、その2〜3年後、上林は井伏に連れら
れて安成宅を訪問し、初めて安成に会った。この第2期の後半にあたるが、以降、将棋好きの両者は、
家が近いことから相互に行き来する間柄になり、戦後、双方が病に倒れるまで続いたのである。

ただ、このころには、生活派を標榜した安成の文筆活動は、国家主義的体制に積極的に
協力する姿勢に変わっている。安成の心の内は不詳だが、「白雲の宿」(S18)所収の
何編かの著作にそれが見られる。大新聞・雑誌など、多くのマスコミ関係者や文筆家、
言論人、文化人が体制順応に傾く中、安成も柔軟に現実対応の道を選んだのだろうか。

安成は50歳(S11)を目前に、阿佐ヶ谷の家を出て、代々木駅や目黒駅近くのアパート
で一人暮らしをしている(S9〜S10)。 「理由は私事」と書いている(S10冬)ので、
家庭の事情からと察するが、これが数年後の”家庭解散”につながっているのだろう。

    ”将棋会 第3期(S13頃〜S18頃)” ・・将棋会・家庭解散・旅行

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

将棋会は第3期 盛会期に入るが、開催一覧にあるように、会への安成の出席は多い。
将棋の腕前は会員中最上位で、このころ流行ったチーム単位の対外試合には大将格で
出場している。井伏、上林あたりが副将格だが、チームとして相当の好成績だったようだ。
  もっとも、会員たち自身の記述によるもので、ただの”腕自慢”なのかもしれないが・・

数多い出席の中で、安成が腕前以外の要素で強い存在感を示す3回の会について記す。

・浜野のアパートで開催の会(S14/6) 上林はこの会を「復活第1回阿佐ヶ谷将棋会」と
記しており、出席者が寄せ書きをしたが、安成は次の歌を書いている。

「歌よみて将棋をさして居らるべき/世と思はねど/これぞ楽しき」

安成の面目躍如といえようか。 (出席者など 会の詳細は 第三部 「浜野修」の項

・奥多摩 御嶽遠足(S17/2) 「玉川屋」で将棋と酒食、徴用中の井伏らに寄書きをした。
この時、安成はカメラを持参しており、撮影した数枚の写真は今も見ることができる。
阿佐ヶ谷文士ファンにとっては嬉しい写真ばかりだが、中でも、安成が太宰の死の
直後に書いた追悼文「太宰治君の写真」の写真に見る太宰の姿は素晴らしい。
安成がそのまま標題にした気持ちが理解できる。(写真など 詳細は 別項の通り

・高麗神社参拝(S18/12) この実施が「阿佐ヶ谷将棋会」としての最後の会となった。
前記のように、高麗神社造営は安成の尽力があって成ったもので、安成なくしては
実現しない企画だった。酒類・食料の欠乏が深刻の折から、他言できないほど贅沢
な会だったようだ。上林が発表した随筆「高麗村」(S19)と、その原稿の「高麗村」
とが微妙に異なるというのは時節柄からだろう。(高麗行きの詳細は 別項の通り

このころのことについて、安成は、「昭和15年の暮れに私が家を売り、家庭を解散して荻窪
でアパートにいた時分は、上林君とそこらを飲んで歩いた・・」(S41)と回顧している。
上林は、安成から、「奥さんは長男をつれて北海道へかへっていかれたとか聞いたが、
その後どうしてゐられるかしら。」(S49)と振り返り、その後を思い遣っている。
安成は、当時、自身の家庭のことは外には明かさなかったが、家が近く、将棋で相互に
親しく往来する中で、安成がふと洩らした言葉を上林が心に留めたのだろう。
当時の安成は、家庭人としての苦悩を如何ともなし難い日々だったに違いない。

安成は、昭和17年の春から秋にかけて、約半年間にわたって、満州、朝鮮の旅をした。
しかし、この旅行を題材にした特別の著作はなく、旅行目的ははっきりしない。
たまたま、木山捷平も6月〜7月にこの地方を旅しており、二人は京城(現ソウル)で
会って将棋を指した。木山が京城を訪れたのは、旅の帰途なので7月のことだろう。

安成が帰国したのは秋頃だろうか。暫くは父の郷里山口県に滞在してから帰京した。
上林は、「戦争中、安成さんは牛込の方に移ってゐた。それから、現在の本天沼(旧天沼
3丁目)に越してきた。」と書いているので、帰京時の住居は荻窪ではなかったかもしれ
ないが、高麗神社参拝の会から察するに、井伏、上林らとの親しい交遊は続いていた。
そして戦後、再び上林宅に至近の天沼に転入(S20)して没年(S49)まで住んだ。

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安成は、「花万朶」の著者略伝に、「平凡社を退いて、満鮮に遊ぶこと約半年」 と書き、
さらに、「帰京して、東京朝日の社会部長を辞して、上海の大陸新報社長たる
尾坂与一君のため、時に社説、時に「東京だより」を書く。」 とあるが、伊多波英夫は、
「安成が平凡社をいつ辞したかは不明だが、昭和14年には大陸新報の嘱託として
コラム「東京だより」や社説を書いており、満鮮旅行はその関係からだろう」 という。
著者略伝によれば、大陸新報には旅行後、昭和17年以降も関わっていたことになる。

大陸新報・・昭和14年1月創刊の「国策新聞」。東京朝日新聞が創刊、経営に関わった。
尾坂与一は、東京朝日の社会部長から転じ、副社長、社長を務めて終戦を迎えた。)

いずれにしろ、この第3期、安成の生活は、いわば自由奔放の観がある。定職に就いて
地道な給料生活をしたというのではなく、フリージャーナリストとして、筆一本で自在に
行動したように見受ける。 家庭の事情の影響が多分にあるように思うが、
文筆が体制追従に傾いた所以もこのあたりが関連するのではないだろうか。

高麗神社参拝の時(S18/12)、安成は57歳。井伏45歳、上林41歳、太宰は34歳である。
年齢、人生経験からして、若い文士たちとは一味違った立場での付き合いだっただろう。
戦後第1回(S23/2)の会まで出席しているが、その後は出席の記録が見当たらない。

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安成二郎」 の項    主な参考図書

『花万朶』  (安成二郎の著作集 S47/12 同成社)所収から
「人生の二次会の井伏鱒二君」 (S6/2) 
「将棋往来の上林君」 (S41/6)
「太宰治君の写真」 (S23/8)
ほか

『白雲の宿』 (安成二郎の著作集 S18/9 越後屋書房)所収から
「高麗神社」(S14/12/15)

「アパート暮し」(S10冬)
ほか

『安成貞雄を祖先とす - ドキュメント・安成家の兄妹』 (伊多波英夫著 H17 無明舎出版)

『安成さん』 (上林暁著 S49/11 「上林暁全集 増補決定版 第15巻」所収)

『阿佐ヶ谷文士村』  (杉並区立中央図書館 1993)