中村地平の人生と作品
なかむら ちへい = 明治41(1908).2.7〜昭和38(1963).2.26 (享年55歳)

(本名 = 中村治兵衛 : なかむら じへい)


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【将棋会 第1 出発期 (S3〜S8)】の頃  “阿佐ヶ谷将棋会”の全体像


= 好青年、東大入学で文学専念 = 

本項の中村地平(本名:中村治兵衛(じへい)) と別項の太宰治(本名:津島修治) は、
ともに旧制中・高校時代から文学に魅せられ、東京帝国大学文学部に進学した。
昭和5年4月、中村は美術史科(美学専攻)、太宰は仏蘭西文学科である。

九州と青森から上京した二人は共に井伏に師事し、井伏宅で顔を合わせて親交が始る。
そこから二人の文壇登場までの期間は、”阿佐ヶ谷将棋会”の出発期とほぼ重なるが
その間の二人の生活には”静と動”の大きな違いがあった。

年譜は主に『中村地平全集第3巻 - 巻末年譜(黒木清次・久保輝巳編)』による。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *宮崎 大淀川畔

明治41年2月、宮崎(現宮崎市)で肥料問屋を営む古い商家の次男として生まれた。
父は後に宮崎無尽株式会社を設立(S16・現宮崎太陽銀行)、長くその社長を勤め、
宮崎経済会に重きをなした。地平(本名:治兵衛)は兄と姉の3人兄弟の末子である。

宮崎の町をゆっくり流れる大淀川に面した大淀町に生家はあり、そこで宮崎中学校
(現宮崎県立宮崎大宮高校)卒業までを過ごした。中学時代に佐藤春夫の台湾小説を
読んで南方にあこがれ、文芸部委員として交友会雑誌を編集、小説習作を発表した。

   *台北(台湾)高校へ

卒業の年(T14・17歳)は入試準備のため一時期福岡の予備校に通ったが、
文学への関心はさらに深まった。翌年(T15)、台湾の台北高等学校に入学した。

1年生の時、土方正己、塩月赴らと台湾における最初の印刷文芸雑誌<足跡>を発刊、
2年生から文芸部委員として交友会雑誌<翔風>を編集、両誌に小説習作を発表した。
このころ、矢野峯人、林芙美子らを知った。

   *東京 - 井伏に師事

昭和5年、台北高校を卒業(22歳)、東京帝国大学文学部美術史科(美学専攻)に入学、
東京での山岸外史、津村秀夫ら若い文学仲間との交友が始る。

井伏の「亡友中村地平」(S38・<新潮>)に、「昭和五年から知りあひになったことを覚えてゐる。
その年の四月か五月ごろ、中村君が二度目か三度目の来訪で私のうちへ遊びに来てゐると、
そこへ初めて来訪の津島修治君がやって来た。私は中村君と津島君を紹介した。」 とある。

中村は入学当初は、学校に近い本郷に下宿したが、その後、「放浪記」(S5刊)で世間に
名が知られるようになっていた林芙美子の世話で、林宅近くの下落合(新宿区)に移り、
林宅に出入りする絵描きや小説家の卵たちとの交友を楽しんだ(S28/1:「女流作家の
思い出」)。そこから中央線の東中野駅へ出ると、阿佐ヶ谷や井伏の住む荻窪にも近い。

なお、現在の「林芙美子記念館」の建物は、林芙美子が昭和16年8月から
生涯を終るまで(S26/6:享年47歳)住んだ家で、中井(新宿区)にある。
大正11年に上京し、昭和5年から落合に住んで中井に越した(同記念館HP)。

林芙美子が昭和5年5月に越してきた家は、上落合三輪(現上落合3丁目)で、
昭和7年夏頃に下落合4丁目(現中井2丁目)に移った。
中村がいう下落合の家は、この現上落合の辺りだろう。 中村らが出入りした
古谷サロン”(古谷綱武宅)にも近く、中央線の東中野駅は徒歩圏内である。

井伏(32歳)に師事、津島修治(後の太宰治)ら多くの文学青年と知り合い、
山岸の誘いで同人誌<あかでもす>に参加、自らも津村ら4人と同人誌発刊を
計画するなど本格的な文学活動が始った。

   *「熱帯柳の種子」でデビュー

昭和6年に書いた「熱帯柳の種子」が井伏の手を経て<作品>に載り(S7/1)、これが
佐藤春夫に認められ、続いて同誌に発表した「蛍」(S7/7)も好評で、新進作家として
文壇に認められるようになった。<作品>の編集助手を勤めたのもこのころである。

かねて津村らと計画した同人誌<四人>を創刊(S7/1)し、ここに、「廃港淡水」(後に改稿、
「廃れた港」)などの小説・詩・童話などを発表、翌8年1月まで1年間(通巻5号)続けた。
このころから、太宰や伊馬鵜平(春部)、小田嶽夫らとの交友が深まっていく。

昭和8年(25歳)、東大美術史科を卒業したが、籍は大学院に置いて文学を続けた。
檀一雄、古谷綱武、尾崎一雄、浅見淵らを知り交友を深め、中村の活動は一段と発展する。
太宰・小山祐士とともに井伏門下の三羽烏といわれたが、静かな堅実な文壇登場であった。
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年譜などによって文壇デビュー・大学卒業までを辿ったが、幼少期に関する記述は少ない。
お金持ちの末っ子として、何不自由なく、波乱なく順調に成人したものと見受ける。

   *青年”地平”の横顔

小田嶽夫は初対面の頃(S8頃)を次のように回想している。(「回想の文士たち」より)

「彼はまだ東大生で、背が高く、体格がよく、黒目がちの大きい目をしているのが
印象的だった。好男子というのとは違うが、清潔な感じのりっぱな顔だった。 -(中略)-
中村君が一般の文学青年と変っていたのは、感じが明るく、クセのない性質であること
であった。 -(中略)- 九州宮崎の人だということだが、いかにも南方人の感じで
官能的なあたたかさ、男性的な明快さ、甘やかな感傷性などが対者に好感を与えた。」

井伏は「何かにつけ、将棋をさすとき以外はおっとりしている人であった。」と記している。
戦前の中村を知る作家仲間、海音寺潮五郎や北原武夫らの印象もほぼ同様である。

   *”阿佐ヶ谷将棋会”

中村は、上京(S5)すると本郷や落合(現新宿区)に住み、昭和10年頃には吉祥寺に
移り、また落合辺りに戻るなど(後述)、杉並区域ではないが、そのすぐ近辺に居た。

中村がいつから”将棋会”に参加したか判然としないが、昭和5年当時には井伏と親交が
あった青柳、蔵原、田畑、津島(太宰)らと将棋や酒の付き合いがあってもおかしくない。

井伏は中村と太宰について、「この二人は私のうちでよく将棋をさした。棋力は初めのうち
中村君の方が上で、二年目ごろからは勝ったり負けたりの仲になった。」と書いており
(前掲書)、二人は”第1期 出発期”からの会員の一人といってよかろう。

昭和7〜8年には小田や古谷とも知り合っている。木山、外村とも同席しているはずである。
中村が主にピノチオを会場とした”第2期 成長期”の主要メンバーだったことは確かである。

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【将棋会 第2 成長期 (S8〜S13)】の頃   (この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 退職して文学専念・真杉静枝 =

中村地平(明41(1908).2.7〜昭38(1963).2.26 享年55歳)

昭和8年(1933)、中村 25歳。 ”将棋会 第2成長期” は中村の20代後半にあたる。
中村は、昭和5年に台湾の台北高校を卒業、東大に入学して東京での生活が始まった。
宮崎の生家は裕福な古い商家で、十分な仕送りを受けた学生生活だった。

井伏鱒二を師として井伏宅に出入りし、東大同期の津島修治(太宰治)らと知り合った。
山岸外史らと文学活動を共にし、昭和7年1月に発表した「熱帯柳の種子」は佐藤春夫に
認められて文壇デビューとなった。将棋会の第1期、中村の静かな登場だった。

第2期は、東大卒業、都新聞入社、文学専念のため退職、兄の戦死、召集を受けて
即日除隊、それに真杉静枝との同棲が重なるなど、静から動の時代へと変わった。
しかしこの間、経済生活に不安があった様子は見えない。生家からの十分な仕送りは
節度をもって使ったのだろう。文学青年窶れを経験しなかった数少ない一人といえる。

中村は、自身の体験に基づく私小説を多く書いているが、素材は体験でも内容的には創作
という作品が多い。特にこの時期のことに関しては事実に即したような作品は見当たらない。
そこで、本項は中村と親交があった文士たちの記述を主に参考にしたが、
中村のこの時期の生活や人物像、人格形成過程は霧の中の感がある。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *「都新聞」記者 - やっぱり文学

     ・東大卒業 ・・ 大学院に在籍

  昭和8年に東大美術史科を卒業したが、文学を続けるため籍は大学院に置いた。

中村らが前年に創刊した<四人>は、5号(S8/1)で終刊となったので、中村は作品を
<作品>(S8/9:小説「きつつき」)や<行動>(S8/12:随想「若冠のこころ」)に発表した。

このころ、中村は落合(現新宿区)に住んでおり、近くの林芙美子宅や古谷綱武宅を
頻繁に訪問している。浅見淵や尾崎一雄の著書には”古谷サロン”には自分らの他、
檀一雄、田畑修一郎、外村繁、中村地平たちや、この年3月創刊の<海豹>のメンバー
である木山捷平、太宰治らが出入りしていて、お互いがそこで知り合ったと書き、
小田嶽夫は中村との初対面は昭和7(8年との記述もある)と書いている。

ほとんどが阿佐ヶ谷界隈の住人だが、中村は文芸復興の機運に乗って活動する
文学青年の一人として作品を書きながら交友を積極的に拡げていたようである。

ただ、この時期はその多くが同人活動主体だが、中村は同人に参加していない。
例えば、なぜ古谷らの<海豹>や田畑らの<麒麟>に加入しなかったのだろう・・?

資産家の次男坊として大らかに育ち、親の十分な仕送りによって東大美術史科の
大学院生として体制内で悠々と文学に取り組む優等生的生活は、”文学青年窶れ”を
自任する仲間には心底からは馴染めなかったのだろうか・・。あるいは、中村の内心
にはこの時点ではまだ文学一筋にのめり込むことへの迷いがあったのだろうか・・。
小田は、”中村には親しい同輩が殆んどいない”と書くが(後述)関係がありそうだ。

     ・都新聞社入社 と <日本浪曼派>加入

  昭和9年4月、中村は高校時代の知人の紹介で、大学院を退学して都新聞社に入社し、
編集局文化部に所属した。同部には入社が2年早い北原武夫がいて知り合った。

入社後も作品は、<鷭>(S9/4:文芸時評)、<行動>(S9/5:小説「旅先にて」)、
<文学界>(S9/6:感想「新人無力」)に発表している。文学も続けていたのである。

昭和9年9月18日の木山の日記に、「夜、中村地平に、新雑誌になるべく入れて
貰いたいと返事を書く。」とある。木山は帰郷中(岡山県)で中村からの報せを受けた
のだろう。ここにも中村の文学活動が窺えるが、この新雑誌というのは<青い花>で、
太宰を中心に、檀、中原中也、山岸外史らで創刊した。(S9/12:1号のみで終刊)
木山は中村の計らいで同人になったが、中村は参加しなかった(詳細は後述)。

同じ頃(S9:秋)、<日本浪曼派>創刊の計画が進んでいた。創刊は昭和10年3月で、
木山の同年2月の日記には、<青い花>の太宰、中村、山岸らを<日本浪曼派>に
誘っていると書いてある。太宰、木山ら<青い花>同人の多くは第3号(S10/5)に
同人として名前が載ったが、中村の参加は同年7月になってからだった。

中村の加入が遅れた理由に檀との不仲説があるがはっきりしない。<日本浪曼派>に
加入して交友関係はさらに広がり、仲間たちとの関係を深めたことは確かである。
以降は同誌を発表の場とし、同年10月に随想「太宰治へ」を載せ、
翌11年2月に随想「茗荷谷雑記」、9月に小説「イルぜとその母」を発表した。

     ・都新聞退社 ・・ 文学専念

昭和11年夏、創作専念のため新聞社を辞めることを郷里(宮崎)に帰って
父と兄に相談し、承諾を得て同年9月、在勤2年半で都新聞社を退職した。

この退職に真杉静枝の存在が影響していたのだろうか? (真杉とのことは後述)
父や兄は真杉の存在を知っていたのだろうか? 一寸気になるところだが、
いずれにせよ、父、兄の承諾を得ての退職は ”文学青年風”ではないだろう。

  蛇足だが・・ 中村の後任に井上友一郎が入社し中村と事務引継をした。北原の推薦だったが、 
戦後、井上の小説「絶壁」(S24)は北原や宇野千代をモデルにしたと物議をかもすことになる。

直ちに退職金35円(現在なら15万円程度か)を持って伊豆湯ヶ島に出かけた。
20日間滞在して小説「悪夢」を書き、<日本浪曼派>(S11/12)に発表、翌12年5月に
小説「土竜どんもぽっくり」を同誌に発表するなど、本格的な文学活動を開始した。

     ・ 芥川賞候補 :兄の戦死: 応召(即除隊)    

「土竜どんもぽっくり」(S12/5)は、7月の第5回芥川賞選考で候補作になった。
受賞は「暢気眼鏡」の尾崎一雄だったが、逸見広、川上喜久子とともに
最終選考に残ったことで郷里への面目はたち、自信にもなったことだろう。

ところが、時を同じくして起きた盧溝橋事件(S12/7)は戦争に発展し、翌8月(S12/8)、
中村の兄(陸軍主計中尉)は中国で不運な戦死を遂げ、さらに10月(S12/10)
には中村自身が召集令状(赤紙)を受け、都城(宮崎県)歩兵連隊に入隊した。

中村は胃病のため即日除隊となったが、派手な見送りを受けて出立した手前、
直ぐには戻れず、霧島温泉に数日滞在してから宮崎の家へ帰った。

東京に帰ると、12月には初の創作集「旅先にて」(版画荘)を出版するなど文学活動を
続け、翌年には「南方郵信」を<文学界>(S13/4)に発表した。<日本浪曼派>は
このころは発行が滞っており、<文学界>の勢力が大きくなっていた関係かもしれない。

   *真杉静枝とのこと ---  

真杉静枝(ますぎ しずえ):明34(1901).10.3〜昭30(1955).6.29 享年53歳

福井県生まれ。神官の娘として少女時代を台湾で過ごした。若くして結婚に破れ大阪へ出て自活した。
新聞記者として武者小路実篤を知り庇護を受けた。上京した昭和2年発表の「
駅長の若き妻」が
処女作。発表誌は<大調和>、<女人芸術>などで、男に愛されようとする女の不安な立場を私小説風に
書いた。昭和8年創刊の同人雑誌<桜>に参加、中村地平と同棲した。昭和17年中山義秀と結婚、
敗戦の翌年離婚した。戦後は鏡書房を設立したり原爆少女のために尽くして社会的名士になったが、
創作活動から遠ざかり不遇のうちに肺ガンで没した。

上記は、「日本近代文学大事典(和田芳恵記)」 を要約したが、
は「小魚の心」とあるのを
「駅長の若き妻」に変えた。「小魚の心」は内容的に昭和2年より後の作であることは確かで、
初出は「婦人文芸」(S12/1)とする見解が正しかろう。 なお、「新潮日本文学辞典」にも、
「昭和2年「小魚の心」でデビュー」(小松伸六記)とあり、ネット情報もこの記述が一般的だが、
昭和2年は<大調和>8月号に「駅長の若き妻」を発表しており、これを処女作とすべきである。
(このことは、真杉の小説集「小魚の心」(S13/12)、同「その後の幸福」(S15/9)によって
確認できる。また、<大調和>は昭和2年4月発刊の武者小路実篤の編集による文芸雑誌。)

中村が自身の結婚に関して書いた小説「八年間」(S25)に次の一節がある。

「東京にいた瞬吉には、杉子という齢上の女との間に、恋愛があった。杉子は情熱的に、
献身的に瞬吉を愛してくれた。このように深く異性から愛されることは、おそらく一生に
二度とはあるまい、と考えられたほど彼女はいちずに純粋であった。
いっぽう瞬吉は、杉子の人間としての美しさを、心から尊敬していたが、それは愛情とは
いくらか種類のちがったものであった。女を愛したいと思いながら愛し得ぬ、そのことに
瞬吉は焦慮し、自分を恋愛のインポテントではあるまいかと、うたがったりした。」


瞬吉は中村、杉子は真杉である。当時の作家仲間の多くの記述にも二人は同棲していた
とある。同棲の時期があったことは事実だが、中村は ”真杉と結婚する気持にはなれな
かった”と書いている。仮にその気持があったとしても、兄の死(S12/8)によって、家を継ぐ
身になった中村治兵衛と真杉との結婚は論外になったことを二人は十分解っていただろう。

そして、真杉は、昭和17年に、妻と死別した中山義秀(第7回(S13上期)芥川賞
受賞)と結婚し、中村は徴用解除直後の昭和18年に郷里宮崎で見合結婚した。

この同棲は、中村にとっては、それまで出会ったことのない独特の個性を
持つ女性の存在を知ったという意味で貴重な人生経験だったといえよう。
真杉にとっては、30代という貴重な時間が不本意な結果に終ったが、
夢と生活両立のための現実の1コマと割り切っていたかもしれない。


二人の同棲は、いつから、何処で、どのように・・?

真杉の人生に関しては、自身が実生活を題材にした私小説を書き、親交のあった
作家らが小説や随想などに数多く書き、最近では、作家の林真理子がそれらの
記述を材料にして、真杉の生涯を「女文士」と題して実名小説にした。この本の
巻末にある参考文献は、真杉本人の著作も含め、書籍26点、雑誌21点にのぼる。
真杉の生き方が如何に多くの人々の関心を集めたかの表れだろう。

このうち、真杉の生い立ちからの人生が主題の作品は、「女文士」(H7)のほかに
真杉本人による「自伝小説 或る女の生立ち」(S28)があり、石川達三はモデル
小説「花の浮草」(S40)を書き、さらに石川が「花の浮草」に書いた真杉観(女性観)
を真っ向から批判した十津川光子の「悪評の女-ある女流作家の哀しみの生涯」
(S43)というドキュメンタリー風作品がある。

真杉は、武者小路実篤との愛人関係が破綻すると、間もなく中村と同棲し、中村と
別れて中山義秀と結婚(S17/10)するが、各著者がこの中村との期間をどのように
書いているかを次に略記する。四作品四様で、事実の細部、根拠にはこだわらず、
各著者がそれぞれにイメージして作品化していることが分かる。文学の所以だろう。

真杉静枝「自伝小説 或る女の生立ち」(S28/5<新潮>:「戦後の出発と女性文学 第8巻」
(2003/5 ゆまに書房)所収))・・中村との出会いには触れず、”「小魚の心」出版の頃は
新井薬師に住み、2年前から秘密な同棲をしていたが、続いて「草履を抱く女」「愛情の門」
「ひなどり」と出版されることになって別れる日が来た。真杉は麹町に、中村は小石川に越した。
その後も友達付き合いで一緒に旅行をし、真杉の入院時には中村が親身の世話をした。
昭和16年1月、真杉が南支那従軍中に中村から復縁を誘う手紙が来た。
南支那の帰途、16年ぶりで父母に会うため台湾に行った。” と書いている。
(中村との台湾旅行(H14)のこと、中山との結婚経緯には全く触れていない。)

(各小説集の出版年月から、昭和11年に同棲を始め、同13年12月頃は新井薬師に住み、
同14〜15年頃別れたと読める。新井薬師は西武新宿線の駅名で、次の中井、その次の
下落合の各駅間、新井薬師-東中野(JR線)の距離は1q強程度の徒歩圏内である。)

石川達三「花の浮草」(S40/8:新潮社:モデル小説で登場人物は実名ではないが該当する
人物をほぼ特定できる)・・二人が知り合ったのは昭和11年の末頃で、すぐに真杉は中村の
下宿を訪ねて同棲が始まった。(昭和11年中のことと読める。同棲場所には触れていない。)
同棲解消は、明記はないが昭和14年秋頃と読める。中村の方からアパートを出た。
その2ヶ月後くらいに、真杉が入院し中村は50日にわたって親身の看病をするが、
その後はスッキリ別れた。他の2作にある二人の台湾旅行(S14)に関する記述はない。
(作中、真杉静枝は伊沢春江、中村地平は片岡治郎)

十津川光子「悪評の女-ある女流作家の哀しみの生涯」(S43/1:虎見書房)・・中村は
高校時代から真杉と文通があり、東大入学で上京(S5/4)すると間もなく親しくなった。
同棲の期間は3年にも充たないが、3年で終わったのではなく、別のアパートに住んで
約6年の間、互いに尊敬し、援け合った。昭和14年秋〜冬に一緒に台湾旅行をして帰京
すると交際を終えた。(同棲の時期、場所には触れていない。交際期間は通算6年とも
9年とも読める。他の3作にある真杉の入院時の中村の看病については触れていない。)

林真理子「女文士」(H7/10:新潮社)・・二人の初対面は昭和5年だが、昭和9年に真杉が
中村の家を訪ねて同棲を始めた。(場所には触れていない。) そして昭和14年2月に一緒
に台湾旅行をして帰京後、しばらくして真杉が四ツ谷へ引っ越したが、その後も愛人関係
は続いた。同棲解消の約2年後の昭和16年秋、真杉は長期入院し、中村は親身の看病を
するが、中村の徴用によって二人の関係は終わった。(四ツ谷は麹町の最寄り駅である。)

そこで事実は?  中村の居所(下表)や二人の文学仲間の数多い記述から推察すると、
同棲の始まりは昭和11年前半頃で解消は昭和15年初め頃、同棲の場所は、
新井薬師、落合の辺りだろう。 この年(S11)で中村28歳、真杉35歳である。
 (真杉の実際の生年は、戸籍上の1901年ではなく1年前(1900)という説がある。)

長期にわたる同棲の事情は、“真杉の押し掛け、居座り” “相思相愛“ ”中村が
惚れた” など上記作品の他にもいろいろ書かれているが判然としない。
その生活の様子・・お互いの収支状況、生活費や役割の分担、実家との関係、
等々もはっきりせず、同棲前の交際の時期、程度についても想像の域を出ない。

ただ、同棲解消後も愛人関係が続いたというのは事実のようだ。
小田は、中村に教えられて天竜峡ホテルに1泊した際、女中頭から、中村と真杉
は別れた後も滞在したと聞いているのである。 内容的に小田の創作とは思え
ないので、真杉と中山との交際が始まる前、昭和15年半ば頃までのことだろう。
(真杉が ”その後も一緒に旅行した” と書いているのはこのことかもしれない。)

なお、二人が、昭和14年2月末から1か月余の台湾旅行をしたこと、真杉が
同15年末頃から1か月余の広東(軍慰問)・台湾旅行をしたのは事実と考えていい。

李 文茹という研究者に、「「蕃人」・ジェンダー・セクシュアリティ ・・真杉静枝と中村
地平による植民地台湾表象からの一考察・・」(日本台湾学会報 第七号(2005/5)) と
「植民地を語る苦痛と快楽 ・・台湾と日本のはざまにおける真杉静枝のアイデンティ
ティ形成・・」(同会報 第五号(2003/5)) という小論文がある。作家あるいは文学の
植民地、時代背景への関わり方が実証的に論じられており、そこに関連記述がある。


ところで・・1. このような詮索は無用なことかとも思うが・・やはり事実は知りたい。
著名人が、実名を挙げて書いているからといって、事実に基いているとは限らない。
それも作家の場合はなおさらのこと、自伝、伝記の類であっても同様である。
つまり、作者のイメージによって、無意識ないし故意に不確かなことをそのまま、
あるいは創作を加え、実名使用で事実の如く書くことがあるということである。

真杉と中村とのことは、文学的には、同棲さえ確認すれば時期や場所、暮し方は
些細なことと扱うこともできようが、事実が詳細に捉えられれば、戦争という激動の
時代にあって、美貌と文才を武器になりふり構わず夢を追い続けた三十代女性の
生々しい現実、生活の姿が上記作品とは異なった角度から浮かぶかもしれない。
もちろん、関係者のプライバシーや名誉の問題があるので限界はあるだろう。
この時期の真杉の生き方は、自身の人生を定める最後の岐路だったように思う。

飛躍するが、例えば、本の「後記、解説、書評」などに書いてある著者のこと、作品の
背景などにしても、事実を知らなければ事実でなくてもそのまま納得してしまう・・
現に、先に記した真杉のデビュー作「小魚の心」の一件はいい例だろう。
こんな例は文学作品に限らず、日常の中に多々存在する。 
細かい事実の追究は必ずしも下衆の勘ぐりではないと思うが・・。


ところで・・2.  この時期、文学を志す女性の奔放な男性遍歴は珍しくない。
宇野千代、林芙美子、平林たい子らの男性関係はよく知られている。
女性が文学で世に出るには男性に頼らざるを得ない時代だったのかもしれないが、
むしろ、女と男、性が織り成す人生の愛憎劇は昔も今も変わらないと考えるべきだろう

ところで・・3.  「真杉静枝」を主体に書いた上記4作品以外の主な著作。
吉屋信子は「自伝的女流文壇史」(S37 中央公論社)に、10人の女流作家の
1人として「小魚の心」と題して親交を書いている。
宇野千代も「私の文学的回想記」(S51 中央公論社)の随所で触れている。
巌谷大四著「物語女流文壇史」(1989 文芸春秋社)には、樋口一葉から
現代までの多くの女流作家が登場するが、真杉もその一人である。

他に、中村とは直接の関係はない記述だが、
火野葦平は「淋しきヨーロッパの女王」(S30 <新潮>)に、訪欧(英女王
戴冠式・世界ペン大会)に同行した真杉の言動を暴露的に書いた。
高見順は「昭和文学盛衰史」(S33 文藝春秋新社)で、真杉の死と
東慶寺への納骨に関連して触れている。

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中村の居所および関連する主な記述を下表にまとめた

居住始期   居住地  根 拠
 S5/4〜  本郷(現文京区)  中村の「入学の頃」他 (東大入学) 
 S5/6か7頃〜  落合(現新宿区)  中村の「入学の頃」、同「女流作家との思い出-林芙美子」他
 S9冬頃〜  吉祥寺(姉夫婦宅)  浅見淵の「昭和文壇側面史」、山岸外史の「小説 太宰治」 他
 S10前半頃?〜  下落合の方へ越す  井伏鱒二の「亡友中村地平」 (始期は明記なし) 
 (参考) S10   -  東中野で出会って芥川賞創設が話題(城夏子の「学生服の地平さん」) 
 (参考) S11/9  -  中村は都新聞社を退職 (この時点は同棲中という仲間の記述多数) 
 (参考) S12〜14  -  宇野千代宅を二人で頻繁に訪問 (北原武夫の「地平さんのこと」)
 (参考) S13/10/6   -  夜、中村宅で中村の送別会。真杉は泣いていた。(木山捷平日記) 
 (参考) S13/12  新井薬師(現中野区)   真杉の「或る女の生立ち」 (「小魚の心」刊行の頃=S13/12) 
 (参考) S14(   -  この年小説取材のため台湾各地を旅行(中村地平全集 年譜) 
 (参考) S15/1/3  -  木山らが中村宅を訪問し、中村、真杉と深夜まで将棋(木山捷平日記) 
 S15/4   小石川区(現文京区)   中村の「神になる日」に “現住所は小石川区原町12千家荘” 他 
 S18/5頃〜    世田谷区   中村の「八年間」 (S18/2に宮崎で結婚:約2カ月は新宿の宿屋)   
 S19/4〜    宮崎   年譜はS19/3だが、4/14に東京で送別会あり(小田の「逃亡の季節」)  

)年譜には月の記載はないが、2月末頃から3月末ないし4月上旬まで、
真杉が同行したと考えていい(前述)。 この時の居所は新井薬師だろう。

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   *そこで阿佐ヶ谷将棋会 ---

昭和5年、中村は井伏に師事したことで”将棋会 第1期(出発期)”からの会員としたが、
第2期には、中村は会員として積極的に参加し、親交を深めていたことがはっきりする。

     ・中村の「将棋随筆」 

中村が書いた「将棋随筆」(S13/12)には、阿佐ヶ谷将棋会発足のこと、
そのメンバーやそれぞれの棋力・棋風などがユーモラスに記されている。

戦地を気遣いながらもまだ余裕が感じられ、「小田は、自分(中村)が召集されたので、
自分に代わって小田が将棋会で最下位の地位に転落するとショックを受けた・・」など
ユーモラスな内容で、浅見は「中村と親しくしているうちに、中村にはなかなかひょうきん
なところがあることに気がついた。」と書いているが、そんな一面が窺える随筆である。

中村の召集は昭和12年10月で、将棋会はまだ明確な記録がない第2期(成長期)だが、
会員や当時の文学青年たちの将棋熱の高まり、会の雰囲気が伝わってくる。

     ・中村の将棋と人柄 

小田の「回想の文士−中村地平」から、二人の親交は比較的濃かったことが窺える。
それによれば、中村の将棋の特徴は「待った」で、一勝負で4〜5回も、何でもないこと
のようにあっさりと「ちょっと待ってね」と言うとか。このことは井伏も書いている。曰く、
「中村はこちらが駒を動かすより先に”待った”という」。憎めない「待った」だったようだ。

その小田が中村について次のようにも書く。

「中村は多くの親しい先輩を持っていた。彼の人見知りしない性質、神経質でないこと、抵抗を
感じたりしない素直さから先輩に可愛がられるのだろうが、これは彼の長所ではあるが、
同時に短所とも言えないか? 親しい先輩を持つ反面、親しい同輩を殆んど持っていない。」 


都新聞の先輩で、宇野千代と結婚、昭和12〜13年当時、中村・真杉と夫婦で親交が
あった北原は、「善良で弱気で感じやすくて素朴な地平さん」と端的に表現している。
中村が、他人のために大盤振る舞いをしたり、”飲む、打つ、買う” にのめり込んだ
という話はない。財力はあっても節度を持った温厚な生活態度だったようなので、
無頼の徒的な強烈な個性を持つ同輩たちには物足りない面があったかもしれない。

中村の外貌については仲間の多くが一致して書いているように、背が高く、体格がよく、
黒目がちの大きい目で、毛深く、手指までもが毛むくじゃらだった。小田は、「いかにも
南方人の感じで官能的なあたたかさ、男性的な明快さ、甘やかな感傷性などが対者に
好感を与えた。」という。 7歳年上の真杉が魅せられた所以かもしれない。

     ・太宰とのこと 

井伏門下・・ 中村と太宰は昭和5年に井伏宅で知り合い、一時は小山祐士と井伏門下
の3羽烏といわれたが、二人が親交を深めたのは太宰が井伏宅に近い天沼へ
引越した頃、つまり中村が大学院に籍を置いた昭和8年、将棋会第2期の頃だろう。

文芸復興の機運のもと、井伏宅やピノチオ、界隈の居酒屋で将棋に酒に、他の
メンバーも交えて賑やかだっただろう。中村は酒はあまり飲めるほうではないが、
誘えば断ることはなかったという。 昭和8〜9年頃には青柳瑞穂、蔵原伸二郎、
田畑、小田、木山、古谷、外村、浅見それに太宰、中村は常連だったはずである。

昭和9年秋、太宰は新雑誌<青い花>の創刊に熱心だった。中村もこの計画に関わり、
当時、郷里に長く滞在していた木山捷平に連絡を取るなど積極的だったが、
創刊号(S9/12)に載った18名の同人の中に中村の名前はない。
山岸によれば、中村は<青い花>という誌名自体に批判的だったという。

太宰と絶交? 井伏は、中村は吉祥寺に移った頃から太宰と口喧嘩が始まったが、
真の原因はわからないと書いている。ただ、発端が<青い花>創刊にあることでは
大方が一致している。誌名や編集方針(雑誌の性格)を巡って、中村vs太宰・檀・山岸
の構図ができたため中村は同人には加わらず、そしてまた、中村の<日本浪曼派>
への加入が太宰らより少し遅れたことも、その影響であったと考えてよかろう。

中村は、「このことが原因で太宰とは絶交状態にあった」と記しているが、実際の状況
は相当に複雑である。 昭和10年3月、太宰は中村が社内推薦者になって都新聞の
入社試験を受けているし、その直後の太宰の失踪事件(鎌倉での自殺未遂)では、
中村は太宰の家に駆けつけている。 さらに、この事件で太宰を青森へ連れ戻しに
上京した太宰の兄に面会するため、中村は檀とともに井伏に同行し、二人で太宰の
優れた文学的才能を兄に訴えるなどして、太宰が東京で文学活動を続けることを
許すよう懇請する井伏を援護している。

翌年の太宰の第一創作集「晩年」出版記念会(S11/7)には中村も出席し、<文筆>の
創刊号(S11/8)に「『晩年』の讃」という一文を載せている。批判も交えてはいるが、
基本的には太宰文学を高く評価した内容である。喧嘩とか絶交とかいう状態を
どのように理解すればいいのか、第三者には分かり難いところである。

森永国男著「太宰と地平」(S60/6:鉱脈社)は、この喧嘩のことなどについて、
関連する小説や随想をもとに詳しく触れている。取り上げた主な作品は、中村の
「失踪」(S10/9:<行動>)、「太宰治へ」(S10/10:<日本浪曼派>)、「『喝采』前後」
(S30/11:「太宰治全集月報第2号」)、太宰の「喝采」(S11/10:<若草>)等々・・。


太宰の人生の波乱は続くが、中村にも真杉との同棲という新たな展開が始まっている。
ともに社会的にも私的にも文学青年から文士へと変身したが、実生活における苦悩は
むしろお互いに深刻化しており、二人の親交が大人の関係に変質しつつあったといえる。
特に昭和13年までの太宰の激動の実生活や、昭和14年以降の中村の強い南方(台湾)
志向、そして徴用、戦争激化で、以前のような気ままな行き来は難しくなっただろう。

太宰の「津軽」・・太宰は、小説「津軽」(S19)の中で、友人と津軽人気質について
会話をするが、「あんまり結構な人情でもないね。春風駘蕩たるところが無いんで、
僕なんか、いつでも南国の芸術家に押され気味だ」 と自分のことを言っている。 
この時、太宰の意識の中にあったのは、中村だったのではないだろうか・・。

     ・緒方隆士の入院と葬儀 

 昭和13年4月に逝った緒方の葬儀は、親交があった7人の友人によって執り行われた。
このことは小田嶽夫の項に詳記したとおりで、中村もその7人のうちの1人だった。

<日本浪曼派>は、8月号(S13)を緒方隆士追悼号として発行して終刊となったが、
中村はここに「葬儀の朝」を書いて緒方を追悼した。

      緒方の入院

中村は「葬儀の朝」に「友と呼ぶ緒方君に生前僕は数えるほどしか会ってはいない」
と書いている。初対面がいつ頃なのか不明だが、緒方は<日本浪曼派>創刊時の
同人なので、中村が参加(S10/7)してからは会うことが多かっただろう。

小田によれば、緒方が入院するための費用が続かなくなった時、施療患者として
経堂病院に入院できたのは都新聞にいた中村の奔走によるものだった。
新聞記者の威光で役所の担当者に強く実情を訴えることできた結果だという。
昭和11年夏頃のことだろう。中村はこの9月に文学専念のため新聞社を退職した。 

      友人葬

昭和13年4月28日未明、緒方は中谷孝雄(<世紀><日本浪曼派>などの同人仲間)
に看取られて息を引き取った。その日のうちに多くの文学仲間に連絡されただろう。
中村はその日に「緒方君の土色をした死顔に、永久の決別をした」と書いている。

そして翌29日、早朝に病院へ行って、中谷、小田、中村の3人が霊柩車に同乗して
幡ヶ谷の火葬場へ向かった。火葬場には、田畑、亀井勝一郎、青柳、外村が現れ、
お骨のこと、葬儀のことを相談したのだった。

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【将棋会 第3 盛会期 (S13〜S18)】の頃   この時期の”阿佐ヶ谷将棋会”


= 文学絶好調 ‐ 徴用 ‐ 帰郷 =

中村地平(明治41(1908).2.7 〜 昭和38(1963).2.26  (享年55歳)

昭和13年(1938)、中村 30歳。 ”将棋会 第3盛会期” は中村の30歳前半にあたる。
都新聞社を退職して(S11)文学に専念し、翌年は「土竜どんもぽっくり」(S12/5)が芥川賞
候補になり、処女創作集「旅さきにて」(S12/12)を刊行するなど、順調に推移した。
一方、私生活面では、真杉静枝との同棲が続いたが、真杉と結婚する意思は
なかった(あっても実現できる状況になかった)ので、その解消が課題だった。

引き続き、将棋会には積極的に参加する。将棋の腕も酒も、他のメンバーに
比して強くはないが、そこには中村が求め、求められるものがあったのだろう。
しかし、この期の背景にある戦争は中村の人生を大きく変えた。兄の戦死(S12)と
徴用である。徴用-帰国-結婚-疎開-敗戦で、疎開後は東京に戻ることはなかった。

このころ・・  時勢 : 文壇 昭和史 略年表

   *文学絶好調!!

     ・再び芥川賞候補

「土竜どんもぽっくり」(S12/5)に次いで、「南方郵信」(S13/4)が第7回芥川賞候補と
なった。この時の受賞は中山義秀の「厚物咲」で、最終選考は田畑の「鳥羽家の子供」
と競ったことは田畑修一郎の項に記した通りだが、中村は相次いで候補に
なったことで、さらに大きな自信、励みになっただろう。
「南方郵信」は、11月には「日本小説代表作全集 第一巻」(小山書店)に収録された。

この昭和13年には、ほかに3月に創作集「熱帯柳の種子」(版画荘)刊行、
小説「陽なた丘の少女」(8月:<新潮>)、小説「離れ島にて」(12月:<文藝>)など活発な
創作発表が見られ、この「離れ島にて」は第8回芥川賞の予選候補に上がっている。
また、4月からは日大芸術科の非常勤講師にも就いている。

木山捷平の日記によると、この年は、中村の出版記念会が開かれ(S13/4/17)ており、
会費2円50銭、坪田譲治、小田の司会で、中山義秀、宇野浩二、らが出席していた。
創作集「熱帯柳の種子」刊行を記念した会だろう。

同日記には、「中村地平を東京駅に送る。1時半の汽車。(昨夜、地平自宅で送別会、
会費1円50銭)真杉静枝さんが泣いていた。」(S13/10/7)の記述もある。
中村の行先など詳細は不明だが、真杉と同棲中だったと察せられる。
翌年2月5日(S14)の日曜会には出席しているので、それほど長い離京ではない。

中村の「神になる日」(S15/5)に、「二年前の秋。郷里から上京した」とある。この時の
ことかもしれないし、あるいは12月(S13)発表の「離れ島にて」に関係があるかも・・。

     ・作品発表、単行本刊行が続く

作品発表においても、文学仲間との交遊面でも、好調な活動振りが窺える。
昭和13年以降、徴用を挟んで終戦時までの代表的作品、単行本を次に記す。
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昭和13年、「南方郵信」(S13/4)が芥川賞候補となり、日大芸術科の
非常勤講師に就くなど、文学活動は波に乗ってきた。

小説集「熱帯柳の種子」(S13/3:版画荘刊)、  「南方郵信」(S13/4:<文學界>)、
「陽なた丘の少女」(S13/8:<新潮>)、  「離れ島にて」(S13/12:<文藝>)

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昭和14年2月末から1か月余、小説取材のため台湾各地を長期旅行し、
帰京後、「蕃界の女」など多くの台湾関連の作品を発表した。

「応召記」(S14/1:<新潮>)、  小説集「戦死した兄」(S14/1:竹村書房刊)、
「蕃界の女」(S14/9:<文藝>)、   「霧の蕃社」(S14/12:<文學界>)

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昭和15年、広津和郎の知遇を得て人間的、文学的に大きな影響を受ける。

小説集「蕃界の女」(S15/5:新潮社刊)、 「蕃人の娘」(S15/8:「小さい小説」(河出書房)所収)
「太陽征伐」(S15/8:<知性>)、   「長耳国漂流記」(S15/10-16/5連載:<知性>)
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昭和16年11月、文人徴用で、中村は、井伏、小田らとともに徴用を受けた。

随筆、評論集「仕事机」(S16/3:筑摩書房刊)、  
長編小説「長耳国漂流記」(S16/6:河出書房刊)、   小説集「台湾小説集」(S16/9:墨水書房刊)、
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昭和17年、シンガポール、クアラルンプールなどに従軍し、12月に帰国した。

随筆「森の中の歌−マレーのバンドン−」(S17/4〜:<文藝>)、長編小説「あおば若葉」(S17/5:博文館刊)
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昭和18年2月結婚、12月長女誕生。 この年から志賀直哉の知遇を受けた。

「馬来人サーラム」(S18/6〜:<新潮>)、  「船出の心」(S18/11:文林堂双魚房刊)
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昭和19年4月、日大講師を辞して、宮崎の実家へ疎開した。

「マライの人たち」(S19/3:文林堂双魚房刊)、 「日向(新風土記叢書5)」(S19/6:小山書店刊)
随筆「開戦三年目」(S19/12:<新潮>)、 「河童の遠征(新民話叢書)」(S19/12:全国書房刊)
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昭和20年8月15日 終戦。

昭和20年9月、日向日日新聞社(現宮崎日日新聞社)入社、編集総務となった。

「明るい国」(S20/1〜:<日向日日新聞>に連載)
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なお、中村には、「中村地平全集 全3巻」(S46:皆美社)があり、戦前〜戦後の
代表的作品多数が収められているので、その所収作品を別記する。
また、戦前刊行の小説集のうち主な3点の所収作品を併せて別記する。

 「中村地平全集 全3巻」 所収作品一覧  主な「戦前刊行の小説集」3点と所収作品

   *徴 用 ---  

徴用に関する中村自身の記述を探したが、ほとんど見ることができなかった。
発表が少ないのかもしれない。徴用体験にあまり触れたくなかったのだろうか。
徴用から戦後、他界するまでの中村の人生の変転、環境の関係かもしれない。

全集には現地報告的作品が何点か収められているが、徴用中の詳しい動向や
徴用に関する中村の姿勢や対応はつかめなかったので、井伏らの項との
重複もあるが、井伏ら身近な作家仲間の記述から中村の様子を探ってみた。

     ・大阪集合・・中村は「丁班」

徴用令書・・ 昭和16年11月、アパートで独り暮らしの中村にも徴用令書がきた。
小石川区原町(現文京区白山辺)の千家荘だろう。同月17日、本郷区役所へ出頭
して身体検査を受けた。 井伏、小田の項でも記したように作家だけでなく評論家、
記者、芸術家など幅広い分野の専門家を対象とした陸軍による第一次徴用だった。

大阪へ・・ 集結日は昭和16年11月22日で、この日が中村らの徴用開始(入隊)の
日だった。中村は大阪へ発つ前日の11月20日に阿佐ヶ谷将棋会の送別会に
出席し、翌21日、将棋会の井伏、小田のほか、高見順、寺崎浩、豊田三郎らと
共に作家仲間など多くの見送りを受けて東京駅から列車で大阪へ向かった。
見送りの中に真杉の姿があったかどうか・・多分、なかっただろう・・。

軍刀について・・  軍刀持参の指示だった。このころは、軍刀入手が困難になって
いたが、中村の場合は、東京からは持参せず、大阪城に集結した際に、
4年前、盧溝橋事件の直後(S12/8)に満州で戦死した兄(陸軍主計中尉)の
佩刀を両親から受け取った。なかなか劇的なシーンだったようだ。

「丁班」・・ 翌11月22日、大阪城天守閣前の広場に集結して入隊し、「班」編成が
行われた。中村、井伏は丁班(約120名:マレー方面)、小田は乙班(約100名:ビルマ
方面)だった。作家は、丁班には、海音寺潮五郎、小栗虫太郎、寺崎浩、堺誠一郎、
等がいた。乙班には、高見順、豊田三郎、山本和夫、等がいた。

(注) この時集結したメンバーが南方派遣の第一次陸軍徴用員宣伝班員だった。
総数は約460名(内作家は30余名)で、作家の班分けは「文士徴用」の項に詳記した。
班毎の任地(行き先)は、”南方”と知らされたが、マレー、ビルマといった
具体的な地名は日本を離れるまでは知らされなかった。
また、これとは別に、職業・前歴による班が編成され、中村ら作家は3班だった。
任地別の班をさらに少人数に分けて命令、情報の円滑な伝達を図ったのだろう。

     ・輸送船でマレー半島へ

中村・井伏が属する丁班と、小田が属する乙班は、12月2日に天保山港(大阪)で
輸送船アフリカ丸に乗船、出航した。行き先は”南方”とだけしか知らされなかった。

12月8日、香港沖で日米開戦を知り、その10日後(S16.12.18)、アフリカ丸は無事
サイゴンに着いた。そこで小田らの乙班は下船したが、中村らの丁班は大型汽船
「浅香山丸」に乗り換えて出航、12月27日朝、タイのシンゴラに到着、午後上陸した。

マレー半島上陸までの航海状況については井伏の項に詳記した通りで、「アフリカ丸」
でも中村の”弱い将棋”が歓迎されたことや、中村、井伏ら丁班のトラブル、混乱が
特に印象的だが、井伏は日米開戦時の中村の心情に関するエピソードを
「荻窪風土記-続・阿佐ヶ谷将棋会」に書いているのでここにご紹介する。

12月8日、日米開戦が伝えられると、丁班は輸送指揮官の命令により甲板に整列、
東方遥拝、万歳三唱をさせられたが、散会直後の状況を次に引用する。

「一同、列を崩して船倉の蚕棚に帰っていくと、通風窓から外をのぞいた中村地平が、
突如として大きな声を張り上げた。
「朝焼の雲は綺麗だなあ。大自然は美しいなあ。涙がこみあげるほど美しい。
それなのに人間は、どうして馬鹿なことをするんだろうなあ」
発作的に言ったことと思われるが、殆ど同じようなことを二度まで言った。
「おい地平さん、そんなこと、ないしょ、ないしょ」
私はそう言った。」

また、サイゴン停泊中に、サイゴンの町で買った洋酒を船中で皆で飲んで、殆どの
人が酔ってしまい、中村は泥酔して泣きだしてしまった。この部分を次に引用する。

「地平さんは名指しで私を呼んで、「ロープで僕を縛ってくれませんか。ぐっと縛るんです」
と泣き喚き、「こんな気持のまま航海していると、僕は今晩、海に飛びこんでしまいます。
その必然性にストップをかけるため、僕を戸板に縛りつけてくれませんか。ロープで
しっかり縛りつけてくれませんか」 と地平さんは、鼻汁を流しながら言った。」

井伏は、輸送指揮官に聞きつけられることを心配し、他の仲間の力を借りて
本当に板に縛りつけると、中村は状況を納得して泣きやんだ・・。

中村の純粋さ、優しさ、繊細さが伝わるが、程度の差こそあれ、井伏ら徴用員共通の
心情であったろうし、井伏は、時勢に流されるままで、何もできない、また何もしない
自分ら文士、文人たちの無力さ、もどかしさ、情けなさを表現したのだろう。

     ・マレー半島を南下 - シンガポールへ

中村、井伏らの丁班は陸軍南方軍第25軍が上陸した日から20日目となる12月27日に
タイのシンゴラに上陸した。 翌28日未明から主にトラックで第25軍の司令部を追って
半島の西側を南下、31日にタイピン着、ここで司令部に追いつき、輸送指揮官の下を
離れて第25軍所属の「宣伝班」に入った。
ここで中村は、井伏、北町一郎、栗原信と同じ「資料班」所属となった。

資料班は司令部とともに南下を続け、陥落翌日(S17/2/16)のシンガポールに入った。
マレー半島南下の状況や資料班の任務などについては井伏の項に詳記の通りである。

シンガポールで、井伏は英字新聞「昭南タイムズ」発行の責任者になったが、
中村は英字新聞から翻訳して出すインド語新聞発行を担当した。
同じ建物にいて、井伏が将棋を誘ったところ中村は花札をしたがったという。

     ・クアラルンプールで優雅に?

海音寺潮五郎が、「中村地平全集 第3巻」の月報(S46/7)に「宣伝班支部長補佐」と
題して徴用当時の中村を書いている。中村の人物像を見事に捉えた、軟らかいユーモ
ラスなタッチのプロの一文と思う。 全文を引用したいが・・、できないのが残念である。


海音寺によれば、中村はシンガポールを離れ、海音寺がいるクワラランプールへ
「宣伝班支部長補佐」として着任した。支部長の中尉の補佐が職務で、
1日2時間程度の事務で済み、他の時間は麻雀ばかりやっていたという。

また、小田によれば、中村はずっとクアラルンプールに居て中国人女性と
親密な交際があり、小田からすると、「心の奥には『何だ、うまいことをやっていた』
という気持も動いていた。」 と本音を洩らしている。

徴用中の中村の優雅?な日常は、井伏らや、ましてビルマの小田とは雲泥の差がある。
中村の徴用関係の作品が目につかないのは、この辺の事情があるのかもしれない。

     ・徴用解除・・帰国・・結婚・・疎開(帰郷)       

昭和17年11月、徴用から1年、徴用解除となって帰国することになった。マレー班、
ジャワ班、ビルマ班は同じ船で帰国するため各班がシンガポールへ集まった。
再会した中村、井伏やビルマ班の小田らは、お互いのその後の様子を語り合った。

井伏は11月下旬に飛行機で帰国したが(「井伏の項」)、中村、小田らは敵潜水艦の
攻撃という不気味な恐怖に曝されながら船で日本に向かった。

小田の項に記したように、船は無事に日本に着き、12月9日(S17)、宇品(広島)に
上陸した。広島で2晩、大阪で4晩泊った。その大阪で自由帰郷の身となり、
宣伝班員たちは1年間にわたる徴用から完全に解放されたのである

12月中旬、大阪で自由の身となった中村が東京へ向かったのか、郷里(宮崎)だった
のか不詳だが、2ヶ月後の昭和18年2月には宮崎で地元の有力者の娘と見合いをし、
直ちに結婚した。東京へ戻り、世田谷の借家に住み、12月には長女が誕生した。

冒頭に記したように、中村の実家は古い商家で、宮崎で有数の資産家である。
昭和16年には、父は宮崎無尽株式会社を設立し(現宮崎太陽銀行)、長くその
社長を勤めるなど、宮崎経済会に重きをなしており、中村の結婚はそうした状況
での見合いによるものだった。経済的には何の不安もない生活だったのである。

昭和19年になると戦況は一段と悪化し、建物疎開や人員疎開推進など生活不安が
強まる中、4月に、中村は日大講師を辞して妻子とともに宮崎の実家へ疎開した。
そして、それ以降、中村は東京へ戻ることはできなくなるのである。

   *そこで阿佐ヶ谷将棋会  

     ・真杉静枝が出席予定・・

真杉静枝との同棲解消後の二人の関係がどのようだったかはっきりしないが、
昭和15年12月の「阿佐ヶ谷文藝懇話会」(=阿佐ヶ谷将棋会)開催の案内状には、
参加者として「中央沿線の者の他に、坪田譲治氏、浅見淵氏、真杉静枝氏を加え
全部で12〜3人の予定です。」とあり、幹事は3名連記で、その一人は中村である。

井伏は、中村と同棲中の真杉が参加すると思ったようだが(「荻窪風土記-阿佐ヶ谷
将棋会」)、実際には同棲解消後で真杉は四ツ谷駅近くの麹町(現千代田区)に
移っていた。井伏によれば案内状の筆跡は小田だが、どんな事情で真杉の名前が
載ったのかは分からない。実際には開催日(S15/12/6)に真杉は出席していない。

それにしてもややこしい関係である。十津川光子の「悪評の女」によれば、
昭和15年末頃には、真杉と中山義秀(芥川賞作家で妻とは死別)は親密に
交際していたという。中村が徴用で南方従軍中の昭和17年10月に結婚した・・。

     ・阿佐ヶ谷将棋会へ出席

前述のように、中村の「将棋随筆」(S13/12)は、この時代の阿佐ヶ谷将棋会の様子
を知ることができる貴重な資料である。木山の日記と合せ、当時の時代背景と
若き文士たちの個性あふれる、そして微笑ましいともいえるような親交ぶりが伝わる。

中村は記録にある第1回(S13/3/3)から熱心に参加しているが、昭和16年になると
欠席が目立つのが一寸気になる(別掲「開催一覧」)。メンバーとの往来に特に問題
があった様子もないので、おそらく偶々だろう。住居は阿佐ヶ谷界隈を離れ小石川区
原町(現文京区白山辺)に移り、台湾関係小説の執筆、出版に忙しく、広津和郎など
先輩との親交も広げていた時期であり、これらの影響があったのかもしれない。

前述のように、徴用の際には阿佐ヶ谷将棋会の送別会(S16/11/20)に出席している。
宮崎への疎開に際しては、井伏、上林、木山、太宰らによる送別会(S19/4/14)が
開かれた。自身の疎開準備のため出席できなかった小田あてに送った太宰の
4月20日付のはがきに、その二次会の模様が書いてある。

阿佐ヶ谷将棋会の最後の会「高麗神社参拝」(S18/12/23)に参加していないのは
初めての子供の誕生の関係だろう。この12月に、東京で長女が生まれたのである。

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中村の疎開は、会のメンバーの中で最も早かった。妻は、東京での新婚生活10カ月で
出産、馴れない大都会で乳飲み子を抱え、空襲の不安も広がる中、周囲の勧めも
あって早々に郷里宮崎への疎開を決めたのである。年譜には、3月に疎開とあるので
あるいは妻子だけが先に帰郷し、中村は4月になったのかもしれない。

いずれにしろ、この後、小田、井伏が相次いで疎開するなど、組織的に“会”を
持つことはできず、阿佐ヶ谷将棋会は”第4休眠期”に入る。

戦後、阿佐ヶ谷将棋会は将棋抜き、酒飲み専門の「阿佐ヶ谷会」となって復活するが、
中村は参加することがなかった。

戦後、中村は、地元の新聞社、出版社で編集に携わった後、宮崎県立図書館長を
務めるなど宮崎県の戦後の文化振興に活躍したが、健康を損ない、療養しながらの
文筆活動、文化活動を余儀なくされた。 晩年には父を継いで宮崎相互銀行社長の
任にも就かなければならなかった。 宮崎を離れられなかったのである。

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「中村地平」の項     主な参考図書

『中村地平全集 全3巻 』 (中村地平著 S46/2-7 皆美社)から
第1巻 〜 第3巻 -- 「解説 (浅見淵)」 
第2巻 -- 「月報 (城夏子:北原武夫:古谷綱武) 」 ・ 「八年間」
第3巻 -- 「月報 (海音寺潮五郎:井上友一郎)」 ・ 「将棋随筆」
 ・ 「葬儀の朝」 ・ 「女流作家の思い出」 ・ 「年譜」 ・ 他

『小魚の心』 (表題作、「風わたる」、「松山氏の下駄」など12篇・:真杉静枝著 
S13/12 竹村書房:復刻版「近代女性作家精選集 017」(1999/12 ゆまに書房))

『その後の幸福』 (表題作、「駅長の若き妻」など15篇・著者あとがき:真杉静枝著 
S15/9 昭森社:復刻版「近代女性作家精選集 044」(2000/11 ゆまに書房))

『自伝的女流文壇史』 (吉屋信子著 S37/10 中央公論社)
『物語女流文壇史』 (巌谷大四著 1989/6 (株)文芸春秋)
『昭和文学盛衰史(全2巻)』(高見順著 S33/3・11 文芸春秋新社)

『回想の文士たち』 (小田嶽夫著 1978/6 冬樹社)
『文学青春群像』 (小田嶽夫著 1964 南北社)
『酔いざめ日記』  (木山捷平著 S50 講談社)
『亡友中村地平』 (井伏鱒二著 S38/5 <新潮>:
「井伏鱒二全集 第22巻」(1997/9 筑摩書房)所収)

『人間太宰治』 (山岸外史著 S37/10 筑摩書房)
『小説太宰治』 (檀一雄著 1949 六興出版社)
『評伝太宰治 上巻』 (相馬正一著 1995/2 津軽書房)
『ピカレスク 太宰治伝』 (猪瀬直樹著 2000/11 小学館)
『太宰と地平』 (森永国男著  S60/6  鉱脈社)

『杉並文学館 -井伏鱒二と阿佐ヶ谷文士-』 (杉並区立郷土博物館(平成12年))



(将棋会 第4 休眠期 (S19頃〜S23頃)  準備中)

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中村地平全集(全3巻)」 所収作品一覧


 「中村地平全集 第一巻」 所収作品(小説)  (皆美社:昭和46(1971)年2月発行)

収録作品(目次順) 初 出  メ モ
 熱帯柳の種子 S7/1 <作品>   佐藤春夫が認めた: 「熱帯柳の種子」(S13)所収
 螢 S7/7 <作品>   「熱帯柳の種子」(S13)所収
 きつつき S8/9 <作品>   「熱帯柳の種子」(S13)所収
 旅さきにて S9/5 <行動>   「旅さきにて」(S12)所収 
 花子 不明 不明   「熱帯柳の種子」(S13)所収 
 イルゼとその母 S11/9 <日本浪曼派>  「熱帯柳の種子」(S13)所収 
 土竜どんもぽっくり S12/5 <日本浪曼派>  第5回芥川賞候補 「旅さきにて」(S12)所収 
 戦死した兄 S13 <新潮>  「戦死した兄」(S14)所収
 陽なた丘の少女 S13/8 <新潮>  「戦死した兄」(S14)所収
 南方郵信 S13/4  <文学界>  第7回芥川賞候補: 「戦死した兄」(S14)所収
 蕃界の女 S14/9  <文藝>  「蕃界の女」(S15)所収
 長耳国漂流記 S15/12〜5  <知性>  6か月連載: 単行本「長耳国漂流記」(S16)
解説  浅見 淵(記)



 「中村地平全集 第二巻」 所収作品(小説)  (皆美社:昭和46(1971)年4月発行)

収録作品(目次順)    メ モ
 馬来人サーラム S18/6 <新潮>   「マライの人たち」(S19)所収:徴用関連
 女たち S23/3 <中央公論>   「義妹」(S23)所収:徴用関連
 朝の雀 S24/9 <世界>   戦争関連
 ブドウ液 S23/9 「義妹」   S21/7脱稿−発表は「義妹」(S23)
 女主人 S22/9 <世代>   「義妹」(S23)所収
 義妹 S22/4 <座右宝>  「義妹」(S23)所収
 子供の像 S23/9 「義妹」  S21/10脱稿−発表は「義妹」(S23)
 八年間 S25/10 <群像>  本作品等により第1回宮崎県文化賞を受賞
 白鷺 S31/2 <世界>  中村の最後の小説:老人ホームが舞台
 霧の蕃社 S14/12  <文学界>  「蕃界の女」(S15)所収
 あおば若葉 S17/5  博文館刊  長編書き下ろし:徴用中の刊行でS15〜16の脱稿(推測)
 解説  浅見 淵(記)  



 「中村地平全集 第三巻」 所収作品(評論、随筆)  (皆美社:昭和46(1971)年7月発行)

収録作品(目次順) 初 出  メ モ
 文学について 一1  随筆・評論集「仕事机」(S16/3:筑摩書房刊)から収録
   小説の嫌悪 S15/7 <文藝>   文芸時評
   東京の町 S15/8 <都新聞>   文藝時評
   自信の無さ S15/8 不詳   文藝時評 
   時代と僕たち S15/12 不詳   時評
   詩的精神に就いて S15/5 不詳   評論(広津和郎関連)
   新しさの方向 S15/9 <知性>  評論(南方文学)
   井伏鱒二論 S14/12 不詳  評論(井伏鱒二)
   老秋聲と僕らと S14/3 <新潮>  評論(副題-先輩への手紙-:広津和郎」)
   蓼喰う虫 S14/6 <文藝>  評論(谷崎潤一郎)
   鴎外の「雁」 S15/5 不詳  評論(森鴎外)
  情痴文学なるものに就いて S14/7 <新潮>  文藝時評
   小説に就いての問答   S14/9 不詳   田畑修一郎との公開の往復書簡
   文学研究と文学批評  S15/6 <新潮>  文藝時評 
   表現と生活  S15/6 不詳  文藝時評 
   人間修業という事  S14/9頃 不詳  河上徹太郎との公開の往復書簡 
 仕事机  随筆・評論集「仕事机」(S16/3:筑摩書房刊)から収録   
   将棋随筆  S13/12 不詳   阿佐ヶ谷将棋会発足の頃のこと 
   葬儀の朝   S13/8  <日本浪曼派>  緒方隆士の葬儀 
   神になる日   S15/5 不詳
(全集に
記載なし)
.
左の年月は
作品末尾の
記載
(脱稿年月
であろう)
 
 S15/4の中村の住所は、小石川区原町12千家荘 
   南方の海   S15/4  先頃の台湾旅行のこと 
   日向路の秋   S14/10  S14/7、日向観光協会の招きで、中村、尾崎士郎、
 中川一政、岡田三郎、上泉秀信、井伏鱒二の6名
 で日向一円を巡ったことに関連する随想。
   西都原・南日向   S14/8
   水郷延岡   S14/11
   宮崎の町   S14/11
   日向と長塚節   S15/7 .
   大虚など   S13/1  台北高校時代のこと 
   南方への船   S14/3  台北高校入学で台湾へ 
   台湾の高校生へ   S14/6  永い台湾旅行から帰京時の礼状 
   蕃界の温泉   S15/4  台湾旅行の1日 (S14/4脱稿か?) 
   蓼科高原   記載なし  S15?蓼科滞在(広津和郎) 
   入学の頃   S14/4  東大入学(S5)、本郷に下宿、2ヶ月後落合へ越す 
   看護婦さん   S15/6 . 
   「次郎物語」の作者 S15/6  下村湖人(台北高校の師) 
 文学について 二   戦後の随筆・随想の一部 
   宇野浩二氏との対談  S27/12 不詳   
   女流作家との思い出  S28/1  <毎日新聞>   毎日新聞(北九州版)に7回(人)連載
   地方作家の悲しみ  S29/8  <毎日新聞>     
   再び地方作家について  S29/12  <毎日新聞>     
   “浪漫的”と“古典的”  S30/4  <朝日新聞>     
   地方と作家生活  S30/9  <群像>     
 卓上の虹 (全36篇)  S30/3〜5、「日向日日新聞」と「熊本日日新聞」に同時連載された
 随筆・随想 36篇(表題は省略)。S31に日向日日新聞社が刊行。
   
 わが家の素描   S27/9  不詳   文末に”S27/9”とあり、内容は当時の家族紹介。
解説  浅見 淵(記)



主な「戦前刊行の小説集」 所収作品一覧

(「全集」欄の数字は、「中村地平全集 全三巻」の所収巻を示す)
単行本表題:発行年月(所)  収録作品  初出年月  初出誌  備 考  全集
熱帯柳の種子



S13/3


(版画荘)
 熱帯柳の種子 S7/1 <作品>  . 1 
 廃れた港 - -  原型は「廃港淡水」<四人>   
 螢 S7/7 <作品> . 1 
 教会の人達 不明 不明    
 きつつき S8/9 <作品>    1 
 花子 不明 不明 . 1 
 イルゼとその母 S11/9 <日本浪曼派>   1
 悪夢 S11/12 <日本浪曼派>    
後記 - - .  
戦死した兄

S14/1

   (竹村書房)  
    
 戦死した兄 S13 <新潮> .  1 
 応召記 S14/1 <新潮>  
 陽なた丘の少女 S13/8 <新潮> . 1
 離れ島にて  S13/12 <文藝>    
 土竜どんもぽっくり  S12/5 <日本浪曼派>   1 
 南方郵信  S13/4 <文學界>   1 
 後記    
台湾小説集


S16/9 


    (墨水書房)
        
 霧の蕃社 S14/12 <文學界>   2
 蕃人の娘  不明 不明  「小さい小説」(S15/8)所収  
 人類創世  不明 不明    
 旅先にて  S9/5 <行動> .  
 太陽の腱  不明 不明 .  
 熱帯柳の種子  S7/1 <作品>   1 
 太陽征伐  S15/8 <知性>    
 蕃界の女  S14/9 <文藝>   1 
 廃れた港  - -  原型は「廃港淡水」<四人>  
後書 -  -    



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(将棋会 第4 休眠期 (S19頃〜S23頃)   準備中)