石山太柏 = 荻窪ゆかりの日本画家


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= 「夕暗の天沼弁天」・「近郊二景(井草野・荻窪)」 =

井伏鱒二著荻窪風土記-荻窪八丁通り」に、石山太柏画伯宅を訪ねたという記述がある。
(本文は「大白」だが「太柏」が正しい。)
明治26年山形県に生まれ、同44年春に
上京(18歳)。杉並地域に移り住んだ時期は不詳だが、大正7年には天沼教会近くに自宅
兼アトリエと庭を構え、界隈の風景などを描いて“一種の詩情が含まれる作品”と高く
評価される活躍をした
荻窪ゆかりの日本画家である。(太柏の来歴や略年譜など下記)


井伏が訪問したのは、この大正10年頃のことである。

今ではその名を知る人も少ないが、東京国立近代美術館は、所蔵する太柏の六作品を同館の
サイトにモノクロ画像で公開している。芸術
作品として高い評価があることが窺えるが、
中でも次の二作品(三点)は、郷土史という観点からも特に興味深い貴重な資料だろう。

「夕暗の天沼弁天」(制作年不詳

参考サイト  画像: 夕暗の天沼弁天  (東京国立近代美術館)

現在の天沼弁天池公園の地にかつて存在した弁天池を描いた日本画。
制作年は不詳
だが、大正から昭和にかけての作に「天沼の弁天池」「冬涸の天沼風景」
「晩秋の荻窪駅付近」など自宅近くの風景画が目立つので、
同時期の作とみてよかろう。
郷土史資料としてよく知られる矢嶋又次作画「天沼弁天池」を併せると一層の感興が湧く。

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==「石山太柏作品」展示(H30秋~H31/1) 終了==

*東京国立近代美術館(10室)展示

*杉並区立郷土博物館「石山太柏」展


(詳細は末尾に移動)
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「近郊二景(井草野・荻窪)」(昭和5年作)

参考サイト  画像: 近郊二景(井草野・荻窪)  (東京国立近代美術館)

精緻な写実画で、まさに当時の荻窪辺りの情景そのものだろう。多くの郷土資料
天沼八幡神社を遠望する当時の風景写真が載っているが、これも併せて見ると
荻窪
の原風景がより鮮明に迫ってくる。

ちなみに、他の四作品は、『罌粟』(制作年不詳)、 『幽溪』(S2・1927)、
径』(S3・1928)、 『礀潺賦(カンセンフ)』(S12・1937) である。
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[ご参考]  大正4年(1915)の杉並地域の土地利用・・90%以上が田畑・山林原野!!

冊子「杉並区農業の歩み」の「資料」編に「大正4年産物表」があり、
そこに、豊多摩郡の4ヶ村(現杉並区)の民有地の地目の数値がある。

杉並区の100年前の姿は、田畑が70%以上、山林原野が20%で、
宅地は7%にも満たない。田畑・山林原野が広がっていたことが解る。

宅地  畑  田  山林原野など  計 
 199 (6.8%) 1,854 (63.4%)  306 (10.5%)  563 (19.3%)  2,922 (100%) 

注1 : 単位は、「町」。 「1町≒0.00991736k㎡」 なので、2,922町は、約「29.00k㎡」 である。
現在の杉並区の面積は、約34k㎡で、差の約「5k㎡」は官有地などとみてよかろう。
(同資料によれば、和田堀ノ内村の官有地・免訴地は約64町で、同村面積の1割強に
相当する。道路、水路敷、学校、社寺、墓地等だが、他の村はその記載がない。)

注2 : この豊多摩郡の4ヶ村(現杉並区)は、和田堀ノ内村、杉並村、井荻村、高井戸村。

注3 : 「杉並区農業の歩み」(S50/2:編集・発行ー杉並区・杉並区農業委員会)の表には
4ヶ村別の地目と農産物が載り、「豊多摩郡誌」との表示がある。
「豊多摩郡誌」は、郡役所編集で大正5年に発行された。(S53:復刻版出版)

注4 : 本表は、「豊多摩郡誌(復刻版)」により数値を確認のうえ 「杉並区農業の歩み」の
山林原野の数値「567(町)」を「563」に修正した。


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そのほかの作品に関して =

太柏作品の所在は、ネット情報で、東京国立近代美術館の6作品と山形県東根市
指定有形文化財1点(個人所蔵)が確認できたが、他の所在は把握できなかった。
代表作とされる画題、出版された画集、作品目録の類の情報も見つけられなかった。

大正から昭和初期における実力派の日本画家としては情報量が少なすぎる気がするが、
資料の中には、本ページの冒頭に掲げた3点以外にも興味深い画題が多数ある。

例示すれば 
(特に、杉並の住人からすると・・)

 秋草に月 (夕月?)  本人自信作・帝室博へ寄付    






  
 井頭の夜  S6個展・白野次郎の評あり
 天沼の弁天池  T8個展・有島武郎の評あり   初冬武蔵野
 晩秋の荻窪駅附近  S6個展・白野次郎の評あり    雪の武蔵野
 冬凋の天沼風景  首夏村道   S11個展・齋田素州の評あり
 天沼附近  
 
S6個展 作品目録にある
 
 山西の残照  S14個展・豊田豊の評あり   
 天沼の秋  高山夕照
 井草田圃  綏遠の朝


コレクターの手許に秘蔵されているならそれなりの意味があるが、もし、既に過去の画家として
忘れ去られた存在というなら、もう一度作品に光を当てて再評価する価値はないのだろうか。
美術館などで未整理のままになっていないか、個人所蔵でも開示できる作品はないか・・
入賞作、好評作を主体にした「石山太柏展」の開催や画集の発行などできないのだろうか。


なお、太柏は早い時期から茶道、華道、造園、詩歌、古典文学などを
積極的に学んだようだ。茶道は大日本茶道学会の田中仙樵 に学び、
茶室や庭は自ら設計、指示して自宅の敷地にも造ったという。

昭和26年に「日本茶道院」を設立し、晩年は茶人として活躍した。
太柏関連の茶室をネット検索したところ、次の二つが見つかった。

・「聴雨亭」=山形県指定文化財(史跡) 「春雨庵跡」にある茶室。
茶室は、「春雨庵」復元(S28)に際し太柏が関わって造ったという。
茶室も復元なのか、太柏の設計で新築なのか、詳細は記述なし。

・「観山亭」=山形県の赤倉温泉にある「あべ旅館」にあった。
ネットには、「太柏が作った本格的な茶室で、壁面には
太柏による「奥の細道」の全文と墨絵が描かれている」
とあるが・・、「あべ旅館」は平成25年から営業していない。

(赤倉温泉観光協会に問い合わせたところ、係争中のため、
茶室を含むすべてが以前のままだが立入禁止とのこと。)


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== 石山太柏(いしやま たいはく)の来歴 ==

杉並区立郷土博物館分館が「企画展 石山太柏」開催に際して『展示図録』を発行した(H30/10)。
  本項は、この図録を主に参考にして太柏の来歴を簡潔にまとめた。(後記 「略年譜」 参照)

石山太柏(本名・徳一郎)は、明治26年(1893)、山形県小田島村(現・東根市)で農業を営む
石山徳太郎の長男に生まれた。尋常高等小学校を卒業後、15歳の時に山形出身の
南画家・小松雲涯に伴われて同県豊田村(現・中山町岡)の柏倉雪章の内弟子に入門した。

柏倉雪章は、地域の豪農・柏倉家の出身で、円山派の川端玉章に学んだ画家である。
徳一郎は、師・雪章と起居を共にしながら日本画を学び、雪章から「雪汀」の号を受けた。

明治43年(17歳)の初冬から、雪章の命を受けて画巻 『一福千態』 の制作にかかり、
上下二巻、併せて40m以上におよぶ絵巻を、翌、明治44年春に完成した。
このとき18歳、「太柏」の号 を受けて上京する。

ちなみに・・、東根市は宮城県との県境に近い山間部に位置する。柏倉家は江戸時代に
山形城下の大庄屋を勤め、現在も中山町には柏倉家住宅が山形県指定文化財として
建っている。(いずれも、ネット上に詳細情報がある。)

『一福千態』は、私見で・・、柏倉家の正月を迎える準備と正月の様子が題材だろう。
女性や子供たちの姿がユニークでユーモラスに描かれ、穏やかな、和やかな
時間の流れに、思わず頬が緩む。これが18歳の作とは驚くばかりである。
この地の、当時の豪農の暮らしぶりの一端が窺える資料としても貴重だろう。

参考までに・・、画家の生年を見ると、横山大観は明治元年(1868)で大先輩、
藤田嗣治は明治19年(1886)、同年配は速水御舟の明治27年(1894)で、
東郷青児は明治30年(1897)、伊東深水は明治31年(1898)、
棟方志功は明治36年(1903)、東山魁夷は明治41年(1908)などがいる。
また、『荻窪風土記』 に太柏を書いた井伏鱒二は、明治31年(1898)である。


上京した太柏は寺崎廣業の「天籟画塾」に通ったが、廣業の芸術観や塾風になじめず、また、
大正3年(1914)には今村紫紅を中心とする「赤曜会」に参加して学んだが深くは親しめずに
離れるなど、雪章のほかには誰にも師事することなく、終生、独自の道を進んだ。

一方、大正3年(1914)には官展、院展に入選するなど、美術展に積極的に出品し評価を得た。
大正8年に「第1回個展」を開催し、小説家・有島武郎らが高く評価し、大正10年には有島を
中心に有力実業家(銀座天金・池田金太郎、東京商工会議所副会頭・星野錫ら)による
「石山太柏後援画会」が発足した。

その後、昭和13年(1938)に、美術史家・藤懸静也らを発起人とする「柏翠会」が設立された。
会規約には、「鑑賞の会を催す」とあるが、実質的な後援会で、発足名簿には政財界や
美術・文学・芸能各会・地元杉並の有力者など著名人48名が名を連ねる。
太柏の画業が、幅の広い多くの後援者によって支えられていたことが分かる。

この間、官展・院展への出品制作を続ける一方、大正7年には日本美術学校の講師を勤め、
大正13年には自宅に研究会「野草会」を設立するなど、絵を志す若い人々の指導に当った。

太柏は、主として官展、院展を活躍の場としてきたが、昭和10年に院展(日本美術院)を脱退
した。事情は明らかでないが、院における評価は割れており、「同人」(院展に無鑑査で
出品できる)に推挙されることがなかったことへの不信感が要因の一つではないだろうか。

官展への出品も、昭和12年の「第1回 新文部省美術展」が最後で、
その後は、いわば独立作家として個人展覧会(個展)を中心に作品を発表した。

太柏は、画業以外にも多彩な才能に恵まれていたようで、上京すると、早い時期から茶道を
学び、自邸に茶室「萍庵」を造営するほどで、画業とともに茶道関連の造詣を深めた。

有島武郎を介して富本憲吉やバーナード・リーチらと交流、濱田庄司の窯で作陶を学び、
昭和6年頃からは山形県の窯で制作するようになる。

昭和13年発行の「新萬葉集 第一巻」(改造社)には太柏の作品三首の掲載があり、
国文学者の尾上柴舟、武田祐吉との交流など、太柏の歌人としての一面が窺える。

戦況は悪化するばかりの昭和19年、太柏は出身地である山形県へ疎開した。翌20年5月に
疎開先の中郷 (現・寒河江市)で個展が開かれた。案内状には大政翼賛会山形県支部
の名があるが、日本中が空襲にさらされ、沖縄で激戦が続くこの時期、開催の経緯や
展示された作品、観覧者の反応、太柏の本意など、気になるところである。

疎開中は、そこで絵筆を執り、個展を開き、茶陶を指導し、作陶を行なうなどの日々だった。
疎開から天沼の自宅に戻った後は、茶道関係の活動が主体になり、昭和26年には、
「日本茶道院」を設立した。茶道の指導に留まらず、自宅の茶室の建築や造園を指導し、
昭和28年には、山形県上山町(現・上山市)にある沢庵禅師ゆかりの「春雨庵」の復元
および茶室・庭園の設計指導などを行なった。

昭和29年の個展は、飯田十基(造園・庭園史家)、柳澤宗淵 (茶人)が幹事で、案内状には、
藤懸静也、伊藤康安(早大教授)、田中一松(文化財研究所長)の推薦文がある。

三者とも、太柏が画人としてだけではなく、茶人、歌人として活動したことを評価して、
その活躍が太柏の画業を新しい芸術へと深化させたと評している。(『展示図録』より)

石山太柏の画業の真価を伝える端的な表現だろう。

戦後はもっぱら茶人として活動した。現在では「太柏」の画業とその名を知る人は少ない。

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== 石山太柏 と 杉並地域 ==

太柏の杉並地域との関係は、単に居住したというだけでなく、密接な繋がりがある。

杉並地域で、小茂田靑樹、野田九浦、中川一政ら 官展、院展などで活躍した画家たちと交流。

・小茂田は大正12年に井荻村に居を構え、「杉立社」を設立、太柏もこの研究会に参加した。

・野田は昭和11年頃、高井戸町に移住し「煌土社」を主宰、太柏は展覧会に『鳰』を出品した。

・中川は後に洋画家として名を成すが、和田堀町に住み、太柏の「野草会」(前記)に参加した。

大正13年に杉並町が誕生し、町民の同志による自治組織としての 「杉並懇話会」 が発足した。
太柏は、一会員として参加したが、会員の中には太柏の画業を支援した人々が含まれており、
太柏が地域の人々との関わりを大切にしたことの一端が窺える。

昭和7年に杉並区が誕生するが、このとき太柏は 「杉並区市制記念 武蔵野風景作画頒布会」
を実施した。地域から会員を募り、武蔵野風景を画題とした作品を会費制で頒布する会だが、
実施に際して太柏が記した 「作者言」 には、武蔵野の情趣への愛着と、発展により失われゆく
その自然や田園風景を偲ぶ思いが記され、後世に伝えるよすがにしたいとある。

また、太柏は、この地 天沼に居を定めた理由を、この 「作者言」 に次のように書いている。

「其頃 東京市の近郊に有りながら、最 武蔵野としての情趣豊な土地であったからである。
当時 この杉並区の土地は杜あり、丘あり、雑木林あり 畑あり 田甫あり、四季折々の
ながめは 実に筆語に尽くせない良い風光でした。」

ちなみに、大正4年の杉並地域の土地利用は、上記したように
田畑・山林原野が9割以上を占め、宅地は1割にも満たない。
太柏のこの地への思いのほどが伝わる文面である。

発起者として、地域の有力者が名を連ね、杉並で多くの強い支持を得ていたことが分かる。

昭和13年設立の「柏翠会」は、前記したように太柏の後援会で、発足名簿には各界の有力者の
名があるが、中に、阿佐ヶ谷地域の大地主・相沢喜兵衛や地元名士の鈴木吟亮(吟詠家・
吟亮流初代宗家)、今村力三郎(弁護士・専修大学総長)がいる。

これらのことから、太柏は杉並の風土、情景をこよなく愛し、杉並に根を下ろし、
地域の人々に支えられながら日本画家として活躍したことが分かる。

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==石山太柏(いしやま たいはく) 「略年譜」==

  石山 太柏

 本 名: 徳一郎

 画 号: ・雪汀 (18歳迄使用)
       ・太柏(たいはく) ・丈泉子(じょうせんし) ・天沼居人(てんしょうきょじん) 
       ・萍庵(ひょうあん) ・楽閑斎(らっかんさい) ・視夢艸苑(しむそうえん)
       (是等を作品内容により使い分けていた)

 茶 号: ・萍庵(ひょうあん) ・楽閑斎(らっかんさい) ・宗幽(そうゆう)  
       ・休々窟(きゅうきゅうくつ) 等
 年  年齢 事 柄 
明治26年
  (1893) 
 
0
※ 4月29日 山形県北村山郡小田島村島大字島 (現・東根市大字島大堀)にて
   石山家に生まれる(長男)。 父・徳太郎は農業を営んでいた。

 明治41年
  (1908) 
 
15
○ 12月 尋常高等小学校卒業後、小松雲涯に伴われ、東村山郡豊田村(現・中山町岡)の
   柏倉家へ。  日本画家・柏倉雪章(川端玉章門下・円山派)に内弟子として入門。
   起居を共にしながら日本画を学ぶ。

○ 師・雪章から 「雪汀」 の号を受ける。


 明治43年
  (1910) 
  
17
○ 初冬より翌年春にかけ、画巻 『一福千態』(上巻・下巻) を描き 「太柏」 の号を受ける。
   この画巻は、完成作品(柏倉家所蔵)とは別に 「草稿」(上巻・下巻) が残っている。
   完成作品の方には 「依師命」 と奥書がある。太柏が遊び心で描いていた画巻(草稿)が
   師の目にとまり、師は力量を感じて作品として仕上げるよう命じた経緯からといわれる。

 明治44年
  (1911)
  
18
○ 春 上京し、 寺崎廣業の「天籟画塾」に通い、画塾の展覧会にも出品する。廣業門下として
   認知されていたが、廣業の芸術観や塾風になじまず,塾を離れていく。
   以後は新たな師を持たず、独学を通して柏倉雪章を生涯唯一の師とする。

※ 上京当初、一時的に「向島の寺島」(現・墨田区八広周辺)に居住した。

 大正元年
  (1912) 
 
19 □ このころ、村田丹陵(大和絵)に岩絵具(日本画用絵具)の使用法を習う。
大正2年
  (1913) 
  
20
○ 3月 「第13回 巽画会展覧会」(上野・竹の台陳列館) に 『行く春』 を出品。

○ 4月 「第12回 美術研精会展覧会」(上野・竹の台陳列館) に 『習作』 を出品。
 
大正3年
  (1914)
   
21
○ 10月 「再興第1回 日本美術院展覧会」(日本橋・三越呉服店旧館3階)に 『しもがれ(山寺)』
    『くれあい(赤湯)』 の二点入選。 
   (入選画数は36点で、他に速水御舟・大智勝観・小林古径・前田青邨 等が入選した。)

○ 10月 「第8回 文部省美術展覧会』(上野・大正博覧会美術館) に 『渡し場』 入選。

○ 10月 「第14回 巽画会展覧会」(上野・竹の台陳列館) に 『河岸の月』 を出品。

○ この年に今村紫紅を中心に発足した 「赤曜会」(目黒研究会-A組研究会員)に
   小茂田青樹に誘われて参加し、速水御舟、中村岳陵らと日本画の研究に励んだ。 

大正4年
 (1915)
 
22
○ 3月 「第1回 日本美術院習作展覧会」(上野・竹の台陳列館)に 『庚申塚』 『みづ田 』 入選。

※ 日本画家で女子商業学校絵画教師をしていた野村喜世(きせ)と結婚。

※ このころの杉並地域は、田畑・山林原野が9割以上で、宅地は1割以下だった。

 大正5年
  (1916)  
 
23
○ 4月 「第5回 日本美術院習作展覧会」(谷中・日本美術院)に 『山』 入選。

○ 「第17回 巽画会展覧会」 に 『風景』 出品。(開催会期未詳)

○ この年から大正12年まで、雑誌 『太陽』(博文館) の挿絵を手がける。

大正6年
 (1916)
 
24
○ 4月 「第3回 日本美術院試作展覧会」(谷中・日本美術院) に 『無明より常照へ』 入選。

○ 10月 「院展派展覧会」(静岡倶楽部) に 『黄昏』 を出品。

 大正7年
  (1918)  
 
25
○ 3月 「第4回 日本美術院試作展覧会」(谷中・日本美術院) に 『冬枯れの十二社』 入選。
   美術院奨励賞を受賞する。

○ 4月 「第2回 天籟画塾展覧会」(上野・竹の台陳列館) に 『夕もや』 を出品。

○ 4月頃 奈良・京都スケッチ旅行。

□ 「日本美術学校」の講師として、川端龍子のあとを受け、荒井寛方等と共に新鋭画家の
   一人として実技指導に当たる。
   (「日本美術学校」 ~ 官学派のアカデミズムに対抗して戸塚荒井山に創立された。)

※ このころ、杉並村田端 (現・成田西3丁目) から天沼へ移住する。
   天沼居(扁額は秋月勝吉が揮毫)・天沼画房を新築。各部屋に炉を切り、
   茶を点てられるようにする。

○ このころ、大日本茶道学会(会長・鳥尾小弥太)の設立趣意に賛同。
   
初め、岡本樵雲、その後は田中仙樵(大日本茶道学会 第三代会長)に師事。
   (茶道を学び始めた時期は、明治末~大正初頭と考えられるが正確には未詳。)

 大正8年
  (1919) 
 
26
○ 10月 「第1回 個人展覧会」 (東京美術学校俱楽部) を開催。
    『天沼弁天の池』 『従兄の住める五反田の朝』 『外濠の一部』 『上野公園』 
    『若葉に包まれた家』 ほか。(出展 70余点)

○ 10月 「第1回 帝国美術院展覧会」 (上野・竹の台陳列館) に 『上井草付近』 入選。

○ 雑誌 『太陽』 (25巻13号(11月号))に有島武郎が三頁にわたり個展の評を書き、
   太柏の画業を高く評価する。( 「有島武郎全集 第3巻」所収)

○ このころ、有島武郎を介して浜田庄司の窯で、富本憲吉・バーナード・リーチらと交流し、
   共に作陶を学ぶ。

○ 11月 「最新横幅展覧会」(京都・画博堂) に 『返り咲』 を出品。

 大正9年
  (1920) 
 
27
○ 10月 「第2回 帝国美術院展覧会」 (上野・竹の台陳列館) に 『杉並村の晩秋』 入選。

○ このころ、屏風の受注制作を実施、作品を置く部屋に合わせて制作した。(発起人:星野 錫)

□ 1月~翌年3月、 星野 錫より研究費(月額150円)として援助を受けたが、心理的負担となり、
   辞退して終了。(星野 錫 は 東京商工会議所副会頭)

 大正10年
  (1921) 
 
28
○ 「石山太柏後援画会」 発足。 (発起人:池田金太郎・星野 錫・有島武郎)

○ 柏倉惣右衛門宅の書院座敷 (新屋敷) に障壁画を制作。

○ 5月 尚美堂主催の小品画会(日本橋・常磐木倶楽部) を開催。

○ 11月 「第2回 個人展覧会」 (赤坂・溜池三会堂) を開催。

○ このころ、井伏鱒二が、日本美術学校の紀淑雄校長に紹介され、天沼の石山邸を訪れる。
   (井伏鱒二著 『荻窪風土記』 に記述がある。)

※ 8月 青梅街道に西武軌道線(荻窪南口~新宿:後の都電杉並線) が開通。

 大正11年
  (1922) 
 
29
○ 9月 「再興第9回 日本美術院展覧会」 に 『梅咲く吉野村』 入選。

※ 7月 中央線に高円寺駅、阿佐ヶ谷駅開設。(荻窪駅は明治24年(1891)開設)

 大正12年
  (1923) 
 
30
○ 6月 有力後援者の一人 有島武郎が軽井沢で自殺。

※ 9月 関東大震災が発生。

大正13年
  (1924) 
  
31
○ このころ、芸術活動の資本とするため、石山太柏後援画会を対象として制作画を月賦制で
   有償頒布する「視夢艸苑作画頒布会 (準 「個展」)」 (初回:天沼画房)) を開催。

□ 研究会 「野草会」 を設立。
   美術学校での教え子を中心に、絵を志す若い人々を天沼の自宅で指導・研究する会。
   和田堀内村(永福寺の隣地)に暮らした中川一政(後に洋画家として名を成す)も参加していた。
   他に、樫村白圭(横山大観 門人)・藤(田中) 英・宮部咲也・佐瀨徳治・尾崎三郎・安 泰(童画)ら
   が参加。
画壇の派閥を嫌い、「画塾」 ではなく 「研究会」 とした。

○ 9月 「再興第11回 日本美術院展覧会」 に水墨画 『間渓画巻』 を出品するも落選。
   この作品は、横山大観の 『生々流転』(T12作) への挑戦といわれる。
   破損した作品が返還されるというトラブルがあった。

○ このころから翌年にかけて、柏倉雪章宅 (柏倉喜作家)・倉座敷の障壁画を制作。

※ 6月 杉並村は町制施行で「杉並町」となる。

 大正14年
 (1925) 
32 ○ 11月 「第5回個人展覧会」(天沼の自宅(視夢艸苑))を開催 (出展 40点)。
大正15年
昭和元年
  (1926) 
 
33
○ 5月 「第1回 聖徳太子奉賛美術展覧会」(東京府美術館) に 『花鳥図』 を出品。

○ 9月 「再興第13回 日本美術院展覧会」 に 『峡』 入選。

 昭和2年
 (1927)
 
34
○ 9月 「再興第14回 日本美術院展覧会」(東京府美術館) に 『花鳥図』 入選

○ 9/15付 日本美術院 「院友」 に推挙される。

○ この年、『幽溪』を制作。(「東京国立近代美術館」が所蔵)

※ 4月 現在の西武新宿線開通。(杉並地域 :下井草駅・井荻駅・上井草駅 設置)

 昭和3年
  (1928)
 
35
○ 2月 「第13回 日本美術院試作展覧会」(東京府美術館) に 『天沼居附近』 入選。


○ 9月 「再興第15回 日本美術院展覧会」(東京府美術館) に 『
径』 入選。
   (この作品は「東京国立近代美術館」が所蔵)


 昭和4年
  (1929)
  
36
○ 3月 「第14回 日本美術院試作展覧会」(東京府美術館) に 『湖畔夕漁』 入選。

○ 9月 小茂田靑樹が結成した「杉立社」に参加。荻窪の小茂田邸で開催された研究会に
      数回出席するも、次第に離れていく。

 昭和5年
  (1930)
  
37
 9月 「再興第17回日本美術院展覧会」(東京府美術館) に 『庭井』 入選。
   この作品は、桂公爵家の庭をモチーフに描いたと言われている。(東根市指定有形文化財)

○ この年、『近郊二景 (井草野・荻窪)』を制作。(「東京国立近代美術館」が所蔵)

昭和6年
  (1931)
  
38
○ 2月 「第15回 日本美術院試作展覧会」(東京府美術館) に 『浅春』 入選。

○ 5月 「第6回 個人展覧会」(銀座・伊東屋) を開催。 (出展 80点)。
   (銀座・伊東屋の創業者 伊藤勝太郎は、太柏を高く評価する強力な後援者の一人)
   「美之国」(第7巻6号・S6/6))で、白野次郎は「一種の詩情が含まれる」と評する。

 9月 「再興第18回 日本美術院展覧会」(東京府美術館) に 『白鷺』 入選。

※ このころ、一時的に三鷹村(現・三鷹市)下連雀に居を移す。

○ 天沼の自邸に、 茶室「萍庵」を造営。

○ このころより、千歳山平清水(山形県)にて作陶。

昭和7年
 (1932)
   
39
 9月 「再興第19回 日本美術院展覧会」(東京府美術館) に 『月爾集久』 入選。

○ 6月頃 中国大陸旅行。

※ 10月 杉並町は東京市に編入され、高井戸町・和田堀内町・井荻町との4町で杉並区となる。


昭和8年
  (1933)
   
40
 9月 「再興第20回 日本美術院展覧会」(東京府美術館) に 『閑齋秋荘』 入選。

○ 「杉並区市制記念 武蔵野風景作画頒布会」を行う。(昭和8年1月~昭和9年12月)
   失われゆく杉並の自然や田園風景を偲ぶ縁とするため、地域から会員を募り、
   武蔵野風景を画題とした作品を会費制で頒布。

 この年、月刊 『日本短歌』(日本短歌社) の表紙絵を担当する。

 昭和9年
  (1934)
  
41
 9月 「再興第21回 日本美術院展覧会」(東京府美術館) に 『薫風』 入選。 

 昭和10年
  (1935)
  
42
○ 3月 「第19回 日本美術院試作展覧会」(東京府美術館) に 『歳首三皓』 入選。

○ 5月 「第10回 表装美術展覧会(同人会)」(東京府美術館) に 『幽篁』 を出品。

○ 12月 日本美術院を脱退。

昭和11年
  (1936)
   
43
○ 2月 改組「第1回 帝国美術院展覧会」(東京府美術館) に 『群生』(六曲一双) 入選。
   この作品は、後年、遺族が 四国・金刀比羅宮に寄贈。
   
   妻 喜世も 『後圃深秋』 で入選。

○ 4月 「日本美術院友展」(銀座・松坂屋) に出品。


○ 5月 「第7回 個人展覧会」(銀座・伊東屋) を開催。 (出展 33点)。
   「塔影」(12巻6号・S11/6)で、齋田素州は「武蔵野の田園詩人」と評する。


○ 10月 「昭和11年文部省美術展覧会」(東京府美術館) に 『洛陽富貴』 入選。

昭和12年
  (1937)
   
44
○ 5月 「第3回 煌土社展覧会」(日本橋・白木屋) に 『鳰』 を出品。


※ 7月 盧溝橋事件、日中戦争始まる。

○ 10月 「第1回 新文部省美術展覧会」(東京府美術館) に 『潺賦』(カンセンフ)入選。
    (官展最後の出品。この作品は「東京国立近代美術館」が所蔵)

昭和13年
 (1938)
 
45
○ 1月 明治・大正・昭和期の短歌研究の到達点を示す 『新萬葉集 第一巻』(改造社) が出版され、
   太柏の作品三首掲載される。

○ 4月 第8回 個人展覧会」(東京美術倶楽部) を開催。(出展 47点)。

○ 太柏作品鑑賞会(後援会) 「柏翠会」 設立。
    ・発起人:藤懸静也・正木直彦・溝口禎次郎・田中一松・ 尾上八郎(柴舟)・武田祐吉など計48名。
    ・尾上、武田両氏には書及び和歌を習う。

○ 12月 茶室 「萍庵」 完成。(扁額は溝口禎次郎が揮毫) 

 昭和14年
 (1939)
46
○ 5月 京城(現・韓国ソウル・三越)にて 「個人展覧会」 を開催。

○ 11月 「第10回 個人展覧会」(東京美術倶楽部) を開催。 (出展 35点)。
   個展図録が発行され、展示作品 『荻窪風景』 などのモノクロ写真を掲載。
    「塔影」 (第15巻・12号) が、この個展の評文(豊田豊筆)を掲載。

○ 「美術作家」 (第5号・12月発行:芸天社) に太柏が特集される。
   寄稿者 :小森松庵・正木直彦・溝口禎次郎・藤懸静也ほか。

○ 武田祐吉 『女身萬葉』 (改造社) の装幀を担当する。

 昭和15年
 (1940)
47
 昭和16年
 (1941)
48
○ 5月 「第11回 個人展覧会」 (日本橋・高島屋) を開催。(出展 45点)
   「芸術」(第17巻29号)の評論に 「武蔵野の風景を捉へて、特殊の情趣感を出している処、
    流石に永らく此武蔵野に生活している所産である」とある。

○ 「第3回 煙雲展」(煙雲倶楽部) (銀座・松坂屋) に 『ゑひね蘭』 を出品。

○ このころ、千歳山平清水(山形県)にて茶入・水差を作陶。

※ 12月 日米開戦、太平洋戦争始まる。

 昭和17年
 (1942)
49
○ 2月 「楽閑齋」 (茶室八畳) 完成。(扁額は藤懸静也が揮毫)

○ 11月 「第12回 個人展覧会」(天沼の自宅) を開催。(出展 25点)

昭和18年
 (1943)
 
50
○ 1月 名古屋・松阪屋にて 「個人展覧会」 を開催。推薦文:松尾宗吾(松尾流家元)・藤懸静也

※ 2月 妻(喜世)が逝去。

○ 11月 「第13回 個人展覧会] (天沼の自宅) を開催。(出展 24点・他色紙数点)

※ この年、椎橋鉎子と再婚。

昭和19年
  (1944)
  
51 □ 疎開する。(山形県寒河江市中郷の我孫子政六邸、大江町の伊藤脩邸に仮居)
昭和20年
  (1945)
  
52
○ 5月 山形市ミツマス 3階画廊にて 「個人展覧会」 を開催。(出展 30余点)

○ 8月 疎開先の中郷にて、『朝顔』 を描く。

昭和21年
  (1946)
  
53
○ 当時、西山窯で日用雑器を焼いていた桑原春吉 を紹介される。
   茶陶を指導する傍ら 自らも作陶。

昭和22年
  (1947)
  
54  
昭和23年
  (1948)
  
55 ○ 1月 疎開先の伊藤家にて、『蓬莱山』 を描く。(伊藤家蔵)
昭和24年
  (1949)
  
56
昭和25年
  (1950)
  
57
昭和26年
 (1951)
 
58
○ 「日本茶道院」 を設立。 5/20 日本茶道院発会の春期茶会(視夢艸苑)
   以後春と秋に開催。

○ 11月 銀座・黒田陶苑にて 「個人展覧会」 を開催。

昭和27年
 (1952)
 
59
○ 2月 「第1回聖徳太子忌茶会」 を開催。(自宅・「視夢艸苑」

昭和28年
 (1953)
 
60
○ 山形県村上郡上山町の 「春雨庵」 復元及び茶室・庭園の設計建築を指導する。

昭和29年
 (1954)
 
61
○ 6月 東京美術倶楽部にて 「個人展覧会」 を開催。(展示 30余点)

昭和30年
 (1955)
 
62
○ 「春雨庵」 「聴雨亭」 完成。(現・山形県上山市)
   7月 落慶の儀式 (入佛式・沢庵和尚座像開眼法要・供茶)及び 記念茶会(三席掛釜)
     (関係者記念品は、平清水千歳焼の天目形茶碗)

○  10月 茶道院秋季茶会、11月 春雨庵秋季茶会掛釜 。

昭和31年
 (1956)
 
63
○ 脳溢血にて病を得、長野善光寺の茶室造営依頼を辞退。

昭和32年
 (1957)
 
64
○ 山形県最上郡赤倉温泉 阿部旅館にて、 芭蕉庵・観山亭・笠掛庵・石庭 を造営。

○  冬場に大工指導を兼ねて天沼の自宅に 「豫楽軒」 を造営。

昭和33年
 (1958)
 
65
○ 5月 聖徳太子奉賛茶会並びに萍庵快気祝い (視夢艸苑)
   (記念品は西山窯で焼いた茶碗)

昭和34年
 (1959)
 
66
○ 11月 山形市物産館にて 「個人展覧会」 を開催。(出展 109点)
   太柏が指導した桑原春吉の「西山焼き茶碗展」を併設。
   春吉に 「今高麗」 の号を与え世に出す。

昭和35年
 (1960)
 
67
 昭和36年
 (1961)
68
  1月17日 歿(風邪から肺炎・心筋梗塞を発症)




太柏の絵画に於ける研究は、円山派・四条派を初め、大和絵・土佐派・宋画 (院体画)・
南画・水墨は元より、油絵・テンペラ画をも描くなど、洋の東西を問わず研究した。
官展入選 6回、 院展入選10回、 個展17回に及ぶ。



   絵をしかき 歌を詠みつつ茶の湯する

   けだし我が世は ゆたけくもあるか



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(「略年譜」 に関する注記)
 
・本略年譜は、太柏の五男石山宗幽氏が個人的に作成された「石山太柏略年譜」と
杉並区立郷土博物館分館が「企画展 石山太柏」開催に際して発行(H30/10)した
『展示図録』 に掲載された「石山太柏関連年譜(稿)」を参考にして作成した。
 
・『展示図録』 の「石山太柏関連年譜(稿)」は、石山宗幽氏が個人的に作成された
「石山太柏略年譜」を基礎として作成されており、その末尾に、「本年譜は、未だ
遺漏や典拠資料の確認が十分でない項目もあるため「稿」の文字を残した。
後学の更なる研究に期したい。」とある。このことは、本略年譜にも当てはまる。

・事柄欄にある「○」は絵画など芸術活動の関連、「※」はそれ以外を示し、
「□」は典拠未詳の部分があることを示す。

・「個人展覧会」(個展)には「第○回」と明示がある開催と明示がない開催とがある。

・敬称は省略させていただきました。

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私は、冒頭に記した荻窪界隈の風景画像をネットに発見した時、思わず画面に吸い込まれた。
自分が住む地、荻窪の100年前の姿ということもあるが、それだけでなく、 いわば心の故郷を
見たような感覚である。知るはずもない今は遠い荻窪の田圃、太柏がそこに描いた人と自然の
息吹と調和、静謐の気に、何かとても大事なものを再発見したような感慨に浸ったのである。

太柏は、ここに山形の故郷を見たのかもしれない。
「夕暗の天沼弁天」は、98.0×115.0、「近郊二景」は、各82.0×115.5 の大作である。
実物(彩色)に接すれば、その絶大な筆力、迫力にさらに圧倒されるに違いない。

現在、普通ではこれらの風景画をはじめ太柏作品の実物を見ることはできない。
太柏の作品をこのまま朽ちさせるのはあまりにもったいない・・、惜しい気がする。
その価値を、再度今の世に問えないものか、そんな思いで本ページを作成した。
(H28/9UP・H28/11改訂)

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今般(H30/10)、天沼弁天池公園内にある郷土博物館分館で石山太柏の
作品展が始まった。太柏の代表作である杉並地域の風景画をはじめ、
人物画や花鳥図など、初公開作品が展示されている。
画巻『一福千態』 は、草稿(上・下巻)が展示されている。

(展示作品は約30点だが、会期中に展示替えがある。)

これを機会により多くの、特に地元の人々に名が知られ、親しまれる
存在になって欲しいし、それに十分応えられる企画、作品群と思う。

この展示に合せて作成された「展示図録」には、帝展入選作など30作品の
カラー写真や資料22点と丁寧な解説、年譜(稿)などが収められており、
充実した内容です。下記に紹介させていただきますが、会場には閲覧用が
備えられており、是非ご覧いただければと思います。 (H30.11.3記)

主にこの「展示図録」を参考に「石山太柏の来歴」と「石山太柏と杉並地域」の項を
追加し、「石山太柏 略年譜」を大幅改訂(石山宗幽氏監修)しました。(H30/11 UP)

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「荻窪風土記 ー 荻窪八丁通り」

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杉並区立郷土博物館(分館) 平成30年度企画展

「石山太柏 武蔵野の風景画人と杉並」

・平成30年10月27日(土)~平成31年1月20日(日)
・学芸員解説(14時~):11/3(土)、12/16(日)、1/12(土)

冊子「展示図録」(表紙)

表紙の絵は「朝靄の荻窪田圃」(部分)
        

        冊子「展示図録」 目次

       ・石山太柏の来歴と作品

       ・石山太柏 関連年譜(稿)

       ・掲載作品一覧・資料解説
   -----------------------------------------------
   ・掲載作品は「杉並村の晩秋」(T9:第2回
     帝国美術院展覧会入選作)など30点。

   ・資料は作品を含み写真22点(解説編付)。
     
   ・A4判 全32頁。 
   -----------------------------------------------
  図録頒価 : 400円

  平成30年10月発行

  編集・発行 : 杉並区立郷土博物館分館
   〒167-0032
     杉並区天沼 3-23-1 天沼弁天池公園内

     電 話 : 03-5347-9801
   ----------------------------------------------
  開館時間:午前9時~午後5時
  
  休館日:毎週月曜日と第3木曜日(祝日、休日の
       場合は翌日が休館)・12/28~1/4


==「石山太柏作品」展示終了==


東京国立近代美術館(10室)に展示!!

展覧会名「MOMATコレクション」

石山太柏「夕暗の天沼弁天」

展示期間 2018年11月27日(火)~2019年1月20日(日)
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杉並区立郷土博物館(分館)

企画展「石山太柏」

==武蔵野の風景画人と杉並==


平成30年10月27日~平成31年1月20日(期間中・展示替えあり)

入場(観覧) 無料 (開館時間・休館日など、本項の末尾参照)

学芸員による解説(14時~):11月3日(土)・12月16日(日)・1月12日(土)

(問合せ先:同博物館(分館) Tel 03-5347-9801)
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