太宰治「散華」-三田循司君はアッツ島で玉砕

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昭和15年(1940)12月、三田循司は戸石泰一に誘われて三鷹に住む太宰治を初めて訪ねた。
この初対面から頻繁に太宰を訪ねたが1年後の12月8日(S16)に日本は太平洋戦争に突入、
三田は東京帝大を繰り上げ卒業になり入隊(S17/2)、昭和18年5月にアッツ島で戦死した。

太宰は、三田との交流とその戦死を題材にして小説「散華」を発表(S19/3:「新若人」)した。

物語は、「私」と三田のほか戸石、山岸外史が実名で登場し、ほとんど実際の出来事に沿って
進行するが、作品の核心ともいうべき表題や三井君の病死、三田君の便りの文面には太宰の
作家としての特別な思いが込められており、行間に太宰の真意が窺える創作作品である。

本項では、大宰と三田との実際の関係を軸に、小説「散華」の意図、評価などを探った。

 
 1.三田循司と太宰治

   
(三田循司:みた じゅんじ:T6(1917).9.17)~S18(1943).5.29:享年25歳)

   (1)太宰治と初対面

    ・三田は岩手県花巻市で生まれ、旧制岩手中学校(私立)、旧制第二高等学校(仙台)を
     経て昭和14年(1939)4月、東京帝国大学文学部国文科に入学、東京で下宿生活となった。

    ・詩人を志し、同人誌「芥」(*1)に詩を発表するなど、同人仲間で1学年後輩の戸石泰一(*2)
     と親しく接し、その誘いで昭和15年12月13日、二人で三鷹の太宰を訪ねて初対面した。

     戸石は高校時代から太宰に傾倒しており、大学に入って初めて三鷹の太宰宅を訪ねるに際し、
     一人では心細いので、最も敬愛する1年先輩の友人で詩人を志す三田を誘ったという。

      (*1)同人誌「芥」は、仙台一中、二高出身の戸石泰一の同級生を中心に創刊(S15/3)、
           発刊時の同人は戸石、三田循司、森田実蔵ら11名で、第3号(S16/3)で終刊した。
           なお、森田や三田の弟によれば、戸石、三田は二高時代にも「芥」を発行したという。

      (*2)戸石泰一(T8(1919).1.28~S53(1978).10.31)は、仙台市生まれ、旧制仙台一中、
           旧制二高文科を経て昭和15年(1940)4月、東京帝国大学文学部国文科に入学、
           東京で下宿生活となった。 二高、東大は三田の1学年後輩。

           戸石も繰り上げ卒業して陸軍に入隊(S17/10)、見習士官となって南方の島に赴き、
           任地で終戦を迎えた。
           太宰は戸石をモデルにした小説「未帰還の友に」(S21/5))を発表したが、
           戸石本人はその直後に無事帰還(S21/7)して大宰との再会を果たした。

           戦後は、一時期、高校教員や労組活動に携わったが、その後は文筆活動に戻り、
           専念した。「青い波がくずれる」など、大宰に関連する作品が多い。


     ・三田はこの初対面に感動し、当日付(S15.12.13)の日記(*)に次のように書いた。

       「太宰治氏を訪ねる 戸石と 実によかった 胸襟を開いて、気取らず尊大ぶらず、我々青年学生と
        同じ気障で(?)我々の
(Generationの)考へ(今後の文学、考へ方、感じ方、表現etc)に
        相似た、多少我々よりおくれて
ゐる様な気はしたが。最も感銘の深かった言 ― 作品の深さは、
        作家がその作品において失ったものの
深さにある。古典を素直によみ直して糧を得る。自己の
        要求のまゝに本etcをあさること、等。(探求)」


      (*)三田は18冊の日記を遺している。1冊目は昭和11年(1936)5月(二高時代)から
          始まり、18冊目は昭和16年12月8日までである。(この12月8日は太平洋戦争開戦
          の日であり、この日に三田は徴兵検査を受けた。)
           
          このうち、13冊目(S15./5..3-.30)から18冊目まで、慶應義塾志木高等学校の
          小澤純は部分翻刻し発表している。(下記の参考資料参照)


   (2)大宰に傾倒
    
     ①戸石泰一は自分と太宰、三田との交流について数編の著作で触れており、そのうちの
       「「散華」の頃」(「太宰治全集 月報6」(S31/3 :筑摩書房))に次のようにある。

      ・太宰の「散華」は、実名による殆ど事実にもとづく作品である。

      ・戸石も三田も初対面以来、一月に一度は必ず太宰を訪ねた。
       夕方になると必ず外に出て吉祥寺か三鷹で酒をご馳走になった。
       楽しかった。人生と文学を学んだ。笑ってばかりいたが真面目だった。

      ・三田は、一図な、はげしい所のある、「純粋」そのもののような男だった。そのような気質の
       せいか、あるいは考えていた自分の「詩」のためだったのか、三年になると、急速に、
       大宰を通じて紹介された山岸外史に傾倒していった。
      
       山岸は三田の才能を高く評価しており、戸石は嫉妬のような妙な気持と不安もあったが、
       三田はそのまま兵隊になってしまった。

      ・兵隊の三田について「「散華」の頃」の一部を次に抜粋する。
       
       「ストイックな一図なところのある三田は、兵隊に行っても、とうとう幹部候補生の試験を
       受けなかった。反戦的というよりは、むしろ「一兵卒として殉ずる」という彼らしい「義」
       (またはロマンチシズムといってもいい)を貫こうとしたのである。そして、その幹部候補生
       に落ちたために、彼はアッツ島に行かされ「玉砕」させられた。」

     ②初対面後の三田の日記、三田と太宰の書簡には次のような記述が見られる。

      ・日記:S15.12.15=太宰氏「東京八景」よむ。感激、(以下略)
      ・日記;S15.12.18=太宰治さんから返信。ありがたいと思ふ、そしてさすがに俺の人間と
       文学の急所をついてゐる 素朴な感動 ― たしかに 忘れている (以下略)

       この大宰の返信は強烈な刺激だったことが日記に表れている。次にその全文を記す。

        (S15.12.18付ハガキ、本郷区向ヶ丘彌生町3 鈴木館内 三田循司様)

          「拝復 お手紙を拝読いたしました。先夜は、僕こそ失礼しました。
           貴作の中で、夕暮れと高架がいいと思います。
           文学でも人間でも「素朴な感動」を忘れてはいけません。
           もっとも単純で、しかも最後のものだと思います。
           不要の飾り文字が、貴作に於いてチラツキます。
           お互いにあせらず、勉強して行きたいと思います。
           前記二作には「素朴な感動」の芽があります。大事にし給え。」


       ・日記;S16.4.20=好悪に純粋でありたい。太宰治さんに行った よかった.
        真当にいい人だ. 純粋でありたい!

        この後、日記に太宰の名が出るのは半年後の10月16日だが、その間の大宰のハガキ
        四通が公開されている。三田の病気、入院のため手紙の交換があったことが分かる。

       ・ハガキ:大宰から三田に 宛てたハガキ(返信)四通

       (S16.7.11付ハガキ、本郷区向ヶ丘彌生町3 鈴木館内 三田循司様)
          「拝復 その後、どんな工合か、気にかかって居りました。恥づかしい等と思はず、
          平気な顔をしてゐなさい。青春の病ひと思へば、美しくなるぢゃないか。
          夜のつぎには、朝が来る。酷暑の候、御大事に。 不一」

         (S16.8.3付ハガキ、本郷区向ヶ丘彌生町3 鈴木館内 三田循司様)
          「拝復 書簡拝誦。やまひ、はかばかしくない ない やうで、いけません。
          天候のせいも あるのでせう。短気を起こさず、もすこし静養なさるがよいと
          気が鬱々してならぬなら、三鷹へでも遊びにおいで下さい。 不一」

         (S16.9.8付ハガキ、麹町区富士見町二ノ三 東京警察病院三五三号室 三田循司様) 
(注)
          「入院の由、たいへんだったらうと思ふ。私はドン底の時に かへって神の寵児を
          意識した事があります、貴重の経験といふ自信をお持ち下さい。
          この試練は決して無駄でないこと事を私は知ってゐます。」

          
(注)公開されているハガキだが、全集など関連刊行物に未収録で、あまり知られていない。
             三田への激励で、退院後間もない日記(S16.9.28付)に「神の寵児」の文言があるなど、
             三田の心に響いたハガキだったと言えよう。

         (S16.9.24付ハガキ、本郷区向ヶ丘彌生町3 鈴木館内 三田循司様)
          「拝復 御病気 全快の由、なによりと存じます。先日、戸石君からも
          貴兄の事を聞きました。くるしいこともあるだろうが、男児は、生きてゐる
          あひだ苦闘すべきものと思ひます。苦しみが、生き甲斐だと思ひます。
          わざわざ三鷹へおいでになって、またわるくなったりするといけないから、
          しばらく自重するやうに。」

        (退院日(S16.9.22)の日記に、「50日の病院生活」とあるので、入院は8月上旬から
         だが、太宰のハガキから6月頃には体調がすぐれなかったと察せられる。)

      ・日記;S16.10.16=このころの日記は長文が多い。退院後の複雑な心中の吐露だろうか。
       この日の記述は、卒論(テーマは石川啄木)絡みのこと、山岸外史に「北方の魂」と
       評されたこと、戦争、時勢に関することだが、山岸の評の後に次の一行がある。
       
       「太宰さんの文章 ― 又かといやになることがある.その口調が。Mannnerism。」

      ・日記:S16.10.26=(抜粋)「結局 素朴なる感動に帰ることだ。(太宰さんの云ふ如く)」
      
      ・日記:S16.11.5=(抜粋)「俺の知ってゐるものは、神への祈念と、素朴なる感動のみ
       である。」
      
      ・日記:S16.11.18=一昨日、昨夜 山岸氏と、kissした。又泣いた その知己に泣いた 
       同じ星―北極星 「信ずる」といふ、精神、形態. 心の持ち方を知った。
       そして昨夜は太宰さんと三人。酒を信じ得た。酔ふことは神に近づくことだ。その時の
       Senseの素晴らしさ、それは絶対に信じうることを見出した。自信を以て飲める。
       昨夜阿佐ヶ谷で井伏さんをみた。声がいゝ.その風貌も小説と同じ。(文士徴用令)

      ・日記:S16.11.26=(抜粋)
        「山岸さん-血-(温い)-(心臓の) 太宰さん-水-(冷たい)(流れの)」

      ・日記:S16.12.8=(運命の日:生々しい貴重な記述なので、全文を記す。)
       
        「六時半に起きた。七時15分、徴兵署に急いだ。うすい朝靄と旭 ― よかった。
          控所への階段をのぼりながら、友達から日英米海戦勃発の報をきゝ、おどろくと
          共に、深く感動した。
          ”遂にやった” ― それは一億国民同様の思ひであろう。
          徴兵官の訓示 ― 平凡なことながら、雰囲気によって、外気によって、(又、昨夜
          の酒で身体が弱ってた故もあらう)感動し、涙がにじんだ。(泣きたかった)。
          無心で受検した 何の成算も打算も思惑もなく、虚心で受けた又宣戦の報に強く
          打たれた故もあらう。
          第二乙種合格 ― 臨時招集を予期し臍をひそ(注:誤記?)めて、覚悟す。
          太平洋戦 ― この聖戦に勇躍征かんとす。 ああ、汝、遂に征け!
          街に出た。終って ホットして。街々は聖戦で興奮してゐる 
          みんな口々に戦ひを云ひ合ひながら眉宇は緊張し、足を速めて行く。
          一億一心の姿。大騒ぎのいろはなく みんなしっかりと喜んでゐる
          ラジオのある所に人々が集ってゐる。喫茶店はすべて満員だ。
          大学生達 ― 笑はず、しっかりと歩いていゐる。Radioのnews次々と楽曲の
          放送。Announcerの緊迫した声。
          徴兵検査の朝に宣戦の報。ものすごい、ものすごい. みんな しっかり ゆかう。
          ほんとうに一億一心だ。ああ俺もゆく。」

           (太宰に短編小説「12月8日」がある。妻(主婦)の目で当日の様子を
            捉えて太宰の思いを重ねているが、太宰は三田の日記を知る由もなく、
            この記述を合わせて読むと味わいが深まる。)

   ③三田と太宰:まとめ

      初対面以降、戸石と三田は太宰に傾倒し、頻繁に訪ねたり書簡のやりとりがあった。
      三田は、戸石がいう一途な、真面目な気質からか、太宰の言動に敏感に反応した様子が
      窺える。

      その後も戸石は太宰に夢中で一層親密さを増したが、三田は下宿に近い山岸外史を訪ね、
      山岸への傾斜を強めた。

   (3)山岸外史に傾斜

     ・戸石は、「山岸とは太宰を通じて紹介された」というが初対面が何時かははっきりしない。
      三田の日記には、太宰に会う以前に「山岸外史は云ふ「人生耽美」」(S15.5.27)の記述が
      あり、続いて6月(頃)や10月にも山岸の著書に関する記述がある。
      これらは読書記録のようで対面はなさそうだが、このころから山岸への共感が窺える。

     ・大宰と初対面後も、山岸の「人間キリスト記」に関する記述(S16.2.16と4.14)があるが、
      その後の病気、入院中には山岸に関する記述はなく、退院(S16.9.22)の翌月の10月4日
      に「山岸さんと話した。北方の魂、神にちょっぴり虐げられてゐる、つまりちょっぴり可愛がら
      れてゐるのだ。」とあり、この日には対面している。山岸の誉め言葉があったと解せる。

     ・この10月~11月の日記には山岸の著書や言動に関する記述が頻出する。
      頻繁に山岸に会い、酒を飲み、太宰が加わった日もある。
      山岸に褒められ認められたと感激するが自戒を心がけ、太宰がいう「素朴な感動」を常に
      意識している様子が綴られている。
      
      大宰への畏敬の念は変わらないが、山岸への傾斜の様子が窺える。

        日中戦争下、世界で孤立状態の日本は日独伊三国同盟(S15/.9)に活路を
         求めたが、アメリカとの
対立は深まるばかりだった。軍備増強、兵員確保の
         ため昭和16年(1941)からは文系大学生の
繰り上げ卒業が実施された。
         
         この年の3年生は3か月の繰り上げで12月(S16)卒業、翌年、翌々年は
         6か月繰り上げで9月(S17とS18))に卒業した。
         卒業生の大部分は、卒業と同時ないし短時日のうちに招集-入隊だった。


   (4)繰り上げ卒業-入隊-アッツ島で戦死

    ・三田は、3か月繰り上げで昭和16年12月卒業となり、卒業後は、4月から東京国立の中学校
     に勤めることになった。
     3月までは郷里の花巻で過ごすことにして12月27日に帰郷した。

    ・三田から山岸外史に宛てた「帰郷の知らせ」のハガキがある。

       (S16.12.28付ハガキ、本郷区駒込千駄木町50 山岸外史様)
          通信面全文=「両親と一緒に、廿七日夜発って来ました。
          忙しくて御伺ひできませんでした。流石 寒い。貧相な小雪が降ってゐる。
          この寒い雪国で、屡らく長い眠りに就かう思ひます。どうぞ御便り下さい。
          阿部さんによろしく。「国立」への帰り、三鷹に寄ったら、何といふさびしさうな、
          すがれた姿だったでせう。」
(注)
           (廿八日 岩手県花巻町一日市 三田循司)

         (注)末尾の行:阿部さんは阿部合成、三鷹で降りて太宰に会ったのだろう。
              なお、「すがれた姿」の「す」は、山内祥史は「太宰治の年譜」などで
              「の」
と翻刻されている。


    ・ところが、翌1月(S17)、召集令状が届き、2月1日に盛岡で入隊した。
     太宰に召集を知らせたところ、太宰から次の返信(S17.1.26消印ハガキ)が届いた。

      「拝復、けさほどは、おハガキを いただきました。召集令がまゐりましたさうで、
        生きる道が
一すぢ クッキリ印されて、あざやかな気が致しました。おからだ
        お大事になさって、しっかりやって下さい。はるかに 御武運の長久を祈る。不一。」


    ・戸石によれば、三田は前記のように幹部候補生になる意思はなく、試験には不合格だった。
     三田が転属(S17/10)した部隊はアッツ島守備を任務として島に渡った(S18/1)。
     アッツ島は、5月(S18)に米軍の激しい攻撃を受け、12日から29日までの戦闘で守備隊員
     約2,600名は、ほぼ全員が戦死した。
     「アッツ島玉砕」として8月29日の朝日新聞に戦死者が掲載され「三田循司」の名もあった。

       (アッツ島遺族会によると、今も約2,300柱の遺骨が島に遺されたままである。(2023.5.28付朝日新聞))

 2.太宰治著「散華」(短編小説)について

    ・太宰治は、上記の三田循司との交流、戦死を題材に小説「散華」を発表した。
     初出は「新若人」(S19/3::旺文社)で、次いで短編集「佳日」(S19/8)に収録されたが、
     初出ではアッツ島玉砕の日を「昨年」とし、「佳日」収録では「ことし」としている。

      山内祥史は、太宰の創作年表から、当初は「新若人」1月(S19)掲載の予定で、前年11月頃
       に執筆、脱稿したが、3月に延びたため「昨年」に直した。それを、「佳日」収録に際して初稿の
       「ことし」に戻したと推測している。(筑摩書房「太宰治全集 第6巻-解題」(1990))

    ・戸石は、「「散華」は実名による殆ど事実にもとづく作品である。」というが、それは三田と太宰、
     山岸との交流の概略であって実録小説ではなく、作品はあくまでも太宰の創作である。

     「散華」の重要なポイントは、「表題」、「三井君の病死」、「三田君の最後の便り」の三点で、
     これを中心に大宰が本作品に込めた思い、評価などを次に記す。

  (1)作品のポイント

    ①小説の表題は「玉砕」ではなく「散華」

    ・太宰は、作品冒頭で表題を「玉砕」でなく「散華」にした理由を書いている。
     言葉の意味の違いについてはともかくとして、アッツ島守備隊全滅について新聞などが
     大々的に用い始めた「玉砕」という表現を太宰は意識して避けたことを意味する。

     三田循司の死は玉砕には違いないが、太宰は、太宰であるが故の境地で三田の思いと戦死を
     しっかり受け止めたことを示したのだろう。

    ②三井君の病死

    ・次いで、二人の若者の死のうち、三井君の病死(肺結核)は最高に美しい臨終だったとする。
     文字数は作品全体の1割程度に過ぎないが、三田君の戦死との対照で重い意味を持つ。

     三田君は「三田循司」だが、三井君は太宰が創出した人物だろう。そのイメージの人物が存在
     したとしても特定はできない。太宰が意図をもって登場させた架空の人物と考えてよかろう。
     
    ③「三田君の最後の便り:大いなる文学のために死んで下さい」

    ・三井君の病死に次いで、大宰と三田循司(三田君)との交流、戦死が描かれる。
     物語には戸石泰一(=戸石君)、山岸外史が実名で登場し、それぞれの交流、出来事などは
     戸石がいうように、ほぼ事実に沿って進行する。

    ・太宰は兵隊となった三田からの便り、最後の一通に感動した。
     そこには、「大いなる文学のために死んで下さい」とあった。
     
     太宰は、この便りは「最高の詩」と評し、作中で3回にわたり引用している。
     太宰はこの便りをもって、それまであまり高く評価しなかった三田を「いちばんいい詩人」と
     認め、早くから三田を高く評価、認めていた山岸に承服を伝えた。

    ・太宰は三田のこれからの詩業に大いに期待したが、戦死を知って「三田君の作品は、全く別の
     形で立派に完成せられた。アッツ島における玉砕である。」と書いた。

     太宰は、山岸が遺稿集(*)を出版するというので、この最後の便りをその開巻第一頁に
     大活字で載せてほしいと思ったとして、この便りの三回目の引用で「散華」を結んだ。

      (*)河北新報(S56.8.13付))によれば、山岸は、太宰が「散華」を発表した直後に
          三田を主人公にした
250枚の「北極星」をまとめたが、発禁となった。
          また、山岸が準備を進めた遺稿集は発行に至らなかった。

    ・太宰が感動したという三田の「最後の便り」について、 戸石、森田実蔵は、この文面には
     太宰の手が入っているという。作品の核心に関わることなので次に引用する。

     ①「散華」にある最後の便りは次の通り。( / は改行)

          「御元気ですか。 / 遠い空から御伺いします。 / 無事、任地に着きました。 /
           大いなる文学のために、 / 死んで下さい。 / 
           自分も死にます、 / この戦争のために。」

     ②戦後、戸石が三田を主人公に書いた「玉砕」(S27/9:「小説朝日」)では次の通り。

          「先生 / 死ンデ下サイ / 文学ノタメニ / 
           私モ / 死ニマス / 大イナル戦争ノタメニ」

          森田は、「戸石が太宰家から、その葉書を借覧したということを勘案して、
          多分これが原文だろう。」としている。(「太宰さんの思い出」(H8/7))

       ③小澤純によれば、これに関する三田循司の弟(三田悊)のメモがあり(日本現代詩歌文学館所蔵の
         「資料番号93609」)、そこに、悊
(せい)が記憶している文面が次の通り書き残されている。

          「お元気ですか / 遠い空から おうかがい いたします / 大いなる 文学のために死んで下さい /
           私も死にます / この戦争のために」

         小澤は、各文面が書かれた当時の状況を考慮すると戸石が自作の内容に沿って原文を変更した可能性
         もあるとしたうえで、それぞれの「大いなる」という美辞の宛先をめぐって考察を進めている。


   (2)太宰の本意、作品評価

     ①太宰の本意

     ・作品全体の8割以上が三田との交流、戦地からの便りと戦死関連が占めるので、一読すると
      三田の生き方と玉砕を賛美した戦争協力作品との印象が残る。
      
      初出誌「新若人」は主に青年、学徒を対象に戦意を煽る編集が特色で、いわば国策協力雑誌
      なので、そこに載った「散華」も一般にそのような作品と理解されたのではないだろうか。

     ・しかし再読すると、冒頭にある表題に関する記述、三井君の生と死の記述は単なる枕ではない
      ことに気づく。
      もし、三田君の生き方と戦死が主題であれば、表題は「玉砕」の方が適切で、ことさらに三井君
      の生と死を書いて「最も美しい臨終」にする必要はなかろう。ここに太宰の本意が窺える。

     ・太宰は、三田の便りに「文学のために死んで下さい」があることに感動した。
      太宰は、すでに太平洋戦争開戦時に発表した「新郎」(S17/1)に、戦時といえど自分は文学を
      続けるという決意を表明しており、三田の思いに重なるのである。
      
      太宰は、崇高で美しい死としで三田君の死を捉えるが、それと同等に崇高で美しい死があること
      に思いをめぐらした。三井君の生と死そして文学のための生と死はそれに相当し、三田君の
      生と死とともに「散華」という言葉こそがふさわしいと示したのだろう。

     ・太宰は三田の戦死を知った。感動したこの便りは生涯、最後の便りとなってしまった。
      太宰は、表題を「散華」とし、三井君の美しい死(肺結核)を挿入したことで、三田の思いを
      しっかり受け止め、アッツ島の空に思いを馳せて「鎮魂の書」を仕上げたのである。
      
    ②「三田の便り」の原文に関して
    
     ・作品の核心である三田の最後の便りの原文については上記の通りで、実物がなければ確認の
      しようがないが、三田の原文が引用されていると読むべきだろう。

     ・太宰が全文を創作したとは考え難く、原文の引用と見るのが自然だが、戸石が言う「死にます
      大いなる戦争のために」のような文面だったことも考えられよう。

      その理由は、検閲への意識が働いたかもしれないが、三田の日記から、特に12月8日(S16)
      の記述から読み取れる純朴、真面目な性格 開戦への反応も無視できない。
      戦争を素直に受け入れ、国のために戦うことを決意している。

      また、戸石は「三田は一図な、激しいところもある純粋そのもののような男」と評しており、
      三田はこの戦争を「大いなる戦争」と確信していたとも思える。
      ネットで見る学生服、坊主頭に丸メガネの写真にもその雰囲気を感じる。

      そうだとすれば、「文学のために死んで下さい」に感動した太宰は、三田の戦死を知り、
      小説にする際に、「大いなる」を「戦争」から「文学」に移したことになる。
      太宰は「大いなる文学」の方が二人の思いにより近いと受け止めたということだろう。

     ・三田君も自分も、生きる道は「大いなる文学」だったが、三田君の道は「大いなる戦争」に
      切り替えられ、戦死で永遠に「大いなる文学」の道は断たれた。
      原文の「大いなる」を太宰が文学に移し変えたとすれば、それは自分が「大いなる文学」を
      続けることこそが三田君の遺志に合致することになるとの思いを示したことになる。

      「大いなる」を三田が文学に付さなかったのは、自分の立場で付すのは師である太宰に
      失礼との気持が働き、太宰が戦争から外したのは戦争への抵抗感からとも見える。

      ただ、山岸が企図したという遺稿集への収録となれば、それは三田の原文である。

      ・いずれにしろ、前記のように小澤純は「大いなる」の宛先をめぐる考察をするが、
       「散華」読解のポイントの一つだろう。

    ③「散華」の評価、論考

     ・「新若人」(S19/3)への発表に続けて短編集「佳日」(S19/8)に収録したが、戦後、
      この「佳日」を再刊する際に「散華」と「花吹雪」とを外し、表題を「黄村先生言行録」
      (S22/3)に変えた。

      この時期の出版はGHQの検閲を受けなければならなかった。日本の国体や旧体制、軍国主義を
      賛美する表現は規制され、例えば、富士山のデザインさえも問題にされかねない情勢
(注)
      あり、その対策だろうが、「散華」はやはり戦争文学との印象が拭えない作品だったといえる。

       (注)
例えば、戦後、小山書店が再出版した太宰治の「津軽」(S23/10)には、
            初版の「津軽」に載る挿絵5点のうち「津軽富士」はなく、他の4点が載っている。
            GHOの検閲を意識し、「津軽富士」だけ削除した可能性がある。

     ・こうした事情からか、「散華」に関する評論、文献は少ないようだが、ネット上にいくつかの
      論考があり(下記)、本項ではそれらを参考にした。
      
      論考の多くは、時局迎合、戦争協力的危うさを指摘しつつも、太宰の真意は、表題や登場人物
      それぞれの生き方と死、文学にかけた生と死を書き、戦死を「玉砕」としてことさらに賛美する
      風潮に疑問を唱え、戦争、国の体制への抵抗を示すことにあったとする。

     ・太宰が太平洋戦争開戦以降、戦争を直接的に題材にしたと思える作品は「散華」のほか「新郎」、
      「十二月八日」、「佳日」など数多いが、その多くは一読すると戦争協力的な印象を受ける。
      しかし、再読すると、行間に太宰の真意、戦争への抵抗姿勢が読み取れる仕組みで、
      当局の厳しい検閲に対する太宰独特の工夫、手法だと解る。

        
 ・別記項目参照=「新郎」-太平洋戦争開戦の日、急遽、原稿に加筆
        
           ・別記項目参照=「十二月八日」-太平洋戦争開戦の日、100年後に!

      
      戦争と直接の関連はなさそうな滑稽噺「黄村先生三連作(「黄村先生言行録」・「花吹雪」・
      「不審庵」)」にしても、単なる喜劇ではなく、時勢への警鐘を込めていると読める。

         
・別記項目参照=滑稽噺「黄村先生三連作」で時勢に警鐘

     ・有力作家のことごとくが筆を折った戦中、太宰は懸命に書き続けた。
      戦争末期は西鶴物など翻案作品が主体になったが、戦中の太宰の作品群についてはさらに注目
      して再評価する必要があろう。

 3.主な参考資料(文献・ネット情報など)

   (1)三田循司関係


     ・ネット(HP)=石櫻同窓会(三田循司出身の私立岩手中学の同窓会)

     
  「三田循司資料」で検索、「石桜同窓会」のHPで「三田循司に関する詳しい資料は
         石桜同窓会」の項目がある。表題は「温故知新」で、その中に「三田と太宰との
          関連」など詳細な記述がある。大宰からの葉書の実物写真や関連新聞記事、
          山内祥史著「三田循司と太宰治」(「太宰治研究18」所収)など資料類も多い。


     ・戸石泰一著「青い波がくずれる」(S47/12:東邦出版社)
         同   著「玉砕」(1952/9:小説朝日)・・「展」(創刊号・1980/12:明窓社)に転載)
         同   著「「散華」の頃」(「太宰治全集 月報6」(S31/3 :筑摩書房))

    
・慶應義塾志木高等学校「研究紀要 第52輯」(2022/5)、「 同 第53輯」(2023/4)所収
        
       ・小澤純著「三田循司関連資料」(日本現代詩歌文学館所蔵)調査報告書」
          ―太宰治「散華」と、三田循司日記の部分翻刻(稿)を中心にー
       ・ 同  著「太宰治「散華」/「三田循司関連資料」の教材化と三年東北見学旅行」

      ・森田実蔵著「太宰さんの思い出」(H8/7:和泉書院「太宰治研究3」所収)

     ・山内祥史著「太宰治の年譜」(2012:大修館書店)

   (2)「散華」関係
     
     上記の三田循司関係のほか、下記ネット資料。

     ・北川透(梅光学院大学日本文学会)著
       「文学の一兵卒--太宰治「散華」について」
       (掲載誌:日本文学研究(通号34):1999/1)

     ・李顯周(筑波大学比較・理論文学会)著
       「太宰治の「散華」論:三つの死の意味」
       (掲載誌:文学研究論集 20 :2002/3)

    
・ 権錫永(北海道大学)著
       「アジア太平洋戦争期における意味をめぐる闘争(3) 太宰治「散華」・「東京だより」」
       (掲載誌:北海道大学文学研究科紀要(106):2002)
        
      ・宮沢剛(昭和文学会)著
       「太宰治の銃後小説を読む:「弱さ」と「美しさ」の戦争協力」
       (掲載誌:昭和文学研究(84)2022/3)

   (3)戸石泰一など、入隊を前に太宰を訪れた学徒たち

     戸石は、上記の通り、実際においても、小説「散華」の中でも、三田と太宰の関係に重要な役割を
     果たした。自身が入隊(S17/10)する直前には、太宰と会い痛飲、心おきなく語り合って別れたが、
     このように入隊直前に太宰を訪れた文学志向の学徒は多い。

     昨年(R4)、三田循司に関する資料の中に紛れ込んでいた那珂太郎の入隊直前の日記が発見され、
     那珂が太宰を複数回訪れたことが判明、生々しいやりとりなどが話題になった。
     「太宰治との7年間」の著書がある堤重久とその仲間、桂英澄石沢深美池田正憲らもいる。
     
     それぞれの軍隊生活を経て無事復員するが、太宰と関わった人生の綾もそれぞれである。
     詳細は次の別記項目に記したので参照ください。

       「太宰治と新発見「那珂太郎 戦中日記」をめぐってー太宰治を訪ねた出陣学徒たちー」

                         (「太宰治「散華」-三田循司君はアッツ島で玉砕」の項 2023/6UP))

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